切れたフィルムはつなげばいい

映画『山谷 (やま)―やられたらやりかえせ』  plan-Bで100回目の上映を迎えて

                                                     新井 輝久

99回目の上映でフィルムが切れた

2012年12月15日、東京中野区の南端にあるライブスペースplan-B。今日は映画『山谷-やられたらやりかえせ』の上映会。ここでの上映は今回で99回目のこの日、上映中のフィルムが切れた。一旦映写機を停止し、切れたフィルムの先を整えた後、フィルムを装填し直す。上映中に映写ランプや音声用のランプが切れたことはあるが、フィルムが切れたのは初めてかもしれない。それだけくたびれているのだ、このフィルムも。
16ミリの映写機は、以前使っていたものが修理できず、ようやく探し出したものを使っている。もう、それを修理する部品も人もなくなってしまったらしい。映画完成から27年、時はこのように経っていった。
1986年2月21日、東京での初めての一般上映会の会場も、今はなき四谷公会堂。ここの古めかしい音響設備はまともな再生をしてくれず、音の悪い映画という有難くない評価を得たが、土台あのキャパシティーであのゾイレのスピーカーではどうしようもなかった。それでも当時のホールには、当然のように据え置き型の映写機が2台常設されていた。当初は満員の観客だけでなく上映する側にも、映写を手伝ってくれる大学の映画サークルの人たちなどが来ていたが、上映場所を転々とし映写機も持ち歩くようになった頃は、ほとんどの会場でフィルムを回すようになった。映写機に付属したスピーカーを使用した上映では、さらに音の再生が不明瞭なものになり、音声への悪評はさらに高まる。何とか改善を図るため音声接続用のコードを自作する。

87年からplan-Bでの上映継続

1987年7月3日、上映当初から会場提供の申し出があったplan-Bでの上映会。以後89年までは毎月1回上映していた。
90年1月の上映委解散後も、上映は隔月1回、91年8月まで続ける。ペースは半減したものの上映側の人出も減って、情宣など結構忙しかった。そんな、ややもすれば上映会を成立させることに追われるような日々の中で浮上したのが「筑豊シーン問題」だった。
この「筑豊シーン問題」をめぐって、上映委は再結集し対応を探った。ある時は上映するフィルムをとめ、ある時はその一部をカットして。そして話し合いを続けた。あるときは、「寄せ場」の人たちと、あるときは「筑豊」の人たちと。その間にこの映画の二人の監督、佐藤満夫と山岡強一の虐殺からは10年が経っていった。

私たちの「やりかえしかた」

結局上映委は、完成時のままのフィルムでの上映を再開することにした。それは、たとえこの映画のある一部が、被写体となった人々への「不利益」につながりかねない表現を含んでいたとしても、映画全体を通してみれば、この映画は「不利益」を与えるものたちと、どのように闘っていけるかを描いたものだ、私たちが確信しているからだ。そして、私たちは、たとえこの映画の表現に不十分なものがあるとしても、それがこの映画を完成させた時点での、われわれ自身の限界を示すものであり、部分的なカットや改変をせず、曝け出し続けるべきだと決意したからだ。
1987年11月28日、前月の山形国際ドキュメンタリー映画祭での上映に続き、PlanBでの上映再開。上映回数の少ない都市もあったが、現在も定期上映会を継続中。2013年2月16日が100回目の上映会となる。だが、100回という数字にたいした意味はないだろう。それよりも、くたびれたフィルムに細心の注意を払いながら、毎回の上映会を充実させていくこと。勿論いくらか気遣っても、フィルムが切れることはこれからもあるに違いない。切れたフィルムはつなげばいい。それが、大切な人たちの命を奪い、フィルムの流れを断ち切ろうとしたものたちへの、私たちのやりかえしかたなのだから。
(2013年の年明けに)

        * 磯江通信から転載させてもらいました。

 


 

 

自らの現在を確認する為の覚書

                                                     新井 輝久

映画を観るというのは、どういう行為だろうか。映写機の内部で、一秒間に24齣の速度で連続的に駆動されるフィルムと、その一齣、一齣を停止させスクリーンに拡大投写する映写窓部の間欠運動。その動きと停止の繰り返しによってつくりだされる視覚の錯覚。そしてフィルムの端の、たった2ミリのサウンドトラックに光学録音された音声は、音響再生レンズを通過したエキサイター・ランプの光によって、一秒間に20~8千回程度の光の強弱信号となり、フォトトランジスターによって数マイクロアンペアの微弱電力信号に変換され、さらにパワートランジスタ一によって増幅され、スピーカーから再生されるが、その再生能力はたかだか50Hz~7kHzにすぎない。そう、映画はとても不確かなメディアだ。だが、そうした映像に目を凝らし、音に耳を澄ます事で、自らのなかに一本の作品を完成させる事。映画を観るとは、そういう行為だ。だから、その意味では、あらゆる映画は未完成であり、完成させるのは、その映画を観る人、一人ひとりなのだ。
「山谷―やられたらやりかえせ」という映画は、どんな作品だろう。冒頭、短い街の俯瞰に被せられた数行の文章と不吉な打撃音に引き続いてあらわれる、路上に倒れた男の姿。その男を運ぶストレッチャー、軋む音。エレベーター、開く扉、ブザーの音。撮影を拒む声、そして撮影を続けようとするものの声。この映画を観るものの多くは、この男が、この映画を撮り始めた佐藤満夫監督であり、山谷の路上で西戸組組員に刺された直後の姿であると理解するだろう。だが、ここで見聞きしたものから得られるのは、その事だけだろうか。例えば、その慌ただしさ。それは、単に瀕死の人間を前にした時のそれというだけでなく、この映画の制作が、この慌ただしさの中から出発せざるを得なかったという事を刻印している。そして、既にここには、映画の撮影を拒むものと、撮影を続行しようとするものの、具体的な音声としての声を聴く事が出来るとともに、暴力でその撮影を拒んだものの姿と、撮影を継続したものの意志も窺えるだろう。
では、撮影を続行しようとしたものは、いったいどこにいたのだろうか。山岡強一は、「N氏への手紙」(「山谷」制作上映委員会発行パンフレット所収)の中で次のように述べている。「まず、この映画は二つの問題点から出発している。一つは十二月二十二日朝、瀕死の佐藤さんを上からのぞくようになぜ撮れたのか。」ここで、撮影者は、明らかに佐藤満夫を上からのぞいていた。あたかも、決定的瞬間に居合わす事の出来た「善意の報道者」のように。この位置関係は、実はこの映画を撮り始めた佐藤の意志と、ともに撮り始めたもののそれとの、その時点での位置関係をも示している。
画面は引き続いて夜。路上でものを投げる人々。機動隊。ジュラルミンの盾。それに素手で向かう人々。燃える自動車。上がる炎。荒々しくものにぶつかる音と怒声。「マンモス燃やせ。」ものの燃える音。このシーンが山谷の路上であり、佐藤満夫の殺された夜の暴動であるという事も、この映画を観る人々の多くが理解し得ただろう。たとえ、その音声が現場の同録にしては、いささかクリア過ぎる事に違和感を持ったとしても。山岡は、先の文章に続く第二の問題点として、「その夜カメラが挑発の役割を果たしたとしても、暴動の火中にあっていかなる武器たりえたのか。はっきり言って、武器たりえていない。とすると、何をしていたのか。」と書いている。さらにこの事を、山岡は同パンフレットに収められた座談会の中では、次のように言い換えている。「暴動なんかのときにも全部警察にしか向んかったでしょう。警察に向いたという挑発の正しさというのはいいんだけども、挑発したってカメラが何できるわけないでしょう。カメラが何するかといったときに、労働者に逆に向けてって。でなければ、カメラ捨てて真っ黒にして石ぶんなげているか。そこまでやっちゃうか、きっちり選択せんままいっちゃうとね。俺らは関知しようとしなかったのね。」このように、冒頭のこのシーンは、この映画の制作の端緒での問題点を、まず提示しているのだ。
こうした問題点を踏まえたカメラは、山谷の内外、現在と過去を巡った末に、筑豊に辿り着く。だが、風の音に導かれるように紡ぎ出される「鳥の歌」の旋律が流れる中で映し出される風景が、筑豊のものであると、すぐさま理解するのは難しい。人々の去った朽ちかけた住居と、去る事の出来ない遺骨たち。この荒涼とした風景に続いてあらわれるのは、それまでのシ-ンでは観る事の出来なかった、楽しげに歩く子供達の姿と声だ。そう、ここには子供達がいる。夕暮れの路地を歩くおじさんの姿、その後ろに響く三橋美智也の「哀愁列車」の歌声。古びた風呂屋の中では、ここにも子供達の笑顔が。続いて、エリック・サティから冷笑を除いたようなピアノの音と、川崎町役場の看板。窓口にならぶ人々。ナレーションの声。インタビューの声。ナレーションからは、その人々の列が、生活保護を受給する為のものだとわかるのだが、そこには、例えば少し前に、この映画にあらわれた年末一時金支給のシーンにあった荒々しさはない。
この年末一時金支給のシーンはどんなものだったろう。「暴力反対」と連呼する声。規制する機動隊の姿と笛の音。「何やっとるんだ、ポリ公。どけ、どかんかい。」という声と、脚立を手にロープを乗り越えて入る男の姿は、佐藤満夫のものだ。これは佐藤が生前に残したフィルムなのだ。だが、山岡は川崎町役場の金網の外にカメラを据える。挑発としてのカメラではなく、「善意の報道者」でもない位置に。そこからみえるのは、どんなものか。例えば、生活保護費の給付が、その気になれば誰でも覗く事の出来る、金網に囲まれた役場の窓口の前に人々を並ばせておこなわれているという事。ここから、行政の給付の姿勢を批判する事はたやすい。けれども、この列がどのようなものかを考える時に、先の一時金支給を始め、寄せ場の就労過程での職安や、アブレ金受給、大井収容所入所などのシーンで、度々この映画にあらわれる、人々の列が思い起こされるだろう。この列はまた、越冬闘争のワッショイデモの隊列にもなり得るのだ。窓口で渡された封筒の中身を確かめる女性の姿は、例えば明らかに撮影されている事を意識した、人民パトロールで出会った労働者の身振りとは異質のものだが、それが金網越しに撮影されているという事だけで「隠し撮り」だとするならば、野田屋という山谷の飲み屋での、炭鉱離職者との会話も、その種の男性の袖口に小型のマイクロフォンを見つけた途端、「隠し撮り」になってしまう。問題は撮るものと撮られるもの、そして観せるものと観るものとの関係であるはずだ。
「N氏への手紙」の中で、山岡はさらに次のように述べている。「映画が解体されるべきだというのはカメラの持つ物神性にほかなりません。で、それが出来るのか? 今その瀬戸際に立っている。基本的問題として、①撮る者と撮られる者、②作品とその受け手、③撮る者の集団の有り方――の三つがある。」筑豊でのロケーションにおいて、①の関係が不充分なものであったのは事実だろう。そして、その関係を豊かなものにしていく事に、撮る者→上映する者の集団が無頓着であり、不誠実だった事は、何にも増して反省すべきだ。だが、そのうえで撮られる者が、「作品」の受け手となる事は、問題があるとされる部分を変更する事によってしか、有り得ない事なのだろうか。山岡はまた、別のくだりで、こうも書いている。「未来を予感させるには、現実の貧しさを映さざるをえない。その貧しさからにしか可能性はないのですから。」ここで述べているのは山谷の運動についてなのだが、筑豊との関係もまた、端緒の貧しさから出発せざるを得ないのではないか。もとより、過去の事実を書き換えていく行為こそは、支配者達のいつもの遣り口なのだから。

(1993年4月10日「山谷上映ニュース21号」二分冊の2)
いわゆる「筑豊問題」生活保護受給シーンをめぐって山谷制作上映委員会が上映を「自主凍結」していた時の文章です。