「日米安保体制」70年、その歴史と現在

「構造的沖縄差別」を撃つ── ①

池田五律(戦争に協力しない! させない! 練馬アクション)

司会 「戦争に協力しない! させない! 練馬アクション」の池田五律さんをお招きしまして、ミニトークを開催していきたいと思います。テーマはお手元の資料(こちらに掲載してあります)にあるとおり、今年は「日米安保条約」の発効から70年。そして沖縄のいわゆる「復帰」から50年ということで、それを期してもう一回日米安保体制を考えていこう、沖縄について考えていこうというものです。
池田さん、よろしくお願いします。

●……自己紹介をかねて……●
池田 池田五律といいます。1960年生まれで、オリンピックの五輪にちなんだ「五律」という名前です。自己紹介代わりにビラを配ります。練馬で反基地運動をやってます。ビラを見てわかるように、練馬には練馬駐屯地と朝霞駐屯地というものがありまして、3月17日に自衛隊が迷彩服の戦闘服を着て、夜に練馬駐屯地を出て江戸川区役所に向かうというような、夜の街をですね、戦闘服で自衛隊がうろつく──そういう訓練がされますので、どうしても監視チェックをやらざるを得ない、ということです。練馬や立川、習志野とかと一緒に反基地の連絡会をつくっています。それと、もしよければあとで買ってほしいんですけど(「STOP!敵地攻撃 大軍拡──2022年度防衛予算批判」=発行:大軍拡と基地強化にNO!アクション2021)、毎年こういう防衛予算の分析をし、防衛庁国防省財務省と交渉をやって、防衛省デモをやるということもやっています。

映画には懐かしい人たちの顔がいっぱい出てきますね。私は1979年に東京の大学に入って、86年まで長々と学生運動をやってましたので、ちょうど山谷の大変な時期と重なっています。あの映像に出てきた靖国のデモ。山谷争議団もスクラムを組んで機動隊とぶつかってましたが、あれの後ろの後ろの方で首都圏のいろんな大学がくっついた黒いヘルメットの部隊で、ぼくは笛を吹いていました。ですけど同世代で山谷に支援に入っていたという人たちは、ぼくよりちょっと下の世代の人の方が多かったんですけれど、僕自身はあまり関わっていませんでした。というのは、若い人達たちにはちょっとわからないかもしれませんけど、学生運動は70年代にものすごく沈滞していくわけです。ぼくが入った79年などというのはすっからかんの世界です。自分がいた大学などでも、党派も無党派も含めて、大衆運動を作る気がまるでないんです。まあ大学生ってちゃらんぽらんしてるわけですね、社会全体の中では。寄せ場の労働者などから比べたら恵まれた人たちで、「お前は何の矛盾も感じていないけれど、こんなことがあるんだからそれに邁進せよ」みたいな力学が働いて、上の世代なんか、党派も無党派も含めて大学を人狩り場としかみていない。そうやって大学の大衆運動自身は痩せ細っていく……。だから上の世代の先輩たちの運動を見ていて、「あなたたちは友達が要らない人たちなんですか? 人民の海を干からびさせていくのがお仕事ですか」みたいな感じを持っていました。そういう先輩の運動に反発があったので、「今、山谷が大変なんだ」「行かなきゃ!」とかいうのもちょっと斜めに見てて、自分たち自身の課題と──ぼくは早稲田だったんですけど、40年ぶりに学費値上げ全学ストまでもってったんですけど、そっちの方、大学での大衆運動にこだわっていました。
映像にも出てきてたリュウさん。凄かったところっていうのは、反天皇闘争か何かの後の交流会の後に話した時に、何か「お前らも来るか」みたいな話があって、「いやあ、ちょっとうちは学費闘争でいま大変で」とちょっとおずおずと言ったら、「そうか、お前らはお前らの場所できっちりやれよ」というようなことを言われて、人を見たら、「お前はこういう苦しんでいる人がいるのに、のほほんと大学にいていいのか」と脅してくる先輩と違って、リュウさんスゲエ! と思って……。映画を見ていて、そういう昔の記憶がバーっと、いろんなことが走馬灯のように廻っています。
ということで急いでいかなきゃいけないんですけど、沖縄のことも含めてどういうことかということと、今日の映画の寄せ場の問題ともどう絡めるかというのも、なかなかまとまらなくて、まあざっくりとした話になります。

  ◾️………日米安保の70年………◾️
まず日米安保の基本構造なんですが、よく「基地を貸す」ということと「米軍がいる」ということがバーターのように思われてるんですが、
 日本政府:「米軍さん基地を提供して優遇しますからいてください。」
 アメリカ:「いてやってもいいけど、自衛隊を増強しろよ。」
 日本政府:「合点承知」
というのが日米安保の基本構造です。自衛隊の増強と米軍が存在するってことがバーターとなってるのが基本構造です。
日米安保は自衛隊の増強と役割拡大の歴史です。まず警察予備隊から始まって(1950年)、保安隊になる(1952年)。保安という概念は海上保安庁という言葉の「保安」を思い浮かべてもらうといいかもしれませんが、警察と軍事組織の間ぐらいのイメージですね。その保安が任務だったのが自衛隊になる(1954年)。防衛が任務になるわけです。60年安保改定というのはだいたい、本土防衛はオマエらにやれるようになったな、という話です。そして1972年の「沖縄返還」で沖縄移駐が開始されます。
ちょうどぼくが大学に入った頃、70年代後半というのはシーレーン防衛です。いま、中国の「一帯一路」とかが盛んに批判されるわけですけれど、経済大国になったら輸送路の確保というのが出てきて、中国の一帯一路の話を聞くと、そういえば日本も経済大国になったから「シーレーン防衛が必要だ」と言ってたなと思い出します。
その後1990年代はじめ、PKO法が制定されて、カンボジア派兵が始まります。冷戦が終わったので、日米安保いらないぞ、ということにもならずに、クリントンが来日して橋本首相との間で「グローバル安保」という話になります。そのときイメージしてたのは、冷戦は終わって暇になったけれどもPKOとかいろいろ出してね、というような話だったんですが、2000年代になると、特措法に基づくインド洋派兵・イラク派兵、そして「邦人救出」もなされる。ソマリア沖の海賊対処とミサイル防衛。あとそこらへんが、何年にあったとかいうのは、添付の年表を見ておいてください。
2010年代になると、ジブチに自衛隊の恒久的な基地ができます。それを拠点にしてアフガン派兵をやったりしています。安保法制整備で「一部集団的自衛権行使」が合憲化されて、その法的根拠がつくられる。これは多国籍軍への後方支援と警護とかになります。後でまた話すかも知れませんが、もう米軍だけじゃなくてオーストラリアの艦船とかも警護に行っていたりするようになってきています。
いま流行りなのは宇宙・サイバー・電磁波領域の軍拡です。2013年の防衛大綱から南西諸島(琉球弧)の自衛隊増強というのは進められてきていて、〈大軍拡と基地強化にNO!〉のメンバーからすると、正直に言うと、「自分たちは早くから言い過ぎたのかな? ようやくみんな南西諸島の自衛隊軍拡、自衛隊軍拡って言ってるぞ」って感じです。宮古とか石垣のミサイル基地の建設とか配備とかってっていうのは、2013年の計画を着々とというか、防衛省・自衛隊からするとなかなか進まずですが、進んでいる。2018年の防衛大綱からは、もう増強の中心は宇宙サイバー電磁波領域です。
2020年代になると「敵基地攻撃力の保有」の話が出てきて、この国会に、去年(2021年)のアフガニスタンのカーブル陥落=タリバン復権という時に、日本大使館とかで働いたアフガニスタンの人も救出できなかったというような話から、外国人だけでも輸送できるようにするという法律が、今の国会に出ています。
これ、何か一見良さそうに思えるのですが、とにかく「専守防衛」という形で何でも拡大してきたわけですね。邦人保護は専守防衛だから、外国の邦人を救うためだったらどこへ行ったっていいんだって。上海事変(1932年)だとかいったようなものも、みんな邦人保護ですよね。さらに、その邦人という縛りもある意味で取っ払っちゃうわけです。一見なんか人道的に、外国人だけでも輸送してあげるって良いことじゃないか、というふうに思いますけど、これ人道的という理由をつけたら何でもやれるという話で、どんどんどんどん自衛隊の役割が拡大されてきます。
それからよく「抑止」って言ってますね。その抑止の概念が、自衛隊が存在するから、米軍が存在するからそれが抑止力になっているんだという話から、2010年の民主党時代の防衛大綱から「動的防衛力」に変わってます。いるから抑止になるってんじゃなくて、いつだってやれるように動いているという抑止に概念が変わっています。その背景には、やっぱり核抑止力のウエイトが相対的に低下して、宇宙サイバー電磁波領域も含む多次元統合防衛力というのを形成しなきゃいけないと、そんな話になっています。
そうすると「陸・海・空」という──こいういうのを軍の種類で軍種と言いますけど──それを超えた統合作戦ということになりますから、朝霞駐屯地に陸上自衛隊の総隊司令部を置く。陸上自衛隊というのは東部・北部とか、地域ごとのものだったんですね。それら全部を動かす組織じゃなかったんですけど、総隊制に移行して総隊司令部の下に陸自全体を動かす。それから総隊直轄部隊。海外派兵専門の即応連隊、この前、アフガニスタンに行った連中です。「離島奪還作戦」などの主部隊となる自衛隊版海兵隊とも言われる水陸機動団。これらが総体直轄部隊です。さらに陸海空統合司令部を作るということが言われています。それと南西諸島版の司令部を熊本に置く動きもあります。

◾️………沖縄差別に支えられてきた日米安保………◾️
こういう日米安保の歴史は、今日のテーマにも関わってくるんですけど、沖縄に対する差別に支えられてきた歴史です。本土は米軍による占領管理、沖縄は戦略拠点として直接統治。52年に講和独立を本土は遂げたのですけど、沖縄はそのまま。「沖縄復帰」がなにかと言えば、本土の米軍基地の整理縮小といえるのではないか。といってもですね、米軍基地が自衛隊の駐屯地になったケースもあります。朝霞駐屯地などはその典型です。その前にさかのぼると、旧日本軍の軍事施設、演習場、それが米軍のものになり、そして自衛隊のものになるというような具合です。光が丘団地というのが練馬にあります。ここ(新宿)からいうと大江戸線の終点ですけど。あそこは旧成増飛行場でB29を撃墜するための部隊が出撃する所でした。戦後は米軍住宅となります。返還されてもですね、基地というのはコンクリートで滑走路を固めているわけですね。普通の農家がそれを畑とかに戻せないわけです。そうすると、結局米軍住宅から返還されても大規模な住宅開発とかという形にならざるを得ない。結局もともととられた人のところには帰ってこないということになります。
そういうふうに、「関東計画」という形で首都圏の米軍基地がざあっと整理縮小されて沖縄に集中した。同時に核密約の問題もあります。もうひとつ忘れてほしくないのは、さっきも言いましたように返還と同時に自衛隊も沖縄に行ったということです。いま起きていることっていうのは、95年の少女暴行事件以降の在沖米軍基地の合理化強化、と同時に南西諸島の自衛隊増強です。そういう意味では日米共同使用の軍事植民地というような言い方をしてもいいのではないかとぼくは思っています。

◾️………国家安全保障体制の形成………◾️
かつては「日本有事」における日米共同作戦だったんですけど、もう「グローバル安保」ということで、平素からの同盟調整メカニズムも日常的に動きています。従来は、作戦計画を練って更新してたのが、いつでも即応できるようなシステムが作られています。
それから国会関与の回避という問題もあります。70年の自動延長もそうですが、本当だったら条約を改正しなきゃいけないようなことがたびたびあったわけです。でも〈ガイドライン=日米防衛協力指針〉で、終わり!、〈橋本・クリントンの安保戦略〉で、終わり!、 防衛・外務双方の2+2(ツープラスツー)で決めました! という形で、国会の関与すら回避されながら増強されてきました。
それから更に、日本型シビリアンコントロールの終焉も進んでいます。
アジア太平洋戦争では、軍事費が膨大になって財政規律が失われました。これに対しては大蔵省(今の財務省)の官僚たちも非常に怒りを感じました。だから戦後、財務官僚は、財務規律から膨張させないという縛りをかけてきました。ぼくらは去年の11月に財務省の防衛予算担当者と交渉したんですけど、彼から「皆さん頑張ってください」と言われるくらい、財務省の人間も結構カリカリしています。今の防衛予算は、それほどまでに財政規律を突破しているということです。
警察の「ゴーストップ事件」というのが戦前にあるんですけれど(1933年)、大阪で陸軍のサイドカーが信号を無視し、それを警察が止めたと。軍隊に対して何を威張っとるんだというので、警察が頭を下げさせられたという事件がありました。そんなこともあって、警察も実は自衛隊に対しては、そう大きい顔をさせたくないというのがありました。今から22年前、石原慎太郎都知事の下で「ビッグレスキュー2000」という、防災に名を借りて銀座に装甲車を出した大演習がありました。そのときに練馬駐屯地で「今年はビッグレスキューだからおまえら、がんばるように」と自衛隊員を鼓舞しときに飛び出したのが、震災になったら「三国人が騒擾を起こす」といういわゆる「三国人発言」です。そのビッグレスキューに反対する銀座デモをしてたときに、機動隊の隊長が空を飛んで行く飛行機やヘリコプターを憎々しげに見上げて、「兄ちゃんアレ、自衛隊か」「そうだよ」…「ケッ!」と言ってたんですけど、今はすっかり警察と自衛隊は一体化している。2002年に自衛隊と警察の治安出動に関する協定というものも見直され、連携が深められ、日常的に連携するという構造になっています。
防衛庁が省に昇格したのが2006年。名前が変わっただけではありません。閣議で独自に予算要求ができるわけです。ここから大軍拡が始まっていきます。それから国家安全保障会議の設立。2013年に特定秘密保護法が話題になったときなんですけど、国家安全保障会議の設立はあまり問題にされませんでした。何でも「治安維持法の再版」というとわかりやすくて人が集まるだろうという人もいますが、そういうつまんない政治をしてたらスカスカになるだけだと思います。一体この間いくつ治安維持法ができたんだ? ぼくが「国家安全保障会議の設立、これは大きな問題だ」と言うと、ある人が「池田くん、それはよくわかるけど、難しいからね」って。特定秘密保護法はわかりやすくて人が寄せやすいということでしょう。だけどそれじゃあ向こう側の本質的な攻撃をはね返すことができないと思います。この国家安全保障会議というのは最少で首相、内閣官房、外務、防衛の4人の大臣で、緊急事態対処の基本方針を決める。それから、平素からの国家安全保障の方針を決める。それが国家安全保障戦略というものなんですが、そんなものあの閣僚たちを見ていて、彼らだけで出来るわけじゃないですね。作っているのは事務方、官僚。国家安全保障局というのがあって、その国家安全保障局の中心が警察畑と、自衛隊・防衛省畑です。
2015年に防衛省の中も変えられました。防衛省の国家公務員試験を受けて、背広を着ている官僚が迷彩服を着た自衛官を抑えるという構造だったんですが、それを取っ払いました。迷彩服を着ている高級自衛官の発言権を拡大しました。そういう構造の中で、この国家安全保障局に巣くう国家安全保障官僚というのが幅を利かす。よく官邸政治といわれたりしますけど、官邸官僚は経産省だけではなくて、この安全保障分野の連中が幅を利かせています。平素から多様な事態に対応する態勢を作る必要だと、重要影響事態、存立危機事態、武力攻撃事態──そういうさまざまな事態に柔軟に即応的に対処する態勢が作られています。

◾️………多国間安保化………◾️
日米安保だけではないです。さっきオーストラリアの軍艦を警護したという話をしましたけど、クアッド(日・米・豪・印/安全保障対話)です。5月に日本でクアッドが開催されますが、そこでバイデンが来て、また岸田と会談する。……ということでまた日米安保が強化されます。ウクライナ戦争への対応にアメリカが追われる中、ますます対中抑止の最前線を、ますます自衛隊が担うようになるでしょう。
それからクワッドと直接イコールではないんですけれども、オーカス (AUKUS)とういのがあり、これは旧英連邦諸国になります。そこにはオーストラリアが入っているわけです(豪・英・米)。それからファイブ・アイズという秘密情報の共有の仕組み(米・英・豪・カナダ・ニュージーランド)であるんですけど、それに日本とドイツと韓国を入れようという話もあります。ですから、NATOみたいなものが東アジアにはないと思われますけど、実はそういうのが事実上作られているということです。去年はイギリスのクイーンエリザベスという空母が来て、日英の軍事演習が行われました。フランスからはジャンヌダルクが来ました。クイーンエリザベスはこれから5年ぐらいは極東に張り付いて、その中心母港が横須賀になると言われています。それらの国々との間に安全保障条約が締結されたという話は聞かないですよね。いちいち条約を結ばないんですよ。「安保宣言」を発して、物品役務融通協定を結び、円滑化協定という名前の地位協定を結んでいく。全く国会で議論するという回路をさえ通らずに、多国間安保がどんどん進められていってる。
いま、経済安保推進法というのが出されていますが、これは外国人留学生に機密情報など先端技術が渡らないように管理を徹底すとか、特定秘密保護と関わるところとか多いんですけれど。そういうヤバイ部分というのは参議院選まではアイマイにして、その部分を落とした形で今の国会に上げられています。
ウクライナ問題に端を発したロシアの銀行に対する制裁措置などを考えてもらえば、経済というのも、非軍事的な戦争手段だいうことがわかる。一時期は日米安保を軍事同盟じゃなくて経済同盟だけにするのを対案にしようという動きもありましたが、そんなふうに軍事と経済はすぱっと分かれるものではないですし、いわば一体として考えるべきです。

◾️………日米安保の今………◾️
「日米安保の今」という話に行きます。
アメリカが脅威と思っているのは、①中国・ロシアとの新対抗関係、②イランなど地域大国による脅威、そして3つ目が「テロ」なんですけれども、もうあれこれつつきすぎで対応できてない、とにかく同盟国に負担増を求めるという現状です。
ぼくはあまり「アメリカの言いなりになっている」という言い方はしたくないと思っています。やっぱり国家安全保障会議の中心にいるような官僚たちの書いてる本とか、有識者会議に出ている学者連中とかが、むしろ率先して提案しているわけです。それこそシーレーン防衛も、海上自衛隊の方から先に素案があって、「自分たちからというのはなんなので、アメリカ側から言ってくれませんか」っていうような形で、シーレーン防衛も進んでいたりしています。だから「アメリカの言いなりになっている」というのは、もっと軍事的に小さい存在だったという昔のイメージで思っていることではないでしょうか。
「はいはい、喜んで負担します」「はいはい。対中国なんかはできるだけ、助けなしで自分でやっちゃいますよ」って、それによって利権を得る人たちというのがいるわけです。
今日の沖縄の話との関係でいうと、日米安保の強化の歴史というのは、沖縄に対する「構造的差別」によって支えられてきただけじゃなくて、今はっきりと 「戦場にもう一度する」 という想定で「台湾有事」は考えられています。テレビなどでさんざん言われている「ハイブリッド戦」ということですけど、こんなイメージで考えられています。
「特殊兵による要人暗殺、海底ケーブルの切断と西側との情報遮断、その後にサイバー空間を通じた猛烈なフェ イクニュースの洪水が来る。EMP(電磁パルス)攻撃やサイバー攻撃による政府・軍の指揮命令系統の破壊・乗っ取りが行われ、親中勢力を担いで愧儡政権が樹立され、中国政府に軍事支援の要請が出される。中国軍は、海上封鎖をかけて外国勢力の介入を阻止した上で、愧儡政府からの内乱鎮圧要請を名目に上陸し、戦わずして台湾軍を屈服させようとするであろう。」(兼原信克『日本の対中大戦略』、PHP 新書、2021 年)
こういうことを想定しているかというと、あいつらは本当にあると思ってないんですよ。脅威がないと、軍隊って持ちません。脅威がないと軍需産業も持ちません。だから脅威がなくなると新しい脅威を作っていきます。冷戦が終わったらテロの脅威だと言います。
ハイブリッド戦争というのは、非軍事主義的手段と軍事的手段とかがマダラになってグラデーション的に生起するだろう…台湾有事においては南西諸島は戦闘区域に入る…そこで尖閣とかが奪取されるだろうと。そのやり方としては、
「民兵や特殊兵を乗せた中国漁船が数百隻の船団を組んで尖閣諸島に押しかけてくる」(兼原信克 同書)
そんなイメージなんですね。と同時に、南シナ海での攻防:台湾有事になれば、中国海軍が戦場にする南シナ海、バシー海峡は通れなくなる。→ タンカーの護送船団(コンボイ)を組んで最新鋭の海上自衛隊の「もがみ」型新型護衛艦(フリゲート艦級)を エスコート(兼原、同書)させなければいけないと想定されています。これがもう、今年度の防衛予算でお金が付いています。

◾️………想定されている戦争イメージ………◾️
中国軍の戦略としては、アメリカ軍が来援して来るのを止める。これがA2(アンチ・アクセス)です。戦域に到達した米軍が自由に行動することを止める。これがAD(エリア・デナイアル)と言います。
中国は在日基地、特に沖縄米軍基地・自衛隊基地・駐屯地への攻撃と指揮統制システムへの麻痺攻撃をかけてきて、南西諸島からなる第1列島線を越えて西太平洋に出ていくと。それを自衛隊が第1列線を中国軍が突破しないように空と海で盾となって持ちこたえる。米軍は安全な後方基地に分散退避して、エア・シー・バトルで反撃する……。こういう想定のもとに、石垣・宮古・奄美の地対艦ミサイル部隊とかが整備されてきたということになります。
こういうシミュレーションでは大体の人が、初動は中国軍が優勢で、米軍は一旦は後方に退避するが、反撃に転じるというシナリオで抑止ができると言ってたのですが、この間は初動段階でドッと圧力をかけるような軍備増強をして中国を抑止する、というふうな話になっています。「台湾有事=日本有事を断念させるための抑止」に関して、初動段階からドッと圧力をかける、こっちが先んじるということですから、このシナリオの中で「敵基地攻撃力の保有」が出てくるということになります。去年の暮れにですね、台湾有事・日本有事の際の日米共同作戦計画が策定されつつあるということが、新聞でも報道されました。
台湾有事の緊迫度が高まった初動段階(=日本政府が重要影響事態と判断した段階)で、米海兵隊は自衛隊の支援を受けながら、鹿児島県から沖縄県の南西諸島に臨時の攻撃用軍事拠点40ヵ所を置く──ここに「重要土地規制法」が関わってくる。なぜ重要土地規制法を作ったかというと、こういうふうにさっと40ヵ所の軍事拠点を作るのに、いちいち立ち退いてくださいとか、こういう建物困りますよとか言ってられないと。平素から機能阻害行為にならないようにしておくという話です。
ちなみにですね、重要土地規制法は沖縄だけに適用されるものではありません。首都圏の自衛隊施設も重要土地規制法の区域指定の対象になります。朝霞駐屯地が総隊司令部とか、司令部機能が集中しているので特定重視区域になると言われています。年末に「毎日新聞」がすっぱ抜いた記事によると、機能阻害行為の事例というのは「高所からの監視」とかというのが入っています。練馬駐屯地の周辺、練馬北町とか平和台とかになるんですけど、高層マンションがいっぱいあるわけです。そうするとベランダに出て洗濯物を干してるとか、決まった時間にベランダで煙草を吸うとか、そういうことは「高所からの常なる監視」になりかねないということです。本当にですね、重要土地規制法というのはとんでもないものなんですけど、これはこういうシナリオがあって制定されたものだ、ということになります。
とにかく、中国が動く前にやる気をなくさせるための抑止は必要だから、そのために軍備を増強しなきゃいけないというだけでなく、普段からサイバーテロ対策の仕組みを作らなきゃいけないということで、警察庁直轄のサイバー部隊というのが創設されます。もう衆議院を通ってしまいました。何でもかんでも内閣委員会に法律が持ち込まれて、議員さんたちもあれよあれよという感じで処理できない。今まで、警察庁には捜査権がなかったんです。建前は、都道府県警察の体制。ところが警視庁に直轄部隊として捜査権を持つサイバー部隊を置くというのは、警察組織の大きな変化だといえると思います。そういうこともこの安保強化、戦争シミュレーションの中で出てきています。
「高度国防国家」とかいうのが日中戦争期に言われたんですけど、いまは「高度国家安全保障国家化」というか、その中で治安監視社会化、緊急事態に対応した自由や権利の制限-緊急事態条項追加改憲―などといった問題が出てきています。コロナ禍の下で、緊急事態条項追加改憲の前倒しというのかな、命を守るんだったら私的自由が制限されるのが当たり前、みたいな空気も作られています。びっくりするのが国民民主党の人かな、「緊急事態の時には国会議員の任期を延長する」という発言をしていました。これってよくクーデターのときにやる手なんです。クーデターを起こしておいて、形だけは議会はなくさない。ずっと選挙をやらないで議員の任期が続く。そういうのを政党自身が提案しています。
ほとんど話題にされないうちに国家の治安監視社会化と緊急権国家化が進んでいる。戦争のために何かを準備しているとか、戦争のイメージがどうも第一次・第二次世界大戦の総力戦のイメージで、「あんなになったらいけませんよ」みたいな言い方なんですけど、そういう戦争イメージじゃないんですよね。今もある意味で戦時下なんですよ。弾は飛んでないけどサイバー攻撃は頻繁にある。「ほら、トヨタ止まったよね」みたいな。だから常に対応することをして、抑止力を持っていないと何されるかわからないよ、という体制の仕組みになってきているということです。

◾️………これからの安保闘争を考えるために………◾️
あと15分ぐらいですね。「これからの安保闘争を考えるために」。ここら辺を議論できるのが一番いいんですけど、戦後の平和運動は沖縄を切り捨ててきたと言ってもいいと思います。1950年代の平和運動とかもそうですし、その前のサンフランシスコ講和条約を片面講和=西側諸国だけとの講和にするのか、そのころあった社会主義圏も含める全面講和にするのかという議論のときにも、ほとんど沖縄のことには何も言及がありません。
1950年代に反基地闘争がこちらでも盛り上がる。そのころ沖縄でも島ぐるみの戦いがある……と、すごく平板な記述です。「お互い頑張ろう! 」って、あっという間に忘れていくということです。60年安保闘争のときも、ほとんど沖縄のことは出てきません。「沖縄闘争」という言葉は1968年ぐらいの頃から出てくるんですけど……。
今日は「日米安保の70年」というテーマだったので、安保の方の歴史をずっと中心に見ているけど、2年くらい前かな、どこかで「反安保と沖縄闘争」というお題を頂いたことがあって、その時にちょっと昔の本でぼくが持っているものを読み返したりしたんですけど、まあひどいものですね。「ベトナム反戦運動の一環としての沖縄」から「70年安保の前段としての沖縄」。もっと極端に言うと、諸党派なんかだったら、「革命のための……」ですね。沖縄のことを沖縄のこととして考えていない。いろいろもう一度東大闘争の記録とか、日大闘争の記録もひっくり返して読み直したんですけど、沖縄が出てこないんですね。
1969年の佐藤訪米阻止闘争。佐藤首相がアメリカに行って、ここで返還協定はほぼ決まりになったんですけど、沖縄の県職委員会などは、「決戦はこの69年の11月であらねばならない」という位置づけで、佐藤訪米阻止闘争を展開したそうです。一方ですね、東京の方は70年の4・28が過去最高の動員なんです。沖縄の69年11月決戦。それ以降は運動が衰退していく過程と、「わあ、沖縄だ!」ということになって、70年の4・28は本土の方では人がいっぱい出ている。このギャップですね。
以降、復帰が既成事実化していく段階で、どんな取り組みがされていったか。70年は全軍労解雇撤回闘争──基地を安定的な職場にすることを求めたのではない離職者対策や解雇後の生活保障要求、基地の再編合理化との対決という闘い、そして国際石油資本の進出と企業誘致に対しての闘いなど、ねばり強く沖縄では闘われていって、その中で「コザ暴動」があるわけです。それに比して本土の方は、もう急激に後退局面で、党派争いになっていきます。72〜3年を境にして「沖縄」って消えるんですよね。
ぼくが79年に大学入って東京出てきた時に、一番最初に集会に行ったのが日韓関係の政治犯救援の集会です。在日の学生が韓国に留学して、そこで北のスパイだというふうにでっち上げられた事件が軍事政権のもとでありました。いろいろな大学に、自分たちの学友の政治犯を返せという運動があって、そういうことをやってる先輩に連れられて日韓の集会に行ったんですが、「今日、朴正煕が射殺されました」ということが言われて、その後はもう地獄のようなデモの嵐だったんですけど……。たしか2年くらい前に、沖縄の闘争の歴史をレポートしろってある市民運動団体に言われた際に、その当時の日韓関係のものをいろいろ読み漁ってみたんですが、沖縄が出てこないんですよ。自分の記憶でも「日米韓軍事一体化反対」とか言っていたけど、その時も沖縄は出てこないんですね。
ぼく自身が沖縄に関する本を集中的に読んだのは、87年の天皇・裕仁が沖縄に行こうとして下血状態になって行けなかった時です。その直前に海邦国体反対で知花決起があった。でもね、一貫して沖縄の運動も盛り上がってきたわけではなくて、やっぱり私達と同じように浮沈してきたということも忘れてはならないと思います。
たしか87年に嘉手納基地包囲闘争というものがありました。その頃、横田基地包囲闘争もあったんですけど、総評が解散して今の連合ができていく頃です──当時は、「右翼的労線統一」と言ってました。当時、右翼的労線統一と言ったんだから、いま連合が自民党支持するのは当たり前じゃん、いまさらびっくりしなくていいじゃん、とかオレなんか思っていますけど。──いわば総評が消えていく中で、ヒューマンチェーンで厚木基地を取り囲もうとか、嘉手納基地包囲闘争といったものが取り組まれました。もう亡くなりましたが、崎原盛秀さんという沖縄でずっと復帰─反復帰運動からずっと戦い抜いた方がいたんですけど、その崎原さんが渋谷の宮下公園でやった私たちの集会に来て、反天皇関係の絡みでアピールしてもらいました。その時に何人か逮捕者が出たんですね、機動隊とぶつかって。一方私は、こっちの反天皇制運動から嘉手納基地包囲闘争に派遣されました。包囲闘争後の交流会のときだったと思うのすが、崎原さんが「ヤマトでは逮捕者を出している一方で、手をつないで包囲したと喜んでいていいのか」といった発言をされたことを契機に、沖縄の人同士の中で論争みたいになったんですね。初めて沖縄に行って、初めて沖縄の大きな闘争に参加し、沖縄の人同士の論争を聞いて、目を丸くしたというか、頭が真っ白になったというか、ビックリ仰天して固まってしまった記憶があります。
その頃すごく言われてたのは本土系列化──それまでの沖縄の運動が終わっていくのをどうするんだ、みたいなことも議論されていました。だから、三〇代くらいかな、今の若い研究者が「全ての歴史がオール沖縄に結実する」みたいな物語を発表してるのを読んだり、聞いたりすると、そんな話じゃないよっていう違和感を持ってしまいます。
それでも95年の「少女暴行事件」後、沖縄の闘いは復活しました。ぼくはこの間の私たちの運動って、沖縄に依存してきたと思います。ぼくのように自衛隊駐屯地の問題に取り組んできた者からすると、自衛隊の問題を含めた反安保闘争ってほぼ無いに等しい。「沖縄の人々はこう言ってます」ということでなんとか持たせてきた。沖縄のおかげで反戦運動があるような状態。これを変えなきゃいけないと思います。
「オール沖縄」、これが出来た切っ掛けは、翁長雄志さんの知事選立候補ですが、2013年1月27日に「オスプレイ配備反対」で沖縄の県議会から超党派の議員団が東京に来たんです。日比谷公園で集会があったんですが、日比谷公園周辺にはヘイトグループ──街宣車右翼とはちょっと違う、SNSで集まってくるようなヘイトグループがどっと取り囲んで、「沖縄わがまま言うんじゃねえよ。お前ら中国の手先か」って騒いだ。それがすごく翁長さんにとってはショックだったそうです。
そういう沖縄ヘイトを許してしまっているヤマトの問題というか、「本土」の在りようが問われていると思います。沖縄に何回行ったというよりも、こっちでヤマトの問題をどうするか。ぼくの軍事分析の師匠だった山川暁夫という人がいらっしゃったんですけど、山川さんと一緒に講演に行った時とかに、「池田、オマエ言ってることは間違ってないけど結論が暗い。最後は明るく」って言われたんですけど、どうも山川さんが言うようにうまく芸がなくて相変わらず暗いんですが──オール沖縄の行く末を楽観的にとらえてはならないと思います。もちろん、政府・与党は、札束攻勢で切り崩しを図っていることに対して、それを「ヤマト」の側の問題として批判していかねばならない。そのためにも、客観的分析が必要だと思います。例えば、翁長さんの経済構想を見ると、中国からの観光客がたくさん来るというような前提です。中国脅威論で中国との関係を悪化させて、そこに自衛隊の基地をどんどこ作って行こうという現状で言えば、あの経済政策はだんだんリアリティーを持たなくなります。「離島」にあれだけの自衛隊員が住めば、家族も含めて、選挙結果を左右するようになります。
それは朝霞市だってそうです。練馬だって自衛隊出身の議員というのがいて、議会ごとに「募集業務をもっとしっかりやれ」とか言うのが現実です。だからぼくは、「沖縄の民意に従え」とかいうスローガンって、それでいいのかと、悩んでしまいます。選挙結果だけが民意ではないし、保守の方に投票せざるを得ないような、構造的な暴力で圧力をかけられてなってしまった選挙結果であったとしても、権力やマスコミは「沖縄の民意は変わった」と大々的に宣伝するでしょう。その時に私たちは何をどう人々に伝えればいいのか。選挙結果が、政府・与党に好都合なものに変わっても、基地反対と言えるような論理を作らないといけないと思います。

  ◾️………「流動的下層労働力」………◾️
最後になります。今日の映画との関係でいうと、基地建設ですね。これは土建屋が潤うわけです。今の辺野古の工事だけじゃなくって、占領下での沖縄の米軍基地拡張でヤマトのゼネコンが復活していったという歴史があります。映画では、筑豊のお墓が出ていましたけれども、富国強兵殖産興業と土建資本主義の形成は一体不可分でした。一時期は「田中角栄土建資本主義」というのがありまして、あまり軍事とは関係がなく、公共事業バラマキみたいなイメージで語られた時期もありますけれども、しかし、大倉組とかの歴史をちょっと調べると、軍事土建資本主義なんですね。軍事土建資本主義は日雇い労働者に支えられてきました。その構造は戦後の高度経済成長の中でも変わってこなかったと思います。
ここに『ルポ 労働と戦争』という本があります(島本慈子/岩波新書)。この前古本屋に10年前ぐらいの岩波新書を持って行ったら、48円といわれてガックリしたんですけど(笑い)。だから、これなんかも48円でしょうね、2008年の本ですから。これをちょっと読み返してて。イラクに行った自衛隊の飛行機のエンジンをメンテナンスするために、石川島播磨が行ったんですけども、行ってるのは正社員だけじゃないんですよ、派遣労働者も行っているんです。コンピューター関係の技術者、ぼくの知り合いでずっとソフト屋さんなんかをやってる人の話を聞くと、コンピューター関係も、建設業と同じように下請け・孫請けの世界だそうです。だから防衛省のシステムが最後の最後に、「二日でできます」っていう下請けの下請けの下請けの元オウム信者のところに行ってみたいなことが起こるのも、やはりIT技術者下請搾取構造があるからです。自衛隊もそういう人材を民活で集めようとしているんですよ。中心舞台はそれこそ理系の大学生だとか、IT企業の第二新卒あたりに粉かけようとしているみたいですけど、それなんかも含めてもっともっと末端にいくと思います。
〈資料〉の最後のほうに、寄せ場労働運動の船本洲治さんの文章を載せてあります。ちょっと読みます。
「山谷、釜ヶ崎、沖縄を流転し、1970 年代初頭、手配師追放釜ヶ崎共闘の中心として活動。1975年、皇太子訪沖に抗議し、沖縄で焼身自殺。」──「旧社会からの汚物からではなく、帝国主義の必然的帰結として、帝国主義が不断につくりだしているところの汚物──釜ヶ崎・山谷に代表される流動的下層労働者の“低賃金労働力生産工場”は、解体された農・漁村であり、合理化された炭鉱であり、未開放部落であり、朝鮮半島であり、(日帝本国内)朝鮮人部落であり、そして沖縄なのだ。土地・財産・生産手段から自由な労働力商品は基本的に流動的である。さて、官許のマルクス主義者諸君。そもそも流動的でない労働力商品とは一体何ものであるのか?」
今の日米安保の強化の中で行われる軍事基地の建設。そしてそういう海外派兵にまでついていく装備のメンテナンス。そしてサイバーテロ対策だとか言われて増強されるサイバー防御のIT技術者たち。それらもみんな、この流動的労働力に支えられる構造にあるということも踏まえて考えていかなければならないと思っています。
──ということでちょうど一時間。

●……質疑応答……●
司会 ありがとうございます。こんな長いレジュメで最後までできるのかと思ってましたが、最後まできましたね。
時間もまだ多少ございますので、ご質問なりご意見なりございましたら、お願いします。今聞いていて、100個ぐらいの単語が頭の中でぐるぐる回ってて、大変なことになっているなということだけは、すごく思いました。ご質問はありませんか。

A  全く政治にほんとに弱くて、お話を聞いてて難しいことだらけで理解できなかったんですけれども。池田さんは支持政党とかありますか?
池田 ないです(笑)。ぼくは何かの政党に属してもいないし、政党を支持したこともありません。いまやっていることで言えば、反戦反基地運動をどう中身のあるものにして広げていけるかを、軸にして考えているだけです。
A それは、政治とは絡まずに市民としてやっていきたいということですか。
池田 あ、そうです。だけど、そうするためには誰でも使います。
A 反戦主体とか沖縄とか、何か、こうしたいっていうのがあれば……。
池田 こうしたいっていうのは無いです。こうしたいというよりも、こういう増強はやめさせたい、ということです。
A やめさせたいわけですね。そうすると、やめさせたいっていう思想なり、なんかこうアクションする政治家が権力を持てばやめさせられるような気がするんですが、そういうことではないですか。
池田 まあ、そういう人はいなさそうだし(笑)。でも、政党を問わず役立ってくれそうな人はいます。例えば、練馬9区だったら立憲民主の山岸一生という人がこの前の衆議院議選に通りました。なりたてですから地元の人間から何か要望があると、いろいろやってくれます。警察庁サイバー部隊の院内集会でもちょっとあいさつに行ってくれというような話とか、重要土地規制法のことについて質問主意書を出して、ちょっと聞いてくれとか。だからそれは誰でも、自分の反戦反基地運動のためだったらどの政党の人でも話持ってって、役に立ってもらえる人には役に立ってもらう。
A わかりました。

司会 ありがとうございました。他にありますかね。あっどうぞ。お願いします。
B 本日はとてもわかりやすい解説をありがとうございました。実は私、練馬が故郷で、自分の故郷にそんな駐屯地があるということを全く自覚していなかったので。ちょっと驚きました。
質問というよりは、たぶん前の方と同じ質問になってしまうのかなと思うんですけれども…。やはり、戦争に反対だっていう思いは、保守派ではない非保守派の中では、すごくそういう思いがふつふつとあると思うんですけれども、じゃあ具体的にどうやってその戦争を嫌だなって思っているおじちゃん、おばちゃん…私もおばちゃんですけれども、そういう日常、戦いの日常ではない日常を送って仕事をして、家族のご飯を作って、寝て、またっていう、そういう日常を送っている人の中ででも、どうやって戦争をしないということを勝ち取れるのかっていうのはやっぱり思うんですよね、日常の中で。
実は私の周りって、あんまり保守がいなくって、保守の人に「いや、違うでしょ」とかいう相手がいなんです。心情左派っていう言い方がありますよね、心情だけ左派だけど全く行動しない人たち。でも、そうした人ばかりだったら、きっとおそらく戦争になるだろう。では今どうしたらいいのか、自分はどうしたらいいのか、どういうふうに行動すれば良いのか。行動しなければたぶん恐ろしいことになる。だけどどうやって行動したらいいのかなっていうのがあるんですけど、どのようにお考えでしょうか。
池田 えーとですね、どう言えばいいかな。ぼくはべつに研究者でもないし、運動の専従でもありません。ずっと働いてて、練馬は寝に帰るとこでしかないんですけれども、でもやっぱり学生時代からやってきたことのこだわりと、やっぱり駐屯地がある地域に住んでたら、そこでの動きに対しては声を上げていかなきゃいけないと思ってきただけです。
質問にどう答えればいいのかちょっと迷っているんですけど……。いくつか、運動に関わっていったという理由はあるんですね。
そのひとつは、やっぱりものすごい管理教育の高校生時代。ぼくよりも7~8歳程度上の世代が、ぼくの田舎でも制服自由化の運動とか、高校生運動をするわけです。そうすると保守的な親は、あんな学校に行かせたら、長髪にしてジーンズをはいて、女の子と不純異性交遊をするから、中高一貫の厳しい校則のところで先生に殴ってもらった方がいいんだっていう形で、ものすごい管理教育の中高一貫の学校が伸びる時代でした。ぼくも、まあそういうところに入れられて──入れられたから逆に、東大闘争の記録や日大闘争の記録を古本で探して出会ったりするんですけど…。まあ、そういう意味で、黒ヘルメットでやってた頃は、どちらかというと現状に対する不平不満。それは何というのかな、何かこう満足し得ない。まあストーンズ風に言うと、”I can’t get no satisfaction” みたいなそういうノリで、あまりその、反戦とか平和の内実みたいなことをそんなに突き詰めて考えていたわけじゃなかった。
すごく考えるようになったのが、ぼくは湾岸戦争(1990年)のとき。湾岸戦争って違法な侵略戦争を行ったイラクに対する制裁としての正義の戦争だと言われました。でもぼくは「正義の戦争」っていうものをどう捉え、批判したらいいのかと考え、それで戦後の反戦平和運動の歴史とか、いろいろなものを集中的に読みまくった時期があります。その中に、その当時交流のあった福富節男さんたちがおっしゃってることがありました。非暴力の思想、非暴力不服従、9条を絶対平和主義的な方向から進化させるという考えですね。
ぼくはどっちかというと、たとえば、全斗煥が来たとき(1984年)に、全斗煥来日阻止・首都圏学生実なるものを作って、関西の京大とか同志社たちにオルグに行って、それに──なんと怖い!、 知らないって怖いですよね──釜日労まで行ってですね、「我々学生は羽田現地闘争を行います。釜日労の皆さん、共に羽田で闘いましょう」とか、よくあんな無茶なことをやったと思うんですけど、どっちかというと戦闘的とか暴動的とかそういうの〇(マル)だった人だったんですけど。湾岸戦争のときににすごい考え込んでいく中で、どっちかっていうと福留さんたちが考えてこられたほうにぼくは傾斜して行きました。その背景には親父の兄貴が戦死してるとか、会ったことのない曾祖父が空襲で死んでいるとか、そういうこともあるのかもしれませんね。だからどっちかというと、今は絶対平和主義的な立場です。
今のウクライナのことに関して言うと、ロシアのやってることは違法な侵略戦争です。だけど、それに抵抗するウクライナの正義の戦いを支援しようというのは、ぼくは絶対におかしいと思っていて、与したくないと思っています。とにかく、ぼくらのネーミングは「戦争に協力しない! させない! 練馬アクション」です。自分が戦争に関わらない、兵士として行く行かないとか関係なく、しないようにしよう・関わらないようにしよう、自衛隊員も含めて「就職するのは仕方がないけどさ、逃げておいで」を含めて、「させない」っていうネーミングです。
ぼく、獲得目標がもともと学生時代から低くて、さっき心情左派は役に立たないとおっしゃっていましたけども、(「役に立たないとは言ってませんよ。動かない…」)…ぼくは、動かないっていうか…もうすってんてんの段階で大学に入ったので、「あいつなんか安保だ何だとか言って集会行ってるやつだけど、面白いやつだぜ」という、デモ行ってるやつだからって、絶交されないというのが獲得目標だったから、ものすごく獲得目標が低いのね。「どうしてこんな状況なのに、明るく池田くんは運動をやっていられるの?」 「うん、もともと獲得目標が低いから」。「あいつ、なんか中国脅威論をおかしいって言ってて変なヤツだよな」「でもあいつ面白いやつだぜ。あいつの話も聞いてみようよ」っていう、普通の友達がどれだけ作れるかっていうのが、ぼくは大事だと思っています。
司会 よろしいでしょうか。
B はい。
司会 そんなに低いの?
池田 ずうっと低い(笑)。
司会 とても重要なテーマで、1時間という短い時間の中でまとめていただきました。ぼくも帰ってからもう一回読み直して、線を引きながら噛みしめたいと思っていますので、皆さんもこれを契機に今の池田さんの話を受けて、ご家庭で、あるいは職場で考えていただければ、というふうに思います。ここの会場を使うのはぼくらも初めてでして、これからもここを含めて上映運動を案内していきますので、この映画の感想も含めて、皆さんと次の機会にお話をしていければなというふうに思っております。今日はどうも最後までありがとうございました。
【2022年3月5日 フリースペース「無何有」にて】

「白手帳」と寄せ場・寿町の現在

――〈映画を、聞く〉①

近藤 昇(寿日雇労働者組合)

司会 本日はお忙しい中を上映に参加していただき、ありがとうございます。恒例のミニトークということで、「山谷」は30数年前の映画なんですけど、それから30数年を経た中で、今の寄せ場がどういう状況になっているのか、ということについて、お話を聞いていただきたいと思います。今日は寿日労、寿日雇労働者組合の近藤さん。寿というのは神奈川県の横浜にあるんですけど、その寿日労の近藤さんのお話を聞きながら、白手帳というのは日雇雇用保険なんですけども、その受給の問題、それから、現在の日雇労働者たちがどういう状況におかれているのかをお聞きしながら、考えていきたいと思います。では近藤さん、お願いいたします。

近藤 近藤昇といいます。寿日雇労働者組合の一員です。わたしは38歳のとき寿町に来たのですが、現在70歳になっています。変化が激しくて、寿町はざっといいますと今、6300人くらいの人が暮らしています。男性単身者が圧倒的に多い。平均年齢も60歳を越えています。65歳以上に限定すると、4割といわれています。日雇い仕事はほとんどない状況のなかで、みなさん生活保護、8割以上が生活保護で暮らしています。まあ寄せ場はどこも似たような状況なんですけど、男性の単身者がほとんどという街で、寿町もその例にもれない。今日は時間もないと思いますので、用意した資料にそって話しませんので、後で読むなりしてください。
 白手帳ってそもそも何なの、ということと、仕事がない状況の中で高齢化が進行して、じゃあその人たちは今、生活はどうなっているのかを話してほしいということでした。ということで、わたしがつくったレジュメにはその二つのことしか書いておりません。
 日雇労働者とはどういうものなのか。日々雇われて、日々解雇されるという存在です。法律的には雇用保険法という規定があって、42条に日雇労働者という項目があります。クニの法律によれば日雇労働者というのは何か、ということですが、「日々雇用されるもの」というのが一つですね。あともう一つありまして「30日以内の期間を定めて雇用されるもの」つまり1か月を超えて契約されるものではない、ということですね。当然、企業にとっては利益のよくあがる雇用形態です。契約が満期します、だからといってそこで、退職金をもらうわけじゃないです。夏と冬のボーナスもありません。ですから賃金はもちろん払わなければいけないにしても、企業にとってはもっとも利益の上がりやすい、というやりかたです。それでもバブル景気までは、仕事はコンスタントにあったんですね。今、寿町では、通称「センター」と言いますが、そこの工事が来年の6月までかかるんですが、そこに職業安定所と、寿労働センターの無料職業紹介所の二つがあります。これらが雇用紹介をしているのですけど、クニと県で。バブル期までは求人看板がズラ〜と、まあ20何枚でていました。今はほんと数件です。しかも賃金も下がっていますし。バブル期は、われわれは土工・雑工と言うんですが、いちばん賃金の安いクラスで、それが1日、1万2000円まで上がったこともありますが、今ではだいたい1万円くらいですかね。昔ですと運転すると運転手当てをくれたりしたのですが、今は全部こみ、ということです。世の中では建設好況といわれながら、寄せ場には仕事がまったくこない、ということが進行しておりまして、必然的に部屋代もはらえない人がでてきているわけです。寿町の場合、山谷なんかとは様相が少し違うわけですが、寿町は典型的なドヤ街ですね。ドヤがほとんど、建物はほとんどドヤです。ドヤって、ごぞんじですよね。宿をひっくり返しているわけですよ。わたしが来た当初、1986年の頃は木造棟が多かったです。ですから夏は暑く冬は寒い。しかもまるで忍者屋敷みたいな作りのものがありまして、表から見ると三階建てなんだけど入っていくと、急に階段があったりする。人間がそこに住むところではないと、自嘲的にヤドをひっくり返して言うようになったという説がある。まあそれでドヤ、ドヤが集まってドヤ街。
 寿町の場合はドヤ街と寄せ場。寄せ場は、建設を中心とした日雇労働者が寄せ集められる場所、仕事のために寄せ集められ、寄り集まる。ということで街全体を寄せ場とよぶ場合もある。寄せ場とドヤ街が寿の場合、重なっている。これの規模を6倍にすると、釜ヶ崎になる。で、人口もたぶん1万数千人はいる。山谷はちょっと違いますね。普通の民家とか商店とかとドヤが混在している形ですね。少し違います。もっと違うのは、川崎がそうなんです。川崎も京浜急行の川崎駅から一つ南に行った八丁畷という駅の周辺に、日進町とかそのあたりですが、ドヤ街が拡がっています。ただし寄せ場はここにはない。寄せ場はちょっと離れたところにある、という違いがあるんです。そんな中で寿町の場合は完全に重なっていまして、バブル期までは、早朝、薄暗いうちに寄せ場に行ってみると、人がごったがえしている。求人車両もいっぱいくる。先ほど言いました二つの紹介機関は全体の3割くらいを紹介する。仕事全体の3割程度、あとの7割はどのようであるかというと、手配師を介して。手配師という規定はよくわからないのですが、わたしは、人を仕事に手配する者、それを収入源にしている者と考えている。だいたいやくざの資金源です。寿町の場合は、やくざの三大資金源の一つと言われてました。いちばん多いのは、競輪競馬等のノミ行為。二番目は覚醒剤、三番目が手配料と言われていました。
 ところがバブル景気の崩壊後に、仕事がバッタリなくなったんですね。日雇労働者というのは先ほど言いましたように、短い雇用サイクルで、それが続いていくということ。でも不況になりますと、このサイクルと次のサイクルがものすごく空いちゃうわけですね。この間は無収入です。で、日雇労働者が集められた街ですから、そこから現場に通うという人もいますけど、基本的に短い雇用サイクルで契約を結んで、会社の寮とか宿舎に入るわけですね。そこから現場に行く。一仕事を終ったら寿町に戻ってきて部屋を借りる。次の仕事が見つかったら引き払ってまた会社の寮に入る。ところがバブル景気の崩壊後、この間がものすごく長くなったものですから、無収入状態がずっと続くわけですよ。結局、部屋代がはらえなくなると、路上に行くしかなくなった。というのがバブル景気の崩壊後におこったことです。仕事がまったくないという状態がずっと続いた中で、部屋代がはらえないと出されてしまう。ドヤのオーナーも日銭商売なんで、金をはらわないヤツをおいておくわけにはいかないわけですよ。日本におけるいわゆるホームレス問題がおこったときに、最初にそういう目にあうのが、不安定就労層。でも不景気がずっと長く続きました。 
 バブル景気まではわたしらは、労働組合ですから、労働相談等を中心とした活動をしていたわけです。年間100件以上の相談を受けていました。賃金未払いが圧倒的に多いんですけども。賃金未払いといっても、10万も20万もあるわけではありません。日雇いですから。1万円とか2万円とか、場合によっては1万をきるとかというケースもありました。ただしご本人にとっては大切な生活資金ですから、どうしてもやはり払ってほしいわけですよね。それを電話で交渉したり、直接行って交渉したりして、賃金未払いはかなり解決してきました。労災が次に多かったですね。労災事故というのは報告する義務があるのですけど、それをやっていると下請企業は上から切られてしまうんです。「オマエんとこは労災ばっかり起こしてるから、オマエんとこにはもうやんねえよ。オマエんとことはもう仕事をしない」。そうすると、労災があったのに、それを届け出ないで、そのかわり「宿舎で寝ててくれ。労災届けは出さないけれどカネは払うから」みたいなことを言われる訳です。でも怪我は日がたつにしたがって治っていくものですよね、だいたい。布団の中でうんうんうなっている人も、1週間たち10日たつと布団から起き上がり、外を歩いたりする。すると同じ宿舎に入っている人からすると、オレたちは毎日仕事に行っているのに、オマエはいいよなってなる。で、「もうそろそろオマエ、軽い仕事はできるんじゃないの」なんて社長に言われて現場にいっちゃう。結局、労災の後遺症が出たときに、会社も巧妙でその前に念書を書かせたりするんですね。「一切これ以上の請求はしません」て。別にそれは有効じゃありませんので、そんなものけっとばしても良いのだけど、ご本人は「もう念書を書いちゃったからな」、そういう場合にどうにかならないかね、なんていう相談があったりする。そんな労災の取り組みもやっていました。あと数はあまり多くないけど、暴力行為もありました。でもバブル景気の崩壊後にバタッと仕事がなくなる。当然相談もなくなる。今われわれの組合で、年間1、2件しか労働相談はありません。仕事にそもそも就けていない。以前はバブル景気の崩壊のあと、賃金の切り下げ等、よくやられました。来週から賃金下げるから、「えっ」というようなことを言われて。それでもしがみついていたんです。そこを失うと次の飯食う場所がない。だから、当然それまでならね、冗談じゃないよオヤジ、フザケンジャナイヨって蹴っとばして、もっと収入の良いところに行くことができたんですが、大不況になりましたからそういうこともできなくなって、仕事にしがみつく。
 その仕事すらが来なくなった。寿町の場合は…他のところも同じだと思うんだけど、バブル景気の崩壊後の不況と高齢化とが一緒に進行した。寿町はたぶん外の社会より10年先に行っている。高齢者ばかりになってしまいました。といってもですね、90、100歳っていう人がごろごろいるわけではありません。わたしが知っている限りでは、90歳以上の人は3、4人。50代、60代…60代が多いかな。ずうっと長生きしている長寿のお年寄りがそういるわけではなくて、みんな死んでいくんですね。寿町では、年間、路上で亡くなったり、ドヤの中で亡くなっていたり、救急搬送された病院で死んじゃったり、という人が三桁以上。寿町独自の統計ってないんでわからないのですが、300人くらいいるんじゃないの、という人もいますけど、そんなにはいないだろうかな。大阪は年間亡くなる人が300人くらいいると…。じゃあ年間300人亡くなったら、人口が激減していくかというと、そんなことはないんですね。流入してくる。寿町の場合は、今6300人ですけど、実は減少しない。平均年齢はあがる、ということは外から高齢になった人が連れてこられる。歳をとって身よりもなくお金も持っていない。そうしたら生活保護で暮らすしかないでしょ。寿に行ったら暮らせるからね、と言われて。以前は、寿町は横浜市中区にあるので中区の社会資源だったのですが、今は横浜市全区、18区ありますが、全区の社会資源なんですね。ですから寿町に住んでいるんだけども、他の区から生活保護を受けている人が100人以上いる。そういう人が流入するんです。 
 横浜市にも公営住宅がありますけど上限があるんです。これ以上絶対作らないと。古くなったら建て替えることはしますけど、他に、高齢社会になったからどっかに団地をつくりましょうとかはしないんです。決まってるんです。しかも、寿町の場合は大阪や東京のように、外国人のバックパッカーむけに業態転換したということはあまりないんです。そういうホステルのようなことをやっているところはありますけれども、あんまり増えていません。というのは、横浜市がドヤの居室をその人の居所として認めているんですよ。だから、ドヤに住んでいたらそこを住所にして生活保護を申請できます。大阪市は、日払いのドヤのまんまでは生活保護の居所として認めない。一部旅館業法の適用を受けているということで、認めない。横浜市はずうっと認めているんです。でもドヤの構造、部屋の構造というのは非常に狭いんです。行ったことのない人が多いと思いますが、だいたい三畳ぐらいです。わたしが来た頃は二畳なんてありました。三畳というと布団一枚敷くと、ほとんどスペースがないですよね。当然家具なんて持っていません。しかも寿町のドヤは、顔を洗ったり料理を作ったりするスペースもない。お風呂ももちろんない…どころかトイレもない。普通人間が住むところですから、トイレはないと困るでしょう。風呂はなくてもね。洗濯せんといかんでしょう。なぜそんな構造が作られているのかというと、先ほども言ったように、短い雇用サイクルで働きに行ってたからです。つまり寿町には、ずうっと住むという前提ではなくて、仕事があったらいなくなっちゃう。仕事が終わったら戻ってくる。言ってみれば、街全体が独身寮みたいな構造になっている。今あまりそういうところはないのかもしれませんが、昔よく青年労働者の独身寮とかありました。フロアーにそういった共用のスペースがありましたけど、寿町の場合、ドヤ全体がそんな構造になっている。居所としてふさわしいということになれば、少なくともこのドヤの二部屋を一室にするくらでないと生活できないんです。でもそのまんまです。しかも、生活保護の住宅扶助が切り下げられました。横浜だとだいたい5万2000円くらい、月額が。それまでは1日あたり2250円相当まで横浜市が認めていたんです。古いドヤも新しいドヤもみんな2200円。三畳でも四畳でも2200円。生活保護の上限ありきの料金設定にしてある。これが切り下げになって、今は1700円相当分です。ところがドヤ主も経営が苦しくなるもんですから、うちは1700円ですって言いながら、プラス1日管理費500円いただきますなんていう。2200円でしか貸さないよ、というオーナーもいます。収入としては住宅扶助が切り下げられているわけですが、支出は以前と同じなんです。
 寿町は非常に小さい街です。人口が6300人もいるんだから、それ相応の広さがあると思うかもしれませんが、普通に歩いて1周で15分。15分で街1周できる。寿町の真ん中の交差点に立つと、東西南北が全部見えちゃう。あの道路が東、あの道路が西、と全部見えちゃう。その中に6300もの人がギュウギュウ詰めで、一人ドヤで住んでいるということになってます。生活保護を受けている人がほとんどです。生活保護というのは、レジュメにも書きましたけど、憲法二十五条、生存権規定、健康で文化的な最低限度の…ということが、生活保護の第一条に書いてあります。憲法第二十五条の規定に基き、と。その自立と助長をやんなきゃいけないことになっている。八つくらい項目があるんですね。生活扶助からはじまりまして、介護扶助かな。生業扶助とか出産扶助なんかもあります。でも寿町の場合は一人暮らしが多いですから、生活扶助と、あと高齢の人が多く病院に行く人が多いので医療扶助…。

 白手帳という制度があるのはご存じでしょうか。白手帳というのは通称です。表紙が白いので白手帳。雇用保険手帳のこと、雇用保険法に基づいて作られているものです。手帳を作ってそれで働きに行きます。仕事の紹介を受けてね。会社に行ったら雇用保険というのがあって、その印紙が本来は労働者と会社の折半負担なんですけど、一級印紙176円、だいたい会社が負担することが多いです。それに割り印を押してもらって、雇用保険手帳(白手帳)の該当の日付のところに貼っていくんですね。これが2ヶ月に26枚貼ってあると3ヶ月目に、仕事にアブレた日に求職者給付金、まあ、われわれはアブレ金と言ってますが、仕事にアブレた日にもらえるお金。前は2ヶ月に28枚だったのですが。古い法律の本なんかを見ると28枚と書いてありますが26枚です。26枚というと単純にいうと月に13枚ですね。大きな建設会社などは土日休みがあたりまえですから、目いっぱい働いても一ヶ月20日くらいです。月4週ありますから4で割るとね、13を4で割ると3日とちょいです。つまり土日を除いて5日間のうち3日は毎週仕事に行ってないと権利が付かない。アブレ金というのは日雇労働者の失業保険の役割をはたしているのですが、でもほぼ毎日仕事に行ける人は、特に建設関係ではほんとに少なくなってきているんです。寿町の場合はもともと船舶荷役から始まっているから船の仕事が多くて。船っていうのは、港に入ったらお金をとられるわけですよ。港湾使用料をね。だからできるだけ短い間に荷物の積みおろしをすませ出ていきたい。港湾の仕事に就いている人は朝8時に現場に行きます。で、夕方まで働きます。そのあと休憩して、夕方からまた夜中まで働きます。そして夜中からまた朝まで働きます。1部、2部、3部通しと言います。そうすると雇用保険印紙は、この1サイクルに1枚ですから3枚になります。ですから港湾の方が権利が付きやすい。でも建設の場合はこういうことがないです。しかも毎日仕事がなかなかないから、アブレ金はもらえないなあ、という人がたくさんいます。仕事自体がないんでね。
 実は去年、11月くらいにクニが制度を変えてしまいました。同一事業所にずっと行っている者は、アブレ金の対象から外す、という。もちろんわれわれは反対したんですけどね。日雇労働者の定義っていうのは、同じ会社に行ってようが日々雇われて日々解雇されているという者なのに。にもかかわらずクニは同一事業所に行ってる場合はアブレ金の対象にしない、と。山谷はこれで手帳が激減します。もう100くらいしかない。寿町の場合は900を去年切ったくらい。ただし寿町にみんなが住んでいるかというと、そうじゃないんです。寿町は中区にあると言いましたが、寿地区に住んで手帳を持っている人は、今年の8月末日段階で86人。寿地区以外の中区に住んでいる人が216です。これは4分の1くらい。この他にとなりの南区に200人くらい住んでいる、ということになっていまして。寿の職安、寿職安というのはないのですけど、本当は横浜公共職安の港労働出張所ですね。われわれはメンドクサイから寿職安と呼ぶんですが。つまり寿職安で手帳交付を受けて、紹介番号をもらって、仕事を紹介してもらって、そういう手帳を持っている人は900人を切ったくらい、850くらいいるんですね。でも寿に住んでいる人は少ない。そのほとんどが船舶関係です。だから朝7時頃にアブレ金をもらうのに手帳を出しに行く人の顔を見ると、ほとんど知らない人です。日本人もいますが、フィリピン人とか韓国の人とかが、船舶の会社に雇われている。ところが、言いましたようにクニの制度が変わりました。クニは、港の仕事は波動性が強いので、当面これは対象外とする、と。波動性がよっぽど強いのは、建設・日雇ですよね。今ずっと仕事がないのですから。おそらく港っていうのは全港湾という労働組合があったり、ヤクザの利権もある。そういうところからの抵抗が強かったのではないかな、と思っているのですけどね。波動性でいったら、寿町の建設の日雇の方があるはずなのに、それが抵抗する力があまりないからなんです。もちろんわれわれは、抗議を申し入れたりもしましたよ。でも「クニの制度ですから、言われてもなんともできません、クニに言ってください」と。クニとも一回交渉を持ったけれど、まあ、だめだった。残念ながら、寄せ場に仕事が来るということは、今後もあまり考えられないかなと思います。
 そうすると食っていくためには、生活保護しかなくなってしまうわけですよ。生活保護の受給者が増えて、しかもその人たちは身寄りのない、お金をあんまり持ってないお年寄りで、そんな彼らを寿町に集める。だから人口が激減しない、っていうことでもあるんですよ。まあ、寄せ場から仕事に行ったことがある人ももちろんいますが、そんなことをまったく経験してない人も来ています。でも、寿町っていうのは怖いイメージで語られることが多かったんですよ。68年頃に作られた行政の文章を見たら「西部の町」と書いてある。西部っていうのは西の方にあるっていう意味ではないんですよ。西部劇の西部だからね。ウエスタン。腰に拳銃ぶらさげているわけじゃないのに、危険な町だと言う。その頃言われた戯れ言にね。自転車の荷台に荷物をくくりつけて寿を抜けると、出たときにはなくなっている。そんなこと、おこるわけないでしょう。高校生とか大学生とかね、ボランティアさんが来ます。炊き出しとかやってますから。そうするとね、両親が横浜生まれ横浜育ちという人の場合だと、「危険だから行っちゃダメだよ」って。そういう人たちに「どういうことがあったんでしょうかね」と聞くと、どういう答えが返ってくるかというと「…と聞いたことがあるんですよ」と。「わたしはこのあいだ行って、いきなり胸ぐらつかまれて殴られました」というのなら、「そりゃあ、ごめんなさい」と言うしかないけどね。つまり、そんなことをやられかねない町なんだ、というイメージ。イメージって消えませんから。
 バブル景気の崩壊後に、全国で、その直後から現在にいたるまでですけど、2万人以上の人が路上に出た、と言われてるんです。路上は選択ではありません。公園で寝るか、地下道に行くか、河川敷にテントを建てるか。みんな路上ですよ。でも選択じゃないですよ。そういう中でね、われわれは労働組合なのに労働組合らしくないことをしている。おもな活動の大きな柱は二つあります。一つは毎週金曜日の炊き出し。もう一つは路上にいる人を訪問する、夜間パトロール活動。なぜ労働組合のわれわれがしたかっていうとね、仕事がなくなってきた、いよいよヤバい。ドヤ代は普通、1日1日なんかは払わないんですよ。1週間とか10日とかでまとめて払う。で、仕事がないから困ったな。もう今日の夜までしか入ってない。そうしたら翌朝は荷物を持って身支度を調えて出るわけですよ。仕事が見つかれば良いですよ。でも見つからないと、この人たちはそのまま路上に行くしかない。つまり、路上にいる人というのは、日雇労働者の、われわれの先達や同僚なんですよ。日雇労働者たちの明日の姿ではなくて、仕事につけなかった日雇労働者の今日の夕方のすがた。だからわれわれはね、そういった状態にある人への支援活動を中心に続けざるを得なくなった。
 1993年の11月1日に炊き出しも始めました。一番最初は250食。スタッフメンバーは30人くらいでした。炊き出しっていうのは、よく天変地異の時やりますよね。水・電気・ガス・水道なんかも全部止まっちゃう。その間に行われる外部からの緊急の食糧支援なんです。食事の支援。インフラが回復するにしたがってその必要性は減少します。ところが寿町だけではないですが、250食でスタートした炊き出しが、一番少ない週でもね、350食。一番多いと700食。月の第1週は生活保護が出てる週なんです。だから生活保護をもらってる人は来ない。路上にいる人たちが中心。ところが月の終わり。「あー、来月何日にならないと金はいってこないや」と。だからそういう人たちも食べに来るから700食を超えることがある。寿町の場合は、1人1杯限定じゃないんです。2杯は食べられるよな、ぐらいの量を作るんです。
 われわれが炊き出しを始めたときのきっかけはというのは、寿町には老人クラブがあります。「くぬぎの会」というんですが。もう亡くなられているんですが、当時の会長から「もう黙ってみてられないから、みんな炊き出しをやらないか」と呼びかけがあったんです。で、町の諸団体が集まって「寿炊き出しの会」っていうのを作って、炊き出しを始めたんですね。その頃、寿町の中では、その周辺も含めてですけど、炊き出しなんかは一切やられてなかった。となりの南区で救世軍が60食か70食くらいカレーライスを提供してたのは知っていますけど、それ以外はまったくなかった。われわれが炊き出しを始めた頃、よく批判されました。「怠け者に飯を食わせたら、もっと怠けるじゃないか」という批判です。じゃあね、金曜日の昼行くと寿町でご飯が食べられるけど、この人たちは他の曜日には何をしてるのでしょうかね。じーっと金曜日を待っている人はいませんよ。今はもう平均年齢が上がってますからいろいろですけど、外で寝ている人とかはあまりお金持っていませんから、新聞の定期購読なんかしてないですよ。情報が入ってこないから、仲間同士で情報交換をする。情報交換はいくつもあって、一つは仕事の情報です。例えば「寿はいつまでも仕事ないなあ、名古屋で出てるらしいから行ってみるか」とか。後は行政の政策の変化です。「生活保護が少しラクになったらしいぜ」「いや、厳しくなってきたよ」とか。あともう一つ。襲撃情報です。「どこどこの公園で石投げられたらしいから、あそこは危険だから、オマエ行くなよ」それで「1週間またがんばって、また会おうな」と、お互い元気づける。

 われわれは、怠け者を作る意志も能力もありません。つもりもないけどね。1日3食さしあげて、こざっぱりした服もさしあげて、たまにはお小遣いでもあげれば、そりゃあ怠け者もできるかもしれないけど、そんな意志も能力もありません。もっちゃいけないですけどね。寝るところと食うものというのは、人間の基礎なんですよ。この二つがないと、ほとんどのエネルギーをそこに費やしてしまう。「今日どこで寝ようかな、あそこの公園はダメになっちゃったから、どこに行こうかな」「ハラ減ったな。今日、飯どうしよう、ハラすいたまま横になれねえよな」このことばかり考える。他のことはできないんです。みんな、あたりまえに飯食ってるけど、この二つは大切なんです。飯を食う場所・寝る場所、というのは。しかも路上というのは、安心して眠れる場所ではありません。いつも緊張を強いられる。安心する、というのはどういうことか。みなさん自分のウチに帰られて、戸締まりをして、窓に鍵かけて…そうしたら風呂入っていようが着替えしていようが、安心でしょ。ところが路上はそんなところではないんですよ。
 わたしは夜間パトロールで横浜駅によく行くんです。1週目は違うんですが、2週目以降は毎週水曜日に行ってる。今、横浜駅には明るくて広い東西通路があります。あれはなかった、われわれが始めた頃は。東西通路は1本しかなかった。西口に出ると左側に東急ホテルがある。エクセレント東急ホテルが。その下に出てくる地下道があって、これが1本だけ。薄暗くて狭くて。ここに数十人の人が寝ていました。あるときに、「一番嫌なことってなに?」って聞いたことがあるんですよ、いろんな人に。そうしたらね、予想もしなかった回答が返ってきた。「人の靴音だ」。なぜでしょう。地下道っていうのはコンクリートですよね。響くわけですよ。コツーン、コツーンって音が響いてくる。で、自分の寝てるところで止まる。どういうことでしょうか。「おじさん、お金あげるから」っていう人はまあ、めったにいませんよね。「この野郎、なんでこんなとこで寝てやがって」と言って、蹴る。火のついたタバコを投げつける。川崎では、放置自転車をなげつけられた人とか、コンクリートブロックをなげつけられた。まかり間違ったら死んでしまう。つまり寝てるとね、「あっいやだな、通り過ぎた、良かった…」そういう緊張がずうっと続くんです。ぐっすり寝られないんです。
 その当時横浜駅には1割ちかく、8パーセントくらいかな、女性がいました。今は5、6人。かなりの高い確率で精神疾患になっちゃうんですよ。来たばかりの頃はちゃんと受け答えできてる人が、1年、2年たつうちに、だんだん様子がおかしくなっていくんです。それは緊張が解けないからです。とくに女性は、男性もたいへんなんだけど、女性だということで、何されるかわからないでしょ。だから緊張が解けない。今日一晩がんばればなんとかなるわけじゃない。毎日続くわけですよ。それでかなりの確率で精神疾患になる。自己防衛機制の一つではないかと、わたしは思うんですけどね。緊張でつぶれてしまわないためにね。横浜の西口に、相鉄の改札口の近くに、もう今はいませんけど、名物おばあちゃんがいてね。灰色の髪で、ピンクの色がすごく好きな人で、ピンクの洋服を何枚も重ね着している。いつ行っても怒ってる。ビラを持って行くと、「えっ!!」って怒られたりして。横浜の西区の福祉事務所の者がね、「あの人、なんとかなりませんかね」ってわれわれに言うわけですよ。「うーん、具合悪くして、入院とかにならないかぎりちょっとムリなんじゃないの」実際入院しちゃったんですけど、それっきり帰ってきてないから、亡くなっちゃったのかな。路上で亡くなった人を見送ってます。われわれが横浜で出会った最高齢が90歳です。女性です。初めて会ったときは腰がこう、くの字に曲がってましたが、スタスタと歩いてるんです。で、声をかけたら、「違うわよ、わたし違うよ」と。ところが、次の週に行ってもいるんですよ。その次の週に行っても…こりゃあ間違いない、と声をかけて、説得をして寿町に来てもらって、中区で生活保護を受けてもらった。4年くらいこの方は生きられたかな。その次の人は86歳、この人も女性です。この人の場合は、性格がすごく苛烈な人でね。お子さんが横浜市に3人いる、もちろん成人した。この人の性格じゃ、たぶん家庭の中で衝突するだろうな、ということで…。でもやっぱり亡くなった。この人とは長い付き合いだったからせめてお墓に線香でもあげに行きたいねって、パトロールメンバーと話し合ってた。西区福祉に教えてくれって言ったんだけど、結局、どこの墓地にはいったのかもわからない。長男さんが引き取って、その日のうちの荼毘にふしてしまった。そういうふうに、たくさんの人を送りました。
 路上にいる人たちにとって怖いことはいくつもあるんですが、一つは病気をすることです。大病。ちょっと具合が悪いなっていうんで、なけなしのお金を持って薬局に行って薬を買います。治っちゃえば良いんだけど、治らないでしょ。お金もないでしょ。どうしよう。我慢する。あるいはごまかす。ワンカップでごまかすとかね。ワンカップは酔いたいためというのもありますが、暖房器具がわりでもあるんですよ。冬寒いというんで。そういうのでごまかしているうちに、悪化します。悪化したら救急搬送される。そうなる前の時点で行政対応すれば良いと思いませんか。もっと社会的な資金も少なくてすむはずなんです。
 生活保護というのは、本来は役所がね、机の前に座って「あー、相談があったらおいで」っていうんじゃなくて、出前すればいいんだと思うんですよ。「この人、大変だから」とみんなで説得して、「せめて畳の上に行きませんか」ということで。生活保護には、先ほど八つ項目があると言いました。実は順番が決まっているんです。生活扶助でしょ。あと療養でしょ。順番が決まっている。医療単給という制度、本当は法律上、単給・併給と書いてあるんですがやらないんですよ。制度上ない、といって。つまり、「生活保護かけますよ、でもあなたの生活じゃあ、これですからね」ということになってくる。「具合が悪い、じゃあ、病院にも行きましょう」という順番になってくる。「いや、おれは普段はなんとか食えてるからいいけれど、病気になったときはたのむぜ」ということはできないんです。できるようにすれば良いんじゃないですか。そんな順番などつけないで。ところが、「いやあ医療単給がねー、ちょっとむつかしいですよ」と言う。
 赤土の崖の上に住んでた人がいたんですけどね、雨の降った明くる日だったから、わたし滑って落ちたことがあるんです。山の下に。その時雑菌がはいったらしく手がこんなに腫れてね、これはしょうがないから談判してね、医療単給を認めさせたんです。でもそれは、医療単給はない、という前提になってるから特例扱いになっているんですね。もうちょっと生活保護制度っていうのはシンプルで良いと思うんですよ。この人はかけるべき、っていうのは生活が困窮してる、お金がなくて生活ができないその理由は問わないわけですよ。仕事を失ってしまった、高齢になっただけじゃありません。ギャンブルでスッテンテンなってしまったというようなときでも、もう生活ができなければ、それは良いんです。ところが、日本の場合、補足率がすごく低い。生活保護制度を利用して、経済的な混乱から立ち直る、そういう人を制度上どう補足してるかの率のことです。日本は20パーセント。つまり100人のうち20人、あと80人は最低生活水準以下で暮らしている。他のクニはこんな例はないそうです。それはなぜでしょうか。生活保護を受けることは恥である、恥ずかしいことだ。税金を使って食ってるのは恥ずかしいことだ、という意識が本人も含めて市民社会にあるということです。だから、「最近来たあの人、昼間にも仕事に行ってる様子もないし、なんだろうね、あの人」というような印象を持つ。「いやあ経済的に困って苦しくて、ようやく保護をもらえたんですよ。ぜひご支援をお願いします」と言うことができるところだったら良いですよ。でも、本人も恥ずかしいことだと思ってしまう。
 だから、そんな水準になっても我慢しちゃうんです。実は今年の10月から3年間かけて、生活扶助が5パーセント下がります。全国に、たぶん210万くらい生活保護を受けている人がいると思うんですよ。このうち67パーセントが減額になります。最低生活費以下になる。ところが、生活保護を受けて暮らしていると、それを監視する人たちがいるんですよ。「パチンコに行ってたよ」とか「飲み屋に入ってたよ」とかを、わざわざ役所に言う人がいる。つまり、生活保護は税金なんだから慎ましく生きなさい、ということなんだ。クニのお金で生きてるんだから、慎ましく生きなさい、お酒、冗談じゃないよ。ギャンブル、ふさけんじゃないよ!  そんなことを一生懸命監視し、通報する人がいる。そういうことを役所がやってるところもあるからね。結局、この制度を利用するのは人間として恥ずかしいことだという、そういう市民意識。それを変えないかぎり、憲法二十五条は生きていきませんよ。
 生活保護には良い点もいくつもあるんです。無差別平等原則というのがあるんです。経済的に困窮してる人を、無差別平等に現在地において保護する、ということです。わたしは九州出身です。「ああ、あんた、それなら九州に帰って受けなさいよ」っていうことはないんです。その人が、前の夜どこにいたか。中区にいたら中区。東京の港区にいたら港区で受けるんですよ。無差別平等っていうのは、年寄りだろうが赤ちゃんだろうが…全て国民は権利があるんだって書いてある。これは永住権を持っている人もね。ということになっているんです。シンプルで良いなと思うんですが、ところが問題点もあります。最大の問題点の一つは扶養照会っていうのがあるんですよ。つまり、「あーオレ、困ってるんだ、なんとかしてほしいな」「じゃあ、扶養照会します。あなたの親族に、親兄弟に照会して良いですか」。いいよって言える人なら良いんだけど。生活保護を受けなければならないのがみっともないと自分も思っているもんだから、「そんなこと言われるんだったら、もういいよ、もういいよ」「そんなみっともないことはできないよ」と断っちゃう。たぶんね、民法の規定もすごく影響していると思うんです。つまり、家族は助け合わなきゃいけない。そんなの大きなお世話だよね。法律に規定があろうがあるまいが、助け合うよね。わざわざ法律で規定する。それを根拠にして、親兄弟にあんたの面倒見られないか聞いてみる、という。冗談じゃない。これが最大の問題。あと、さっき言った補足率ですね。国民の権利としてあるにもかかわらず、権利を行使できない、行使することを妨げられている。自分の意識もそうなんです。それは権利教育ができてないからなんです。人間はね、最低限度の生活をする権利が保証されている。最低限度以下で我慢しなくて良い。ところが「恥ずかしいことだ」なんていうことがあるとね、ブレーキがかかっちゃう。
 それから、横浜市でも10数年前まではそうだったんだけど…。路上にいてね、もうギブアップだと、もう生活保護を受けようと思って役所で保護申請する。そして申請書に、名前を書いて生年月日を書いて住所を書く。住所、ちなみに住所―居所というのはどういう規定かというと、住民基本台帳法によると「客観的な居住の実態と主観的な居住の意志」、これを居所という。だったら公園だって良いじゃない。大阪で一度裁判をやったことがある。一審では勝ったんです。ところが一方で都市公園法という法律がある。公園を居住の場所にしてはいけないことになっている。だから、「オレは山下公園に住んでいる」と書いて受け取ってくれるなら良いけど、ダメだといわれる。困っていると、「あなた、部屋を見つけてから来てよ」と言われる訳です。部屋を借りるお金がないから外にいるんでしょ。その人に「部屋を見つけてから来てよ」。できるわけないでしょ。居所すら失うほどの極端な困窮に陥ってる人に「部屋見つけてこい」これは交渉の中で何度もやりあったことなんだけど、路上から申請しても、なかなか通らなかった。
 あるとき、寿町の諸団体が集まって「生存権を勝ち取る会」というのを作って横浜市と団交しました。場所は開港記念会館です。その記念すべき第一回団交の時にこういうことがありました。あそこは明治時代にできた古い建物なんですよ。交渉場所の横を廊下がめぐってます。うしろに小部屋が並んでます。その廊下を神奈川県警の公安が通っている。あれ、公安じゃないかな。で、後からゆっくりついていったら、うしろの小部屋に入った。入ってみたらね、30人くらい、みんな公安。第一回の交渉日なんだよ。それで、公安は発見されたっていうんでパアーといなくなった。その後、会館の事務室に行って、あそこの部屋どこが借りているんですか、と聞くと、「横浜市が借りてるんです」。その日は、そこから追及を11時間ぐらいやった。夕方になってもう5時だから帰りたい、っていうのを「帰さない!」って11時間交渉。で、もう一回10時間半交渉、これは別な場所ですけど。そのときは横浜市は、前にずらーと並んでますね。こっち側に当時の中区の現役のケースワーカーが座ってた。その時市側から「きみはウチの職員じゃないか」という発言があった。そうしたら、この人が立ち上がってね、「わたしは法律には従うが、あんたたちには従わない」と言った。われわれは決して特例扱いしてもらおうとしてるわけではないわけですよ。なんでもいいから金よこせって言ってるわけでもない。法律どおりにやれよ、という要求だった。その二つの大きな交渉をヤマにして、横浜市がついに、「居所が不明であっても申請を受理する。居所の設定にケースワーカーは積極的に協力をする」ということを確認しました。それから路上からの申請が通りやすくなった。今、路上にいる人が「もうオレ、シゴトそろそろだめだから、生活保護を受けたいんだ」「じゃあ行きなよ」。そうして行くと保護申請書。住所書けないから「あっオレ、山下公園にいるんだ」「ああ、そう。じゃあ、いいよいいよ」となった。保護費を居所不明の人には渡せません、それはあたりまえだけど。保護決定をして実際に支給されるまでの間に、居所が設定されれば良いと。
 横浜市の中区はどういうやりかたをしているかというと、申請者が「今、どこどこで寝てるよ」って言うでしょ。「公園で寝てる」「あっ、はい、わかりました」と言って、面接をしたケースワーカーが「3000円渡します。2000円で部屋を借りてください。1000円は1日の生活費です」それで本人は3000円持って寿町に帰ってくるわけですよ。「生活保護を受けるんだけど、部屋はあいてるかい」「ああ、あいてるよ」となったら、そこに泊まれるでしょ。そうしたら通帳くれるんですよ、ドヤ主がね。そこに泊まった日に判子を押してくれるわけですよ。「宿泊しました」という証明です。それを持って、翌日また役所に行く。その通帳に載っているドヤの住所がその人の住所ですよ。その日からそこに住んでいる。そのかわり毎日いかなきゃならない。1日1000円。1000円渡して、定着性をみるっていうのがあるそうです。1000円持ってどこかいなくなったら、もうしょうがないんだけど、毎日毎日、だいたい2週間くらいかな。横浜市の場合はそういうふうにしています。2週間したらまたきてね、って言われても、その人はもう困っているわけですから、この日からもう保護しなきゃいけないからそうしてる。それは、居所がなくても生活保護の申請を取れるようにしてきた闘いだったと思うんです。昔、釜ヶ崎の活動家が言ってたけど、「オレ歳とったら、寿に行くよ」って。「なんで」と聞いたら「寿だと生活保護がとりやすいから」だと。たしかにそういう構造がある。でもそれは工夫すれば、なんとでもなると思う。申請時点で居所がないからといって、「アンタだめ」っていう権利は、ほんとはない。で、そういうのをなんとか打ち破らないとね、やっぱり路上で人が死んでいくんですよ。
 今、もうこの時期ですから、越冬の時期、越冬闘争に取り組みます。命を守る闘いだから、われわれは闘争と言います。今年で45回目、第45次越冬闘争。1975年からやってます。わたしは32年くらいしかいないんですけど。今年も11月29日から1月4日の朝まで。その間行政は休みますよね。行政は28日に仕事納め。その間はだれもいません。どこも相談口が開いていない。われわれは寿の中の寿公園、炊き出しをやっている場所なんですけど、ここにテントを5張たてて、もちろん防寒、ちゃんと断熱材を敷いて、シートでくるんで、ストーブを配置したり、それに厨房も作ってそこで毎日やる。11月30日から1月5日まで毎日炊き出しをやる。去年の例で言いますとね、大晦日は年越しそばをするんです。毎年だけど。1100食ですよ。1100食、これ以上は作れない。というのはお湯がぬるくなってしまって、そばが食えない。だから1100が限度なんです。元日は餅つきをします。90キロ。90キロ餅つきをするんだよ。雑煮ときなこ餅とからみ餅。去年の元日の配食数は1825食。だから寿公園を人が三重に取り巻く。たくさんのボランティアさんも来ます。炊き出しもボランティアは今、少なくとも50人、教会のボランティアさんが多いです。以前、仏教の坊さんも来てました。仕事の帰りだと言って、墨染めの衣を着たまま野菜を切ってたりしてた。ヒンズー教の人たちも来てます。月に1回、バナナを300本持って。ただし「炊き出しの会」というのは、我が党・我が派の拡大のための場所ではないです。宗教団体には布教しないでくださいと言います。それが守れなければ「炊き出しの会」に入ってくるのは困る。それだったらどこか適当な場所で、勝手にやってください、炊き出しの会にはいれません、という立場です。
 
 今日メシが食えない、今日寝るところがないというのは、どういう問題なのか。人間が路上で寝るというのは、どういうことか。非常事態ですよね。人間は裸のサルです。路上で暮らすようにはできていません。犬や猫は、毛皮を着ているから路上でもいいでしょうが、人間はそういう生き物じゃないんですよ。つまり人間が路上に寝るということは、それ自体が異常事態。憲法二十五条に反しているんです。それは、本人が反してるんじゃないですよ。国民の権利を擁護しなければならないクニや地方自治体が違反している。最低限度以上の生活をと、憲法に書いてある。それを堂々と違反している。今年4千数百人が路上にいると発表されている。ものすごいデタラメな調査です。概数目視調査というんだけど。見て、概ね何人いるか数えてこい、という。行政の職員は、9時から5時までで終わりです。その時間帯で調査する。路上で夜を過ごしている人は、小屋がけしてるだけではありません。商店のシャッターの前で段ボールを敷いて寝てる人はカウントされてない可能性がある。
 横浜市の場合は477人、今年の発表で477人路上にいるんです。寿の中に困窮者自立支援施設「はまかぜ」という施設がある。 前はホームレス自立支援施設と言ってましたけど。運営の委託を受けている神奈川県匡済会という社会福祉法人が夜間巡回相談をしているんです。ところが、最初の年に夜間巡回した結果を発表しようとしたら横浜市にとめられたんです。その理由は、そんなにいるはずがないということだったそうです。でも夜の路上でしか見られない人がいる。だから横浜市の場合はそういうふうな実態に近い数を発表した。477人。川崎は300人ですね。その中にネットカフェとか漫画喫茶はカウントされていません。路上にいる人たちはおそらくクニの発表より2、3倍はいるというのが、実感です。漫画喫茶とかネットカフェにいる人たちを含めれば、もっと多くなる。2008年リーマンショック後に、ネットカフェ難民とマスコミでよく言われるようになりました。ところがクニは、ネットカフェ難民と呼ぶわけにいかないから、なんと名前をつけたかというと「住居喪失不安定就労者」。これはホームレスとどこが違うんだろう。同じだよね。実はホームレスなのに、住居喪失不安定就労者が何人というように発表する。クニはホームレス対策をやりますと言いますが、結果、4千数百人がゼロになったら、日本というクニはホームレス問題を解決しましたということになるんですか。ほんと嘘っぱちばっかり。ましてやネットカフェにいる人たちは調査すらしない。東京都で去年だったか一昨年だったか、調べた時は1万数千人、そういうところで寝ている。そのうち4000人が居所を持っていない。これはホームレスですよね。要するに不安定居住状態。それすら、調査もしていない。だから実態はもっと多い。日本は、ほんとひどいクニですよ。豊かでもなんでもないです。みなさん、家を買いたいと思ったときに、何年ローン組まないといけないと思いますか。30年から35年、月々いくら、ボーナスいくら、っていうローンを組まないと家が買えないんです。途中でそのローンがはらえなくなると、取り上げられちゃうんですよ。で、競売にかけられちゃう。そういう中でオレは家を持ったぞ、と言っても、35年たたないと自分の家にならないんだよ。ちっとも豊かじゃない、とわたしは思っています。

 最後に横浜のひどい歴史を一つ言って、今日は終わりにします。1983年。当時の中学生が横浜の20カ所以上で路上生活者を襲った事件です。三人が命をおとしました。一人は山下公園で亡くなった。須藤泰造さんというお酒の好きな気の優しい人だったそうですけど、寿町にはあんまり来たことがない。かれが発見されたときは鉄線で編んだクズ籠にカラダを入れられてた。中学生たちは補導されました。どうしてそんなことをしたのかと聞かれた中学生たちはなんて答えたかというと、「ゴミを掃除した」と。「骨がポキッと折れる音が気持ちよかった」と言った子も。ショックを受けたのが教育委員会でした。その事件が発覚してから1年間かけて「騒然たる教育論議」これは名前がついてます。「騒然たる教育論議」というのをやってます。1年後「生命をたいせつにする教育が足りませんでした」と発表しました。そのとおりだね。ではどのようにすれば、生命を大切にする教育ができるでしょうか、という方針の中でなんて言ってるか。初めて聞いたときはギョッとしたけどね。教育委員会がなんと言ったかというと「犬を飼いましょう」と言ったんです。
『俺たちは怒っている』というビラを、「浮浪者」虐殺糾弾実行委員会で作って、市内の中学校に撒きに行った。人数ごとに2日にわけてやった。最初に行った班が10人います。それが全員逮捕された。不法侵入。そこでわたしらは敷地の外でまいた。中学生はよく受け取ってくれたんですよ。あんたたちと同じ年頃の子がこんなことをしたんだ、俺たちは怒ってるんだよ、「読んでね」って受け取ってもらう。生徒が校舎の中に入っていくと校舎の入り口に先生が立っている。指さした下を見ると段ボール箱が置いてある。読まずに入れさせる。われわれは中学生に読ませたかった。ところが読ませなかった。だから、そんなトンチンカンな方針しか出てこなかったんですよ。犬を飼ってる人が気が優しくって人を殴ったりしない? そんなことないよね。けしかけるヤツもいるよな。だからトンデモナく間違ってるんだよ。そもそも人間が路上にいる、ということ自体が異常事態だという感覚がないから、これはなんとかしないといけない、という感覚になれない。
 ただ、川崎に隣接する鶴見区というところだけなんですけど、教育委員会として夜間パトロールをやっているんです。名刺をおいてくるんですよ。前はホットラインを作ろうとしたんだけど…できなかったんだけど。そのかわりに、50度数のテレホンカードを教育委員会の名刺といっしょに配ってました。そういうことをやってたんです。今でもたぶん教育委員会のパトロールは行っている。鶴見区では、襲われた、やられたという事件がおこったときに、どこの学校でもよいから走っていっても良いことにした。駆け込んで良い。やられたと訴えれば「うちの生徒ですか」とはぜったいに聞かない。「そりゃあ大変ですね」と中学校長会に連絡が行って、校長会が事実調査に入る。事実が把握できたら、基本的なやり方としてはその生徒を連れて、被害者にあやまりに行く。その後、保護者会を開く。学校は避難場所として、いつでもどうぞ、とする。横浜市教育委員会はひどいことばかりやってるんですが、少しは良いこともしてて、まあ、そういうこともやっている。全面的ではないけどね。少しずつしか変わっていかないけれど。
 寿町にボランティアに来る人たちにも、わたしはよく言うんだけど、「寿町に来てくれるのはほんとうにありがたい、ぜひ続けてください。でもあなたの町にもなんらかの問題がありますよね。地域にはそれぞれ固有の矛盾がある。それを地域の問題として解決しませんか」と。そういう中で、寿町の炊き出しに来て、その活動をベースにして、自分たちの地域で夜間パトロールを開始した、相模原とかがそうですよ。相模原とか藤沢は地元でそういう団体を作った。相模原は木曜日にパトロールをやってます。シェルターまで、今は用意している。無底に入れるなという方針でね、行政が無底にいれるというと、冗談じゃない、アパートに入れろ、と要求する。だからわれわれは寿町の同心円的拡大が目的ではないですよ。地域を変えていく。寿町にはいろいろな発信する力もあるので、それは一方でやりますけれど.。ということで、労働組合なんだけれども、労働組合らしくないことばかりしかやれてない。で、わたしはたぶんこのまんま、寿町で死ぬことになるんですよね。ちょっと長くなりましたがこれで終わります。

司会 どうもありがとうございました。発言された路上生活者への中学生の襲撃というのは、当時ぼくらも衝撃をもって受けて、そこから山谷の中でも運動が取り組まれたんですけど、教育委員会が「犬を飼え」と言ったのは初めて聞きました。

近藤 とんでもないでしょう。
司会 ほんとにとんでもないと思いますね。時間はあまりないのですが、今の近藤さんのお話にたいして、なにかご質問があれば受けていきたいと思います。
A 寿町のドヤ主は、けっこう在日朝鮮人の方が多いと聞いているんですけど、それとドヤだけではなくお店なんかに行っても、けっこう在日の方の姿を見るんですけど、寿町と在日の方とのつながりというのは…
近藤 寿町は三大寄せ場の一つ、と言われながら、実は歴史が浅いんです。釜ヶ崎や山谷は歴史があります。寿町のあの周辺は、米軍に戦後接収されていた。で、軍政用地ですから、必要がなくなったら返していくんですね。五月雨的に。最終的な接収が解除されたのが1957、8年と言われています。その頃は戦争が終了してもう11、13年たっているわけです。当然そこには日本人地主がいるんですよ。でも10年以上たっていれば、社会で生業を持っているでしょ。帰ってきていいよ、と言われたって、そういうわけにはいかないんですよ。それを売ったんですよ。その時に同胞から資金援助を受けて買ったのが在日の人たちだったと、言われています。だからドヤ組合も二つあって。北系と南系なんですけど、別に仲が悪いわけじゃないんですよ。もう三世、四世…四世くらいの世代ですからみんな。その経緯がずっと続いてる。日本人の持ち主のところもあるけども、ほとんどのドヤが在日の人たちの所有である、そういう経緯があると言われてる。ソウルオリンピックが終わった後に、韓国人の出稼ぎ労働者が急増したんです。それまではフィリピン人がおり、韓国人が次に来た。要するに、当時、寿町は接収されていたからもともと寄せ場はないんですよ。
 寄せ場がどこにあったかというと、桜木町です。桜木町の駅前に飲み屋街が拡がっているでしょ、あそこ。今、大道芸の街なんて言われてるけれど。飲み屋がいっぱいあるじゃない、実はあそこに寄せ場があったからです。その当時、桜木町の野毛の路上に立って待っていると、トラックがやってきて「おい、シゴトがあるけど行かないか」「いいよ」と言うとトラックに乗せられて沖泊まりしてる船に連れていかれて、荷物の積み下ろしをする。これが、はじまりなんです。日本全国は焼土になっている、壊されているわけですが、横浜に行けばシゴトがある。戦後すぐ米軍が、物資の荷上げ港として横浜港を指定したんです。だから横浜に行けばシゴトがある、と全国から集まってきた。野毛がそういう場所だった。その人たちにメシや酒を出す店が大量に生まれた。それが野毛の今につながっている。あの当時、野毛を歩くと、いつも鯨を焼くにおいがする。いちばん安い動物性タンパク質は鯨だったから、鯨横町とかいう別名もあった。あるいは安いカストリっていう酒があるんですが、それを出していたのでカストリ横町とも…。立ち飲み屋さん、フライ屋さんがすごく多かった。シゴトを終わった帰りの労働者が、立ち飲みで1、2杯ひっかけて、フライを食べて帰る。何年か前に桜木町と横浜駅間の東横線がなくなって、3割から4割くらい客足が落ちたんです。で、もう一回町おこしということで、今、野毛に行くと鯨を看板にしている店がたくさんできています。それはそういう歴史があるからです。その頃宿泊のキャパシティをこえる人が集まっていたんで、それを吸収するために水上ホテルが作られました。10数艘あって、そのうち2艘は横浜市営。なんと食堂船まであったということです。そうこうしているうちに、転覆事故がおこったりして、徐々に陸上に上がったという。
 ということで、寿は新しくできた寄せ場で、規模が大きいから三大寄せ場の一つ。山谷にしても大阪にしても、寄せ場と墓地と遊郭という三点セットがあると思うんです。寿にはないんです。昔、寿に隣接する南区の真金町というところに遊郭があったそうなんですが、遊郭のぼっちゃんだった桂歌丸がうまれたところですね。それはすごく古いらしいですね。なんで、そういう三点セットがつくられなきゃならないかというと、市民社会の目にふれさせない、そういうことになっているんでしょうか。ただ、そういう中で寿町はちょっと歴史がちがうんです。

司会 今日のいろんな、初めて聞く話しとか、わからない点とか、あるいはわたしはこういう話しを聞きたいというのもあると思いますが、この場での時間がせまってきました。ただもうすこしお話を聞きたい方には、隣の部屋に席を設けています。どうぞお残りください。今日は近藤さん、ありがとうございました。


(2018年11月15日(土)plan-B)

50~60年代、まだ山谷にスラムのにおいがあった頃……

お話 黒田オサム

戦後、間もなくの山谷へ

小見 黒田オサムさんです。パフォーマーで画家という、今年喜寿を迎えました。さっそく、時間もありませんので始めたいと思います。実は三年前に黒田さんの、その時はパフォーマンスと話という形をとったんですが、今日はそれ以来の二度目の黒田さんの話を聞きたいと思います。このあいだ、黒田オサムさんの七〇歳を祝う会というのをやりまして、いろいろな人が集まって、いろいろな自分勝手なことをやったり、黒田さんの話やパフォーマンス、あと黒田さんは画家でもありますので、絵を展示したり……一日、六時間くらいのイベントをやりました。その時にこの「ちんぷんかんぷん」という黒田さんのパンフレットを作ったんです。その為にちょっと山谷に黒田さんと行きまして、話を聞いた訳です。その時に感じたんですけども、山谷がガラッとなんか普通の街みたいな感じになっちゃってる。ええっ、こんなところができちゃったのって。もう山谷という雰囲気ではなくって。「世界」という立ち呑み屋がなくなりました。それからデカいスーパーができて。その後で八月に夏祭りに行ったら今度は「大利根」という呑み屋も閉まっちゃってる。まあドンドン変わっている訳です。私はその十数年くらい前の八四年くらいの山谷から今までしか知らない訳ですけど。黒田さんは、まだ非常に体が柔らかくて、今でもバリバリのパフォーマーですけれど、今日は時間がちょっとないのでなしです。では、さっそくお話を伺いたいと思います。最初に黒田さんが山谷に登場した、行ったのはいつ頃ですか。
黒田 ああ、どうもみなさん今晩は、黒田オサムです。ええと山谷にはですね、昭和二〇年代の後半近くだったですねえ。
小見 まだ非常にお若かった。
黒田 そうです、そうです。二〇代ですね。二〇をちょっと超えたくらいだったでしょうかね。ええ二〇代前半ですねえ。
小見 その時の山谷の状況っていうか……
黒田 戦後の面影が、まだ山谷には大いにあった訳でしてね。まあ僕自身にしても兵隊さんの払い下げの服、それから雑嚢を下げて、山谷に現れた訳ですけども。
小見 このあいだ黒田さんから伺ったんですが、当時と言いますか、昔は山谷はヤマって言わなかったそうですね。
黒田 そうですね、それは上野の山の関係がありましてですねえ、大体ヤマと言うと、上野の山を指してたんですね。まあ御存知のように東京は焼けて上野の山に逃れて、そこでみんな住みつきまして。まあ不法占拠っていうことなんでしょうけども。今の青テントの元祖みたいなもので、上野の山には当時は青テントのようなものないけれども、小屋を作って住んだんですね。それがだんだんこう部落らしくなって葵部落って言いましたですね。葵部落っていうのは結局徳川の山ですからねえ、上野は。その葵の紋からきてるんでしょうねえ。葵部落と山谷は非常に関わり合いが深くって。葵部落の人が、山谷の泪橋に来て仕事を得るっていう。まあ労働市場になってますから、寄せ場になってますから。また山谷の人が都心の方に仕事に出て、それで上野あたりに来て、葵部落へ寄って。葵部落にみんな仲間がいますからねえ。葵部落の食堂で麦(ばく)シャリ。当時麦っていうのは安かったんですね。麦シャリの、まあ二五円くらいでおかず、味噌汁、お新香までも付いていて。お米じゃないですからねえ。麦は安かったんですね。そういうのを食べていくという。ですから、今は山谷のことをヤマと言っていますけども、山谷と上野の山とは非常に関わり合いが深いんですねえ。まあ当時のことをみなさんも写真画報なんかで御存知でしょうけども。浮浪者、浮浪児、戦災孤児ですねえ。上野にはたくさんいまして。で、冬になると、寒くなると……当時地下街っていうと上野しかなくて。浅草にもあったですけど小さかったですね。寒くなるとみんな地下道に来るんです。そこで刈り込まれて、そして山谷にもってこられたですねえ。今マンモス交番は移動していますけど、前はマンモス交番っていうのはちょうど泪橋の通りの左側、浅草の方に向かって左側にあったわけです。あの辺が浮浪者の収容施設になってたんですね。テント張りにしてそこに収容して。その辺から戦後の山谷のドヤ街が始まったんです。戦前からありましたけれど。まあ山谷らしくなってきたっていうのは、そのあたりから始まってた訳なんです。
小見 それは一九五〇年代の後半くらいですか。
黒田 昭和二〇年代ですねえ。二〇年代の、まあ中頃からですねえ。
小見 ああそうですか。当時どのくらいの日雇い労働者、それと野宿をしている人が……
黒田 そうですねえ、僕は学者ではありませんから統計的にはわかりませんけれども、かなり……山谷へ来れば食堂がある、山谷へ来れば寝泊まりできるっていうことで。山谷へ来れば、まあ労働市場ですから仕事を得られるということで、そういうことで東京からみんなが集まり、それから全国から集まるというようなことで。
小見 仕事はあったんですか。
黒田 僕が山谷に来た時分はまだ仕事はなくて、四日に一回くらいでしょうか。これは玉姫職安、労働出張所通してですね。あそこでマルミン、マルシツっていうのがありまして。マルミンなんかになると四日に一回程度だったでしょうかねえ。
小見 どういう意味ですか、それ。
黒田 ええと、これは民間紹介っていうことですね。
小見 ああマル民、マル失?
黒田 民間紹介です。労働市場の窓口っていうのは三つありまして。一つは日本国政府によって、国会の決議によって作られた失業対策法による失業者救済、これをマル失、そしてそれに該当しない人達がカードを得て、それはマル民って言ったですねえ。それから職安の窓口を通さない闇労働市場で、いわゆる立ちんぼ。当時はまだあんまり仕事は出てこなかったですけどねえ。その後、東京復興、復興っていうことで仕事が出てきました。マル民にしても闇労働市場にしても仕事がだんだん出てきたんです。で、小見さんとこのあいだ電話で話しました、あの吉展(よしのぶ)ちゃん事件。吉展ちゃん事件の前後の山谷の状態についてどうかというような話しでしたけども。吉展ちゃん事件っていうのはずっとあとですね、あれは昭和三八年。昨夜、ちょっと調べてみたら昭和三八年の三月三一日に吉展ちゃん事件っていうのがあったんです。みなさん御存知でしょうか?
小見 おそらくここにいらっしゃる方の多くは御存知ない。少年だった私には記憶があるんです。毎日のようにラジオ、テレビも出始めた頃でしたか。誘拐殺人事件という、今日渡した文章のなかにあるんですけれど。村越吉展ちゃんという四歳の男の子が山谷の近くで誘拐されまして、そして五〇万円要求されました。それで五〇万円取られたままわからなくなっちゃう。二年後に犯人は捕まったんですけど、もう既に、誘拐されたその日に殺害されていた。戦後間もなくの誘拐事件として、今でも伝えられているということなんですね。それで、山谷のそばに回向院という、そこにはねずみ小僧次郎吉とか高橋お伝とか、あと吉田松陰とか有名な人のお墓がいくつかあるんですけど、その門の前に吉展ちゃん地蔵という大きなお地蔵さんがあるんです。そういう事件が昭和では三八年、一九六三年に起きたということを、私ら五〇歳くらいの者は記憶してるんですね。

吉展ちゃん事件で僕ら日雇いに対する目が変わった

黒田 それが昭和三八年三月三一日ですね。山谷には玉姫公園っていうのがありますけれども、玉姫公園からずうっと上野の方、上野駅の近くの方に入谷公園ていうのがあるんですよ。入谷南公園ていうんですけれども、吉展ちゃんの家が近くて、吉展ちゃんの家は大工さんやってたらしいですね。それでいつものように吉展ちゃんが公園に遊びに出てって。それでいなくなった。なかなか犯人が挙がらなかったんですけども、電話の話し方のなまりとか、いろいろ推定して、まあ有名ななんとか刑事っていうのが、とうとう突き止めた訳なんです。犯人は小原保さん、さん付けていいのかどうかな。僕はすぐさん付けたくなっちゃうんですけど。小原保さんなんですよね。で白状して。このあいだ回向院に行きましたけども、回向院の親戚のようなお寺、あそこは三ノ輪橋って言ったですかねえ。王子電車で行く。今、東京で最後の都電、ちんちん電車ですね。その三ノ輪橋の近くにお寺さんがあるんですよ。そのお寺さんの墓石の下に蓋して入れていた。そこに今も供養する何かがありますねえ。これはもう僕らにも影響したんです。まあ仕事にあぶれた時なんかは浅草あたりで映画を観ようと。ところが映画観るのもお金かかるから。当時はコッペパン全盛時代ですからね。コッぺパン一個十円。僕らの年代だと当時若かったですからコッぺパン二つ、今は一つしか食べられませんけどね。いつもコッぺパン二つ買って、パン屋さんに、こう二つとも裂いてもらうんですね。で、一つにジャムを挟んでもらう。そうしてジャムついているのを分けますでしょう。もう一つの方はジャム付けてないんですよ。そうして付いたのと付いてないのをぺタンと合わせると二つにジャムが付いたことになるんですね。これは僕ばかりじゃなくてみなさん、そうやっていましたね。で、コッペパンかじりながら公園で、日向ぼっこをするなり、本を読むなり、あるいは僕はちょうど自転車を買ったばっかりなんで、まあ古い自転車ですけども、その自転車で公園をグルグル回ったりなんかしてました。でも、吉展ちゃん事件があってからは、なんか公園に近寄れないような状態っていうんですかねえ。僕は子供をからかったりするのが好きなんですよ。公園の砂場に行って物を創造するっていうんですか、絵を描く関係もありまして、大きな山やトンネルを作ったり、大きな船を砂場で作ってみたり。そうすると子供がみんな喜びましてねえ、子供が寄って来るんですね。子供が手伝ってくれて。大きいそういう創造物の上へ、最後には子供と上に乗っかってドシャーンとしてつぶしちゃうんですね。それがまたいいもんです。ところが吉展ちゃん事件があってからは、そういうことがやれなくなった。親御さんの方も変なおじさんのそばに行くなと言いまして。世間から見ると日雇い労働者っていうのは、まあ変なおじさんに見えたんでしょうか。僕はよく子供を自転車の後ろに乗せて走ってました。おじさん、乗せてって言うから乗せて公園一回りして。よくやったんです。子供も喜ぶし乗せた僕自身にしてもいいもんなんですよ。ところが、それもやれなくなってしまった。入谷の公園ばかりじゃなくて、玉姫公園にもけっこう子供が遊びに来てたんですよ。かつては山谷にもスラム的要素があって、家族持ちが住んでたりしたんですから。お父さんと子供、お母さんと子供とねえ、夫婦揃ってることはそうないんですけども。スラムとドヤ街っていうのは、一緒にしてますけれども、普通純粋なドヤ街というと寄せ場ですから、ドヤって言葉自体が「宿」っていう意味で、労働市場ですからねえ。そのスラム的要素がだんだんになくなってきている訳なんで。あとは、お父さんが仕事行ってしまうと子供は学校行かないのが多かったですね。未就学児童っていうんですか。学校行かないで、みんな公園で遊んでるんですよ。僕ばかりじゃなくて、仕事にあぶれたオッサンがけっこう公園へ来てて。それで子供と遊んだり。田舎から出て来て、東京へ来て、山谷に来ちゃった。田舎にはことによったら子供がいたんかもしれないですねえ。自分の子供と二重写しになって。遊ぶ事が、まあなんて言うのかな、癒しになるというんですか。残念ながら、吉展ちゃん事件があってからそういうことはできなくなってしまいました。その後、東京オリンピックを迎えるっていうことで、東京をきれいにしなくちゃなんていうことで、これは山谷ばかりじゃなくて山谷を中心とした隅田川のふちなんかにスラム街がありまして、それがみんな整理された。そして北多摩の方の都営住宅なんかに入れられたりして。だんだんにスラムという要素っていうのは東京からなくなっていったんですねえ。
小見 その吉展ちゃん事件が起きて、だんだんそういう日雇いの人に対する地域の人の目が変わったとおっしゃいました。今、山谷のマンモス交番が話に出ましたが、大体その時期と前後しまして、山谷の暴動が一回、それからもう一回くらい大きいのが起こってますね。それで警察は山谷の労働者は何するかわからん、とますます治安の対象としていく、世間の目も厳しくなっていく。最近は見られませんけれど、ついこのあいだまで、住所不定の労務者風の男がどうのこうのというようなマスコミの記述をずいぶん見ました。そこら辺の暴動が起こった時の地域の人達、まあ普通の人達や子供達との関係っていうんですか、見る目っていうんですか、そういうのはどうなんでしょうか。

目の上のタンコブ――敵はマンモス交番にあり

黒田 なんとか意識っていうのは学習して覚えるもんであって。ところが子供はそういうの学習してないですから、割に汚いかっこうしていても、まあ土方のかっこう、日雇い風のかっこうしていても、子供の方は差別感なくて面白いおじさんだっていうようなことで、非常に懐いてくるんですねえ。というのは、差別という問題はやっぱり大人からきていますね。山谷の立ちんぼと言いますけど、これはかつては王電の立ちんぼって言ったんですね。王電っていうのはさっきの三ノ輪橋の話の王子電車。あの辺に闇労働市場があって。それでまあ日雇いがあの辺の道路に立ってたんですよね。朝早くから立ってて、寒いから火を燃やすとか。両側に大人数がいたもんですから、町内の人がそこを通りづらいとか。ちょっと子供のことが心配ということで、いろいろな苦情が出て。それで徐々に泪橋の方へ移動させられたっていうね。その経過をみても、やっぱり周辺から差別っていうか特別な目で見られていたっていうことは、ずうっともう前からそういうことになってるんですよねえ。それで、山谷事件ってことですけれども、マンモス交番のことを触れましたけど、マンモス交番と非常に関わり持ってるんです。マンモス交番ができたのが、確か、安保闘争のあった六〇年です。六〇年安保闘争があります。六〇年と言いますと昭和三五年ですね。それ以前からいろいろな山谷の事件がありました。それで支配者階級は山谷を非常に重要視して、支配の一環として交番を作った。それであの三階建の交番が作られたんですよ。当時三階建の交番っていうのは珍しいですから、周辺にも大きい建物はなかったので非常に目立ったんですね。そこからマンモス交番っていう名前が付いたんです。当局側はマンモス交番って言ってないですけどね。まあ我々の側から見て、あんまり目立つからマンモス、マンモスと、マンモス交番ということになりました。その後、その憐にパレスハウスっていう大きな宿ができまして。近代的な建物ができたのでマンモス交番がちょっと小さくなっちゃったですけど。当時マンモス交番ができた時は非常に大きく見えたっていうことですね。その当時のいろいろな噂があるんです。ドヤ賃が平均一〇円くらい値上がりしたと、それがマンモス交番を作る費用の方へ回されたという、これは本当か噓かわかりませんけども、そういう噂も出たっていうことですね。実際、旅館組合の方ではマンモス交番に非常に期待を持ってた訳です。で、陰になり日向になりしてマンモス交番を非常に援助した訳ですよ。山谷の日雇いのみなさんはお巡りさんにはしょっちゅう不審尋問をくったり、いろいろされてますから。そこへ巨大なお巡りさんの、すぐさん付けにしちゃうんですねえ、どうも申し訳ございません。これ僕の癖で。マンモス交番が目の前にできちゃって。何とかのタンコブという建物ができた。何のタンコブって言うんでしたっけ?
小見 目の上のタンコブ。
黒田 あっ目の上。全くマンモス交番は目の上のタンコブなんです。それで昭和三五年の大きな山谷事件があって、交番焼き討ちっていうことになりました。ちょうど八月か七月の暑い頃で。何かちょっとしたことでパクられて、たいした罪じゃないのにパクったっていうことで、交番に押し寄せる。それで交番が焼き討ちされるという、まあ大騒ぎになった訳ですね。その後もいろいろな事件がありますと、別にお巡りさんと関係がない事件であっても必ず交番に向かって行くんですね。これ不思議なものですねえ。全く目の上のタンコブ。我々にとって、山谷の住人にとっては、ドヤモンにとっては全くのこのタンコブで。怒りのはけ口、持って行き所は、やっぱり交番、敵はマンモス交番にありっていうことなんです。で、その当時、ちょうど安保闘争があったんです。六月頃だったですねえ。よく安保闘争というと、勇敢な全学連の人達が、まあ今じゃあいいおじいちゃんになってる人達が今でもマスコミに取り上げられてますけどね。ところが山谷の人達も安保闘争に参加したんですよ。ところが、これ全然マスコミに取り上げられたことはない、今も誰も知らないんですよね。でも僕はよく知ってる、僕は行ったですから。それで八月に入ってからのマンモス交番襲撃事件にしても、時代の、安保反対のそういうものが反映してたんじゃないだろうかって思うんですよ。安保問題が出ましたから、ちょっとこの歌をうたわせてもらいましょうか、よろしいですか。
小見 どうぞどうぞ。
黒田 ♪立ち上がる時だ 大切な時は今 憎しみの火が燃え
ちょっと忘れたかなあ。これ安保反対の歌なんですよ。もう一度。
♪立ち上がる時だ 大切な時は今 子供達の未来の為に
憎しみの火 燃え上がらないうちに 一足早く絶やしてしまうのだ
立て立て 立ち上がれ 立ち上がれ
安保条約ハンターイ! アメリカは日本から出ていけー! 岸内閣打倒!
っていうようなことで。ハハハハ。いやいや。(拍手)これは誰が作ったんでしょうかねえ。当時三〇万の人達が安保反対のデモに参加したと言われまして。で、よくうたわれてたんですよ、この歌が。僕は物好きだから覚えてたんで。他の人は忘れちゃってるでしょうねえ。デモっていえば、これは初めてフランスからの輸入のデモが取り上げられたっていうんですけど。フランス式デモっていうんですか。手をつないで、ハハハハ。道一杯に。今ちょっと考えられないですねえ。フランス式デモっていうことで、みんな手つないで。手つなぐっていいもんでねえ。
小見 道一杯に。全部占拠しちゃうやつですね。
黒田 道一杯にしないと、フランス式デモの意味がないですねえ。それで国会周辺デモをして、アメリカ大使館の前を通って、新橋の土橋で流れ解散ということなんですけどね。僕は大体人間がおとなしいんです。この「山谷」の映画みたいな勇敢なことはやれません。ものすごく気が弱いんですよ。だけどなぜかデモは好きでねえ。ですから安保の時はほとんど昼間もデモ、夜もデモっていうことでした。まあ日雇い人夫ですから休んだって別にクビになる訳じゃないですから。昼間と夜ずうっとデモばっかり行ってました。で、デモの中でさっきのような歌を覚えちゃって。デモはいいもんだなあと思ったりしてますけど。それで山谷の人達も行ったんだっていうことを知ってほしい。学生だけじゃないんですよ。樺美智子さんが亡くなったったあの闘争に。
小見 六・一五ですね。

全学連の事務所に連帯の挨拶に行ったんだけれども……

黒田 あの全学連が何年前に作られたのか知りませんが、僕は東京大学の構内の仕事に行ってたんですよ。道路の舗装ですね。道路の、油撒いてそこに砕石を撒いて。大きい一号サイズから始まって、最後にビリを撒いて、それで砂を撒いておしまいです。アスファルトですね。その仕事に行ってまして。で、学生食堂は安いですからよく行ってたんですよ。そうすると謄写版の刷ったチラシなんかを置いてありました。日本共産党東大細胞なんてのが書いてありましてねえ。で、その細胞の人達が代々木の本部へ行って暴れたとかどうのこうのなんて、これ新聞ざたになってたですけど。そこら辺から全学連の前身が作られていったんじゃないでしょうかねえ。それで僕はまだ学生さんのそういう運動をよく知らない時だったもんですから、安保の数年前だったでしょうか。東大の構内で学生さんが――全共闘時代でしたらヘルメット被ってたでしょうが……
小見 全共闘の時はそうでしたね。
黒田 全学連時代はまだヘルメット被ってなかったですね。それで東大の構内で何か学生さんがみんな集まって、リーダーがピピーって笛吹きまして、きちんと横隊に並んで。で、先頭は長い竹竿持って、それでピピーピー、ピピーピー、ピピーピー、ピピーピーとこう整然と行進してるんですね。これは何かねえ、運動会の練習かと思ったですよ。
小見 ハハハハ。
黒田 僕らも小学校時代には、ほら棒立てて、棒倒しやったですから、東大の学生さんも、あれかなあ、運動会の練習、棒倒しでもやるのかと思ったですねえ。まあそれがその後の全学連の国会突入ね。まあ弾かれたにしても突入した。彼らはそういうデモの練習をしてたんですね。そのデモが安保闘争の時に、非常に役に立ってたっていうんですか。その為の予行演習だったのかもしれませんねえ。それで本郷に、学校の中じゃあないんですが、全学連の事務所らしいものがありまして。たまたま安保の時に学生さんの活躍しているのを見まして、それで僕もすっかり感激しまして。本郷の全学連、果たして全学連かどうかわかりませんけれど、学生が集まっている事務所へ……。僕はその辺によく仕事に行ってましたから、これは全学連の事務所だなということで、わざわざ山谷から自転車で行って連帯の挨拶をしようと思ったんですよ。残念ながら全然相手にされなくてね。アハハハハハ。当時は、学生さんの運動は山谷とか釜ヶ崎とかそういう、いわゆる下の下の方に、まだ目が向いてなかったんでしょうねえ。連帯の挨拶を、それで行ったんですけれども、向こうの人はどういうふうにとったかねえ。変な人が来たなあと思ったのか、体よく追い出されちゃいまして。
小見 お一人でですか。
黒田 一人で。ウハハハハ。それから学生運動っていうのはあんまり好きになれなかった。その後、全共闘運動の日大、東大闘争を見て……。僕は非常におとなしいんですけど、ああいうパアーっと火の手が上がったようになると、なんか自分の中がカアーっと。これはアートの原点なんですけど。全共闘運動を見て、学生さんを見直したって言うと怒られちゃうかなあ。そんなような訳なんですよね。あと何だったですか?
小見 連帯の挨拶に行ったんですが、まあなんて言うんですか、階級が違うというか……。
黒田 そうなんですよねえ。
小見 彼らはいちおう共産主義者ですから。何を隠そう黒田オサムさんはバリバリのアナーキストで。
黒田 いやいやいや。ヘヘヘヘヘ。
小見 ついこの間、香港が中国に返され、まあ返還されたって言っていいんですか。その中国の香港でもって、目の敵にされているアナーキズム万歳ってやったという。そういう話もお聞きしてるんですが。

山谷が爆発すると釜ヶ崎が……
釜ヶ崎が爆発すると山谷が……

黒田 いやそれねえ、小さい声で言ったんですよ。アハハハハハ。大それたものじゃないですから。ほんとに気の弱い、ちっちゃなあれでして。で、安保闘争があったのは昭和三五年。同じ年に山谷の大事件が、交番焼き討ち事件がありました。一年経って三六年には、釜ヶ崎で事件があったんですよ。大きな暴動って言った方がいいですね。この「山谷」の映画にもありましたように、時代も違いますけれども、釜ヶ崎でも山口組系統の人達が、当局側を守るっていうことで出てきまして。日本刀まで抜いたっていう、そして猟銃まで持って来たって話です。一人死んでます。そういう事件で亡くなるっていうことは非常に珍しい訳で、これは大きな事件だったですねえ。山谷が爆発すると釜ヶ崎が爆発する。釜ヶ崎が爆発すると山谷も爆発すると。何か地下水脈で通じてるんでしょうか。東と西で。僕がたまたま釜ヶ崎に行ったんです。それで職安に行きまして、朝の紹介風景を見てたんですね。仕事あるかないか。山谷に比べてどうかなと見てましてね。そしたらね、一人ね、紹介順に並んでたのがね、オーオーって言うんですよ。見たら二、三日前に山谷で一緒に仕事やった人なんですね。山谷の玉姫職安の前に行っても見ないし、泪橋の立ちんぼの所に行ってもいない。どこ行っちゃったんかと思ったら、釜ヶ崎に来て紹介受けてるんですね。これには驚きです。まさに山谷と釜ヶ崎は地下水脈で通じていたんですねえ。最近は外国の方も日本へいらっしゃるし、日本の人も外国へいらっしゃる。外国の方も山谷にいるそうですね。
小見 一時いたんですが、最近はあんまりいなくなっちゃった。
黒田 いなくなったですか。
なすび (会場から)労働者ではあんまりいない。
黒田 労働者はいない。
なすび 最近はバックパッカー。
小見 バックパッカーって安いお金で旅行する人。
黒田 ああ旅行する人。そうですか。ヘヘヘヘー。それで、僕はひょっと考えたんですね。山谷と釜ヶ崎は、地下水脈で通じてると。これからは、グローバルの時代だって言うでしょう。事によると、ニューヨークに職安が、労働出張所があるかどうかわかりませんけど、山谷でしばらく見ないなって思っていた彼がニューヨークの職安にいたなんてことがありうるんじゃないかなあと。これからは資本側のグローバルじゃあなくて、労働者側のグローバル。グローバルっていうのをそういう意味で使ってもいいんですか。
小見 いいんじゃないですか。
黒田 いいんですか。グローバル化になるんじゃないかなと、予言と言っちゃおかしいけれど、そういう時代が来るんじゃないかなんて思いますねえ。話が飛んじゃいましたが、釜ヶ崎事件があって、それで翌三七年はまた山谷ですね。今度は釜ヶ崎があって山谷ってことですね。これはあのマンモス交番の……今マンモス交番は場所変わっちゃったので、このあいだ行きましてビックリしました。いろは通りの方に移ってますね。前の場所は泪橋の通りで。そのマンモス交番の真ん前に組合食堂があったんですよ。その後、朝日食堂って名前に変えたんですけど。で、彼なんて言ったかな、ちょっと名前度忘れしたですけど、まあ日雇いの人が朝日食堂で中華か何かとって、そのあとおかわりを注文したらば、店員がそっぽを向いて相手にされなかった。それで、彼が腹立てて、その中華丼のスープを、小ちゃいお椀に入ったスープをちょっとかけたそうです。そしたら、奥から朝日食堂のアンチャン、若い連中ですね、ピンピンした連中がドヤドヤっと出て来て。彼を引き摺り出して朝日食堂の真ん前で暴行を加えたっていうんですね。マンモス交番の真ん前ですから、見える訳ですよ。それでお巡りさんが出て来て、引っぱっていったのは、やられた方の日雇いだった。これは山谷ではよくあることなんです。交番側の弁解によると食堂側の加害者もいつ何時でも引っぱれるから、後から引っぱろうとしたんだって言うんですけどねえ。それにしても、加害者を引っぱっていかずに被害者を引っぱっていくっていうのは……。そこら辺から、それは違うんじゃないか、違うんじゃないか、おかしいじゃないか、おかしいじゃないかと人が集まりはじめまして。そして山谷のマンモス交番に抗議する。それから朝日食堂に抗議する。抗議は、しまいには実力行使になりまして、看板叩き割ったり大騒ぎになったですけどねえ。それがまあ昭和三七年の山谷事件なんです。それからまあ毎年、そのようなことが起こってました。大体、夏が多いんですね。当時は大体山谷の宿、ドヤは大部屋、あるいは小部屋。その部屋式が多かったんですけども、効率化を考えて、これは関西からそういう方式が入ってきたらしいですけど、ベッドハウスになったんですね、蚕棚の。その方が効率良く泊められて、効率良くお金が入る。まあ一畳に対して今まで一人だったのが一畳に対して二人分のお金が取れるという、ベッドハウスが完成した時分なんですよ。最近は、ビジネスホテル風になって非常に外観だけはきれいになってますけどねえ。当時は外観も悪かったし、中に人ると南京虫。夏は南京虫ですね。冷房暖房なんかもちろんないですから。それで人がいてその上に人が乗っかってるんですから、夏は暑い。どうしてもまあ外へ出て涼むということになって。むしろ宿で寝るよりもアオカンした方が気持ちがいいんですよ。まあ夏のナイターって言うんですかねえ。今晩始まんないかなあ、始まんないかってゾロゾロ交番のまわりに行ったり来たりしててね。もうそういう素地ができてんです。で、始まりますねえ。これは山谷ばかりじゃなくて、三ノ輪の方、あるいは南千住駅の向こうにもドヤ街はありまして、場合によっては北千住や西新井からも、なんか山谷ナイターを見に来るっていう。僕もそのナイターを見てました。それがまあ昭和三七年の山谷事件ですね。それから、昭和三八年に入って、吉展ちゃん事件です。で、昭和四〇年近くなってからかなあ。山谷の城北福祉センター、福祉センターの、労働センターの方ですね。旧館と新館がありまして。新館はおそらく昭和三八年か三九年頃にできたんでしょうか。それ以前の戦前に、昭和の初めに、生活に困ってる人や浮浪者、そうした人が泊れるようにということで東京都がコンクリ建ての建物を作ったんですね。大和寮といってたですけど。それが戦争中に大和寮は焼けちゃって。焼けビルです。地方へみんな疎開しちゃってるんで、東京のあちこちから人を集めて、いろいろな仕事を……。そしてそこに寝泊まりさせて管理したのが労務報国会っていうんです。最近は労務っていう言葉使わないですけど、戦時中は労務者とか労務って、よく使われたんです。東南アジアにはROMUSYAっていう言葉があるってことですね。日本軍に酷使されたまあ労務者ですか。で、戦時中に労務報国会が作られて、当局の要望に応じて人を出していった。そして、昭和二〇年八月一五日に敗戦です。アメリカ軍が日本へ入って来ました。そうしたら、彼らは労働組合を作れ作れって言い出したんですよ。その労務報国会の組織がまだ残ってたんですねえ。大和寮の労務報国会がそのまま日雇い労働者の労働組合になっていったんです。僕らが行った時はまだそういう名称は少し残っていました。あそこの寮には、その労働組合に入らないと泊まれないんです。玉姫組合と言いましたねえ。
小見 労務報国会が普通の組合の玉姫組合になったんですか。
黒田 そうです。
小見 労務でもって国に報いるということですから、全く国のための組織だったんですよね。それが掌を返したように労働者のための組合になっちゃったという……。
黒田 そうです、そうです。それと当時上野組合っていうのもありました。この上野組合と玉姫組合は親戚関係でしたね。上野組合の方は池之端の方に住んでる、泊まってる人達が多かったんですね。池之端に寮があったんですよ、厚生寮という。戦後、厚生省がいろいろ手を出して作ったんです。よく厚生っていう名前で作られたんですね。厚生寮の人達が大体上野組合。それから、大和寮の連中がかつての労務報国会の玉姫組合。その他にもいろいろな団体があったようなんですけれども。今日、大和寮はなくなって城北福祉センターの、労働センターになってますね。今はどうなんですか、労働センターは。機能してるんでしょうか。
小見 それは私よりも、なすびさんの方がよく知ってます。
なすび まあ東京都の職員で出向して来た者がやっていて、衛生局と福祉局の職員がいて、大体、福祉事務所の出張所みたいな機能はしているのと、一回一回一応仕事は出しています。
黒田 ああそうですか。
なすび 仕事の数はもうメチャクチャ少ないです。今この行政改革の中で城北福祉センター自身がつぶされようとしているっていう。

安保条約ハンターイ! アメリカは日本から出ていけー!

黒田 ああそうですか。僕はたまに山谷へ出ていって歩くんです。昔、山谷にいた頃は、どこでも立ち小便したんです。でも最近はちょっと紳士って訳じゃないんですけど、なんか立ち小便しづらくなって、トイレはないかなと思って。そうするとあの城北福祉センターのあそこにトイレがありますね。あそこで借りるんですけれども、きったないですねえ。すごくきたないですねえ。アハハハハ。まあ日本でも珍しいじゃないんですか。まあ僕はきたないのは別に苦にならないですけど、とにかくきたないですねえ。
小見 黒田さんは、このようにドンドン続けてずうっと明日の朝までしゃべってしまいかねません。でも、この場での時間がそろそろなくなりました。ただ、この場ではなくて、隣の部屋でちょっと一杯呑みながら、もうちょっと直に詳しいことをお聞きしたい方はぜひ残ってください。まだ電車もあります。それから先程申しましたように黒田さんは、実はパフォーマーなんです。黒田さんのパフォーマンスは、これは必見です。画家でもあります。画を観せろって言われても困るんですけども、パフォーマンスは観られます。明日旧ジァンジァンですか。
黒田 そうですね。昔のジァンジァンですね。
小見 昔のジァンジァンでやります。アジアのパフォーマーも何人かいらっしゃいますが、とにかく黒田さんのパフォーマンスは素晴らしい。もし興味のある方はぜひ行ってご覧になってください。黒田さんの名前を受付で言えば前売りになるとかいうのはないですか。
黒田 ああそうですねえ、そういうふうに受付に言っときますよ。
小見 この場の人に限って、「黒田さん」と受付に言えば前売り予約OKだそうです。
黒田 明日と明後日です。明日は外国の珍しい方々がやります。僕は明後日です。
小見 それでは時間がある方はお残りください。それから受付のところに「山谷」の映画のパンフレットと、黒田さんの「ちんぷんかんぷん」というパンフレットありますので、お金に余裕のある方はお求めください。本日はどうもありがとうございました。
黒田 あの最後に、また歌をうたわせてもらいます。よろしいですか、それでおしまいにしたいと思います。さっきの安保反対の歌です。これは今でも有効だと思うんです。
♪立ち上がる時だ 大切な時は今 子供達の未来の為に
憎しみの火 燃え上がらないうちに 一足早く絶やしてしまうのだ
立て立て 立ち上がれ 立ち上がれ
安保条約ハンターイ! アメリカは日本から出ていけー!
今の時代、アメリカは横暴ですからねえ。これは今でも有効です。どうもありがとうござ
いました。
小見 最後まで締めていただき、黒田さん、どうもありがとうございました。

        [2001年10月13日 plan-B]

サパティスタはなぜこの世界に登場し、 そしてそれはこの世界の何を変えたのか?

山岡強一虐殺30年 山さんプレセンテ! 第5回

太田昌国(民族問題研究、シネマテーク・インディアス)

佐藤さん、山岡さんと共有した時間
こんばんは、太田です。
「山谷」の映画のあとにこのようなテーマで話すという脈略が僕自身まだよく分かっていないのですが、まず5分ぐらい別なことを話しながら、考えていきたいと思います。この映画の最初の監督の佐藤満夫さんとは、1980年代の前半ですかね、いろいろな集会やデモで顔を合わせました。デモで隣り合わせて話すとか、集会の片隅で話すとか、そういうことをしておりました。僕は1980年から――ご存知の方もおられるかもしれませんが――ボリビアのウカマウ集団の映画を自主上映し始めていました。佐藤さんはもともと映画畑の人ですし、最初に自主上映したウカマウの「第一の敵」という映画を見ていて、その映画をめぐる感想を熱く語ってくれたりということがしばらくの間続いていました。
それであのような形で亡くなったあと、その「第一の敵」についての評論を何かの映画雑誌に投稿するために書いたという情報があったので、皆さんに探していただいたのですが、残念ながらそれは見つかりませんでした。ウカマウ集団の上映運動は今もう36年目になっていて、まもなく11本目の新しい長編作品が届きます。早ければ来年、遅くても再来年には、再び全作品回顧上映ができると思うのですが、そういう場で、1984年12月を最後にして佐藤さんと再会できないというのは非常に残念なことです。
二番目の監督の山岡さんとは、1979年頃知り合って、7年間ぐらいの付き合いであったと思います。これは亡くなったあとの追悼文で書いたことでもありますが、1985年の秋ぐらいですかね、「解放を求めるアジア民衆の会」を立ち上げたいということで、山岡さんが相談に来たことがありました。その頃東京に金明植さんという韓国の詩人がかなり長く滞在していました。8月15日に靖国に向けてデモをやりますね。その年によってデモコースは異なりますが、多くの場合神保町の交差点から九段の靖国神社の方へ向かいますが、「許可」されるデモコースは、靖国の手前の九段下で曲げられます。金明植さんがそれを見ていて、おまえたちはなぜあそこで曲がるんだ、なぜまっすぐ進まないんだ、と批判するのです。日本のデモで捕まった時のとてつもない長期拘留とか、あとの弾圧の問題とか、いろいろ山岡さんも僕も説明するんだけど、そんな弾圧を恐れていて一体何の運動なんだ、というわけです。それはそれで正論なんだけど、日本の特殊事情がちょっと分かっていないんだよなという感じで、いろいろやり合いになったことがあったりしました。かなり強烈な個性の人で、いろいろ話し合っていて面白い人だったんですね。彼の提起もあったと思うのですが、山岡さんから「解放を求めるアジア民衆の会」を立ち上げたいという相談があったのは、そんな経緯でした。
同じころだったと思いますが、山谷の夏祭りの後で夜更かしして一緒に飲んでいて、朝が明けて、なぜか僕の家に来ることになった。広島の中山幸雄さんも一緒だった。駅から家に行く途中の古本屋で、山さんが『小林勝作品集』を見つけて、ためらうことなく買ったというのも、忘れがたいエピソードです。お互いの精神の「近さ」を実感させられるエピソードだったから、です。
それから亡くなるまさに5日前、86年の1月8日、当時まだ神保町にあった僕の事務所に、いきなり山岡さんが5、6人の人たちと一緒にみえて、いよいよ映画「山谷 やられたらやりかえせ」が完成した、ついては上映運動を始めるんだけれども、太田がやっているウカマウの上映運動は自主上映としてはなかなかうまくいっているみたいだから、ノウハウを教えてくれないかというようなことを言われて、しばらくどんなふうにやろうかというようなことを一緒に考えたことがありました。
それから5日後、山さんは新大久保の路上で撃たれて亡くなりました。この映画に関わった2人とそういう関係があるせいもあって、「山谷」は僕にとってもなかなか忘れがたい映画であるということになります。
さて、これからはさきほど司会の池内さんが言った、非常に無理な接合をしてですね、「サパティスタはなぜこの世界に登場し、そしてそれはこの世界の何を変えたのか?」という問題を考えるわけですが、それは要するに何を考えなければならないかというと、僕が佐藤さんや山岡さん、この映画に関わった人たちと共有した時代、1980年代の前半から半ばにかけての時代と、それから30年経った今の時代というものが、何がどう変わったのかを考えることだろうと思うわけです。ですから、これからの話には年代・年号がたくさん出てくると思いますが、それはあまりこだわらなくていいので、大まかなスケッチとして、1970年代から80年代にかけての時代と、世紀末を過ぎて新しい世紀になってもう16年経っているわけですが、今の時代がどういう変貌を遂げたのか。その中でサパティスタが果たした、果たしてきた役割は何なのか、ということをお話したいと思います。

ソ連崩壊の決定的原因となったアフガン侵攻とチェルノブイリの原発事故
 この問題を考えるためには、どうしても20世紀の大きな存在であった社会主義という問題を考えなければならないと思います。20世紀の初頭――来年ちょうど100周年を迎えますが――1917年にロシア革命が起こって、これが世界最初の社会主義革命であった、常にそう思い起こされる時代が始まったわけですね。そして20世紀は大きな戦争、あとで名づけられた名称でいえば第1次世界大戦、第2次世界大戦をはじめとしていくつもの戦争があった。そして、革命も、その戦争を契機に、あるいはそれを利用しながら、ソ連に続くさまざまな革命が起こっていった。それもあって、20世紀は「戦争と革命の世紀」というふうに、僕らが若い頃、1960年代、70年代によくいわれました。最終的に、そのソ連の社会主義は1991年の12月、今から四半世紀前、25年前に潰えるという形になったので、この問題が世界全体の変貌にどういう意味合いをもったのかということを考えることから始めたいと思います。
山岡さんが亡くなった1986年の4月には、ソ連でチェルノブイリの原発事故が起きています。山岡さんが亡くなってから3ヵ月後の事態でした。ソ連はその7年前の1979年、アフガニスタンに軍事侵攻しています。これは一応、ソ連から言えば味方になる勢力が、アフガニスタンでクーデターによって政権を取り、その新しい革命政権の要請によってソ連軍が介入した、という説明を当時のソ連共産党第一書記のブレジネフはしたわけですが、ともかく1979年にソ連軍がアフガニスタンに軍事侵攻した。それが、それこそ「反テロ戦争」と「テロリズム」の応酬が世界を揺るがせている現在にまで繋がるさまざまな動きと関係してくるので、きわめて重要な現代史の出来事です。その後の歴史の流れも見ながらソ連邦の1991年の崩壊を決定的に原因づけた理由を考えると、最終的に決定づけたのは、79年のアフガニスタンに対する軍事侵攻という失敗と、86年のチェルノブイリの原発事故だったのではないかと思います。
僕が学生時代であったのは1960年代の半ばですが、社会を変革する、あるいは革命といってもいいのですが、そういうことに思想的に目覚めたとして、その時代のソ連の在り方が社会主義のモデルであるとはもはや思える時代ではなかった。すでに日本には1960年安保闘争以降の中で、新左翼と呼ばれるグループ、諸集団が生まれたということもありますが、加えて当時の左翼的な思想・文学を牽引した人たちなどにとってもソ連社会主義の在り方を批判するというのは当たり前のスタイルであった。どれほどそれが社会主義の名に値しない抑圧的なものであるかということがはっきりしていて、そのソ連社会主義の批判を行いながらなお、あるべき社会主義、広い意味での社会主義の在り方を模索するというのが、そういう思想に目覚めた人々にとっての普通のスタイルであった。
60年代、70年代のそういう模索が日本でも世界でも続いてきたと思うのですが、しかしその79年アフガニスタンに対する武力侵攻と86年チェルノブイリ原発の事故というのは、ソ連社会主義の最終的な崩壊を告知するような出来事であったと思われます。もちろん、例えば1968年にはソ連とワルシャワ条約軍は、「人間の顔をした社会主義」を求めるチェコスロバキアに武力侵攻していますから、ありふれたことではあったんです。アメリカ帝国ほどではないけども、自分達の「衛星」国だと思っている国々で何かクレムリンのモスクワ指導部から見て気に食わないことがあると、武力を使ってそれを潰すというのは当たり前のスタイルであったとはいえます。それがとうとうここまで酷い事態を巻き起こすのかということが、アフガニスタン侵攻によって明らかになったということですね。
それから、ソ連社会主義というのは、アメリカと競うにあたって、社会主義的なモラルの高さを基準にして競うのではなくて生産力競争をやった。いわば、「アメリカに経済的に追いつけ追い越せ」という形で、対峙しようとした。アメリカ的な超大国に生産力でどのような形で追いつき追い越すことができるかということを経済建設のメルクマールとした。そうすると、それは様々な分野でのアメリカとの競争ということになって、核兵器開発競争はもちろん、例えば宇宙における人工衛星あるいは有人飛行を巡る競争も含めて行われるという時代を迎えるわけですね。
59年でしたか、ガガーリンという最初の宇宙飛行士をソ連が打ち上げた。これこそ社会主義が資本主義に対して優越性をもつ決定的な証拠であるというふうにクレムリンは語る。日本を含めて世界各国で、社会主義への夢や希望を持つ人たちが、アメリカより先に有人飛行を成功させたソ連社会主義は偉大だ、アメリカに勝ったということになるわけです。そういうことが基本であったような生産力競争をしていたわけですね。もちろん、原水爆実験、そして原発というのもその現れで、競い合ってやったわけです。アメリカはインデアン居留地、内陸部の広大なかつては先住民が住んでいた、その地域を選んで水爆実験を行い、ソ連であればシベリア少数民族が住んでいる所、あるいは北極、そうしたいわゆる辺鄙な所、あるいは人が住んでいたとしても、クレムリンからすれば、その被害は無視できるような所を選んで軍拡競争を、原水爆実験を続けてきた。その一つの在り方が、同じエネルギーを使う原発事故となって、チェルノブイリで爆発をしたという結果になるわけです。
山岡さんはアフガニスタン侵攻までは知っているけれども、チェルノブイリの原発事故は知らないわけですね。山岡さんと社会主義の問題をめぐってまともな議論をしたことは記憶にないので、彼が社会主義なるものに、どういう夢を抱いていたか、どういう絶望を抱いていたかは知る由もありません。しかし、当時あの運動圏にいた人々にとっては、広い意味での社会主義というものが、どこかで矯正可能であると、ソ連がどんなに歪んでいても、あるいは中国の文化大革命でどんな酷い過ちを犯したとしても、もっと違うやり方での社会主義の再生というものが可能であるだろうというふうにどこかで思っているところがあり得たと思うのです。
僕はどちらかというと、人間社会というのはアナキズム的な理想によって成り立つだろうというふうに思っているところが若い時からあるので、広い意味での社会主義というのは、アナキズムも含めた形でのそういう展望で語っているわけです。あり得るかもしれない社会主義の範囲を、もう少し膨らませたところで話しているということは、感じておいていただきたいと思います。それが一つの問題ですね。もう少し現代のところでは、この問題を膨らませたいと思います。

朝鮮に対する植民地支配という問題に気づくのが
きわめて遅かった

もう一つは、朝鮮の問題です。「解放を求めるアジア民衆の会」というものを作ろうと山岡さんが言っていたのも、いろいろな思いがあったと思いますが、先ほど例をあげた金明植さんが非常に厳しい立場から日本の僕らの運動の在り方を批判する。歴史的な背景としては、植民地支配の問題があるし、そういう展望で批判する人物がいて、その人たちと一体どういう関係をつくることが可能かということは、当時、山岡さんも含めて僕らにとって大きな問題であったし、それはこのように情勢がすっかり変わってしまった現在もなお深刻な問題であるわけです。
その後に見えてきたこともふまえながら、この問題をどういうふうに考えるかというと、日本帝国に住んでいる我々が植民地問題というものを具体的な問題として気づいたのは、残念ながら非常に遅かったと、僕も含めて非常に遅かったと捉え返すことができると思います。
例えば、1965年に日韓条約が締結されます。このとき敗戦後20年の段階ですが、朝鮮半島に唯一合法的な政府は大韓民国政府であるということで、北朝鮮の存在を無視して、南の韓国政府とだけ国交正常化交渉を行って正常化したわけですね。このとき韓国では、学生を中心に非常に激しい条約締結反対運動が起こったし、日本でも60年安保が終わった後ですから、学生運動の水準でいうと運動が停滞して、それほど活発な学生運動が展開されていた時代ではなかったけれども、一定の日韓条約反対運動というものがあった。僕もそれに参加した。しかしそのときの意識を思い出してみても、朝鮮との間の植民地問題ということで問題をきちっと立てて、日本の敗北の20年後に結ばれようとしているこの条約にどういう反対の論拠をもつかということを仲間同士で論議した記憶はない。そのような意識が現れてくるのは、それから数年後の60年代後半です。ですから、植民地支配という問題を、支配側の日本帝国にいて、その現代史を生きていて、どのように捉えるかという問題意識が生まれたのはきわめて遅かった。社会全体の問題として、あるいは個別に僕らの問題としても遅かったといえると思います。
その具体的な現れの一つとして、例えば日韓条約反対の労働組合の反対運動のスローガンの一つは、当時の大統領は今の大統領の父親の朴正煕で、朴というのを日本語読みにすると「ぼく」ということになるから、「(請求権資金という)カネを朴にやるなら僕にくれ」、そういうスローガンがプラカードに書かれていた時代なんです。これが一事が万事、当時の私たちの思想状況・社会状況を表すものだと考えてくださればいいと思います。
その韓国では、その前年の1964年からアメリカの強い要請によって、ベトナム派兵を行うわけですね。米国がだんだんとベトナム戦争に深入りしていくのは60年代に入ってからです。それは54年にベトナムを支配していたフランス植民地主義がディエンビエンフーの作戦で軍事的に敗北を喫して、彼らは引いて行くわけです。そうするとアメリカ側から見れば、ソ連があり、49年には中国革命が起こり、50年から53年にかけては朝鮮戦争が起こって、北朝鮮が一時期ソウルを制圧し釜山にまで攻め込んでくるような事態になった。かろうじて53年の休戦段階で38度線を一つの休戦ラインにしたけれども、北にははっきりと社会主義を名乗る政権がある。ベトナムも北ベトナムが社会主義を名乗っている。そうするとユーラシア大陸からずっとアジア全域が、東アジアから東南アジアまで「赤化」しつつあるということになる。これはドミノ倒しである。このまま放っておいたらどうなるか分からないといって、フランス植民地主義に変わって、アメリカはインドシナ半島への具体的な介入を始めるわけですね。それが、やがて泥沼のベトナム戦争として75年まで続くわけです。
米国はベトナムへの介入を深めるにしたがって、日本には、沖縄にある米軍基地を軸にベトナムを爆撃する本拠地としてしっかり担ってもらう。韓国には、実際に兵を動員してベトナムで一緒に闘ってもらうということを朴正煕に提案し、朴正煕はこれに応じて、結果的に73年までの9年間、延べ30万人といわれる韓国兵がベトナムで、ベトナム民衆を相手に闘うということになるわけです。4,500人ぐらいの韓国兵が亡くなっています。そうすると、あとで僕らも気づくんですが、韓国の人たちからすれば特に女性からすれば、20年前の日本軍のアジア全域における侵略戦争のために夫をとられた。そして日本軍として戦わされた。その歴史を負っている人たちが1960年代半ばには、中年の年代で生きているわけですね。その間に朝鮮戦争がありますし、今度はベトナムに息子たちがとられる。そういう不安を抱いて暮らす農村部の女性たちが多かったわけです。これは日本に暮らしている私たちのどの世代も経験したことのない現実なわけで、こういう形でアジアの現代史は続いているんだということが、そばにいながら、しかしそれからはっきり隔てられた空間に住んでいる我々には気づくのが非常に遅かった。こういう問題として、韓国のベトナム派兵を捉えることはできなかった。今、山岡さんが元気であったら、語り合いたい一つのことは、こういう関係の問題ですね。

独裁というキーワードだけでは分析できない
流動化の進行

それから朴正煕のクーデターが1961年に起きて、延々と長い軍事政権の時代が続くわけです。70年代前半ぐらいから、岩波書店の『世界』という雑誌に「韓国からの通信」というレポートが載るようになる。これはT・K生という匿名の筆者が、毎月韓国でどんな事態が起こっているのかということを人からの伝聞とか、街の噂話とか、ビラとか、地下通信とか、様々な形で伝えてくれる非常に貴重な媒体であったわけです。これは88年まで続くので、ほとんど15年間毎月のように載っていて、「僕ら」と複数形で言っていいと思いますが、当時韓国に関心のある人たちの韓国情勢の把握を決定づけた一つの大きな媒体であったと思います。
僕は80年代の前半ぐらいになってちょっとこの通信の読み方に距離を置くようになって、それはどういうことかというと、それまで僕自身もそうでしたが、それを大きな情報源として韓国情勢を把握している限り、韓国は軍事政権の独裁下で、それだけをキーワードにして分析すればそれで一切分析ができてしまうような「暗黒の世界」だったわけです。ものすごい拷問が行われているし、弾圧も行われているし、死刑判決が連発され、執行もされている。集会・行動の自由もないし、言論の自由もないし、文学者も発言次第ですぐにしょっぴかれる。金芝河のように風刺詩という形で、非常に鋭く政権の在り方を風刺すると、それだけで逮捕される。そのような「暗黒の世界」があったことは否定しがたい事実なのですが、それだけで全て分析してしまうことができるのか。それは分析でもなんでもないんですけれどね、あとから思えば。
僕がちょっと違うなと思い始めたのは、文学作品、韓国の現代文学を読むことによってなんですが、黄晳暎っていう今も現役の作家がいます。彼は僕と同じ世代なので、徴兵にとられて実際にベトナムに行って、戦闘部隊や諜報部員として活動して、ベトナム経験を持っている世代の作家です。彼がベトナムから帰ってきて、その体験記をフィクションの形で書き始めるわけですね。そうすると、彼の書いているベトナム戦記を韓国の実際の民衆がどう受け止めているかというところで、意外な反応が出てくる。
例えば、ベトナム帰りの兵士たちというのは、一目でそれと分かる振る舞い方、あるいは格好をするわけだけども、そうすると韓国の市民はそれを見て、うまい稼ぎをしてきやがってとか、こっちに引き上げてくる時には、PXという、軍人専用の店で、日本の電化製品なんかを非常に安い値段で買える特別な店があるわけですね。まだ韓国が80年代の驚異的な経済成長を始める前の段階ですから、70年代というのは。そうすると60年代、70年代というのは、派遣された韓国兵で無事生きて来られる人は貯め込んだドルがある。戦地手当は日本の自衛隊と同じようにそれなりに大きいわけですから。帰る時に、そうやって韓国では貴重な日本製の電化製品やなんかを買い集めてくることができる。そして、兵士によってはそれを大量に買い込んできて、韓国で売りつけるような振る舞いをする者がいる。そうすると、韓国のベトナム帰還兵というのは、庶民からはそういう目で見られている。そういう二重構造といいますか、韓国社会の中で作られる別の構造が見えてくるわけですね。
今のは『駱駝の目玉』という小説なんですが、黄晳暎がもう少しあとに書く『熱愛』という小説だと、開発独裁という、当時の第三世界の独裁体制を規定する言葉があったのです。僕らが「独裁」に重点を置いてその社会分析をやっていたとすれば、もちろん「独裁」批判は当たり前のことではあるけれども、しかし一方で同時に「開発」というものも進んでいる。外資の積極的な導入による経済開発――それを第三世界支配のモデルケースにしようという、アメリカのような超大国の意志が働くわけです。その利益がどこに集中するかは明らかですが、にもかかわらず経済全体の底上げ、中産階級の形成も進行する。独裁というキーワードだけでは分析できない、流動化というものが韓国社会の内部で進んでいるのだということが分かってきたわけです。
そうすると、今までのような形で『世界』に載っているT・K生の「韓国からの通信」に依拠してそれ以上のことを深く分析しようとしない僕らの在り方というのは決定的に間違っていたのではないか、「開発独裁」体制の内部も知らなければならないのではないかというふうに思うわけですね。そういう問題意識も山岡さんが亡くなってから、はっきり僕の中に現れたことだと思うので、韓国などを分析する際に、一体どういう情報を大事にして接することができるかということも、山岡さんといろいろ話し合うことができたらなと思うことの一つであります。
『熱愛』という作品が書かれたのは、ソウル・オリンピックが開かれた1988年です。ソウル・オリンピックの前の数年間はオリンピック開催に向けての高度経済成長の時代を意味するわけですね、東京がそうであったように。1964年の東京オリンピックに向けて1960年ぐらいから新幹線の開発とか、そういうものを含めたインフラ整備が行われて、一気に離陸するわけです。あの敗戦直後の焼け野原の時代から。韓国であれば、日本の植民地支配を経て、あの苛烈な朝鮮戦争を経た53年以降の時代から、それでまだまだ貧しい時代の50年代、60年代が続いたと思いますが、経済成長の点で一時は北朝鮮に遅れを取っていたと、さまざま見聞した経済学者やジャーナリストが言っていた時代が70年くらいまでは続いていたわけですから。それを一気に覆すだけの経済成長を、あろうことか朴正煕の独裁政権下で成し遂げているわけで、その過程の問題を一体どういうふうに捉えるのかということが、その後の私たちの討論課題になったであろうと思います。
朝鮮半島には、もう一つの重要な問題があります。朝鮮民主主義人民共和国の在り方をどう考えるかということです。南の独裁のみを取り上げ、北の独裁は不問に付してきたのが、日本の「革新派」の大方の在り方でした。きょうは詳しくお話しする時間はありませんが、2002年9月17日、日朝首脳会談で金正日が拉致犯罪を行なっていたことを認め、謝罪したときに、自称「社会主義国」=北朝鮮のイメージは完全に崩壊しました。ソ連崩壊から10年、社会主義の理念と実践は、さらにどん底へと落ちたのです。こんな「社会主義」への侮蔑と、「朝鮮的」なるものに対する排外主義とが、奇妙な形で合体している現在の日本社会の状況は、この時点からの、まっすぐな延長上にあります。

グローバリゼーションという現代資本主義の
最高形態の登場
さて最初に言ったように、1991年12月、ソ連は瓦解しました。これは旧来型社会主義の全面的な敗北であったと当時も思いましたし、今も思っています。同時に、第三世界の解放モデルもほぼこの段階で(本当は、厳密にいえば、もう少し遡るのですが)低迷・後退を始めたということができると思います。キューバ革命初期に関して、ソ連社会主義に変わる新しい社会主義のモデルを提示しようとして、少なくとも最初の9年間、10年間はそのような模索も行われた、同時にキューバは第三世界解放の一つのモデルを提示しようとしていた――私は、その苦闘の在り方が現れていたと語ってきたのですが、この20世紀末の段階で、ほぼその形も破綻をきたし、そのまま一直線に進むことはなかったと言えると思います。
ですから、韓国の経済発展というのを考えると、60年代に経済理論として非常に多くの人々が読んだ従属理論――第三世界の経済発展というのは、宗主国、植民地支配を行った、あるいは経済的に支配している先進国との関係において規定されているのだからどうしても従属的な発展にしかならない、このような環を断ち切らない限り第三世界の経済発展は展望できない――というような考え方が一つの限界に達した。そうではなくて、中堅の新興工業国の発展というものが、80年代、20世紀の末から始まったわけです。
そのようなことを全て見たところで、僕のこだわってきた問題からすれば、ソ連崩壊後の翌年の1992年というのは、コロンブスがアメリカ大陸に到達して、地理上の「発見」とか、あるいは大航海時代といわれたあの時からちょうど500年目を迎えた年でした。この年が決定的に重要だと思ったのは、前の年にソ連社会主義というのが敗北して、社会主義の全面敗北、資本主義の一方的な勝利というように謳歌する政治指導者や資本家連中が多かったわけですが、僕はソ連社会主義の敗北は必ずしも資本主義の全面勝利を、あるいは最終的な勝利を意味しないと考えていました。資本主義はさらに困難な壁にぶつかるだろうと。5世紀前の、大航海時代と1492年の「新大陸の発見」によって、ヨーロッパ資本主義はその後、中世を抜け出て資本主義的な発展を全面展開していくだけの地理的に有利な条件と、そこを開発することによって資源的に有利な条件、それから植民地支配することによって労働力的に有利な条件を開発していった。つまりコロンブスの大航海というのは、あの時代から世界を二分する、交通路としては一つとなったわけだけれども、非常に有利なものと不利なものとが地域的に分かれることによって、世界が二分される、そういう条件づけを可能にした年の始まりであった。
その後、資本主義はこれだけの年数を経て、ソ連社会主義に打ち勝つだけの基盤を築き上げてきた。それが、ソ連崩壊後はネオリベラリズム、グローバリゼーションというひとつの形をとって現れたわけです。ですから、ソ連崩壊あるいは翌年の1992年の段階で、私たちは現代資本主義の最高に発達した段階としてのグローバリゼーションという、世界を単一の市場原理によって統治する、そのような趨勢との、新しい時代状況の中での闘いに入ったわけですね。これは先ほどから言っているように、資本主義の最終的な勝利ではない。グローバリゼーションという現代資本主義の最高形態が、これから世界各国で闘おうとする人たちの、社会主義は間違ったけれども、もっと別の原理を作りだしながら闘おうという人たちの、共通の敵であるという時代がきたというふうに考えました。

北米自由貿易協定に抗する1994年1月1日の
サパティスタの蜂起
それで、その2年後に起こったのが、メキシコ南東部のチアパスにおけるサパティスタの叛乱であるというのは必ずしも強引な結びつけ方ではないと考えています。武装蜂起という形をとった、先住民主体の叛乱でした。メキシコはご存知の通りメスティーソ、混血の人たちがかなりの割合を占めています。州によっては先住民人口も非常に多い国です。少数エリートの白人が当然のことながら特権階級としてピラミッドの頂点にいて、その中間に分厚い混血の層がいて、これは様々な形で中央権力や地方権力内で上昇したり、人間的に結びついた分厚い層を形づくります。そして、一番下の層に先住民の人たちがいる。先住民はメキシコに限らずラテンアメリカ全部がそうですが、社会全体の中で、いまだに徹底的な人種差別の対象となっています。
こともあろうに、その先住民の人たちが武装して、黒い覆面をして、目だけ出す帽子で、チアパスの主要都市を占拠して、メキシコ中央政府とチアパスの地方政府に対する抵抗の意志を表示したわけですね。
一つは、中央政府に対してはグローバリゼーションに反対する。ソ連崩壊のあたりから世界中で使われ始めた言葉ですが、グローブ、地球をグローブ、球として表現する、動名詞化してグローバリゼーションとなる。一つになる、地球が一つになる。それが何を意味するかというと、市場原理、資本主義的な市場原理によって一つになるということを意味したわけです。つまり、この我々の人間社会を決めるのは市場原理である。市場の中でどっちがいい物として選ばれるか、品質において、価格において、どれが選ばれて、どれが淘汰されていくのか。それに委ねていけば人間の社会は丸く治まるんだ。社会主義なんて夢のようなことはもうやめて、この市場原理に委ねればよいというのが、つづめていえばグローバリゼーションの考え方です。
その一つの現れが自由貿易協定という形で、いま世界で様々な形で試行錯誤されています。このサパティスタが蜂起した1994年1月1日には、もう各国議会で条約調印・批准も終わって発効しようとしていたのが北米自由貿易協定、カナダとアメリカとメキシコ3国間の自由貿易協定です。多国間、この場合は3国間ですが、自由貿易協定の先駆けですね。これはどういうことかというと、15年間、94年からですからもう過ぎてしまいましたが、15年間の移行期間を置いて3国間の関税障壁を撤廃するということです。自由貿易は市場原理に非常に叶った考え方ですね。保護貿易をやって自分たちの特産物を保護して、輸入品に関税をかけて自国品を有利に保とうとする、そのような時代は終わったんだと。世界は国境を越えた経済活動の時代になったのだから、もう全部その障壁を撤廃しようという考え方ですから、例えばメキシコのような第3世界の中では経済規模は大きいとはいっても、アメリカのような超大国と経済競争をやったら明らかに負けるわけです。
アメリカは農業大国で集約的な大規模農業をやりますから、そこで作っている小麦とかトウモロコシとか、そうしたものとメキシコのトウモロコシが勝てるはずがない。価格競争をやって、事実メキシコのトウモロコシはこの15年の期間を経て、いまや惨憺たる状況です。トウモロコシで食っていた農民はもう食えなくなった。しかもトウモロコシというのは、メキシコの人たちの文化的なアイデンティティーにも繋がるような重要な作物なのです。大切な日常食品であり、神話・伝説の世界から大事な産物として、貴重な物として扱われてきているのですから、いわば文化としてのアイデンティティーを破壊することになってしまう。しかしそんなことにおかまいなく、自由貿易協定というのは市場原理に基づいてやっていこうという考え方ですから、そうなってしまうわけです。
メキシコ憲法はロシア革命と同じ1917年に制定された、世界でもきわめて先駆的な、ある種の進取性を持つ憲法でした。そこでは先住民の共同体的土地所有を破壊しないように、外国資本に売ることを禁じている憲法規定があったんです。しかしアメリカとカナダと自由貿易協定を結ぶためには、その憲法の規定は阻害物になるわけですね。アメリカは変更を要求する。そうすると憲法を変えて、土地も売り買いの対象にできることにしたわけです。北米自由貿易協定を結んで以降、土地は先進国の食肉需要を満たすための牧草地として売られてしまうわけです。これが現在TPPとして進行している自由貿易協定の本質なわけですね。あとは時間がないので触れませんが、経済生活の在り方を根底的に変えてしまうだけの、そういう暴力的な要素をたくさん持っているわけです。
サパティスタは、これは自分たち先住民族に対する死刑宣告であるといって、これに反対するスローガンを正面から掲げました。あと国内的には、地方政府に対しては、住宅から、教育から、医療から様々な要求を掲げました。グローバルな要求とローカルな要求を、きわめて象徴的に組み合わせた非常にユニークなスローガンがこの時見られました。

ユニークで巧みなメッセージと
軍事至上主義をとらない叛乱
あと時間がないのでもう箇条書きのような説明になっちゃいますが、僕が文章を読んでいて面白かったのは、対外的なスポークスパースンであったマルコス副司令官というのは、都会の大学の教師もやっていた哲学の教師のインテリでした。それで、頭にマルクス主義を詰め込んだ十数人ぐらいの左翼が、都会からメキシコのもっとも貧しい先住民の農村地帯に行ってオルグをしようとしたというのが、1980年代初頭の発端となった動きです。都会での武装闘争に敗れて、これ以上メキシコの都会で闘争を展開しようとしても、展望は切り開けないだろうと。19世紀ロシアのナロードニキ(人民主義者)が「ヴ・ナロード」(人民の中へ)といって農民の間に入っていったように、20世紀メキシコの都会のインテリたちもチアパスの農民のところへ入っていったわけです。
結果的には、面白い組み合わせがそこでできた。一方的にマルクス主義を外部注入しようとしたマルコスたちは、それはそううまくはいかない現実にチアパスの山岳部で気づいたわけですね。そこで生き延びるために、先住民から、日常的に何を食うか、どの草木が食えるか、どの小動物をどういうふうに退治するかというようなことを含めて、学ぶ日々になっていった。それが僕の言葉でいえば、マルクス主義と先住民世界の自然哲学を含めた哲学・歴史観の類いまれな融合があって、そこで一つの今までのヨーロッパ・マルクス主義とまったく違うものが生まれた。先住民社会だけで育まれた世界観とも違う、不思議なサパティスト用語ができ上がって、それがメッセージとして発信された。きわめてユニークな言葉遣いと発想をもって歴史と現実を語りかけるスタイルが生まれたのです。すでに見た左翼の敗北情況は、それが用いる陳腐な政治言語によっても象徴されていましたから、それはヨリいっそう魅力的な響きをもって、人びとの心に訴えるものがあったのだと思います。
それと、武装蜂起をしながら、軍事至上主義ではなかったというのが、20世紀の様々な闘争とまったく異なった点だったと思います。武装蜂起といっても、アンダーグラウンドの武器市場で様々な武器を買うだけのお金もなかったし、ごくごく貧弱な武装でしかなかったわけで、政府軍が応戦した段階で彼らはまたジャングルの奥深く撤退してしまった。それですぐ政府に政治交渉を呼びかけたわけです。
その政治交渉の呼びかけ方が、文体からメッセージの発し方から非常に巧みであった、人の心を、世論を引きつけるやり方であった。それは国内世論ばかりか、もうインターネット時代に入りつつありましたから、スペイン語で発せられたその文章が、すぐに例えばテキサスとかカリフォルニアとかに伝達される。つい150年前まではメキシコ領であったカリフォルニアやテキサスには、たくさんのバイリンガルの人たちが住んでいるわけです。スペイン語が話せる人たちがたくさんいるわけで。その人たちがすぐインターネットで、英語に翻訳して、世界中にメッセージを伝達したわけです。このメッセージは、僕自身にとってもそうだったけれども、世界でそれを受け止める人にとっては、メキシコというごくごく世界の一地点から発せられたメッセージでありながら、きわめて世界的で普遍的な内容であったということをすぐ感知することができた。
それは先程言ったように、一つにはグローバリゼーション、新自由主義、あるいは市場経済の在り方、何よりも自由貿易協定に対する明確な「ノー」のメッセージがあったからです。当時世界は日本を含めてヨーロッパ、世界中の人々が同じような問題に直面していた。ソ連崩壊後の時代の中で、このまま自由市場経済が世界を制覇するという時代趨勢の中を生きていたわけですから、これに一体どうやって対抗するのかということが、地球上の誰にとっても大きな問題になっていた時に、彼らが発するこのメッセージはきわめて有効な指針を示すものであったというわけですね。
あと、民主主義を確立するための志向性というか、それが明確にあったということができるわけです。これは軍事至上主義でないということと関係するんですが、軍事至上主義であれば、解放軍であれ、ゲリラであれ、赤軍であれ、やはりその軍事力に頼ることになる。政府軍と戦っている時はいいかもしれない。武装している政府軍と戦って軍事的に勝利した段階で、そのあとの社会をどうやって建設するか。そうすると、今まではロシア赤軍も中国人民解放軍も全てそのまま政府軍として、国家の軍隊として改変されるわけです。かつては抵抗の軍隊として効果が発揮された軍事力は、今度は、新しい革命国家を名乗ろうと、社会主義国家を名乗ろうと、新しい権力機構の一部を成すわけです。明確に国家権力の一部として新しい軍隊は機能する。それがロシアの赤軍の場合に、中国の人民解放軍の場合に、どのように革命後の社会において機能したかというのを私たちは知ってしまった時代に生きているわけです。

前衛主義と無縁な、
あるいは権力を握ることを拒否する考え
では、サパティスタはどういうふうに考えたかというと、メキシコ全土に呼びかけて数千人もが集まって、何らかの討議をする会議を行います。そうすると、全国各地から集まる人たちに対して、自分たちは武力的にも有利な立場に立つ。だから自分たちは参画する権利、あるいは投票する権利を1人か2人に限定する。武装しているサパティスタが、ごくごく少数でしかないという形を一貫してとりました。
これは国際会議の時もそうでした。蜂起から2年後の1996年に、「人類のために、新自由主義に反対する大陸間会議」というのがチアパスで行われて、世界から数千人が集まりました。僕も参加していたのですが、そのとき60年代のベネズエラやペルーの武装ゲリラの指導者と会って話をしました。彼らが一様に言っていたのは、サパティスタは民主主義ということを本当によく考えている。自分たちがゲリラ闘争をやってた時にはまったく考えもよらないことを実践している。自分たちのゲリラはきわめて非民主的なもので、それでよしとしてやっていたけれども、やはり時代の変化というのはそれだけの価値観の転換というものが行われて、自分たちは今サパティスタたちから学ぶところが非常にある、ということを言っていました。それは、僕がその会議に出かける前、サパティスタ蜂起のニュースを聞きながら一年半の間できるだけたくさんの文章を書こうと思って分析をしたり話をしたりしていましたが、そのとき感じとっていた問題意識とまったく同じものでした。つまり前衛主義とは無縁だということにも辿り着きます。
日本にも、1960年以降様々な新左翼党派の潮流がありましたが、それは非常に前衛主義的な思考の、自分たちが革命の主体になってやれば全てがうまくいくという――どこまで本人が信じているか分からないけれど――ともかく政治言語としてはそのように主張する人たちが圧倒的に多かった。世界でもそういうのが主流を占めていた。だから、そういう個人が参集している党派が独裁的にふるまう、20世紀的な社会革命の末路を見てしまったわけです。
これを繰り返さないで、なおかつ現存する世界秩序を変革するためには、どのような運動論が必要なのか、どのような哲学が必要なのか。そのとき、前衛主義の克服というのは当然のことながら課題にならざるを得なかった。そうすると、様々な異なる課題を持った、それぞれの社会運動が一つの社会空間を、一つの共有空間を形作って、そこで繰り広げられる運動の可能性に賭けるしかない。これは、先ほどアナキズムへの思いを語りましたが、きわめてアナキズム的な考え方であるというふうには思います。
一つの党がある、あるいはきちっとした、それを軸にした思想、運動組織があってそれを中心に回っていくという発想ではなくて、様々な課題に取り組む社会運動体が構成する空間によって、その社会が本質的に変わっていく。だから権力を持ちたいと思わない。今ある権力を打倒して、自分たちが権力を握ろうという問題提起ではない。権力の問題は一切口にしない。そうではなくてその共同空間を形づくる社会運動の多義的な存在によってどれだけ豊かな空間がつくることができるか。これは実際にやってみた上での試行錯誤でなければできないことです。
僕が確信的なアナキストになれないでいるのは、小集団の中での、小グループの中でのある種の権力なき一つの社会形態というのを夢想することはできるけれども、それが何万人になった時、何十万になった時、1億3千万人になった時、60億になった時、一体それがどういうふうに可能なのかということが、具体的には見えないからです。
だから、冒頭に触れた権力志向の社会主義の失敗を繰り返さないで、なお人類史的な夢を、資本主義に変わる夢を抱こうとすれば、そういう権力なき空間、権力を行使しない、非権力、無権力の空間がどのような社会関係の中でできるのかということを、困難な課題として追求するしかないだろうと思います。
サパティスタに触れる時間がきわめて短くなりましたが、そのような意味において、サパティスタの持つアナキズム的な志向との共通性を感じるが故に、これからも注目し、何らかの発信を続けていきたいと思っています。彼らの蜂起から22年経ちました。いま彼らは対外的な発信をかつてほど頻繁には行っていません。蜂起から22年経ったということは、蜂起以降生まれた人たちが20歳を過ぎつつあるということです。自分たちが自主管理している共同体の内部で、教育や医療や生産、そうしたものをどのように可能にするのかという内部の問題が重要な時期にさしかかっているからです。いったい何十万人が自主管理区に暮らしているのかを彼らは明らかにしていません。法律的には、サパティスタも政府軍も武力を行使しないという取り決めがあるので、それをメキシコ政府が犯さない限りは、サパティスタは自分たちの管轄地域を維持することができるのです。それは、いわば「持久戦」ですから、なかなか困難な時期を迎えているとは思います。
世界的に見て、左翼はなぜ敗北したのか。この状況下にあってなお、世界秩序の変革を志すためには、何が必要なのか。サパティスタは、それに対するひとつの応え方を示しながら存在しているのだということを繰り返し述べて、終わります。

(2016年9月17日)
(おおたまさくに・民族問題研究、シネマテーク・インディアス)

在日朝鮮人の運動との〈接点〉をたどる ━ 山さんと一緒にやったこと

山岡強一虐殺30年 山さんプレセンテ! 第4回

平野良子(東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議)

池内 今日は、「東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議」の平野さんに「在日朝鮮人の運動との〈接点〉をたどる」というテーマでお話をうかがいます。
山岡さんは、船本洲治の思想を凝縮して「流動的下層労働者と被植民地人民との闘いの水路構築」という路線をうちたてるのですが、それに沿って、在日朝鮮人はなぜ「在日」でいなければならなかったのかという問題を含めたかたちで、下層労働者問題について考えていたと思います。
日本の戦後政治史での大きな転換点といわれる「55年体制」(自民党の保守合同、社会党の左右統一、春闘という経済闘争への一元化)は、実は在日朝鮮人の社会にも連動していて、前年(1954年)の朝鮮労働党による「海外公民規定」などを経て、大雑把にいって、在日朝鮮人たちは南の民団(在日本大韓民国民団)と北の総連(在日本朝鮮人総連合会)の2大民族組織に振り分けられてしまう。
ただ、「北」と「南」に分かれたといっても、実際にはそうした組織からこぼれ落ちる人もたくさんいるわけで、寄せ場や飯場にいて、そこから働きに出る人の中には在日朝鮮人もかなりの数がいると思います。もちろん寄せ場には、在日朝鮮人だけではなく、日本人の農村出身者や炭坑出身の労働者、あるいはウチナンチュー、シマンチューも、それぞれの事情を抱えて流れて来ている。けれども在日朝鮮人の場合は、かつて日本が朝鮮を併合し植民地化していたこと、そして多くの朝鮮人に対して強制労働を含めた徴用をしてきたという過去があるため、寄せ場で運動を進めていくと、どうしてもその問題にぶつからざるを得ない。今日の話にはそうした背景があります。
先ほど、平野さんのことを「東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議」というところに所属されていると紹介しましたが、まず平野さんご自身の在日朝鮮人問題との出会いと、「支援連」の活動、そして寄せ場との関係についてお話しください。

◆…◆…◆

平野 今日、みなさんに配布されたチラシのわたしの肩書に対してちょっと奇異に感じられた方がいらっしゃるんじゃないかと思います。今ご覧になった映画『山谷やられたらやりかえせ』あるいは監督の山岡さんと「支援連」とどういう関係があるのかと。それは追々お話しするとして、わたしもこの肩書で話をするのは本当に久しぶりで、この前はいつだったか忘れちゃったぐらいです。でも、今でも週に1回は「反日」の獄中者の一人に面会するため東京拘置所に通っていますし、地を這うような長い、長い、救援活動はずっと続けています。
在日朝鮮人問題との出会いということで言いますと、きわめて個的な体験からでして、それは大島渚監督の『忘れられた皇軍』というテレビドキュメンタリー(このドキュメンタリーは1963年に放送されたもので、その時点で観たわけではないのですが)について、『日本読書新聞』という書評紙に、宮田節子さんという朝鮮史の研究者の方が書かれていた記事を読んで、その事実に大変衝撃を受けたからでした。
今の若い方は、その姿を見たこともその光景に遭遇したこともないと思いますが、わたしの子どものころは、街頭や駅前、あるいは電車の中で、白衣を着て兵隊さんの帽子をかぶった、目が見えなかったり、片手片足をなくしたりといった人たちが献金を乞う姿をよく見かけました。当時、「傷痍軍人」と呼ばれていた人たちです。わたしが、そのドキュメンタリーのことを知って衝撃を受けたのは、そこに登場していた十数人の傷痍軍人が全員在日朝鮮人だってことを知ったからでした。と言うのは、先ほど池内さんも言ってたように、戦前日本は朝鮮を植民地にしていて、朝鮮人は「日本人」として扱われていたんです。朝鮮の人たちの現実は、言葉を奪われ、土地を奪われ、あらゆるものを奪われて、しかも成年男性は「日本人」として徴兵され、戦争に駆り出されたわけです。その結果、戦死した人も沢山います。負傷して帰還した人も沢山いました。けれども、その人たちは、戦後、もはや「日本人」ではないという理由で、日本政府は何の補償もしなかったのです。その人たちは、祖国の韓国政府にも訴えたのですが、それは日本の統治時代に施行されたものなのだから、日本が当然補償すべきものだと応じなかった。つまり、どちらの国の政府からも補償を受けられなかったわけです。
わたしは、『忘れられた皇軍』というドキュメンタリーで、その問題を初めて知って本当に驚きました。知らないということは本当に恐ろしいことだと思いました。そしてこれが日本という国はなんて駄目な国なんだろうと思った、最初の体験でした。そしてわたしは、この問題を知ったことがきっかけとなって、もっと朝鮮のことを知りたいと思うようになり、友人と学習会を始め、朝鮮の歴史などを勉強することになったのです。
その頃のことなのですが、わたしは1975年5月19日付の新聞で、前年8月30日に起きた三菱重工ビル爆破事件の容疑者として「東アジア反日武装戦線」を名乗る8人(1人は逮捕されてすぐに自殺しているので、実質的には7人)の人が逮捕されたという記事を読みました。この事件では、8人の死者と二百数十人の重軽傷者を出しているということもあって、容疑者たちに対して凄まじい批判が浴びせられていて、報道も然りだった。わたしはその時まで、「東アジア反日武装戦線」という組織について全然知らなかったのですけれど、あまりにも報道が酷いものだったので、容疑者とされた人たちは一体どういう人たちなのだろう?と逆に興味がつのり知りたくなったんですね。
たまたま「東アジア反日武装戦線」の救援会に関係していた知人にもらったパンフを読んで、三菱・三井といった財閥が明治時代から政府の後押しを受けて、武力による朝鮮や台湾への植民地侵略に加担していった〝死の商人〟であり、鹿島・大成・間組などのゼネコンは朝鮮人・中国人を強制連行したり徴用して、過酷な労働を強いたうえ多くの労働者を殺してきたということ、つまり、事件の動機は、日本が植民地支配に対する責任を全くとっていないということに対する警告と、また、それがアジアの人びとに対する日本人としての自分たちの責務だということ、そういう思いで起ち上がったのだということを、わたしは知ったわけです。彼らの闘いの方法には必ずしも賛成ではなかったけれど、問題意識には非常に共感するものがありました。
新聞報道などから極刑・重刑が予想され、日本の国家に彼らを裁く資格があるかという思いもあって、彼らのことがとても気になったわたしは、1977年6月頃、救援会の事務所を訪ねました。来年で40年になりますけれど、わたしはその時から救援活動にかかわるようになったのです。
池内 逮捕された人の中には黒川芳正さんという人がいて、彼は山谷で支援活動をやっていたのですが、それはご存知でしたか。
平野 知りませんでした。
池内 山岡さんのことに話を引き付けたいのですが、山岡さんはたぶん60年代の末に北海道から上京してきて、山谷や釜ヶ崎に入っているんですね。そして72年に山谷で現闘委(悪質業者追放現場闘争委員会)を仲間たちと作って激烈な闘争を始めている。しかし間もなく沈滞期に陥っています。そして今、平野さんがお話になった75年5月に「東アジア反日武装戦線」のメンバーが一斉逮捕された、その直後の6月25日には船本洲治さんが沖縄で焼身自殺をしている。それから4年後の79年6月9日には、磯江洋一さんが「船本さんが亡くなって5年目を黙って迎えることはできない」と単身決起して、山谷のマンモス交番の警官を刺殺しています。もちろん、船本さんも磯江さんも、山岡さんとは寄せ場の闘争において同志的な関係の間柄だった。
この磯江さんの単身決起後、「6・9闘争の会」というのが作られ、しばらく沈滞していた山谷の現場闘争が再開されてくる。その頃、山岡さんや「6・9闘争の会」の人たちが平野さんたちのところに相談に行っていますよね。その相談の内容ってどういうものだったんですか?
平野 磯江さんが単身決起された1ヶ月くらい後だったかなあ、「6・9闘争の会」の人たちがわたしたちの救援会の事務所にやって来て、「あなたたちは救援のノウハウを知っているのだから、磯江さんの救援もやってほしい」と依頼されたんですね。でも、その時、わたしがちょっとムッとしたのは、「オレたちは救援の会ではなく、闘争の会なんだ」ということを強調していたことでした。これを言ったのは、もう亡くなりましたけれど南さんという人でした。南さんはお酒を飲んでいて、いい調子でよくしゃべる人だった…(笑)。でも考えてみれば、一緒に闘ってきた大事な仲間である船本さんを失い、翌年に鈴木国男さんが大阪拘置所で殺され、今度は磯江さんが敵の手に捕えられるという無念を思えば、南さんがとてもシラフでは語れなかったのだろうという気持ちもわかりますけど。
池内 救援会の事務所はどこにあったんですか?
平野 南千住です。「6・9闘争の会」の事務所も同じ町内のすぐ近くで、いわばお隣さんでした。
池内 山岡さんはその場にいたんですか?
平野 いたと思いますけれど、山さんはあんまりしゃべらない人でしたね。わたしがその時ムッとしたのは、彼らのなかに「闘争の会」に対して「救援会」を下に見てる感じがあったからなんです。でも言わせてもらうと、「反日」の救援活動というのは、そんな生易しいものじゃなかった。彼らは東京拘置所に移されてから分離公判に反対したり不当な処遇に抗議したり、獄中闘争を果敢に展開し始めて、それに対する弾圧もすごかったし、77年の夏までは接見禁止だったから、獄中―獄外の意思疎通を図るのも大変でした。まだ地下に潜って逃げていた人たちもいたので、救援活動などをやっている者は残党じゃないかと権力側は思っていたんでしょうね。だから、電車に乗ると公安が必ず付いてくるし、何か起きると事務所も自宅アパートもガサ入れ(家宅捜索)された。職場や友人、親元にも公安がうろついていた。そういう日々緊張状態の中でやっていたんで、救援をそんなに甘く見てもらっちゃ困ると、わたしは強く思いましたね。それが山さんたちと最初に会った時の印象でした。
池内 不幸な出会い?――で、結局、どういうことになったんですか。
平野 その年(79年)の11月に「反日」の人たちの一審判決があったのですが、大道寺将司、片岡(益永)利明くんの2人が死刑、黒川くんは無期、荒井まり子さんは何もしてないのに懲役8年といった予想通りの極刑・重刑判決だった。さっき池内さんが言われたように、黒川くんは以前、山谷の支援として「底辺委員会」というところで活動していて、山さんも知っていたし、他にも何人か山谷にいたことがある人がいたので、抗議集会を山谷でやってくれないだろうか、と今度は逆にわたしの方から「6・9闘争の会」に頼みに行きました。そしたら「いいよ」ということになって、その年の12月に「東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃に抗議する集会」を南千住駅近くの荒川第2出張所でやりました。そして、79−80の越年・越冬闘争に参加したのが、わたしの山谷との関わりの始まりでした。
池内 平野さんは、そういう流れで山谷に関わるようになったことが分かりましたけれど、その一方で79年10月から11月にかけて韓国で起きた「南朝鮮民族解放戦線」(南民戦)という組織のメンバー80人が逮捕・拘束されるという事件の支援と救援にも関わっていますよね。ちょっと当時の韓国の政治・社会状況に触れておくと、同時期に釜山や馬山で市民・学生が中心になった反独裁・民主化の大闘争が起きている。その渦中の10月26日には朴大統領が側近に射殺され、ソウルでは学生たちが決起して大反乱が起き、それが光州の蜂起につながっていくという、そういう非常に激動の時代だった。そんな状況下で「南民戦」という組織の弾圧も起き、平野さんはその人たちへの支援・救援組織を作って積極的に活動していくわけですね。
どういうきっかけで、その会の立ち上げから関わるようになったのですか。
平野 これも「反日」の時と同じように、新聞の記事を読んで知ったのがきっかけです。
池内 それって一般紙に載りましたっけ?
平野 あ、それは韓国の新聞です。日本の新聞じゃありません(笑)。わたしは当時習っていた朝鮮語の先生を訪ねて74年に初めて韓国に行ったのですが、その時に食事に入った店で、わたしが「朝鮮」という言葉を使ったら、「韓国では朝鮮って言葉を使うのはダメですよ」と忠告されたんですね。それなのに韓国の新聞で報じられた「南朝鮮民族解放戦線」の人たちは、「朝鮮」という語を堂々と使っている。なんて無謀な人たちなんだろうと、その組織名と人数の多さを見て衝撃を受けたのを覚えています。韓国の弾圧史上でも未曽有の事件でした。起訴されたのは73人でしたが、その経歴を見ていくと、あのすさまじい朴軍事独裁体制に対してさまざまな持ち場で民主化闘争を担い、また韓国の都市・農村の底辺でしいたげられた民衆とともに働いてきた人たちで、79年の夏以降、民衆の激しい抵抗闘争に恐れをなした朴政権が一網打尽にしようとしたことがわかってきました。
「これはなんとかしなくちゃ」とわたしを突き動かしたのは、「反日」のときと同じように「この人たちを闇に葬らせてはならない」「この人たちとつながっていきたい」という直感のようなものだったと思います。「なんとかしなくちゃ」と言っても「反日」の方もこれから控訴審という大事な時期で手を抜けない。実は「反日」の救援会は、81年の初めに「支援連」に移行してから若い人たちが次々と入ってきて支援体制も広がってきていたので、その人たちに任せてわたしは88年12月に「南民戦」の人たちがすべて釈放されるまで、その救援運動を続けることになりました。「南民戦」事件では、死刑判決を受けた2人のうち1人は処刑、1人は獄死、釈放直後に1人が病死という犠牲を払いましたが、この救援運動を通して学んだことはとても大きかったと思います。
「反日」の救援からは一時退いたとはいえ、獄中の彼らの刑が確定して若い人たちがそれぞれの場所に戻っていったら、私はここに戻ってくるつもりでした。実際、87年3月の確定判決から来年で30年になりますが、わたしは今も彼らの救援の場に立ち続けているし、80年代に全国から集まってくれた当時の若い人たちとは今もニュースなどを通じてつながっています。
池内 「南民戦」の活動にも、山岡さんは強い関心を持っていたようですが、その時に山さんと何か話をしたことがありますか。
平野 あまり話した記憶はないけど、山さんはいつもいるべきところにちゃんといてくれるという安心感はありました。判決に抗議するハンストをやってると、いつの間にか山さんがそこに座っているということがよくあったし、パネルディスカッションのパネリストとして発言してくれたこともありました。山さんとは、そういうふうな関わりでしたね。

◆…◆…◆

 池内 81年に「在日朝鮮人獄中者救援センター」というのを、平野さんは山岡さんたちと一緒に立ち上げていますが、そのことを。
平野 わたしが在日朝鮮人運動、あるいは韓国の反体制運動にかかわって、山さんと一緒にやったのは、さっきの「南民戦」救援会と後で触れる「解放を求めるアジア民衆の会」、そして「在日朝鮮人獄中者救援センター」ですが、わたしが今日、一番話したいのはこのセンターのことです。ちょっと乱暴な括りになるかもしれませんが、「南民戦」救援会も「アジア民衆の会」も広い意味で日本が犯してきた歴史的・現在的な責任を問う運動の一環だったのに対して「在日朝鮮人獄中者救援センター」はそういう運動の側面を持ちつつも、「誰とともに」「どういう運動をつくるのか」がリアルに鋭く問われていました。そこで体験した「失敗の教訓」は今の運動にも必ず生かされるはずなので、あえてお話ししたいと思います。
70年代終わりから80年代にかけてという時代は、三里塚闘争とか爆弾闘争、あるいは山谷の闘いで逮捕された人たちが、警察の留置場や拘置所に数多く勾留されるようになり、もともとはほとんどが一般刑事犯で占められていた留置場や拘置所内で相互に交流する機会が増えたんですね。そうした中で「獄中者組合」が作られ、「氾濫」という機関誌も発行されるようになりました。これは東京拘置所の例なのですが、刑事犯と政治犯とは扱いが違うんです。例えば、刑事犯には筆記用具を房内で所持することは認められていなくて、手紙を書く時などはいちいち看守に申し出てボールペンなどを借り、別室に行って書かなければならない。そういう規則があった。獄中者組合の当局に対する最初の要求というのは、「筆記用具の房内所持を認めろ」ということだった。そういうことから政治犯と刑事犯との交流が生まれました。
1975年10月24日付の「氾濫」に、在日朝鮮人のH・Pさんが「日本人にとって朝鮮人とは何か? 答えられるなら答えてください」という問いかけをした一文を寄稿しています。その文章の最初の部分を紹介します。

「私はちょうど30歳になりました。その間前科3犯になり、獄中生活も7年を越し、現在約5年の一審判決を加えると12年にも達します。無期刑を区切ってつとめているのと何ら変わらないのです(彼は「とびとび無期」という言葉を生み出した)。私の事件の現出した部分のみを見るならば、労働意欲の全くない、遊興費ほしさの、極悪非道な犯罪かもしれない。しかし私の犯罪の包含しているものは、これまでの民族差別による歪められた人間形成=日本人社会への反抗=罪悪感を抱かないという感情を持つ人間に形成されたこと、このことが諸悪の根源であると考えられるのです。…」

つまり、このH・Pさんの文章は、いかに幼少の頃から日本人に虐められ、差別されてきたかということを述べているものであり、そのことについて「お前ら日本人はどう思うのか?」と問題を突き付けているのです。
この文章を読んだ「反日」の獄中者で浴田由紀子さんという人が、「私たちの闘いは差別・抑圧された朝鮮人をはじめとする下層人民に届いていなかった。あなた方と合流できるよう闘い続ける」という手紙を次号の「氾濫」に書いている。
そしてこの浴田さんの手紙に応え、H・Pさんは「闘いこそ出会いの時を作る」と題して概略次のような返事を寄稿している。「…誰もが冷たいと言って渡れなかった川……水際でバシャバシャと水を浴びることによって、朝鮮問題をはじめとして、他の被抑圧民族のこともやりましたという『左翼』としての洗礼を受ける日本人と違い、体を張って渡ろうとした。いや、今ははっきりと渡ったと言える。渡ったんだ。その河を渡って体の濡れた者に『冷たかったでしょう』という言葉はいらないと思う。だまってその濡れた手足を拭き、凍っている手足を温め、〈さあ、一緒に撃とう〉という行為だけが必要なのです」。
わたしは思うんですけれど、H・Pさんが自分の主張、訴えを正面から受け止められた経験というのは、おそらくこれが初めてだったのではないかと思うんですね。
H・Pさんが出獄したのは、たぶん80年だったと思いますが、彼は出て来てすぐに「在日朝鮮人獄中者救援センター」を作りたいと、仲間たちに呼びかけて立ち上げるんですね。その動機には、出獄者に対して、これは日本人の出獄者に対してもそうなんだけれど、特に朝鮮人の場合はもっと根源的な差別があるので、出獄後まず就職が難しく、生きて行く術がないという問題があります。自分自身がそのことを経験してきているので、同胞の出獄者がそういう大変な経験をしないですむように、アパートを借りて、そこで靴製造の作業所を開く準備を始めた。仲間が出てきたら、手に職をつけさせて、何とか生きる術にしようという思いからでした。
池内 「救援センター」を作った理由の1つには、出獄者が社会に復帰してから再犯を起こさないような状況を自分たちで作っていこうということですね。そのことについて、山さんとその辺の具体的な話をしたことはありますか。
平野 これはわたしも本人から直接聞いた話なのですが、「シマンチュー」と呼ばれていた奄美大島出身のMさんという獄中者がいました。彼は幼い頃、家族と共に沖縄本島に移住しているのですが、沖縄でも「大島、大島」と言われて差別されていた。それでヤマト(日本本土)に集団就職するのですが、そこでも差別を受けた。そういう生い立ちをしたMさんが、どういう犯罪を起こしたのかは分かりませんが刑に服す。そして出獄するとすぐにまた犯罪を起こして再犯で入獄します。その時に山岡さんと出会うのですが、Mさんに山岡さんが送った手紙が残っていて、その手紙が山さんが殺されて10年後に刊行された遺稿集『山谷 やられたらやりかえせ』に収められているんですね。その手紙の抜粋をちょっと読みます。

「山谷の労働者は、よくグウタラな、怠け者と言われます。しかし、山谷で暮らすと、そうしたレッテルでは、山谷の事を何も語っていないことを身に沁みて解ります。山谷の人間は、政府の農業・産業政策によって、農業を捨て、炭鉱から追われた人たちであり、また日本の大資本によって海や土地を奪われた沖縄やアイヌの人たちであり、更に戦前・戦中日本帝国主義の植民地支配によって日本へ出稼ぎに来ざるを得なかったり、人間狩りの強制連行によって日本の飯場や工場・鉱山へぶち込まれ、日本の敗戦後もいろいろな事情で帰国できなかった人たち等によって、山谷―寄せ場の住人は構成されています。ということは、寄せ場の人間にとって、帰るべき所を奪われているか、帰るにも帰れない事情が、必ずあるということです。Mさんにも、そうした事情があると思います。自分の力だけでは、どうすることもできない事情です。そして、このことは寄せ場の人間に共通する問題ですので、この問題こそ、私たち弱い立場の者を結びつける要素であると考えます。」

山さんは、こうした考え方を持っていたからこそでしょうが、「在日朝鮮人獄中者救援センター」の会議などには必ず来ていました。
池内 センターでは、張明秀さんの強制送還阻止の闘いを、山さんと一緒にやられました。
平野 そう。センターの発足当初の取り組みは、朝鮮籍の張明秀さんの韓国への強制送還を阻止することでした。在日朝鮮人2世の張さんは、松本少年刑務所に8年、大村入管収容所に5年近く収容された上、その「犯罪歴」のゆえに、本人の意志に反して、全く生活基盤もなく、命の危険さえ伴う韓国に強制送還されようとしていました。ここには2つの大きな問題があります。その1つは少年法該当者に対する苛酷な措置だったこと、もう1つは張さんが「法126号」該当者だったことです。「法126号」というのは、日本の植民地時代から在留する朝鮮人の中で、戦後処理の曖昧さとして、「別の法律で定めるまで」在留資格と期間を定めずに在留できるという「例外規定」です。126号の子孫(張さんもそれに当たります)には明確な在留資格が与えられていないために、細かな「退去強制理由」を盾に絶えず国外退去の危険にさらされてきました。張さんは地元が静岡で、入管の管轄は名古屋だったので、仮放免後の毎月の出頭時には東京からも応援に駆けつけて、入管当局と粘り強い交渉を重ねた末に、83年の10月に張さんの強制送還は阻止できました。それがセンターの取り組みの大きな成果の1つです。

◆…◆…◆

 池内 83年というと、その間に山岡さんは「日雇全協」(全国日雇労働組合協議会。82年6月結成)の結成に尽力している。先ほど平野さんが紹介してくれた山岡さんの「Mさんへの手紙」でも分かるように、山岡さんは、寄せ場が置かれている状況というものを考え、それとの闘いに専念していただけではなく、獄中者の救援についても強い関心を持っていたことが分かります。例えば「〈寄せ場―暴力飯場―精神病院―監獄〉を貫く闘いの陣形構築」と山岡さんは言っていますが、何民族であろうと、下層に置かれていると、この「還流構造」の中に巻き込まれやすい。特に在日朝鮮人の場合は、日本社会に抜きがたい差別があるので、その「還流構造」の中に流されやすいということがあります。
時間が無くなってきたので少し端折りますが、山岡さんは86年1月に殺されてしまうわけですけれど、その前年10月に「解放を求めるアジア民衆の会」という組織を立ち上げるための準備会をもっていますよね。「在日朝鮮人獄中者救援センター」からの流れと考えてもいいですか ?
平野 「アジア民衆の会」は、83年から国際基督教大学(ICU)に韓国から留学していた金明植さんの指紋押捺拒否からビザ更新不許可処分に対する反対運動に始まり、「アジア民衆法廷」をやろうというふうに発展していったもので、「獄中者救援センター」の流れとは(人的なつながりは別として)あまりつながってないんですよ。山さんは「民衆法廷」をとても積極的に考えていて、明植さんも交えてずいぶん討論を重ねてきましたが「民衆の会」結成集会の直前に殺されてしまったのです。
「在日朝鮮人獄中者救援センター」の話に戻ると、83年に内部の非常に深刻な事情により閉じざるを得なくなったのです。確かに山さんと一緒にやった活動なのですが、僅か3年くらいしかやらなかったことを、山さんと一緒にやりましたと言うのもすごくおこがましくて、躊躇するところもあるんですね。でも、こういうことがあったということも、今ではあまり知られていないだろうと思うし、ほんの僅かの期間だったとはいえ、寄せ場と繋ぐ試みをやっていたってことは憶えておいてもらってもいいかなとは思いますが。
池内 今度の「山さん、プレセンテ!」という集会には、平野さんだけではなく、今日も来てくださっていますけれど、山谷で山岡さんと一緒に闘っていた人たちにも加わってもらい、「総括」という大げさな言葉は使いませんが、自分たちが実際にやってきたこと、残したいこと、あるいは失敗したことなどを出来るだけ検証して、現在に繋げたい。若い人たちや、いま実際に運動をやっている人たちに伝える、というより、役に立ちそうなものがあったら勝手に持ってってね、という感じなんですけど…。
最後に平野さんが今日一番話したかったと言っている「在日朝鮮人獄中者救援センター」と、その後について、もう少しお願いします。
平野 さっき非常に深刻な事情でセンターを閉じざるを得なくなったと言いましたが、その要因にはH・Pさんがかなり深く絡んでいるんですね。彼は結果的に去って行ったわけですが、そのことを話し合った会議には、山さんはいなかったのですけれど、後から他の人から聞いた話ですと、「平野さんがいるから大丈夫だろう」と、山さんは言ったというんですね。
池内 あ、僕もそう思いますけど(笑)。
平野 H・Pさんを糾弾する会議になってしまった時、誰もH・Pさんの立場に立って弁護しなかったし、わたしもそういう発言はできなかった。そのことがずっと澱のように残ってしまった。実はその後、特に90年に山谷労働者福祉会館ができてから、わたしは直接労働者と向きあうことが多くなって、労働者から突き上げられるという経験もすることになった。それまでは山さんたちが間に立ってくれたのですが、その楯が無くなってしまったからです。会館ができると、ここでしか生きていけない労働者たちが常にその周辺にいるわけですよね。そうすると撤退することもできない。本当に身を晒すような恰好になった。労働者たちに叱られたりどやされたりもしました。そういう経験をして、はたと気づいたのは、H・Pさんは彼なりの立場で同様の経験をして相当重圧を感じていたんじゃないかな、ということでした。その時になって初めてそう思った。しかしH・Pさんは逃げるわけにいかなかったんですね。なぜなら彼は「在日朝鮮人獄中者救援センター」という組織の象徴的な存在だったからです。運動の中で活動家たちに期待されていたし、その期待に精一杯応えようとしていたから。
そう気付いて、わたしは初めてH・Pさんに大変申し訳ないことをしたと思いました。その後、わたしは、いろいろと模索してきたし、試行錯誤し失敗もしながらやってきたわけですが、運動というものは当事者がつくりあげていくものだ、本当に当事者が中心になっているのか、活動家が知らず知らずに押しつけてないか、そのことをいつも点検しなければダメだな、ということをずいぶん後になって気づかせてくれたのがH・Pさんでした。「在日朝鮮人獄中者救援センター」でH・Pさんに出会ったこと、そして一緒に活動をやってきたことが、今のわたしの活動にまだ不十分ではあるけれども糧になっているのかなと思っています。わたしは、そういう思いを実は山さんに話すことはできなかったのですが…。
池内 山岡さんにも、当然、そういう感覚はあったでしょうね。それに加えて、山岡さんにはもうひとつ、「階級」というものを常に考えていた。
平野 そうですね。わたしは直接山さんから聞いた記憶はあまりないんですが、遺稿集『山谷 やられたらやりかえせ』には随所に「根本の問題は〈階級〉だ」ということが出てきますね。それで思い出したんですが、この遺稿集が発行された日、山さんが殺されて10年目の追悼集会で反天連の天野さんがこう言ってます。「船本さんと山岡さんに共通する一連の流れの中で、いったい彼らは寄せ場の中で何を発見したのか、寄せ場に何をもたらしたのか、どういうことを実現しようとして動いたのかというと、寄せ場労働者の位置づけについて、その基軸的な価値観の転換をはかったんだと思う。(中略)マルクスの『ヘーゲル法哲学批判』のテーゼに依拠して下層労働者をプロレタリアートと位置づけ、解放の普遍的主体としての流動的下層労働者という位置に問題を置きかえることによって、市民社会の中で下位に位置づけられているものをむしろ積極的な価値として打ち出した。そして下層労働者は組織されたり工作されたりする客体ではなく、自らの社会性と歴史性の中から(内側から)全体的に世の中を変革していく展望を見定めていく、下層労働者の差別されている肉体自身が一つの価値の源泉だという論理に立った」(「記録 山岡強一虐殺10年 山さん、プレセンテ! 追悼集会」より)。
ちょっと飛躍かもしれませんが、山さんはH・Pさんの提起と「在日朝鮮人獄中者救援センター」に、そんな展望をもっていたのかなと、天野さんの話を聞いて思いました。気付くのが遅すぎましたけど。
こういう機会をいただいて振り返ってみると、80年代前半は、わたしもずいぶんいろんなことをやってきたなと思います。時代がそうさせたということもありますが、やはり山さんの影響を抜きには考えられません。
池内 山さんは30年前に亡くなってしまったけれど、今も健在なら、世界情勢の変化の中で、山さんの「階級」に対する考え方も変わったかも知れない。まあ、誰とつながってゆくのかということですが。また、平野さんのような感性で運動を続けていることにも注目したでしょうね。人との付き合いでも山さんは抜群な温かさを持っていた人なので…。そういう点なども含めて10月の集会では考えてみたいと思います。

(2016年7月23日)
(ひらの・りょうこ/東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議)

生きてやつらにやりかえせ ー 歴史・民族・暴力

山岡強一虐殺30年 山さんプレセンテ! 第3回

鵜飼 晢(フランス文学・思想)

昨年は船本洲治さんの没後40年でしたが、今年は山岡強一さんが殺害されて30年ということで、今秋大きな追悼の催しが準備されていて、「山さん、プレセンテ!」というこのトーク・シリーズもその一環であるとうかがっています。

私が司会の池内文平さんやこの映画の上映委員会の方々とお付き合いをするようになったのも80年代でした。この間にすでに亡くなられた方も何人かいます。そのことに同時に思いを馳せないと、今日のテーマは語れません。
あれから30年後の現在の時代は、当然のことながら30年前とはいろいろな点で違ってきている。その違いをどう考えるかということについては、この社会に一般に流通している言葉のなかには正しい認識はないのではないかと思っています。そういうもどかしさを抱いて生きている人たちが、今日のみなさんたちのように、『山谷−やられたらやりかえせ』という映画を観に来られているのではないか。つまり、この時代はどういう時代なのか、そのことを考える基準点みたいなものを求めてこの映画を観に来られているのではないか。だからこそこの映画の上映運動は、ずっと続いてきたのではないでしょうか。私は仕事柄教育にかかわっていますので、何世代かの学生たちに接してきましたが、そのなかの多くの学生が、どこかでこの映画を観ているのです。そんなことを背景に、お話させていただきたいと思います。

「テロル」が色分けできた時代
「生きてやつらにやりかえせ−歴史・民族・暴力−」というテーマでお話したいと思っているのですが、もう少し具体的に言うと、この「生きてやつらにやりかえせ」というスローガンが、今何を私たちに語りかけてくるかということを中心に話を進めたいと考えています。
今から30年前というと、80年代中頃のことですけれど、一体どんな時代だったのでしょうか? 例えば「まだソ連があった」と思う方がいるかもしれません。冷戦の最後の時期にあたっていたからです。今日のテーマに則して定義すると、私は「テロルの色分けがまだできた時代」と言えるのではないかと思います。つまり、テロルに<赤色テロル>とか<白色テロル>といった色分けができた時代だったということです。
「テロル」とは単なる情念の発露でも犯罪一般でもなく、基本的に政治的な暴力を意味します。過去2世紀ほどの世界のなかで「テロル」の歴史を振り返ると、まずフランス革命の「恐怖政治」に行き当たります。しかし、あえて言えば、この最初の「テロル」には色がありませんでした。ナポレオンの敗北に続く王政復古以降、反革命の報復が起きるのですが、その後期に<白色テロル>という言葉が使われるようになりました。一方、<赤色テロル>という言葉は、ロシア革命によってボリシェヴィキ政権を樹立したレーニンが、反革命派を徹底的に粛清した際に使われるようになった用語です。
つまり、<白色テロル>と<赤色テロル>という言葉が同時に使われ始めたわけではないのです。最初は<白色テロル>だけでした。現在、世界中で、被抑圧者の政治的暴力としてもっとも突出している現象は、30年前には、すでに<赤色テロル>とは言えなくなっていたでしょう。そして、<白色テロル>の方が、そういう呼び方はもはや一般になされないとしても、結局生き残っているのです。ここがまず、非常に重要な点ではないかと思います。
佐藤満夫さんと山岡強一さんの虐殺は、山谷の労働者たちの労働が収奪されている状況が、このドキュメンタリー映画によって広く世に知られることを恐れた右翼暴力団勢力による明白な<白色テロル>であり反革命の政治的暴力でした。
30年前には、もう<赤色テロル>といえるものは見えなくなっていたと言いましたが、それでも少なくともわれわれの想像力の地平には、<赤色テロル>を引き受ける思想や実践が、まだ存在はしていたのです。必ずしも「テロル」と観念されない「組織された暴力」は、私たちが学生の頃から多少なりとも関わってきた諸闘争の核心にあった思想でした。60年代まで遡れば、三派全学連によるヴェトナム反戦や安保・沖縄闘争にもそれは認められるし、67年10月8日のデモ隊と機動隊が激突した羽田闘争は、権力の側の絶大な暴力に、佐藤栄作首相の南ヴェトナム訪問に反対する学生・労働者の側の「組織された暴力」が挑戦したもので、まさにこの思想で闘われました。
69年から70年代前半にかけて登場した共産同赤軍派や東アジア反日武装戦線の人たちの武装闘争は――後者の方たちは<赤>ではなくて<黒>だと言われるかもしれませんが――革命的テロルの主体に自己を変革することに人生を賭けていて、まさに<赤色テロル>と定義できるものでした。しかし、こうした学生運動家を中心とした「テロル」の行使は、ほどなく鎮圧されたり自壊して、姿を消していきました。
その後、組織された政治的暴力が発現する場は、山谷や釜ヶ崎などの寄せ場や、三里塚空港建設反対闘争などに限定されていきます。80年代初めの釜ヶ崎では、「来たれ暴動の町へ!」といったビラが貼られていたことを想いだします。そのような言葉が若者たちの心を捉えていた、まだぎりぎりそのような時代でした。しかし、30年後の今日、社会運動の地平にテロルが存在しているかというと、少なくとも当時と同じようには存在していません。

私は1984年の秋からフランスに留学しました。今のようにインターネットで即座に情報が入手できる時代ではなかったので、山岡さんの虐殺を、パリの日本語書店で販売されていた週刊誌を立ち読みしていて知りました。そして非常に強い衝撃を受けました。
そのことがきっかけとなって、私は『山谷−やられたらやりかえせ』のフランスでの上映運動にかかわることになります。この映画の公開は紆余曲折の末、山形ドキュメンタリー映画祭のフランス版といわれる「シネマ・デュ・レエル」という映画祭で行われたのですが、監督が2人も殺された映画はこの作品しかなかったという特異性もあって大変注目を浴びました。上映会では、私がこの映画や2人の監督について解説役も務めました。映画はその後マルセイユでも上映され、この地でも反響を呼びました。
私は留学中ジャン・ジュネという作家の研究をしていたのですが、山岡さんの訃報を知った86年には、その年の4月にジュネも亡くなりました。ジャン・ジュネは『花のノートルダム』、『泥棒日記』などで知られる世界的な作家ですが、82年には当時イスラエルの占領下にあったレバノンのパレスチナ人難民キャンプで起きた民間人虐殺事件に遭遇し、「シャティーラの四時間」と題するルポルタージュを書いています。この文章を翻訳するということが、私の最初の仕事になりました。『インパクション』(51号 1988年)という雑誌に掲載されたのですが、この翻訳の「あとがき」に、私はこんな一文を記しています。「このささやかな作業を、日本の地で政治暗殺に斃れた人々、とりわけ佐藤満夫、山岡強一、(朝日新聞社阪神支局襲撃事件で殺された)小尻知博の各氏に捧げたい。」
この一文は、当時の日本で、<白色テロル>がしばしば行使されていたことを想起させます。今から考えると、その時期は、昭和天皇の「Xデー」(運動圏では昭和天皇の死去の日がそう呼ばれていました)が近づきつつある時期でした。おそらくそのことと関連して、右翼の側が非常に暴力的になっていた時期でもありました。新たな「Xデー」が近づきつつある今、そのことをしっかり想起しておかなければならないと思います。
1987年に山岡さんの追悼文集『地底の闇から海へと』が出版されました。そこで山岡さんがジュネの『泥棒日記』を読んでおられたことを知り、一層親近感を抱いたことが思い出されます。

『シャルリ・エブド』襲撃事件
30年後の現在、思想的には非常に異なる衝撃的な暴力事件が頻発しています。私は2014年春からフランスにいました。2015年1月7日に起きた『シャルリ・エブド』本社襲撃事件の時には、当日共和国広場で開かれた抗議集会に参加しています。ところが、その4日後に行われた「共和国行進」は、だいぶ色合いの違った官製集会に変わっていました。ご承知のように、この事件は風刺週刊紙『シャルリ・エブド』がイスラームの預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことに端を発するものです。事件当日の抗議集会では、共和国の女神像に登って抗議のメッセージを掲げる人の中にファシストも加わっていたようで、私の周りには「ファシストは帰れ!」とヤジを飛ばす人もいました。また、若い人たちのなかにはフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を歌う者たちもいて、これに対して後ろから「ここで歌うのはおかしいぞ」とか、「インターナショナルを歌え」と叫ぶ声もあったりして現場は相当に混乱していました。
かつて『シャルリ・エブド』では、シネという伝説的な風刺画家が活躍していました。彼は新聞が親イスラエル的になり、同時に反イスラームの風刺に傾斜する時期に編集部から追い出されています。シネは先日亡くなりましたが、彼はジャン・ジュネの友人でした。この事件のあと、私はアルジェリアへ行きましたが、アルジェの国立美術館には、シネがアルジェリア戦争中に画いた作品が展示されていました。『シャルリ・エブド』紙にはこういう人が数年前まではいたのです。それが近年、急速に変質していった。1991年の湾岸戦争から、フランスの左派のドラスチックな崩壊が始まります。現在の『シャルリ・エブド』社は当時湾岸戦争に反対したグループによって再結成されたのであり、当時はまだ、抵抗の姿勢を示していたのです。この新聞の変質は、2001年の9・11以後、深刻になっていきました。この新聞は言わば、フランスの左翼全体の変質を、一歩遅れてたどっていったのです。
『シャルリ・エブド』に集った風刺画家たちにはそれぞれ独自の表現領域があって、みなが同じように攻撃的なイスラーム風刺に特化していたわけではありません。私は数年前まで『インパクション』という雑誌の編集委員をしていましたが、この雑誌には貝原浩さんという画家が天皇及び皇室のカリカチュアをよく掲載されていました。これが怪しからんということで右翼に襲撃され、編集委員のわれわれが殺されるという事態が起きたとしても、1961年の『風流夢譚』事件などを思い出せば、あながち想定外とも言えません。このような想定と通じる性格が、『シャルリ・エブド』社襲撃事件にあったことは明らかです。現にあの事件の後、「反天皇制運動連絡会」の友人は、街宣右翼から、「お前たちもああしてやる」と脅されたと聞いています。右翼からすれば、日本で『シャルリ・エブド』に当るのは反天皇制を掲げる左翼なのであり、襲撃者側に同一化してあの事件を見ていたわけです。彼らには彼らなりの筋があることを見落としてはならないでしょう。
当然のことながら、この数十年の米欧・イスラエルによる中東に対する侵略政策、そして現在のフランスでアラブ=イスラーム系移民及びその子弟が置かれている超差別的な現実については、話しだすときりがないくらい具体的な事例があります。『シャルリ・エブド』事件の実行者たちは、明らかに、この差別的なフランス社会と決着をつけることに人生を賭けた。そのこともまた、一方では事実です。
しかし、10年前には、差別的なフランス社会に対する抵抗は、都市郊外叛乱として表現されていました。2005年秋の郊外蜂起には、宗教的色彩は全くなかったことを思い出すべきでしょう。あの叛乱後も移民系住民の状況は何も変わらない。むしろどんどん悪くなっていく。当時の内務大臣で蜂起のきっかけとなった若者の死亡事件の責任者ニコラ・サルコジは大統領になり、フランス社会は一気に荒廃していきます。サルコジの再選を阻んだ社会党政権のもとでも、何も状況が改善しない。2014年という年は、何か起こらずにはすまないという予感が社会に充満していて、パリの空気は本当にピリピリしていました。そういうなかであの事件が起きた。人々は単純に衝撃を受けたというより、ああ予感されていたのはこういうことだったのかというような反応だったように感じました。
あの事件で殺された風刺画家の一人であるカビュは75歳でした。彼はアルジェリア戦争に徴兵され、軍隊のなかで反戦意識を持ったことがきっかけで政治的に自己形成した人物です。フランスでは左派のなかですらむしろ例外的な徹底した平和主義者で、反核兵器・反原発という思想を堅持していました。日本に来たこともあり、福島第一原発事故に心を痛めていました。そのような内容の晩年のインタビューが、亡くなったのち、ラジオで再放送されていました。
ベルナール・マリスという経済学者も同じ場所で殺されていますが、この人は『資本主義と死の欲動』というネオ・リベラリズム批判の著作を近年出していました。こういう人びとが、ことイスラームの問題になると、あのような差別的な風刺画を、意固地に擁護する立場を取っていたのです。
この新聞の編集長はシャブという風刺画家ですが、この人の座右銘は、「膝をついて生きるより立ったまま死んだほうがいい」というものでした。どこかで聞いたような言葉ですね。反対側の人たち、事件の実行者たちも、同じ内容の信念を抱いていたはずです。この事件は実は、このタイプのマッチョな性格の持ち主たちの意地の張り合いの果てに起きたという側面があります。事件に至る経緯については風刺画の掲載を合法としたフランスの司法の問題がもうひとつ重要ですが、話が逸れてしまいますので、今日はそこには触れないでおこうと思います。一言で言うと、私は殺された人たちについてもその思想の経歴をきちんと理解しようと努めるべきであり、襲撃の実行者たちの思想にも、できる限り接近したいという考えを持っています。
この事件についてパスカル・オリという歴史家は、「錆びついた無神論的無政府主義(『シャルリ・エブド』)と研ぎすまされた宗教的共同体思想(クアシ兄弟)の衝突」と評しています。共和国行進を高く評価するこの人の主張にはかならずしも賛成できないのですが、この形容そのものはけっこう本質を言い当てているのかなと思っています。ここからが今日の本題ですが、『シャルリ・エブド』襲撃の実行者たち、また11月のパリ6箇所同時襲撃事件を起こした人たちは、最初から死を覚悟している、むしろ死を望んでいるといってもいい。自爆攻撃を敢行する、あるいは治安部隊によって殺害されることを覚悟している。一言で言えば、死にに行っているわけです。ここが非常に重要な点で、というのも、アラブ=イスラーム世界では、彼我の武力の差が圧倒的だった独立戦争や脱植民地闘争、例えばアルジェリア戦争のような過程でも、政治的な自死は非常に稀だったからです。それはひとつには、イスラームでは基本的に自死を禁止しているからです。その禁忌が、80年代以降、急に解かれていった。これをどう考えたらいいのか。より苛酷な植民地時代にもなかったことがなぜ今急増しているのか。そういうことが問われているのではないかと思います。
その背景にイスラエル=パレスチナの抗争があることは間違いないし、自己の死と引き換えに敵に打撃を負わせるという戦術の歴史上画期となったのが、1972年5月30日、日本赤軍が行ったリッダ闘争、いわゆるテルアビブ空港乱射事件だったことも忘れられてはならないでしょう。イスラーム圏ではあのタイプの闘争は、それまではほとんどなかったからです。

〈殉教者〉とは何か?
『シャルリ・エブド』襲撃事件とは一体何だったのかと言うと、要するにこれは、預言者の仇を取るための復讐なのです。ユダヤ教では人間の復讐を原則禁止している。復讐は神がするものだとされているからです。キリスト教はさらに厳格に復讐を非難しています。イスラームでは復讐は一定の範囲以内では制度的に容認されていますが、基本的にはやはり禁止の方向です。それが今日のように自爆攻撃が常態化してしまったことについては、二つのポイントが考えられます。
70年代初頭、ハイジャックはプロパガンダのための戦術として闘争の歴史に現れました。当時のハイジャックは、飛行機を乗っ取り、自分たちの闘争の大義を宣伝し、人質にした乗客は指定した目的地の空港で全員解放し、そして飛行機は爆破して自分たちも逃走するというものでした。つまり、人は誰も傷つけないという配慮とともに練り上げられた合理的な作戦だったのです。今から考えると、なんと穏和な「テロリズム」でしょうか。よど号事件の時などは、実行者側との交渉に応じて、政府の要人が乗客の身代わりに人質になっている。なんとも牧歌的な時代だったと思わざるをえません。
ところが、その後世界の治安権力は、人質が取られても実行者側の要求は認めない、交渉などもってのほか、人質が犠牲になろうと「テロリスト」は抹殺すべしという方針を純化させていきました。1972年のミュンヘン・オリンピックの際のパレスチナ・ゲリラ「黒い九月」によるイスラエル選手村占拠事件以降、この傾向は一気に加速していきました。
9・11を見直すと、ご承知のように、この作戦はハイジャックした飛行機で直ちに目的が達成されるように構想されていました。ハイジャックした飛行機で、実行者が乗客を道連れに自爆をする。このような作戦は突然歴史に出現したのではなく、9・11に至る戦術の歴史があるのです。この30年の政治的暴力の性質の変化ということを考える場合には、このこともまた、思い出しておく必要があります。
2015年11月13日に起きた「パリ6箇所同時襲撃事件」は、サッカー場、コンサートホール、レストランなど、パリ内外で同時に展開された襲撃ですが、『シャルリ・エブド』襲撃よりもさらにいっそう自殺的な傾向は強まっています。「生きてやつらにやりかえす」のではなく「死んでやりかえす」、そのような傾向の政治的暴力の発動が、今世界で多発しているのです。ここで真剣に考えなければならない点は、そのことが自己にとって究極の行為であると実行者が観念している、その主体性の問題です。
イスラームには「殉教して天国へ行けば永遠の至福に与れる」という思想があって、それが自爆攻撃を助長しているという俗説がありますがそれは事実に反します。アラブ=イスラーム世界の抗争で自爆攻撃が頻繁に採用されるようになったのは80年代前半、イスラエル軍占領下のレバノンからです。イスラエル軍に対するものもあれば、レバノン内部の武装勢力間の抗争で劣勢の側が採用する場合もありました。ジュネの遺作『恋する虜』は彼の死後、1986年4月に出版されたものですが、そこには早くも、レバノンで起きた2人のパレスチナ人女性の「自爆」をめぐるエピソードが記されています。
最初は中東でこうしたかたちで出てきた周縁的な現象が、9・11以降、アフリカを含むイスラーム世界で全面化して今の状況になっていったのです。現在イスラーム世界では<殉教者>とは何かが厳しく問われ、非常に深刻な葛藤が続いています。 だいぶ前になりますが、パレスチナ自治区で2000年秋から始まった第2次インティファーダ(イスラエルに対する民衆の抵抗闘争)で殺された最初の100人の遺品展にかかわったことがあります。この遺品展のタイトルは「シャヒード、100の命」でした。しかし、この人たちはかならずしも闘争のなかで殺されたわけではなく、家のなかにいて誤爆によって殺された人も含まれていたため、はたしてその人たちも<殉教者>なのかどうかという論争が起きました。
一方、 現在の聖戦主義的な武装闘争、自爆攻撃を実行する人々のなかには、自分の意思で<殉教者>になれると信じている人が少なくありません。しかし本来イスラームは「神の道のために努力・奮闘すること」を「ジハード」と呼んできました。この「ジハード」という用語が、近年パレスチナ紛争や欧米との摩擦が高まるにつれもっぱら「異教徒」との闘いを指すようになり、やがて特に「自爆攻撃」の同義語になり、そしてこの「ジハード」によって命を落とした者が<殉教者>と呼ばれることになったのです。本来の信仰のあり方としてはみずから死を求めてはならないはずであり、「ジハード」のなかで天に召される者を選ぶのはあくまでも神であり、神に選ばれた者が<殉教者>なのですが。これは伝統的なイスラームがむしろ解体しつつある過程であって、「純粋な」「始源」のイスラームがこのようなかたちで復興していると見るべきではないでしょう。
私の友人に、マグレブ系の移民が多く住むパリ北郊外のサン・ドニという街で30年以上診療活動を続けているフェティ・ベンスラーマという精神分析家がいます。『イスラームにおける主体性の戦争』(2014年)という著書で彼は、イスラーム世界で自殺的傾向を募らせている人々はかならずしも「聖戦」志願者ばかりではなく、もっと広範な人びとが「自分は正しい生き方をしていないのではないか?」という深い不安を抱えていると指摘しています。そしてこうしたイスラーム世界における自死の観念の変容について、ベンスラーマは、チュニジア革命の発端となったといわれるブアジジーの焼身自殺の事例を挙げています。これはチュニジアの地方都市で行商を営んでいたひとりの青年が、ある日理由もなく自分の商売道具や商品を警官に没収されてしまい、それに抗議して警察署の前で焼身自殺を図った事件です。
かつてこのような事件はイスラーム世界ではまれでした。もちろん宗教的な動機による自死ではありません。イスラームの教義からすれば、自ら地獄に飛び込むような行為です。亡くなった当初、ブアジジーは、ムスリムの墓地に埋葬されることさえ許されませんでした。 しかし、実際には、まさにこの事件がきっかけとなって「アラブの春」は始まったのです。生と信仰から同時に離脱するという、非常に強い衝動を内心に覚えていなければ、とてもこんな行動はできません。独裁体制や社会の腐敗に対する批判への共感というだけではなく、ブアジジーを行為へと駆り立てた力に共鳴する人々が無数に存在しているということを、「アラブの春」は明らかにしたのです。伝統的なイスラームの聖職者たちも、宗教の戒律を破った自殺者だという理由でムスリムの墓地に埋葬させないということができなくなり、結局世論に押されるかたちで、ブアジジーは狂気に侵されたという口実で、ムスリムの墓地への埋葬を許可するにいたりました。このことについてベンスラーマは、このように言っています。「アラブ諸国民は自死の新たな高貴化の道、社会的大義の道を承認したのである。このことは<殉教>という観念を、さらに一歩その世俗化の方にずらすことになった。」
今アラブ世界では、こうした矛盾した動きが激しく衝突しているのです。イスラーム世界はけっして一方向に進んでいるわけではない。むしろこれまでの考え方がどちらからみても通用しなくなっている。そういう深い変容の時期にあるのだと思います。

「復讐」という観念
さらに、アラブ、アフリカでは、難民の問題も深刻化しています。「難民」と言っても、遭難のリスクを冒して地中海を渡ろうとするブラック・アフリカからの難民と、内戦で国が崩壊してしまったシリアからの難民とは、動機も事情もまったく違う。ただし共通項もあります。それはこれらの人々が、自国の現状のなかに、自身が存在する価値を見いだせないという認識です。そういう声が、自分自身の中に非常に強く響いているがゆえの決断だという点です。そこにはやはり、生と自国からの離脱をうながす、やむにやまれぬ衝動が働いています。このような難民の心理状態について、ベンスラーマは次のように述べています。「もはやこの生はお前に相応しくない、もはやこの生はお前に相応しくない……存在することの恥を逃れるために他に道がない人々の耳に聞こえているのは、超自我のこんな残酷な判決である」(…)。
2011年のアラブ世界の叛乱は、すべて尊厳と正義の要求を掲げて闘われたもので、「神」「宗教」「師」といった古来のビッグネームは、そのスローガンのなかに不在でした。革命はチュニジアなどでは半ば成就したけれども、その後の政治状況は混迷したまま今日に至っています。リビアなどは国がなくなってしまいました。にもかかわらず、そのなかに新しい芽も生まれてきている、そういう新しい芽を育てていこうとしている人びとが、どの国にも現れてきています。

もうひとつ考えておきたいこととして、聖戦主義者の闘いの理念、スローガンの中には「復讐」の思想が認められます。
「復讐」などという言葉を持ち出すと、現代の人々にはひどく野蛮な響きがするのではないかと思います。しかしこれもまた、この30年間の変容のひとつと考えなければなりません。1980年代でもまだ、「復讐」が即座に野蛮であるという立場を、私たちは取っていなかったはずです。端的に言って、「革命」という観念から「復讐」という要素を完全に抜き去ることは考えられませんでした。もっとはっきり言うと、「復讐」は、ほんの少し昔には、ひとつの崇高な理念だったのです。
私は当時日本にいなかったので正確には分かりませんが、佐藤さんや山岡さんが殺された後の「追悼集会」では、おそらく「同志は倒れぬ」という歌が歌われたのではないかと思います。そして、この歌の最後には、「いざ、復讐へ」という語句があったはずです。さらに古い事例として、中野重治の「雨の降る品川駅」という詩を思い起こすなら、あの詩の最後は「報復の歓喜に泣き笑う日まで」というフレーズで結ばれていました。中野重治などは日本の革命派のなかで最も非暴力的な思想の持ち主ではなかったかと思うのですが、そういう人でも「報復」という言葉を用いていた。「革命」の理念と「復讐」の観念は、これほど切り離し難いものだったということでしょう。

私はこの20年の間に何回か暴力の問題について真摯に考え直す機会がありました。実をいうと、私自身は性格的にそれほど「復讐好み」ではないと思いますが、理論的に大事な理念のひとつであると判断して、できる限り考えてみようと努めてきました。ニーチェによれば、人間の共同体は、「復讐」を通してのみ、まず集団的な平等の観念に達したのであり、平等という考え方自体が、長い年月の間の復讐の実践からしか生まれなかったものです。これはなかなか深い思想だと思います。つまり、人間は「復讐」によって、お互いに人間であるという認識に到達することができたという見方もありうるのです。なぜ「復讐」が崇高でありうるか、その理由はここにあるのではないでしょうか。
今の時代に、もう一度「復讐」の観念を往年のままに復権させようとしても意味がないことは重々承知しています。そうではなくて、「復讐」の観念に内在している大切なものを、暴力一般を否定する時代の傾向に抗いつつ救い出すことは、私は必要だと思いますし、できることだと考えているのです。
「復讐」の観念が平等の原則と不可分のものならば、それはけっしてなくなるはずはないし、抑圧しても歪んだかたちで繰り返し回帰してくるでしょう。歪み方が過剰になると、それはもはや「復讐」としてみなされなくなります。「復讐」を頭から否定していると、自分たちのやっていることがいよいよ分からなくなってくる。そういう回路に入ってしまうことのほうが、はるかに危険なのです。

〈革命的自殺〉
だいぶ長くなりました。最後にもう一点、私が、その意味を掘り下げてみたいと思っている言葉についてお話します。それは「闘いに命を賭ける」という言葉です。これはアメリカのブラックパンサー党の創設者の一人だったヒューイ・ニュートンという人が、『革命的自殺』(1973年)という著作でテーマにした理念です。
この本は彼の自伝的な著作で、BP党を結成した経緯などから書き進められています。それによると、この党は本来武装闘争を行うために結成されたわけではなく、抑圧され、虐げられていた都市部のゲットーに居住する黒人共同体を、自分たちの力で防衛するという明確な目的がありました。ところが1968年に非暴力の公民権運動指導者だったキング牧師が暗殺され、そののちニュートンたちは、武装闘争を主張するようになりました。
アメリカでは武器の所持が憲法によって保証されています。黒人である彼らも、この憲法の理念に則って武装したのですが、武器を携行した黒人の政治活動家は、体制にとってもっとも危険な存在とみなされ、警察の手で次々に殺されていきました。そうした事態を憂い、白人リベラル派からは「黒人が武器を持って街頭に出るのは自殺行為だ。止めた方がいい」という忠告を受ける。しかし、不当な弾圧に抗し、解放に向かって進み始めた黒人たちは、もはや聞く耳を持ちませんでした。その意思の思想的表明として、ニュートンはこう書いています。「<革命的自殺>というフレーズを鋳造することで、私は二つの既知のものを取り上げて組み合わせ、一つの未知のもの、新しい傾向のフレーズを作ったのであり、このフレーズのなかでは<革命的>という言葉が<自殺>という言葉を、異なる次元と意味を持つ、新しく複雑な状況に適用可能な思想へと変革しているのである。」
ひとたびコミットしたら長く生きることはもう望めない、そのような闘いに確信を持って参加すること、それをニュートンは「革命的自殺」と呼んだのです。フランスの社会学者デュルケームの説(『自殺論』)を援用しつつ、ニュートンは、アフロ・アメリカンの自殺の主要な原因が人種差別的な社会環境の圧力であることを指摘します。この圧力に屈し酒や薬に溺れて死んでいくことと、圧力を跳ね除けるために立ち上がり敵の弾圧を受けて死ぬこと、「箒で吐き出される」存在であることと、「棍棒で叩き出される」存在であることは同じではないと。「黒人がその名に相応しい生への欲求に突き動かされるとき、人間的尊厳を欠いた生活は不可能になる。」そう、彼は書いています。「生きてやつらにやりかえせ」という寄せ場闘争の理念と響き合う同時代の思想が、ここに息づいているのではないでしょうか。というのも、この「生きて」という言葉には、寄せ場の労働者の「革命的自殺」への強い傾向が、確かに踏まえられているように思われるからです。
ブラックパンサーの 「革命的自殺者」ということで、もう一人、ジョージ・ジャクソンの名を挙げたいと思います。彼は17歳の時にガソリンスタンドでほんのちょっとした盗みを働いただけで懲役判決を受け、その後の一生を牢獄で過ごすことになりました。彼は獄中でブラックパンサーになり、結局獄中で殺されてしまいます。ジョージにはジョナサンという弟がいました。ジョナサンは、兄の裁判の公判の際、折り畳み式の銃を隠し持って法廷に入り、判事たちを人質にとって兄の解放を要求し、結局射殺されてしまいます。
ジャン・ジュネは、このジャクソン兄弟の死について、次のような考察を残しています。
「ジョナサンがジョージに対して抱いていた尊敬が彼を兄の模倣へと向かわせたのだとすれば、ジョナサンが死んで、自由のなかで−ニュートンの表現を使えば、<革命的自殺>によって−死んで、今度はジョージがジョナサンに尊敬の念を抱いて、彼を模倣したいと欲するにいたったのだ。私たちが目にしているのは、おそらく、ジョージア・ジャクソン(ジャクソン兄弟の母)の二人の息子のこのように縒り合わさった尊敬であり、彼らは互いの力を得て、黒人意識と革命の契機になろうとしていたのである。」(『ジョージ・ジャクソンの暗殺』まえがき、峯村傑訳)
私はこれから、ジャクソン兄弟と『シャルリ・エブド』事件を起こしたクアシ兄弟の、深く重なり、遥かに隔たる、思想の旅をたどる作業を行いたいと思っています。

(2016年5月21日)
(うかい・さとし/フランス文学・思想)

千代次さんに聞く―― 山谷の玉三郎と「さすらい姉妹」

お話 千代次(水族館劇場・さすらい姉妹)

この場に居るのが玉三郎であったらよかった…

司会(小見) 今、ご覧いただいた映画『山谷やられたらやりかえせ』の真ん中くらいに、山谷の夏祭りのシーンがありましたね。そのシーンで女装してかつらをかぶり踊って喝采を浴びていた――着物の裾をパタパタとめくったりして、ご祝儀を貰っていた人物が玉三郎さんです。あれは1985年に行われた第2回山谷夏祭りなのですが、その頃から彼は「山谷の玉三郎」として名を知られるようになっています。今日は、その玉三郎さんと共演してきた、「水族館劇場・さすらい姉妹」の千代次さんに、玉三郎さんについて話してもらいたいと思います。よろしくお願いします。

千代次 千代次と申します。先ほど映画『山谷やられたらやりかえせ』をみなさんとご一緒に観た、わたしの気持ちからまずお話します。佐藤さんが殺られて、みんなが反撃の闘いに起ちあがる暴動のシーンを見ると、わたしは胸がドキドキしてしまいました。ほんとうに血が騒ぐような気持ちになった。以前観たときよりもっと血が騒ぐのが不思議でした。あの人もいた、この人もいた、こんなこともあったなあ、という想いが蘇ってきます。わたしは、当時、そんなに現場にいたわけではないんですけど、この映画を観ていると、今の山谷の状況とずいぶん違うものですから、あのときのあの感じが途切れてしまったのはどうしてなのかなあ? そんなことを考えました。それがなぜなのか、自分の問題として考えたいと思います。今日、この映画をご覧になったみなさんも、いろいろ感じたこと、考えたことがあるのではないかと思います。わたしはそれを是非お聞きしたい。これは30年前の映画ですけれども、この映画を今なお上映し続けているという意味、この映画を観るという意味、そういうことを、ただわたしが話すだけでなく、みなさんにもお聞きしたいと思います。
それでは玉三郎のことをお話しますけれども、ここは舞台とは違うのでちゃんと話せるかどうかすごく不安だったものですから、書いてきたものを読みますので、聞いてください。
わたしは、この場に登場してくれないかとお話をもちかけられたとき、大変途惑いました。果たして自分に何を話すことがあるのだろうと。事実として玉三郎とは20年間、「さすらい姉妹」を共にしてきたけれど、玉三郎の何を語ればいいのだろう。『山谷やられたらやりかえせ』との繋がり、今現在に繋がる話をするなら、何を話せばいいのか。毎日考えました。それをつかめないままパッと思ったことがありました。
ここに居るのはわたしではなく、玉三郎であるならよかった、ということです。映画に映しだされた当人であるし、あの時代をリアルタイムで生きてきた、そのことを玉三郎の視点で話しただろうし、山谷の労働者でもあった玉三郎こそが、この場にもっともふさわしかったとつくづく思ったからです。玉三郎が死んでしまってから追悼の場のここに、わたしが呼ばれるのは何とも残念でなりません。
玉三郎が死んでしまって、お葬式のとき多くの人が集まりました。たぶん争議団の中村さんの考えだと思いますが、参列した人全員で玉三郎のお骨を拾いました。関係の深い、浅い、仲の良い、悪いなど一切関係なく、みんなで拾いました。順番も何もありませんでした。最後まで看病した「あうん」の人たちや、最も関係の深い人たちだけが拾ったのではないのです。玉三郎の死を私物化せず、解放したのだと思いました。そのことはとても強烈にわたしの心に残っています。追悼という共通の感覚がより深く人々の心に沁みたのではないかと思いました。そしてその感覚というのは、人の死というのはそういうものだと思いますが、いつもは話をしない者同士や、仲が悪かったり考えが違う者同士が、閉ざしていた心を開いていくように誘うものかと思います。
わたしにとっても、玉三郎のことは十分に知っているが、彼が「さすらい姉妹」に出演していたということはあまり注目されずにきたのではないのかなと思って、玉三郎が生きているとき、「さすらい姉妹」の舞台を観に来てほしかったという気持ちがとっても強いんですけども、そういう状態から関係の回路が出てきたようなことがこの間ありました。上映委の方たちともほとんど話をしたことがなかったですし、玉三郎の追悼という共通の感覚でわたしに声をかけてくださったのかと思います。たとえ一瞬であろうと、回路を開こうとしてくださったのかと思います。そのことを、わたしがどんなに途惑いがあろうと、お話を受け、わたしは心を開きますということで、応えようと思いました。わたし自身が心を閉ざしていたことを考えさせられました。
いろんなやり方や意見の違いがあるにせよ、今の世界の流れを何とか食い止めようと強く思っている同志なのだから閉ざしてはいけないと自分に言い聞かせています。この映画も、今、佐藤さんや山岡さんが考えてもいなかったであろう、志を同じくした者同士の政治的分裂の只中にあると聞きます。「さすらい姉妹」も芝居を持っていく現場の分裂の只中にあります。玉三郎は「働く仲間の会」もやっていたし、山統労主催の盆踊りでも踊っていたし、争議団、山谷労働者福祉会館の盆踊りでも踊っていました。敵対する二派、三派、何派でも全部またいでいたと思います。芸事の人間には、政治の流儀は通じません。両またぎで生きるのが芸事にかかわる人間の仕事だし、力だと思います。こういうことを考えながら、ここに来ました。よろしくお願いします。

山谷を歩いていると、「よお、玉!」と仲間が声をかけていく

小見 ぼくは1998年に「寄せ場にたった女優たち」というインタビューをやったことがあります。その3回目に千代次さんに登場してもらいました。そして第4回目に「女優」ではない玉三郎さんを特別編としてインタビューしました。資料としてお配りしたインタビュー記事がそれです。今の千代次さんのお話で玉三郎さんとの20年ものかけがえのない盟友関係のいったんがおわかりになったと思いますが、彼の芸についてもう少し話してください。
千代次 玉三郎はやっぱり芸を持っていたと思います。最初に玉三郎を引きずり込んだのは、彼が踊りという芸を持っていたからでした。わたしは、山谷の夏祭りなどで玉三郎の踊りがすごく喜ばれていたのを知っていたのです。それでわたしは「どうしてその芸をもっともっと生かさないの」とけしかけて誘ったのです。
小見 千代次さんは寄せ場とも長くかかわってきていますけど、水族館劇場の前身の「曲馬舘」の頃、1970年代後半だったと思うけど、芝居のなかで「泪橋エレジー」という歌を使っていましたよね。実は『山谷やられたらやりかえせ』には、かつてはプロモーションフィルムと呼んでいたのですが、予告編があります。その11分もの長い予告編には「泪橋エレジー」が使われています。千代次さんとは、そういう繋がりもあります。
千代次 それは知りませんでした。でも、私は長いといっても浅いのです。玉三郎をどうしてわたしが引きずり入れようと熱心になったかというと、やっぱり彼が寄せ場の人だったからなんですね。玉三郎は、山谷の町を歩いていると、「よお、玉!」と声をかけてくる仲間がたくさんいる。わたしみたいに寄せ場で芝居をやるためにポッと飛び入りしてる者にとっては、玉三郎のような人と知り合ったということはすごく力になった。それと山谷の労働者たちだけじゃなくて、支援活動に入っている活動家たちにも、玉ちゃんはけっこう言いたいことを言ったりしていて、いろいろな人間関係を全体的に持っていた人だった。そういうところが、わたしにとっては、彼と知り合い、一緒に芝居をすることの嬉しいことでした。
小見 ぼくは、この映画の最初の監督・佐藤満夫が殺されてから、山谷へ行くようになったのですけど、これは平たく言えば支援に入るということですよね。そうすると寄せ場の労働者がいて、いわゆる活動家の人たちがいるという人間関係の中に入っていくわけですけれど、最初の頃はそうした人たちと立ち位置が微妙に異なるので、うまく話ができなかった。そういう経験がやっぱりありますね。だから、玉ちゃんと知り合い、インタビューしたり、「世界」という立ち呑み屋で酒をおごってもらったりという関係がつくれたことでだんだん中に入っていけるようになった。ぼくにとって、彼は、いわばある種の媒介のような存在だった。そういうことなんですけど、千代次さんはずっと玉ちゃんと「さすらい姉妹」で一緒に芝居してきたわけでしょう。玉三郎観をもう少し詳しくしゃべってくれませんか。

「芝居で腹は膨れないけれど、心は満たしてみせまする」

千代次 最初の頃のことで憶えているのは、わたしたちは「開演時間を6時半」と決めていたのですけれど、玉三郎が「6時に炊き出しが終わると、帰っちゃうお客が多いので、6時にしよう」と言いだしたんです。でも、他から来るお客さんもいるのだから6時半の開演時間を変えるわけにはいかないと、わたしたちは譲らなかったため、すこし言い争いになりました。大衆芸能の人たちは、時間にルーズというか臨機応変的な感覚なのかな。玉三郎を通して大衆芝居の世界を感じとったし、玉三郎のほうでも「大衆芝居ってだけじゃつまんねえ、ひとひねりしないとサ」なんて言い出したりしました。1回目が終わって「今度はセリフもね」と言ったらイヤと言わなかったので、2回目の「瞼の母」という芝居では、玉ちゃんに忠太郎をやってもらったのですが、玉ちゃんのセリフは棒読みで、下手くそで、どうしようかなあ、と心配したことがあった。ところが、その下手さが、だんだんむしろ魅力的な味わいに感じられるようになってきて、風情の魅力だ!と感心したことがありました。
あと、これは芸の話ではないのですけれど、最初のとき、「何で山谷に来るのか」と玉三郎に問われてドキリとしたことがあります。その問は別にわたしに対してだけ発せられたものではなくて、山谷にやって来る学生さんとか女性たちに対しても、「何で山谷に来るんだ?」「お前なんかの来る所じゃない」とよく言っていましたので、玉ちゃんの一種の儀式だったのだと思います。最初にその詰問を受けたとき、わたしは答えられなかったのですが、わたしはこの場に立ちたいのだ! という気持ちは強かったので、それは玉三郎に伝わったと思います。
それから「野垂れ死んでいく者たちの気持ちもわからないくせに、よく芝居ができるな」と言われて泣いてしまったこともありましたけれど、野垂れ死んでいくのは山谷の人だけに限らない、自分だってそういう運命の人生を生きているとどんどん感じるようになってきたのだから、どんどん動じなくなります。
この言葉は、わたし何度も紹介していますのでお聞きになった方もおられるでしょうが、佐藤満夫監督は「映画で腹は膨れないが、敵への憎悪をかきたてることはできる」と言っていますけれど、そういう思いで山谷に乗り込んで行ったのだと思います。佐藤さんは、山谷の労働者ではなかったわけですけれど、そういう信念で『山谷やられたらやりかえせ』という映画を撮ろうと決意されたのだと思います。わたしは、その佐藤さんの言葉をお借りして、「わたしたちの芝居で腹は膨れないけれど、心を満たしてみせまする」という思いでやってきました。今でもその気持ちは変わりません。
小見 以前、千代次さんにインタビューしたとき、千代次さんの芸能観についていろいろお聞きしましたが、娯楽ということについて、特に寄せ場における娯楽についてどのように考えているのか、お聞きしたいのですが。
千代次 巷に溢れているのはメチャクチャつまらない娯楽が多いですよね。わたしたちは大衆芝居の人間ではない。昨年、毛利嘉孝先生が(芸大の先生なので、思わず「先生」と呼んでしまうのですが)「さすらい姉妹」の山谷公演にかかわってくれ、「とても面白い体験だった」と言ってくださったのですが、わたしたちも大学の先生と寄せ場の労働者たちと共に芸能の場をつくれたことがすごく面白かったんですね。その毛利先生が「フェイク(偽物)こそ本物なんだ」ということを言っているのですが、わたしたちは「ニセモノ」なんですね。なぜって、わたしたちは「大衆芝居」の劇団ではないし、芝居で食っているわけではないからです。でも、本物の大衆芝居に負けない面白いものをやっているつもりです。傲慢な言い方ですけど、そう思っています。
小見 実は、ぼくらもかつて山谷で「月例映画会」という催しをやっていたことがあるんですよ。
千代次 この『山谷やられたらやりかえせ』の上映会を、ですか?
小見 そうじゃなくて、たとえば『無法松の一生』とか『幕末太陽伝』といった普通の商業映画の上映会です。上映中に酒を飲んで大声を上げる者とか、チョロチョロ歩き回る客がいたりで、娯楽を提供するのもなかなか難しいなと思いました。でも、いい映画会だったんですよ。『無法松の一生』のラストのほうのシーンで、三船敏郎扮する無法松に対して、まあスクリーンに向かってですが、「起て!」「死ぬんじゃねえぞ!」とか、大きな掛け声をかけたりするんですよ。

映画を上映し続ける、芝居をやり続ける

千代次 「山谷」の映画は、もうずいぶん長く上映活動が続けられているようですけれど、どういう方たちに観てもらいたいのですか?
小見 できるだけ多くの人に観てもらいたいですね。
千代次 山谷の人たちにも?
小見 もちろん山谷でもずいぶん上映会をしています。
千代次 どういう反応なのかな? わたしは寄せ場での上映会には行ったことがないので、知りたいのですが。
小見 当初は、「おっ、俺が映ってる!」といった観かたをする者も多かったですね。なにせ、この映画の主人公たちが観客でしたから。自分たちの現場を撮ってくれた映画として観られてきた。
千代次 今はどうなのかな?
小見 どうなんでしょうか? この映画に登場していて、今も山谷で活動している人が今日は何人か来てくれているので、話を訊いてみましょう。
荒木 当初はやっぱり「あっ、映っている」といった反応で観てた者が大半でしたけど、今はもう映画に登場しているわしらの世代は少なくなってしまいましたので、そういう観客はほとんどいませんよ。クールというか。ただ、わしらにとっては、この上映会が開催されると80年代の騒然とした山谷の時代を生きた仲間たちと出会えるので、そういう意義がありますよ。
千代次 知ってる人に出会ってどうするの? 再会してどんな話をするの?
荒木 今どんな暮らしをしているかといった話や、もう体が動かなくなったので山谷で生活保護を取ってるよ、といった話しですよ。
千代次 わたしがわからないのは、この映画の批評じゃないのですけども、この映画を今、上映している意味というか、それについてどう考えているのかなということなのですが。
小見 よく言うのですが、まあ、なかなか辞めるきっかけがないのでこの上映会をだらだら続けているんだよ、と。これは冗談なんですけど(笑)。これまでの上映会の歴史を振り返ると、観客1人のときもあれば、大勢の観客を集めたときなどいろいろありました。フィルムは同じなんですけど、上映会の時、場所によって全然雰囲気が違うんだけれど、しっかり観てもらえてきたと思います。つまり30年も上映会が続けられてきたのは、フィルム自体に力があって、持ちこたえてきたからではないかと思うんですね。これはぼく個人の意見ですけど……。
千代次 どなたかご意見を聞きたいと思いますが。
オリジン 寿越冬闘争実行委員会事務局長のオリジンです。久しぶりにこの映画を観たのですが、登場人物の1人のおっちゃんなどは、今も健在で、うちの4階の事務所へ飛び込んで来て「何か食わせろ」と喚き散らす、めっちゃ面白いおっちゃんなんですね。このおっちゃんは、生活保護を受けて市営住宅で暮らしていたのですけど、家賃を滞納して追い出され、寿町に舞い戻ってきたのです。ぼくのところに相談に来たとき、「何とか生保を繋いでくれ」と頼みに来たのかと思ったら、まず、「金、貸してくれ」「メシ、食わせろ」なんですね。すごくしたたかなんですけど、ああこんなふうに人間は生きられるのかと感心したというか……。厚かましいのだけれど、生き抜くためには何でもやる、みたいな前向きさが感じられて、ああ、こんな人間がいっぱいいたら自殺者も減少するだろうにと思うんですね。このおっちゃんは、かつては一晩に一升酒を飲む豪傑だったけれど、今もなんとか生き抜いている。そういうおっちゃんと話しているのはけっこう面白い。さっき千代次さんが言っていたことですが、ぼくも寿の越冬に大学生の頃、参加したときは、「学生のくせに何しに来たんだ」とおっちゃんたちからいびられたり、逆に「ジュース、おごってやるよ」と百円玉をくれるおっちゃんもいた。そんなとき「支援に来ているのでもらえない」と返したりすると、「俺は一度出したものは引っこめねえんだ」と百円玉を目の前にぶん投げられたこともあった。
寄せ場は変わってきた。けれども、変わっていないものがあるとすれば、社会的な排除リスクで、これは今も根強く残っている。重層的下請け労働システムにより下層労働者が寄せ場に集まって来た時代もあれば、バブル全盛時代に地上げで住む家を奪われて高齢者がどんどん寄せ場に流れて来た時代もあり、そして今の寿町は住民の8割が生保受給者たちといった「生活保護者の街」に変貌しています。実は、今のほうが非常に生きにくくなっているのです。貧困の連鎖に伴う子どもの問題解消などには力が注がれていますが、寄せ場のおっちゃんたちの存在は棄民化政策に組み込まれたままだからです。にもかかわらず、努力した者は報われる社会です、などと喧伝されていますが、努力しても全員が報われる仕組みがあるわけではなく、むしろ負け組のおっちゃんたちはどんどん生きにくい状況に追い込まれているんですね。そういう社会状況が推し進められている中で、30年前、山谷の棄民化された労働者たちの事象をドキュメンタリーとして問題提起したこの映画の上映活動は、今も十分意義があるとは思います。現場では、そういう討論をしています。
小見 ところで、千代次さんの主宰する「さすらい姉妹」も発足してすでに20年ですよね。
先ほど「山谷」の映画は誰に観せるの? という鋭い指摘を受けましたけれど、「さすらい姉妹」はどんなお客を対象にしているんですか。それと、芝居を続けてきたエネルギーってどういうものだったのか、お聞きしたいですね。

芝居の中にどんどん入ってくる
山谷のお客さんは上客なんです

千代次 発足した頃は、20年前ですからやっぱり闘いの実感みたいなものがあったかな。だから、寄せ場の人たちの闘いを支援したいという気持ちが強かった。でも、その後どんどん社会状況の変化があって、闘いのモチベーションがどんどん低下したことは否めません。釜ヶ崎に行ったとき、知り合ったおじさんから「生保を受けろよ、楽だぞ」と言われたりして、「えっ?!」と絶句したこともあった。闘いの場がどんどん少なくなってきたとき、では、どんな目標を持って「さすらい姉妹」を続けていけばいいのだろうか、とモチベーションが揺らいでいた危機の時代が何年かありました。ですけど、やっぱり芝居が好きで、見せたいというか、場に立ちたいという強い気持ちがどうしようもなくあったんですね。だから続けてこられたのだと思います。それと山谷のお客さんは、わたしにとって上客だったということです。「大根」とヤジられることもありますけれど。
劇作家・三好十郎の本を読んでいたら、「三階席の客」という文章に目がとまりました。三階席というのは劇場の最上階の料金の一番安い客席なのですけれど、三好十郎は「その三階席のお客がどういう反応するかというのが一番興味がある」と言っているのです。わたしが山谷のお客さんを上客と言うのは、三好十郎が一番興味があると述べている「三階席の客」と通じるところがあるからです。帰るときにも、まだ芝居を心に残していて、あの男はほんとうに悪い奴だったなあとか、あの女はほんとうに可哀想だったな、といった感情をそのまま残して帰ってくれるからなんです。芝居とそれを観ているお客の関係というより、もっと芝居の中に入りこんでくれていて、舞台と観客の結界など簡単に乗り越えてくれる、そういうところがわたしが山谷のお客さんを上客と思い、好きなんです。
小見 山谷の客は上客だというのは、実に良い話ですね。
千代次 また「山谷」の映画の話になっちゃうんですが、わたしがこんなことを言っちゃうのはいけないと思うんですけど、でも言おうと思います。さっき映画の最初の暴動シーンに胸がドキドキしたという感想を述べましたけれど、その後の闘争に立ち上がった労働者や活動家たちが手配師や飯場の経営者たちを糾弾するシーンにはちょっと興醒めしました。その現場にいた三ちゃん(三枝)たちが来ている前でこんなことを言うのは申し訳ないんですけど、活動家の人たちの言葉や口調や表情がみんな同じで、つまんないなあ、という感じに見えてしまったからです。手配師や飯場の経営者たちのほうが、わたしは彼らを支持しているわけではありませんけれど、何か人間臭い感じで面白いなと思っちゃったのです。これはわたしの感覚的な印象であって、政治的な文脈で言っているわけではないのですが、こういうことだから闘争は続かなかったのではないか、という感覚を持ってしまったのですが……。
三枝 今、千代次さんが話した糾弾されている手配師や飯場の経営者のほうがなんか人間的な感じがして面白いという感覚は、ぼくもこの映画を観ていて感じました。そしてビビっと頭に浮かんだのは、フォーク歌手・友川カズキの「生きてるって言ってみろ」という激しい歌でした。労働者は手配師たちを激しく糾弾しているんだけれど、千代次さんが感じたように、言葉や口調が左翼の活動家たちのコピーというか、何か教条的でパターン化した感じて、生きている感じじゃないという印象なんですよね。そういうところが運動を行き詰まらせた要因だったんじゃないかな、と思いますけれど、では、どうしたらいいのかってことは、今浮かびません。
荒木 争議団の一員として、この映画を観て一番嫌だったのは、自分たちの運動の未熟さがもろに映し出されてしまっていた点だった。わしらは、後ろの仲間たちの気持ちを単に代弁するんじゃなくて、もっと労働者の気持ちを思いっきり引き出すために、前で演じなければならなかったのだと思う。
風間 さきほど千代次さんが、政治の狭さみたいなことを言ってましたが、芸能に比べると、確かに政治は狭い。政治の世界というのは、非常に狭い枠内で対立、分裂してしまうということが現実としてあると思うんですね。それぞれが労働者のためと言いつつ、分裂し抗争している。やはり運動をつくっている側としては、自分たちは正しいのだということを労働者に訴えて、労働者がどう立ち上がるかということで物事を決めていく。ただ、たとえばセンター前で手配師を糾弾する労働者たちの表情や言動が教条的でつまらないという指摘には一考の余地があるのではないか。あのような運動の状況をつくる過程、つまり手配師や暴力団に対して争議団という組織や労働者が、彼らを糾弾していく状況をつくるまでにどれだけの人間が血を流し、あるいは逮捕されたのか。そういう流れのなかで支配関係を変えてきたという背景があるからです。確かに、みんながそろって相手方を糾弾する労働者たちの表情は面白くないかもしれないけど、その背景も見ておく必要があるのではないかと思う。
もう一つ、この映画は山谷の事象を映しているけれど、単に山谷のことを、監督の山岡さんは映そうとしていたわけではなくて、山谷や、山谷の労働者はどうしてつくられてきたのか、その歴史と構造を映し出そうとしていたのだと思うからです。その問題意識は、現在においても、たとえば寄せ場の全国化とか釜ヶ崎の全国化ということが言われ、非正規労働者、使い捨ての労働者がものすごく増えているという事象にもみてとれると思います。かつて炭鉱労働者が使い捨て労働者として動員され、石炭の時代が終わるや棄民化されたように、現在も形態こそ違うけれど、非常に劣悪な労働条件で働く使い捨て労働や棄民化は続いていますし、外国からは研修生という形で動員されている。こうした構造的な問題を先行的に問題提起しているこの映画が今も上映活動を続けていることには大きな意義があると思います。ですから、政治の狭さという批判は、その通りだと思うのですが、構造的な諸問題をどのように変えていくかという課題はずっと残っていると思いますので、そういう観点で考えることも重要ではないかと思います。
千代次 この映画を観て、政治的じゃない方は、どう思われたのでしょうか? それが、わたしにはとても興味があるのですが……。
小見 そうですね。非常に興味深いんですけど、そろそろ時間です。千代次さんに一言、しめてもらって終わりにしましょう。
千代次 玉三郎への思いは強いのですけれど、思い出話をしている暇はないです。
小見 決意表明のような力強いしめでした。本日はどうもありがとうございました。

(2017年1月14日中野富士見町plan-B)

引続く棄民政策と被ばく労働者

山岡強一虐殺30年 山さんプレセンテ! 第2回

なすび(被ばく労働を考えるネットワーク)

 被ばく労働問題を運動に組み込めなかったこと

ぼくが最初に、この映画『山谷―やられたらやりかえせ』を観たのは、山岡さんが殺されて4カ月後の1986年5月のことです。当時ぼくは某工業大学の3年生だったのですけども、東大の五月祭で農学部が毎年面白い企画をしていると聞いて行ったところ、この映画の上映でした。じつはその頃のぼくは山谷という所など全く知らなかったので、この映画を観て非常に衝撃を受けました。というのは、ぼくの大学は工業大学ですから建築とか土木の学科もあるわけですが、でも、その産業の末端で、こんな労働実態があるなどということは教えないからです。
この時、上映後、現地報告に来られていた日雇全協(全国日雇労働組合協議会)の方にお会いし、自分の大学でも是非上映会を開催したいと相談をしたところ、上映委員会の方を紹介してくださった。そこからぼくは山谷に関わることになりました。
じつは、ぼくがこの映画を東大の五月祭に観に行った日は小雨の降る日だったのですが、その雨にびくびくしながら出かけたという記憶があります。それはなぜかというと、その前月の4月26日にチェルノブイリ原発事故が起き、放射能が風に乗って日本にも達しているので、雨にあたるのは危ない、という情報が流れていたからです。
ぼくの大学では、その年の秋の学園祭で『山谷』の上映会をやりましたが、その前に学内の社会系サークルが、公害被害者や被ばく労働者の撮影で著名な写真家・樋口健二さんを招き、講演会がありました。その時、樋口さんが話した「山谷、釜ヶ崎など寄せ場の労働者が、一番最初の除染現場、一番酷い環境で働かされている」という指摘も、ぼくには衝撃的でした。
そういう経緯もあって、ぼくは山谷に関わり始める最初から被ばく労働者問題というのがずっと頭にあったのですけれど、山谷での労働運動では、被ばく労働問題に対するきちんとした取り組みはできませんでした。それにはいろいろ理由があるのですが、そこは時間がないので省略します。
ですから、3・11の原発事故が起こった時に一番最初にぼくが思ったのは、山谷の中で被ばく労働問題についての取り組みをしてこなかったことへの、もの凄い後悔でした。
あの時、ぼくたちは、爆発する福島第一原発の映像と、ベントをするとかしないとか、海水で原子炉を冷却するとか、本当に手の付けられないような状況を伝えるテレビの報道を、為すすべもなく見ているしかありませんでした。誰かが原子炉の近くに行って作業しなければならないのではないか、と日本中の誰もが感じていた。でも誰が現場へ行くのか?
ぼくらはこの社会で最も虐げられている労働者の労働運動に取り組んできたけれど、被ばくを避けられず、そしてある確率で死が避けられない被ばく労働者の問題にきちんと取り組んでこなかった事実に、福島原発事故により直面したわけです。
実際の話、通常の運転でも、原発は被ばく労働者なしには動かないのです。福島原発事故が起こる前、例えば、慶応大学の物理の教員だった藤田祐幸さんが、横浜寿町の寄せ場で「労働者が働くことを拒否すれば、原発は止まるんだ。被ばくしながらそんな仕事をすべきではない」と警鐘を鳴らす話をしていたことを、ぼくは憶えています。でも、ぼくたちは、そのことを運動に組み込むことはできなかった。98年に行われた福島第一原発でのシュラウド交換の時は、「原発に行くな!」というビラを藤田さんとともに労働者に撒いてキャンペーンをやりましたが、それも一時的な取り組みでした。

「被ばく労働自己防衛マニュアル」

しかし、福島原発事故が起きてしまったあの時点において、危険だから福島第1原発などへ行くな、と言えたであろうか。誰かがその作業をしなければ壊滅的状況になるかもしれない、そんな緊急事態が起きていたからです。そういう大きな矛盾に直面し、これはやっぱりぼくらにも責任があるんじゃないかと、ぼくは強く感じました。
そしてぼくはその直後に、「被ばく労働自己防衛マニュアル」というものを作りました。それは、ぼくが山谷に行き始めた頃、寄せ場の日雇全協が作った「労働者手帳」をベースにしています。「労働者手帳」には、労働者が労働に従事する際の様々な注意事項や、下層の労働者が歴史的にどういう時代の中でどのように生きてきたか、殺されてきたか、という労働史などをコンパクトにまとめられています。それを参考に、原発労働者の雇用問題や放射線に関する問題点を列挙して作成したのが「被ばく労働自己防衛マニュアル」です。
先ほどぼくは福島原発事故に遭遇して、ぼくたちが被ばく労働問題にきちんと取り組んでこなかったことに強く後悔したと述べましたが、被ばく労働問題にきちんと取り組んできた運動というのは、いくつかの事例を除いて日本全体でもそれほどありません。ごくわずかの例としては、例えば岩佐訴訟や長尾訴訟のような労災認定を要求する裁判や、80年代に敦賀原発で原発下請労働組合が結成されたという事例がありますけれど、それ以外には、下請け被ばく労働者の労働運動について継続的にきちんと取り組み、その全貌の分かっている人はじつはほとんどいなかったのです。
ですから、これまでこの問題に取り組んできた方、警告を発してきた方、例えばさっきちょっとご紹介した藤田祐幸さんとか写真家の樋口健二さん、あるいは敦賀原発で組合を作った斉藤征二さんなど多くの方々に教えを乞うかたちで、この「被ばく労働自己防衛マニュアル」は作りました。
この「マニュアル」の制作過程で様々な関わりができ、この問題を運動として取り組んでいくためには、それまでやりきれていないみんなが集まって、知恵を出し合っていくしかないと感じました。そしてこうした取り組みが、その後、被ばく労働ネットワークというネットワーク組織を作る契機となったわけです。
ぼくたちは、下請け労働者で、とりわけもっとも被ばく量の多い所に送り込まれている労働者たちとどのように繋がり、その人たちを守りながら運動を進めていけるかという点を強く意識していました。当初、ぼくらは福島に拠点がなかったので、福島現地の労働組合に協力していただいて、そこでビラまきを行ったり、除染活動をしている労働者から相談を受けるという取り組みを始めました。

 ピンハネされていた危険手当

国の除染事業が本格的に始まったのは、福島第一原発事故の起きた翌年の2012年からですが、除染に行っていた知人(ここではAさんと呼びます)から「危険手当を払うと業者から言われたのだけれど、仕事や宿舎が同じなのに人によって金額がだいぶ違う。そのへんのことを調べてくれないか?」という相談を受けました。じつはぼくらは、その相談を受けた時、「危険手当」というものを知りませんでした。そこで調べてみると、除染事業を所轄している環境省のホームページに元請けが入札する際の工事仕様書があり、そこには除染作業に従事する全ての労働者に1日1万円の危険手当が出されることが記されていました。
で、そのことをAさんに伝え、仲間の労働者にも伝わりました。既にAさんを含む労働者仲間は業者に説明会を求めていましたが、その説明に納得しない4人が現地労組の組合員となり、「国から危険手当が出ているはずだ。それを労働者にきちんと支払え!」という団体交渉を業者と始めました。これがたぶん日本で最初の除染労働者による労働争議の発端なのです。
しかし、この時分かったことなのですが、じつは危険手当が出ていることをほとんどの雇用業者が知りませんでした。というのは、除染作業は、環境省からゼネコンが受注していて、その下に何次もの下請け業者がいるという構造の下で行われているからです。除染作業は公共事業なので、元請けのゼネコンは、設計労務単価で1人当たり1万5000円(2013年)、プラス1人当たり1日1万円の危険手当を国から受け取っています。けれども、そこからいくつもの下請けを経て実際の雇用は行われていて、下位の業者は詳細な明細のない人工(にんく)いくらの契約で上位会社から請け負っているので、本来そこに業者が手を付けられない危険手当が含まれるべきであることを知らなかった。結局、労働者の受け取るべき賃金のかなりの部分が、ゼネコンや上位の業者がピンハネしていたわけです。この争議のことを朝日新聞が取り上げてくれたことで、危険手当問題が一挙に日本中に広まったという経緯があります。
その新聞記事が出ると、ぼくたちの連絡先にひっきりなしに相談が飛び込んでくるようになるのですが、相談の内容は危険手当の問題だけではなく、時間外勤務手当が支払われていないことや、労災がもみ消されているケース、暴力支配が行われている業者など、様々な問題がバラバラと出てきました。そのほとんどの労働者が、雇用契約書すらありませんでした。少なくとも除染に関していえば、ウソ・騙しや違法状態が蔓延していました。
そういう除染作業を誰がやっているのかというと、収束作業などもそうですけれども、半分ぐらいは福島の労働者、あとの半分は全国各地から集まって来ています。最近は外国人労働者もけっこう増えています。
ぼくたちは、3・11福島原発事故を契機に被ばく労働問題について本格的な取り組みを始めたのですが、その時点において山谷はどういう状況であったかということについてちょっと見ておくと、山谷にはほとんど仕事が無いという状況になっていました。そして山谷のドヤでは8割以上が生活保護を受けて暮らしている人びとで占められるようになっていた。もちろん山谷でドヤ暮らしをしていて、そこから仕事に行っている人もいましたけれど、それは少数者になっていた。つまり、山谷は、労働市場としてはほぼ壊滅していたのです。つまり、山谷には労働という現場がほとんど無くなっていて、棄民化された状態の人たちの集住地域になっていたのです。

とんでもない条件で働かされる労働者たち

けれども、被ばく労働問題に取り組み始めてみて痛感させられているのは、被ばく労働者たちの明日の状況は、現在の山谷の状況なのではないかという思いでした。先ほど皆さんが観た『山谷』のドキュメンタリー映画に提起されているような、労働者が動員されて搾取の中に突っ込まれ、さんざん絞りあげられ、最後には棄民化されていくという流れが、福島原発事故の収束作業や除染作業において、いま現在進行形で観て取ることができるからです。
ぼくらが相談を受けてきた、まともな労働者として契約もされず、とんでもない状況で働かされている労働者たちの、少し具体的な事例をご紹介します。
これは福島で除染作業に従事しようとはるばる鹿児島からやってきたBさんという人の話です。Bさんは鹿児島で失業して職探しをしていたのですが、なかなか働く所が見つからず、ネットで見つけた福島での除染作業の仕事に応募しました。作業員を募集していた業者に連絡すると、「日当は1万5千円。すぐに車で来なさい」と返事がもらえました。Bさんは奥さんともトラブルを抱えていたので、離婚して自宅も売りに出し、そこでの生活を全て清算して出発しました。そして指示されるままに大阪に向かい業者に会ったところ、日当は1万2千円だと言われました。もう帰るところもないので泣く泣くこれを飲んだBさんは、高速は使わず下道で福島まで行くよう地図を渡されました。何とかいわき市に着くと、宿舎に空き室がないので、今晩はマンガ喫茶に泊まってくれと言われ、最初の一夜を過ごしました。そして次の日からは業者の経営する中古車店の倉庫の片隅をあてがわれ、しばらくここを住居にしてくれと、マットと寝袋を与えられ、寝泊まりさせられていました。そこから1週間ほど大工の手元の仕事をさせられた後、除染ではなく「現場は福島第一原発に決まった」と言われました。しかし、実際に仕事に就けたのはほぼ1カ月後でした。待機が続いただけでなく、食費は自己負担しなければならなかったので、手持ちのお金はたちまち底をつき、業者に借金しなければならなくなりました。
Bさんは、ここではとても働けないと思い、他の業者の所に面接に行きました。「今、どちらの会社で働いているのですか?」と訊かれたので、「××建設です」と答えたところ、「あそこは○○会(ヤクザ)だから…」「うちが潰される」と断られてしまいました。それでBさんは困り果て、ぼくらの所に相談に駆け込んだというわけです。
じつはこういう業者が少なくないんですね。なにしろ元請けから2次、3次の下請けはまだいいほうで、実際には6次くらいまで下請けがあるといわれています。そういう末端の下請け業者には、正式な下請け業者としての資格を有してないだけでなく、法人登記もなく、携帯電話1本で人集めして、ただ右から左へ労働者を送り込むだけという所が少なくないのです。こういう業者は、もちろん労働者と契約など交わしません。
ある除染業者などは、古民家が宿舎ですと称して人集めをし、実際には山の中の壁が破れ床が抜けたような廃屋に労働者を寝泊まりさせていたというケースもありました。食事は朝晩のみで、その食事もおかずは目刺し数本と野菜一掴みというものでした。さすがにこれは数少ない事例のようですが、労働者を暴力的に拘束して働かせている業者もいます。
こういうとんでもない業者というのは、もちろん一部であって全部ではないのですが、けれども除染作業や収束作業では、違法派遣で労働者を雇用することが普通に当たり前のことのように行われ、そのことが許されているという構造的な問題のあることは否めません。

 搾取の最末端から棄民となる――80年代の山谷と同じ状況

被ばく労働というのは、ある確率でガンになって死ぬということが前提になっている仕事です。そういう仕事に労働者を従事させるのは問題ではないか、と山谷に通い始めた当初から憤りを感じていました。
しかし、震災後にその問題に取り組み始めると、被ばくの問題以前に、基本的な労働問題、前述したようなデタラメな雇用問題に直面しました。ぼくたちが80年代半ばに山谷で取り組んでいた状況が、そのまま放置され、福島にも同様に存在しているという事実に対して、ぼくは愕然としました。
現実問題として、ともかく労働者の場合は、賃金の問題というのが当面一番大きな問題なわけですから、ぼくたちは最初の取り組みとしては、雇用者に対して労働者の当たり前の権利をまともに実行させることが必要だということで、労働相談や労働争議を積み重ね、国や元請けとの交渉を並行して行うという活動を2012年から続けてきました。
先ほども述べましたように、この問題は構造的な問題なので、個別の問題をそれぞれ解決すれば済むという話ではありません。原発事故直後は、収束作業に対して関心が集まりましたので、メディアも注目して問題点を突いた報道をしたため一定程度は以前よりは改善したところもありますが、根本的な問題の解消には未だ至っていません。とりわけ、収束作業の場合は、発注者が東電なので、契約関係がすごく見えにくく、賃金や危険手当などが今でもかなりグレイな感じは否めません。
というわけで、この映画の中で活写されている、過疎の地域から、あるいは貧困から、不当な労働に突っ込まされざるを得ない労働者たちがいて、かれらが搾取の最末端で使い捨てられ、最後は棄民となる状況、そのことが今、福島で再現されているのだということを、ぼくは福島に通い始めて改めて感じたわけです。

ある割合での死を容認されている被ばく労働

次に、被ばく労働の本質的な底知れぬ問題点、放射線被ばくの問題について話します。
被ばく労働者は、今、平均で年間20ミリシーベルトに達するとだいたいクビになります。少し大きな会社やまともな業者だと配置転換され、解雇はされませんが、前述したように実体の怪しい業者に不安定雇用されている場合は、仕事ができなくなれば即お払い箱となります。線量が危険水域に達したらクビというのは、本来労基法上は問題なわけですが、収束作業や除染作業に従事している被ばく労働者に対してはかなり多く当たり前のようにそれがまかり通っているのです。
では、多くの被ばく労働者がその制限値に達すると仕事ができなくなるという20ミリシーベルトというのはどういう数字なのでしょうか。これは基本的に原子力産業を進めているICRP(国際放射線防護委員会)が被ばく労働に従事する者に対して定めた被ばく放射線量の許容値で、日本でもこの数字を適用して5年間で100ミリシーベルト(年平均20ミリシーベルト、ただし1年で50ミリシーベルトを超えない)を限度と定めています。この20ミリシーベルトという数字は、人が18歳頃から働き始めて、仕事を終えるまでの期間を大体50年としますと、1年間に20ミリシーベルトを浴びた場合、50年間で1,000ミリシーベルト(=1シーベルトという値になります。その値を浴びる続けると、毎年0.1%ずつガンで死ぬ人が増えていくと見なされています。ということは、この被ばく放射線量許容値というのは、毎年0.1%の被ばく労働者がガンで死ぬということを、ある意味容認しているということも言えるわけです。
0.1%という数字がけっこう大変な数値だということは、例えば現在、福島第1原発の現場では、1日7,000人の作業員が働いているわけですが、その0.1%ということは7,000人のうち7人がガンになって死ぬという確率になります。
じつは、産業全分野の労災で亡くなる人のリスク確率は0.1%とされていて、被ばく放射線量許容値はそれと同じ数値が設定されているわけです。これは産業の利益とリスクとのバランスを考慮した場合、容認できる数値であるという位置付けなんですね。しかし、他の労働での労災は原理的にはゼロに近づけることができるけれど、被ばくを前提とした仕事は、それを完全に防ぐためには100%鉛で覆ったロボットスーツでも着て作業しない限り被ばくはするのであって、原理的にリスクをゼロにすることはできない。ですから、じつはICRPでさえ、しきい値はなく被ばく線量に応じて影響が出る可能性があると言っている。つまり、被ばく労働においては、0.1%の労働者がガンで死ぬということを、あらかじめ容認するしか術がないわけです。そこが他の労災と被ばく労働のリスクの本質的に違う点なのです。

 二重の意味での棄民労働

被ばく労働というのは、不当な雇用問題に加え、被ばくというのが避けられない労働という意味で二重の意味で棄民労働だ、と思わざるを得ません。
収束作業に従事した労働者は、3・11以降後、今では2万人を超えていますが、その中で国がきちんと責任をもって健康診断している人は、じつは900人程度です。もう少し具体的に見ておきますと、事故発生当初から同年12月に野田首相(当時)が収束宣言をするまでの期間、国が特例緊急作業と位置付けた収束作業に従事した労働者が主な対象で、50ミリシーベルト以上の被ばくをした人には白内障の検査、100ミリシーベルト以上被ばくした人にガン検査を、国は行っています。しかし、50ミリシーベルト未満の人は、その後の職場の健康診断で十分なので国は何もしない、ただし検査結果のデータは提出せよ、という対応です。つまり、国は、緊急事態宣言を発して労働者を最悪の危険な現場に突っ込んでおきながら、そのうちの900人程度しか国の責任で健康管理をフォローせず、残りの者は切り捨てているのです。50ミリシーベルト未満でもしきい値などなく、確率的にリスクを負っていることは明確なのにもかかわらず、国は対応をしない。これぞまさに棄民ではないか。と、ぼくは思いました。
日本の被ばく労働問題に対する対応は現在までのところ、そんな状況なのですが、しかし世界の原発所有国を展望しても、被ばく労働問題にきちんと取り組んでいる国は、じつはまだほとんどないというのが現状です。例えば、ドイツのように近年反原発運動が活発になり原発ゼロ宣言を打ち出した国でも、反原発運動の中でやはり被ばく労働問題というのが置き去りにされてきたという指摘がされています。

 被ばく労働についての国際連帯

今年はチェルノブイリ事故30年ということで、来月、ドイツで開催される反原発集会にぼくらの仲間が1人、呼ばれて行きますが、最近は他の国の運動機関からも「福島で働いている労働者の声を聞かせて欲しい」という話がよくあります。外国のメディアからの取材も増えています。けれども、被ばく労働問題に対する関心はやはり海外でも希薄な感じがします。
そういう思いもあって、ぼくたちは今、被ばく労働問題は日本から発信していかなければならないという思いと、国際連帯ということを強く意識し始めています。その取り組みの第1弾として、来週、「核と被ばくをなくす世界社会フォーラム2016]」という催しが東京で開催されます。その中で、福島第一原発周辺へのツアーを行うとともに、福島県いわき市でも集会を行います。このフォーラムで、ぼくたちは被ばく労働問題の分科会とシンポジウムを準備しています。チェルノブイリ原発事故で収束作業に従事した労働者2人をウクライナから招きますし、世界で一番原発を使っているフランスの原発施設で下請け労働をしているフランス人労働者や、お隣の国・韓国からも原発で働いている2人の非正規労働者をゲストにお呼びしています。
核と被ばくに反対していこう!というフォーラムなのですが、もちろん各国それぞれ事情は異なりますし、原発に対する考え方にも温度差があります。その中でも、末端で働いている労働者にはある種の共通性があるのではないかという思いから開催する集まりなので、自分たちがどうやってこの問題を受けとめて、取り組んでいくかということを大いに議論していきたいと考えています。

 国が進める姑息な動きに抗して

ご存知のように、今、国は原発再稼働に向けた取り組みに邁進しています。原子力規制委員会は検査結果の報告において「規制基準はクリアーしているが、原発は絶対安全とは言えない」と述べているのですが、「規制基準をクリアーしたんだから、さあ再稼働だ!」と国は勇み立つ一方で、例えば懸案事項の一つだった事故が起きた際の住民の避難計画なども絵に描いた餅のように現実性のないプランだけを掲げ、再稼働に向け突っ走ろうとしています。
また、上限100ミリシーベルトという緊急作業の被ばく放射線量許容値を、それでは労働者の仕事の場を狭めてしまうからと、いかにも労働者の味方みたいな理由を挙げて、250ミリシーベルトに倍増するため法改正の準備をしており、ぼくたちはこの危険極まる許容値案の改正に対して反対運動を起こしています。
それからこれもご存知の方が多いと思いますが、昨年10月、福島第1原発で働いた後に白血病を発症し現在治療中のCさんが労災認定を受けました。厚労省はこの労災認定を公表する際、科学的因果関係が証明されたわけではないとマスメディアに強調し、救済のために労災認定をしたといったニュアンスの説明を行いました。しかし、ぼくたちは今年の1月にCさんにお会いしお話を伺ってきましたが、決して認定基準を満たしているからと一律に決めるような通り一遍の手続きで認定されたのではなく、多岐にわたる検査データを国は医療機関に提出させていて、さらに親族の病歴までも調べて資料にしています。それらを元に専門家による検討会で審査され、Cさんの白血病は、他の要因というよりも、被ばくによる影響と見なすのが妥当と判断されて、認定されたものでした。それを率直に認めない厚生省の態度は、できるだけ被ばくによる労災認定は避けたい、他の労働者への波及を避けたい、という姑息な方針から出たものとしか思えません。ぼくたちは厚労省に抗議し、説明のやり直しを求めています。
この事例でも窺えるように、国・東電、そして収束作業・除染作業を国や東電から受注している業者が一体になって被ばく労働者の被害の隠蔽をはかろうとする動きが着々と進行しています。一方、そういう状況の中で、ぼくたちは、一昨年から毎年「被ばく労働者統一春闘」という形で、福島での情宣と相談活動、国・東電・元請企業への統一要求書の提出と交渉を行っています。そしてその報告集会を兼ねて、5月には250ミリシーベルト問題や労災認定問題を追求する集会を予定しています。その詳細が決まりましたらアナウンスしますので、われわれの取り組みに合同して参加していただければと思います。長くなりました。以上で終ります。
(2016年3月19日  plan‐B)

象徴天皇制の〈変貌〉

山岡強一虐殺30年 山さんプレセンテ! 第1回

天野惠一(反天皇制運動連絡会)

 二人の監督の死をめぐって

与えられているテーマは「天皇制の変容について」ということなのですが、本論に入るまえに、皆さんが先ほどご覧になったドキュメンタリー映画『山谷―やられたらやりかえせ』の初代監督でこの映画の制作途上で右翼暴力団の刺客により殺されてしまった佐藤満夫君と、佐藤君の遺志を継いでこの映画を完成させた直後に同じ右翼暴力団のテロにより殺されてしまった山岡強一さんの2人の監督と僕がどういう関係だったのかということをちょっとお話することで、自己紹介を兼ね自分の立ち位置をご説明しておきたいと思います。
僕が佐藤君と知り合うのは、80年代に入ってから僕らの立ち上げた「山谷越冬闘争を支援する有志の会」に彼が飛び込んで来て、「有志の会」のメンバーに加わり、「1年ぐらい山谷にはりついてドキュメンタリー映画を撮りたい」と宣言して以降のことでした。全共闘世代で逮捕歴もある彼は、全共闘の敗北後、商業映画やテレビの助監督をしていたのだが、その稼業から足を洗い、寄せ場に常駐し日雇労働に従事しながら山谷のドキュメンタリー映画を撮りたいと、僕らの仲間に加わってきたのだ。しかし僕は映画制作にはタッチしていませんでしたので、たまに「支援する有志の会」の会合で出会うくらいの関係だった。
ところが、佐藤満夫は、映画がクランクインしてまだ1カ月もたたない1984年12月22日に日本国粋会金町一家西戸組組員の凶刃により殺されてしまった。佐藤君は僕と同じ齢の37歳だった。
この年、僕たちは「反天皇制運動連絡会」という組織を立ち上げ、11月25日「日韓―核安保―天皇制を考える」というシンポジュームを開催しているのだが、この会の途中に彼が入ってきたのを、司会をしていた僕は確認している。それが僕にとっては佐藤満夫と接した最後になってしまった。
山岡強一さんは1940年生まれ。北海道の炭鉱労働者の息子です。山岡さんというと、なんだかよそよそしいので、僕たちの仲間が日頃呼んでいた「山さん」と言わせてもらいますが、山さんは68年に上京して寄せ場(山谷)に入り、「山谷悪質業者追放現場闘争委員会」を結成、81年に「山谷争議団」を結成、82年には「全国日雇労働組合協議会」を結成するなど、寄せ場労働者の運動に率先尽力してきた。また、山さんは、僕たちがやっていた「山谷越冬闘争を支援する有志の会」や「反天皇制運動連絡会」の運動にも精力的に関わっていた。言わば山さんは僕たちの同志だったわけです。
こうした山さんをリーダーとした山谷の運動や、その運動をテーマにしたドキュメンタリー映画の制作に対し、山谷での手配利権を脅かす存在として敵対したのが右翼ヤクザの金町一家西戸組で、その露骨な武装襲撃の標的にされたのが佐藤君と山さんだった。
山さんは、こうした運動を続ける中で、志半ばで斃れた佐藤君の遺志を継いで、ドキュメンタリー映画『山谷―やられたらやりかえせ』の監督を引き継ぎ、この映画を完成させたわけですが、その直後の1986年1月13日早朝、自宅近くの新宿の路上で日本国粋会金町一家の組員により狙撃され殺されてしまった。45歳の無念の受難だった。
実は山さんは、右翼テロの凶弾に斃れる10時間ほど前まで運動仲間たちと座談会をやっていて、その最中に僕は、山さんも参加していた「反天皇制運動連絡会」の機関紙の座談会のゲラに手を入れる作業をやってもらっていたのです。ですから凶報を聞いたときは、耳を疑うというか、一瞬頭が真っ白になった。
あの『山谷―やられたらやりかえせ』というドキュメンタリー映画を撮ろうとしていた監督2人が2年足らずの間に相次いで右翼テロによって殺されてしまうという異常事態に遭遇した僕たちは、直ちに「警察とヤクザの癒着を監視する会」という組織を立ち上げ、活動を展開しました。これ以上犠牲者を出さないためにはどうしたらいいかという防御策を必死に講じなければならないと考えたからです。
例えば、日本社会党(と当時まだ呼ばれていた政党)の議員に働きかけて山谷を定期的にパトロールしてもらいました。そうすると警察と裏でつるんで暴力を揮う右翼暴力団の動向があまり露骨でなくなりました。また、マスメディアの山谷報道が、まるで暴力団同士の抗争のように、「暴力団と山谷労働者の抗争」といった図式でしか報じられないデタラメさを解消させるため、閉鎖的な寄せ場の状況を正しく認識してもらうような情報発信していく活動もいろいろ行いました。それから寄せ場の孤立した閉鎖社会状況を、世の中にもっと広く正確に認知してもらおうという目的で、大学教授たちが中心になって「寄せ場学会」が結成されましたが、この結成にも僕たちは少しは協力しました。
完成した『山谷―やられたらやりかえせ』は、上映実行委員会が有志によって結成され、今日まで各地での上映会を続けてきたわけですが、当初は当時古書店をやっていた僕の店が映画の連絡先になっていた。店主の僕は店番をしてくれていた書店員に「右翼が襲撃してきたら、さっさと逃げろ」と言っていました。当時はそんな状況だったのです。
佐藤君と山さん、そして2人が監督して作った映画と僕との関係は、以上です。

整理し分析し、思想的に論理化していた山岡強一

では、本論に入ります。テーマは「天皇制の変容」についてということなのですが、さてどのようにお話しようかな、と考えていて、そうだ山さんも天皇制についてかなり論じていたなということを思い出しまして、彼の書いた本『山谷 やられたらやりかえせ』(現代企画室 1996年)を今回改めて通して丁寧に読み直してみました。で、改めて思ったのは、山さんという人物が、ものすごく「普通」ではないなってことでした。僕の思う「普通ではない」というのは、運動家としてあれだけ忙しく過酷な運動をしていた中で、論じるべき物事や問題点を本当によく調べて整理し、分析し、思想的に論理化しているからです。こういう人ってあまりいません。
山さんの本は、通常、学者たちが行っているような、研究者として、対象を客観的、論理的に整理し、分析するという手法で書かれたものではない。山さんのこの本は、寄せ場の歴史、運動を論じている本なのですが、それは自分自身が寄せ場の労働者であり、寄せ場で闘ってきたことを前提にしたうえで、自分たちがどういう存在なのかということを、歴史的に明らかにしているのです。つまり自分たちの存在が、社会的、構造的にどういうものなのかということについて、自分たちの運動という文脈の中で、歴史的に全体として整理し、緻密に分析し、思想的に論理化しているわけです。
特徴的なのは、ひじょうに古典的な労働者階級主義者だった山さんは、既存の大きな労働組合が中心の労働運動が、従来、寄せ場の下層労働運動を運動として評価せず見捨ててきた点を痛烈に批判していることです。一貫して寄せ場の下層労働運動に従事してきた山さんは、下層労働の労働様式、存在様式の方こそが本源的な労働者なのだと位置付けており、それを組み込んでこなかった従来の労働運動はまともな労働運動とは言えず、真っ当な労働運動の歴史にはならないだろうと指摘してきた。
僕は昨今、原発再稼働反対運動にも関わり、地方へも足をはこんでいるのですが、原発事故を起こし、すさまじい放射能被害を浴びて原発施設内で労働に従事している下層労働者たちは、放射能汚染は除去され、もう安全なので帰還しなさいと言われている避難住民たちと同様に、完全にあいかわらず国策民営化原発下の棄民政策の受難者だと思います。もし、山さんが生きていたら、この状況、この構造を、どのように分析し、思想的に論理化し、どんな運動として取り組むだろうか。そんなことが頭をかすめました。

戦前天皇制のアナロジーとして象徴天皇制を批判するという問題

またズレました。さて、どのように天皇制は変容したのかということです。根本的に天皇制が大きく変わったのは、敗戦を迎え占領下の時間の中でした。どう変容したのかと言えば、それまでの大日本帝国憲法下の天皇制体系から、戦後の日本国憲法下の天皇制体系へ、変わったということです。両体系の大きく異なる点は以下の点です。
まず戦前の大日本帝国憲法では、天皇は主権者として位置付けられています。主権者であり、現人神であり、神聖にして侵すべからずといった宗教的な存在として君臨していた。それから「統帥権」を持っていた。統帥権とは、軍隊を指揮監督する最高指揮権で、これを天皇のみが有していた。いわば軍隊は天皇の私兵だったわけです。警察も天皇のための「陛下」の警察でした。つまり国家機関全体が天皇のために存在するという構造になっていた。
一方、戦後の日本国憲法では、国民が主権者であって、天皇は国民の総意にもとづく象徴として位置付けられている。新憲法には、次の3つの原則があります。民主主義・平和主義・人権主義です。この原則からすると、象徴天皇制というのは原理的にそぐわないように思うのですが、そういうあいまいな構造の天皇制体系に変わったわけです。
以上の違いをご覧いただければ、戦前と戦後の天皇制体系が大きく変容していることがお分かりいただけるのではないかと思います。どうしてこのことにこだわるのかというと、あとで説明しますけれど、その変容について認識しておかないと、天皇制を批判する際に見当違いの誤解やあいまいな容認という問題が生じかねないからなのです。
実はこのことは山さんの天皇制批判や山谷争議団の運動における天皇制批判などにも認められるし、僕たちの運動においても、そういう傾向がなかったわけではないのですが、これまでの一般的な天皇制批判には、どこかに大日本帝国憲法下の天皇制をアナロジー(類推)して、現在の天皇制を批判するみたいな力学が働いているんですね。
山さんの本にも、戦後の新憲法において天皇制体系が変容したことについては触れているのですが、原理的にかなり変わってしまった象徴天皇制というものを、どのように捉え、分析し、現代の問題として思想的に論理化するかという思考の痕跡はない。もちろん、山さんのこの本は、天皇制問題を主題にしていたわけではないのですから、その部分の論考が欠落しているからといってあながち批判するのは失礼なのかもしれません。
僕たちが天皇制の変容についての認識にあいまいさがあったのではないか、と、ちょっと批判がましいことを言いつつ、そのあいまいさを黙認せざるを得なかったのは、当時、山谷では、寄せ場の下層労働者たちの労働運動が、天皇制右翼ヤクザの暴力的な襲撃にしばしば遭遇していて、実際に佐藤君や山さんが右翼テロで殺されるという現実に直面していたからです。リーダーの山さんが、これは戦前の天皇主義的なファッショ体制が再興してきているのではないかという危機感を抱いたとしても無理もない、そんな状況だったからです。
ご承知のように、戦前の日本では社会主義者たちに対する弾圧は過酷なものでした。天皇制の批判など公的には絶対に許されなかった。不敬罪という法律があって、最高刑は死刑に処せられた。作家の小林多喜二のように公安警察の過酷な暴力によって殺された者や、不当に獄に繋がれた者も少なくない。大日本帝国憲法下の天皇制時代においては、そういうことが公然と容認されていたわけです。
しかし戦後の日本国憲法では、天皇は「国民の象徴」といった極めてあいまいな存在として規定されてはいるが、主権者ではなく、不敬罪という悪法もなくなった。僕たちの仲間だった佐藤君や山さんを襲撃して殺したヤクザ組織の犯人は天皇主義右翼を標榜する組員だったが、だからといってそれが必ずしもまるごと象徴天皇制のもたらした犯罪だと決めつけることはできない。冷静に判断をするなら、それは市民社会の外の寄せ場に突出して生じた資本主義の闇の部分を構成する闇の軍団による卑劣な暴力と認識すべきではないかと考えられるからです。

ソフトな天皇というイメージに変容する中で…

戦前の天皇制について、中国文学者で魯迅の本の翻訳者として知られる竹内好という人が、それは「げんこつ」みたいな存在だったと言っています。要するに言うことを聞かない奴をガツンガツンとぶん殴る存在だというわけです。しかしこれには注が付いていて、天皇制というのは実は右手で言うことをきかない奴を殴るけれど、他方左手でよく言うことを聞く国民の頭をなでる慈父のような機能も備えており、この2つの機能を分析しなければ、天皇制の批判はとどかないと敗戦後から遠くない時間で述べています。これは天皇制の変容について考察する際にも、とても分かりやすい比喩ではないかと思います。
象徴天皇制になって何が変わったかということについて前述しましたが、非政治的・非宗教的存在として位置付けられたことです。つまり天皇は直接的に財政や軍事に口出しできない存在、政治権力から遠ざけられた身分になったわけです。これは昭和天皇と呼ばれた裕仁(ヒロヒト)が戦前まで軍服を着た天皇だったことをふり返れば大きな変容です。戦後の象徴天皇制が、その理念にそった実体だとすれば、「げんこつ」のイメージは後景に退いたことになります。しかし昭和天皇の在位時代は、大日本帝国憲法時代の天皇制のイメージの残像を払拭するまでには至っていなかった。
天皇制のイメージが決定的に変わるのは、昭和天皇が死去し、皇太子明仁(アキヒト)が天皇に即位して以降なのです。というのは、周知のように、明仁天皇こそが平和憲法下の象徴天皇にマッチした天皇という評価というか空気が広まり、軍隊や警察の暴力というイメージが後景に遠ざかり、平和憲法下のソフトな天皇というイメージが本格的に定着する第一歩が踏み出されているからです。
ところが全く皮肉な話なのだが、まさに天皇制の変容する、その時間に重なるように、山谷の寄せ場においては、天皇制右翼の暴力により佐藤君と山さんは殺されている。僕たちは、股裂きされたようなそんな時間と状況下で、変容した天皇制の問題をどのように考え、分析し、対決していくべきかという事態に直面したのだと思う。

反安倍の人たちもナショナリズムに取り込む天皇制

問題は、天皇制の変容により、ひじょうにソフトでやさしい、国民のことを常におもんぱかる天皇というイメージが定着する中で、国家が今、具体的には安倍政権が何をしているかということです。安倍は政権に復帰以降「戦後レジームのチェンジ」というスローガンを掲げて、勝手な憲法解釈をして集団的自衛権を主張できる法案を強行採決し、日本を戦争のできる国にする基盤固めを着々としている。そして平和憲法の改正を目指しています。つまりファッショ的国家主義的な国づくりを押し進めるという蛮行を果敢に展開しているのです。
これとは対照的に天皇明仁は、震災被害地へのお見舞いや太平洋戦争の内外の犠牲者にたいする慰霊の旅を行ってきた。昨年の8・15の式典では、日本が引き起こした戦争について反省の言葉を述べた。それに対して安倍が「戦後70年談話」で日本の戦争責任について自分の言葉で語らなかった態度は多くの人から批判を浴びた。
こうした中で安倍政権に批判的な朝日・毎日・東京新聞などでは、天皇の態度を褒め称え、「安倍のような軍国主義者に陛下はひじょうに困っている」といった論調の記事が散見されるのだが、安倍政権を支持し擁護している読売やサンケイは、安倍批判はせずに、もっぱら「天皇の平和を思う心は素晴らしい!」という論調の記事を書いている。
反安倍と安倍擁護の両陣営は、一見、意見が真っ二つに割れて見えるかも知れないが、実は「天皇(制)は素晴らしい!」という点では挙国一致しています。
メディアにおいては、安倍対天皇一族の関係は、今、そういう図式で描かれている。国民の間でもそういう空気が支配的です。しかし、それは事実としてどうなのか?
例えば、天皇制には、安倍に対してやや批判的な態度を見せることで、反安倍派の人たちを全部国(ナショナリズム)の内側に取り込んでしまうという機能があるからです。天皇制というのは、そういう機能を果たしている。実はそれは安倍にとっても長い目で見れば必要なことなのです。なぜなら、両者には、日本国と天皇の侵略戦争責任を問わないという共通の思想があるからです。
戦後の日本国家は、そういう形で成立し、そういう統合形態が形成されてきた。ですから、天皇が素晴らしいなんてことは全然無いのですが、「戦後レジュームからの脱却」を宣言し、戦前の日本帝国との継承性や復権を掲げて暴走する安倍とは対比的に、明仁の言動は平和憲法に見合っているというイメージが定着しつつある。
つまり、かつて山さんたちが闘っていた時間の中で暴力化した天皇主義右翼と対決し進めてきた国家再編とはかなり違った象徴天皇制国家の在り様が現実化してきているのです。それゆえ、こういう時代の中で天皇制批判を行うことがひじょうに複雑化し難しくなってきている。すなわち、戦後の保守権力の基盤で作ってきた戦後民主主義社会の全体をガードしようという天皇(制)と、それとはズレている安倍政権、それが一見は対立しつつ協力しあっている構造的全体、そういう国家の在り様みたいなものと闘わないと、現実的な運動は展開できなくなってきているのです。これは特殊な寄せ場空間で闘わされている言語では無理ではないか。僕はそう思ってきた。
今、僕たちが直面している課題は、象徴天皇制というひじょうにあいまいなイデオロギーで民衆を国家の中へ囲い込んでいこうとしている思想と体制に対して、どのように闘っていくかということです。
天皇制をめぐる運動においては、そういう問題が、今現在の問題としてあるということです。山さんたちが運動していた時代から30年経った今の時代の中で、いろいろ見えてきた課題について改めてどういうふうに考えていくべきか。山さんたちがやれたこととやり切れなかった問題をどういうふうに乗り越えていくべきか。そんな思いもあって、こういう報告をさせていただきました。ちょうど時間となりましたので終わりにします。
(2016年1月16日 plan‐B)

追悼 相倉久人 ――― たかが風景、されどジャズ

平井玄(批評家)

ぼくは相倉さんとは、3〜4回ぐらいしか会っていないんだけれど、いつも穏やかな人だったなあという印象をもっています。ときどき眼がキラッと光る時もありましたが、公家みたいなウリザネ顔で、起きているものごとをグッと離れてみる余裕を感じました。
今日、ここに来ている人の多くはぼくより相当若い方たちだから、これからお話する「相倉久人」って一体どんな人物なんだ?という人も多いと思います。
それで、相倉久人のプロフィールを紹介する前に、まず、60年代にジャズ評論家として活躍していた頃に、彼自身が関わった出来事の映像をちょっと見てもらいます。その空気を味わってもらいたい。そこから始めましょう。

 バリケードの中の相倉さん

まずこれは当時、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)のディレクターだった田原総一郎による「ドキュメンタリー青春」というドキュメンタリー・シリーズの1本です。1969年に撮られた『バリケードの中のジャズ』と題した番組の映像です。場所は大学闘争真っ盛りの早稲田大学、学生たちが占拠する4号館の大教室で、演奏しているのは山下洋輔トリオです。最初期のメンバーで、ピアノの山下さんにテナーサックスの中村誠一さん、ドラムスの森山威男さん。山下洋輔については、強力なフリージャズのピアニストとして今も活躍している人ですので、みなさんもご存知の方が多いのではと思います。
学園祭でのコンサートというのは今ほどではないが、当時もありました。でも学生と大学側とが対立していた混乱の最中の、しかも校舎を封鎖したバリケードの中でのジャズ・コンサートというのは、大学当局にとっては挑戦的な暴挙と映ったはずです。阻止できない勢いが学生たちにあったんですね。しかもこの時、山下洋輔の弾いているピアノは大隈講堂内に置かれていたものでした。早稲田に芸術系の学部はないので、ピアノは勝手に講堂から会場に運び込んだものだった。これを企てた学生側の張本人と、ぼくは40年後に仕事仲間として偶然出会うことになるんです。
いくつもの割拠した校舎に旗を掲げて陣どる左派学生グループ間の抗争、学内統治を回復しようと焦る大学当局の監視と、授業再開に向けて右派を使った襲撃、そして所轄や公安警察の包囲網が錯綜する中で、なにが起きても不思議はない。この緊張の中でコンサートを仕掛ける学生や押しかける学生たちがいて、臆せず出演するジャズマンがいた。しかもそれを撮影してテレビに放映をしている。そういうことが可能な時代でもあったわけです。物騒な事件が絶え間なく起きる。濃厚な空気が街に漂う毎日でした。
ご覧いただいた1シーンのなかに、「誰も席を立たない、バリケードとゲバ棒の中でのジャズ。彼はジャズについて一言も語らない。ジャズとは何か? 何のために? と彼に問う学生はいない」というナレーションがありますよね。ここで「彼」と呼ばれているのが山下洋輔であり、このジャズ・コンサートのプロデユースと司会を務めた相倉久人さんでした。この政治性が過剰な空間でいっさい言語的な説明をしない。音が創り出す空間性に賭ける。ここに相倉さんの頑強な姿勢がうかがえるんですね。
相倉さんは、山下洋輔さんと濃密な付き合いをしてきたジャズ批評家だった。実はジャズについて評論する人と現実にジャズを演奏する人との関係はなかなか難しいんです。音楽家の中でもとくにジャズマンは。1980年代に、ぼくもアメリカのあるジャズマン(ジョン・ゾーンですが)から「クリティックは裏切り者だ」と面と向かって言われたことがあります。フリージャズ派は一瞬の即興的な音に賭けている。横から余計なことをガタガタ言うなっていう気持ちが強いのでしょうね。しかしジャズに憑かれた者としては、時に演奏者と敵対してでも書かなければならないことがある。そういう覚悟がいる。なまなかなことは書けない。
その点、相倉さんと山下さんの関係は特別でした。相倉さんは、山下さんら当時の若いジャズメンたちと一緒にフリー・ジャズ運動を起こした批評家です。出来上がった作品だけを事後的に批評する立場でも、離れて楽理的に語る位置でもない。演奏法やスタイルに関しては、こうしたらいいんじゃないか――といった音楽的な指導や忠告めいたことは決して言わなかった。新宿ジャズの中心的なライブハウス「ピット・イン」に出演する山下トリオの司会役をさりげなく務めるだけ。それでも山下さんに対して、演奏の場の在り方や他のミュージシャンとの間で醸し出される音楽的空間についてはつねに示唆を与えていたと思います。ジャズメンたちに溶け込んで、演奏と同じ次元にいたんです。この時代、とびきり濃いマニアや猛烈にうるさい連中が集まる新宿で、自由でありながら緊張した「空気」を創り出していた。それがそのまま批評行為であり、かつ創造行為だったんじゃないか。まだ高校生だったぼくは、同じ建物で背中合わせにあった喫茶店の裏口から、その空間に忍び込んでいたわけです(『愛と憎しみの新宿』ちくま新書)。

映画に介入する相倉さん

それではもう1本の映像。やはり1969年に制作された『略称・連続射殺魔』(監督・足立正生)というドキュメンタリー映画を紹介しましょう。ほんとうはもっとずっと長い題名で、これはそのさわりのシーンだけですが。
当時、1968年の10月から69年の4月にかけて、日本の各地で4人の互いに無関係な人たちが銃弾で撃ち殺されるという事件が起こる。「連続射殺魔」と呼ばれたその実行犯はまだ19歳の少年でした。これは「永山則夫」というその人が生まれてから辿った足跡を、列島あちこちに追ったドキュメンタリー作品です。
無念なことに20年前の1997年に処刑されてもうこの世にいない人ですが、北海道の網走、番地のない呼人(よびと)番外地で生まれました。8人兄弟の下から2番目。父親はリンゴ栽培の剪定師でした。ところが父は博打に耽って家庭は崩壊、母もいなくなり、5歳の永山は残された3人の幼い兄弟たちとともに小屋の中に遺棄されてしまう。豪雪の中で食べるものもなく、港で魚を拾いゴミを漁る生活だったといいます。やがて母が帰った青森に引き取られるんですが、行商で母親は家にいない。家族にも疎まれて、何度も家出します。どうにか中学を卒業して東京に出ても、あちこちの底辺労働をさまよう前半生でした。
そこから連続殺人を起こして逮捕されるまでのジグザグな道のりが、「主人公がいない風景をひたすら映像化する」という手法で描かれている。ほんとうに日本列島を釘で引っ掻くような動きをした。どこにも定着できないんです。40年以上たった今見ると、埃くさい道とモルタルの家が連なる60年代の地方と都市の光景がたんたんと映っているだけ。なんだかNHKの「新日本紀行」みたいに見えますよね。このことはまた後で話しましょう。
この映画の音楽監督を相倉久人さんが務めていました。ここではまた別のフリージャズ音楽家たちの演奏をサウンドトラックとして用いる。富樫雅彦さん(ドラム)と高木元輝さん(サックス)の二人でした。相倉さんが、このころ火を吹く勢いの山下トリオではなく、富樫と高木の二人を用いたのはなぜでしょうか。これがどうも、ジャズに浸りきった活動家たちには不可解だったんです。山下トリオの演奏はくっきりとしたドラマツルギーを生み出していく。アメリカのジャズとも違うんですが、メロディが異なるどんな曲でも「起承転結」みたいな構造を帯びる。半世紀近くたって聴くと、これはどこか「浪曲的」かもしれない。とにかく聴く者に猛烈なカタルシスを与えてしまう傾向があったんです。だから若くて行動的な連中に人気があった。猛烈にヤル気がでるんです。
それに対して、より生成的というか、まったく音のない時間を含んだフリーフォームというより「アンフォルメル」(無定形)な音をこの二人は生み出していました。いわば「物語性」をギリギリまで削ぎ落としている。この即物的なぶつかり合いこそ、この映画にふさわしいと相倉さんが判断したからだと思います。この選択には鋭いものがあった。むしろ映像への「介入」なんじゃないか。といえるのは、だいぶ時間がたってからでしたが。これが『連続射殺魔』ではぎ取られた空間に関わっている。
そのように、相倉さんは、「場の在り方」とか「空間の質感」というものをいつも大事に考えていたと思います。「場」が立ち上がる瞬間や都市空間と音楽についてはとてもセンシティブで、いつも神経を研ぎ澄ませていたようです。たんに黒人たちの音楽だから、そのファンキーな感覚が好きだからというのではない。気流を感じ取るセンサーが鋭く働く人でした。軽い言葉で語っても、そこには巨視的な奥行きがあった。
ところが彼は、70年代の初めあたりからジャズについて書かなくなります。これに遅れてきたジャズ餓鬼どもは驚く。その理由として、激しい即興演奏が出現する場所、聴くにふさわしい濃厚な場、「ジャズが立ち上がる密室」のような空間が失われてしまったからだ、と彼自身が書いています。街頭も大学拠点も機動隊に征圧されて動乱の時間が断ち切られる。白茶けた70年代が幕を上げるとともに、空間の濃度が拡散していったと語っています。実際に、職業的な音楽評論家である相倉さんが1年間ほとんど何も書けない時期があったんです。
その後の相倉さんは、ロックを語りはじめ、さらにもっと密度の希薄な場所にふさわしいポップな音楽の分野に分け入っていく。いわば「無重力空間」の音楽を論ずる活動を長い間行ってきました。彼自身「宇宙人」なんて自称していた。80年代以降に音楽を聴いて育った人たちには軽妙な「ポップスおじさん」として知られてきたのだと思います。

「ジャズ批評」と「映画批評」

60年代末の高校時代からジャズにのめりこんだぼくが、ジャズについて何か書くようになったのは、相倉久人と平岡正明の二人に電撃的な影響を受けたからでした。1966年ごろ、中学時代にボブ・ディランやハードロックから黒人のブルースを聴きはじめ、ソニー・ロリンズのレコードを初めて手に入れる。高校に入ると、モヒカンの先輩がサックスを持って登校してきたり、クラスには増尾好秋という当時注目を浴びたジャズ・ギタリストの弟子がいたりした。まあ「ジャズの街」新宿の真ん中に飛び込んだわけです。68年からはピットインというジャズの店に入り浸りになってしまう。そういうちょっと尖った餓鬼にとって、相倉さんはライブハウスの暗がりで遠くからその存在を仰ぎ見ていたジャズ評論家でした。
そんなこともあって、だいぶ後、90年代半ばに何かの企画で新宿の喫茶店「らんぶる」の地下で相倉さんと初めて会う機会があったときに、かつて相倉さんと平岡さんがジャズを通して緊密なタッグを組んでいた時代の話になった。なにせ、この二人の書くものに出逢わなかったら、ぼくはこんな風にドロップアウトすることもなかったかもしれない。いや、いい意味でたいへんな恩人なんです(笑)。そのあたりを知りたくて訊ねたんですが、相倉さんは例の柔和な笑顔で「いや困った奴で平岡は……」と言っただけで、あまり多くを語らなかったんですね。意外でした。たしかにジャズに固執し続けた平岡さんと別のグルーヴに向かった相倉さんは、1970年代に入ると静かに別れていったように思えるんですが、そこを聞きたかった。以来ぼくは、その時の響きが頭の片隅に残り続けてきました。
すこし解説すると、相倉さんと平岡さんが知り合って思想的なコンビを組むようになるのは、『ジャズ批評』誌が創刊される1967年のすこし前でした。ぼくは68年に新宿高校に入学したんですが、先ほど言ったように、その直後からジャズに凝りはじめ評論も読み始めていたので、当時先鋭なリトルマガジンとして注目を浴びていた『ジャズ批評』も読みかじる。中学生の時に読んだ『スイング・ジャーナル』にはもう飽き足らなくなっていたんです。「黒人音楽」が「黒人革命」なんて言葉とセットになって飛び交う時代でした。そこで相倉さんや平岡さんの存在を知り、二人に誘われてジャズの世界に足を踏み入れたといっても過言ではありません。
ですから1970年に、この二人が松田政男、足立正生、佐々木守とった人たちと「批評戦線」を結成し、雑誌『第二次・映画批評』を創刊すると、この雑誌の読者にもなる。映画雑誌と銘うっても、政治や思想、芸術を横断する総合批評誌でした。今どきの言葉でいえばエッジの利いた雑誌だった。ところが、相倉さんは『第二次・映画批評』の同人メンバーのはずなのに遂に一度も書いていないんですよ。平岡さんの書くものとは別の次元で期待していたぼくは、このことを「一体なにがあったんだろう?」と長い間にわたって気になっていた。だから相倉さんに初めて会ったときに、その疑問を発したわけなのですが、その答えがさっきの「困った奴で……」というなんとも曖昧な言葉だったのです。
相倉さんと平岡さんの間に、どんな「齟齬」(そご)があったのか。個人的な感情の問題じゃなくて、その後もアジアの政治的な革命に賭けた平岡さんと音楽の感覚的な変容に賭けた相倉さんとの間で、なにか根本的な対立が生まれていたんじゃないのか? 相倉さんは正面切ったことは何も述べませんでしたが、先に触れた70年代にジャズ評論を止めてしまった理由と繋がるものがあるように思えるんです。

音楽と風景

それは別の言葉に言い換えると、今日の話のタイトルに掲げた「たかが風景、されどジャズ」ということではないか。つまり「均質な風景とどう闘うか」という時代の到来に、相倉さんはいち早く気づき、それまでの「ジャズの形」に別れを告げたのです。一方で平岡さんは、かえってジャズ的な密度や濃度にますます没入していく。
1969年1月に大学闘争の象徴だった東大安田講堂のバリケードが権力の強圧によって破壊されるわけです。この年を跨ぐと、大きく「時の手触り」みたいなものが変化していく。そう気づくのはしばらく時間がたってからでしたが、そんな曲がり角だった。ぼくらの世代というのは、小学生時代から「三種の神器」(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)と喧伝された家電製品がだいたいどこの家にでもある。大都会だからでしょうが、そんな高度成長の時代を生きてきた。高校生になるころには、資本主義というか企業の力は一層増大し、街にどんどんビルが建って、気がついたらぼくらの生きている空間は商品によって埋め尽くされていた! 騒乱罪によって人々が一掃され、運動も解体しバラバラにされて街に一人立つと、そういう大変容に改めて気づくわけです。空気が一変している。夢から醒めたのか、それともこれそのものがまた新たな夢なのか。
生まれ育った新宿の街並みについて振り返ってみても、60年代初めまでは目抜き通りの新宿大通りでさえ8階建てのビルは戦争で焼け残った伊勢丹と三越ぐらいでした。東口駅ビルも紀伊國屋本店も建ったのは64年。ほとんどが4階か5階ぐらいのビルだったんです。その中で、相倉さんや山下洋輔さんがジャズの主戦場にしていたライブハウス「ピット・イン」は、大通りに面した洋品店の裏側にありました。つまり紀伊國屋裏の路地にあるモルタル2階建ての構えだった。ジャズ喫茶はその洋品店の2階。ブティックとかブランドショップじゃなくて、ほんとによく駅前にあった昔風の洋品店です。これが60年代までの新宿という街の質感だったわけです。
ところが50年代の朝鮮戦争、60年代のベトナム戦争の後方生産基地としてこの国が貯め込んだ富のおかげで、街の光景も大きく変容していくんです。そのことをぼくらの眼にはっきりと見せたのは、1969年に京王プラザホテルが着工されたことでした。これが新宿西口副都心計画の超高層ビル第1号でした。この国最初の超高層ビル街が出現するのは1970年代の終わりですけれど、69年はまさにその分岐点だったんです。

音の思想家

相倉さんは、70年代の後半に『機械じかけの玉手箱』(1977年)、『ロック時代〜ゆれる標的〜』(1978年)という2冊の本を書いています。『ジャズからの挨拶』(1968年)や『ジャズからの出発』(1973年)というジャズ時代の本ほど注目されず、もう忘れられていますが、ぼくは今も時々読み返すことがある。これらの中に出てくる「機械じかけ」「ゆれる標的」「大量の音」という言葉を、変容した空間を解く重要なキータームと受けとめてきました。繰り返しますが、音楽の焦点も生演奏のジャズから電気的なロックへと一気に移る。その変容の特色として挙げられるのが、エレキ・ギターに代表される電気楽器やコンピュータ制御のシンセサイザーが登場したことです。現在ではアナログシンセさえノスタルジーの対象だから、不思議な言い方に聞こえるでしょうね。つまり、人間が手や口という生身に近いところで作り出す音ではなく、機械によって複次的に加工された音が音楽のベースになってきたことを、相倉さんは「世界」のなにか重大な変化の徴候として感じ取ったんですね。そこを批評の標的にしているのです。しかもテクノロジーは刻々と進化するから、音楽は常に動き揺れているわけです。
実は3年前に、ぼくは原発労働者たちの運動に関わるんですが、その後は肝臓の病気で足が遠くなってしまった。それはともかく、その立ち上げに際して、日本で最初に原発労働者組合を作った斎藤さんという人に話を訊く機会がありました。そのとき彼がこんな話をしてくれたのでちょっと解説しながら紹介します。
「半永久的に24時間にわたって大量の排水や排気が必要な原発施設内には、無数のダクトが張りめぐらされているのですが、地震とか津波で何か事故を起きると、振動でダクトが一斉にガタガタと物凄い音を立てるんですよ。高周波の金属音が機械だらけの広くて高い天井の構内で反響し合って、何十時間も続く。それはもうとても耐えられない大量の音なんです!」。
この話が喚起するイメージは強力でした。というのも、これは究極のインダストリアルノイズ・ミュージックじゃないか。長く留まれば死にいたる真っ暗な密室で何百というダクトがガンガン音を立て続ける。それは決して原発施設内に限るものではない。ぼくたちが暮らす日常の音環境が極限まで行った姿だろうと思うわけです。こういう「大量の音」に囲まれた生活世界がだいたい1970年代前半くらいに始まったんだと思います。事実、原発立地を札束で確保する「電源三法」が成立して、原発建設が始まったのは74年です。1980年代のドイツにも「アインシュテルツェンデ・ノイバウテン」という金属ノイズによる音楽ユニットが現れました。相倉さんは革命運動の敗北や社会的な思想についてはほとんど語らない。けれども、音をめぐる人々の感覚が変わっていくことを敏感に捉えていたと思います。それも「質」ではなく「量」として摑む。そういう意味では間違いなく「音の思想家」でした。

50年後に生きる音

東日本大震災で福島原発事故が起きた2011年3月から3か月ほど経った夏のことでした。ぼくは福島の脱原発集会に参加する機会に、南相馬の福一から20キロ圏ギリギリの地点まで行ったことがあります。経産省前のテントを立てた人たちのバスに便乗して行ったわけです。放射線検知センサーが鳴る高音の中、窓から見ると、太平洋から押し寄せた津波に人間の痕跡が完全に剝ぎ取られている。浜通りの海岸に近づくほど人が誰もいない。屍体は片付けられていました。家も土台しかない。そのもう少し手前でも瓦礫のすき間に放たれた動物が見えるだけ。夏の陽に照らされて静まり返っている。そんな村里の風景がひじょうに「きれい」で、高濃度の放射能で汚染されていることも一瞬忘れてしまう。ああ、これが自然なのかなあ! と錯覚してしまうほどでした。
さきほど『略称・連続射殺魔』の映像を少しご覧いただきましたが、少年の足跡をたどった風景は一見どこも風光明媚ですよね。緑が生い茂ったのんびりとした田舎の光景に見える。少年が劣悪な環境で幼いころを過ごした網走や青森の風景からは、とても食べるものもない生活など想像もできない。実家だったバラック長屋が軒をつらねる青森の町は、原発事故後の福島浜通りの町と異様なほどよく似ている。1968年の青森板柳町と2011年の福島南相馬の間には半世紀近い時間が流れている。ビルもスーパーもコンビニも建てられた。原発こそ「風景化」の最たるものでした。そして、バブル崩壊などを経た時間には地方の衰弱が訪れていたはずですが、そんなデコレーションみたいな表皮はすべてペロリと剝がされてしまった。風景が征圧した地肌が剝き出しなっている。
『略称・連続射殺魔』は、日本列島各地に延々と永山則夫の足どりを追って、そこで眼に入る風景ばかりを撮ったドキュメンタリー映画です。最初の画面に文字で4件の犯行について事実だけが示されると、時おり永山の軌跡を簡潔に語る足立さん自身による言葉が入るだけ。生い立ちや背景を説明的に描くことも、それに対する擁護や告発を示唆する映像はなにもない。人間を語る「社会派ドキュメント」じゃないんです。永山が見ただろう風景だけを、いわば永山の眼になったように撮る。
「風景映画」じゃなくて「風景論映画」と制作者たちが呼んでいたように、観る者に「この1969年の光景をオマエはどう見るんだ?」と問いかけてくる映画なんです。軌跡というくらいだから、永山の流浪とともに動く列車がやたらと出てくる。今の鉄男くんたちには半世紀近く前の「お宝映像」かもしれない。句読点みたいに「青空をバックにした大輪のヒマワリ」がこちらを見つめるんです。そんな明るい場面ばかりです。アルジェリアで育ったフランスの作家アルベール・カミユを思う人もいるでしょうが、足立さん特有のユーモアにも見えてしまう。
観る者の心象を引っ張るのは、むしろ富樫雅彦のドラムスと高木元輝のソプラノサックスなんです。この音はとても密度が濃いが、同時にカラカラに乾いている。引きつけられるのは、一音一音がのどかな画面を切り裂くような演奏をしているからです。一見穏やかにしか見えない、幼い永山や兄弟たちが置き去りにされた呼人番外地の路地が映るんです。捨てられた魚の粗やゴミ箱の食い残しをあさっていた永山兄弟の眼差しのように、ドラムやサックスの音が刺さる。永山則夫を想像しながら即興演奏したものでした。
その物質的な喚起力がすごい。なんの「起承転結」もない。ただ音がズンズン立っている。もう聴く者たち、つまりバリケードを積み上げて石を投げ、あげく何度も何度も催涙ガスの中で機動隊に殴られていきり立った「オレたち」です。頭に血が上った若造どもの下腹から突き上げてくる「怒り」なんかじゃどうしようもない時代が来ている。大学生や都心の高校生であるオレたちとは全然違う道をたどって、この日本列島をのたうち回るように生きた人間が、そう遠くないところに収監されているわけです。
撮られてから映画は7年間にわたって封印され、1975年にやっと公開されます。それは反日武装戦線の年でした。その間に時代の気流は激変する。この間、私たちが触れられたのはこの二人による映画音楽だけでした。『ISOLATION』として作品化された音と、そして足立正生、松田政男、平岡正明らによる言葉が、妄想を膨らませていく日々があったんですね。山下洋輔トリオのドラマツルギー過剰な音、そして富樫+高木のドラマツルギーを拒否する音。この両者をぶつかり合わせるその先に、なにか突破口を見るというか、聴こうとしたんじゃなか?
これらの音楽は半世紀たった今こそ生きています。これらを同時に出現させ、衝突させた媒介こそが私にとって「相倉久人」でした。

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相倉さんは、70年代初頭に「ジャズ評論家」という仕事を降りてしまいましたが、「ジャズ的な世界との付き合い方」と決別してしまったわけではなかったと思います。亡くなったすぐ後に、『されどスウィング―相倉久人自選集―』という本が出版されていることでもわかるように、彼はやはり「ジャズの人」だったのです。と言ってしまうとちょっと薄っぺらになりかねないので、こう言い換えましょう。
ジャズは言葉も祈りもすべて根こそぎにされた人々が、「敵」の音、楽器、方法を身につける中から、身を揺るがせる力を生み出す方法でした。そう「スウィング」ですね。それは形を千万変化させてきた。相倉さんは、変貌する「ジャズ」と呼ばれた音の歴史の中に、つねに人間の「正史」とは別の方法、別の形、別の生の軌跡を追い求め、それを自らの生き方の中に組み込んで生きたのです。
(2015年11月14日、プランB)