千代次さんに聞く―― 山谷の玉三郎と「さすらい姉妹」

お話 千代次(水族館劇場・さすらい姉妹)

この場に居るのが玉三郎であったらよかった…

司会(小見) 今、ご覧いただいた映画『山谷やられたらやりかえせ』の真ん中くらいに、山谷の夏祭りのシーンがありましたね。そのシーンで女装してかつらをかぶり踊って喝采を浴びていた――着物の裾をパタパタとめくったりして、ご祝儀を貰っていた人物が玉三郎さんです。あれは1985年に行われた第2回山谷夏祭りなのですが、その頃から彼は「山谷の玉三郎」として名を知られるようになっています。今日は、その玉三郎さんと共演してきた、「水族館劇場・さすらい姉妹」の千代次さんに、玉三郎さんについて話してもらいたいと思います。よろしくお願いします。

千代次 千代次と申します。先ほど映画『山谷やられたらやりかえせ』をみなさんとご一緒に観た、わたしの気持ちからまずお話します。佐藤さんが殺られて、みんなが反撃の闘いに起ちあがる暴動のシーンを見ると、わたしは胸がドキドキしてしまいました。ほんとうに血が騒ぐような気持ちになった。以前観たときよりもっと血が騒ぐのが不思議でした。あの人もいた、この人もいた、こんなこともあったなあ、という想いが蘇ってきます。わたしは、当時、そんなに現場にいたわけではないんですけど、この映画を観ていると、今の山谷の状況とずいぶん違うものですから、あのときのあの感じが途切れてしまったのはどうしてなのかなあ? そんなことを考えました。それがなぜなのか、自分の問題として考えたいと思います。今日、この映画をご覧になったみなさんも、いろいろ感じたこと、考えたことがあるのではないかと思います。わたしはそれを是非お聞きしたい。これは30年前の映画ですけれども、この映画を今なお上映し続けているという意味、この映画を観るという意味、そういうことを、ただわたしが話すだけでなく、みなさんにもお聞きしたいと思います。
それでは玉三郎のことをお話しますけれども、ここは舞台とは違うのでちゃんと話せるかどうかすごく不安だったものですから、書いてきたものを読みますので、聞いてください。
わたしは、この場に登場してくれないかとお話をもちかけられたとき、大変途惑いました。果たして自分に何を話すことがあるのだろうと。事実として玉三郎とは20年間、「さすらい姉妹」を共にしてきたけれど、玉三郎の何を語ればいいのだろう。『山谷やられたらやりかえせ』との繋がり、今現在に繋がる話をするなら、何を話せばいいのか。毎日考えました。それをつかめないままパッと思ったことがありました。
ここに居るのはわたしではなく、玉三郎であるならよかった、ということです。映画に映しだされた当人であるし、あの時代をリアルタイムで生きてきた、そのことを玉三郎の視点で話しただろうし、山谷の労働者でもあった玉三郎こそが、この場にもっともふさわしかったとつくづく思ったからです。玉三郎が死んでしまってから追悼の場のここに、わたしが呼ばれるのは何とも残念でなりません。
玉三郎が死んでしまって、お葬式のとき多くの人が集まりました。たぶん争議団の中村さんの考えだと思いますが、参列した人全員で玉三郎のお骨を拾いました。関係の深い、浅い、仲の良い、悪いなど一切関係なく、みんなで拾いました。順番も何もありませんでした。最後まで看病した「あうん」の人たちや、最も関係の深い人たちだけが拾ったのではないのです。玉三郎の死を私物化せず、解放したのだと思いました。そのことはとても強烈にわたしの心に残っています。追悼という共通の感覚がより深く人々の心に沁みたのではないかと思いました。そしてその感覚というのは、人の死というのはそういうものだと思いますが、いつもは話をしない者同士や、仲が悪かったり考えが違う者同士が、閉ざしていた心を開いていくように誘うものかと思います。
わたしにとっても、玉三郎のことは十分に知っているが、彼が「さすらい姉妹」に出演していたということはあまり注目されずにきたのではないのかなと思って、玉三郎が生きているとき、「さすらい姉妹」の舞台を観に来てほしかったという気持ちがとっても強いんですけども、そういう状態から関係の回路が出てきたようなことがこの間ありました。上映委の方たちともほとんど話をしたことがなかったですし、玉三郎の追悼という共通の感覚でわたしに声をかけてくださったのかと思います。たとえ一瞬であろうと、回路を開こうとしてくださったのかと思います。そのことを、わたしがどんなに途惑いがあろうと、お話を受け、わたしは心を開きますということで、応えようと思いました。わたし自身が心を閉ざしていたことを考えさせられました。
いろんなやり方や意見の違いがあるにせよ、今の世界の流れを何とか食い止めようと強く思っている同志なのだから閉ざしてはいけないと自分に言い聞かせています。この映画も、今、佐藤さんや山岡さんが考えてもいなかったであろう、志を同じくした者同士の政治的分裂の只中にあると聞きます。「さすらい姉妹」も芝居を持っていく現場の分裂の只中にあります。玉三郎は「働く仲間の会」もやっていたし、山統労主催の盆踊りでも踊っていたし、争議団、山谷労働者福祉会館の盆踊りでも踊っていました。敵対する二派、三派、何派でも全部またいでいたと思います。芸事の人間には、政治の流儀は通じません。両またぎで生きるのが芸事にかかわる人間の仕事だし、力だと思います。こういうことを考えながら、ここに来ました。よろしくお願いします。

山谷を歩いていると、「よお、玉!」と仲間が声をかけていく

小見 ぼくは1998年に「寄せ場にたった女優たち」というインタビューをやったことがあります。その3回目に千代次さんに登場してもらいました。そして第4回目に「女優」ではない玉三郎さんを特別編としてインタビューしました。資料としてお配りしたインタビュー記事がそれです。今の千代次さんのお話で玉三郎さんとの20年ものかけがえのない盟友関係のいったんがおわかりになったと思いますが、彼の芸についてもう少し話してください。
千代次 玉三郎はやっぱり芸を持っていたと思います。最初に玉三郎を引きずり込んだのは、彼が踊りという芸を持っていたからでした。わたしは、山谷の夏祭りなどで玉三郎の踊りがすごく喜ばれていたのを知っていたのです。それでわたしは「どうしてその芸をもっともっと生かさないの」とけしかけて誘ったのです。
小見 千代次さんは寄せ場とも長くかかわってきていますけど、水族館劇場の前身の「曲馬舘」の頃、1970年代後半だったと思うけど、芝居のなかで「泪橋エレジー」という歌を使っていましたよね。実は『山谷やられたらやりかえせ』には、かつてはプロモーションフィルムと呼んでいたのですが、予告編があります。その11分もの長い予告編には「泪橋エレジー」が使われています。千代次さんとは、そういう繋がりもあります。
千代次 それは知りませんでした。でも、私は長いといっても浅いのです。玉三郎をどうしてわたしが引きずり入れようと熱心になったかというと、やっぱり彼が寄せ場の人だったからなんですね。玉三郎は、山谷の町を歩いていると、「よお、玉!」と声をかけてくる仲間がたくさんいる。わたしみたいに寄せ場で芝居をやるためにポッと飛び入りしてる者にとっては、玉三郎のような人と知り合ったということはすごく力になった。それと山谷の労働者たちだけじゃなくて、支援活動に入っている活動家たちにも、玉ちゃんはけっこう言いたいことを言ったりしていて、いろいろな人間関係を全体的に持っていた人だった。そういうところが、わたしにとっては、彼と知り合い、一緒に芝居をすることの嬉しいことでした。
小見 ぼくは、この映画の最初の監督・佐藤満夫が殺されてから、山谷へ行くようになったのですけど、これは平たく言えば支援に入るということですよね。そうすると寄せ場の労働者がいて、いわゆる活動家の人たちがいるという人間関係の中に入っていくわけですけれど、最初の頃はそうした人たちと立ち位置が微妙に異なるので、うまく話ができなかった。そういう経験がやっぱりありますね。だから、玉ちゃんと知り合い、インタビューしたり、「世界」という立ち呑み屋で酒をおごってもらったりという関係がつくれたことでだんだん中に入っていけるようになった。ぼくにとって、彼は、いわばある種の媒介のような存在だった。そういうことなんですけど、千代次さんはずっと玉ちゃんと「さすらい姉妹」で一緒に芝居してきたわけでしょう。玉三郎観をもう少し詳しくしゃべってくれませんか。

「芝居で腹は膨れないけれど、心は満たしてみせまする」

千代次 最初の頃のことで憶えているのは、わたしたちは「開演時間を6時半」と決めていたのですけれど、玉三郎が「6時に炊き出しが終わると、帰っちゃうお客が多いので、6時にしよう」と言いだしたんです。でも、他から来るお客さんもいるのだから6時半の開演時間を変えるわけにはいかないと、わたしたちは譲らなかったため、すこし言い争いになりました。大衆芸能の人たちは、時間にルーズというか臨機応変的な感覚なのかな。玉三郎を通して大衆芝居の世界を感じとったし、玉三郎のほうでも「大衆芝居ってだけじゃつまんねえ、ひとひねりしないとサ」なんて言い出したりしました。1回目が終わって「今度はセリフもね」と言ったらイヤと言わなかったので、2回目の「瞼の母」という芝居では、玉ちゃんに忠太郎をやってもらったのですが、玉ちゃんのセリフは棒読みで、下手くそで、どうしようかなあ、と心配したことがあった。ところが、その下手さが、だんだんむしろ魅力的な味わいに感じられるようになってきて、風情の魅力だ!と感心したことがありました。
あと、これは芸の話ではないのですけれど、最初のとき、「何で山谷に来るのか」と玉三郎に問われてドキリとしたことがあります。その問は別にわたしに対してだけ発せられたものではなくて、山谷にやって来る学生さんとか女性たちに対しても、「何で山谷に来るんだ?」「お前なんかの来る所じゃない」とよく言っていましたので、玉ちゃんの一種の儀式だったのだと思います。最初にその詰問を受けたとき、わたしは答えられなかったのですが、わたしはこの場に立ちたいのだ! という気持ちは強かったので、それは玉三郎に伝わったと思います。
それから「野垂れ死んでいく者たちの気持ちもわからないくせに、よく芝居ができるな」と言われて泣いてしまったこともありましたけれど、野垂れ死んでいくのは山谷の人だけに限らない、自分だってそういう運命の人生を生きているとどんどん感じるようになってきたのだから、どんどん動じなくなります。
この言葉は、わたし何度も紹介していますのでお聞きになった方もおられるでしょうが、佐藤満夫監督は「映画で腹は膨れないが、敵への憎悪をかきたてることはできる」と言っていますけれど、そういう思いで山谷に乗り込んで行ったのだと思います。佐藤さんは、山谷の労働者ではなかったわけですけれど、そういう信念で『山谷やられたらやりかえせ』という映画を撮ろうと決意されたのだと思います。わたしは、その佐藤さんの言葉をお借りして、「わたしたちの芝居で腹は膨れないけれど、心を満たしてみせまする」という思いでやってきました。今でもその気持ちは変わりません。
小見 以前、千代次さんにインタビューしたとき、千代次さんの芸能観についていろいろお聞きしましたが、娯楽ということについて、特に寄せ場における娯楽についてどのように考えているのか、お聞きしたいのですが。
千代次 巷に溢れているのはメチャクチャつまらない娯楽が多いですよね。わたしたちは大衆芝居の人間ではない。昨年、毛利嘉孝先生が(芸大の先生なので、思わず「先生」と呼んでしまうのですが)「さすらい姉妹」の山谷公演にかかわってくれ、「とても面白い体験だった」と言ってくださったのですが、わたしたちも大学の先生と寄せ場の労働者たちと共に芸能の場をつくれたことがすごく面白かったんですね。その毛利先生が「フェイク(偽物)こそ本物なんだ」ということを言っているのですが、わたしたちは「ニセモノ」なんですね。なぜって、わたしたちは「大衆芝居」の劇団ではないし、芝居で食っているわけではないからです。でも、本物の大衆芝居に負けない面白いものをやっているつもりです。傲慢な言い方ですけど、そう思っています。
小見 実は、ぼくらもかつて山谷で「月例映画会」という催しをやっていたことがあるんですよ。
千代次 この『山谷やられたらやりかえせ』の上映会を、ですか?
小見 そうじゃなくて、たとえば『無法松の一生』とか『幕末太陽伝』といった普通の商業映画の上映会です。上映中に酒を飲んで大声を上げる者とか、チョロチョロ歩き回る客がいたりで、娯楽を提供するのもなかなか難しいなと思いました。でも、いい映画会だったんですよ。『無法松の一生』のラストのほうのシーンで、三船敏郎扮する無法松に対して、まあスクリーンに向かってですが、「起て!」「死ぬんじゃねえぞ!」とか、大きな掛け声をかけたりするんですよ。

映画を上映し続ける、芝居をやり続ける

千代次 「山谷」の映画は、もうずいぶん長く上映活動が続けられているようですけれど、どういう方たちに観てもらいたいのですか?
小見 できるだけ多くの人に観てもらいたいですね。
千代次 山谷の人たちにも?
小見 もちろん山谷でもずいぶん上映会をしています。
千代次 どういう反応なのかな? わたしは寄せ場での上映会には行ったことがないので、知りたいのですが。
小見 当初は、「おっ、俺が映ってる!」といった観かたをする者も多かったですね。なにせ、この映画の主人公たちが観客でしたから。自分たちの現場を撮ってくれた映画として観られてきた。
千代次 今はどうなのかな?
小見 どうなんでしょうか? この映画に登場していて、今も山谷で活動している人が今日は何人か来てくれているので、話を訊いてみましょう。
荒木 当初はやっぱり「あっ、映っている」といった反応で観てた者が大半でしたけど、今はもう映画に登場しているわしらの世代は少なくなってしまいましたので、そういう観客はほとんどいませんよ。クールというか。ただ、わしらにとっては、この上映会が開催されると80年代の騒然とした山谷の時代を生きた仲間たちと出会えるので、そういう意義がありますよ。
千代次 知ってる人に出会ってどうするの? 再会してどんな話をするの?
荒木 今どんな暮らしをしているかといった話や、もう体が動かなくなったので山谷で生活保護を取ってるよ、といった話しですよ。
千代次 わたしがわからないのは、この映画の批評じゃないのですけども、この映画を今、上映している意味というか、それについてどう考えているのかなということなのですが。
小見 よく言うのですが、まあ、なかなか辞めるきっかけがないのでこの上映会をだらだら続けているんだよ、と。これは冗談なんですけど(笑)。これまでの上映会の歴史を振り返ると、観客1人のときもあれば、大勢の観客を集めたときなどいろいろありました。フィルムは同じなんですけど、上映会の時、場所によって全然雰囲気が違うんだけれど、しっかり観てもらえてきたと思います。つまり30年も上映会が続けられてきたのは、フィルム自体に力があって、持ちこたえてきたからではないかと思うんですね。これはぼく個人の意見ですけど……。
千代次 どなたかご意見を聞きたいと思いますが。
オリジン 寿越冬闘争実行委員会事務局長のオリジンです。久しぶりにこの映画を観たのですが、登場人物の1人のおっちゃんなどは、今も健在で、うちの4階の事務所へ飛び込んで来て「何か食わせろ」と喚き散らす、めっちゃ面白いおっちゃんなんですね。このおっちゃんは、生活保護を受けて市営住宅で暮らしていたのですけど、家賃を滞納して追い出され、寿町に舞い戻ってきたのです。ぼくのところに相談に来たとき、「何とか生保を繋いでくれ」と頼みに来たのかと思ったら、まず、「金、貸してくれ」「メシ、食わせろ」なんですね。すごくしたたかなんですけど、ああこんなふうに人間は生きられるのかと感心したというか……。厚かましいのだけれど、生き抜くためには何でもやる、みたいな前向きさが感じられて、ああ、こんな人間がいっぱいいたら自殺者も減少するだろうにと思うんですね。このおっちゃんは、かつては一晩に一升酒を飲む豪傑だったけれど、今もなんとか生き抜いている。そういうおっちゃんと話しているのはけっこう面白い。さっき千代次さんが言っていたことですが、ぼくも寿の越冬に大学生の頃、参加したときは、「学生のくせに何しに来たんだ」とおっちゃんたちからいびられたり、逆に「ジュース、おごってやるよ」と百円玉をくれるおっちゃんもいた。そんなとき「支援に来ているのでもらえない」と返したりすると、「俺は一度出したものは引っこめねえんだ」と百円玉を目の前にぶん投げられたこともあった。
寄せ場は変わってきた。けれども、変わっていないものがあるとすれば、社会的な排除リスクで、これは今も根強く残っている。重層的下請け労働システムにより下層労働者が寄せ場に集まって来た時代もあれば、バブル全盛時代に地上げで住む家を奪われて高齢者がどんどん寄せ場に流れて来た時代もあり、そして今の寿町は住民の8割が生保受給者たちといった「生活保護者の街」に変貌しています。実は、今のほうが非常に生きにくくなっているのです。貧困の連鎖に伴う子どもの問題解消などには力が注がれていますが、寄せ場のおっちゃんたちの存在は棄民化政策に組み込まれたままだからです。にもかかわらず、努力した者は報われる社会です、などと喧伝されていますが、努力しても全員が報われる仕組みがあるわけではなく、むしろ負け組のおっちゃんたちはどんどん生きにくい状況に追い込まれているんですね。そういう社会状況が推し進められている中で、30年前、山谷の棄民化された労働者たちの事象をドキュメンタリーとして問題提起したこの映画の上映活動は、今も十分意義があるとは思います。現場では、そういう討論をしています。
小見 ところで、千代次さんの主宰する「さすらい姉妹」も発足してすでに20年ですよね。
先ほど「山谷」の映画は誰に観せるの? という鋭い指摘を受けましたけれど、「さすらい姉妹」はどんなお客を対象にしているんですか。それと、芝居を続けてきたエネルギーってどういうものだったのか、お聞きしたいですね。

芝居の中にどんどん入ってくる
山谷のお客さんは上客なんです

千代次 発足した頃は、20年前ですからやっぱり闘いの実感みたいなものがあったかな。だから、寄せ場の人たちの闘いを支援したいという気持ちが強かった。でも、その後どんどん社会状況の変化があって、闘いのモチベーションがどんどん低下したことは否めません。釜ヶ崎に行ったとき、知り合ったおじさんから「生保を受けろよ、楽だぞ」と言われたりして、「えっ?!」と絶句したこともあった。闘いの場がどんどん少なくなってきたとき、では、どんな目標を持って「さすらい姉妹」を続けていけばいいのだろうか、とモチベーションが揺らいでいた危機の時代が何年かありました。ですけど、やっぱり芝居が好きで、見せたいというか、場に立ちたいという強い気持ちがどうしようもなくあったんですね。だから続けてこられたのだと思います。それと山谷のお客さんは、わたしにとって上客だったということです。「大根」とヤジられることもありますけれど。
劇作家・三好十郎の本を読んでいたら、「三階席の客」という文章に目がとまりました。三階席というのは劇場の最上階の料金の一番安い客席なのですけれど、三好十郎は「その三階席のお客がどういう反応するかというのが一番興味がある」と言っているのです。わたしが山谷のお客さんを上客と言うのは、三好十郎が一番興味があると述べている「三階席の客」と通じるところがあるからです。帰るときにも、まだ芝居を心に残していて、あの男はほんとうに悪い奴だったなあとか、あの女はほんとうに可哀想だったな、といった感情をそのまま残して帰ってくれるからなんです。芝居とそれを観ているお客の関係というより、もっと芝居の中に入りこんでくれていて、舞台と観客の結界など簡単に乗り越えてくれる、そういうところがわたしが山谷のお客さんを上客と思い、好きなんです。
小見 山谷の客は上客だというのは、実に良い話ですね。
千代次 また「山谷」の映画の話になっちゃうんですが、わたしがこんなことを言っちゃうのはいけないと思うんですけど、でも言おうと思います。さっき映画の最初の暴動シーンに胸がドキドキしたという感想を述べましたけれど、その後の闘争に立ち上がった労働者や活動家たちが手配師や飯場の経営者たちを糾弾するシーンにはちょっと興醒めしました。その現場にいた三ちゃん(三枝)たちが来ている前でこんなことを言うのは申し訳ないんですけど、活動家の人たちの言葉や口調や表情がみんな同じで、つまんないなあ、という感じに見えてしまったからです。手配師や飯場の経営者たちのほうが、わたしは彼らを支持しているわけではありませんけれど、何か人間臭い感じで面白いなと思っちゃったのです。これはわたしの感覚的な印象であって、政治的な文脈で言っているわけではないのですが、こういうことだから闘争は続かなかったのではないか、という感覚を持ってしまったのですが……。
三枝 今、千代次さんが話した糾弾されている手配師や飯場の経営者のほうがなんか人間的な感じがして面白いという感覚は、ぼくもこの映画を観ていて感じました。そしてビビっと頭に浮かんだのは、フォーク歌手・友川カズキの「生きてるって言ってみろ」という激しい歌でした。労働者は手配師たちを激しく糾弾しているんだけれど、千代次さんが感じたように、言葉や口調が左翼の活動家たちのコピーというか、何か教条的でパターン化した感じて、生きている感じじゃないという印象なんですよね。そういうところが運動を行き詰まらせた要因だったんじゃないかな、と思いますけれど、では、どうしたらいいのかってことは、今浮かびません。
荒木 争議団の一員として、この映画を観て一番嫌だったのは、自分たちの運動の未熟さがもろに映し出されてしまっていた点だった。わしらは、後ろの仲間たちの気持ちを単に代弁するんじゃなくて、もっと労働者の気持ちを思いっきり引き出すために、前で演じなければならなかったのだと思う。
風間 さきほど千代次さんが、政治の狭さみたいなことを言ってましたが、芸能に比べると、確かに政治は狭い。政治の世界というのは、非常に狭い枠内で対立、分裂してしまうということが現実としてあると思うんですね。それぞれが労働者のためと言いつつ、分裂し抗争している。やはり運動をつくっている側としては、自分たちは正しいのだということを労働者に訴えて、労働者がどう立ち上がるかということで物事を決めていく。ただ、たとえばセンター前で手配師を糾弾する労働者たちの表情や言動が教条的でつまらないという指摘には一考の余地があるのではないか。あのような運動の状況をつくる過程、つまり手配師や暴力団に対して争議団という組織や労働者が、彼らを糾弾していく状況をつくるまでにどれだけの人間が血を流し、あるいは逮捕されたのか。そういう流れのなかで支配関係を変えてきたという背景があるからです。確かに、みんながそろって相手方を糾弾する労働者たちの表情は面白くないかもしれないけど、その背景も見ておく必要があるのではないかと思う。
もう一つ、この映画は山谷の事象を映しているけれど、単に山谷のことを、監督の山岡さんは映そうとしていたわけではなくて、山谷や、山谷の労働者はどうしてつくられてきたのか、その歴史と構造を映し出そうとしていたのだと思うからです。その問題意識は、現在においても、たとえば寄せ場の全国化とか釜ヶ崎の全国化ということが言われ、非正規労働者、使い捨ての労働者がものすごく増えているという事象にもみてとれると思います。かつて炭鉱労働者が使い捨て労働者として動員され、石炭の時代が終わるや棄民化されたように、現在も形態こそ違うけれど、非常に劣悪な労働条件で働く使い捨て労働や棄民化は続いていますし、外国からは研修生という形で動員されている。こうした構造的な問題を先行的に問題提起しているこの映画が今も上映活動を続けていることには大きな意義があると思います。ですから、政治の狭さという批判は、その通りだと思うのですが、構造的な諸問題をどのように変えていくかという課題はずっと残っていると思いますので、そういう観点で考えることも重要ではないかと思います。
千代次 この映画を観て、政治的じゃない方は、どう思われたのでしょうか? それが、わたしにはとても興味があるのですが……。
小見 そうですね。非常に興味深いんですけど、そろそろ時間です。千代次さんに一言、しめてもらって終わりにしましょう。
千代次 玉三郎への思いは強いのですけれど、思い出話をしている暇はないです。
小見 決意表明のような力強いしめでした。本日はどうもありがとうございました。

(2017年1月14日中野富士見町plan-B)

引続く棄民政策と被ばく労働者

山岡強一虐殺30年 山さんプレセンテ! 第2回

なすび(被ばく労働を考えるネットワーク)

 被ばく労働問題を運動に組み込めなかったこと

ぼくが最初に、この映画『山谷―やられたらやりかえせ』を観たのは、山岡さんが殺されて4カ月後の1986年5月のことです。当時ぼくは某工業大学の3年生だったのですけども、東大の五月祭で農学部が毎年面白い企画をしていると聞いて行ったところ、この映画の上映でした。じつはその頃のぼくは山谷という所など全く知らなかったので、この映画を観て非常に衝撃を受けました。というのは、ぼくの大学は工業大学ですから建築とか土木の学科もあるわけですが、でも、その産業の末端で、こんな労働実態があるなどということは教えないからです。
この時、上映後、現地報告に来られていた日雇全協(全国日雇労働組合協議会)の方にお会いし、自分の大学でも是非上映会を開催したいと相談をしたところ、上映委員会の方を紹介してくださった。そこからぼくは山谷に関わることになりました。
じつは、ぼくがこの映画を東大の五月祭に観に行った日は小雨の降る日だったのですが、その雨にびくびくしながら出かけたという記憶があります。それはなぜかというと、その前月の4月26日にチェルノブイリ原発事故が起き、放射能が風に乗って日本にも達しているので、雨にあたるのは危ない、という情報が流れていたからです。
ぼくの大学では、その年の秋の学園祭で『山谷』の上映会をやりましたが、その前に学内の社会系サークルが、公害被害者や被ばく労働者の撮影で著名な写真家・樋口健二さんを招き、講演会がありました。その時、樋口さんが話した「山谷、釜ヶ崎など寄せ場の労働者が、一番最初の除染現場、一番酷い環境で働かされている」という指摘も、ぼくには衝撃的でした。
そういう経緯もあって、ぼくは山谷に関わり始める最初から被ばく労働者問題というのがずっと頭にあったのですけれど、山谷での労働運動では、被ばく労働問題に対するきちんとした取り組みはできませんでした。それにはいろいろ理由があるのですが、そこは時間がないので省略します。
ですから、3・11の原発事故が起こった時に一番最初にぼくが思ったのは、山谷の中で被ばく労働問題についての取り組みをしてこなかったことへの、もの凄い後悔でした。
あの時、ぼくたちは、爆発する福島第一原発の映像と、ベントをするとかしないとか、海水で原子炉を冷却するとか、本当に手の付けられないような状況を伝えるテレビの報道を、為すすべもなく見ているしかありませんでした。誰かが原子炉の近くに行って作業しなければならないのではないか、と日本中の誰もが感じていた。でも誰が現場へ行くのか?
ぼくらはこの社会で最も虐げられている労働者の労働運動に取り組んできたけれど、被ばくを避けられず、そしてある確率で死が避けられない被ばく労働者の問題にきちんと取り組んでこなかった事実に、福島原発事故により直面したわけです。
実際の話、通常の運転でも、原発は被ばく労働者なしには動かないのです。福島原発事故が起こる前、例えば、慶応大学の物理の教員だった藤田祐幸さんが、横浜寿町の寄せ場で「労働者が働くことを拒否すれば、原発は止まるんだ。被ばくしながらそんな仕事をすべきではない」と警鐘を鳴らす話をしていたことを、ぼくは憶えています。でも、ぼくたちは、そのことを運動に組み込むことはできなかった。98年に行われた福島第一原発でのシュラウド交換の時は、「原発に行くな!」というビラを藤田さんとともに労働者に撒いてキャンペーンをやりましたが、それも一時的な取り組みでした。

「被ばく労働自己防衛マニュアル」

しかし、福島原発事故が起きてしまったあの時点において、危険だから福島第1原発などへ行くな、と言えたであろうか。誰かがその作業をしなければ壊滅的状況になるかもしれない、そんな緊急事態が起きていたからです。そういう大きな矛盾に直面し、これはやっぱりぼくらにも責任があるんじゃないかと、ぼくは強く感じました。
そしてぼくはその直後に、「被ばく労働自己防衛マニュアル」というものを作りました。それは、ぼくが山谷に行き始めた頃、寄せ場の日雇全協が作った「労働者手帳」をベースにしています。「労働者手帳」には、労働者が労働に従事する際の様々な注意事項や、下層の労働者が歴史的にどういう時代の中でどのように生きてきたか、殺されてきたか、という労働史などをコンパクトにまとめられています。それを参考に、原発労働者の雇用問題や放射線に関する問題点を列挙して作成したのが「被ばく労働自己防衛マニュアル」です。
先ほどぼくは福島原発事故に遭遇して、ぼくたちが被ばく労働問題にきちんと取り組んでこなかったことに強く後悔したと述べましたが、被ばく労働問題にきちんと取り組んできた運動というのは、いくつかの事例を除いて日本全体でもそれほどありません。ごくわずかの例としては、例えば岩佐訴訟や長尾訴訟のような労災認定を要求する裁判や、80年代に敦賀原発で原発下請労働組合が結成されたという事例がありますけれど、それ以外には、下請け被ばく労働者の労働運動について継続的にきちんと取り組み、その全貌の分かっている人はじつはほとんどいなかったのです。
ですから、これまでこの問題に取り組んできた方、警告を発してきた方、例えばさっきちょっとご紹介した藤田祐幸さんとか写真家の樋口健二さん、あるいは敦賀原発で組合を作った斉藤征二さんなど多くの方々に教えを乞うかたちで、この「被ばく労働自己防衛マニュアル」は作りました。
この「マニュアル」の制作過程で様々な関わりができ、この問題を運動として取り組んでいくためには、それまでやりきれていないみんなが集まって、知恵を出し合っていくしかないと感じました。そしてこうした取り組みが、その後、被ばく労働ネットワークというネットワーク組織を作る契機となったわけです。
ぼくたちは、下請け労働者で、とりわけもっとも被ばく量の多い所に送り込まれている労働者たちとどのように繋がり、その人たちを守りながら運動を進めていけるかという点を強く意識していました。当初、ぼくらは福島に拠点がなかったので、福島現地の労働組合に協力していただいて、そこでビラまきを行ったり、除染活動をしている労働者から相談を受けるという取り組みを始めました。

 ピンハネされていた危険手当

国の除染事業が本格的に始まったのは、福島第一原発事故の起きた翌年の2012年からですが、除染に行っていた知人(ここではAさんと呼びます)から「危険手当を払うと業者から言われたのだけれど、仕事や宿舎が同じなのに人によって金額がだいぶ違う。そのへんのことを調べてくれないか?」という相談を受けました。じつはぼくらは、その相談を受けた時、「危険手当」というものを知りませんでした。そこで調べてみると、除染事業を所轄している環境省のホームページに元請けが入札する際の工事仕様書があり、そこには除染作業に従事する全ての労働者に1日1万円の危険手当が出されることが記されていました。
で、そのことをAさんに伝え、仲間の労働者にも伝わりました。既にAさんを含む労働者仲間は業者に説明会を求めていましたが、その説明に納得しない4人が現地労組の組合員となり、「国から危険手当が出ているはずだ。それを労働者にきちんと支払え!」という団体交渉を業者と始めました。これがたぶん日本で最初の除染労働者による労働争議の発端なのです。
しかし、この時分かったことなのですが、じつは危険手当が出ていることをほとんどの雇用業者が知りませんでした。というのは、除染作業は、環境省からゼネコンが受注していて、その下に何次もの下請け業者がいるという構造の下で行われているからです。除染作業は公共事業なので、元請けのゼネコンは、設計労務単価で1人当たり1万5000円(2013年)、プラス1人当たり1日1万円の危険手当を国から受け取っています。けれども、そこからいくつもの下請けを経て実際の雇用は行われていて、下位の業者は詳細な明細のない人工(にんく)いくらの契約で上位会社から請け負っているので、本来そこに業者が手を付けられない危険手当が含まれるべきであることを知らなかった。結局、労働者の受け取るべき賃金のかなりの部分が、ゼネコンや上位の業者がピンハネしていたわけです。この争議のことを朝日新聞が取り上げてくれたことで、危険手当問題が一挙に日本中に広まったという経緯があります。
その新聞記事が出ると、ぼくたちの連絡先にひっきりなしに相談が飛び込んでくるようになるのですが、相談の内容は危険手当の問題だけではなく、時間外勤務手当が支払われていないことや、労災がもみ消されているケース、暴力支配が行われている業者など、様々な問題がバラバラと出てきました。そのほとんどの労働者が、雇用契約書すらありませんでした。少なくとも除染に関していえば、ウソ・騙しや違法状態が蔓延していました。
そういう除染作業を誰がやっているのかというと、収束作業などもそうですけれども、半分ぐらいは福島の労働者、あとの半分は全国各地から集まって来ています。最近は外国人労働者もけっこう増えています。
ぼくたちは、3・11福島原発事故を契機に被ばく労働問題について本格的な取り組みを始めたのですが、その時点において山谷はどういう状況であったかということについてちょっと見ておくと、山谷にはほとんど仕事が無いという状況になっていました。そして山谷のドヤでは8割以上が生活保護を受けて暮らしている人びとで占められるようになっていた。もちろん山谷でドヤ暮らしをしていて、そこから仕事に行っている人もいましたけれど、それは少数者になっていた。つまり、山谷は、労働市場としてはほぼ壊滅していたのです。つまり、山谷には労働という現場がほとんど無くなっていて、棄民化された状態の人たちの集住地域になっていたのです。

とんでもない条件で働かされる労働者たち

けれども、被ばく労働問題に取り組み始めてみて痛感させられているのは、被ばく労働者たちの明日の状況は、現在の山谷の状況なのではないかという思いでした。先ほど皆さんが観た『山谷』のドキュメンタリー映画に提起されているような、労働者が動員されて搾取の中に突っ込まれ、さんざん絞りあげられ、最後には棄民化されていくという流れが、福島原発事故の収束作業や除染作業において、いま現在進行形で観て取ることができるからです。
ぼくらが相談を受けてきた、まともな労働者として契約もされず、とんでもない状況で働かされている労働者たちの、少し具体的な事例をご紹介します。
これは福島で除染作業に従事しようとはるばる鹿児島からやってきたBさんという人の話です。Bさんは鹿児島で失業して職探しをしていたのですが、なかなか働く所が見つからず、ネットで見つけた福島での除染作業の仕事に応募しました。作業員を募集していた業者に連絡すると、「日当は1万5千円。すぐに車で来なさい」と返事がもらえました。Bさんは奥さんともトラブルを抱えていたので、離婚して自宅も売りに出し、そこでの生活を全て清算して出発しました。そして指示されるままに大阪に向かい業者に会ったところ、日当は1万2千円だと言われました。もう帰るところもないので泣く泣くこれを飲んだBさんは、高速は使わず下道で福島まで行くよう地図を渡されました。何とかいわき市に着くと、宿舎に空き室がないので、今晩はマンガ喫茶に泊まってくれと言われ、最初の一夜を過ごしました。そして次の日からは業者の経営する中古車店の倉庫の片隅をあてがわれ、しばらくここを住居にしてくれと、マットと寝袋を与えられ、寝泊まりさせられていました。そこから1週間ほど大工の手元の仕事をさせられた後、除染ではなく「現場は福島第一原発に決まった」と言われました。しかし、実際に仕事に就けたのはほぼ1カ月後でした。待機が続いただけでなく、食費は自己負担しなければならなかったので、手持ちのお金はたちまち底をつき、業者に借金しなければならなくなりました。
Bさんは、ここではとても働けないと思い、他の業者の所に面接に行きました。「今、どちらの会社で働いているのですか?」と訊かれたので、「××建設です」と答えたところ、「あそこは○○会(ヤクザ)だから…」「うちが潰される」と断られてしまいました。それでBさんは困り果て、ぼくらの所に相談に駆け込んだというわけです。
じつはこういう業者が少なくないんですね。なにしろ元請けから2次、3次の下請けはまだいいほうで、実際には6次くらいまで下請けがあるといわれています。そういう末端の下請け業者には、正式な下請け業者としての資格を有してないだけでなく、法人登記もなく、携帯電話1本で人集めして、ただ右から左へ労働者を送り込むだけという所が少なくないのです。こういう業者は、もちろん労働者と契約など交わしません。
ある除染業者などは、古民家が宿舎ですと称して人集めをし、実際には山の中の壁が破れ床が抜けたような廃屋に労働者を寝泊まりさせていたというケースもありました。食事は朝晩のみで、その食事もおかずは目刺し数本と野菜一掴みというものでした。さすがにこれは数少ない事例のようですが、労働者を暴力的に拘束して働かせている業者もいます。
こういうとんでもない業者というのは、もちろん一部であって全部ではないのですが、けれども除染作業や収束作業では、違法派遣で労働者を雇用することが普通に当たり前のことのように行われ、そのことが許されているという構造的な問題のあることは否めません。

 搾取の最末端から棄民となる――80年代の山谷と同じ状況

被ばく労働というのは、ある確率でガンになって死ぬということが前提になっている仕事です。そういう仕事に労働者を従事させるのは問題ではないか、と山谷に通い始めた当初から憤りを感じていました。
しかし、震災後にその問題に取り組み始めると、被ばくの問題以前に、基本的な労働問題、前述したようなデタラメな雇用問題に直面しました。ぼくたちが80年代半ばに山谷で取り組んでいた状況が、そのまま放置され、福島にも同様に存在しているという事実に対して、ぼくは愕然としました。
現実問題として、ともかく労働者の場合は、賃金の問題というのが当面一番大きな問題なわけですから、ぼくたちは最初の取り組みとしては、雇用者に対して労働者の当たり前の権利をまともに実行させることが必要だということで、労働相談や労働争議を積み重ね、国や元請けとの交渉を並行して行うという活動を2012年から続けてきました。
先ほども述べましたように、この問題は構造的な問題なので、個別の問題をそれぞれ解決すれば済むという話ではありません。原発事故直後は、収束作業に対して関心が集まりましたので、メディアも注目して問題点を突いた報道をしたため一定程度は以前よりは改善したところもありますが、根本的な問題の解消には未だ至っていません。とりわけ、収束作業の場合は、発注者が東電なので、契約関係がすごく見えにくく、賃金や危険手当などが今でもかなりグレイな感じは否めません。
というわけで、この映画の中で活写されている、過疎の地域から、あるいは貧困から、不当な労働に突っ込まされざるを得ない労働者たちがいて、かれらが搾取の最末端で使い捨てられ、最後は棄民となる状況、そのことが今、福島で再現されているのだということを、ぼくは福島に通い始めて改めて感じたわけです。

ある割合での死を容認されている被ばく労働

次に、被ばく労働の本質的な底知れぬ問題点、放射線被ばくの問題について話します。
被ばく労働者は、今、平均で年間20ミリシーベルトに達するとだいたいクビになります。少し大きな会社やまともな業者だと配置転換され、解雇はされませんが、前述したように実体の怪しい業者に不安定雇用されている場合は、仕事ができなくなれば即お払い箱となります。線量が危険水域に達したらクビというのは、本来労基法上は問題なわけですが、収束作業や除染作業に従事している被ばく労働者に対してはかなり多く当たり前のようにそれがまかり通っているのです。
では、多くの被ばく労働者がその制限値に達すると仕事ができなくなるという20ミリシーベルトというのはどういう数字なのでしょうか。これは基本的に原子力産業を進めているICRP(国際放射線防護委員会)が被ばく労働に従事する者に対して定めた被ばく放射線量の許容値で、日本でもこの数字を適用して5年間で100ミリシーベルト(年平均20ミリシーベルト、ただし1年で50ミリシーベルトを超えない)を限度と定めています。この20ミリシーベルトという数字は、人が18歳頃から働き始めて、仕事を終えるまでの期間を大体50年としますと、1年間に20ミリシーベルトを浴びた場合、50年間で1,000ミリシーベルト(=1シーベルトという値になります。その値を浴びる続けると、毎年0.1%ずつガンで死ぬ人が増えていくと見なされています。ということは、この被ばく放射線量許容値というのは、毎年0.1%の被ばく労働者がガンで死ぬということを、ある意味容認しているということも言えるわけです。
0.1%という数字がけっこう大変な数値だということは、例えば現在、福島第1原発の現場では、1日7,000人の作業員が働いているわけですが、その0.1%ということは7,000人のうち7人がガンになって死ぬという確率になります。
じつは、産業全分野の労災で亡くなる人のリスク確率は0.1%とされていて、被ばく放射線量許容値はそれと同じ数値が設定されているわけです。これは産業の利益とリスクとのバランスを考慮した場合、容認できる数値であるという位置付けなんですね。しかし、他の労働での労災は原理的にはゼロに近づけることができるけれど、被ばくを前提とした仕事は、それを完全に防ぐためには100%鉛で覆ったロボットスーツでも着て作業しない限り被ばくはするのであって、原理的にリスクをゼロにすることはできない。ですから、じつはICRPでさえ、しきい値はなく被ばく線量に応じて影響が出る可能性があると言っている。つまり、被ばく労働においては、0.1%の労働者がガンで死ぬということを、あらかじめ容認するしか術がないわけです。そこが他の労災と被ばく労働のリスクの本質的に違う点なのです。

 二重の意味での棄民労働

被ばく労働というのは、不当な雇用問題に加え、被ばくというのが避けられない労働という意味で二重の意味で棄民労働だ、と思わざるを得ません。
収束作業に従事した労働者は、3・11以降後、今では2万人を超えていますが、その中で国がきちんと責任をもって健康診断している人は、じつは900人程度です。もう少し具体的に見ておきますと、事故発生当初から同年12月に野田首相(当時)が収束宣言をするまでの期間、国が特例緊急作業と位置付けた収束作業に従事した労働者が主な対象で、50ミリシーベルト以上の被ばくをした人には白内障の検査、100ミリシーベルト以上被ばくした人にガン検査を、国は行っています。しかし、50ミリシーベルト未満の人は、その後の職場の健康診断で十分なので国は何もしない、ただし検査結果のデータは提出せよ、という対応です。つまり、国は、緊急事態宣言を発して労働者を最悪の危険な現場に突っ込んでおきながら、そのうちの900人程度しか国の責任で健康管理をフォローせず、残りの者は切り捨てているのです。50ミリシーベルト未満でもしきい値などなく、確率的にリスクを負っていることは明確なのにもかかわらず、国は対応をしない。これぞまさに棄民ではないか。と、ぼくは思いました。
日本の被ばく労働問題に対する対応は現在までのところ、そんな状況なのですが、しかし世界の原発所有国を展望しても、被ばく労働問題にきちんと取り組んでいる国は、じつはまだほとんどないというのが現状です。例えば、ドイツのように近年反原発運動が活発になり原発ゼロ宣言を打ち出した国でも、反原発運動の中でやはり被ばく労働問題というのが置き去りにされてきたという指摘がされています。

 被ばく労働についての国際連帯

今年はチェルノブイリ事故30年ということで、来月、ドイツで開催される反原発集会にぼくらの仲間が1人、呼ばれて行きますが、最近は他の国の運動機関からも「福島で働いている労働者の声を聞かせて欲しい」という話がよくあります。外国のメディアからの取材も増えています。けれども、被ばく労働問題に対する関心はやはり海外でも希薄な感じがします。
そういう思いもあって、ぼくたちは今、被ばく労働問題は日本から発信していかなければならないという思いと、国際連帯ということを強く意識し始めています。その取り組みの第1弾として、来週、「核と被ばくをなくす世界社会フォーラム2016]」という催しが東京で開催されます。その中で、福島第一原発周辺へのツアーを行うとともに、福島県いわき市でも集会を行います。このフォーラムで、ぼくたちは被ばく労働問題の分科会とシンポジウムを準備しています。チェルノブイリ原発事故で収束作業に従事した労働者2人をウクライナから招きますし、世界で一番原発を使っているフランスの原発施設で下請け労働をしているフランス人労働者や、お隣の国・韓国からも原発で働いている2人の非正規労働者をゲストにお呼びしています。
核と被ばくに反対していこう!というフォーラムなのですが、もちろん各国それぞれ事情は異なりますし、原発に対する考え方にも温度差があります。その中でも、末端で働いている労働者にはある種の共通性があるのではないかという思いから開催する集まりなので、自分たちがどうやってこの問題を受けとめて、取り組んでいくかということを大いに議論していきたいと考えています。

 国が進める姑息な動きに抗して

ご存知のように、今、国は原発再稼働に向けた取り組みに邁進しています。原子力規制委員会は検査結果の報告において「規制基準はクリアーしているが、原発は絶対安全とは言えない」と述べているのですが、「規制基準をクリアーしたんだから、さあ再稼働だ!」と国は勇み立つ一方で、例えば懸案事項の一つだった事故が起きた際の住民の避難計画なども絵に描いた餅のように現実性のないプランだけを掲げ、再稼働に向け突っ走ろうとしています。
また、上限100ミリシーベルトという緊急作業の被ばく放射線量許容値を、それでは労働者の仕事の場を狭めてしまうからと、いかにも労働者の味方みたいな理由を挙げて、250ミリシーベルトに倍増するため法改正の準備をしており、ぼくたちはこの危険極まる許容値案の改正に対して反対運動を起こしています。
それからこれもご存知の方が多いと思いますが、昨年10月、福島第1原発で働いた後に白血病を発症し現在治療中のCさんが労災認定を受けました。厚労省はこの労災認定を公表する際、科学的因果関係が証明されたわけではないとマスメディアに強調し、救済のために労災認定をしたといったニュアンスの説明を行いました。しかし、ぼくたちは今年の1月にCさんにお会いしお話を伺ってきましたが、決して認定基準を満たしているからと一律に決めるような通り一遍の手続きで認定されたのではなく、多岐にわたる検査データを国は医療機関に提出させていて、さらに親族の病歴までも調べて資料にしています。それらを元に専門家による検討会で審査され、Cさんの白血病は、他の要因というよりも、被ばくによる影響と見なすのが妥当と判断されて、認定されたものでした。それを率直に認めない厚生省の態度は、できるだけ被ばくによる労災認定は避けたい、他の労働者への波及を避けたい、という姑息な方針から出たものとしか思えません。ぼくたちは厚労省に抗議し、説明のやり直しを求めています。
この事例でも窺えるように、国・東電、そして収束作業・除染作業を国や東電から受注している業者が一体になって被ばく労働者の被害の隠蔽をはかろうとする動きが着々と進行しています。一方、そういう状況の中で、ぼくたちは、一昨年から毎年「被ばく労働者統一春闘」という形で、福島での情宣と相談活動、国・東電・元請企業への統一要求書の提出と交渉を行っています。そしてその報告集会を兼ねて、5月には250ミリシーベルト問題や労災認定問題を追求する集会を予定しています。その詳細が決まりましたらアナウンスしますので、われわれの取り組みに合同して参加していただければと思います。長くなりました。以上で終ります。
(2016年3月19日  plan‐B)

象徴天皇制の〈変貌〉

山岡強一虐殺30年 山さんプレセンテ! 第1回

天野惠一(反天皇制運動連絡会)

 二人の監督の死をめぐって

与えられているテーマは「天皇制の変容について」ということなのですが、本論に入るまえに、皆さんが先ほどご覧になったドキュメンタリー映画『山谷―やられたらやりかえせ』の初代監督でこの映画の制作途上で右翼暴力団の刺客により殺されてしまった佐藤満夫君と、佐藤君の遺志を継いでこの映画を完成させた直後に同じ右翼暴力団のテロにより殺されてしまった山岡強一さんの2人の監督と僕がどういう関係だったのかということをちょっとお話することで、自己紹介を兼ね自分の立ち位置をご説明しておきたいと思います。
僕が佐藤君と知り合うのは、80年代に入ってから僕らの立ち上げた「山谷越冬闘争を支援する有志の会」に彼が飛び込んで来て、「有志の会」のメンバーに加わり、「1年ぐらい山谷にはりついてドキュメンタリー映画を撮りたい」と宣言して以降のことでした。全共闘世代で逮捕歴もある彼は、全共闘の敗北後、商業映画やテレビの助監督をしていたのだが、その稼業から足を洗い、寄せ場に常駐し日雇労働に従事しながら山谷のドキュメンタリー映画を撮りたいと、僕らの仲間に加わってきたのだ。しかし僕は映画制作にはタッチしていませんでしたので、たまに「支援する有志の会」の会合で出会うくらいの関係だった。
ところが、佐藤満夫は、映画がクランクインしてまだ1カ月もたたない1984年12月22日に日本国粋会金町一家西戸組組員の凶刃により殺されてしまった。佐藤君は僕と同じ齢の37歳だった。
この年、僕たちは「反天皇制運動連絡会」という組織を立ち上げ、11月25日「日韓―核安保―天皇制を考える」というシンポジュームを開催しているのだが、この会の途中に彼が入ってきたのを、司会をしていた僕は確認している。それが僕にとっては佐藤満夫と接した最後になってしまった。
山岡強一さんは1940年生まれ。北海道の炭鉱労働者の息子です。山岡さんというと、なんだかよそよそしいので、僕たちの仲間が日頃呼んでいた「山さん」と言わせてもらいますが、山さんは68年に上京して寄せ場(山谷)に入り、「山谷悪質業者追放現場闘争委員会」を結成、81年に「山谷争議団」を結成、82年には「全国日雇労働組合協議会」を結成するなど、寄せ場労働者の運動に率先尽力してきた。また、山さんは、僕たちがやっていた「山谷越冬闘争を支援する有志の会」や「反天皇制運動連絡会」の運動にも精力的に関わっていた。言わば山さんは僕たちの同志だったわけです。
こうした山さんをリーダーとした山谷の運動や、その運動をテーマにしたドキュメンタリー映画の制作に対し、山谷での手配利権を脅かす存在として敵対したのが右翼ヤクザの金町一家西戸組で、その露骨な武装襲撃の標的にされたのが佐藤君と山さんだった。
山さんは、こうした運動を続ける中で、志半ばで斃れた佐藤君の遺志を継いで、ドキュメンタリー映画『山谷―やられたらやりかえせ』の監督を引き継ぎ、この映画を完成させたわけですが、その直後の1986年1月13日早朝、自宅近くの新宿の路上で日本国粋会金町一家の組員により狙撃され殺されてしまった。45歳の無念の受難だった。
実は山さんは、右翼テロの凶弾に斃れる10時間ほど前まで運動仲間たちと座談会をやっていて、その最中に僕は、山さんも参加していた「反天皇制運動連絡会」の機関紙の座談会のゲラに手を入れる作業をやってもらっていたのです。ですから凶報を聞いたときは、耳を疑うというか、一瞬頭が真っ白になった。
あの『山谷―やられたらやりかえせ』というドキュメンタリー映画を撮ろうとしていた監督2人が2年足らずの間に相次いで右翼テロによって殺されてしまうという異常事態に遭遇した僕たちは、直ちに「警察とヤクザの癒着を監視する会」という組織を立ち上げ、活動を展開しました。これ以上犠牲者を出さないためにはどうしたらいいかという防御策を必死に講じなければならないと考えたからです。
例えば、日本社会党(と当時まだ呼ばれていた政党)の議員に働きかけて山谷を定期的にパトロールしてもらいました。そうすると警察と裏でつるんで暴力を揮う右翼暴力団の動向があまり露骨でなくなりました。また、マスメディアの山谷報道が、まるで暴力団同士の抗争のように、「暴力団と山谷労働者の抗争」といった図式でしか報じられないデタラメさを解消させるため、閉鎖的な寄せ場の状況を正しく認識してもらうような情報発信していく活動もいろいろ行いました。それから寄せ場の孤立した閉鎖社会状況を、世の中にもっと広く正確に認知してもらおうという目的で、大学教授たちが中心になって「寄せ場学会」が結成されましたが、この結成にも僕たちは少しは協力しました。
完成した『山谷―やられたらやりかえせ』は、上映実行委員会が有志によって結成され、今日まで各地での上映会を続けてきたわけですが、当初は当時古書店をやっていた僕の店が映画の連絡先になっていた。店主の僕は店番をしてくれていた書店員に「右翼が襲撃してきたら、さっさと逃げろ」と言っていました。当時はそんな状況だったのです。
佐藤君と山さん、そして2人が監督して作った映画と僕との関係は、以上です。

整理し分析し、思想的に論理化していた山岡強一

では、本論に入ります。テーマは「天皇制の変容」についてということなのですが、さてどのようにお話しようかな、と考えていて、そうだ山さんも天皇制についてかなり論じていたなということを思い出しまして、彼の書いた本『山谷 やられたらやりかえせ』(現代企画室 1996年)を今回改めて通して丁寧に読み直してみました。で、改めて思ったのは、山さんという人物が、ものすごく「普通」ではないなってことでした。僕の思う「普通ではない」というのは、運動家としてあれだけ忙しく過酷な運動をしていた中で、論じるべき物事や問題点を本当によく調べて整理し、分析し、思想的に論理化しているからです。こういう人ってあまりいません。
山さんの本は、通常、学者たちが行っているような、研究者として、対象を客観的、論理的に整理し、分析するという手法で書かれたものではない。山さんのこの本は、寄せ場の歴史、運動を論じている本なのですが、それは自分自身が寄せ場の労働者であり、寄せ場で闘ってきたことを前提にしたうえで、自分たちがどういう存在なのかということを、歴史的に明らかにしているのです。つまり自分たちの存在が、社会的、構造的にどういうものなのかということについて、自分たちの運動という文脈の中で、歴史的に全体として整理し、緻密に分析し、思想的に論理化しているわけです。
特徴的なのは、ひじょうに古典的な労働者階級主義者だった山さんは、既存の大きな労働組合が中心の労働運動が、従来、寄せ場の下層労働運動を運動として評価せず見捨ててきた点を痛烈に批判していることです。一貫して寄せ場の下層労働運動に従事してきた山さんは、下層労働の労働様式、存在様式の方こそが本源的な労働者なのだと位置付けており、それを組み込んでこなかった従来の労働運動はまともな労働運動とは言えず、真っ当な労働運動の歴史にはならないだろうと指摘してきた。
僕は昨今、原発再稼働反対運動にも関わり、地方へも足をはこんでいるのですが、原発事故を起こし、すさまじい放射能被害を浴びて原発施設内で労働に従事している下層労働者たちは、放射能汚染は除去され、もう安全なので帰還しなさいと言われている避難住民たちと同様に、完全にあいかわらず国策民営化原発下の棄民政策の受難者だと思います。もし、山さんが生きていたら、この状況、この構造を、どのように分析し、思想的に論理化し、どんな運動として取り組むだろうか。そんなことが頭をかすめました。

戦前天皇制のアナロジーとして象徴天皇制を批判するという問題

またズレました。さて、どのように天皇制は変容したのかということです。根本的に天皇制が大きく変わったのは、敗戦を迎え占領下の時間の中でした。どう変容したのかと言えば、それまでの大日本帝国憲法下の天皇制体系から、戦後の日本国憲法下の天皇制体系へ、変わったということです。両体系の大きく異なる点は以下の点です。
まず戦前の大日本帝国憲法では、天皇は主権者として位置付けられています。主権者であり、現人神であり、神聖にして侵すべからずといった宗教的な存在として君臨していた。それから「統帥権」を持っていた。統帥権とは、軍隊を指揮監督する最高指揮権で、これを天皇のみが有していた。いわば軍隊は天皇の私兵だったわけです。警察も天皇のための「陛下」の警察でした。つまり国家機関全体が天皇のために存在するという構造になっていた。
一方、戦後の日本国憲法では、国民が主権者であって、天皇は国民の総意にもとづく象徴として位置付けられている。新憲法には、次の3つの原則があります。民主主義・平和主義・人権主義です。この原則からすると、象徴天皇制というのは原理的にそぐわないように思うのですが、そういうあいまいな構造の天皇制体系に変わったわけです。
以上の違いをご覧いただければ、戦前と戦後の天皇制体系が大きく変容していることがお分かりいただけるのではないかと思います。どうしてこのことにこだわるのかというと、あとで説明しますけれど、その変容について認識しておかないと、天皇制を批判する際に見当違いの誤解やあいまいな容認という問題が生じかねないからなのです。
実はこのことは山さんの天皇制批判や山谷争議団の運動における天皇制批判などにも認められるし、僕たちの運動においても、そういう傾向がなかったわけではないのですが、これまでの一般的な天皇制批判には、どこかに大日本帝国憲法下の天皇制をアナロジー(類推)して、現在の天皇制を批判するみたいな力学が働いているんですね。
山さんの本にも、戦後の新憲法において天皇制体系が変容したことについては触れているのですが、原理的にかなり変わってしまった象徴天皇制というものを、どのように捉え、分析し、現代の問題として思想的に論理化するかという思考の痕跡はない。もちろん、山さんのこの本は、天皇制問題を主題にしていたわけではないのですから、その部分の論考が欠落しているからといってあながち批判するのは失礼なのかもしれません。
僕たちが天皇制の変容についての認識にあいまいさがあったのではないか、と、ちょっと批判がましいことを言いつつ、そのあいまいさを黙認せざるを得なかったのは、当時、山谷では、寄せ場の下層労働者たちの労働運動が、天皇制右翼ヤクザの暴力的な襲撃にしばしば遭遇していて、実際に佐藤君や山さんが右翼テロで殺されるという現実に直面していたからです。リーダーの山さんが、これは戦前の天皇主義的なファッショ体制が再興してきているのではないかという危機感を抱いたとしても無理もない、そんな状況だったからです。
ご承知のように、戦前の日本では社会主義者たちに対する弾圧は過酷なものでした。天皇制の批判など公的には絶対に許されなかった。不敬罪という法律があって、最高刑は死刑に処せられた。作家の小林多喜二のように公安警察の過酷な暴力によって殺された者や、不当に獄に繋がれた者も少なくない。大日本帝国憲法下の天皇制時代においては、そういうことが公然と容認されていたわけです。
しかし戦後の日本国憲法では、天皇は「国民の象徴」といった極めてあいまいな存在として規定されてはいるが、主権者ではなく、不敬罪という悪法もなくなった。僕たちの仲間だった佐藤君や山さんを襲撃して殺したヤクザ組織の犯人は天皇主義右翼を標榜する組員だったが、だからといってそれが必ずしもまるごと象徴天皇制のもたらした犯罪だと決めつけることはできない。冷静に判断をするなら、それは市民社会の外の寄せ場に突出して生じた資本主義の闇の部分を構成する闇の軍団による卑劣な暴力と認識すべきではないかと考えられるからです。

ソフトな天皇というイメージに変容する中で…

戦前の天皇制について、中国文学者で魯迅の本の翻訳者として知られる竹内好という人が、それは「げんこつ」みたいな存在だったと言っています。要するに言うことを聞かない奴をガツンガツンとぶん殴る存在だというわけです。しかしこれには注が付いていて、天皇制というのは実は右手で言うことをきかない奴を殴るけれど、他方左手でよく言うことを聞く国民の頭をなでる慈父のような機能も備えており、この2つの機能を分析しなければ、天皇制の批判はとどかないと敗戦後から遠くない時間で述べています。これは天皇制の変容について考察する際にも、とても分かりやすい比喩ではないかと思います。
象徴天皇制になって何が変わったかということについて前述しましたが、非政治的・非宗教的存在として位置付けられたことです。つまり天皇は直接的に財政や軍事に口出しできない存在、政治権力から遠ざけられた身分になったわけです。これは昭和天皇と呼ばれた裕仁(ヒロヒト)が戦前まで軍服を着た天皇だったことをふり返れば大きな変容です。戦後の象徴天皇制が、その理念にそった実体だとすれば、「げんこつ」のイメージは後景に退いたことになります。しかし昭和天皇の在位時代は、大日本帝国憲法時代の天皇制のイメージの残像を払拭するまでには至っていなかった。
天皇制のイメージが決定的に変わるのは、昭和天皇が死去し、皇太子明仁(アキヒト)が天皇に即位して以降なのです。というのは、周知のように、明仁天皇こそが平和憲法下の象徴天皇にマッチした天皇という評価というか空気が広まり、軍隊や警察の暴力というイメージが後景に遠ざかり、平和憲法下のソフトな天皇というイメージが本格的に定着する第一歩が踏み出されているからです。
ところが全く皮肉な話なのだが、まさに天皇制の変容する、その時間に重なるように、山谷の寄せ場においては、天皇制右翼の暴力により佐藤君と山さんは殺されている。僕たちは、股裂きされたようなそんな時間と状況下で、変容した天皇制の問題をどのように考え、分析し、対決していくべきかという事態に直面したのだと思う。

反安倍の人たちもナショナリズムに取り込む天皇制

問題は、天皇制の変容により、ひじょうにソフトでやさしい、国民のことを常におもんぱかる天皇というイメージが定着する中で、国家が今、具体的には安倍政権が何をしているかということです。安倍は政権に復帰以降「戦後レジームのチェンジ」というスローガンを掲げて、勝手な憲法解釈をして集団的自衛権を主張できる法案を強行採決し、日本を戦争のできる国にする基盤固めを着々としている。そして平和憲法の改正を目指しています。つまりファッショ的国家主義的な国づくりを押し進めるという蛮行を果敢に展開しているのです。
これとは対照的に天皇明仁は、震災被害地へのお見舞いや太平洋戦争の内外の犠牲者にたいする慰霊の旅を行ってきた。昨年の8・15の式典では、日本が引き起こした戦争について反省の言葉を述べた。それに対して安倍が「戦後70年談話」で日本の戦争責任について自分の言葉で語らなかった態度は多くの人から批判を浴びた。
こうした中で安倍政権に批判的な朝日・毎日・東京新聞などでは、天皇の態度を褒め称え、「安倍のような軍国主義者に陛下はひじょうに困っている」といった論調の記事が散見されるのだが、安倍政権を支持し擁護している読売やサンケイは、安倍批判はせずに、もっぱら「天皇の平和を思う心は素晴らしい!」という論調の記事を書いている。
反安倍と安倍擁護の両陣営は、一見、意見が真っ二つに割れて見えるかも知れないが、実は「天皇(制)は素晴らしい!」という点では挙国一致しています。
メディアにおいては、安倍対天皇一族の関係は、今、そういう図式で描かれている。国民の間でもそういう空気が支配的です。しかし、それは事実としてどうなのか?
例えば、天皇制には、安倍に対してやや批判的な態度を見せることで、反安倍派の人たちを全部国(ナショナリズム)の内側に取り込んでしまうという機能があるからです。天皇制というのは、そういう機能を果たしている。実はそれは安倍にとっても長い目で見れば必要なことなのです。なぜなら、両者には、日本国と天皇の侵略戦争責任を問わないという共通の思想があるからです。
戦後の日本国家は、そういう形で成立し、そういう統合形態が形成されてきた。ですから、天皇が素晴らしいなんてことは全然無いのですが、「戦後レジュームからの脱却」を宣言し、戦前の日本帝国との継承性や復権を掲げて暴走する安倍とは対比的に、明仁の言動は平和憲法に見合っているというイメージが定着しつつある。
つまり、かつて山さんたちが闘っていた時間の中で暴力化した天皇主義右翼と対決し進めてきた国家再編とはかなり違った象徴天皇制国家の在り様が現実化してきているのです。それゆえ、こういう時代の中で天皇制批判を行うことがひじょうに複雑化し難しくなってきている。すなわち、戦後の保守権力の基盤で作ってきた戦後民主主義社会の全体をガードしようという天皇(制)と、それとはズレている安倍政権、それが一見は対立しつつ協力しあっている構造的全体、そういう国家の在り様みたいなものと闘わないと、現実的な運動は展開できなくなってきているのです。これは特殊な寄せ場空間で闘わされている言語では無理ではないか。僕はそう思ってきた。
今、僕たちが直面している課題は、象徴天皇制というひじょうにあいまいなイデオロギーで民衆を国家の中へ囲い込んでいこうとしている思想と体制に対して、どのように闘っていくかということです。
天皇制をめぐる運動においては、そういう問題が、今現在の問題としてあるということです。山さんたちが運動していた時代から30年経った今の時代の中で、いろいろ見えてきた課題について改めてどういうふうに考えていくべきか。山さんたちがやれたこととやり切れなかった問題をどういうふうに乗り越えていくべきか。そんな思いもあって、こういう報告をさせていただきました。ちょうど時間となりましたので終わりにします。
(2016年1月16日 plan‐B)

追悼 相倉久人 ――― たかが風景、されどジャズ

平井玄(批評家)

ぼくは相倉さんとは、3〜4回ぐらいしか会っていないんだけれど、いつも穏やかな人だったなあという印象をもっています。ときどき眼がキラッと光る時もありましたが、公家みたいなウリザネ顔で、起きているものごとをグッと離れてみる余裕を感じました。
今日、ここに来ている人の多くはぼくより相当若い方たちだから、これからお話する「相倉久人」って一体どんな人物なんだ?という人も多いと思います。
それで、相倉久人のプロフィールを紹介する前に、まず、60年代にジャズ評論家として活躍していた頃に、彼自身が関わった出来事の映像をちょっと見てもらいます。その空気を味わってもらいたい。そこから始めましょう。

 バリケードの中の相倉さん

まずこれは当時、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)のディレクターだった田原総一郎による「ドキュメンタリー青春」というドキュメンタリー・シリーズの1本です。1969年に撮られた『バリケードの中のジャズ』と題した番組の映像です。場所は大学闘争真っ盛りの早稲田大学、学生たちが占拠する4号館の大教室で、演奏しているのは山下洋輔トリオです。最初期のメンバーで、ピアノの山下さんにテナーサックスの中村誠一さん、ドラムスの森山威男さん。山下洋輔については、強力なフリージャズのピアニストとして今も活躍している人ですので、みなさんもご存知の方が多いのではと思います。
学園祭でのコンサートというのは今ほどではないが、当時もありました。でも学生と大学側とが対立していた混乱の最中の、しかも校舎を封鎖したバリケードの中でのジャズ・コンサートというのは、大学当局にとっては挑戦的な暴挙と映ったはずです。阻止できない勢いが学生たちにあったんですね。しかもこの時、山下洋輔の弾いているピアノは大隈講堂内に置かれていたものでした。早稲田に芸術系の学部はないので、ピアノは勝手に講堂から会場に運び込んだものだった。これを企てた学生側の張本人と、ぼくは40年後に仕事仲間として偶然出会うことになるんです。
いくつもの割拠した校舎に旗を掲げて陣どる左派学生グループ間の抗争、学内統治を回復しようと焦る大学当局の監視と、授業再開に向けて右派を使った襲撃、そして所轄や公安警察の包囲網が錯綜する中で、なにが起きても不思議はない。この緊張の中でコンサートを仕掛ける学生や押しかける学生たちがいて、臆せず出演するジャズマンがいた。しかもそれを撮影してテレビに放映をしている。そういうことが可能な時代でもあったわけです。物騒な事件が絶え間なく起きる。濃厚な空気が街に漂う毎日でした。
ご覧いただいた1シーンのなかに、「誰も席を立たない、バリケードとゲバ棒の中でのジャズ。彼はジャズについて一言も語らない。ジャズとは何か? 何のために? と彼に問う学生はいない」というナレーションがありますよね。ここで「彼」と呼ばれているのが山下洋輔であり、このジャズ・コンサートのプロデユースと司会を務めた相倉久人さんでした。この政治性が過剰な空間でいっさい言語的な説明をしない。音が創り出す空間性に賭ける。ここに相倉さんの頑強な姿勢がうかがえるんですね。
相倉さんは、山下洋輔さんと濃密な付き合いをしてきたジャズ批評家だった。実はジャズについて評論する人と現実にジャズを演奏する人との関係はなかなか難しいんです。音楽家の中でもとくにジャズマンは。1980年代に、ぼくもアメリカのあるジャズマン(ジョン・ゾーンですが)から「クリティックは裏切り者だ」と面と向かって言われたことがあります。フリージャズ派は一瞬の即興的な音に賭けている。横から余計なことをガタガタ言うなっていう気持ちが強いのでしょうね。しかしジャズに憑かれた者としては、時に演奏者と敵対してでも書かなければならないことがある。そういう覚悟がいる。なまなかなことは書けない。
その点、相倉さんと山下さんの関係は特別でした。相倉さんは、山下さんら当時の若いジャズメンたちと一緒にフリー・ジャズ運動を起こした批評家です。出来上がった作品だけを事後的に批評する立場でも、離れて楽理的に語る位置でもない。演奏法やスタイルに関しては、こうしたらいいんじゃないか――といった音楽的な指導や忠告めいたことは決して言わなかった。新宿ジャズの中心的なライブハウス「ピット・イン」に出演する山下トリオの司会役をさりげなく務めるだけ。それでも山下さんに対して、演奏の場の在り方や他のミュージシャンとの間で醸し出される音楽的空間についてはつねに示唆を与えていたと思います。ジャズメンたちに溶け込んで、演奏と同じ次元にいたんです。この時代、とびきり濃いマニアや猛烈にうるさい連中が集まる新宿で、自由でありながら緊張した「空気」を創り出していた。それがそのまま批評行為であり、かつ創造行為だったんじゃないか。まだ高校生だったぼくは、同じ建物で背中合わせにあった喫茶店の裏口から、その空間に忍び込んでいたわけです(『愛と憎しみの新宿』ちくま新書)。

映画に介入する相倉さん

それではもう1本の映像。やはり1969年に制作された『略称・連続射殺魔』(監督・足立正生)というドキュメンタリー映画を紹介しましょう。ほんとうはもっとずっと長い題名で、これはそのさわりのシーンだけですが。
当時、1968年の10月から69年の4月にかけて、日本の各地で4人の互いに無関係な人たちが銃弾で撃ち殺されるという事件が起こる。「連続射殺魔」と呼ばれたその実行犯はまだ19歳の少年でした。これは「永山則夫」というその人が生まれてから辿った足跡を、列島あちこちに追ったドキュメンタリー作品です。
無念なことに20年前の1997年に処刑されてもうこの世にいない人ですが、北海道の網走、番地のない呼人(よびと)番外地で生まれました。8人兄弟の下から2番目。父親はリンゴ栽培の剪定師でした。ところが父は博打に耽って家庭は崩壊、母もいなくなり、5歳の永山は残された3人の幼い兄弟たちとともに小屋の中に遺棄されてしまう。豪雪の中で食べるものもなく、港で魚を拾いゴミを漁る生活だったといいます。やがて母が帰った青森に引き取られるんですが、行商で母親は家にいない。家族にも疎まれて、何度も家出します。どうにか中学を卒業して東京に出ても、あちこちの底辺労働をさまよう前半生でした。
そこから連続殺人を起こして逮捕されるまでのジグザグな道のりが、「主人公がいない風景をひたすら映像化する」という手法で描かれている。ほんとうに日本列島を釘で引っ掻くような動きをした。どこにも定着できないんです。40年以上たった今見ると、埃くさい道とモルタルの家が連なる60年代の地方と都市の光景がたんたんと映っているだけ。なんだかNHKの「新日本紀行」みたいに見えますよね。このことはまた後で話しましょう。
この映画の音楽監督を相倉久人さんが務めていました。ここではまた別のフリージャズ音楽家たちの演奏をサウンドトラックとして用いる。富樫雅彦さん(ドラム)と高木元輝さん(サックス)の二人でした。相倉さんが、このころ火を吹く勢いの山下トリオではなく、富樫と高木の二人を用いたのはなぜでしょうか。これがどうも、ジャズに浸りきった活動家たちには不可解だったんです。山下トリオの演奏はくっきりとしたドラマツルギーを生み出していく。アメリカのジャズとも違うんですが、メロディが異なるどんな曲でも「起承転結」みたいな構造を帯びる。半世紀近くたって聴くと、これはどこか「浪曲的」かもしれない。とにかく聴く者に猛烈なカタルシスを与えてしまう傾向があったんです。だから若くて行動的な連中に人気があった。猛烈にヤル気がでるんです。
それに対して、より生成的というか、まったく音のない時間を含んだフリーフォームというより「アンフォルメル」(無定形)な音をこの二人は生み出していました。いわば「物語性」をギリギリまで削ぎ落としている。この即物的なぶつかり合いこそ、この映画にふさわしいと相倉さんが判断したからだと思います。この選択には鋭いものがあった。むしろ映像への「介入」なんじゃないか。といえるのは、だいぶ時間がたってからでしたが。これが『連続射殺魔』ではぎ取られた空間に関わっている。
そのように、相倉さんは、「場の在り方」とか「空間の質感」というものをいつも大事に考えていたと思います。「場」が立ち上がる瞬間や都市空間と音楽についてはとてもセンシティブで、いつも神経を研ぎ澄ませていたようです。たんに黒人たちの音楽だから、そのファンキーな感覚が好きだからというのではない。気流を感じ取るセンサーが鋭く働く人でした。軽い言葉で語っても、そこには巨視的な奥行きがあった。
ところが彼は、70年代の初めあたりからジャズについて書かなくなります。これに遅れてきたジャズ餓鬼どもは驚く。その理由として、激しい即興演奏が出現する場所、聴くにふさわしい濃厚な場、「ジャズが立ち上がる密室」のような空間が失われてしまったからだ、と彼自身が書いています。街頭も大学拠点も機動隊に征圧されて動乱の時間が断ち切られる。白茶けた70年代が幕を上げるとともに、空間の濃度が拡散していったと語っています。実際に、職業的な音楽評論家である相倉さんが1年間ほとんど何も書けない時期があったんです。
その後の相倉さんは、ロックを語りはじめ、さらにもっと密度の希薄な場所にふさわしいポップな音楽の分野に分け入っていく。いわば「無重力空間」の音楽を論ずる活動を長い間行ってきました。彼自身「宇宙人」なんて自称していた。80年代以降に音楽を聴いて育った人たちには軽妙な「ポップスおじさん」として知られてきたのだと思います。

「ジャズ批評」と「映画批評」

60年代末の高校時代からジャズにのめりこんだぼくが、ジャズについて何か書くようになったのは、相倉久人と平岡正明の二人に電撃的な影響を受けたからでした。1966年ごろ、中学時代にボブ・ディランやハードロックから黒人のブルースを聴きはじめ、ソニー・ロリンズのレコードを初めて手に入れる。高校に入ると、モヒカンの先輩がサックスを持って登校してきたり、クラスには増尾好秋という当時注目を浴びたジャズ・ギタリストの弟子がいたりした。まあ「ジャズの街」新宿の真ん中に飛び込んだわけです。68年からはピットインというジャズの店に入り浸りになってしまう。そういうちょっと尖った餓鬼にとって、相倉さんはライブハウスの暗がりで遠くからその存在を仰ぎ見ていたジャズ評論家でした。
そんなこともあって、だいぶ後、90年代半ばに何かの企画で新宿の喫茶店「らんぶる」の地下で相倉さんと初めて会う機会があったときに、かつて相倉さんと平岡さんがジャズを通して緊密なタッグを組んでいた時代の話になった。なにせ、この二人の書くものに出逢わなかったら、ぼくはこんな風にドロップアウトすることもなかったかもしれない。いや、いい意味でたいへんな恩人なんです(笑)。そのあたりを知りたくて訊ねたんですが、相倉さんは例の柔和な笑顔で「いや困った奴で平岡は……」と言っただけで、あまり多くを語らなかったんですね。意外でした。たしかにジャズに固執し続けた平岡さんと別のグルーヴに向かった相倉さんは、1970年代に入ると静かに別れていったように思えるんですが、そこを聞きたかった。以来ぼくは、その時の響きが頭の片隅に残り続けてきました。
すこし解説すると、相倉さんと平岡さんが知り合って思想的なコンビを組むようになるのは、『ジャズ批評』誌が創刊される1967年のすこし前でした。ぼくは68年に新宿高校に入学したんですが、先ほど言ったように、その直後からジャズに凝りはじめ評論も読み始めていたので、当時先鋭なリトルマガジンとして注目を浴びていた『ジャズ批評』も読みかじる。中学生の時に読んだ『スイング・ジャーナル』にはもう飽き足らなくなっていたんです。「黒人音楽」が「黒人革命」なんて言葉とセットになって飛び交う時代でした。そこで相倉さんや平岡さんの存在を知り、二人に誘われてジャズの世界に足を踏み入れたといっても過言ではありません。
ですから1970年に、この二人が松田政男、足立正生、佐々木守とった人たちと「批評戦線」を結成し、雑誌『第二次・映画批評』を創刊すると、この雑誌の読者にもなる。映画雑誌と銘うっても、政治や思想、芸術を横断する総合批評誌でした。今どきの言葉でいえばエッジの利いた雑誌だった。ところが、相倉さんは『第二次・映画批評』の同人メンバーのはずなのに遂に一度も書いていないんですよ。平岡さんの書くものとは別の次元で期待していたぼくは、このことを「一体なにがあったんだろう?」と長い間にわたって気になっていた。だから相倉さんに初めて会ったときに、その疑問を発したわけなのですが、その答えがさっきの「困った奴で……」というなんとも曖昧な言葉だったのです。
相倉さんと平岡さんの間に、どんな「齟齬」(そご)があったのか。個人的な感情の問題じゃなくて、その後もアジアの政治的な革命に賭けた平岡さんと音楽の感覚的な変容に賭けた相倉さんとの間で、なにか根本的な対立が生まれていたんじゃないのか? 相倉さんは正面切ったことは何も述べませんでしたが、先に触れた70年代にジャズ評論を止めてしまった理由と繋がるものがあるように思えるんです。

音楽と風景

それは別の言葉に言い換えると、今日の話のタイトルに掲げた「たかが風景、されどジャズ」ということではないか。つまり「均質な風景とどう闘うか」という時代の到来に、相倉さんはいち早く気づき、それまでの「ジャズの形」に別れを告げたのです。一方で平岡さんは、かえってジャズ的な密度や濃度にますます没入していく。
1969年1月に大学闘争の象徴だった東大安田講堂のバリケードが権力の強圧によって破壊されるわけです。この年を跨ぐと、大きく「時の手触り」みたいなものが変化していく。そう気づくのはしばらく時間がたってからでしたが、そんな曲がり角だった。ぼくらの世代というのは、小学生時代から「三種の神器」(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)と喧伝された家電製品がだいたいどこの家にでもある。大都会だからでしょうが、そんな高度成長の時代を生きてきた。高校生になるころには、資本主義というか企業の力は一層増大し、街にどんどんビルが建って、気がついたらぼくらの生きている空間は商品によって埋め尽くされていた! 騒乱罪によって人々が一掃され、運動も解体しバラバラにされて街に一人立つと、そういう大変容に改めて気づくわけです。空気が一変している。夢から醒めたのか、それともこれそのものがまた新たな夢なのか。
生まれ育った新宿の街並みについて振り返ってみても、60年代初めまでは目抜き通りの新宿大通りでさえ8階建てのビルは戦争で焼け残った伊勢丹と三越ぐらいでした。東口駅ビルも紀伊國屋本店も建ったのは64年。ほとんどが4階か5階ぐらいのビルだったんです。その中で、相倉さんや山下洋輔さんがジャズの主戦場にしていたライブハウス「ピット・イン」は、大通りに面した洋品店の裏側にありました。つまり紀伊國屋裏の路地にあるモルタル2階建ての構えだった。ジャズ喫茶はその洋品店の2階。ブティックとかブランドショップじゃなくて、ほんとによく駅前にあった昔風の洋品店です。これが60年代までの新宿という街の質感だったわけです。
ところが50年代の朝鮮戦争、60年代のベトナム戦争の後方生産基地としてこの国が貯め込んだ富のおかげで、街の光景も大きく変容していくんです。そのことをぼくらの眼にはっきりと見せたのは、1969年に京王プラザホテルが着工されたことでした。これが新宿西口副都心計画の超高層ビル第1号でした。この国最初の超高層ビル街が出現するのは1970年代の終わりですけれど、69年はまさにその分岐点だったんです。

音の思想家

相倉さんは、70年代の後半に『機械じかけの玉手箱』(1977年)、『ロック時代〜ゆれる標的〜』(1978年)という2冊の本を書いています。『ジャズからの挨拶』(1968年)や『ジャズからの出発』(1973年)というジャズ時代の本ほど注目されず、もう忘れられていますが、ぼくは今も時々読み返すことがある。これらの中に出てくる「機械じかけ」「ゆれる標的」「大量の音」という言葉を、変容した空間を解く重要なキータームと受けとめてきました。繰り返しますが、音楽の焦点も生演奏のジャズから電気的なロックへと一気に移る。その変容の特色として挙げられるのが、エレキ・ギターに代表される電気楽器やコンピュータ制御のシンセサイザーが登場したことです。現在ではアナログシンセさえノスタルジーの対象だから、不思議な言い方に聞こえるでしょうね。つまり、人間が手や口という生身に近いところで作り出す音ではなく、機械によって複次的に加工された音が音楽のベースになってきたことを、相倉さんは「世界」のなにか重大な変化の徴候として感じ取ったんですね。そこを批評の標的にしているのです。しかもテクノロジーは刻々と進化するから、音楽は常に動き揺れているわけです。
実は3年前に、ぼくは原発労働者たちの運動に関わるんですが、その後は肝臓の病気で足が遠くなってしまった。それはともかく、その立ち上げに際して、日本で最初に原発労働者組合を作った斎藤さんという人に話を訊く機会がありました。そのとき彼がこんな話をしてくれたのでちょっと解説しながら紹介します。
「半永久的に24時間にわたって大量の排水や排気が必要な原発施設内には、無数のダクトが張りめぐらされているのですが、地震とか津波で何か事故を起きると、振動でダクトが一斉にガタガタと物凄い音を立てるんですよ。高周波の金属音が機械だらけの広くて高い天井の構内で反響し合って、何十時間も続く。それはもうとても耐えられない大量の音なんです!」。
この話が喚起するイメージは強力でした。というのも、これは究極のインダストリアルノイズ・ミュージックじゃないか。長く留まれば死にいたる真っ暗な密室で何百というダクトがガンガン音を立て続ける。それは決して原発施設内に限るものではない。ぼくたちが暮らす日常の音環境が極限まで行った姿だろうと思うわけです。こういう「大量の音」に囲まれた生活世界がだいたい1970年代前半くらいに始まったんだと思います。事実、原発立地を札束で確保する「電源三法」が成立して、原発建設が始まったのは74年です。1980年代のドイツにも「アインシュテルツェンデ・ノイバウテン」という金属ノイズによる音楽ユニットが現れました。相倉さんは革命運動の敗北や社会的な思想についてはほとんど語らない。けれども、音をめぐる人々の感覚が変わっていくことを敏感に捉えていたと思います。それも「質」ではなく「量」として摑む。そういう意味では間違いなく「音の思想家」でした。

50年後に生きる音

東日本大震災で福島原発事故が起きた2011年3月から3か月ほど経った夏のことでした。ぼくは福島の脱原発集会に参加する機会に、南相馬の福一から20キロ圏ギリギリの地点まで行ったことがあります。経産省前のテントを立てた人たちのバスに便乗して行ったわけです。放射線検知センサーが鳴る高音の中、窓から見ると、太平洋から押し寄せた津波に人間の痕跡が完全に剝ぎ取られている。浜通りの海岸に近づくほど人が誰もいない。屍体は片付けられていました。家も土台しかない。そのもう少し手前でも瓦礫のすき間に放たれた動物が見えるだけ。夏の陽に照らされて静まり返っている。そんな村里の風景がひじょうに「きれい」で、高濃度の放射能で汚染されていることも一瞬忘れてしまう。ああ、これが自然なのかなあ! と錯覚してしまうほどでした。
さきほど『略称・連続射殺魔』の映像を少しご覧いただきましたが、少年の足跡をたどった風景は一見どこも風光明媚ですよね。緑が生い茂ったのんびりとした田舎の光景に見える。少年が劣悪な環境で幼いころを過ごした網走や青森の風景からは、とても食べるものもない生活など想像もできない。実家だったバラック長屋が軒をつらねる青森の町は、原発事故後の福島浜通りの町と異様なほどよく似ている。1968年の青森板柳町と2011年の福島南相馬の間には半世紀近い時間が流れている。ビルもスーパーもコンビニも建てられた。原発こそ「風景化」の最たるものでした。そして、バブル崩壊などを経た時間には地方の衰弱が訪れていたはずですが、そんなデコレーションみたいな表皮はすべてペロリと剝がされてしまった。風景が征圧した地肌が剝き出しなっている。
『略称・連続射殺魔』は、日本列島各地に延々と永山則夫の足どりを追って、そこで眼に入る風景ばかりを撮ったドキュメンタリー映画です。最初の画面に文字で4件の犯行について事実だけが示されると、時おり永山の軌跡を簡潔に語る足立さん自身による言葉が入るだけ。生い立ちや背景を説明的に描くことも、それに対する擁護や告発を示唆する映像はなにもない。人間を語る「社会派ドキュメント」じゃないんです。永山が見ただろう風景だけを、いわば永山の眼になったように撮る。
「風景映画」じゃなくて「風景論映画」と制作者たちが呼んでいたように、観る者に「この1969年の光景をオマエはどう見るんだ?」と問いかけてくる映画なんです。軌跡というくらいだから、永山の流浪とともに動く列車がやたらと出てくる。今の鉄男くんたちには半世紀近く前の「お宝映像」かもしれない。句読点みたいに「青空をバックにした大輪のヒマワリ」がこちらを見つめるんです。そんな明るい場面ばかりです。アルジェリアで育ったフランスの作家アルベール・カミユを思う人もいるでしょうが、足立さん特有のユーモアにも見えてしまう。
観る者の心象を引っ張るのは、むしろ富樫雅彦のドラムスと高木元輝のソプラノサックスなんです。この音はとても密度が濃いが、同時にカラカラに乾いている。引きつけられるのは、一音一音がのどかな画面を切り裂くような演奏をしているからです。一見穏やかにしか見えない、幼い永山や兄弟たちが置き去りにされた呼人番外地の路地が映るんです。捨てられた魚の粗やゴミ箱の食い残しをあさっていた永山兄弟の眼差しのように、ドラムやサックスの音が刺さる。永山則夫を想像しながら即興演奏したものでした。
その物質的な喚起力がすごい。なんの「起承転結」もない。ただ音がズンズン立っている。もう聴く者たち、つまりバリケードを積み上げて石を投げ、あげく何度も何度も催涙ガスの中で機動隊に殴られていきり立った「オレたち」です。頭に血が上った若造どもの下腹から突き上げてくる「怒り」なんかじゃどうしようもない時代が来ている。大学生や都心の高校生であるオレたちとは全然違う道をたどって、この日本列島をのたうち回るように生きた人間が、そう遠くないところに収監されているわけです。
撮られてから映画は7年間にわたって封印され、1975年にやっと公開されます。それは反日武装戦線の年でした。その間に時代の気流は激変する。この間、私たちが触れられたのはこの二人による映画音楽だけでした。『ISOLATION』として作品化された音と、そして足立正生、松田政男、平岡正明らによる言葉が、妄想を膨らませていく日々があったんですね。山下洋輔トリオのドラマツルギー過剰な音、そして富樫+高木のドラマツルギーを拒否する音。この両者をぶつかり合わせるその先に、なにか突破口を見るというか、聴こうとしたんじゃなか?
これらの音楽は半世紀たった今こそ生きています。これらを同時に出現させ、衝突させた媒介こそが私にとって「相倉久人」でした。

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相倉さんは、70年代初頭に「ジャズ評論家」という仕事を降りてしまいましたが、「ジャズ的な世界との付き合い方」と決別してしまったわけではなかったと思います。亡くなったすぐ後に、『されどスウィング―相倉久人自選集―』という本が出版されていることでもわかるように、彼はやはり「ジャズの人」だったのです。と言ってしまうとちょっと薄っぺらになりかねないので、こう言い換えましょう。
ジャズは言葉も祈りもすべて根こそぎにされた人々が、「敵」の音、楽器、方法を身につける中から、身を揺るがせる力を生み出す方法でした。そう「スウィング」ですね。それは形を千万変化させてきた。相倉さんは、変貌する「ジャズ」と呼ばれた音の歴史の中に、つねに人間の「正史」とは別の方法、別の形、別の生の軌跡を追い求め、それを自らの生き方の中に組み込んで生きたのです。
(2015年11月14日、プランB)

下層のアナキズム――「米騒動」と大杉栄

栗原康 (大学非常勤講師・アナキズム研究)

 

❖「誰からも支配されない」という思想

栗原康です。最初に簡単な自己紹介をします。

この 8 月と 9 月はなにもしなかったので無職だったんですけど、ふだんは大学で週 1 回非常勤講師 をやっています。それだけでは食べられないので、週に 2 回塾で先生もしています。それでもまだ食 べていけないのですが、幸いにも実家に住んでいて、父親の年金で暮らしているというのが実情です。 今、ぼくは 36 歳になるのですが、36 歳で早くも年金生活者というわけです(笑)。でも、ぼくみたい な人間が最近増えているみたいで、こういう講演を、ぼくと同じぐらいか、ちょっと年下の若い人た ちのまえで行うとき、「ぼくは年金生活者です」と自己紹介すると、「おれも、おれも」と声を上げる 人が 50 人中 10 人くらいいるんですね(笑)。それで、「あゝそれが一般化しているのかなあ…」とお もったりします。

まあ、ぼくの場合は、実家で親の年金で暮らしているので恵まれているのでしょうが、そういう援 護も受けられず、非正規労働やフリーターとして働いていてひどい状態で暮らしている若い人たちが 増えているんですね。そういう下層が拡がっているのです。

今日は機会をいただきましたので、「下層のアナキズム」というテーマで、大正時代のアナキスト・ 大杉栄の<暴動論>についてお話したいとおもいます。

まず、アナキズムとは、どんな思想かということですが、ぼく流の簡単な定義をすると、「誰からも 支配されない」そういう状態・社会を目指していこう、という思想です。もうすこしわかりやすい言 い方をすると、「やりたいことしかやりたくない」そういう思想と生き方です。

大杉栄という人は、まさにそういうアナキストだった。

ぼくは、実は趣味が詩吟なんですね。ちょっと自分自身のテンションをやわらげようとおもうとき、 詩吟をします。ぼくの好きな歌があるので、それをご紹介します。

〽身を捨つる捨つる心を捨てつれば 思いなき世に墨染の袖

今、吟じたのは鎌倉時代の捨聖(すてひじり)と尊称された一遍上人さんの歌です。「墨染めの袖」 というのは、僧衣の袖のことで、捨聖の心境を詠んだ歌です。

ぼく流に援用すると、墨染めというのは真っ黒のことで、黒という色は他の色に絶対に染まらない 色ですよね。黒はアナキズムの旗の色です。この黒という色には「誰にも支配されたくない。やりた いことだけしかやりたくない」というアナキズムの思想と生き方が象徴されているのです。

❖カネ・カネ・カネという時代の到来と下層の増大

先ほど皆さんとみた、映画『山谷―やられたらやりかえせ』には、山谷の下層労働者たちの暴動が 生々しく活写されていて、たぶん皆さんもそうだったとおもいますが、ぼくも、その暴動のシーンに 熱い共感を覚えました。

これからご紹介する大杉栄の暴動論は、彼が 33 歳の時に目撃した 1918 年の「米騒動」によって具 体的なイメージがかたちづくられたと見られています。この米騒動については、皆さんも歴史の教科 で学んでご存知のこととおもいますが、同年 7 月 22 日、米価の高騰に激怒して立ち上がった富山県 魚津町の主婦たちの行動に端を発し、燎原の火のように全国各地に拡がった暴動で、参加延べ人数は

1 千万人と言われています。当時の日本の人口は 6 千万人でしたから、実に日本人の 6 分の 1 の人び とが蜂起しているという規模で、日本最大の暴動と言われてきました。

では、米騒動はなぜ起きたのか?きっかけは 1917 年から 18 年にかけて米の価格がめちゃくちゃに 高騰したことでした。問題はこの時期に米価がなぜ高騰したのか?という理由です。第 1 は明治から 大正にかけて資本主義が発展して工業化・都市化が加速的に進み、その頃まで 8 割位を占めていた農 業人口がどんどん減少したことでした。それにより米の生産も減少したのです。ところが、そういう 現象に反比例して日本人の米食需要が増大しているのです。これが第 2 の理由です。この点について は説明が必要でしょう。

日本人の主食は米と言われていますが、実はそれは嘘です。江戸時代までの庶民は、米ではなく粟 や稗を主食にしていたのです。米は年貢として作られていたもので、庶民の口には通常入らなかった。 米が主食として食べられるようになるのは、明治に入って洋食が普及するようになって以降のことで、 明治後半から大正前期にかけカレーライスやトンカツといった和風洋食の普及にともない白米のご飯 が庶民の主食として一般化するようになったのです。日本の食文化が大きく変わったという側面に留 意する必要があります。

つまり、工業化の促進と和風洋食の発展により、米の需要と供給のバランスが崩れ、米不足と米価 高騰をもたらし、米騒動が起きているのです。

もう 1 つ理由を挙げると、1918 年にロシア革命が起き、日本軍がシベリアへ出兵することになり、 軍に対して大量の米を供給しなければならなくなった事態も見逃せません。

しかし、米騒動が起きた要因がたんに米の価格が高騰したことに対する人びとの不満が暴発しただ けととらえるのは表層的な見方です。

工業化・都市化が進み、和風洋食文化が普及するようになったということは、工場や会社勤めをし て賃金を得て生活する人びとが増え、それにともない消費文化が形成され発展したということでした。 要するに、カネを稼いでモノを買い、暮らしていくという資本主義のライフスタイルを身に着けた市 民が形成され、そういう市民規範が、1920 年代になると定着してきたことを物語っています。つまり、 カネ・カネ・カネという時代が到来し、カネを稼ぐために生きなければならない、そんな市民規範が 定着するわけです。けれども、そんな市民規範の網の目から漏れた人びと、つまりカネが稼げない者 は落ちこぼれ、ダメな人間として位置付けられてしまいます。そういう下層も増大します。この下層 が 1918 年の米騒動を引き起こす深層の要因だったのです。

❖大杉栄が見た「米騒動」

大杉栄は、1918 年 8 月、大阪・釜ヶ崎界隈で米騒動を目撃しています。彼は著名な社会主義者と して東京を拠点に活動していたのですが、その頃きわめて困窮していたため、パートナーの伊藤野枝 の郷里である九州・福岡に身を寄せる旅に出ていたのですが、その帰路に大阪に立ち寄り、たまたま 米騒動に遭遇したのであって、この大暴動を引き起こそうと駆け付けたわけではなかった。各地に米 騒動の火の手が上がると、首都東京在住の大杉栄の仲間たちの社会主義者、アナキストたちはかたっ ぱしから危険人物として警察に予防拘束されていたのですが、大杉は幸いにも免れ、大阪で米騒動を 目撃することができたのです。

当時、社会主義者の巨魁として官憲から厳しくマークされていた大杉栄には、都落ちした旅先にも 尾行がつけられていたので、米騒動に参加することはできなかったから、野次馬として見物するしか なかったですが、その見聞に大杉栄は大いに興奮し「愉快、愉快!」と面白がり、「すっかり浮かれて いた」と、連れ添った仲間たちが伝えている。

実際、大阪の米騒動はもの凄いものだった。主婦たちを交えた群衆が米屋に押し入り、店主をつる し上げて廉売所を設けさせ、自分たちで勝手に値段を設定して販売させたり、米屋が言うことを聞か

なければ、米を略奪する者も現れたし、聞き入れない店主の米屋を投石して打ち壊したり焼き討ちす るといった事件も起きた。消防活動にあたっていた消防ホースを日本刀で切断したり、市外電車の線 路に丸太棒を置いて止めてしまったり、米屋以外の商店のショーウインドーや不在の交番を打ち壊し た。竹槍隊まで出現した。大阪の米騒動参加者は約 60 万人、騒動の発生地点は 500 ヶ所ともいわれ る。暴動に加わる群衆の数があまりにも多すぎて警察もお手上げ状態となり、遂に陸軍1個師団が投 入され鎮圧にあたっている。大阪の米騒動では、死者2人、重傷者9人、軽傷者 370 人、逮捕者 2300 人という記録が残されている。完全な騒乱状態だったわけです。

大杉栄の目撃した大阪の米騒動は、暴動がピークを迎える 1 日前の 1 日だけで、つまりほんの束の 間の体験だったのだけれど、そんな時間帯のなかで暴動に参加するため街中をもの凄い勢いで駆け巡 っていた勇敢な主婦たちに「××町の米屋でも今こんな騒ぎが起きているぞ」と扇動したり、市内の 新聞社を回って「今、釜ヶ崎で大暴動が起きているぞ」といったデマゴーグ的な情報を流している。

大杉栄にとって、大阪の米騒動はすごく重要な体験だったようで、その後の労働運動に関わってい くうえで大きな影響を与えているのですが、その体験に関しての著述は意外なことにほとんど残して いない。理由としては、大阪から帰京すると待ち構えられていたようにすぐに予防拘束され、全国的 な展開された米騒動が沈静化したため 6 日後に拘束を解除されるということもあって、その件に関し ての言動に注意を払っていたからではないかと考えられています。わずかに官憲側の資料(内務省警 保局「大杉栄の経歴及言動調査報告書」)のなかに、大杉が大阪から帰るまえに仲間たちに語ったとさ れる次のような言葉が残されているので紹介します。<自分は今回の暴動事件を目撃して、社会状態 はますます吾人の理想に近づきつつあると信ず。しかし今日の勢いをもって進めば、後幾年を経ずし て意外の好結果を来たらすかも計り難し。政府も今度ばかりは少々目を醒ましたるらん。貧者の叫び、 労働者の狂い、団結の力、民衆の声、嗚呼愉快なり。>

❖「ガラガラ・バラバラ・ドシン」

しかし、 ぼくが大杉栄の著作の中から見つけた、大杉栄の米騒動についての所感は、「一言で言 えば、ガラガラ・バラバラ・ドシンという印象だよ」といったはなはだ大思想家にふさわしくない表 現だった(笑)。大杉栄は、その言葉、表現で、一体何を言わんとしているのでしょうか?ぼくは次の ように解読しました。

米騒動という未曽有の大暴動が起きた要因は、先ほども指摘しましたけれど、たんに米の値段が高 騰したことに対する怒りの抗議からだけだったとはおもえません。では、他の要因とは何だったのか? この点も前述しましたが、それはこの時代になると日本人の暮らし向きが完全に資本主義経済(端的 に言えば、金を稼げ、稼いだ金で消費しろ!という市民規範)に律していかなければやっていけなく なるという社会が形成されているのですが、その網の目から漏れた下層の人びとにとっては、そんな 資本主義的なライフスタイルや市民規範などは無縁なものであったから、形式だけの押し付けに対し ては息苦しさを感じ、反発もあったにちがいない。そんなマグマが米騒動という形でブチ切れたのだ。 大杉栄は、そのように考えていたのです。

要するに米騒動という暴動で、下層の人びとが何を訴えたかったのかと言えば、資本主義のライフ スタイルや市民規範で律しられるような生き方ではない、もっと別な生き方があっていいのではない か、そんな生き方もあるのだということを示したかったのだろう。群衆がショーウインドーを叩き割 ったり、主婦たちが米屋に押し入って勝手に米の値段を決め、廉売所を設けたり、群衆が米屋の焼き 討ちをするといった暴動に走ったのは、労働者として賃金をもらい、消費者として生きる、そういう 市民規範を一度完全にブチ壊し、市民としての自分を捨て去り、ゼロになり、そして別の生き方をや っていくんだ、という意思表示だったというのです。大杉栄が米騒動の所感を「ガラガラ・バラバラ・ ドシン」という表現で評したのにはそんな意味が込められていたのだとおもいます。

そしてこんなことも言っています。暴動というのは酔っ払った時のような感覚かも知れない。それ は一時的なものかも知れない。だが、その酔い心地、酔うことが自分にも出来たという感覚は手放さ ないようにしよう。そして時が訪れたら先ずは酔っ払え!と。

こういう大杉栄のもの言いは、知識人の革命論といった類のものではない。ものすごく庶民感覚や 気持ちを掴んだ言葉であり、思想だった。何でかと言うと、大正期まで、いや昭和に入ってからも、 長屋で暮らしていたような下層の庶民たちには、食べものを分け合ったり、味噌や醤油の貸し借りを したり、隣近所の子どもの面倒を気軽にみたり……といったお互いに助け合って暮らしていくコミュ ニティがまだ存在したからです。だが、社会の趨勢は繰り返し指摘したように、カネを稼ぎ、消費す るというライフスタイルが急速に形成され、それが市民規範とされる社会へと雪崩を打つように変容 していくわけです。その波に乗り損ねた下層の人びとにとって、そんな社会は息苦しく、ムカつくも のだったに違いない。そこに暴動の起きる火種があるのだ。大杉栄は、そう確信していたのである。

❖暴動は下層労働者の自己表現だ!

大杉栄は、大正時代に活躍したアナキストの思想家ですが、暴動論は現代でも十分通用する思想で す。先ほど皆さんとみた『山谷―やられたらやりかえせ』は 1980 年代に制作されたドキュメンタリ ー映画ですが、60 年末から 70 年代にかけ山谷・釜ヶ崎で日雇労働者の労働運動を指導した伝説の活 動家・船本洲治さんという人物がいるのですけれども、彼は「暴動は下層労働者の自己表現なのだ!」 と定義しています。これはまさに大杉栄の思想を引き継ぎ、さらに一歩前進させた思想といえるでし ょう。

船本洲治が対象として規定している下層労働者というのは、映画の中に登場していた日雇労働者や 当時の用語でいうルンペン・プロレタリアート、現代ならフリーターや野宿者たちなんですね。暴動 は、そういう彼らの自己表現なのだと言っているのです。これはその時代にあってはとても画期的な 思想だった。

それはなぜかと言えば、当時山谷や釜ヶ崎では、年間何件も暴動が起きていたのですが、左翼の人 たちは極めて無関心だったり、「連中はただ暴れまわっているだけ」と否定的な意見が多かったからで す。社会党や共産党などの左翼政党も、日雇労働者ら下層労働者が組織化されていなかったことや、 毎日酒を浴びるように飲む自堕落な人が多いという理由から、まともに支援をしていませんでした。 そういう状況の中で船本洲治は、下層労働者の暴動を「彼らの自己表現」と、極めてポジティブに位 置付けたのです。

大杉栄と船本洲治に共通する点は、 従来、一般社会からだけではなく、革新を標榜する左翼陣営 からも、三流市民などと低く見做されてきた下層労働者に対して、「市民のカラや市民規範など全部ブ チ壊していいんだ!」と呼びかけていることです。そして「下層労働者であることに開き直ろう」と も言っている。これは下層として下に見られるのではなく、自分から下層に落ちて行け、という考え 方です。ぼくのちょっと好きな言葉で言うと「自己野蛮性」を獲得せよということになりますし、開 き直った言い方をするなら『水滸伝』の主人公のように山賊になろう!ということです。

ぼくたちは今、山谷化・釜ヶ崎化があまねく一般社会に拡がっているという危機的な情況の中に生 きているようにおもいます。それゆえぼくら自身も暴動を必要としているのかも知れません。暴動と いうものをたんに物を打ち壊す行動と捉えるのではなく、これまでとは別の生き方を探し求めていく ために暴れて生きること、そういう生き方も広い意味での暴動ではないかとおもいます。

結論は、「暴れる力を取り戻せ!」、こんなところで終わらせていただきます。

(2015・9・26 プランB)

「弾はまだ残っとるがよ、一発残っとるがよ」 追悼・菅原文太

藤山顕一郎(映画監督)

司会 昨年の11月に菅原文太さんがお亡くなりになりました。いろいろマスコミでもやっていますが、僕らの世代では『仁義なき戦い』などを観ています。そして、菅原文太さんがいろんな活動をしていたことを見たり聞いたりしておりました。そこで、その『仁義なき戦い』をはじめとして菅原文太さんと公私ともに懇意にしていました映画監督の藤山顕一郎さんに菅原文太さんのことを話していただきたいと思います。映画だけではなくて、まあ1970年代ですから、どこでも運動というか闘争が起こってまして。そういうことに対して菅原文太さんも相当想いを寄せてくれたと。それがまあ、『仁義なき戦い』の中での名セリフ「山守さん、弾はまだ残ってるぜよ」を使った沖縄での言葉になったんじゃないか。紹介します、映画監督の藤山顕一郎さんです。よろしくお願いします。

僕がカチンコを打つ。まさにその後、あのセリフが…

藤山 寒い中たくさんお集まり頂きまして、それから菅原文太さん追悼というような意味も含めてこういう会を開いて頂いたことに感謝致します。ありがとうございます。今日いろんなことをお話させて頂きたいと思います。『仁義なき戦い』シリーズを撮影している最中に東京撮影所で東制労闘争というのがありまして。その頃に東京撮影所に支援のために来た後、ゴールデン街で文ちゃんと、菅原さんと一緒に呑みました。その時、ジュリーの「時の過ぎゆくままで」、これをバックに二人でもう狂ったように踊ったのを覚えてます。様々な思い出が……彼が亡くなる直前、沖縄で言われた「弾はまだ残っとるがよ」というセリフを、セットで撮影している時に言うわけです。山守役の金子信雄さんを前に置いて。その時、僕はカチンコを打っていました。まさに僕のカチンコの後にあのセリフが出てきたわけです。その同じセリフを、沖縄での彼の最後の舞台となった演説を聞きまして。僕はもう総毛立ってというか、本当に感動しました。そして亡くなった後、本当に悲しく思いました。健さんとも若干の関係がありました。仕事もしたことがあったんですけれども、その10日後くらいですか。訃報を聞いて来るべきものが来たなということだけではなく、様々なところで政治的な意味も含めて様々な共闘関係がありましたので、残念でなりませんでした。
そして、この3日前の3.11の日に文太さんの偲ぶ会をやったと、インターネット、フェイスブックで流れていまして。ちょっとビックリしました。そこには松方弘樹さんなど数人の俳優が来て、まあ良い会だったということだったんですが、たった170名、そしてその主催者が岡田裕介東映会長ということなんで、非常に怒り心頭に達しまして。夜だったんですが、岡田会長に電話をしましたがつながらなかったんです。
翌日、菅原文子さん、奥さんとお話することが出来ましたが、ちゃんと関係者に伝わっていないんだと。彼女もその会から招かれて行ったようなんですが。私としては、はっきりは言いませんでしたけれど、不本意でした。文太さんの遺志から言っても170名でコソコソとやるようなものではないわけです。彼の政治的、意識的……最終段階における見事にまで研ぎ澄まされた政治性。偲ぶ会をやるんであれば、それは今起こるべく、あるいは引き継がれるべき運動として、やっていかなきゃいけないと思いますし。僕は仲間とも話し合って、別の偲ぶ会を行いたい。そういう運動を起こしていきたいと思ってます。その時には皆さん、ご協力下さい。
司会 菅原文太さんの沖縄でのあの演説を、インターネットの映像で見て、元気そうな感じだったんですけども。「弾はまだ残っとるがよ」と。「一発残っとるがよ」と。『仁義なき戦い』の第1作目ですね。その最後のシーンであの金子信雄演ずる山守に対して言う。金子さんも役者として素晴らしかったんですね。つまり、ずるがしこい山守の姿がもうどうしようもないっていうような演技。昔はオールナイトかなんかで観たんですが、このあいだ、もう一度DVDを借りてきて観ました。それで1作目を観たらズルズルズルと全部シリーズを観てしまいました。おまけに『まむしの兄弟』シリーズも観まして。『現代やくざ』シリーズも観たかったんですけども、ビデオ屋さんにあまり置いてないんですね。前に、「勝新太郎とドキュメンタリー」というテーマで境誠一さんという編集者に話してもらったんですが、勝新太郎とはまた違った形で、菅原文太は面白いと思ったんですけど。

東制労闘争へのカンパの話――菅原文太と若山富三郎

藤山 勝さんが麻薬で捕まってハワイにいる時に、つまり日本に帰れなかった頃に、ちょうど僕はロサンゼルスにおりまして。日本には帰れないけれども本土には行けるんですね。で、ロサンゼルスで会いました。彼は麻雀がしたくてしょうがなくて、ロサンゼルスに来たんです。僕は麻雀はしないんですが。フジテレビのKさんっていう方がロサンゼルスの現地放送局の社長をしてまして、一緒にお会いした時に、眼の見えないのゴルファーの話なんだけど一緒に書いてくれないか、というんで拉致されました。100ドル札をボンボンボンボンとこうだんだん積み重ねていって。これでちょっと書いてくれっていうんで、結局3ヵ月間ホノルルで彼のマンションの隣に、彼のお付きと一緒にいました。
文太さんと似ているところは、そうはないです。むしろ兄貴の若山富三郎さんの方が……。東制労闘争の時の話です。『Gメン75』とかのテレビ番組を作っていた東京制作所というところで契約労働者の組合結成をめぐって労働者が解雇され、それに対して組合結成と同時にストライキを打つ。まあそういう闘いがありました。その解雇された中には、のちに『釣りバカ日誌』の漫画原作者となる、助監督のやまさき十三や、呉徳洙(オ・ドクス)という在日朝鮮人の監督でいろいろ賞を取った人達がいました。その闘争は、生産点実力闘争という形で行われたんです。それを支援する社員グループの中に、当時『さそり』の監督していた伊藤俊也さん、今は監督になっていますが、助監督の澤井信一郎さん、小平裕さんなどがいました。京都は、僕も一時委員長であったりはしたんですけれども、共産党が執行部を握っていました。東映グループでは、全東映労連というのがありまして。全東映労連の中央執行委員会、執行部というのはある党派の皆さんだったわけです。それで、その全東映中執の方針というのが、解雇撤回の裁判闘争をやれということでした。僕達は生産点実力闘争、ストライキと大衆運動でその局面を打開していく。解雇撤回させていく。まあそういう方針でやっていましたので、三つ巴の闘いがそこにはあったわけです。ちょうど72年から78年までです。
それで、その時にいろいろカンパを求めていくわけです。文太さんはいつも、こちらがお願いしますと言えば、何万とか何十万ではなかったですけど、まあ1万円とかをカンパしてくれたわけです。それで同じような趣旨で若山さんの部屋へ行くと、「おい、文太はいくら出したんだ」と。それで1万って言ったら2万出してくれる。これもエピソードですけれど、たまたま千葉真一に出会いまして。千葉真一は2000円しか出してくれませんでした。そんなこともありました。
また勝さんに戻しますと。勝さんは本当にもういろいろエピソードがある、まあ豪快と言いますか。それでホノルルで3ヵ月経ってシノプシスが出来た。勝さんと若いガールフレンド――奥さんもごぞんじのことでしたから、言ってもいいでしょうが――それとお付きのK君と僕と4人で、僕が借りてた白いジープでしょっちゅうノースショアの方とか北の方に行って、バーベキューとか贅沢三昧をしていました。ところが、3ヵ月経った時に、勝さんが「やっぱり日本に帰る」とこう言い出して。それで日本に帰って裁判を受けて、有罪になったわけです。

「太秦妖蛇城」といわれた東映京都撮影所へ

菅原文太さんとは、『まむしの兄弟』の時に、71年だったと思うんですけど、僕は初めて仕事を一緒にしました。凄い人でした、最初から。僕は当事、度付きのサングラスを、色メガネをかけていて小難しい事ばっかり言ってました。藤純子さんなんかには「何あれ」とか、もう無愛想だったし。70年入社で、60年代学生運動から逃げ出したという、まあ逃げ出しました、はっきり言って。それで東映に入ったわけです。で、「全学連が来た」と言われてて。無愛想でどうにも鼻持ちならない奴だったんですけれども。文太さんはなぜか僕にやさしくしてくれました。それと、中島貞夫さんも書いてますけど『家畜人ヤプー』っていう小説について、マゾヒスティックな話だし、暗い話なのであまり人が話題にしたがらないような頃に、「こんな面白い話があるんだけど、どうだ」なんていう話をされたりしました。その後も様々な個人的な関係があるんですけれど。
文太さんは、深作欣二さんというよりは中島貞夫であり、さらに鈴木則文、後の『トラック野郎』の監督の鈴木コウフンさんの方がむしろ仲が良くって。あの現場ですぐ興奮してギャギャギャギャ言うんで、僕らはコウフンさんと呼んでました。それから天尾完次さんという非常に優秀なプロデューサーがおりまして。これは当時、岡田茂、俊藤浩滋という大プロデューサーがいる中で、唯一オリジナルの石井輝男のまあエロ映画――「くノ一」シリーズだとか様々な映画をつくったプロデューサーです(当時東映京都の労働組合がエロ映画反対闘争なんていうのをやったんですが、その標的にされました)。菅原文太、鈴木則文、天尾完次。彼ら3人は昭和8年生まれの酉年生まれなんですね。これが仲良くって。僕はその一回り下の酉年。酉年4人組がよく一緒に酒を呑んだっていうようなことがありました。
その頃、深尾道典という先輩の助監督が東映京都撮影所のことを「太秦妖蛇城」というふうに呼んだ、まあ魑魅魍魎どころか、とんでもない恐い所でした。俳優さんはみんな行くのを恐がりました、特に女優さんは。それくらいいろいろある所でした。で、ヤクザ映画の全盛期の頃にはマキノ雅広さん、加藤泰さん、田坂具隆さんなど大先輩が闊歩していまして。高倉健さん、その前は錦之介さん、東千代之介さん。山の御大、海の御大と言った大河内伝次郎さん。大スター達が闊歩する、そういう撮影所で、独特だったとみんなが言います。それは東撮とも違うし、松竹大船とも、あるいは松竹太秦とも大映東京とも京都とも、全く違う撮影所だった。文太さんもそこに1967年に来られたわけですから、さぞ心細い思いをされたんじゃないかと思います。前の松竹では散々干されていたわけで、そこで知り合った鈴木コウフンさんと仲良くなった。その後『トラック野郎』で再会してヒットを飛ばすわけです。なんか必然的なような気がします。その理由をうんぬんするには『仁義なき戦い』からの新たな状況の転換があるわけですけれども。

ものを言うスター、それは文太さんが初めてじゃないか

司会 ちょっとお聞きしたいんですが、菅原文太さんがその『家畜人ヤプー』に興味を示していたというんですが、そういうものに対する役者っていうんですか、、あるいは表現者っていうんですか、その姿勢と、晩年の政治的な対応、時の権力に批判的な対応をとっていく、その整合性っていうのはあるんでしょうか。ちょっと曖昧模糊とした質問になっちゃうんですが。
藤山 彼は、役者である自分とスターである自分をはっきり分けて考えていたと思います。東北から出て来て、それでファッションモデルをしたり、とにかく食うため、役者になったのも食うためだという。これは当時の健さんなんかもそうですが、こう非常に高邁な思想で演技することに目覚めたとか、そんなことではなく、あの時代背景の中で俳優という職業を選んだということだと思うんです。実際、そういうふうに本人達も言ってました。そういうことで言うと、勝さんとか若山さんとか、あるいは錦之介さんとは全く違うわけです。錦之介さんの場合は、僕は『柳生一族の陰謀』というので初めて仕事をしたんですが、まあ生まれながらにして俳優ということです。そこで思うんですが、スターっていうのは、スターの役割というのは両刃の刃であって、石原裕次郎や勝さんが果たした役割というのを政治状況やそういった社会の秩序の中で、権力の側、支配者の側に使われる場合の方が多いんです。そうでない立場は、意外とつい最近までなかった。
アメリカや欧米なんかの場合は、ピーター・フォンダや、ジェーン・フォンダあるいはビートルズであっても、この世の中をいい方向に少しはもっていくことが出来るんだというようなことでやったスターがいました。実際に物凄いギャラを取ってますし、それを力に変換する形で運動に寄与できるという。ベトナム戦争の歴史からみても、現在もいろんなところで活躍するスターがいますね。ところが日本のスターにはそういうことはなかったわけです。ほとんどどころか全然なかった。それで今、ジュリーであり、菅原文太さんであり、吉永小百合さんであり、ものを言うと。で、世の中の大きな流れに対して、スターが自分の立場はどっちだというふうにはっきり言う、それは菅原文太さんが初めてじゃないかなあ。今は山本太郎が、といっても彼は本当の意味でスターだったというと、そうじゃないので。そういうことで言えば菅原文太は初めてのスターで……。

アウトローは影の部分でこそよく映える

司会 藤山さんは東映を辞めて海外に行くわけですね。そこでアメリカで、『仁義なき戦い』などの深作欣二監督に対しては、『パルプ・フィクション』をつくった監督のタランティーノなどはすごく買ってるわけですね。アメリカ人にとって『仁義なき戦い』みたいな実録もの、ヤクザものに対してどうなんでしょうか。もちろん、この『山谷-やられたらやりかえせ』の監督二人がヤクザに殺されてるんで、ヤクザに対しては、本質的には僕は大嫌いなんですけど。ただ、そういった映画における情念というか、そういうものはアメリカではどうなんですかねえ。
藤山 やっぱりアウトローを描くというのが、もともと西部劇からしてそうですから。人物本人もですけど背景が重要になってくるわけですね。僕はタランティーノと実際に『キル・ビル』の現場でお会いしたり、それから一緒に食事をしたり。深作一家っていうんで、僕は非常に歓待されましたね。文ちゃんの話も出ました。サム・ペキンパーあるいはタランティーノは深作さんを非常に評価してる。
アメリカ映画の現場的なことで言えば、ワンシーン・ワンカットで、ずうっと、タランティーノでもそうです。ワンシーンを回してタイトショットを刻んでいく。深作欣二監督で僕達が初めてハリウッドと合作でやった『復活の日』という映画。角川映画だったんですけれども、資本は全部日本が出して、当時のお金で28億円という予算でした。カナダのトロントにセットを建ててやったんですけど、その時に、深作さんは日本のシステムだから日本の形でやりたいっていうんで、カットをかけるんですね。芝居の途中で。あるいはアクションの途中でもカットをかけるわけです。そうすると、アメリカのグレン・フォード、ロバート・ボーン、チャック・コナーズ、オリビア・ハッセーなどのハリウッドの大スター達はカットをかけられると、それはもう「俺の芝居は悪いのか」と。リズムを切っちゃうっていうことで、物凄く嫌われるというか。特にボー・スベンソンという準主役の、ハリウッドでもうるさ型で知られる男がもう食って掛かってきて。それで現場が混乱して、木村大作というキャメラマンは「これは日本の映画なんだから、日本の資本なんだから」ということで喧嘩を売るような形になって。大変な騒ぎになったこともあるんです。
そういうことを知っていたのかもしれませんが、タランティーノは「それでいいんだ」って言うんですけどね。ハリウッドの有名なギャングの映画はたくさんあるわけですけども、例えばコッポラの『ゴッド・ファーザー』。ああいう映画と対比して『仁義なき戦い』シリーズは、どちらかといえばサム・ペキンパーの方に近いわけです。だからといって相対するような関係性もない。やっぱり、映画はアウトローであったり、太陽の下でその光を燦々と浴びるように現象されたものよりは、影の部分にした方がよく見えるというような表現の方法なんじゃないかなと思います。
菅原文太さんは、そういう意味で言うと『仁義なき戦い』シリーズでのあれほどの迫力を、持って生まれた暗さと言いますか、それを逆に武器にして出す。また、チンピラヤクザが闇から闇に葬られていくということを表に出していって、世の中の矛盾を突いていく。そして成田三樹夫さんや金子さん、遠藤太津朗さんなどの役者群が見事に演じる、まあ本当のワル。そのワルに対してダメでも狂犬のようにかかっていく。それは、必ずしもいい方に闘っていくわけじゃないですね。しかも『北陸代理戦争』では、文ちゃんはこれを拒否したんです。実際にヤクザがたくさん亡くなっているわけです。で、そういう実録ものというのはもうネタがない。事実を忠実になぞっていくようなものは映画とは言わないわけですから。まあネタがなくなって笠原和夫さんという脚本家を使ったことも大ヒットにつながったんですけども。最後は高田宏治という脚本家になって。実録路線というのは衰えていく。

『仁義なき戦い』から『県警対組織暴力』、そして『トラック野郎』へ

深作さんというのはドラマトゥルギーに関しても、あるいは人物設定にしても本当に凝る。脚本段階で何人かの脚本家と一緒に書くというか、いろんな案を出します。すると、その時の彼のスタイルとしてはホワイ、なぜ。ホワイ、なぜです。例えば、僕あるいは神波史男さんという脚本家がずっとスジを、ストーリーを話していくんですが、途中でホワイ、ホワイと言われると完結していかないんですね。脱線するんです。脱線を楽しんでるふうが非常にありまして。だから脚本になった段階では、かなり完成度が高い。そういう深作さんだったんですけど、5本目になる『完結篇』では、もう嫌になっちゃってたんですね。それでその後『ガルシアの首』ていう映画があった頃に、『新仁義なき戦い・組長の首』がつくられるわけです。そして『県警対組織暴力』になっていきます。『県警対組織暴力』にいたってはデカでありながら、そのヤクザの上前をはねる悪徳デカを文ちゃんがやるわけです。ですから、本人の倫理感もシナリオの中でよほどこなれてないとやってられねえやという感じになると思うんですね。
その後に『トラック野郎』になるんですね。鈴木則文さんが監督をすることになって、文ちゃんとしては今までやったことのないようなひょうきんな――『まむしの兄弟』でそのきざしはあったんですが――まあひょうきんではあるけど、アイロニーというか、まさに役者というその有り様を示した作品だったと思うんです。それが10本のヒットシリーズになった。でも、最後の方はもうやる気をなくしてたみたいで、「10本でやめるんだ」って言ってやめたわけです。だから、いろんな時代というか、時々でスタイルは変わってくるんですが、彼自身の役者としてのラディカリズムを追求する、この意志というのはずっと一貫してあったと思うんですね。
僕が最後に彼と仕事をしたのは『リメインズ』というサンカの話です。これは熊に襲われた部落のサンカ達がその熊に対して復讐を果たしていくという話です。その頭領の役を文ちゃんがやったんです。冬でした。山頂で撮影するにはヘリで上がらないといけないんですが、主役の真田広之と監督であった千葉真一と大喧嘩になりました。千葉真一は初めての監督なので監督に専念してまして。これを企画したのが深作欣二。松竹映画でした。ただ、スタッフで東映から行ったのは僕だけでしたが、東映勢が多数出演してました。その山頂で、真田広之と千葉真一がおりる、おりないの話になったんです。その場は1日休みにして、なんとかなったわけですけども、その後も冬の作品なのに7月に松竹京都でまだ撮影していた。これは深作欣二が悪いんですけどね。そんな状態で、実際9月に封切ったんですが、まあ文ちゃんにはギャラは払われたと思うんですけど、僕なんかにはギャラが払われなくって、大変なことになった。それで、文ちゃんは初日舞台あいさつを拒否するということになって。そんな作品があったんです。

3.11以降、様々なところで接点があったんですが…

それを最後に、僕はアメリカへ渡るわけです。そして、文太さんは当時、東麻布に住んでおられたんですが、「アメリカ行きます」と僕が報告に行くと、いくらかでもくれるかと思ったら「逃げるのか」と……。UCバークレーのタワーを安田講堂に見立ててインターナショナルな、つまり日本人の学生ばかりではなくて、当時世界を揺るがした60年代後半の世の中を、革命へのテーゼとして描きたいっというふうに思った。それはハリウッドでしか作れないだろうと勝手に思ったわけです。東映で18年間、助監督としては15年間在籍しました。結局、B班監督とかはやりましたけど、監督にはなれずでした。僕より年上の助監督が何人もいましたので、こんな所にいたらもう監督にもなれないと思って、アメリカ行きを決意したわけです。そこでは、自分がプロデューサーとしてやろうという話もあったんです。でも、僕が日本に戻る前に勝さんは亡くなり、そういった意味での海外での収穫みたいなものは消え去ったわけです。で、1998年に日本に戻りました。文太さんはその頃テレビなんかに出ていたと思います。息子さんが亡くなった時も、知ってはいたんですけども、お悔やみを言うわけでもなく、3.11になってしまいました。その直後から彼は表舞台で、反原発の動きをされるようになりました。
前後しますが、日本に帰ってきてから、第一次安倍内閣が改憲をするぞというような動きの中で、僕は9条改憲阻止の会という団体を立ち上げることに参加しました。それで今も9条改憲阻止の会は経済産業省の横にテントを張って。反原発運動の拠点になっているわけですけれど。そのテントを一番最初に張った2011年の9月11日、その時から運動に参加していて、なおかつずっと現在までドキュメンタリーとして撮影をしています。そして、日本に帰ってきてすぐの、第一次安倍内閣の時に『We命尽きるまで』というドキュネンタリー映画を撮りまして、劇場公開もしました。今、入口の所にそのポスターを貼ってあります。
僕は東映にいる時よりも、アメリカに行って帰ってきて、2006年からの方が政治運動を具体的に行っていて、今は一応活動家になっています。ということは、菅原文太さんとは2011年以降、様々なところで接点があったんです。大きな集会で僕がキャメラを回して、レンズの向こうに文太さんを見るという状況が何度かありました。経産省テントで青空放送というインターネットテレビを開局して放送をしていたんですが――今ここにもスタッフの一人が来ております――その中で文太さんに登場してもらおうとい話はあったんです。ただ、交渉する以前に局そのものがなくなってしまいました。とにかく文ちゃんに会わなきゃ、会っていろいろ今後のことも、運動のことも話さなきゃ。そして今、僕が準備している、3.11をテーマにした劇映画があるんですが、その映画にも文太さんに協力してもらいたいと。しかし、会おう、会おうと思っているうちに訃報を聞くことになってしまいました。本当に心の底から、僕は残念だし哀悼の意を表したいと思っているんです。
それで先ほどの話に戻ります。勝手に170人くらいで追悼集会をやったっていうんで、非常に頭にきているところです。3日前に発行された『現代思想』という本の中で、インタビューを受ける形になって文ちゃんのことを僕が話しています。そして今日こういう会が開かれるのは、冒頭にも言いましたが、本当にありがたいと思っています。

菅原文太が遺した二つのこと――映画を通しての発信を

司会 そろそろ時間も少なくなってきました。何か質問や意見がありましたらどうぞ。ございませんか。はい。
参加者 藤山監督がおっしゃってた中で、経産省の前に今、脱原発テントが建って、今年で4年近くになるわけです。そこに右翼が押し寄せて来て、暴力を振るう。しかし、一切マスコミは報道しないですね。経産省の真ん前で、経産省の建物は映すんだけど、絶妙な角度で絶対にそこを映らないように建物を映す。まあこれはある意味、プロだなあと思うんですよ。ちょっと引けば映っちゃうんだから。そういう運動があるんだと、全世界や日本国中に知らしめることが出来るはずなのに、それをないがごときにする。また右翼なんかが暴力を振るっても、これも全然マスコミは報道しない。そこで、ネット放送で、青空放送っていうことで、自分達でそういう武器を使って世界に広めようと。藤山さんなんかの発案があって、僕は言われて看板の背景描きに行ってたりしたんですけどね。それが今4年目にして判決が出されて、「出て行け」と。それから今まで居座った分の賃貸料を2000万とか3000万とかを出せっていうようなことになってます。今、沖縄の問題とか、それからテントの問題とか、突出している事がモグラ叩きみたいに出ては潰され、出ては潰されっていう状況をどのようにこれからつなげて、やっていくのかっていうことをちょっとお聞きしたいと思いまして。
藤山 方針に関する問題が提起されました。文太さんは、沖縄で「弾はまだ残っとるがよ、一発残っとるがよ」という発言の前に、こうも言っています。「政治の役割は二つあります。一つは、国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を食べさせること。もう一つは、これが最も大事です。絶対に戦争をしないこと」と。そして、奥さんの文子さんもこう書いています。「小さな種を蒔いて去りました、一つは無農薬有機農業を広めること、もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないということ」と。文太さんが、最後に種を蒔きました。重いテーゼを遺しました。かつて僕らが概念的だった、なんでもかんでも運動、運動をやればいいということだけでもない。でも、なおかつそこに撤するべきだという、いろんな反省を含めてやっていかなきゃいけないと思うんです。
いずれにせよ、テントに関しては、これは表現の問題である。憲法21条に国民は集会をする、あるいは表現をする権利がある。つまり経産省のあの小さな地域にテントを張って、そこで原発の是非を問う、責任を問う、あるいは廃炉に向けたあらゆる方針を提起していく。福島から本当のことを世界に向かって発信する拠点として、あの位置を確保するということは表現の問題である、というふうに解釈します。で、僕達は映画というものを通して、その表現、思想を、そして政治的なテーゼを世界に向けて発信していきたい。今の質問に答える形にはならないのかもわかりませんが、具体的に例えば強制代執行が行われるかもしれない。あるいは右翼の大攻勢があるかもしれない。それに対して、暴力的に実力闘争で立ち向かうかというと、僕個人としては今だに暴力主義者ですけれども、暴力をそのまま行使しても、それはあまりいい方法ではないなあと。テントがもし壊されるならば、それはもういい。右翼が襲って来るならば襲わせればいい。僕らは逃げます。ただ1日逃げるだけです。すぐ帰って来ます。すぐ帰って来て、また建てます。あるいはまたそこに放送局をつくるかもしれない。僕らは映画という方法を持っています。で、僕はドキュメンタリーもやりますが、やっぱり劇映画出身ですので、劇映画として世の中を震撼させるようなものをつくって、それを武器とすることが出来ればと思います。
テントをどこまで維持し、なおかつその趣旨をどこまで広範囲に広げていくかという問題があります。また映画監督協会の一つのテーゼとして表現の自由っていうのを掲げています。経産省テントの行動様式が表現の問題に関わっているのと同じように、映画監督協会の著作権の問題で、表現の自由ということがテーマにあがっています。共闘という関係がこれからつくられていくと思います。現在、集団的自衛権、秘密保護法に代表される敵の側のひどい攻勢、そして予測される憲法改悪に向けての流れがあって、非常に切迫した形になっています。僕は、まず頭を使って行動することを訴えていきたいと思っています。
司会 そろそろ時間になってしまいました。まだ話が続きそうなんですが、ここは片づけなどもあってそろそろお開きにしなければなりません。ただ、隣の部屋で飲み物なども用意してあります。時間がある方は、そちらに移動して藤山さんの話の続きをお聞きください。それから最後に一つ、入口の所に藤山さんが監督をなさいました映画が二つあります。一つはさっき話に出ました『We命尽きるまで』、それからもう一つは『みなまた 海のこえ』というDVDで、両方とも3000円です。もし興味がありまして、なおかつ懐にちょっと余裕のある方がありましたら、ぜひお買い求め下さい。本日は寒い中をどうもありがとうございました。藤山さん、どうもありがとうございました。

[ 2015 , 3.14   plan-B ]

みんなの公園──野宿者排除と「公共」のアクティヴィズム

浜邦彦(早稲田大学教員・ストリート研究会)
 
 こんにちは。早稲田大学で教えてます、浜と言います。もう一つの肩書きは「ストリート研究会」となってます。これは大学教員なんかが科学研究費を貰って3年間の期間限定のプロジェクトでやっている研究会です。私が代表になっていて、これは、渋谷のアートアクティヴィズムというか、アートを使って野宿者排除と闘うというか、これからお話する「表現」──公共的な表現とそれから公共性という名の下に排除が進んでいく、その間のせめぎあいみたいなことをテーマにして研究会を少しやってきました。そうした話を映像もお見せしながら話したいと思っています。
非常にインパクトの強い映画『山谷』を観たばかりですが──実はこれまで何度もこの映画を観る機会があったにもかかわらず、その機会を逃し続けてきて、今回上映委から話してくれって呼ばれて、ようやくそのDVDお借りして観たのが2ヵ月くらい前なんですけれども──今日改めて観て、例えば最後の方に出てくる筑豊の山の中にいきなりドカンとコンクリートの建造物が廃墟のように出てきたりとかですね、ちょっとびっくりするんですよね。
それは2011年の3月11日以降のあの風景。もちろんこの『山谷─やられたらやりかえせ』という映画は、日雇い労働者を中心に撮っているわけですが、最後に「Romusha」って言葉が出てきましたね。なかば棄民の様にしてどんどん移動していく人達。そしてそれは80年代だとやっぱり建設労働が多いと思うんですけれども──寿(横浜)の場合だと港湾労働なんかもありますが──しかしその建設労働だけでなくて、実はその原型はどうやらエネルギー産業にあったらしいと。筑豊にロケをして、そこに今はもう半分廃墟みたいになっている炭鉱の町ですね、そここそが飯場の原型だったのだというようなことが指摘されています。今日、びっくりしたというのは、この映画だと思ってなかったんですよ、あの映像を。もちろん観た記憶はあるし、2ヵ月くらい前に観た映画の内容を、もうすでに忘れているんじゃなくて、もうこの映画だと思わないくらいに自分の中に染み付いていた風景なんですね。それは最後の方の、石がただ置いてあるだけの朝鮮人のお墓ですね、その近くに日本人の立派なお墓かと思いきや、実はペットのお墓だったなんていう、あのシーンにしてもそうです。ぼくは、今日改めてそういうことがよみがえってきたような印象を受けています。
そこからどうやって今日の私のテーマである「みんなの公園」というところにつなげていくかっていうのは、話ながら皆さんと考えてみたいというか、皆さんからもいろいろ意見を聞きたいと思っています。時間も限られていますので話に入っていきたいと思います。
はじめに「246表現者会議」、2番目に宮下公園の「ナイキ公園」化、3番目が「公共性」っていう順にハンドアウトを作ってみました。まず宮下公園の映像──1分くらいの短い部分ですけれど『ゴーストトラヴェリング』という映像を観てみましょう。ちょっとしたミニミニショートフィルムです。

渋谷・宮下公園――
*『ゴーストトラヴェリング』上映

お分かりになったでしょうか。これが2010年の3月くらいですか。原宿駅を出て山手線でずっと渋谷まで行く間に一瞬ですけれども宮下公園の前を通った所に大きなバナーがあって、「ナイキ悪い」とか書いてあったりするんですね。ご覧になって気が付いた人、あるいはリアルタイムで見たことある人はいらっしゃいますか?(数名が手を上げる)。ああそうですか。その「移動」っていうことで言うならば、おそらくこの1分ちょっとですかねえ、原宿駅を出てから渋谷駅まで。これが2010年の私達──例えば僕のような電車で通勤してるような人間にとっては、かなり日常的な移動の風景だったりするわけですね。何気なく毎朝見ている。その中にこう一瞬だけなんか書き込まれてるというか、むしろ切り取られてるようなそういう場所があって、それがこれからお話する宮下公園の、ナイキ公園にされてしまうということに対する抗議のバナーだったんですね。
どれだけの人がこれに気が付いていたかわからないんですけども、でもこの活動は相当にユニークな表現をいろいろに使っていました。そして日雇い労働者というわけでは必ずしもないかもしれませんが、宮下公園には一時期は30人くらいの人がずっとそこに居住していました。そういう空間である宮下公園が今ひらがなで「みやしたこうえん」っていうふうになっていて、実質ナイキジャパンが管理するような、そういう空間になってしまった。その過程でそこに住んでいた人達も排除されていく、そうしたことが起こっていた場所なんですね。と同時にそれに対する様々な抵抗の表現が、特に2010年くらいにワァッと集中して出現した。ある意味、あえてこんな言葉を使うとしたら「ホットスポット」のような、そういう場所であったんじゃないかという感覚を僕は持っています。
ホットスポットなんて言うとちょっとびっくりするかも知れません。最近では、放射能汚染のホットスポットっていうような使い方がもっぱらされているわけですけれど、例えば山口県の上関原発の建設予定地──あの田ノ浦ですね。向かいに祝島っていう島があって、そこの漁師さん達がもう30年くらいずっと建設に反対している、その田ノ浦の海が生物多様性のホットスポットと呼ばれていたりします。あるいは沖縄の普天間基地のいわゆる移設先とされている大浦湾、辺野古の海ですね。そこも絶滅危惧種であるジュゴンが住んでいるようなホットスポットであったりとか。そういうような意味で、もしかしたら私達のそうした、日常性の中にどんどん埋め込まれていってしまう──映画『山谷』がずっと山谷から寿、さらには筑豊までさかのぼって取り出してみせたような大きく言えば近代の日本、その脈々と受け継がれてきた「棄てられた者達の記憶」のようなものですね。そうしたものが立ち現われてくるような、そういう特異点というか、それを「ホットスポット」という比喩で言ってみようかというふうに思ったわけです。もしかしたらそういうものが一瞬あったかもしれない。それが、僕は2010年の渋谷・宮下公園だったんじゃないかと思うんですね。
まず、僕自身がどういうふうにそのことを知るようになったかということから順に話をしていきたいと思います。1番目の「246表現者会議」。

246表現者会議――
*「新宿区ダンボール絵画研究会」のサイトから新宿西口の映像
http://kenkyukai.cardboard-house-painting.jp/

これは武盾一郎さんっていう、僕と同い年のストリートペインターというか、画家の絵です。
1995年から6年くらいにかけて、新宿の西口の地下にたくさんのダンボールハウスがワァッと密集していた時期があったんですね。野宿者の人達が新宿西口に集まって、かなり立派なダンボールハウスをどんどん建てていき、そこにダンボールハウス村ができるという、そういう時期がありました。さっき観た『山谷─やられたらやりかえせ』は80年代前半ですけれども、80年代の後半になると日本経済が、今日で言う「グローバル化」にシフトしていき、外国人労働者がものすごく増えてくるんですね。それが90年代に入ると、いわゆるバブルの崩壊の時期になる。80年代後半というのはもう建設ラッシュで、こういう(plan-Bのような)コンクリート打抜きみたいな建物があちこちにボンボンできたりした、そういう時期だったんですけど、それが90年代に入ると今度はどんどん不況になっていって、いわゆるホームレスが街中に目につく形で増えてきた。これが90年代の半ばから後半、そして2000年代にかけてではないかと思うんです。
その頃に、新宿西口の地下にあったダンボールハウス=ダンボール村に、こういう絵を描いて活動をしていたのが武盾一郎さんや、山根康弘さんとかですね。これはダンボールの持ち主、まあ家ですからね、その家主さんであるセンパイ達──「センパイ」っていうのはさっき『山谷』でも使っていましたけど、野宿者の仲間のことをセンパイと呼ぶんです。センパイ達に1軒1軒「ここに描いてもいいですか」と聞いて、そしてその場で感じたインスピレーションを、ペンキで作品にしていくというものです。それが僕には非常に面白かったんですね。その頃僕は大学院生でしたけれども、そこを通るたびに何ていうかなあ、気持ちが高揚するというか、なんか癒されるような、そういう感じがありました。しかし、この西口地下っていうのは1日何十万人か、そのくらいの人が往来する場所です。しかも新しい都庁が新宿にできました。そしてそこへ向かう人達が一度はここを通って行くわけですね。で、目障りだと、通行の邪魔だと。ここはみんなの場所であると、公共の場所であると。そんな所を勝手に占拠して住んでいる汚らしい人達は迷惑だと。まあこんなふうな言い方をされて、そして当時の都知事だった青島幸男をはじめとする東京都が、とにかくダンボールの家を撤去するということが1996年に起こるわけです。──その話を詳しくするとそれだけで終わっちゃうんで、今はこういう表現があったってことをぜひ皆さんに知っておいて欲しいと思います。今日のハンドアウトの後の方に参考としていくつかURLを書いてありますが、その中のこれは「新宿区ダンボール絵画研究会」のサイトからリンクしている武盾一郎さんのサイトです。ここでこうした写真を色々見ることができますので、ぜひご覧になってください。
その武さんに、僕は2008年になって再会したんです。それは確か「フリーターメーデー」かなんかだったと思うんですけど。彼は95年、96年にこういう活動をしていて、96年の1月にダンボール村が撤去されると、今度は神戸に行くんです。つまり95年の阪神淡路大震災の後、仮設住宅にたくさんの人が住んでいると。まだ街は更地がいっぱい残っているような、そういう状態ですね。そこに行って活動していたようです。で、2008年に僕が彼に再会した時には、「246表現者会議」っていうのがちょうど立ち上がってくる頃でした。これは何かって言うと、渋谷駅の恵比寿側に、246玉川通りと直角に交わっていて、そこがガードになっています。そのガード下を246通りが通ってるんですけど、そこにたくさんのダンボール──人が一人横になれるくらいの大きさのダンボールの、まあ「ロケット」っていうんですけども、その仮の宿が並んでいたんです。ところがそこに、2007年の10月かな、「移動のお願い」っていう貼紙がいきなり貼り出されたんですね。この貼紙の主は「アートギャラリー246」とか渋谷区の「渋谷桜が丘まちづくり協議会」。たぶん近くにある日本デザイナー学院の学生さん達を使って描かれただろう、何か奇妙な壁画が、のっぺりとした壁画が描かれて、そしてそこに「移動のお願い」っていう貼紙が出されたんです。何の「移動」かっていうと、つまり野宿者の人達が住んでいるその「ロケット」を片付けなさい、撤去しなさい、ここにいてはいけませんということなんです。なぜならここは「アートギャラリー」だからですと。その「アート」っていうのがつまり「ペンキ絵」ですね。ペンキで日本デザイナー学院の学生さん達が描いたとおぼしきペンキ絵が、確かに言われてみれば「あ、そうかな」という形で描かれているんですね。確かに武さんも新宿西口地下で、行政には無許可でペンキで絵を描いていました。しかしこの二つは全く違う性質のものだと思います。
それに一番最初に反応したのは、代々木公園のテント村に「エノアールカフェ」っていう、ルノアールならぬエノアール──絵のあるカフェっていう物々交換で開いてる喫茶店というか、そういうスペースがあるんですけども、そこに暮らしているいちむらみさこさんと小川てつオさんたちです。自ら野宿生活をしているアーチストですね。特にこのいちむらさんは、246のガード下の排除──それも「アートギャラリー」という名で、アートの名を借りて野宿者を排除するっていう、そのことに鋭く反応をして、自らそこに「ロケット」を作って住むという形で活動を始めたわけです。いわばパフォーマンスですね、アートパフォーマンス。それ自体がアートであるというような形での活動です。それにショックを受けて、あるいはインスピレーションを受けて集まった人達が、渋谷の駅のまわりでこうダンボールを敷いて、「表現者会議」っていうことを始めたんです。

表現と差別――
*映像
http://minnanokouenn.blogspot.com/

まあこんな感じでです。よく見ると壁の所になんか模様があると思いますけど、あれがたぶん「アートギャラリー」の部分です。いろんな人が入れ替り立ち替り参加していて。路上にダンボールやブルーシートを敷いて、そこで表現と排除に関わることの会議をやるという、そういう活動をもう既に30回くらい重ねてきています。本当にいろんな人が来ていて、最近話題になったChim↑Pomの卯城竜太さんも参加していたりとか。まあ非常に面白い活動だなあと思って、僕も何度かそれに参加させてもらうようになったんですね。
 この「246表現者会議」が、表現の問題ということで、例えば上野公園──上野公園にもブルーシートの小屋がたくさんあったんですけど、それが撤去された。そのことを巡って、台東区がやったコンペティションに応募する作戦を立てたりとかしました。あるいは新宿駅の東口の地下に「BERG」というお店があります。この「BERG」で「246表現者会議展」をやったりとか。「BERG」は、武盾一郎さんの新宿西口の作品を──あれは全部撤去されちゃったんで現物が残ってないんですよね。写真としてしか残っていない。でもその写真をずっと撮ってきた方がいて、それを展示したりとか。まあそういう小さなスペースです。さっきの言い方で言うならば、それも「ホットスポット」かなと思うんですけども。そういったことに関心を持った人達が集まる場所になっていったんですね。2008年には、北海道の洞爺湖でG8サミットがありましたが、それに対抗して「渋谷G‐サミット」なんてのをやったりとか。あるいは、「BERG」は、新宿の駅ビルのルミネがそういう小さい飲食店をなくしたいということで、追い出しにかかったんですけど、それに対抗してルミネの中で仮装して歩き回ったりとかしました。それもある種のパフォーマンスアートで、様々な形で都市空間、あるいは公共空間と排除の問題を訴えるような活動を続けてきたんです。

 「アーチスト・イン・レジデンス」

最初は、ナイキジャパンとの命名権、ネーミングライツの契約ということで渋谷区立宮下公園を「ナイキ公園」に変えるというような、そういう話だったんです。でも、実はその命名権契約というのが大変問題がある内容でした。渋谷区にしてみれば、宮下公園にホームレスの人達が住んでいて、夜になると危ないとか、そんなふうな声があるということで、そういったものを一掃して、新しくスポーツ公園に作り替えるんだということでした。よく調べてみると、渋谷区にとっては、これは「整備計画」という言葉が使われていたり、それをどうやらナイキジャパンに肩代わりさせる、そういう計画だったらしい。実際ネーミングライツ──本来はネーミングライツの契約ですから、渋谷公会堂が「C.C.Lemonホール」っていうふうに名前を変えたように名前だけ使わせて、それで契約料を取るという約束のはずだったんです。まあ結果的に、ナイキジャパンは「公園の名前は変えません」と言って、今あの公園はひらがなの「みやしたこうえん」という名前になっちゃってるんですけども。その宮下公園をナイキジャパンっていう一私企業とはいえグローバルな企業ですね、この企業の力を借りてというか、ほとんどそれに任せて、区立公園にもかかわらず、有料のスポーツ公園に変えてしまうということになった。そのことに対して2008年くらいから「みんなの宮下公園をナイキ公園化計画から守る会」、通称を「MIKE」といいますけれど、その「MIKE」の活動が始まりました。そこに、ずっと渋谷で活動してきた「野宿者の生活と居住権をかちとる自由連合」(通称「のじれん」)なんかも加わって、とにかくこの宮下公園からの野宿者排除をやめさせるという活動が2008年から9年、10年くらいにかけてどんどん高まってきたんですね。その中で先ほど言った「246表現者会議」のいちむらさんとか小川てつオさんとかが2010年くらいから、「アーチスト・イン・レジデンス」ということを始めます。アーチスト・イン・レジデンス──「滞在するアーチスト」ですけれども、この宮下公園に実際テントを張って、そこに文字通りレジデンス(居住)して、住みながら制作をするという活動です。普通はアーチスト・イン・レジデンスというと、実はあちこちでやってるのは、例えば廃校になった小学校とか、そういう所をアーチストに貸し出すような形。アーチストはそこに普通は通って制作をしていくという、そういう長期滞在型の制作用スペースのことをいいます。それを、いわばスクオッティングのような形でやるという。どうしてかといえば、この「整備計画」──公園の改修というふうに言っているんですけども──それを始める期限は本当は2009年の9月からだったんです。それで「MIKE」や「のじれん」が主催して、その前の2009年8月の30日、31日という宮下公園を公園として使える最後の2日間に、ここで「サマーフェスティバル」をやったんです。そこで、例えば「ストリート研究会」は「アートと公共性」という公開シンポジウムをやりました。その翌日からは工事が着工する予定になっていたと。でそうなると、もうこれを食い止めるある種の座込みのような、そういう形でとにかく食い止めるしかないっていう段階に入ってきます。実際この闘いは1年半にわたって、その工事の着工を阻止してきたんです。ただ2010年に入ると、いよいよその追い出しが厳しくなってきました。それに対抗して、アーチストたちがとにかく率先して、座込みですね、完全に──沖縄の辺野古の闘いでやっているような、常にそこに人がいて、阻止するんだと。ただこの活動のとにかくユニークなところは、それをあくまでもアートとして、あるいは表現としてやっていくっていうことでした。それがこの「アーチスト・イン・レジデンス」という形だったんです。

ユニークで豊かな表現による抵抗――
*映像 
http://minnanokouenn.blogspot.com/

これは最近の、もう「みやしたこうえん」になっちゃった後です。たくさんの写真や、それから映像資料もふんだんにあるので、ぜひご覧になっていただきたいと思います。この「表彰状」ってあるのは「聞く耳持たないで賞」っていう、ナイキジャパンのCEOに宛てたものです。こんなことをやったり、いろんな看板とかを制作して出したり、とにかく、言葉で紹介してもとても伝えきれないくらい、非常にユニークで豊かな表現による抵抗をずっと試みてきました。その中には、「夏祭り」のような大きなお祭りもありますし、そうでなくても日常的な「炊き出し」だったり「フリマ」だったり。2010年に入ると、いよいよアーチスト達がその場所に常に誰かが住んで、そこにカフェを開いたりします。そして、例えば今日来ていらっしゃる山川さんの映画の上映をやったり、さらには「宮下公園大学」っていう──これは結局1回しかできませんでしたが──フランスを中心にした持たざる者の国際連帯「NO-VOX(ノーボックス)」という運動の支援をやってる稲葉奈々子さんを呼んで、そうした「宮下公園大学」をやったりしました。
それに、しょっちゅうデモをやっていました。その中でも特にユニークなのは「手作りサウンドデモ」ですね。これは野宿の人達にとってすごく日常的というか、身近な素材として空缶があるわけですけれども、その空缶にどんぐりとか石とか入れる。そうするとマラカスができますよね。そういった、とにかく音の出る物を持ち寄ってするんです。サウンドデモっていうとなんかでっかいサウンドカー、サウンドシステムや巨大なスピーカー積んでというイメージがあるかもしれないけども、そうじゃなくて、自分達で持ち寄れる物、音が出せる物、それでもってやっていくというものです。その中で、サウンドカーに先導されたのとは違う、独特なリズムが自然発生的にできてくる。その面白さみたいなのがあって、僕なんかは非常に感銘を受けて、本当に行って良かったと思えるような、そういうデモができていたんですね。あるいは公園で「ドラムサークル」をやったり、様々なワークショップをやったり、とにかく東京の渋谷の街中にこんな空間があるのかというくらい創造的な、クリエイティブなスペースになってきていたんです。
今日の上映会でこの話をする時に、一つにはやっぱり映像と運動っていうことが頭にあったんです。特に1980年代と2000年代と何が一番違うかっていうと、今はもう誰でも映像を撮れるということです。例えばデモがあったらどこかで誰かがカメラで、それこそ携帯で撮れるわけですから、撮ってるわけですね。で、それがもう翌日くらいには「ユーチューブ」にあがっているというような形があるわけです。映像を介した形で広がっていく。そういう部分がとても大きかったと思うんです。その中で、例えば藤井光さんのような映像作家がいます。
──彼に関しては、参考の所に「NIKEPOLITICS」http://www.youtube.com/user/nikepolitics というのをあげておきました。
──ナイキとか、アディダスなんかもそうですけども、非常に洗練されたCMのフィルムを作りますよね。そういうのをちょっとパクッてというか、パロディにしたような非常にすぐれた映像作品をたくさん作っています。最初に観た『ゴーストトラヴェリング』は山川宗則さんという人の作品なんですけども、あれはクリップとしてただ電車の窓から撮ってるだけなんだけど、非常に完成度の高い、見ことのないクリップなんじゃないかと思います。そういうものを次々とネット上に出していく。アートとか作品っていうと、何か限定されたスペースの中での展示っていう固定概念があるかと思うんですけれども、まさに「246」や、それ以前の新宿西口のダンボール村の頃から、こうしたストリートのアートの一つの大きな特徴としては、それが限定された、密閉された空間の中とは限らない、むしろ表現自体が移動していくというか、広がっていったり、旅をしていくっていう、そういう性質を持っていることですね。
そうして移動し拡散していく中で、しかし時に、それがワッと集まる場所がその都度その都度できていくっていう。それを僕は「ホットスポット」という比喩で言ってみてもいいんじゃないかと思うんです。拡散するっていうことがまず前提にあります。拡散していったものがどこかに溜まるんですよ。凝集する、集まるんですね。で、そうすることによってできるのが、ホットスポット。もちろん放射性物質のホットスポットは10年や20年ではなくならないですけれども、生物多様性のホットスポットを考えると、これも100年とか1万年とか続くかもしれない。でも移動していく、変わっていく可能性もあるわけです。常に、いわば生成変化していく、そういう場所です。そうしたことが、僕が排除と、それからそれに抵抗する表現活動ということを考える時のイメージなんですね。
宮下公園の経緯としては、昨年の9月に強制的に封鎖されて、そしてその後「行政代執行」という形で、住んでいた人だけじゃなく、そこでアーチストが作っていたいろんな作品も全部撤去されてしまったわけですが、それから半年以上たった、今年の4月30日に、ひらがなの「みやしたこうえん」がリニューアルされてオープンしました。たまたまその日は渋谷でちょっと大きめのデモがあったんです。それは「脱原発」デモです。ツイッターで呼び掛けて、ツイッターだけを媒介にして集まった1000人くらいがこの日デモをして、その後、参加者の何人かが「みやしたこうえん」に行って、そこで「NONUKES」っていう原子力にも核にも反対の小さいステッカーを張ったんです。ところが、「お前、今、NONIKEって張っただろ」、「ノーナイキってステッカー張っただろ」って公安警察がやってきて、逮捕しました。それに抗議していた支援者もまた捕まってしまった。なんと「みやしたこうえん」オープン初日にして2名の逮捕者を出すっていう、実にみっともないっていうか、浅ましいようなことが起こったわけです。

「公共性」とは

最後に「公共性」っていうことです。はじめに触れた、新宿西口の地下に、色とりどりのダンボールの家を作って住んでいる人達に対して、「ここは公共の場所である」「みんなが利用する場所である」と、だから勝手に汚い家を置いて住んではいけない。そんな「公共の場」という言い方、公共にふさわしくない人達を排除するというような言い方になってしまう。これが日本の社会を考える時の一つの重要なポイントではないかと思っているわけです。では、日本社会における「公」というのは何のことだろう。二通りの意味があるはずなんですね。一つは「公(おおやけ)」。それはパブリックということのはずなんだけれども、どちらかというと日本では「おおやけ」っていうのはお上のもの、権力、公権力が管理しているオフィシャルなものであるというような意味の方が強いんじゃないかと思います。誰もが、民主的に利用できるという開かれた、パブリックなものというよりは、何かこうお上が管理しているもの。だから下々が勝手に使ってはいけないというような、そういう理屈にすり替えられる。「公」がもしそんなものだとしたら、私達が本当に取り返したいのはむしろ「共」の方ですね。コモンの方です。それをコモンと言ってみたい。「公共性」を巡る議論は、最近いろんな形で議論されるようになってきてるんですけど、その古典の一つであるユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換』という本があって、そこで使われている「公共性」という言葉は「Öffentlichkeit」っていう言葉です。「オッフェン」っていうのは英語で言うと「Open」ですね。ですから、「開かれてあること」っていうのが元々の意味であるはずです。それがどういうふうに変容してきたか、それぞれの社会の系譜学的な調査をする必要があるとは思いますけど。その「開かれている」っていうことの意味がどんどんすり変わって、日本ではそれが「お上のもの」であり、さらに宮下公園の例でも明らかなように、「プライバタイゼーション」──私企業によってプライバタイズ(民営化)されていく。そういう形で公共の空間というのが、全く閉じられた利害の為にのみあるかのように、しかもそれを誰もが当然だと思っていて、それに反対するような活動を迷惑だとか、邪魔だとか、あるいは危険だとかするんですね。そういう感受性が私達の社会の中にはびこっちゃってるんじゃないか。そのことを強く思うわけです。
最後に一つ、5分くらいの映像を観せたいと思います。これは、まだ宮下公園が封鎖される前の、少人数のデモの映像です。何のデモかというと、「自殺者3万人連続12年」の追悼デモです。

*「自殺者追悼デモ」上映

『山谷─やられたらやりかえせ』と比べて観ると、この20年以上の断絶という、それは大きいような気がします。何よりも、僕が今『山谷』という映画を観てつくづく思うのは、言葉がぶつかり合っていた時代だったということですね。みんなが言葉によって闘って、そして確実に勝ち取っていけるものがあった、そういう感じがするんです。それに比べると、ごく少人数の、しかも極めてマイナーな闘いです。それは言葉よりも、むしろ音楽だったり、アートだったり、踊る身体だったりするんですね。そういうようなものを通して抵抗していく。ある意味では、そういう形でしか、もう抵抗が成り立たなくなっているのか。どうなんでしょうか。そういうことを問題提起させていただき、終わりにしたいと思います。
                                                                                                                                                             (「山谷」制作上映委員会責任編集 2011・9・3/Plan-B)

パレスチナに平和と愛を

三井峰雄

マレーシア航空機はなぜ撃ち落とされたのか

三井と申します。よろしくお願いします。中東のことですけれども、僕はジャーナリストでも研究者でもありません。アラブ諸国に行ったのも、もう20年近く前が最後で。その後はずっと仕事なんかで忙しくて、現地情報もそんなに集めてるわけでもなかったんですが、今年の夏にイスラエルのガザ爆撃があって、何度か集会や抗議行動、デモにも参加してはいました。で、ともかく今年は非常に頭にくるというか、そんな話をしているうちに、「だったらお前書いてみろ」と。これは「市民の意見30の会」という市民運動団体のニュースレターに、専門家でもジャーナリストでもない立場から反戦運動に参加してる立場の人間として書いてみたらどうなのかと、その編集委員をやってる人に言われまして。何年か前には、若い頃には中東に行って映画を撮る仕事もちょっとしてたものですから、そういうところから書いてみたらどうなのかと言われて、文章を書きました。短い原稿でしたけれど書くこと自体が、何年ぶりのことだったので、一つひとつのことが間違ってないかとかいろいろ調べたりしながら書いて、まあそれって当たり前なことだと思いますが、僕にとっては本当に久しぶりなことでした。で、これを書くにいたるまでのいろいろな経過を今日はちょっと話して勘弁していただきたいなと思ってるんですけ。
一番頭にきたのは、メディアとかマスコミで語られている、このガザに対するイスラエルの攻撃のことですね。それがどういうふうに報じられてるか、非常におかしいと思うことがたくさん重なってきました。個人的な感想も含めて言わせてもらいたいと思うんですが、7月の初めにイスラエルがガザ攻撃を始めたその直後にウクライナでマレーシア航空機が撃墜されるという事件がありました。まあプーチンやその影響下にあるグループがやったんではないかって言われてます。でも、イスラエルが戦争を始めたその直後に大きな事件が別の所で起こるっていうのは、国際ニュースのトップに、自分達がやる戦争をもってきたくない者が起こしたんじゃないかなって、その時僕は思ったんです。数ヵ月前にもマレーシア航空機が行方不明になって、今もその残骸すら見つからない状況があります。このことを指してイスラエルやアメリカが関与したことだ、犯罪なんだっていう人達はその前からいて。その人達の話を聞いたこともあるんです。僕としてはまさかそんなことはってずうっと思ってたんですが、ガザの攻撃が始まった直後にもう一度マレーシア航空機が落ちて、ちょっとこれは関連性があるのではないかって、ふと思いまして。
その中でマレーシアっていう国がどういう位置にあるのかをみていくと、いわゆるイスラム銀行とかイスラム金融という、イスラムの法に則ったところでお金を動かすと。投資をしたり蓄財をしたりする。もちろん、イスラムを国教とする国というのはいくつかあります。それを細部においては国情に任せるんですが、一応基本的なイスラム法に則って。僕が知ってる限りで言うと、お金そのものに利子を付けるのではなくて、お金で儲かった、投資によって得られた利益についてはその投資の比率において利益は分けるんですけども、投資したお金そのものに利息を付けない。あるいは借金の証文に値段を付けて売り買いをしない。そういうのがイスラム法で、そうするとこの間のアメリカに端を発する金融危機などは、まあ起こらないわけです。そういう最低限のことは守りながら、その国情に合わせたイスラム金融の世界が、すでに世界の金融の30パーセントくらいに及んでいる。これは、日本経済新聞のウェブ版で見たことです。
で、そのマレーシアの外務大臣が昨年ガザを訪れて、ガザと西岸で分裂しているパレスチナ指導部の統一をどうも呼び掛けていたらしい。しかもイスラム金融の主要な舞台としてマレーシアが名乗り出て、実際動き始めている時期です。当然お金の絡む話として、パレスチナの指導部の統一をマレーシアの外務大臣は呼び掛けていたようだ。だから太平洋のどっかにマレーシア航空機が落ちたのはそこからきてるんだという人はいたんです。そこにまた、ガザ攻撃が始まった直後にウクライナでマレーシア航空機が撃ち落とされた。しかもウクライナで民主化運動という名の下で以前の大統領を追い落としていった、非常に暴力的な右派セクターの勢力には、イスラエルの国防軍も支援で入っているという話を読んだり聞いたりしていたものですから。これはひょっとしてガザ攻撃に際して、国際ニュースの時間帯を半分はウクライナの航空機の事故で埋めようという、そういう作為なのではないかなと、その時初めて思って。

67年の占領地――西岸地区へのイスラエルによる入植

では、この戦争がどういうふうに報じられたのかと。とにかくハマスに対しては、ガザ地区を実効支配する「イスラム原理主義組織ハマス」という言い方をした上でハマスが……というふうに言われます。2006年のパレスチナ自治選挙というのがあって。日本の選挙に似ていて比例代表と地区ごとの選挙に分かれてるんですが、その比例代表でハマスが圧倒的に得票をして議席を得たという結果があります。まあハマスがガザを実効支配してるという言い方をするならば、日本はなんて言うんでしょうか。「日本原理主義組織安倍政権」に実効支配されている日本っていう言い方になるんでしょうか。実際には、あの選挙で得票を得たハマスがガザの政権を取っていると。本当はガザの政権じゃなくて、ガザと西岸地区の政権、つまりパレスチナ自治区と呼ばれているところの政権を取ったはずのハマスなんですけれども。それが最近の報道では実効支配をしている、暴力で支配をしている。実力で政権を奪ってしまったハマスという報道の仕方がずうっと続いて。これもおかしいんじゃないか。2006年の自治政府の選挙というのは、日本政府からも国際監視団を送ってます。で、この監視団の代表はジミー・カーターっていう昔アメリカ大統領をやっていた人です。そのジミー・カーターさんが書いた最近の論文のなかで、とにかくハマスを政権としてきちっととらえることが中東和平になるのだ、選挙で選ばれた政権をなぜそのように排除しようとするのか、ということを訴えています。そのように実際に選挙があった。しかも選挙で選ばれたハマスと、ファタハというPLOの主流派が統一政権を作ろうとしたにもかかわらず、横槍を入れたアメリカとイスラエルが、ハマスではなくてファタハの側に資金を援助し、武器も与え、そしてハマスの排除を狙った。というのが2006年の選挙直後から2007年に至る状況であったわけです。それでガザと西岸でそれぞれの政権が出来てしまったという経緯がありました。
ではこの地図を見てください。パレスチナっていう場所がどこなのかというのは、この一番左側の枠の中の黒い歴史的パレスチナというところが、パレスチナというふうに言われているところです。ただ、パレスチナという国の王様がいて国境を作ったとか、そういうわけではありません。その北側にはレバノン、西側にはヨルダン。そして左下の斜めの線のところはシナイ半島ですから、そちらはエジプト。オスマン帝国が崩壊した後でイギリスとフランスがアラブの国境を定めたんだと、されている。そのように、エジプトとヨルダンとレバノンの国境が定められたことによって残った場所がパレスチナと呼ばれている。だからパレスチナ人などはいないのだと、よくイスラエルの戦後の指導部が言ってます。たしかに国があってそこに住んでいる国民がパレスチナ人だっていうような歴史的な経緯ではなくて、まわりに国境が出来たことによって、そこがパレスチナ地方という歴史的な名前で括られたっていうのがこの国境線の実際ではないんでしょうか。
このパレスチナですが、47年に国連で分割案が出ます。黒いところがアラブ人の地域、白いところにユダヤ人の国、ヨーロッパから植民してきたユダヤ教徒の国をつくったらどうかということが、47年の国連分割決議案です。それで、翌年、国連に反発するアラブ諸国とイスラエル勢力によって戦争が、第一次中東戦争が起こります。この右側の広いのがヨルダン川西岸地区、左側の狭いところがガザ地区と呼ばれるようになったわけです。で、これが1967年の戦争では、西岸地区とガザ地区、あの左上の地図の黒いところまでイスラエルの軍事占領下におかれてしまいました。48年に国連に加盟した白い部分のイスラエルはともかくとして、この黒い西岸とガザ地区は軍事占領下なので、ここをイスラエルは返すべきである、撤退すべきである、と。67年以降ずっと中東和平と言われる度に、とりあえずこの67年の占領地を返還すべきではないか、イスラエルは撤退すべきではないかと、いろんな場所で、国連や国際会議などで言われてきたことなんです。その右側のパレスチナ周辺図を見るとわかると思います。ヨルダン川西岸地区とガザ地区です。
返すべきではないかと言われているこのヨルダン川西岸地区に、その右側の地図あるいはそのもう一つ右側の地図も見ればわかりますけども、ドンドコドンドコ入植地というのをイスラエルは作ってしまっています。入植地に行くための道路、専用道路まで作ってしまって。しかも入植地を作るだけではなくて移民を受け入れて、その入植地に移り住ませるという政策をイスラエルはずうっと続けている。その移民っていうのはどこから来るかっていうと、冷戦崩壊後はまずロシアからたくさんのユダヤ教徒達が来ました。それでも足りないというのでエチオピアとかモロッコなどの北アフリカからもユダヤ教徒達をセッセコセッセコと移民を集めてきます。集めてきては、軍隊に送り込んだり、まあイスラエル国内にも住んでますが、西岸、ガザの占領地域へ送り込む。そして、ここはユダヤ教徒の、ユダヤ人の国なので、これを守らなければならないといって、世界中からドンドン援助金を集める。まあ一種の貧困ビジネスみたいな面も見えます。それが西岸の占領地域だと思うんです。ガザからは2005年に、イスラエルは全面撤退してるんですが、そのガザを今度は高い壁で封鎖して、国境線も制限して物が入らなくする。あるいは出稼ぎ労働者が外に出られない、漁民が海へ出られないっていう状況をずうっと作ってきた。西岸においては、入植地をドンドンドンドン広げていく。このように、一番左の地図のような、黒いところが67年戦争で全部占領下に置かれたんですけど、それを元に戻したらどうか、67年の戦争の前の状況に戻したらどうかという要求を、70年代からずうっとイスラエルは拒み続けてきたという経緯があります。

来日したイスラエル・ネタニヤフ首相がとった
統一政府への露骨なまでの敵対的態度

ハマスが2006年に選挙で大勝をして。それからPLOの主流派だったファタハ、亡くなってしまいましたがアラファト議長の配下の勢力とハマスとがまあ内ゲバをやって。そのアラファト議長派の方をイスラエルやアメリカが支援をする。あるいはEUも支援をする。そしてパレスチナがこの西岸地区とガザ地区に分裂してしまう。それで、こういう状況を、今年の4月に解消しようという動きが始まった。ガザ地区のハマスと西岸地区のアラファト派、ファタハが統一政府を作るという宣言をしたのが4月だったんですね。イスラエルのネタネヤフ首相が5月に日本に来ました。日本に来て安倍首相と会談をした時の要約が外務省のホームページに出ています。それを見てちょっと僕はびっくりしたんです。この4月に発表されたハマスとファタハの分裂を解消して統一政府を作るという――もともと統一自治政府があったわけですから、西岸とガザが分裂してるのがおかしいわけで――その宣言に対してネタニヤフは露骨な敵対をしていて。ファタハの奴らはあんなガザの原理主義者のハマスと手を組むなんていう方向に向かっていきやがった。それはもうファタハが我がイスラエルとの和平を作り上げるという熱意がなくなった証拠だ。あんなものはどうしようもないんだっていうことを一生懸命安倍に訴えてるわけです。それが5月の段階です。
6月に入ってガザと西岸の統一政府の発足を宣言するわけです。その発足したことに対してアメリカも日本もEUも大歓迎はしないけど「良かったね」という反応を示しているんです。EUの日本語のホームページに載っていたことですが、英字新聞なんかでもEUの宣言として、非常にこの部分については注目されているところなんです。西岸の政権の、EUの日本語版ではアッバス議長って書いてあったんですけどプレジデントなんです。これは大統領と訳した方がいいんじゃないか。実際、選挙で選ばれた大統領なんで。アッバス議長、大統領が1967年国境に基づく二国家解決の原則に触れていて。それをEUが支持している、歓迎している。つまり西岸やガザ、特に西岸にこれだけ入植地や分離壁や道路が出来ちゃってるけれども、本来この67年戦争以前の状態に戻るというのが、和平と呼ぶものなのではないか、ということを言っている。EUも改めてここで支持を、ちょっと遠回しですけれども、してることになるわけです。
ところが、イスラエルの指導部というのは、もうとにかくこれをつぶしたくてしかたがない。いったい今までいくら金をつぎこんで入植地を作ってきたんだ、道路作ってきたんだ、と。地元のアラブ人達にファタハを通して、パレスチナ暫定政府を通して金を払い、情報をあげ、便宜をはらい、武器まで渡してきたじゃないか。それを今更この西岸を返せ、ガザも解放せよ、だと。せっかく今まで何度も戦争を仕掛けて、分離壁で閉じこめてきた、あそこも含めて統一政府を作るのか。西岸の入植地まで返せというのか。我がイスラエルの隣にパレスチナなどという独立国は作らせないっていうのが、ネタニヤフのいるリクード連合です。リクードの綱領としてあるわけです。それなのにパレスチナ側が統一して改めてこの原則に基づいて撤退を要求してきた。土地を返せ。ここに自分達が独立国をつくる権利があるんだっていうことを言い始めた。それをEUまで支持するとは何事だ、というので物凄く怒って。

起こっていることを伝えないメディアの報道

この右から2番目の2000年くらいの古い地図なんですが、問題になってるエルサレム北部入植地っていうのがあります。その東側の方から北にかけての土地を、この6月の統一自治政府の発足直後に、また強引に買収して入植地の建設を始めた。それから1ヵ月後にガザ攻撃を始めて。50日間の非常にひどい戦争を始めたというのが実情ではないかと僕は思っているんです。にもかかわらずマスコミは、いつまでたっても和平交渉に応じない、武装闘争を続けるイスラム原理主義の悪いハマスが、またあのちゃちなロケットをイスラエルにボンボコボンボコ撃つから――年間5000発ほど撃ってるそうですけれども、そんなことをするのでイスラエル国防軍がガザに攻め入った。これはしかたがないんだ。暴力の連鎖が起こっているのだ。これは両者の戦争なんだっていう言い方で、ずうっとこう報道をしてきて。実際は入植地があり、圧倒的な軍事力による抑圧があり、また封鎖をされ、分離壁という15メートルくらいの凄い壁が作られている。これは右から2番目の地図に載ってます。そういう状況の中で、抑圧されているパレスチナ人達の抵抗運動を更に分裂させようとしている。その分裂を回避して、自分達で統一しようという動きをつぶそうというものとして、ガザに対する攻撃がこの夏あったんではないかなと。しかもその報道の仕方が本当に起こっていることの実情を伝えない。言いたくないことは言わない。言いたいことだけをつなげて情報を操作するということを非常に強く感じました。
パレスチナだけじゃなくて、例えば今エボラ出血熱のことが盛んにニュースのトップで語られていて。アメリカはどうだった、スペインはどうだったって言われてます。でもキューバの医療団のことは、AFPかなフランスの報道機関だと思うんですが、そこが伝えていることですけども、キューバからシエラレオネに医者が60人、看護師が105人、全員志願制で6ヵ月間滞在するっていう医療団の派遣が10月の初めにあったんです。でもテレビでも新聞でも全く触れることがない。それで、そのわずかな報道によると、キューバの医療団というのは、自分達はこういうものにぶちあたって、成果をあげた経験がある、だから今回も絶対やってやるんだというふうに語っているというんですね。その成果って何だろうと思うと、冷戦が崩壊してソ連も崩壊してしまったら、キューバにはクスリも農薬も全く入らなくなっちゃった。で、その時に何をやったかっていうと、まずいわゆるオーガニックっていうのか、無農薬有機農法を奨励して。農薬が無いなら有機農法で野菜を作ろうとなって成果があがったものですから、ハリウッドのセレブ達はキューバ産のオーガニック野菜を食いたがっているというような現状になっちゃう。それから薬が入らないんだったら自分達で開発をして。それは、ただの薬の開発だけじゃなくて、医療のシステムを作り出そうということで立ち向かったのがエイズだったんです。詳しいことは知りませんけども、成果が出たらしくて。ラテンアメリカ諸国はエイズの、中南米のエイズの治療センターとしてキューバを持ち上げて、資金を援助している。高いアメリカ製の薬なんか買えない人達がエイズ治療に頼るのはキューバしかないという状況を作り上げて。そういうことを成果だと言っていると思うのです。それで、その人達がシエラレオネに行っているにもかかわらず、全く報道されないのを見ていると、これはやっぱりエボラで一儲けしようと思っていたアメリカや他の製薬会社や、そこに金を出してる連中が、キューバなんかに安い薬を開発されたら大変なことになるという危機感から、報道されないんじゃないかっていうふうにも思える。このように報道がウソもすぐバレるようなことをやり続けてる状況に非常に腹をたてながら、パレスチナについてのこのような文章を書いてしまった次第です。
司会 最後はキューバの医療班のことですね。キューバはずいぶんアフリカにコミットしてましたんで。昔は軍事的にもコンゴやアンゴラなんかに行ってましたね。ただ今の医療団のことはちょっと知りませんでした。エイズ特効薬を作るのはもしかしたらキューバじゃないかっていうのを、確か中南米研究の太田昌国さんから聞いたことがあります。話がちょっと飛びましたけど、パレスチナっていうのは、ひどいことがおこなわれているなあと思いながらも、なかなか難しい。地図で少しずつ説明してもらったんで、少しわかるんですが。では今の話に対して、何か質問でも意見でもありましたらどうぞ。私はこう思うとか、何でもいいんです。もちろん「山谷」の映画についてでもかまいません。どなたかございませんか。はい。
参加者A 東京などでガザ攻撃に対する反対運動やってて思うところを少しお話し願いませんか。
三井 主催者の趣旨を支持して参加してただけなんです。で、イスラエル大使館前っていうのは日本テレビのビルの角を曲がって、狭い道を入って、その先にこう入っていった所にあります。いつも日テレの駐車場の向こう側あたりで抗議行動やってたんですが、今年は日テレのある通りから中へ入れさせない。金属の柵をつくって、警察官がいっぱい並んで、入れさせなくなった。近所迷惑だからっていうんですが、そんなことは昔からなのに。とにかく入れさせない。あるいはトランジスターメガフォンを持って大使館前に行った人は、あれまで壊されたり。何十メートルの差といえばそれまでなんですが、イスラエル大使館に付いている警察の警備はきつくなった。これは政権との関係があるのかなって思いました。もう一つは、これは新宿で8月の初めに凄く暑い日にデモをやったんですが、何人かが「ハマスは停戦を守れ」っていう紙切れを持っていたりしました。これはPLO東京事務所のまわし者かと思うような外国人が、ハマスは戦争をやることでいくらイスラエルから金をもらってるのかっていう。そういうプラカードを持って参加している人達もいたんですよね。まあ戦争に反対するっていう大括りの中でやってることですから……そこでガチャガチャ言ってもしょうがないことなんですが、そういう人達もいるのかなと思いました。僕は別にハマスの支持者でもないし、ハマスこそが未来を切り開くと信じてるわけでもないんですが、ただハマスのあそこが悪いここが悪いって遠くから言ったってしょうがないってことです。起こってる事態を、そしてやっぱり戦争には反対すると。不正が行われてることには反対するんだっていうところでは、行動を起こしてけばいいかなと思っているんです。その辺も含めてメディアの報道が変なところにいくと、思い入れ、思い込みが強い人ほどハマスも停戦を守って欲しい。ハマスがロケット弾を撃つからイスラエルの攻撃が続いて、一般市民がああやって殺されていく。だからハマスは抵抗をやめて欲しいというようなスローガンにいってしまうのはちょっと残念です。平和裏の交渉が進むんだったら、なにもハマスもロケットなんか撃ちゃしないだろうと思いますし。今年の夏もそうですけども、もう十数年にわたって無人機やヘリコプターで、宗教的な組織ですから宗教的な指導者をドンドンドンドン殺されています。ですから、ハマスという組織だけじゃなくてパレスチナの人達にとっても本当に痛手でしょうし。そのハマスに向かって停戦を守れっていうスローガンを出すのはちょっと残念だと思いました。

ユダヤ人とアラブ人が共にデモをすることと
イスラエル国内での反動と暴力

あとは、ロンドンで5万人、パリで何万人だ、何十万人だっていうのを見てると、800人いるかなと思ったら主催者発表で650人だったんで、もっと人が来て欲しい。一発くらい大きなデモをやりたいなあって思いました。ちょっと忙しくて、そういうデモを準備する会議に出ている立場でもないので、あまり不平を言ってもしょうがないかなと思いますけれど。これはユーチューブで見ているんですが、ロンドンでもパリでも、アメリカの大きな都市でもユダヤ人、ユダヤ教徒がたくさんデモに出ていて。自分達は、私達はユダヤ人だけれどもイスラエルとは関係ない、イスラエルっていう国は我々の代表ではないと。それから、アメリカなんかで、髭をはやして黒い服着たユダヤ教の聖職者達が、アメリカにいるアラブ人と一緒に、パレスチナの旗を振りながら一緒にデモをやるというのがかなり増えてきたんだなと思って。非常に元気づけられました。一方で、イスラエルの国内の反戦運動に対する物凄い弾圧ですね。もう国内総在特会化してるんじゃないかっていうくらいで。読んだ記事なんですけれども、1500人ほどが集まって反戦派のデモを始めようとしたら、その何倍ものユダヤ教徒のイスラエル国民が集まって「お前達は売国奴だ」と。「お前達はイスラエルから出ていけ」と言って、そのデモをつぶすという。それでもう警察が間に入らないと大変なことになるくらいの騒ぎが起こったっていうのが何回か記事で読んだことがありました。それから朝、BSでやってる国際ニュースの、BBCだったと思うんですけども、国連の運営するガザにある学校をイスラエルが空爆して何人も亡くなったっていうニュースが出た後で、若者が「ガザには学校なんてないんだ」「ガザには子供なんていないんだ」ってギャーギャーギャーギャー叫んでいる。そういうのを見ると、ああなんか在特会だなこれはと思って。イスラエル国内の経済格差が非常に大きくなり、そして移民が増え、政府が移民を呼んでおきながら移民を排除する。アフリカ人は出て行けみたいな運動もあったり。それが入植地において組織的で過激な暴力的行動に出るようになる。パレスチナの居住区の上にバキュームカーを何台も持ってきて、糞尿を垂れ流すとか。子供を誘拐してはリンチして返すとか。そういう事件が日常茶飯になっているという記事を読んだりすると、イスラエル国内が凄いことになっている。それとは逆に、国外では「イスラエルとは関係ないぞ」と。「あんな戦争支持しないぞ」というユダヤ人の行動が大きくなってきている。まあそういうこともあって、東京でデモやった時にもうちょっと人がいっぱい来て欲しいなっていう気になりました。
参加者A ありがとうございます。
参加者B 東京新聞だけ読んでて、日本にいる。ネタニヤフが日本に来たのも全然知らなかった。でも東京新聞を読んで気付いたのは2つの記事です。1つは、それは秘密保護法の流れだと思うんですけど。日本がイスラエルと軍事的に条約じゃないんですけど、協力するというのを宣言してて。で、サイバーテロの技術を共同で開発するっていうのがあった。もう一つはパレスチナの空爆がまだ終わってない8月くらいの段階で。イランのテレビの放送を東京新聞は載せていて。それはイスラエル軍が使っていた無人機にソニーのカメラ技術が使われてた。イランのジャーナリストとテレビ局がソニーがイスラエル軍と一緒に武器を作っているというふうに報道してたんですね。だから、なんかつながってるのかなあって、ちょっと気になったんですよ。日本とイスラエルと、あと日本の動きの中で何が起こってるのかと。詳しいのがあれば。それから、マレーシア航空機のことは全然考えたことはなかったんですけれど、常識なのは、イスラエルは空爆する目標リストを持ってるんですね。都合のいい所に空爆するんです。一番わかりやすいのは9.11の後にすぐに空爆があったんです。あれは確か西岸のファタハの当時の政府のビルを全部壊したんですね。

イスラエルの占領ビジネスとしてのセキュリティシステム

三井 確かに、ガザの爆撃現場で落ちていた武器の破片の中で、電子基盤みたいなのが落ちていて。それはもう明らかにソニーと、写真によってはメイドインジャパンまで書いてあるのがわかって。これを今言われたイランの女性のジャーナリストが拾って、写真で広めたっていうのもあります。日本から行ってたトシクニさんなんかも写真を送ってましたけれど。実を言うと、昔からソニーのビデオ技術というのは性能がいいので80年代から軍事的に転用されていました。パーツで出ちゃうとどこにどう使われてるかわからないとか言いますが、わからないはずはないんですけれども。日本が今までやってきたような武器輸出三原則の中には収まらない。本当に民生用にも使えるし軍事用にも使われちゃう技術として、ソニーは昔から時々聞いたことがあります。ただ、今回のあそこまで執拗に人がいる所をピンポイントで狙うような武器にまで使われてるのを既成事実化させてはいけないとは思います。今、イスラエルの製品、特に西岸地区の占領地で作られた製品をボイコットしようという運動が盛んです。ヨーロッパなんかではかなり進んでいて。イスラエルのいくつかの企業は本当に困ってるらしい。それを日本で推進しようという運動体、ストップソーダストリームっていうんです。家庭内で薬と水を入れるとシューっと炭酸が出てきて、おいしいのが飲めるぞという。これが西岸の占領地に工場を作って、現地のパレスチナ人を雇って、文句言えばすぐ首切られる状態で作られている製品なんです。これをボイコットしようと日本でやっている人達が、今ソニーに公開質問状を出していますが全く返答がない。返答がないので、今公開しています。ウェブでBDSとかストップソーダストリームとか、イスラエルボイコットとかって検索すればすぐ出てきます。そこにはソニーに対して、これだけの人を殺傷する兵器に使われてるものを平気で輸出していいのかっていうことで追及してますので、読んでみたらいかがでしょうか。
それからサイバーテロに関してですね。今も東京オリンピックの警備のことが言われてます。僕はコンピューターとかの電子機器には詳しくないんですけど、例えばロンドンオリンピックの警備はチケットから、入場者のチェックから、何から、選手団の入国から全てイスラエルとイスラエルの企業が請け負ったっていう話を聞いています。冷戦体制下ではだいたいソ連をはじめ旧社会主義圏や、キューバなどのラテンアメリカ諸国、独立を遂げた国々はイスラエルを批判してパレスチナを一生懸命盛り上げたりしている側に立ってたんだけど、なぜか中国はいきなりイスラエルと国交回復しちゃったんですよね。今、中国の警察とイスラエルにとって共通の敵としているのはイスラム過激派ですから。中国でも西域の人達が時々爆弾仕掛けたりやってますから、そういう共通の利益なのかどうか知りませんけど、中国の警察の治安システムの多くがイスラエルと提携して、イスラエルの企業が入っている。あるいは中国の企業とイスラエル企業が技術提携をして防御システムや監視システムを作っていると言われてます。だから、ここ数年中国で事件が起こるとやたらに監視カメラの映像がニュースで使われてませんか。天安門広場で車が突っ込んで火つけたとか。刀を振り回してなんかやったとか。あれは全部イスラエルが中国の警察の下請けに回って提携しながら、そして中国の企業とも提携しながらやってる、そういうセキュリティシステムなんですよ。だから日本もオリンピックの警備やらで、それを導入してるのかなと思うと、かなりぞっとしてきますけどね。占領地を持っていて、占領地の人間を全部管理して、しかもそこからイスラエル国内に出稼ぎに来る労働者を監視しなきゃいけない。時間が来たら、イスラエル国内に止まらせないで、働いたら何時までに必ず西岸なりガザなりに返せという出稼ぎ労働を受け入れているイスラエルですから。人々を監視する。ナンバーを付ける。出入りを管理する。占領地とその外との交通を監視するっていうことに関しては、非常に長けている。そういうような条件の中でイスラエルの技術は成長してきたんじゃないかなって思います。イスラエルは占領地ビジネスのうまいところをロンドンでも北京でも東京でも行っている、あるいは行おうとしているんじゃないかなと。それが日本、イスラエルのこういう関係強化というのに含まれてるんじゃないかと思います。
司会 そろそろ時間なんで。よろしいですか。それじゃあ今日はこの辺で。隣で飲み物を用意しています。時間がある方はもうちょっとこの続きの話や、リラックスして観点を変えての話など、ご歓談ください。本日はどうもありがとうございました。どうも三井さんありがとうございました。
[2014.10.18プランB 文責・山谷制作上映委員会]

スキッド・ロウとジェントリフィケーション

友常勉(東京外国語大学教員)

スライドを見ながらロスのスキッド・ロウを語る 

友常といいます。僕に要求されているのは今観ていただいた「山谷-やられたらやりかえせ」の現代的な意味を確認する、あるいは他の言葉に置き換えるということだろうと思います。その時に参照するのがロスアンジェルスのスキッド・ロウという、アメリカで有数のスラム地域で、そしてその現状を報告しながらこの映画との関係をできるかぎり語ってみるということだろうと思います。
ロスアンジェルスですが、グーグルマップのマークが付いている所が大体ダウンタウンディストリクト、まあ中心地ですね。ロスに観光に行き、最初に空港から入るとしたら、たぶんダウンタウンディストリクトのリトルトーキョーあたりに行くのではないかと思います。そこを少し拡大しますと、大体こういう感じになります。これがダウンタウンですね。お土産品なんかを買ったりするのがたぶんこのあたり。いわゆるスキッド・ロウはこのあたりに位置しています。山谷よりは大きいかもしれません。アラメダ・ストリート、サウスアラメダ・ストリートとイーストセブン・ストリート、それからイーストサード・ストリート、あとサウスマルティニ・ストリート。4つくらいの大きな道路に囲まれた地域ですね。ここがロスのスキッド・ロウというスラムです。寄せ場ではなく、スラムです。
寄せ場とスラムは違います。労働者がストリート・レイバーマーケット、道路で自分の労働力を売るのが寄せ場ですね。スラムというのは貧困者やホームレス、野宿者がそこに集住していく場所です。もともとは寄せ場に近い性格を持っていたんですけれども、やがてスキッド・ロウはスラムになっていきました。ちなみにスキッド・ロウに隣接したダウンタウン、周辺はみんな観光地でもあります。コリアンタウンとかチャイナタウンっていうのは観光地というよりは在米コリアンやチャイニーズの集住地域、まあメキシカンの集住地域とも重なっていますが、そういう地域なんです。商業地区でもあると同時に居住地区でもあります。日本人がリトルトーキョーに遊びに行ったりすると、その隣にスキッド・ロウがあります。でも、タクシーで走っていったりすると、そこには止まりません。危険な所だからということで通り過ぎることが多いと思います。地元の大学生の話を聞いたことがありますが、スキッド・ロウがどこにあるか知らなかった。山谷がどこにあるか台東区の人達が知らないのと一緒で、見ようと思わなければ見えないものですね。
あとで説明しますが、ロスアンジェルスにはツインタワーと言われている医療警察複合施設があります。これがそのツインタワーと言われているものです。ツインになっていて、手前にあるのが男性刑務所と医療刑務所が一緒になっているもの。そして奥の方にもう一つ刑務所施設があります。世界最大の刑務所と言っていいと思います。これとスキッド・ロウは深い関係があります。スキッド・ロウの北の方にはファイナンシャル・ディストリクトといって産業、ビジネスの中心街が見えます。それがどんどんスキッド・ロウの方に迫ってきています。ここら辺が産業的に開発が進んでいる所ですね。スキッド・ロウがこのあたりにあるとしたら、こちら側は少し古いビジネス街で、商店街というか、ニューヨークの五番街みたいな所です。割とコジャレたレストランとかオフィスが並んでいます。こちら側から、段差があって、エンジェルスフライト鉄道というケーブルカーがあり、それで上の地区に登っていきます。そこにはファイナンシャル・ディストリクトが上にあって、ディズニーのコンサートホールがあります。そういう文化施設のある地区がスキッド・ロウを包囲しているというのがロスアンジェルスの今の再開発の現状です。

警官やガードマンから常にハラスメントをうけているホームレス

これは僕が撮った写真と、スキッド・ロウに関わるいろんなジャーナルやニュースペーパーから取った写真です。これはミッションと呼ばれているシェルターの中の様子ですね。寝泊りすることができるので、スキッド・ロウの住人達、ホームレスの人達はこのようなミッションの中のベッドで夜を過ごすわけです。これは街の中の様子です。10年くらいここで撮影をしている写真家がいて、その写真集から取ったものです。いろんなハラスメントが警官によってされているので、その様子ですね。なかなかカメラは向けられないんですが、普通に街を歩いてればこれはしょっちゅうあることです。昼間横になってはいけないんです。朝6時から夜9時まで、路上で横になっていてはいけない。その時間に路上に寝てると逮捕されるか、あるいは警官にハラスメントされます。
壁画もたくさんあります。スキッド・ロウの住人達はこういうふうに買物かごを持っています。それに自分の荷物を預けています。ここにショッピングカート・フォー・ザ・ホームレスと書いてありまして、この買物かご、カートに窃盗、盗まれた物でないことを証明する札が付いています。これが付いてないと窃盗だとみなされるので、みんなこれを付けています。
ちょっと見えづらいですが、街の様子です。あとでこれも説明しますが、様々な支援組織があって、そこで働いてる活動家の一人です。彼に案内してもらいました。スキッド・ロウの中の彼のアパートの中に入れてもらったことがあります。小綺麗なアパートなのですが、スキッド・ロウの住民だということで安い家賃で入っているはずです。彼はニューヨークで弁護士をしていたんですが、アルコール中毒の患者になって、それでロスアンジェルスまで流れてきてスキッド・ロウの住人になった。現在はLA CANという支援組織の活動家です。
次に医療センターです。スキッド・ロウの住人だということがケア・ワーカーによって証明されれば無料で医療が受けられます。山谷の労働者、先程の映画の中でも歯がない労働者がいましたが、歯がないとソーシャル・ワーカーが口添えすれば歯の治療をしてもらえます。ですから、入れ歯をちゃんとしています。
これはミッションと呼ばれているキリスト教のシェルターの一つです。その前に、赤いポロシャツを着た男性が立っていますが、これが地元の商店街の人たちが雇っている私設のガードマンです。このガードマンが路上で寝ている者や、商店の前にいるホームレスを蹴散らすというようなハラスメントをしょっちゅうしています。ガードマンは催涙スプレーと警棒を常時携帯しています。まあこんな感じです。スキッド・ロウのホームレスの人達が路上で寝ているところをそのまま撮影するわけにもいかないので、こんなふうな風景になってますが、両側にはずらっとこうカートなりなんなりが並んでいて、左端にも見えますが、みんなそういうふうにして暮らしてます。奥の方にたぶんロス最大の警察署が見えるんですが、スキッド・ロウの中に警察署があります。山谷のマンモス交番や釜ヶ崎の西成警察署と一緒ですね。寄せ場の中に警察署がある。
スキッド・ロウの支援組織、支援団体の中にはアートや音楽を通して社会復帰をするための施設があります。これがそのLAMPコミュニティー・センターの様子です。セラピーを受けたり、居住の保証を受けたり、あるいは技術訓練、職業訓練をしたりしています。自己表現のための絵を描いたり音楽をしたりということもこの中でおこなわれています。中は結構広いんです。とても優秀なスタッフがいます。
この写真は竪川の様子、江東区の竪川の様子ですね。ちょっと写真が混じってました。スキッド・ロウから転じて竪川を見ると、なんとなく風景が似ていますから、それでつい一緒にしてしまいました。きれいにジェントリファイされた居住空間がホームレスの人たちが住んでいる空間を圧迫していくという構図は、スキッド・ロウに似てないこともない。用意している映像はこれだけなんです。あとは具体的な話をしたいと思います。ちなみにスキッド・ロウの中では様々なボランティア活動や音楽活動がおこなわれています。ヒップホップのグループのエックスクランとか、いくつかのグループがおこなっているスキッド・ロウのミュージックコンサートをユーチューブで見られます。

スラムとしてのスキッド・ロウの成立

では用意したレジュメに沿って話をしていきたいと思います。スキッド・ロウというのは今、見ていただいたようにロスアンジェルスのダウンタウンに位置しています。およそ人口1万2000人と言われています。ホームレスの数は、ロスアンジェルスは全米で最多です。そしてスキッド・ロウはロス最大のホームレス集住地と言われています。住民の貧困率は最も高く、黒人、ラティーノが中心ですね。多くはアルコール中毒とドラッグ中毒をかかえています。1970年代には住民の67パーセントが白人で黒人は21パーセントだったんですが、現在は逆転しています。
先程、ファイナンシャル・ディストリクトが押し寄せてきていると言いましたが、90年代からジェントリフィケーションと言われる、つまり貧困層、労働者階級を追い出して中・上流階級のための様々な居住施設を建設し、それに合わせた街づくりをするということが進んでいます。ジェントリフィケーションというのは同時に金融資本が押し寄せるということでもあります。中・上流階級層がマンションや様々な施設を利用するようになれば、それに合わせて保険にも入りますし、あるいは子どもを学校に入れたりもします。そういうことをして様々な資本が土地や空間を支配していくことになります。同時に、そういう階層はセキュリティー空間を拡大していきます。そして、そのセキュリティー空間は黒人や貧困層、ホームレスを犯罪者であるとみなしていきます。あるいは犯罪者視を強めていきます。これを「モラル・パニックを煽る」と言いますが、近隣住民のモラル・パニックを煽っています。
あの2007年から2008年のいわゆるサブプライムローン――低所得者層が一戸建を買えるという夢のような金融マジックがあって、それは非白人層からたくさんのお金を収奪しました。そういうことを通して、スキッド・ロウの貧困率が一気に上がって現在にいたっています。今のスキッド・ロウの近くには鉄道はないんですけれども、もともとは1870年代から鉄道が敷設され、駅もできまして、そのまわりに小さなホテルが集中してできました。それで、1930年代までに単身男性の移民労働者が集まって来たんですね。鉄道があってホテルがあって、そこに人が集まる。それに合わせてミッションと呼ばれる簡易宿泊施設がまわりにでき、さらに人が集まってきます。特に30年代の大恐慌の時代に家族を捨ててアル中になったホームレスが集まるようになりました。これが一つの契機。
それから第二次大戦とベトナム戦争です。地方からやって来た兵士や青年が一時的にスキッド・ロウのあたりに滞在します。その滞在場所になったことが契機で、帰還した兵士たちがドラッグ中毒やアルコール中毒、あるいは精神を病んだりして、結局地元、田舎に帰らないでそこにとどまるんですね。そういうことが続きます。ベトナム戦争以後というのはアルコール中毒の白人層が多かったんですが、それが80年代にはドラッグ中毒の黒人層が中心になっていきます。
現在1万2000人の住民に対してロスアンジェルス市は6500人分の単身者用の部屋を用意してます。それから2000のベッド数をシェルターとして保証しています。しかしそれだと足りないわけですね。ロスのホームレス・サービス局とかロス市警によると2000人から4500人、あるいは5000人のホームレスが路上で暮らしていると言われています。70年代から医療ケアや住居保証を進めるようになってたんですが、ボランティア活動、あるいは基金を集めるということを通してロスの様々な支援組織がつくられています。一つがロス・コニュニティー・アクション・ネッットワーク、LA CANと言われているもの、それからLAMPアートプロジェクトというものがあります。それらは住居、人権、医療ケア、社会復帰プログラムを用意しています。さらに先程見てもらったようなミッドナイト・ミッションと言われるキリスト教系の簡易宿泊施設があるわけです。で、その簡易宿泊施設に行けば、ボランティアで集められた服もありますし食べ物もあります。歯磨きだって何だってあるのですね。暮らしていこうと思えばミッションの中で暮らしていけるのです。ただ、お金は貯まりませんからスキッド・ロウから出て行くことは不可能だろうと思います。それに、無料で医療が受けられるといっても、実際そこで住むというのは大変な困難と差別を強いられることになります。

産獄複合体による刑務所収監人口の激増

アメリカのスキッド・ロウについて語るということは、アメリカで突出している産獄複合体について語ることだろうと思います。プリズン・インダストリアル・コンプレックスと言います。1980年代以降の社会というのは、日本も含めて全世界でそうだと思いますが、貧困は犯罪としてみなされます。ということは貧困者、経済的困窮者というのは監視の対象です。それが可能な社会や国家ができ上がっています。刑罰国家、監獄社会ができ上がっているのですね。そうして、そういう刑罰、監獄社会をビジネスにするというのが次の段階です。このビジネス化がずっと進んでいるのがアメリカの産獄複合体だと考えてください。スキッド・ロウの中で住民たちは日常的に警官と私設ガードマンによってハラスメントされています。簡単な罪で逮捕される。さきほども言いましたように、朝の6時から夜の9時まで路上で寝ていてはだめなのです。路上で寝ていたら、それで逮捕されますから。それで、軽微な罪で逮捕され、刑務所とシャバを普通に行き来しているんですね。すると、当然ながらブラックリスト化されます。一度逮捕されるとメンタル・チェックもされますので、それによってアルコール中毒やドラッグ中毒患者としてブラックリスト化されます。市民的権利をそれによって剝奪されます。
アメリカ社会の産獄複合体、監獄社会化についてはアンジェラ・デイヴィスの本がよく知られているので、そこからデータだけを拾っておきますと、アメリカは異常に刑務所収監人口を増やした国です。1970年から2006年の間で8倍、230万人に刑務所収監人口が達しています。さらに執行猶予および保護観察下にある者は合計720万人、犯罪経歴を根拠にして参政権を剝奪されている者は500万人に達しています。アメリカ刑務所の収監人口比率は2006年で10万人あたり750人。ちなみにロシアで600人、日本は50人というデータがあります。
収監人口が増えた一番の理由は麻薬犯罪が厳罰化されたからです。一方で、殺人犯罪件数は1990年代からずっと減少しています。日本でもそうですね。ずっと減少しています。あくまで収監人口の激増の主要な理由は麻薬犯罪で、同時に刑期が長期化していきます。長期化するとどうなるか。警察、裁判、刑務所関連予算を増やすことになります。これがビジネスにつながります。監獄ビジネスが民営化されて、民営監獄が増えているのです。過疎地があるとしたら、その過疎地を再開発するために監獄を誘致する。その中で低賃金労働がおこなわれています。さらに犯罪報道をテレビの三大ネットワークが煽るということを通して、警察、裁判、刑務所関連予算を増やす世論が形成されていきました。これを産獄複合体と言います。こういう複合体はどの国でもいつでもあるじゃないかと思われるかもしれませんが、福祉と警察、それから裁判と監獄というような様々な利益体、形態が簡単に結びついて、安易に結合したり分離したりするというのは今までになかったことでした。それができるようになっているという意味で複合体と呼びます。
アメリカのこのプリズン・インダストリアル・コンプレックスの特徴は、麻薬中毒患者を収監することを通して精神病棟の経営と監獄経営を一体化させることに特徴があります。先程あのツインタワーを見てもらいましたが、それが一つの典型です。このツインタワー自体は1500万㎡の面積で世界最大の刑務所です。男性中央刑務所、拘置所、医療施設、それから矯正施設が二つあって、これがタワー1、タワー2と言われています。ここからツインタワーと呼ばれています。全体収監人口は9500人に達しています。ちなみに日本の最大の刑務所は府中刑務所で、4500人くらいだと思います。その倍ですね。収容者は精神病の治療のために薬物を投与されます。薬物投与だから製薬ビジネスと結びついています。また刑務所の中では日常的に暴力と人種差別にさらされています。こういう報道は様々なメディアの中で伝えられています。

産獄複合体と麻薬ビジネスのシステム

配布した資料の中に、僕がインタビューをした日本人の話の一部を掲載しておきました。どのようにスキッド・ロウの住民になるかがわかる一例です。彼の名前をJとしておきますが、80年代に観光ビザでアメリカに入国。日本レストランで働いていたけれど、86年移民法の改正でレストランを解雇されたあと、89年からスキッド・ロウで暮らすようになった。仕事を失った大晦日に近いある日の夜にブラブラしてたら焚火にあたっていた黒人のホームレスに誘われて、日本人だからJなのかもしれませんが、Jという名前でそこで暮らしてるんですね。彼はビジネスとしてスキッド・ロウの中でわりと成功しているのです。
彼の話によると、住民達がどういう生活をしているのかがわかります。現在は月221ドルの州政府から出る生活保護、それからチラシ配りの日払いの仕事、それで月600から700ドルくらいになります。スキッド・ロウの住民は地区内のアパートメントホテルを格安で借りられます。ホテル代が普通は月600ドルはしますが、それが62ドルの家賃ですみます。残りは州政府が負担します。先程言いましたように、ミッションに行くと新しい服や靴、食事、それにシャワーがあります。医療ケアも受けられるので221ドルの生活保護で暮らしていけるようにみえるかもしれませんが、実際にはそれは無理です。
日本の寄せ場はすごく高齢化しています。釜ヶ崎がそうであるように生活保護を受けて生活保護者向けの福祉アパートに入ったりしています。でもスキッド・ロウの住人は凄く若いのですね。本当に若い。少年、青年もいっぱいいます。若いけれども90パーセント麻薬中毒の患者なんですね。簡単に買えますから。そこでドラッグをどんどん売ってる。バイヤー、小売人がそこらじゅうにいるからです。Jをインタビューしていた公園はもうそこらじゅうに売り子がいて、その公衆トイレの中でみんな吸引しているのです。それで年金が支給されると、小切手が支給される時にバイヤーが全部吸い上げてしまうんですね。そういう状態の中でドラッグとアルコール中毒漬けになっているのです。221ドルの生活保護を毎月もらっていたとしても早い人で1日、長くても3日か4日くらいで全部ドラッグに消えていくんです。だから、ミッションや路上で暮らすしかない。そして、人格も破壊されていくという状態が続く。ミッションの中に入れば、それなりのケアが受けられるのですけれども、外に出たらやっぱり元の木阿弥だと、Jは言っていました。
なんでこういうことが起きているのか。アメリカの麻薬ビジネスに対しては、それなりに報道されています。麻薬との戦争はうたわれているのですが、しかし最も巨大な麻薬ビジネスを運営している本体そのものを問題にして全面的に解決しようとはしていないようにみえます。むしろ麻薬ビジネスで様々な収益がある。麻薬中毒が増えれば、プリズン・インダストリアル・コンプレックスの中で利益が上がりますから。そして、そういうプリズン・インダストリアル・コンプレックスの中での利用価値、利用される意味を世論に何度も喧伝するためにスキッド・ロウのような場所が保存されているとしか理解できない状態が続いています。麻薬に対する戦争っていうけれども、それに実質がともなってない。戦争の敵だけは残しておいて、それによって戦争の犠牲者である麻薬中毒患者になっている人たちに対してハラスメントを続けているだけです。
実際、Jをインタビューしていた公園には20台くらい監視カメラが付いてるんです。隣は警察署ですよ。そこで麻薬を売っているのに、ディーラーもいるのに逮捕しようとしない。野放しなのです。日常的にそれを駆逐するための政策をおこなっているわけではないのです。これは麻薬ビジネスのシステムそのものを保存しているのじゃないか。つまりスキッド・ロウは大きな意味での産業監獄精神医療複合体の共同利益の一部になっていると考えています。『山谷―やられたらやりかえせ』の中では宇都宮病院の映像が出てきますけれども、寄せ場の運動ははじめから寄せ場の日雇労働者と精神医療の問題を気付いていて、早い段階から告発をしていました。その点で、ビジネスとして国家規模で展開されているのがアメリカの場合だと思います。
そのようなスキッド・ロウの現状をみた時に、今どういう闘い、運動が求められているのか。それはホームレスが中心になっている運動だから、居住を求める闘いというのが重要だろうと思います。2010年にスキッド・ロウの住人でLA CANの活動家であるデボラ・バートンという人が国連の定期レビューの中で、ロスのホームレスの人権侵害についての報告をおこなっています。彼女は警察によるハラスメントや移動や収監を非難して、それが国家的におこなわれている実態を批判しています。また一方でLA CANがやってる活動の意義を強調して、アメリカ政府のホームレスに対する政策と、政府の政策が産獄複合体ビジネスの末端化していることに対して、国際的に圧力をかけてくれということを要請しています。ロスのホームレスに対しておこなわれている人権侵害は国際社会が責任を取るべきことなんだと。これは1948年に採択された国連人権宣言第25条違反になります。国連人権宣言第25条は居住の権利をうたっていますから、居住の権利というものをテコにしてスキッド・ロウの現状を批判し、国際社会による圧力が可能であるということです。さらに、スキッド・ロウの支援組織はより高度な政治的なスローガンも掲げていまして、居住権を求める闘いというのは現在進行している新しい人種主義的資本主義の――彼女はそう言いますが――政治・経済に対する挑戦だと言っています。そういう国際的な運動の中に居住を求める闘いを位置付けていて、それがスキッド・ロウの闘争の中心的なスローガンの一つだということを強調しておきたいと思います。

ジェントリフィケーション――中・上流階級が貧困層を駆逐する

居住の問題にかかわって、ジェントリフィケーションについて説明したいと思います。ジェントリフィケーションというのは、簡単に言うと、中・上流階級が貧困者、労働者を駆逐して街を浄化していく、そしてアパルトヘイト化していくということを意味しています。ジェントリフィケーションの内容に関しては、90年代から2000年代にかけて、ニール・スミスを中心にして理論的に精緻な議論がされるようになりました。ニール・スミスの主著は原口剛さんの訳で『ジェントリフィケーションと報復都市 新たなる都市のフロンティア』(ミネルヴァ書房)として出版されていますので、参照してほしいと思います。とくに地代格差論について提起している部分が参考になります。これを用いて説明してみます。
たとえば山谷でも釜ヶ崎でも、そしてスキッド・ロウでもそうですけれども、様々な社会的な開発によって、自分たちを排除し駆逐する弾圧や大きな権力がやってきます。でも、いつ開発が始まるのかの予測はできないのですね。いつ開発が始まるのか。現実的にタイムスケジュールが出せるわけではないけれど、でも東京の場合だったら東京スカイツリーができ上がって、隅田川の、墨田区の向こう側から始まってきています。一方では、2020年の東京オリンピックがプログラム化されていて、まわりから地代が上がっています。そうすると今までは資本に活用されない場所、山谷のような場所や、釜ヶ崎、そういう場所は相対的に値段が下がっていく。そうして、寄せ場との地代の格差が拡大した時に、ジェントリフィケーションという開発が始まる。そして、ジェントリー資本がやってきて都市開発が進んでいき、それが階級的で人種差別的なアパルトヘイトをつくり出すことになる。これが地代格差論にもとづく説明です。
こうした性格の開発に対抗するためには、そこに住んでいる人たちがジェントリフィケーションや中・上流階級の価値観に基づかない、そういう資本の価値や階級的な生活の価値観に基づかない権利をいかに行使し、いかに社会が守れるかということになるのだろうと思います。そういう政治プログラムをこちら側からつくらないといけないということです。
ちなみに西成の釜ヶ崎では、西成特区構想というのを橋下市長が提起し、さらに「あべのハルカス」という商業施設がつくられて都市再開発が進められています。これはジェントリフィケーションが釜ヶ崎で起きていることだろうと思います。そして山谷でもそれが迫りつつあるのではないか。で、それに対抗していくためのこちら側の、ジェントリフィケーションや開発ではない価値観に基づく運動、地域社会づくりが必要になるだろうと思います。
釜ヶ崎や山谷をはじめ、様々なところでみられる日雇労働や重層的下層労働、もちろん原発での除染労働も入るのですけれども。そういう労働の中で問われている課題に答えるために、今、関西や東京の友人たちと一緒に、従来の寄せ場の労働運動、そして様々な現場の闘争の歴史の読み直しをしています。その読み直しの中にはイタリアのアウトノミア運動とか現在の反グローバリゼーションの運動も含まれています。そういうことを通して、かつての寄せ場、現在の寄せ場を自律的な空間として再創造する、そのような活動を一緒にできればいいなと思っています。

ホームレスに対する差別的心理は連鎖的に形成される

司会 50年ほど前は産学協同というのが批判されましたが、それを飛び越えましていまや産獄複合体というとんでもない時代になってきたなあと。時間がまだちょっとありますので、なにか質問あるいは意見がある方はどうぞ。はい。
参加者A ちょっと用事があって映画は観られなくて、講演を聞くためにやって参りました。ニューヨークのジュリアーニ市長時代の、いわゆる割れ窓理論の一種の神話化、批判は出ているものの再び最近、日本のマスコミなんかでは割れ窓理論が常識みたいなことを言う人が多いんですよね。ラスベガスやニューヨークが浄化して成功した例として、今だに日本だけじゃないと思いますが、マスコミとかビジネス・スクール系とかで、取り上げられてます。それが西洋から非西洋世界にも広がりつつあるということに対して、友常さんの、我々の側の対抗論理って言うんですか、どう対抗していくかということでヒントをいただければと思います。
友常 こういうことを始めたのは最近なので、ニール・スミスのサーヴェイにならって考えるしかないのですけれども。ジェリアーニとその前の市長の時代におこなわれていた政策の中で、結局トンプキンズパークから追い出されたホームレスたちはどこに行ったかというと、JFケネディの空港からダウンタウン、マンハッタンに入るまでのドライブのあたりですよね。あのあたりに全部追いやられていった。高速道路のまわりに塀で囲まれた所にホームレスが押しやられていくわけです。そこに追いやられてしまうと、もう見えなくなってしまっているのですね。だから成功したっていうよりは見えなくなったということです。そうして見えなくさせられたということで、大きなモラル・パニックみたいなものを防いだということです。そこで議論が沈静化したわけです。でも、その後も問題は残っていて、その高速道路のまわりの中・上流階級の住民達が今度はその新しいホームレスに対する差別と敵対を強めていくわけです。それで随分、問題になっていたというのは聞いています。
白人だけじゃなくてアジア系も入るのですが、中流階級層、上流階級層のモラル・パニックがとても上手に利用されていったと思います。その時にニール・スミスが報復主義として整理した議論がすごく有効です。ホームレスに対する差別的な心理というのは連鎖的に形成されるということだったと思います。市場や開発の理論の中にそれをうまく組み込んで説明をしないといけないのだろうと思います。その点、ジュリアーニが果たしてそこまで考えたかどうかわかりませんが、非常によく機能したのじゃないか。報復主義が差別・敵対心を市民の中に連鎖的に形成させることで、ニューヨークにおいてそれは成功したというか一定の実現をみたという気はしています。
参加者A 新宿浄化作戦も……
友常 同じですよね。結局、都市計画の議論の中に集団的に形成される差別意識をどういうふうに組み込むかということになるのだろうと思うのです。それをどれくらい地代論とか地代格差論などの議論をもって説明ができるかということにかかっているのかもしれません。活動家はすでに実感的に肌でわかっていることなのですけれども。それが市場の中で、マスメディアなども通して報復主義として機能してしまっているという現状ですね。
参加者A まずいことに、我々も日本で生活する以上は日本の産業が国際的に負けてしまうのはまずいんじゃないか、例えばシンガポールとかソウルとかに対抗して東京がもっと魅力的になるには、という議論にはまってしまいがちになるわけですね。

ジェントリフィケーションを繰りかえすのが資本のプログラム

参加者B 私は芸大で木幡和枝先生の教え子でした。先日NHKの討論番組で移民というか外国人労働者の受け入れについての番組に出ました。移民を受け入れていけば、同質性の高い日本人の方向性としては排他的な行動が出てくるんじゃないか、そしてそれによって何か社会がつくり替えられてしまうんじゃないかとみんなが漠然と思っている。友常さんは移民政策において、ホームレスに対することと同じようなことが起こるというイメージはありますか。
友常 こういう議論になると、私が答える話ではないのじゃないかという気もするのですけど。89年に日系ブラジル人の受け入れを、基本的に三世までは制限なしで拡大しました。リーマン・ショックで結局、30万円を渡して追い出してしまった。期限付きですよね。日系ブラジル人にしてもそうでしたし、それ以外の移民労働者に関しても5年とか3年という在留資格。永住も可能な、日系ブラジル人と同じような処遇の移民労働者の受け入れに方針が変われば社会状況は変わると思います。それからコード化された移民労働者の受け入れ方をするのか、それとも地域社会を含めてどんな出会い方もありえるような受け入れ方を選ぶのか、この差は大きいだろうと思います。私の大学の経験で言うと、日本人と留学生がコード化された出会いしか持たなかったらば、関係性は多様にはなりません。
『Furusato2009』という映画があります。これは『サウダーヂ』という映画を撮った富田克也さんと相澤虎之助さんたちがつくった映画です。山梨県の中央市に山王団地という団地がありまして、そこの住民は6割が日系ブラジル人で、自治会長までが日系ブラジル人です。そしてみんな仕事がない。まわりの地域社会、隣接している日本人のコミュニティーとまるで没交渉なんですね。そういう意味で、日本人とはコード化されている出会い方になると思います。そのもとで、日系ブラジル人が車上荒らしをしているというキャンペーンがローカルな所でされて、居づらい雰囲気がつくられています。開発と一緒で、一挙にではないかもしれないけれど、まわりから排除がされていく条件はいつもつくられているように感じます。
参加者C 大阪のあべのハルカスをたとえて中・上流の所得層の人達がアパルトヘイト的に人を駆逐していきますよってことですが、本当にそうだと思うんです。そうしたら、その先はどういう予測がされるんでしょうか。例えば、ホームレスの人が減るのか、減らないのか。彼らは生きやすくなるのか。生きにくくだと思うんですけども、どんなふうにこの先が待ち構えているんでしょうか。
友常 日雇の労働者達とそれから新しいホームレスがゆっくり押し出されるように駆逐されていった。そして押し出された先で、もう一回ジェントリフィケーションが起きるのだろうと思う。それは無限に続くというのが資本の運動だと思います。ここでまた起きる、そして次は山谷でと。釜ヶ崎に隣接する飛田はちょっと違うかも知れませんが、飛田もきれいになりましたからね。そこの土地の値段が下がって、あるいはまわりの土地が上がって、そこを追い出した方が資本にとって利益が上がるとしたら、追い出すでしょう。だから資本の運動にとっては土地の値段を下げるために、ある意味でホームレスが必要だったりします。産獄複合体の発想はそういうことです。その土地の値段を下げていくためにマイナスの要因が常に必要になります。価格の格差が拡がって利益が上がる時に、資本は一挙に開発すればいいわけですから。これを永遠に繰り返すというのが資本のプログラムなんじゃないかと思います。
参加者D 私は大阪生野区に10年住んでいました。生野区は在日朝鮮人がたくさん住んでいる街です。西成も釜ヶ崎も結構近くて、よくそこから日雇のバイトに行ったりしてました。ロスアンジェルスの80年代に、あのロス暴動があって。エスニック・コミュニティー同士の対立という問題にすり替えていいのかわかりませんが、そういうのがあったわけですね。そういったエスニック・タウンとスキッド・ロウとの関係はどうなんですか。スキッド・ロウでの街づくりと、エスニック・コミュニティーのロス暴動以降の関係性。資本のつながりとかはどうなんでしょうか。近くなんですか、場所は。
友常 結構離れていますね。ブロックでいうと相当離れています。二駅くらい違うと思います。1992年のロス暴動の時はスキッド・ロウも戦場になっていたと聞いています。隣にメキシカンのディストリクトがあって、繊維・衣服系の、衣料系の店がたくさん並んでいるのですが、そこは随分襲撃されました。従業員はメキシカン、ラティーノなのだけれども資本、商店主はコリアンだったっていう。だからエスニック・コンフリクトだったと思うのです。それで、コリアンタウンではロス暴動のあとエスニック・コンフリクトを和らげるような取り組みが随分進んでいましたね。一緒に協同作業をしたり、青年組織が様々な取り組みをしたりして、住民同士のつながりをつくるようになっていました。そういう意味では、商業施設の中のエスニック・ハーモニー、ハーモナイゼーションを進めるっていうのが地域のスローガンになっています。つまり資本がそういう方向で、商店主達もそういう方向で動いています。
これに対して、ではスキッド・ロウはどうか。まずスキッド・ロウそのものはそういう資本が動く場所ではないです。基本的にあそこはアパートと、それからリテール・ショップがすごく多いのです。そういうリテール・ショップの資本を持っているのはコリアンが中心になるかと思います。リトルトーキョーも実はマンションはほとんどコリアン資本、韓国資本です。たぶんスキッド・ロウにも韓国資本が入っていると思いますが、その資本家達の動向はまだ分析できていません。今現在、エスニック・コンフリクトのような自分たちの利害に関わるような問題が起きているわけではないですから。むしろメンテナンスをしないでそのままにしておいて、もっと利益が上がるくらいに劣化していった時に開発を一挙にやってしまえばいいということなのじゃないかって気がします。しかしその分析はこれからの課題にしたいと思います。
司会 まだ続きがありそうな雰囲気なんですが、この場所はここでお開きにしたいと思います。本日はどうもありがとうございました。時間の許す方がありましたら隣に飲み物なども準備してありますので、ゆっくりとどうぞ。
(2014.8.16、プランB)

行政の排除に抗して――竪川や荒川での野宿者のたたかい

向井宏一郎(山谷労働者福祉会館活動委員会)

山谷―寄せ場のゆるやかな解体
向井といいます。山谷の映画は84、5年だから30年前ですか。今の山谷の街、それから映画に出てきた山谷の労働者、そして運動ですね。山谷での社会運 動がどうなってるのかという話を映像も交えて話していきたいと思います。で、皆さんの手元にお配りしている資料が二つあると思います。一つは「インパク ション」という雑誌にこの春に載った文章です。山谷の街っていうのは寄せ場の解体、緩やかな解体がここ20年、30年かけておこなわれていて。今は、かつ ての寄せ場としての機能は、非常に縮小されてしまっています。今、山谷の街がどうなってるのかって言うと、寄せ場の解体っていうのが一つのキーワードかな と思います。
1980年くらいまでは、寄せ場、つまり「日雇い労働者がドヤに泊まって、そこから日雇いの仕事に行く街」として全国各地にありました。使い捨てのきく 労働力として、何千、何万の人が小さな街に囲い込まれる形で。そういう寄せ場が国とか資本の要請があって、作り出されたというのは間違いありません。例え ば、オリンピックの前後に山谷の真ん中に、政府の大臣が来て、「とにかく土木の仕事が大事だから皆さん頑張って欲しい」みたいな挨拶をするということも あったそうです。だから本当に必要とされて、権力、資本によって作り出されたものなんですね。それが、バブルの時期を境に徐々に日雇い労働というのが形を 変えて、その10年後、物凄い勢いで社会全体に広がっていった。具体的には派遣労働であるとか非正規労働という形になってると思うんです。今、土木、建築 の日雇いの仕事は、寄せ場からの求人が凄く少なくなっています。なくなったわけじゃなくて、例えば新聞広告であるとか、それから工務店が人々を自分のア パートに住ませてそこから仕事に行くっていうのが主流になった。それが80年代、90年代からだったと思うんです。とにかく寄せ場から日雇い労働者が仕事 に行くというのが、労働力のルートとしては縮小されていった。それで、90年代の半ば、バブルの崩壊があって。それがやっぱり凄かったんですよ。
この「山谷労働者は寄せ場の系譜を突きつける」っていう文章を見ていただければと思います。「インパクション194号」の記事です。一番上の段落の、真 ん中くらいに書いてあります。「ここ20年間、山谷でおこってきたのは、寄せ場(日雇い労働者の特定の地域への囲い込み・集中)のゆるやかな解体だ」と。 バブルの崩壊の時がたぶん一番山谷の中に野宿者が増えた時だったんですよ。それまでドヤで寝泊りして、ドヤっていうのは簡易旅館、安宿ですね。今だとベッ ドハウスで1,000円くらい。個室だと2,200円とか。ビジネスホテルだともっと高くなっちゃうんですけども。そういう所に泊まって日雇いの仕事に 行っていた仲間が、バブルの崩壊の時に大量に山谷の街の中に吐き出されるということがありました。これが一つのきっかけだったんです。山谷の労働者がどう なったか。一言で言えないんだけど、あえて言うなら野宿者になったと。野宿労働者として、野宿しながら公共地を占拠して、そこで暮らす一つの集団が生み出 されたんだと。それは、この文章の一番下の段落に書いてありますが、「解体されつつある寄せ場の労働者たちを母体として、一つの社会集団」、「社会集団」 と言っていいと思うんですね。それが形成され生み出されたと。「仕事を奪われたうえ、全ての施策から排除され、寄せ場から追い出された人々が、自前で公共 地に小屋を建て、勝手に住みはじめた」。これは物凄く大きな出来事だったと思います。本当に、全ての施策の対象外だったんですね。
僕がこういう運動に関わったのは1996年からで、18年くらいになります。その頃、野宿者、日雇い労働者が生活保護を取るのは、窓口から本当に排除さ れてたんですよ。生活保護の申請自体をさせない。がんばって申請すると職員十何人に囲まれて暴力で追い出される。そういうことが普通におこなわれていた時 期だったんです。だけど、ドヤから叩き出された野宿の仲間が役所に要求したかっていうと、そんなことしないんですよ、野宿者、日雇い労働者は。このこと は、権利要求とか施策要求という手段、戦術の限界みたいなものを暴露してるように思いました。ようするに自分の主権を誰かに預けてやってもらう、そういう ことの限界かなあと。この「山谷」の映画の頃、運動の中では権利要求ということについて、わりと原則的な批判が普通になされていた、そういう雰囲気があっ たと聞いています。でも今、社会運動で権利要求をやっちゃだめとか言ってるところはほとんどないです。だけど権利要求ってことを考えた時に、その負の側面 も考えていく必要があるなと思うんですよ。で、権利要求じゃなくて自分で勝手にやるんですよ、野宿の仲間、日雇い労働者っていうのは。そこは、一つの社会 集団が歴史的な過程で形成されたっていう感じが凄くします。で、日雇いの仲間が野宿労働者になっていったんですが、地域的に、山谷の街には公園、玉姫公 園っていう公園はあるんですけども、野宿ができる場所がそれほどないんですね。街の中ですからね。それで寄せ場が、仕事がなくなって、一つの政策というか 資本の意向によって解体される中、寄せ場の周辺の地域に仲間たちは広がって、その空間を占拠して住み始めるという形になります。

日雇い労働者運動から野宿者運動へ
皆さん、日雇いの周辺の階層って何だと思います、職業的に考えて。(会場からの声)「派遣」。うーん、確かに派遣、それもあるんですが、歴史的には収集 人なんじゃないかと思っていて。収集人ってわかります? バタ屋。例えば、敗戦直後、経済がつぶれて失業者があふれ、その時に日雇いの仕事ができない条件 の人が何をやったかというと、物拾いなんですよね。都市の周辺にバタ屋部落みたいなのが戦後すぐに形成されました。そして、バブルの崩壊の後にまったくそ れを繰り返すような形で寄せ場の周辺に野宿者の集住地帯が形成され、そして彼らがその物拾いを生業としながら日銭を稼ぐ。収集人って言うと硬いですけれど も、何かっていうとアルミ缶拾い、古紙集めなんですね。日雇いの仕事ができなくなった、高齢だったり体を壊したりの、そういう仲間が収集人として働き始め たっていう意味です。寄せ場の周辺にドーナツ状に占拠がおこなわれるようになって、日雇いの現場の仕事と収集人の仕事。仲間たちがそういう仕事をしつつ暮 らし始めた。
山谷の街で今、住んでる人は誰が一番多いかって言ったら生活保護の人です。それは間違いないと思います。だけど歴史的に見たら、そうじゃないんだよね。 仲間たちがそこで暮らし、仕事に行った山谷の地理的な、職業的な記憶っていうのが凄く深く刻まれてるなっていう。で、大事にしたいっていうか、何が重要 かっていうと寄せ場の日雇い労働者という集団、階級が高度経済成長の中のユニークな条件の中で作られて、生み出されたことだと思うんです。だから山谷の地 理に凄いこだわりはあるんです。この高度経済成長の中で形成された寄せ場の日雇い労働者は特殊な集団だと思います。今の日本ではもうありえないような非常 にユニークな集団です。彼らは今、山谷にいなくなったように見えるけれども、その周辺の地域で社会的な階層として、ドーナツ化したような形で仕事をしなが ら生きているということです。だから言葉どおりの意味では、山谷労働者の、日雇い労働者の運動を僕らはやってないんですよ。日雇い労働者の運動から野宿者 運動っていうのに運動がシフトしていって。それが90年くらいだと思う。90年代に新宿西口の闘いがありました。あそこを大きな契機にして、日雇い労働者 運動から野宿者運動へという形でシフトしていった。そういう経緯があるから、「野宿者」が持っている山谷、寄せ場の系譜、その記憶を引き継いでいる人たち が持っている特異性であるとか、そういったものに凄くこだわってやっています。
例えば、反権力性みたいなものをわりとみんなが普通に持ってるんです。役所に対する絶対的な敵対性みたいなものって絶対インテリにはない、サラリーマン にはないものだと思います。それは、(高等)教育で教え込まれたんじゃないんですよ。底辺の仕事の経験の中で何年もかけて培われてきた反権力性、もしかし たら他の社会集団でもこういうのが生み出されているところがあるのかもしれないけれども、僕は初めてです、こんな人たちと出会ったのは。あと仲間意識が物 凄く強くて。最も多く奪われた者であるっていう、そういうところからくる仲間意識っていうんでしょうか。普通、今、仕事の現場に入ったら上の方を見がち じゃないですか。少しでも条件がいいところに行ければいいかな、みたいなのがあるだろうし。野宿の仲間には、凄い断絶があるんですよ。いっしょに働く日雇 いの仲間と、そうじゃないボスとの間のね。そこは、絶対に越えない溝としてあるなあっていう感じがします。

日雇い労働者が尊重されていた時代
それでは、もう一つの文章を見ていただけますか。「90年代山谷から仕事に行っていた人の聞き書き」、これを見てください。今、言ったことの具体的な話 が書いてあります。この方は、女の人で、90年代に20代、30代で実際に日雇い労働者として山谷、高田馬場から仕事に行ってた人なんですよ。その現場の 雰囲気が第二段落に書いてあります。休みの時間がきっちりと12時から1時って決まっていて。それで、11時45分くらいになると、自分だけじゃなくて他 の業種とかいろんな系列の人が作業現場にいますよね。そのような人にも「そんな働くな」「飯行くんだよ、飯」というふうに言って、休憩時間は絶対に取るん だということが普通だったと。「重層的下請け構造」って「山谷」の映画の中でもありましたね。発注する会社があってそれを元請けの会社が受けて、そして業 種別に仕事をドンドン下におろしていくんです。それで、監督は現場では「一番偉い人」です。その人がまあ「一番いじめられる立場だった」って書いてある。 そういう感じだった。敵、味方っていうのが凄くはっきりしていて。ボウシンっていうのは労働者の中でも、労働者を束ねてスムーズに労使関係がつくれるよう に動く立場の人間なんですけども、そういった人間や親方の立場には絶対つかないということですね。こっち側とあっち側というのが凄くはっきりしてる、そう いうのが山谷全体に行き渡っていたっていう、そういう経験が書いてあります。
それで、この人は日雇いの仕事がなくなって、まあ日雇いは日雇いなんですけれども、寄せ場からじゃなくて、登録派遣から(半分グレーだと思うんですけれ ども)仕事に行き始めた。そうすると雰囲気が違っていて、仲間のつながりだとか、そういったものがもう完全になくなっていて。上の方ばかり向いてるという 印象を持ちましたっていう話です。今、飯場で働いてる人の話を聞くと、昔と全然違うっていう印象があります。けっこう殺伐とした感じ。今と昔の一番大きな 違いは、日雇い労働者が労働力として尊重されてたかどうかっていうことかなと思います。
日雇い労働者という集団が形を変えて野宿者へ。それに呼応して、運動も日雇い労働者運動から野宿者運動へ。そして今、収集人の活動、アルミ缶拾いをやっ てる仲間とアルミ缶古紙組合を作っているんです。この一年くらい前から持ち去り禁止条令とかいって、アルミ缶古紙の持ち去りを条令で禁止する動きが凄く激 しくなっていて。それが野宿者の追い出しや、襲撃事件にまでつながっています。そういった情勢に対し仲間と一緒に組合を作っていろいろやっています。それ が、「運動は今どうなってんの」という問いに対する答えかな。もちろん、いろんな人がいろんな視点で山谷をみてるわけです。人的な構成だけみれば、もうほ とんど生活保護者だからというんで、そのボランティア団体になったところもあります。それを事業としているところもあります。まあ、いろんな人がいろんな ことをやればいいと思います。ただ、個人個人が何かにかかわろうとする時、山谷の何をみて、誰と一緒に動いていくのかが、山谷に関わる時に凄く大事になっ てくるんじゃないかと思います。
【映像】城北労働福祉センター抗議行動
これが城北労働福祉センターっていう所に抗する取り組み、押し掛けなんですけど。二週間前の月曜日です。職員は基本はだんまりなんですよね。何も答えな い。たまに業務の支障になるんで出て行って下さいみたいなことを放送するだけ。公益財団法人ですね。奥にぼんやりと映っているのがSっていう管理係長でビ デオをずうっと撮ってますね。
(DVD音声)あのね、大勢で押し掛けてって言うけれども、別にこちらは話し合いの形については当然応じる準備がありますよ。今ね、大勢で来てるのは大勢 の人がこの問題について関心があるからなんだよ。ただそれだけだよ。で、多くの人がこのセンターに直接間接に関わってるわけだ。だから来てるってだけです よ。別に大勢でどうしようって話じゃないでしょう。ただ多くの人が、このワンカップの話なんてさあ、聞いたら、ええって思うじゃない。そんなことあるんで すか。ねえ、断られてる仲間は自分がどういう理由でカードを断られてるかっていう、それすらさあ、正式な説明は受けてないわけだよ。なあ。そういう仲間が 来ててさあ、そういう仲間に対して思いを寄せて一緒に来てくれてる人が大勢いるっていう。それだけだよ。別に何もおかしいことはないよ、なあ。こっちは話 し合いをして欲しいと。説明をして欲しいっていうそれだけじゃないですか。それ以外に特にないよ。だからさあ、大勢で来たから業務の支障になるっていう、 そういう言い方についてはちょっと違うんじゃないかと。そのことはここで言っておきますよ、ね。
センターっていうのは仕事の紹介をする窓口として作られたんですよ。そして日雇い職安が東京都内でも数ヶ所あったんです。この近くだと高田馬場の近くに ありましたけど、そういう所がつぶされていくんです。それが数年前のこと。ようするに日雇い労働者は減ってないんだけど、寄せ場経由ではない形で仕事に行 く人が増えていく中で、その寄せ場の痕跡みたいなものを、向こうは消していこうとしているわけですね。日雇い職安が一気に3、4個はつぶされたんだよね。 馬場とか高橋とか。城北労働福祉センターは、1960年代くらいからずっとあって、ここに登録すると仕事にも行けるし、パンももらえるし、施設に泊りに いったりもできるんですよ。そういう形で需要は凄くあるんだけれども、センター自身は、業務の縮小をして撤退をしたいっていうのがかなり透けて見えてい て。それで仲間の登録を断ってるんだよね。で、一緒に行った仲間が1月の15日くらいから5、6回登録を求めて行ってたんだけど、ずうっとカードを断られ ていた。その理由を向こうは言わない。で、こちらが東京都庁に「おかしいんじゃないの」って言いに行ったら、その日から三日連続で寝てる所にワンカップを 持って来て、「もうカードはあきらめた方がいいんだ。生活保護取りなさい」って言ってきたんです。それで、きたない買収をするなあと思って、張り込んでた んですけど、凄く寒い日だったんですけれど4日目かな、来るのを待ってたんですよ。そうしたら本当に来たんですよ。ゴソゴソとやって来た。「Mさん、何を 持って来たの」って言ったら、「何も持って来てません」って。でも、問い詰めていくと白状するんだけど。いきなりダッシュして逃げるんですよ。普通ありえ ないじゃないですか。東京都の職員なんですよ、彼は。山谷っていうのは、ようするに特殊な所だから普通の制度とか権利の保障は考えなくていいっていう、そ ういう感じなんだよね。行政としても。
参加者A センターってどこの団体なんですか。
向井 元は東京都の団体だったんだけど、外郭団体になって。今は公益財団法人。ようするに解消する定石ですね。それで、その相談室は1対 1なんです。今時は普通、応援の人が入れるんだけど。センターは相談室に応援の人は入れないんです。応援の人が入ると、そんなんじゃだめだと言って向こう が相談室から出ていっちゃう。そうすると、相談に来た人と応援の人がそこにとり残されて30分待っても来ない。そういうところです、山谷っていうのは。と いうか、階級ってそういうことだと思います。施設や法律は、一応、万人に平等であるってなってます。だけど、実際はそうじゃない。そういうのってなんとな く見えにくくされてるけど、こういうところへ来るとわかりますよね。それで納得してちゃだめなんだけど。
参加者A そういう現実に対して、担当役所や労働基準監督署、福祉事務所はどのように判断してるんですか。
向井 ここは法外施設と呼ばれるところで。法律的には、東京都の裁量の中で運営されてる施設なんです。職安は別ですね。職安は職安の法に しばられます。生活保護だったら生活保護法にしばられます。だけど、ここは裁量だから極論すればやらなくていいわけですよ。まあ調べれば公務員の何々と か、行政手続き法とかはあるんだろうけども、直接このセンターをしばるような法律っていうのはないんですよ。だから職安とは完全に独立してます。で、そっ ちはそっち、向こうは向こうでやってくれっていうような感じ。それで、センターがつくられた理由の一つは暴動対策なんですよ、山谷の。労働者が暴動でいろ いろ燃やしたりすると、じゃあちょっとパンくらい出すか、みたいなそんな感じで。むき出しの力関係の中でつくられてきたっていうものだと思います。
参加者A それはいつごろですか。昭和40年代くらい?
向井 ちょうどその頃です。その前身の施設は昭和35年くらいからあると思うんですけれど。仕事の紹介と生活相談っていう二つの部分があって。それが東京都によって運営されてたんだけど、10年くらい前に外廓団体に改組されて、今に到るという感じ……。
参加者B 革新系が都知事に当選すれば良かった?
向井 ところが、一概にそうとも言えなくて。例えば、美濃部都政の頃。その政策の中では、寄せ場はあってはならないものとされたみたい で。解消しなきゃいけないという位置づけ。「寄せ場なんかに家族持ちが住んでちゃいけない」ということで、政策として寄せ場外の都営住宅に家族が集団的に 移されたみたいなことがあったんです。何て言うんですかねえ、括弧付きの良識とか括弧付きの市民とか、そういったものとは違うところで生きてる人がいるわ けでしょう。
参加者C この映画の時代は80年代半ばくらいですけどね。その当時もドヤに常住していても、住民票を持っている人ってほとんどいなかったわけですよね。
向井 たぶん、その頃はドヤの方で住民票を置くのを断った所が多いんじゃないのかな。めんどくさいとかで。郵便物なんか来るからね。
参加者C 玉姫職安に登録する場合には、米穀通帳を。
向井 ああ、なるほど。白手帳って言いますが、日雇い職安に登録すると日雇いの失業給付がもらえる、日雇い労働者の雇用保険手帳がありま す。80年代は米穀通帳はいらなかったです。その頃は、作ろうと思えば誰でも作れたんで。それが80年代後半、88年か。住民票が義務付けられて。問題は 住民票を置けない人がほとんどだっていうことですよ。日雇い労働者の制度的な排除ですね。日雇い雇用保険手帳を必要としている人が大勢いるにもかかわら ず、そういうような運用がなされたっていう流れ。
参加者C あの反抗はだいたい60年代ですねえ。それ以前には城北労働福祉センターはなかったですから。まもなくできて。その時に、児 童、子供の問題の権威者っていう触れ込みで、所長さんが入って来ましたねえ。職安はいわゆる職業紹介で、城北労働福祉センターは仕事の紹介ではなくて、福 祉関係の相談と、それから子供を……まあ所長さんが子供について権威があるっていうことで来ましたですから。子供さんを集めて面倒みてあげるってことで旗 揚げしたような感じだったですからねえ。
向井 そうですか、ありがとうございます。センターが概要みたいなのを作っていて、そういう歴史が詳しく書いてあるんですよ。今度、読書 会をしようかなと思ってるんですけど。けっこう僕らも知らないことが書かれているんですよね。「寄せ場の労働者は職安とかのああいうお役所にはいまいち向 かない人が多いから、お役所じゃない形での職業紹介の機会をつくった方がいいんじゃないかということで、センターの紹介部分ができた」っていう記述があっ たと思います。

排除に向かう都市再開発――竪川での野宿者の闘い
参加者D 山谷の特殊性なんじゃないですか。あの辺は江戸時代からそういった所だから。
向井 寄せ場とか抑圧された人たちが生活する場所って、常に都市の周辺部分なんですね。都市からあまり離れた所ではなくって、その外縁部 なんです。そして都市が膨張していく中で、それが街中に取り残されて、何度も強制移転されて。山谷の地域で言えば、寄せ場ができたのは戦後なんですよ。た だ江戸時代には、小塚原刑場っていって処刑場があって。それで吉原という性労働の町がすぐ近くにあります。吉原も、江戸時代に街の真ん中から今の場所に移 転させられてるんですね。あと被差別部落も近くにあって。そんな感じの場所なんです。だから、単なる貧困っていうのではなくて、権力による都市政策ですよ ね。あと社会経済的な矛盾が集中する地勢学的なポイントっていうのが必ずあると思うんでよ。今も凄くその痕跡が残ってるから、こだわっていきたいなあと。
それから、今、僕らが直面しているのが何かっていうと都市の再開発なんですよ。今、凄い勢いでマンションが23区内に建ってます。多摩ニュータウンと か、そういう所で暮らしている人が家を売って都心の超高層マンションに都心回帰っていう形で戻っているらしいんです。山谷なんかは今まで見向きもされな かった場所なんですけれども、今、マンションがどんどん建ってるわけですよ。そういう中で、かつてはそういうマンションを建てる労働で暮らしていて、現在 は野宿をして頑張っている人たちが追い出しに直面しているっていうことです。それでオリンピック、もうあんなの来たらとんでもないことになるんで、僕たち は反対しているんです。景気のいい話もあるんだろうけど、儲かるのは誰かって考えた時、もちろん野宿者じゃない。むしろ追い出されちゃう。そういう危機感 が物凄くあります。で、今からお見せするのは江東区の竪川っていう、山谷からちょっと離れた所でおこなわれた強制排除の時の映像です。この強制排除に対し て、みんなで闘ってかなりやりかえすところまでいった。
(映像)竪川反排除行動
これは決戦の日なんです。やつらが暴力的に行政代執行をおこなうその日に、みんなで結集して野宿の仲間を守ると。場所は亀戸から歩いて10分くらいの高 速道路の下にある、本当に見向きもされなかったような場所です。100人以上の人が住んでいたんですが、改修工事っていうことで民間の企業がはいってきた んですよ。(映像を指して)これがお役所の職員ですよ。行政代執行っていうのは、区役所の職員が野宿の小屋を自分でこわす、そういうものなんですよね。こ うやって人壁を作って。この一年前に一回目の行政代執行があったんですけど、その時はガードマン会社が自分の会社のワッペンを剥がして。それも一斉に剥が して、それで殴る蹴るの暴行を加えてきた。おそろしいことですね。
参加者A この時はワッペン付いてますね。
向井 一回目の行政代執行前後の、ワッペンを剥がしての暴力シーンは、ユーチューブに上がっているので、相当まずいことになったんじゃな いかと想像しているんですが、実はそうでもないかもしれない。この映像は二回目の代執行ですが、警察が待ち構えていて、ちょっと小競り合いのようになると 役人が呼ぶんですね。そうすると、部隊がダダダダダーっと来て。ただ、これは一日の出来事なんだけど、結局、奴らは排除できなかった。行政代執行ってだい たい負けるじゃないですか。これまでいろんなところ(大阪とか名古屋とか)でやられてて、小屋は全部つぶされてるんです。で、竪川はこれが二回目なんです けど、小屋はつぶせなかったんです。鋼板の工事だけ向こうがやって。高い鉄の板で、閉じ込める感じの工事はしたんだけど、小屋には手を掛けられなかったん です。
参加者E 白い壁です。
向井 (映像の中で)重機でガンガン打ってたじゃないですか。あれはアスファルトに支柱となる短管を打ち込んで、横に短管を組んで鋼板を引っ掛けて、全部溶接して固定するんです。
参加者F そんなしょうもない工事をやるのに、都や区の予算が使われてるわけなんですか。
向井 公園改修の工事の予算だけで億単位。10億はいってないと思うんだけど数億円くらいかかってるんじゃないですか。それにプラスして排除のための工事。
参加者F 両国の河川敷とか土手にもちょっと小規模なのがありましたよね。
向井 いろんな所にあるんです。バブルの崩壊から10年くらいは、行政は野宿に対してほぼ放置状態だったんですよ。対策なし。それが 2000年代の半ばから、対策とセットで排除をするっていう方針を向こうが出してきて。新しい小屋は絶対に作らせないっていうのが、向こう側の方針になっ ちゃったんですよ。そうすると、新しい小屋を作るのが難しくなって。がんばって作った所もあるんですよ。半年くらい野宿の仲間と一緒に寝泊りして。で、タ イミングを見計らって一斉にバーっと建てたりね。

アメとムチの行政の施策に抗して
参加者G 行政はどこかの施設に入ってくれって言ってるんですか。それとも単に追い出すのか。
向井 施設に入れって言うし、今だと生活保護。普通は、野宿の人は窓口からバンバン排除されて「野宿だったらだめだ」みたいなことを平気 で言うんだけど、こういう工事がおこなわれる時にはアメとムチのアメとして生活保護を取れと。それで、生活保護や対策を準備しているんだから、入らないの はそいつが悪いんだから排除してもかまわないじゃないかっていう形にもっていきますね。
参加者G そこにいる人たちは生活保護を受けるのが嫌だと言ってるんですか。それは、施しを受けるのが嫌だという気持ちだからですか。
向井 歴史的に考えるべきだと思います。15年、20年行政が無策をずうっと続けてきて。窓口に行っても追い返されるのが続いていたわけ です。そういう中で、追い出しが来て、じゃあ今までのは何だったのか。そういう怒りがみんなにあるというのが一つ。それから、日雇いとか下層の労働者とし て働いてきた歴史。どこかに所属して、それとバーターで恩恵を受けるって経験がみんなないと思います。中産階級以上のサラリーマンだと、会社に入って毎日 朝起きて仕事に行ったら、それなりの生活は保証されるっていうようなバーターが必ずありますよね。だけど日雇い労働というのは、向うが切ろうと思えば切れ るわけだし。たとえこっちが会社に擦り寄ったとしても、一銭も、ちり紙さえもくれないから。だから、下層の仲間が一番大事だと思うのは、そういう中で生活 を自前で作ることなんじゃないかと。下層の仲間とそうじゃない人とでは生活を自前で作ることへの切実さが全然違うんじゃないかと思うんですね。それで、生 活保護を受けるっていうのは自分の生活手段を手放す面があるわけですよ。今、仲間たちが、例えば収集人としてアルミ缶集めをやっていれば、それには置場だ とか小屋とかが必要なわけですけれども、それを手放すしかないわけですね。そうなると、さっきの話にもありましたけど、法律は平等じゃない。それと同じよ うに、生活保護は平等だって言うけど、実際は平等じゃないんじゃないか。いろんな理由があるんだけど、野宿の仲間、下層の仲間は生活保護を切られがち。向 いてない人も多いんですけどね。制度が誰の方を向いているのか、誰をイメージして運用されているのか、という問題は絶対ある。どこかに所属したり、合意し たりすることで見返りが受けられない階層、そういう記憶・経験っていうものがあるんじゃないかと。
そういう面をもう少し考えた方がいいんじゃないかと思ってます。例えば貧富の差、二極化って言われてます。そういった中で、下の方に入れられた人たちの 闘いで、果たして上の方に入れてもらうことを求めることが闘いの筋道として唯一のものなのかって、僕はいつも考えるんです。そうじゃない闘いもあるんじゃ ないのか。僕自身はプチブルって言うんですかね、大学を出てますし。そういう所では絶対に出会えない、そういう感じの人たちがいる現場だなっていう感じが してて。生活保護も微妙なところで。普通の人は「生活保護を出せばいいじゃん」みたいな感じですよね。「実は役所は生活保護を言ってきてるんですよ」って 言うと「えっ、何で生活保護を受けないの」「そりゃあ、公園にいるのが悪いんじゃないの」となりがち。社会運動やってる人でもなりがちです。でもそこで、 歴史性とか、社会での下層が置かれている状況だとか、生活保護のいろんな側面を考えて判断するべきなんじゃないかと思うんです。まあそうは言っても、僕が 本格的に活動家デビューしたのは生活保護の集団申請でしたけど。何十人かで役所に押し掛けて、それまで野宿者には一切生活保護を出さないっていうのを一晩 でひっくり返したっていう経験です。それは凄かったですよ。半年以上かけて準備したんですけど――。
えーと、そろそろ時間ですという司会からの合図がありましたので、最後にちょっといい映像を流して終わりにしたいと思います。
これは、アルミ缶の話なんです。TBSが差別的な報道を番組でやったんですよ。それで抗議をやってたら、話し合いに応じるっていうわけです。「まあアリ バイ的なものだろうから行ってもね」という意見もあったんだけど。でも、話し合いに応じるってことだから、アルミ缶をみんなで持って行って、TBSの前に 積み上げて話し合いを応援するのはどうかっていう話になり、それで行って来た。アルミ缶集めの仕事をしている仲間が半分以上いますしね。
(映像)対TBS行動
向井 向こうにいるのがガードマンで、手前のがオマワリですね。まあ、こういう感じなんです。缶集めてる人が自分の言葉で抗議をするというのが絶対に必要なことだと思うんですよ。
参加者E あとアルミ缶古紙のビラがあるので、もしよろしければ。彼らがどういう仕事をしているかがわかるので。
向井 実はオリンピックで野宿者だけじゃなくて、都営住宅の人が追い出しに直面していて。その人のライフヒストリーを聞き書きにしたパンフがあるんです。一部100円です。もし関心のある方がいましたら購入してください。今日はどうもありがとうございました。
(2014/4/12 planB)

〈参考資料〉

共同炊事がはじまったころ
共同炊事っていうものが山谷ではじまったのは、1994年です。そのころ、仕事も行けないし、生活保護もとれないしで。そのころは炊き出しもそんなに今 みたいにはなかったし、そのころ使えたのがセンター(いまの城北労働福祉センター)で、センターが宿泊と給食っていうのをやってたんですね。
宿泊が月に6日とか10日とかぶつ切りでとれたり、給食っていうのは、二日に一回パン一斤くれるってやつで、それでなんとか命をつなぐしかないような状 態だったんですけど、そのセンターの宿泊とか給食を求める列がすっごい伸びて、センターから明治通りまで。ものすごい状態になってて、それだけの人が行列 をさせられて、ただ黙って並んで待ってて、何かをもらう状態にさせられてるっていうのは、これはだめだと。で、その人たちが、いま一番矛盾を押し付けられ てて、その人たちが主体になってそれに対して怒りを表明したり、動くということが絶対に必要で、もし炊き出しなんかやったらその人たちに失礼だと。何かを あたえて、「どうもありがとう」とか言わせたら失礼だ、ということになって。
たしかに炊き出しは必要な状況だったんですね。みんなどんどん路上で倒れていく、凍死したり餓死したりっていうことだったんで、「炊き出しを始めよ う」ってことだったんですが、それを、活動家が作って配るとかいうやり方は絶対駄目で、みんな、炊き出しを食わざるを得ない状況の人が、自分たちで作って 自分たちで食うようなアレを作るっていうことで始まりました。
そのためには、行列すれば鍋一個あればいいんだけど、そのためにわざわざコンパネを何十枚も買ってきて、コンパネで作った台をセンター前の端から端まで 並べて、そこで、野菜を切ったり。最初、米じゃなくて、米だと一人で炊けちゃうから、もっと人手が必要なスイトンにして、小麦粉をぶちまけて、テーブルの 上に。そこに水をぶちまけて、それを何十人が囲んでこねて、手は白くなりスイトンは黒くなり……
そんで、その時センター前でアオカン者だけでだいたい700人の人がその状況で飯を作って、その飯を食ったと。食うときも、誰かが行列に渡すってやり方 じゃなくて、どうするかっていうと、テーブルに並べるってくらいしかやり方ないんですよね。それを、そのままセンター前に。
さっき「泊まるのは正月だけか」っていう質問があったんですけど、その時は正月じゃなくて、センター営業中に泊まったんですよ。そのセンター前に。毎日泊まって、飯はセンター前で全体で作って、昼間はセンターに押しかけるっていう。

90年代山谷から仕事に行っていた人の聞き書き
90年代だし、自分の狭い経験だと思うんですが、山谷に来た当時は、すごく解放される感じを味わったっていうか。例えば、現場仕事に行ってですね……山 谷はけっこう厳しくて、女はあんまり使わなかったんですけど、高田馬場はまだ女を入れて、馬場からが多いんですが、山谷じゃないね、そうすっと。
現場っていうのが、8時から5時までなんですけど、10時から10時半と、3時から3時半は30分の休憩で、昼休みは12時から1時って、どこの現場 行ってもそうなんですけど。だいたいたとえば、11時45分くらいになると、他業種であっても、「飯だぞ」って言って、「道具置いて飯行け」って言って。 他業種っていうのは、自分の職種の親方とか一緒に働く人とかいるんですけど、それとは違う人。「そんな働くな、飯行こう」とか、そんな感じで声掛け合うの が、すごくどこいっても普通だったし。
監督っていうのが元請けから来ていろいろやるんだけど、その監督が必ず一番いじめられる立場だったし、あと、ボウシンとか親方とかと、ヒラの労働者とい るんですけど、必ず敵か味方かっていうのがみんなはっきりしてて、一緒に働く人は、絶対ボウシンとか親方側にはつかなくて、一日いくらで雇われてる人、み んな同じなんですけど、その側だっていうのがはっきりしてて、絶対その、こっち側だっていうのがはっきりしているんだな、っていうのを感じました。
すごい狭い経験ですが、そういうのが、山谷の街全体に行き渡ってる感じがして。強いやつとか、金持ってるやつにつくんじゃなくて、一日いくらで働いても うそれで終わりっていう立場の人、自分もその立場だってみんな自覚していて、だから、その同じ境遇、同じ立場の人を大事にするっていうか。
別に特に大事にするってわけじゃないけど、仲間だと思ってるみたいな感じをすごい感じて、自分としては今まで自分がいた社会と全然違うなと思って。
最初は寄せ場から仕事に行けてて、だんだん仕事が減ってきて寄せ場から行けなくなって、次に、新聞広告からも建築現場に行けたので行ってて、それも行け なくなって、そのころ、登録派遣みたいなのが出だして、それは形式的には日雇いと同じだから同じようなもんだろうなと思ってたんですが、違いは一回面接が あるかないかで、あとは毎日日払いで金くれるから一緒かなと思って、ちょうどいいやと思って行ったら、ほんとに、全然違って。すごくみんな上ばっかり見 るっていうか、現場だったら監督のことばっかり意識して、労働者の間でも、強い人間に対してすごい気にしてって感じで、新しい人は肩身が狭いっていうか。 そういう露骨なのがすごくあって。でも、普通はそうなんだよなあと思って。
ほんとに同じなのに。一日いくらで、明日はどうなるか分からないってのは同じなのに、えらい違いだなと思いました。

船本洲治(山谷の活動家、沖縄で焼身自殺)の「強いられた条件を武器に転化する」という言葉
争議団以後の山谷の野宿者運動では、キーワードの一つ。例えば隅田川沿いの桜橋という場所で、一旦は完全に追い出しがなされた場所を取り戻す際、その場 所で身一つで寝ることを戦術とした。排除の実行主体であるガードマンにとって、口答での抗議や何よりも、その場所で寝ている人の数が増えていくことが脅威 となった。強いられた条件というのは、野宿せざるを得ないということで、それは直接の抵抗の形となり得る。
また、2007年の生活保護(居宅保護)要求の運動では、野宿者に生活保護、しかも施設収容ではなく居宅保護を出させることを目的として取り組まれた。 それまでは、野宿者はほぼ100%施設収容だった。野宿者に対しては、窓口での生活保護申請書の提出もさせない、というのが役所の姿勢だった。それを打ち 破るために取られたのが、役所のすぐ目の前の河川敷で、約100人で一晩野宿し、その翌々日に集団で生活保護を申請するという戦術だった。「もしも居宅保 護を出さないのであれば、居宅保護を認めるまで役所前で野宿し続ける」と通告した上で、申請を行った。結果、それまで一切認められていなかった居宅保護 が、全員に出された。「法律が一日で変わった」という仲間の言葉。派遣村の一年前のこと。