実録・山谷「現場闘争」を語る ー 山谷争議団三十年の闘い

三枝明夫&荒木剛 司会・キムチ

山谷争議団――初代代表の三ちゃんといまだ現役の又やん

キムチ コンバンハ、キムチです。通称名ですけど。この名前付けたのは二十歳頃で、すでに38年が経過しました。73年から山谷の現場闘争 委員会で寄せ場の運動に関わることになるのですが、日雇労働者としては、十八のとき高田馬場の朝の寄せ場でデビューして以来40年を迎えます。
さて今日は、山谷争議団が結成されて今年で30年を迎えるということなので、上映委に無理にねじ込んでミニトークの場所を設けてもらいました。ビラでは 「実録・山谷争議団」とされていますが、映画の宣伝ビラの調子で案内状を書いたので、上映委のほうで「実録」を付け加えてくれました。皆さんご承知のよう に「実録」と付けられたものほど、実態からかけ離れたものが多いということで、今回参加した三人の勝手な実録として理解して欲しいと思います。さらにもう 一つ、実は山谷上映委と山谷争議団はあまり仲が良くない。詳細はここでは省きますが、実質的な和解はできていません。それにもかかわらず、30年のテーマ を持ち込ませてもらったのは、ただただ上映委の皆さんの大人の対応だと思っている次第で、私たちはそのことを決して忘れていません。
さて今日は二人の仲間に登場してもらっています。一人は三枝明夫、仲間内では三ちゃんと呼ばれています。彼は私より前に山谷に流れ着き、学生時代は民青 で、山谷では東京日雇労働組合(東日労)で活動していました。東日労というのは72年8月、「悪質業者追放現場闘争委員会(現闘)」の結成前にあった組合 で、委員長は革マル派の人で、書記長には山谷のマンモス交番の警察官を刺殺し、現在30年以上も無期刑で旭川刑務所に服役している磯江洋一さんです。三 ちゃんとは現闘のときから顔は知っており、あいさつ程度の付き合いしかなかったのですが、磯江さんの79年6月9日単身決起があり、それを救援するために 現闘のときの仲間が集まって「6.9闘争の会」を結成したのですが、そのとき彼も参加してきたのです。仲間に慕われ、争議団のときの初代代表です。この映 画にもよく登場し、人パト(「人民パトロール」)での労働者への対応も三ちゃんらしい素朴な対応で、私はこの映画の助演男優賞は三ちゃんだと勝手に思って います。私と三ちゃんは、争議団での活動は87年ぐらいまでで、活動家としては足を洗い、ただただ生活と日雇労働に埋没してきました。私は20年以上どこ にも顔を出さず、6年ほど前から磯江さんの支援の運動の末席に顔を連ねています。三ちゃんは昨年暮れに磯江さんの集まりに25年ぶりに皆の前に出てきてく れて、「磯江通信」の発行を手伝ってもらっています。
そしてもう一人は荒木剛、又やんです。私が84年に山谷に復帰して以来の知り合いです。又やんは山谷に復帰して以来の知り合いです。又やんは争議団結成 前の「6.9闘争の会」の後期に参加しており、私と同い年です。彼は関西で中小企業の労働運動をしていたのですが、仲間からの誘いで山谷に入ってきまし た。本人の弁だと喜び勇んで山谷に入ってきたと言うのですから少し変わり者だと思いますが、少し変わった人間でないと寄せ場での活動はできないので、山谷 の水が合ったのでしょう。最近デモで13年ぶりに逮捕されたらしい。何年か前に又やんとデモに同行したことがあるが、一人で若くないのにワアワアわめく し、動き回って警察官を挑発している。私の記憶ではそんなに暴れる人ではないと感じていたのですが、今どきのデモは若い人たちも静かな対応なので、逆に目 立ったということです。
さて今日は山谷争議団結成30年の節目としての企画であります。話したいことは山ほどありますが、今日は「現場闘争」に的を絞って話を集約していきたい と思います。事件は現場で起きており、会議室ではないと言っていたのは、映画『踊る大捜査線』の青島君ですが、日雇労働者の置かれた状況でも問題の根っこ は、日々の生活-労働過程であると思われます。そこでの問題を明らかにし、変えていく手段も現場で展開されていきます。私は何年か前にテレビのワイド ショーで、湯浅誠が、悪質な貧困ビジネスを現場で追及する場面を見たことがあります。弁護士も同行し交渉する形で闘い方も随分と様変わりしたという印象を 強く持ちました。闘い方は変わっても、この闘いの獲得したものは大きい価値があると思います。
前置きが長くなりました。今日は私が特に話すわけではないので、二人の弁士に席を譲ります。では三ちゃんからお願いします。

現場闘争、弱者の闘い、『電車男』

三枝 ここに居られる荒木さんなんかはそこのまだ現役なんですけども、映画にあるような当時の意味での、山谷争議団とか、日雇全協の運動と いうのは今はもうないわけですね。そういうふうになってしまったというのは僕らの運動の弱さだったんじゃないかなあというふうに思ってます。ようするに、 敵を作って団結するという形しかできてなかったと。自分達の(主体性の)中身でね、寄せ場で再生産構造を作るというか…。映画では、(炭住がなくなって も)炭住の中でそこに生き残ってる人らと子供が出てきたりね、風呂に入って三橋美智也かなんかの歌が流れてるような場面がありましたけども、ああいう感じ がなかったというか(※①)
山さんが遺稿集の中で書いてますけど、寄せ場の周辺には朝鮮人(居住区)とか被差別部落とか売春街とか、そういうのがセットであるわけですよね。山さん もそういうのを、一つ一つ別々の差別とか、そういうふうに問題を立てるんじゃなくて、全体を統一して掬(すく)いだすような視点が必要なんじゃないかとい う風に言ってます。で、僕の場合、歴史の地縁性というか、そういったものの捉え返しが不十分だったんじゃないかなあと。だから今もそういう陣形が作れてな いんじゃないかなと、非常にそういう気がしてて。それで、この映画では「資本主義の近代」から山谷とかを説き起こしてますけども、もっと(遡って、例え ば)古代からの地縁性みたいなものから説き起こして考えていく必要があるんじゃないかなあと。というのは中世なんかでも、奈良とか京都とか都市ではね、 「非人」と呼ばれる人達が食うや食わずでたくさんいて、真言律宗の宗教者なんかが(今と全く同じように)、そういう人達の救恤(きゅうじゅつ)活動をやっ てるわけですよね。そういうのがずうっと今も、又ヤン(荒木さん)達がやってるホームレスの運動なんかにも引き継がれてると思いますし、そういう存在が単 に「資本主義(の近代)」とかいう事だけじゃなくてね、要するに国家の問題としてあるんじゃないかなという気がしています。
それで(ここから「現場闘争」の話に移る)、戦術としての現場闘争って、労働争議としてのね、現場闘争っていうのは今の山谷では行えるような状況ではあ りません。そういうところでは派遣労働者の運動とかに期待したいんですけども。まあそういう今の事は(現役ではないので)、僕は全然知らないんで、過去の 事についての能書きだけ言いたいと思います。
一つは、弱者の闘いだったという事。山さんも(映画の問題として)本の中で自己批判的に書いてるんですけども、僕らも含めて山谷争議団の人間がカッコ良く 映っちゃってるんですよね。あれがやっぱり、僕なんかは、スターリン主義に陥るような落し穴なんじゃないかなって思うわけです。山さんも(この映画では活 動家ではなく)労働者っていうものを撮りたかったんだろうけど、なかなかそれが力不足でできなかったということだと思います。
それで弱者の闘いっていうのをここ(ミニトーク用のレジュメ)でも書いてますけども、どんなことかといったら、テレビでやった『電車男』ってありました よね、ドラマが。あれじゃないかなあって思うんですよ。要するにカッコイイ人がじゃなくて弱い主人公ね。ものすごくオタクくさくて、なんかドジで間抜けで ね。それで(若い女性に暴力的に絡む酔っぱらいのオヤジに)足が震えながら抗議して。そしたら反対に打ちのめされたりするわけですよね。それで(酔っぱら いを)取り押さえたのはカッコイイサラリーマンだったんですけども。伊東美咲の沙織役のね、エルメスさんが――この人の名前だけは、美人で覚えてるんです けども――彼女が惚れたのはそのサラリーマンじゃなくて、カッコワルイ、オタクの主人公の電車男。それでなんでかなと思った時に、やっぱり弱い人間がね、 なんか逡巡しながら、迷いながら立ち上がるっていうのが人の心を一番ゆさぶるんじゃないかと思うんですよ。こないだのチュニジアの「ジャスミン革命」の始 まり(の焼身決起)も、現場闘争とかそういう組織化されたような運動もなんにもないような独裁政治の下にいた人(の行動)ですよね。物凄く苛められて、無 許可で売ってた果物とか取り上げられて、メシが食えなくなるって事で「立ち上がって」行ったと思うんです。それと『電車男』と、無理矢理つなげてるかもし れませんけれども、(電車男の行動も)そういったものだったと思うんです。で、そういうのが、この映画で描き切れてたかといったら、まあ難しいですけど ね、そこら辺が撮り切れてないなあというふうに思います。

寄せ場内部の目線と境界的な目線

そういう事ともう一つは、直接性。それまで、「行政闘争」はたくさん「東日労」などでやってたわけですけれども、「現場闘争委員会」(という組織)が やったのは、行政に文句を言っていくという形じゃなくて、『電車男』が電車の中で文句を言ったような異義申し立ての形とつながると思うんですよ。そこ(電 車の中)で見て見ぬ振りして後で駅員に、「こんな事があったぞ、オマエなんとかしろ」とか言うのが、まあたとえたら行政闘争だと思うんです。現場でやると いう事こそに意味があったんじゃないかと。で、それを組織していくわけですけども、そういう現場の人達が体を張る弱者の闘いっていうものは、後先の事も考 えずに自己犠牲的に自分を投げ出すと――これは「贈与主義」というか「純粋自己贈与」というか、そういうものだと思うんです。そういうものを組織していく 過程で、組織していくって事は政治的にやるっていう事ですから、そこでなんて言うかな、「労働者利用主義」みたいな形が組織の中にできる可能性があると。 そういうのも気をつけていく必要があるんじゃないかなと思います。
それで(現場闘争が)行政闘争なんかとちょっと違うのは、現場で一回性のものだと、ガチンコ勝負。やっぱりプロレスよりもK-1とか、あっちの方がおも しろいのは真剣勝負だからであってね。負けるかもしれないと。そういうところに崇高さというか、そういうものがあらわれて、やっぱり人の心をゆさぶるん じゃないかと。現場闘争っていうのは、(別に)労働過程っていう事に限らなくてもいいと思うんですよ。弱い自分を曝け出して投げ出すというところに大きな 意味があるんじゃないかと、そういうふうに広げて考えれば、別に労働過程の問題だけじゃなくて、いろんな所でいろんな取り組みの中で現場闘争というのはあ り得るというふうに、まあ思うわけです。
そしてそれを作り出したのは、労働者の、寄せ場の中の内部的な目線だけじゃできなかったと思うんです。やっぱりそういう闘争が起こった時代は、暴動など も60年代前後から起こるようになったんですけども、「現闘」(現場闘争委員会)が現場闘争をやりだした時代は、若い人が(寄せ場に)ドンドン来るような 構造があったんですよ。景気が良くなった時代だったと思うんですけれど、そういう新しい人達が境界的な目線を持ってね――内と外の目線を持って、つまり 「活動家的に」という事だと思うんですけども、やり始めたからこそ闘いが起きてきたんで。抑圧されてるから闘いが起こるんだとかただ単に言うのは、あれは なんか嘘だと思うんですよね。奴隷なんかは文句言わないから奴隷が成り立つわけでね。で、奴隷の闘いも、そういう境界者が現われてね、起こっていったんだ と思います。だけど、そういう境界者が本当の外部者になってしまって、その内側の人を利用するような形になると、そこにスターリン主義みたいな形の、落し 穴があるんじゃないかというふうに考えています。

末端・周縁で下層同士が闘わされる

筑豊とかいろいろ映してましたけど、そういう闘い(炭鉱とか寄せ場とかの労働運動)が起こる現場っていうのは、2008年の11月29日のミニトークで 平井玄さんという人が、「都市の壊れ方」というタイトルで話されてるんですけども、「本源的蓄積」っていうのが現われた場なんだというふうに言われてま す。
「本源的蓄積」っていうのはどういう事かと言いますと、マルクスの『資本論』に書いてあるそうですけども、資本主義っていうのは一見公正な商取引みたい な形で思われるんですけども、資本主義がその一番最初にやるのは農民を無理矢理都市に囲い込むような暴力的な仕方であって、その中で労働者が作られていっ て初めて可能になったというようなことです。平井玄さんは、そういうことが最初だけじゃないと、常に資本主義はそういう「本源的蓄積」を繰り返しているん だと、アルチュセールとか難しい人の名前を出して言っておられるんですけども。今のパソコンの言葉で言えばリセットして初期化するんだと、その初期化が 「本源的蓄積」であるというふうに言われてます。だから、今だったら非正規社員雇用とかの問題がそういう「暴力的」な、強制的な「本源的蓄積」の問題にな るんじゃないかと。まさに今の山谷の棄民政策みたいなものもそういう事だと思います。
この「本源的蓄積」が表している(問題)は資本主義だけじゃない。国家そのものの在り方っていうか、国家のはじめの在り方がそういうふうに、暴力を下に 転嫁していくという構造を表しているんだと思います――まあそこらへん(の問題)はちょっと場が違うからあまり言いませんけども――そういう暴力の発生っ ていうのは、(起源は)人身御供とかそういう事だと思ってまして。それで、戦争などの復讐とかいう問題も、人間の文化の「人身御供」とか「生贄」とか、そ ういう事の中から考えていく必要があると思います。それに「本源的蓄積」っていう問題が重なっているんだと僕は思うんですけども。
さっき(映画で)金町一家が出てきましたけども、(国粋会金町一家との闘いの)一番最初の発端となった件に、皇誠会っていう連中が右翼の服着て山谷争議 団に襲ってきた事件があったんです。考えてみたら、その彼ら(先頭に立たされていた黒い制服の若者たち)っていうのは、数年前に山谷で僕らミニ暴動を起こ したんですけれど、その時に一番先頭に立って闘った悪ガキどもじゃないかと。その時、先頭に立った(日雇い労働者)は酔っ払いが多くてね。「こいつら役に 立たんなあ」って思ったのですが、それに比べると、この悪ガキどもはオロナミンCを投げちゃあ引き、投げちゃあ引きって、すごく遊撃的に闘っていて、頼り になるなあって思ったんですよ。その子らが今度は皇誠会として現われる。それから、昔から今も続いてますが、悪ガキによるホームレス殺人事件があります ね。それに対して死んだ山岡監督が「彼らは自分の未来を殺したんだ」という言い方をしたんですね。その時はよく(意味が)分かんなかったんですけども、 (今になると)なるほどなあって思って。要するにそれは「他我殺し」っていう――アルター・エゴ(他我)っていう言い方が、心理学とか人類学であると思う んですけども――自分自身の将来(過去)とか、違った自分を殺すという形。暴力っていうのは(全部)そういうもんじゃないかなと。歴史的にみると、あの、 「金太郎伝説」がありますよね。あれは鬼退治、「酒(しゅ)呑(てん)童子(どうじ)」っていう鬼を退治しに行くんですけども、あの「酒呑童子」に「捨て (すて)童子(どうじ)」伝説――山中に捨てられると強く育ち、やがて英雄になるというような伝説があるんですが、それが(敵対する)「金太郎」とか「四 天王」にもね、纏わり付いてるんです。だから両方とも本当は鬼なんですよね。それを僕は、「オニオニズシキ」(鬼vs鬼図式)っていう言葉を、自分で勝手 に作って言ってるんですけども。(同じ意味を持った言葉に)「夷を持って夷を制する」という言い方があります。蝦夷退治に行った人で阿部氏とか佐伯氏とか は、坂上田村麻呂よりもちょっと前の人なんですけども、そういった将軍も(元々は)蝦夷(の血統)なんですよね。そこら辺は谷川健一の「白鳥伝説」とか菊 池山哉とか読んでもらうとわかるかと思います。
要するに、国家っていうのは、(位階制(ヒエラルキー)の下で)下層の一番末端とか周縁で、同じ階層の者が戦わされていく(機構である)と、例えば今の 戦争でもそうだと思うんですよ。構造は変わらないというか、弾先に立つ人っていうのは食い詰め者の志願兵とか、強制徴用された人とか(※②)、あるいは金 で買われた傭兵だとかね。与謝野晶子の歌に「すめらみことはたたかいに、おおみずからはいでまさね」とかなんとかいう歌があると思うんですけれど、結局戦 わされてるのは下層同士というかね、周縁というか、そういう部分だと思うんですよ。そういう(国家の罠である)暴力の図式っていうのを越えてく必要がある んじゃないかなと思っています。
ただ、今の民主主義の世の中では(国家の暴力性を隠ぺいしたまま、抑圧されている人だけの)暴力を、いけないというふうに言うわけですよね。それがお説 教として、むしろ(支配の暴力に対する)反撃を抑圧するような形であるんで、そういうお説教にならない形でどうしたらいいのか。結局死刑なんていうのも 「やられたらやりかえせ」ですよね。そういうの(報復暴力=敵討ち)を国家が管理してるだけであって。それについては、ミニトークで丸川さんっていう人 が、「みせしめのポリテクス」というタイトルで言われてるんですけども、(映画で)最後のラストシーンがありましたよね。手配師を段の上で土下座させて謝 らせてる。あれは「公開審判」であるというふうに言われてるんですよね。「公開審判」っていうのはもっとたどると「公開処刑」(公開の死刑)なんですよ。 「公開処刑」をもっとたどると結局「生贄」(※③)なんですよね。そういう形で僕らもやってきたわけですよ。それで山岡さんも映画を撮っていて気付いてい てね。この黒いパンフにも、「未来を予感させるには、現実の貧しさを映さざるをえない。その貧しさからにしか可能性はないのですから。それで、山谷の春闘 に戻ったわけです。今の我々の<やられたらやりかえす>力量だからです」って書いてますけども(※④)
僕の場合、「<やられたらやりかえす>力量」の問題としてより、むしろ、映画のタイトルでもある、<やられたらやりかえせ>というスローガン自体が、深く問い直される時期でもあると考えています。

みんなで作って一緒に食べる――共同炊事を起点として

荒木 ええ、前の話とどう切り結べばいいのかというのが非常にありまして。「現場闘争」という題なので、まあ三ちゃんやキムチなんかが離れ た後の、いわゆる90年代バブルの時期、94年なんですけれども。まあ93年から準備していた山谷労働センター占拠闘争について報告しておきます。野宿者 であっても、現場闘争は成立するというふうに私は考えてます。ある意味では一種の思想である。で、現場にしか解決能力はない、ただそのヒントは現場主義に 陥っている現場だけにはないんじゃないかという事を含めて報告します。いわゆるバブルが崩壊して、野宿者が山谷の周辺で一挙に増えたのが88年、消費税3 パーセントのとき。まあ仲間のみんなの生活が限界賃金に近い、生活のギリギリのところになって、ドヤの値段が上がったんですよ。1,000円が1,200 円とかね。それで一挙にダンボール村というのが隅田川沿いにできたりとかいう、そういう時代です。それでバブルが崩壊して、93年位から労働センターがド ヤ券とかパン券、そういうようなものを出すんですよ。ひと月の内に4日、5日とか何回かパンがもらえると。それでセンターのまわりをみんなグルーっと並ん で待ってるわけですよ。仲間が列を作ってひたすら下向いてずうっと待ってる。それでその前の年から何人かの仲間がこういうのをなんとかしなくちゃアカンと いうことで、共同学習みたいなことをして、93年の夏祭りには共同炊事ということをやって。活動家が作って、それを労働者が受け取って食べるというような 形をぶちこわしたいという事で。みんなで作ろう、仲間が共に、仲間と共に。みんなで作ってみんなで食べようというようなスタイルを実験的に夏祭りの場で やったりして。それで越年期を終えて94年に入って、センターの列がどんどん伸びて明治通りまで行って、みなさんは地理感覚がないと思うんですけども、そ れがドンドンドンドン伸びていくんですよ。みんなひたすら俯いて待ってる。
  それで他の争議団のメンバーに言ったのは、占拠闘争はできると。もう包囲、突入、占拠と進んでいって、包囲は労働者の形で、あとは俯いてじっと待ってるの がね、上向いてね、拳でも振り上げればこれはもう占拠になっちゃう。そして活動家が一緒にやるというスタイルで集団野営、共同炊事。センター前にみんなふ とん敷いて夜は寝て。共同炊事というのはテキ屋さんが街頭でやってるような十字の形の入れ子のもので台作って、そこで物を販売してるというのをね。これを 発想したのはみんな若い仲間でね。わしらが別に考えたわけじゃなくて。そういうのを含めて、台をずうっとセンター前の道に並べて、かまどで火炊いて。た だ、米を研いでね、それでもうかまどにかけて後はくべるだけというのだと、みんなが参加できるというのにはほど遠い。で、パレットを壊す人とか。パレッ トっていうのは焚き火の材料です。材木をね。それとテーブルの上で、みんなで小麦粉に水をちょっと入れて団子作って。昔の、今の若い人はほとんど知らな い、すいとん。団子を作って、野菜を切って。そうした団子作りならね、みんなでテーブルを囲んで一緒にやれると。ところが仲間は野宿している人が多いです から、みんな荷物持ってるんですよ。荷物持ってて置いといたら、どっかいっちゃったというのがあるからというので、作業時間帯はまあ会館で荷物は預かりま すよと。山岡さんが亡くなった事をうけて支援の人を含めてみんなで労働者会館というのを建ててましたんでね。夜みんながあそこでどうやったかとか、あそこ で野宿したとか、俺は仕事行ってるぞとかね、そんな話をしながらテーブルで団子作り、すいとん作りをするんですね。まあ3,400人いたら3,400杯分 作って。これが最後に750とか800位になってきてね。もう帰山(かつての山谷のボス)の家を越しちゃって裏までテーブルを出さなきゃならなくなって。 全体が全然見通せなくなるような形になるんですけども、一緒に作って、みんなで一斉に食べるというのはできた。

200名の仲間が山谷労働センターを占拠

夜そのセンター前で寝る仲間は、常時では40人位なんですけどね。正確には2月の頭から始めたのかな。それで2月の14日に新宿で一斉にみんな追い出さ れた件があったんですよ。96年の強制排除の前に94年2月17日。それでそこに行ってた争議団メンバーから2名がすぐさま新宿に飛ぶ。そういう気運は あったんですよ。みんなで一つのものつくっていこうというね。それで釜ヶ崎から勝利号というバスを空のまま借りて。昼間は40人位が寝て、炊事作業の中心 になって動いてくれる仲間と一緒に、昼間は新宿に行ったり、あるいは池袋に行ったりして仲間に出会うのと、あとカンパ活動。ふとんとか毛布とか手に入れた りね。そういうのをやってる中で、5月連休中。公共投資のサイクルで寄せ場の仕事が決まっててね。現場の役人なんかもみんな知ってるんですよ。5月期は全 然仕事がないのをね。ところが東京都なんか硬直してるからね。年末年始、3月位まで、12月から3月位まではあるんですけど5月ってないんですよね。これ は相当議論になりました。私も蜂起派というブント系の活動家なんですけども、他の党派の人なんか「そんな無茶な方針」と言って。無茶な方針といっても労働 者はそこでとにかく占拠に向かって、包囲はしてんだよと。それに答えるか答えないかだけやというような形で、論争もしながら気運は盛り上がっていって。そ れで5月の3日だったかな、200人、常時夜寝てたのが40~50名で、前日か、その前あたり1週間位はもう90名位寝るようになったけどね。200名近 い仲間が一晩占拠して。それで向こうの方は、東京都の方はてんやわんやしたけども所長が出て来て、土下座して。とにかく東京都に自分が責任持って請負っ て、ちゃんとやりますと。仕事とかパン券とかドヤ券などの改善をはかりますという形で、1日の占拠ではあったんですけどね。
ただこの途中に、わしらにとって一番大きかったのが94年の1月1日。この94年、94年1月1日って何か思いません? ない? いわゆる「新自由主 義」という言葉が初めて自分の頭の中に入ってきた。この1月1日にメキシコのチアパスという所でサパティスタというのが武装蜂起したと。で日本の現実じゃ なかなかこれが伝わらないんですけども。世界の基準で言えば伝わるものがあるんです。サパティスタは権力奪取を目指すんじゃなくて先住民の当然の権利、公 正で平等な権利の為に、それを訴える為には武器、銃を。もっとも大半は銃の形をした木のやつですよ。それでたちあがったんですよ。自分達は軍であると。暴 力の問題を出ました。自分達は、自分達の存在が一刻も早く消滅するように軍に志願したものであると。で、これはいわゆる「釜共」「現闘」の先輩方から教え られていた問題の先取りしたものだろうと。そんな情報が伝わってきたのは2月とか3月の時期です。その先輩方というのは、船本さんとか、磯江さんとか、あ るいは殺された佐藤さん、山岡さんとか、そういう仲間の事を含めたものですけども。チュニジアの彼は尊厳をかけて焼身決起したんですよ。それでイスラム世 界での宗教的な最大の課題である、自分の恐怖心を克服する、そういうのを突破したわけです。「新自由主義時代」の中での民衆が革命までいっちゃった、ほん とに。まあそういうようなことが同時代にあったんですよ。
そういう気運の中で新宿に飛んで。96年のことを多くの方はあまり知らないと思うんですけども、新宿での野宿者の闘いが始まったんです。その中で94年 には占拠闘争っていうのがありまして。センターは、そうやって一晩占拠されて、所長が出てきて、東京都と掛け合ってという事については一切マスコミは伝え ません。確か、その時マスコミにも伝えたはずなんですよ。けれども取り上げてません。なんか夕刊紙が一つ、ちょっと窓口が混乱したみたいな形で。というの は、センターの方が占拠された事を認めてないという形になってるんですよ。毎年発表する事業概要でも、窓口が混乱したみたいな形で。生存の淵にさらされた 野宿者が占拠するというのは、ちょうどこの94年の5月なんですけども、同時期だよな。フランスでドラワゴン街の占拠闘争というのが同時代性としてあった んです。ただ日本ではないという形にされている。現場の力が発揮できない形の、最大のものと思いますね。ああやっぱり日本の常識というのは外から見て、相 対化して、あまりにも非常識な事が多過ぎる。それ以降、2000年代入ってからは、持たざる者、ノードックスという連帯行動をやらしてもらいますという形 できましたけども。去年位からまた現場に復帰せざるをえなくなったというような、いわゆる混迷よりも苦難な時にあります。ただ今の94年の話の中にその現 場闘争のポリシーというのがあらわれていると思います。それで、わしらは仲間が思いっきり、当事者が思いっきり立ち上がる為の条件を組織すればいいんだ と。別段占拠とか、包囲とか、突入とかいう声をかけなくても、立ち上がる条件を組織したら、もうなっちゃうというのを実体験したという事です。

流動的下層労働者と日雇い派遣と野宿者

キムチ ああ、どうもごくろうさん。予定時間あと数分しかないんですよね。それで、今日初めて観る人達が二人の話を聞いてどういうふうに感じたのか。何かわからない事がありましたら、質問を受け付けます。知ってる人の質問はなし。はい。
参加者A 今日は茨城から来ました。あまりこむずかしい事は僕はよくわかんないんですが、マルクスの「資本論」を読もうとしたんだけど、難 しすぎてちょっと挫折しまして。今、僕は35なんですけども、若い人の就職が難しいとか職がないとか、そういう話題になってますけど、それについては持論 はあるんですけど、いろんな仕事やってきたから。それについてどう思いますか。まあ日雇いとかじゃないかもしれないけど、例えば大学生が就職難とか、途中 で辞めた人がまた別な仕事に移っても続かないとか。派遣切りされるとかで結局仕事がないとか。若い人でも生活保護を受けてる人もいるんですよね。テレビで 特集していたけど、その生活保護費でゲームしていて働かないと。まあそういう、現代の若者像を見てどう思いますか。
キムチ 私自身、日雇いを長く続けてるんですけれど、この20年間位の職場の関係、労働現場っていうのは、確かに日雇い労働っていうのは 3Kでキタナイ、キツイ、あともう一つはキケンか。危険だよなあ。鳶職やってたからねえ。キタナイ、キツイ、キケンっていう形でやってたんですけれど、私 はそんなに悲惨だとは思った事はないんですよ。どんな仕事であってもキタナイ事を片付けるのは労働過程の中で必要なわけですよ。キケンな事も必要な仕事の 一過程だから。一番上に立ってる人も一番下にいる人も仕事の過程としては一つだと。私は一番下で働いている者として、そういうふうに考えてきました。そう いった意味で、今の若い人達の仕事がない、生きるのが辛いということを聞いた時にね。確かにひどい状況だと思います。ただ、私自身が現場で経験してきた事 は、時代が違うと言われると思いますけれど、その日、お金がなくても余裕を持ってて。明日また仕事行けるとかね。その日、金がなくてもいいというような形 で生活、労働してきた者としては、若い人達のその辺の苦労がなかなか実感としてわかんないんですよ。仕事自体はいっぱいあると思うし。どんな仕事やっても 基本的には生産過程の一つだと思うわけですよ。確かに今の時代、仕事は少なくなってきているし、若い人達には仕事がないと思いますけれど。
荒木 70年代前半や60年代後半、今の人はわからないと思うんですけど、臨時工、社外工というのがあったんですよ、昔から、戦後から。そ の社外工のもとに必要になった時に組夫という形で、臨時的に動員されるのが「釜共」「現闘」が言っていた「流動的下層労働者」だと思ってます。現在で言え ばいわゆる派遣。日雇い派遣と言われるようなのが一番まあ近いだろうなと。今、野宿者に多くの仲間がなってるわけです。高齢化して仕事できなくて。そうし た時に、世間が言うところのいわゆる「乞食」「浮浪者」も含めて、我々の範疇に入ってきていて。今回、帰宅難民ということで、公共施設をすぐさま解放しま したけども。野宿者に関しては、公共地から排除します。人権問題で生存の危機にある人を、どこの国でも対策の最初にやる事は公共地を夜間解放するんです ね。だから日本は逆方向ですよね。そういう現状をふまえれば、私は若い人の方が困難があると思ってます。私達は高度経済成長期の中で自分で好きでおりて いったんですよ。そういう事もできる時代だった。今はそういうことはなにもできなくなっているという意味で困難な時代ですね。もっと大胆に働かないぞとい う形、高円寺の「素人の乱」みたいなね。自分達でリサイクル店をやったりとか。もっともっとああいうようなことが増えるべきだと思ってます。労働倫理が日 本では強すぎる。私も、正直に言えば働くのなんか全く好きじゃないし、昔は全く働かなかった。今はずうっと働いてるんですけどね。とにかくもっと分け合っ た方がいいと思いますし、若い人はこういう世の中、社会、日本の非常識な現実に対して、自分らで生存できる、そのためには群れをつくらなきゃだめなんです よ。それが今は分断されてる。

日雇い労働者と労働基準法

参加者B 日雇い労働者も労働三権というのは認められてますよね。団結権、団体交渉権、団体行動権というね。だけど、特にこういう不況な時 期には、日雇い労働者っていうと不利な扱いを受けやすいんですよね。それで、いくら日雇い労働者だからといってもね、不当な扱いだけは許さないように闘っ ていかなきゃならないと思うんです。以上です。
三枝 あなたは日雇い労働者ですか?
参加者B 違います。
キムチ その意見にどう答えたらいいのか。10年位前にこのプランBで山谷労働会館の館長の小田原さんが講演をしてます。その時に言ったキ ツイ言葉があります。金町戦が終わって5年位経ってからなんですけれど。「今の日雇い労働者の置かれている状況はいっそう厳しくなっている。それに対して 山谷争議団と全協は何をやってるのか」というキツイ意見が出たんですよ。それに対して答えられてないという事が、その当時でもあるし、現状でもあると思い ます。あの労働三権っていうような形では当然だよねえ。でも、私達は労働三権に則っての闘いはあまりできてなかったんですよね。
三枝 ああいうのって、要するに労働基準局とかに行って、俺も相談に行った事があるんですけれども「ああそうですか」で大体終わっちゃう。 そういう意味では、この映画の中でやってるように、自分らで何だかんだって言いながら、理屈こねながらやらないとできないんだと思う。力だと思うよ。
荒木 だから労働三権っていうのは、団結権、団体交渉権、争議権、これが三権なの。労働基準法で言えば、日雇いの条項で一般の人と一緒なの は年休、前年に働いた日数の総計で割り振りされるっていう位で。日雇いは普通の常雇用の形とは全く違います。同じ条件じゃありません。それで、労働基準法 では、有給休暇の件はある程度ありますけれども。
三枝 細かすぎる。
荒木 だからないっていう事。世界では、日雇という雇用形態が認められてるのも普通じゃないんですからね。原則禁止という国もたくさんある。ただそこで闇労働というような違う問題が出てくる。それでやっぱり権利の問題。そこらは、わしらは弱かったというふうに思ってます。
キムチ まあ私も40年間やってきて失業保険も貰った事ないし、有給休暇も貰った事ないし、何も貰った事ないんですよね。だからまあ税金も 収めなくてもよかった時もあったけれど。まあ労働基準局とかにはほとんど頼りにした事ないんですよね。実際、今もね、労働基準局を頼りにしていいのかって いう事になると、そこまで動いてくれるのかなあって思うんだけれどね。その辺はTさんがよく知ってんでしょ。
T氏 俺が思うのは、ブルジョワ労働基準監督署の方もブルジョア法という事で否定的だったんです。だから俺達の暴力、まあ俺達の闘いで決め てくと。だから労働基準法も関係ない。ただ、今の「フリーター労組」や、どこの労働組合も労基法を基準に運動やってると思うんですけど。当時は、もう労基 法じゃなくて自分達の実力で決めていくっていう作風だったんですよ。労働基準法じゃなくて自分達の実力で決めていくっていうのが本来の労働運動だと思うん ですよ。今はちょっと力関係ではなかなか難しいと思うから、まあ法律を武器にするのはいいと思うんですよ。
荒木 90年代は、昔の押しかけ争議の形でやって。その結果を労働基準局が所轄してるのに、こういう事があったぞ、お前らちゃんとやれとい うのんでやれてたんですよ。2000年代はアサヒ建設争議以外は、そういうダイナミックな押しかけ争議、あるいは呼び出し団交というのが私達の力量低下で やれてない。とりわけ90年代以降、労働基準監督官、役人もずいぶん変わっちゃった。昔は自分の仕事に誇り持っていて。労働基準法を厳密に適用すれば、不 利益労働者、被害労働者の利益にあまりならないんですよ。法律に違反した企業に罰金をかけたりしても、あるいは改善指導したりしても、その罰金は国庫、国 に入るんですよ。それで昔の労働基準監督官はね、不利益労働者の不利益回復で、法律の厳密な適用じゃなくて、オヤジに「やっぱりちゃんとしなきゃあかん よ」というふうな話も含めてやってた。今は、2000年代に入って、労働基準監督署も自分の仕事にプライドも誇りも持ってない。企業に罰金を課して、改善 の報告書を提出させるという、そういう形。それしかやらない。それもケツ叩かなきゃ、やらないような実情で。日本は内部から崩壊してると。役人の世界も崩 壊してると。経験主義ですけどね。

野宿者に対する排斥が広がっている

キムチ はい、もう一人。どうぞ。
参加者C 映画を撮られた当時と今と、山谷の人をめぐる周囲の人の見方っていうのは変わってますか。悪くなったとか、良くなったとかちょっとそのあたりが聞きたいんですけれども。
三枝 映画の当時は結構囲い込まれているというか、山谷っていうのが寄せ場、寄せ場してるっていう感じがあったんですけども。昔の話聞く と、全体が山谷っていう形がもっとあって。釜ヶ崎なんかは地域みたいな形でまだちょっと残ってますけども。今はどうなんですかねえ、ホームレス差別みたい な感じでしょ。昔で言ったら「非人」差別みたいな感じ。程度はわからないですけども本質的なところは変わらないと思います。
荒木 ただ、ドヤも数が少なくなってます。ドヤっていうのは泊まる所ね。3代目、4代目が廃業して民家になる。新しく建て替えて、バック パッカーの泊まる所になるというのが混在してきて。そういう中で、野宿者に対する排斥がすごいです。それが外に広がってますからね。例えば蔵前とか隅田川 の向こうの方で、江東区の方で炊き出ししてたら、「ここでやらんといてくれ」と。「山谷でやってくれ」と言われて。どうすりゃいいんだっていう、これはも う日本の現状は全く変わってません。昔は暴動がある危険な地域だということだったんですが、今は野宿者への差別です。
三枝 明治の時にね、下谷万年町というスラム街ができるんですよ。まあそこらじゅうに東京にはスラム街ができたんですけども。そこに都市雑 業貧民っていう、まあルンプロっていわれるような感じの人達がたくさん集まってたと思うんです。そういう「浮浪者」みたいな人の中から、その子弟がプロレ タリアートっていうか、労働者になっていく過程があるんでね。そこら辺は時代と共にいろいろ収縮したりして。寄せ場も、山谷みたいなところが赤羽にあった り、いろんな所にあったんですよ。小さいですけど。それがほぼなくなっていったんです。そういう事情はあります。
キムチ そろそろ時間なので、ちょっと一つだけ。ビラがみなさんのところにまわってると思います。これは最近出た「新宿連絡会」のビラなんです。
荒木 元争議団のメンバーが中心になっている。
キムチ ああそうなの。これは路上で拾ったんです。路上で拾ってちょっと読んで、非常に感心したんですよ。震災が起きたと。その事に対して 私達は何をするのかという事が書かれてるんです。それで大きな字で「静かな祈り」と出ていて。あの震災が起きても地道にホームレスの支援運動を毎日コツコ ツとやっていこうという事なんです。一つは衣類のカンパを今は自粛してるという事です。これは、ホームレス向けの衣類を災害者の方に向けてくれという事 で、「新宿連絡会」としては衣類を今は受け付けを断ってると。それともう一つは、静かな祈りで一人で花見はやりましょうと。もう一つは災害で東京にも流れ てくる人がいるという事ですから、もしそういうホームレスの人達を見付けたら「新宿連絡会」とか「山谷労働会館」とか「争議団」とかに連絡するように。そ してそれぞれが自分の経験に照らして、そういう人がいたらば声をかけてみましょうと。ああそういった事まで目を向けているという事で、私達の作っていた運 動から比べると感心するなあと思った次第です。とりあえず、ここらで終わりにします。ありがとうございます。
(2011.3.26 planB)

(三枝・脚注)
※①人間は、共通の敵を発見した時、「団結」することができる。しかし、こうした団結は、常に新鮮な敵を探し続け、その新鮮さの中で、過去の倦んだ「団 結」を更新し続けなければならない。またそれは、味方の中に、常に敵を発見し続けることでもある。なぜならこういった「団結」は、共通の敵という媒介を持 たないときは、「万人の万人対する闘争」(ホッブス)という関係を基盤としているからである。そうした関係性を克服するために、媒介性の薄い、直接的関係 性(共感的関係性)=「共同体的関係性(?)」(政治よりも情念に依拠した)の中で、次代の担い手を育て上げていくことができないだろうか。炭住には寄せ 場よりそういった「再生産性」があったと思うが、しかしそれも、国家の産業構造・エネルギー政策の転換の中で、殆ど消えて行ってしまっている。
※②その一つの象徴が、第二次世界大戦における、朝鮮人、台湾人のBC級戦犯である。彼らは必ずしも「強制」で徴用されたのではないかもしれないが、当時、朝鮮と台湾が日本の植民地であったことを考慮すれば、たとえ「志願」でも「強制」と同等の徴用であったと言える。
※③見せしめの公開処刑(死刑)であり、かつ供犠(人身御供)であったような殺人の起源こそ、ゴルゴダの丘のイエスの、救世主(キリスト)創出の処刑であ る。もちろんそれは、意味として象徴的に起源的であるのであって、それに先立つ供犠なる死刑は無限に遡ることができる。すべての神々は供犠の負い目で作ら れたのである。阿部謹也(『刑吏の社会史』)は、ヨーロッパ中世の死刑が、古代の供犠の様式の痕跡を、色濃く残したものであったことを具体的に述べてい る。
※④山岡がそれをどういった意味で、我々の「現実の貧しさ」と言ったのかは、意見の分かれるところであろう。しかしあの映画を見た多くの人たちが、むしろ 吊るし上げられる手配師にこそ同情を抱いたのではないだろうか。それをどう捉えかえすか、それが山岡が我々に残した宿題でもある。

One thought on “実録・山谷「現場闘争」を語る ー 山谷争議団三十年の闘い

  1. 食事の準備のボランティアは募集していないのですか。
    高齢者のため、大して役に立てませんが、野菜切りくらいは出来ます。

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