下層のアナキズム――「米騒動」と大杉栄

栗原康 (大学非常勤講師・アナキズム研究)

 

❖「誰からも支配されない」という思想

栗原康です。最初に簡単な自己紹介をします。

この 8 月と 9 月はなにもしなかったので無職だったんですけど、ふだんは大学で週 1 回非常勤講師 をやっています。それだけでは食べられないので、週に 2 回塾で先生もしています。それでもまだ食 べていけないのですが、幸いにも実家に住んでいて、父親の年金で暮らしているというのが実情です。 今、ぼくは 36 歳になるのですが、36 歳で早くも年金生活者というわけです(笑)。でも、ぼくみたい な人間が最近増えているみたいで、こういう講演を、ぼくと同じぐらいか、ちょっと年下の若い人た ちのまえで行うとき、「ぼくは年金生活者です」と自己紹介すると、「おれも、おれも」と声を上げる 人が 50 人中 10 人くらいいるんですね(笑)。それで、「あゝそれが一般化しているのかなあ…」とお もったりします。

まあ、ぼくの場合は、実家で親の年金で暮らしているので恵まれているのでしょうが、そういう援 護も受けられず、非正規労働やフリーターとして働いていてひどい状態で暮らしている若い人たちが 増えているんですね。そういう下層が拡がっているのです。

今日は機会をいただきましたので、「下層のアナキズム」というテーマで、大正時代のアナキスト・ 大杉栄の<暴動論>についてお話したいとおもいます。

まず、アナキズムとは、どんな思想かということですが、ぼく流の簡単な定義をすると、「誰からも 支配されない」そういう状態・社会を目指していこう、という思想です。もうすこしわかりやすい言 い方をすると、「やりたいことしかやりたくない」そういう思想と生き方です。

大杉栄という人は、まさにそういうアナキストだった。

ぼくは、実は趣味が詩吟なんですね。ちょっと自分自身のテンションをやわらげようとおもうとき、 詩吟をします。ぼくの好きな歌があるので、それをご紹介します。

〽身を捨つる捨つる心を捨てつれば 思いなき世に墨染の袖

今、吟じたのは鎌倉時代の捨聖(すてひじり)と尊称された一遍上人さんの歌です。「墨染めの袖」 というのは、僧衣の袖のことで、捨聖の心境を詠んだ歌です。

ぼく流に援用すると、墨染めというのは真っ黒のことで、黒という色は他の色に絶対に染まらない 色ですよね。黒はアナキズムの旗の色です。この黒という色には「誰にも支配されたくない。やりた いことだけしかやりたくない」というアナキズムの思想と生き方が象徴されているのです。

❖カネ・カネ・カネという時代の到来と下層の増大

先ほど皆さんとみた、映画『山谷―やられたらやりかえせ』には、山谷の下層労働者たちの暴動が 生々しく活写されていて、たぶん皆さんもそうだったとおもいますが、ぼくも、その暴動のシーンに 熱い共感を覚えました。

これからご紹介する大杉栄の暴動論は、彼が 33 歳の時に目撃した 1918 年の「米騒動」によって具 体的なイメージがかたちづくられたと見られています。この米騒動については、皆さんも歴史の教科 で学んでご存知のこととおもいますが、同年 7 月 22 日、米価の高騰に激怒して立ち上がった富山県 魚津町の主婦たちの行動に端を発し、燎原の火のように全国各地に拡がった暴動で、参加延べ人数は

1 千万人と言われています。当時の日本の人口は 6 千万人でしたから、実に日本人の 6 分の 1 の人び とが蜂起しているという規模で、日本最大の暴動と言われてきました。

では、米騒動はなぜ起きたのか?きっかけは 1917 年から 18 年にかけて米の価格がめちゃくちゃに 高騰したことでした。問題はこの時期に米価がなぜ高騰したのか?という理由です。第 1 は明治から 大正にかけて資本主義が発展して工業化・都市化が加速的に進み、その頃まで 8 割位を占めていた農 業人口がどんどん減少したことでした。それにより米の生産も減少したのです。ところが、そういう 現象に反比例して日本人の米食需要が増大しているのです。これが第 2 の理由です。この点について は説明が必要でしょう。

日本人の主食は米と言われていますが、実はそれは嘘です。江戸時代までの庶民は、米ではなく粟 や稗を主食にしていたのです。米は年貢として作られていたもので、庶民の口には通常入らなかった。 米が主食として食べられるようになるのは、明治に入って洋食が普及するようになって以降のことで、 明治後半から大正前期にかけカレーライスやトンカツといった和風洋食の普及にともない白米のご飯 が庶民の主食として一般化するようになったのです。日本の食文化が大きく変わったという側面に留 意する必要があります。

つまり、工業化の促進と和風洋食の発展により、米の需要と供給のバランスが崩れ、米不足と米価 高騰をもたらし、米騒動が起きているのです。

もう 1 つ理由を挙げると、1918 年にロシア革命が起き、日本軍がシベリアへ出兵することになり、 軍に対して大量の米を供給しなければならなくなった事態も見逃せません。

しかし、米騒動が起きた要因がたんに米の価格が高騰したことに対する人びとの不満が暴発しただ けととらえるのは表層的な見方です。

工業化・都市化が進み、和風洋食文化が普及するようになったということは、工場や会社勤めをし て賃金を得て生活する人びとが増え、それにともない消費文化が形成され発展したということでした。 要するに、カネを稼いでモノを買い、暮らしていくという資本主義のライフスタイルを身に着けた市 民が形成され、そういう市民規範が、1920 年代になると定着してきたことを物語っています。つまり、 カネ・カネ・カネという時代が到来し、カネを稼ぐために生きなければならない、そんな市民規範が 定着するわけです。けれども、そんな市民規範の網の目から漏れた人びと、つまりカネが稼げない者 は落ちこぼれ、ダメな人間として位置付けられてしまいます。そういう下層も増大します。この下層 が 1918 年の米騒動を引き起こす深層の要因だったのです。

❖大杉栄が見た「米騒動」

大杉栄は、1918 年 8 月、大阪・釜ヶ崎界隈で米騒動を目撃しています。彼は著名な社会主義者と して東京を拠点に活動していたのですが、その頃きわめて困窮していたため、パートナーの伊藤野枝 の郷里である九州・福岡に身を寄せる旅に出ていたのですが、その帰路に大阪に立ち寄り、たまたま 米騒動に遭遇したのであって、この大暴動を引き起こそうと駆け付けたわけではなかった。各地に米 騒動の火の手が上がると、首都東京在住の大杉栄の仲間たちの社会主義者、アナキストたちはかたっ ぱしから危険人物として警察に予防拘束されていたのですが、大杉は幸いにも免れ、大阪で米騒動を 目撃することができたのです。

当時、社会主義者の巨魁として官憲から厳しくマークされていた大杉栄には、都落ちした旅先にも 尾行がつけられていたので、米騒動に参加することはできなかったから、野次馬として見物するしか なかったですが、その見聞に大杉栄は大いに興奮し「愉快、愉快!」と面白がり、「すっかり浮かれて いた」と、連れ添った仲間たちが伝えている。

実際、大阪の米騒動はもの凄いものだった。主婦たちを交えた群衆が米屋に押し入り、店主をつる し上げて廉売所を設けさせ、自分たちで勝手に値段を設定して販売させたり、米屋が言うことを聞か

なければ、米を略奪する者も現れたし、聞き入れない店主の米屋を投石して打ち壊したり焼き討ちす るといった事件も起きた。消防活動にあたっていた消防ホースを日本刀で切断したり、市外電車の線 路に丸太棒を置いて止めてしまったり、米屋以外の商店のショーウインドーや不在の交番を打ち壊し た。竹槍隊まで出現した。大阪の米騒動参加者は約 60 万人、騒動の発生地点は 500 ヶ所ともいわれ る。暴動に加わる群衆の数があまりにも多すぎて警察もお手上げ状態となり、遂に陸軍1個師団が投 入され鎮圧にあたっている。大阪の米騒動では、死者2人、重傷者9人、軽傷者 370 人、逮捕者 2300 人という記録が残されている。完全な騒乱状態だったわけです。

大杉栄の目撃した大阪の米騒動は、暴動がピークを迎える 1 日前の 1 日だけで、つまりほんの束の 間の体験だったのだけれど、そんな時間帯のなかで暴動に参加するため街中をもの凄い勢いで駆け巡 っていた勇敢な主婦たちに「××町の米屋でも今こんな騒ぎが起きているぞ」と扇動したり、市内の 新聞社を回って「今、釜ヶ崎で大暴動が起きているぞ」といったデマゴーグ的な情報を流している。

大杉栄にとって、大阪の米騒動はすごく重要な体験だったようで、その後の労働運動に関わってい くうえで大きな影響を与えているのですが、その体験に関しての著述は意外なことにほとんど残して いない。理由としては、大阪から帰京すると待ち構えられていたようにすぐに予防拘束され、全国的 な展開された米騒動が沈静化したため 6 日後に拘束を解除されるということもあって、その件に関し ての言動に注意を払っていたからではないかと考えられています。わずかに官憲側の資料(内務省警 保局「大杉栄の経歴及言動調査報告書」)のなかに、大杉が大阪から帰るまえに仲間たちに語ったとさ れる次のような言葉が残されているので紹介します。<自分は今回の暴動事件を目撃して、社会状態 はますます吾人の理想に近づきつつあると信ず。しかし今日の勢いをもって進めば、後幾年を経ずし て意外の好結果を来たらすかも計り難し。政府も今度ばかりは少々目を醒ましたるらん。貧者の叫び、 労働者の狂い、団結の力、民衆の声、嗚呼愉快なり。>

❖「ガラガラ・バラバラ・ドシン」

しかし、 ぼくが大杉栄の著作の中から見つけた、大杉栄の米騒動についての所感は、「一言で言 えば、ガラガラ・バラバラ・ドシンという印象だよ」といったはなはだ大思想家にふさわしくない表 現だった(笑)。大杉栄は、その言葉、表現で、一体何を言わんとしているのでしょうか?ぼくは次の ように解読しました。

米騒動という未曽有の大暴動が起きた要因は、先ほども指摘しましたけれど、たんに米の値段が高 騰したことに対する怒りの抗議からだけだったとはおもえません。では、他の要因とは何だったのか? この点も前述しましたが、それはこの時代になると日本人の暮らし向きが完全に資本主義経済(端的 に言えば、金を稼げ、稼いだ金で消費しろ!という市民規範)に律していかなければやっていけなく なるという社会が形成されているのですが、その網の目から漏れた下層の人びとにとっては、そんな 資本主義的なライフスタイルや市民規範などは無縁なものであったから、形式だけの押し付けに対し ては息苦しさを感じ、反発もあったにちがいない。そんなマグマが米騒動という形でブチ切れたのだ。 大杉栄は、そのように考えていたのです。

要するに米騒動という暴動で、下層の人びとが何を訴えたかったのかと言えば、資本主義のライフ スタイルや市民規範で律しられるような生き方ではない、もっと別な生き方があっていいのではない か、そんな生き方もあるのだということを示したかったのだろう。群衆がショーウインドーを叩き割 ったり、主婦たちが米屋に押し入って勝手に米の値段を決め、廉売所を設けたり、群衆が米屋の焼き 討ちをするといった暴動に走ったのは、労働者として賃金をもらい、消費者として生きる、そういう 市民規範を一度完全にブチ壊し、市民としての自分を捨て去り、ゼロになり、そして別の生き方をや っていくんだ、という意思表示だったというのです。大杉栄が米騒動の所感を「ガラガラ・バラバラ・ ドシン」という表現で評したのにはそんな意味が込められていたのだとおもいます。

そしてこんなことも言っています。暴動というのは酔っ払った時のような感覚かも知れない。それ は一時的なものかも知れない。だが、その酔い心地、酔うことが自分にも出来たという感覚は手放さ ないようにしよう。そして時が訪れたら先ずは酔っ払え!と。

こういう大杉栄のもの言いは、知識人の革命論といった類のものではない。ものすごく庶民感覚や 気持ちを掴んだ言葉であり、思想だった。何でかと言うと、大正期まで、いや昭和に入ってからも、 長屋で暮らしていたような下層の庶民たちには、食べものを分け合ったり、味噌や醤油の貸し借りを したり、隣近所の子どもの面倒を気軽にみたり……といったお互いに助け合って暮らしていくコミュ ニティがまだ存在したからです。だが、社会の趨勢は繰り返し指摘したように、カネを稼ぎ、消費す るというライフスタイルが急速に形成され、それが市民規範とされる社会へと雪崩を打つように変容 していくわけです。その波に乗り損ねた下層の人びとにとって、そんな社会は息苦しく、ムカつくも のだったに違いない。そこに暴動の起きる火種があるのだ。大杉栄は、そう確信していたのである。

❖暴動は下層労働者の自己表現だ!

大杉栄は、大正時代に活躍したアナキストの思想家ですが、暴動論は現代でも十分通用する思想で す。先ほど皆さんとみた『山谷―やられたらやりかえせ』は 1980 年代に制作されたドキュメンタリ ー映画ですが、60 年末から 70 年代にかけ山谷・釜ヶ崎で日雇労働者の労働運動を指導した伝説の活 動家・船本洲治さんという人物がいるのですけれども、彼は「暴動は下層労働者の自己表現なのだ!」 と定義しています。これはまさに大杉栄の思想を引き継ぎ、さらに一歩前進させた思想といえるでし ょう。

船本洲治が対象として規定している下層労働者というのは、映画の中に登場していた日雇労働者や 当時の用語でいうルンペン・プロレタリアート、現代ならフリーターや野宿者たちなんですね。暴動 は、そういう彼らの自己表現なのだと言っているのです。これはその時代にあってはとても画期的な 思想だった。

それはなぜかと言えば、当時山谷や釜ヶ崎では、年間何件も暴動が起きていたのですが、左翼の人 たちは極めて無関心だったり、「連中はただ暴れまわっているだけ」と否定的な意見が多かったからで す。社会党や共産党などの左翼政党も、日雇労働者ら下層労働者が組織化されていなかったことや、 毎日酒を浴びるように飲む自堕落な人が多いという理由から、まともに支援をしていませんでした。 そういう状況の中で船本洲治は、下層労働者の暴動を「彼らの自己表現」と、極めてポジティブに位 置付けたのです。

大杉栄と船本洲治に共通する点は、 従来、一般社会からだけではなく、革新を標榜する左翼陣営 からも、三流市民などと低く見做されてきた下層労働者に対して、「市民のカラや市民規範など全部ブ チ壊していいんだ!」と呼びかけていることです。そして「下層労働者であることに開き直ろう」と も言っている。これは下層として下に見られるのではなく、自分から下層に落ちて行け、という考え 方です。ぼくのちょっと好きな言葉で言うと「自己野蛮性」を獲得せよということになりますし、開 き直った言い方をするなら『水滸伝』の主人公のように山賊になろう!ということです。

ぼくたちは今、山谷化・釜ヶ崎化があまねく一般社会に拡がっているという危機的な情況の中に生 きているようにおもいます。それゆえぼくら自身も暴動を必要としているのかも知れません。暴動と いうものをたんに物を打ち壊す行動と捉えるのではなく、これまでとは別の生き方を探し求めていく ために暴れて生きること、そういう生き方も広い意味での暴動ではないかとおもいます。

結論は、「暴れる力を取り戻せ!」、こんなところで終わらせていただきます。

(2015・9・26 プランB)

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