60・70年代から現在まで―― そこに見られる日本型ファシズム(天皇帝国)と寄せ場

――  松沢哲成(寄せ場学会)

2017年9月30日 plan-B

(なお松沢哲成さんはこの2年後に亡くなられており、この原稿に目を通していません。従って、責任編集は「山谷制作上映委員会」のものであることを断っておきます)

司会 それではそろそろ始めたいと思います。松沢哲成(てつなり)さん。われわれはテッセイさんと呼んでいたのですが……ああもう、名前変えちゃったんですか、昔の名前はそうだったんですけど、テッセイさんというふうに、変えてしまったそうです。「寄せ場学会」の会員でありまして、歴史学の研究者。まあ、そういう方です。内容的にはもうほとんどお任せして、わたしとしては「はい、もうそろそろ時間です」というような役割しかないので……それでは松沢さん、よろしくお願いします。

天皇帝国体制とは何か

松沢 松沢です。ちょっと配った(レジメの)「天皇帝国体制に対する私の闘い」という大層な題のコピーがあると思うんですが、はしょりながらやっていきたいと思います。大仰なんだけど「天皇帝国とは何か」という大きなタイトルが付いているのですが、その点について、これは金時鐘(キムシジョン)の考えを基にして、その権力体系と美的体系が一致するという論旨で書いて在るんですけど……。ちょっとね、今その点について話をすると、それだけで延々とかかるから、まあこういうのを書いたということなんですが。で、その実体的に戦後のわたしの言う天皇帝国という体制はどういうふうに作られたかということについて、ちょっとこれの最近号(『寄せ場NO.28』)にも書いたんですが、〈「冷戦」体制下の「日本本土」と「沖縄」〉ということで、これもまた説明すると長くなるんですけども……簡単に言うと、戦後アメリカ軍がやってきたときに、崩壊に瀕してた日本官僚制とくっついて、それからたぶん財閥の生き残り、それから現在のゼネコンですね、五大ゼネコンなどと一緒になって、アメリカとまさに崩れかかったニホンの官僚制とが一緒になって、沖縄にハーバーを作って、しかも監獄部屋を作ってですね、それでそこで厖大な利益をあげてきたということを……これ、詳しくやるとまた長くなるんで……そういうことで、ここにある体系なんですけども、その内容というか、内実としてはそこで展開したつもりです。実に醜悪な体系で、そこにいろいろと書いてあるんですけども一例だけあげると、戦争中に朝鮮人や中国人を強制連行しますよね。それでその面倒をゼネコンがみたから、その分の国家賠償を払えということをやって、国からカネをむしりとるんですよね。戦後、ちょうど政治空白がおきた時期に、いくらかだかは忘れましたが、厖大な額を奪って、戦後ゼネコンが再生していく際の原始的蓄積というか、最初の根源的蓄積があったということです。戦争中にはね、ゼネコンはわりと海外に侵出していて、鹿島は台湾とかいろいろ、間はどことかというふうにしながら海外でかなり稼いでいたんですけど、ダーっとなくなってしまいましたよね、植民地は。だからけっこう戦後は苦労したんですけど(苦笑)、そのときにGHQが助けてくれて、いろいろと……。沖縄だから、沖縄で基地を作ろうというときに、アメリカ資本を土建資本に入れれば良いんですけど、そういうんじゃなくて、ニホンの資本を動員したんですよね。ニホンの資本を育てて、そこで搾取しようという、そういう体制を作ったということなので。それはこの(会場販売の)コピーにあります。
それが一番目の「天皇帝国とは何か」。ここで書いた基本は、そういう上部構造・国家構造の作り方のわけだけども、そういうふうなものを支えている人々の考え方というのが、ずっとあるんじゃないか。結局「エライ人」「お上」という意識はやはり、戦後もまったく払拭されてないのではないか。これも証明するといろいろと長くなるのですけれども、たとえば『拝啓天皇陛下様』ではないけれど、「拝啓、マッカーサーさま」という厖大な手紙がでたりして、そういう状況があったと思うんですよね。そういう外にある巨大ゼネコンが構築した体制というのもありますけれども、それをこう、なんというか潰していかない。あるいは積極的に、消極的に支えてきたひとびと……まあ、ニホン人ですけど……それがいたんではないか。つまりわたしよりもちょっと上の世代の人なんですけど、そういう人たちがいたんではないか。そういうことで、そういうところを克服していかなければ、というのが、ここで一番言いたかったことです。

60年安保闘争との関わり

次なんですけど……おこがましいんですけど「私の闘い」というようなことを書いてあります。これって英語に翻訳されたものでして、そういうニホン語的じゃないコトバがでてきますが……。まあ、わたしは歴史家の端くれとしては、わりと連続的発展論というか、歴史は少しずつ切れ目なく発展していくという方にとか、急激に落ちていくとか、そういうふうにいうようなことが多いんですけど、自分の歴史をみると、まるで連続していない。きわめて三段階に分かれていて、その間に落差がすごくあった不連続の歴史である、というふうに思います。
冒頭は、60年安保です。わたしが大学に入ったのは1958年の4月、岸信介の時代ですね。それで、いなかのぽっと出から東京に来て、もう間もなくここに書いたように日教組潰しの動きがあり、警職法があり、さまざまな立法が出されていたわけですね。それでそれに対してまあ、素朴な反発をしてきたわけですが、結局58年の6月25日だったわけですが、6月に安保闘争。そういうのをやって、そのことによって革命をおこすというふうに言っていた共産主義者同盟、いわゆるブンドっていうんですけど、それに加わっていった。駒場寮にいたんですけど、駒場寮で西部邁のすぐ隣のベッドにいたんですけども。そういうことから入っていったんですが。60年には羽田の1・16もあったし、それはもう駒場にいたんですけども、本郷といっしょにやって東大としてやって、空港のロビー突入闘争というのをやったんですね。もちろん空港に突入すればそのまま袋のネズミで捕まったわけなんですけど、わたしはたまたまレポをやらせられていて後に連絡に行ってて、戻ったらもう部隊がいないんですよ。それで初めて空港なるものに急いで入ったんですけど、初めて広い空港を見て……空港って広いですよね。実にどこに何があるかぜんぜんわからなかったですね。で、とうとうロビーに行ってそのまま押し出されて、帰りに第二京浜で渦巻きデモをやって、水ぶっかけられて……そういうのが60年です。
それで本郷に移ってから60年の4月から始まるんですけども、今はちょっとボケて忘れたんですけど……60年の5月というのは、韓国で革命がおこった年……学生運動がやった4・19の直後に、今は無き国会の南通用門に通じる道があって、そこにぎっしり機動隊が詰めて配備していたんですね。4月、5月、6月……4、5が主にだったんですけれども。4・26から5・15。4・26というのはすごいトラックを乗り越えたやつなんですけども。チャペルセンター前でずっとあって、南通用門につながっているんですけど、わりと狭い道で、そこに横付けで機動隊のトラックが置いてあって、その間に警官がいるっていう、そういう配置があった。それに対して唐牛健太郎だったかな……アジって、「韓国に続け」というようにアジって、それでみんな飛びこんだんです、そこへ。もちろんみんな逮捕されたんですけど……わたしたちはちょっと飛び込まなかったんです。で、捕まらなかったんですけども。その後東大の、ブンドではないんですけど、最終的な中央委員会っていうのがあって、その席上で、当時の東大ブンドの細胞の服部・星野という、……星野は星野中、経済学をやっていた、今もね。その二人が中心の細胞だったんですけど、その中央委員会という席上で批判したんですよね。なんでちゃんとした方針を出さなかったのかと。ガンガンいったものだから、ただちに飛ばされて、オマエは東大には置いておけない、というんで、なんと金助町に追い出されて、全学連の都学連ですかね。その書記局長に追い出されて、今で言うと臨時職ですね。大学に行ってオルグしてこい、と言われるんですね。
いろんな大学に行きましたよ。立正とか女子美とか行って。金はぜんぜんくれない。現地調達。青木昌彦という悪い奴がいて、有名な経済学者なんですけれども。まあ、幸いもう死にましたけど(笑い)。いやあ、そいつが中心で、キャップは清水丈夫。唐牛の時代だったかな……それにこき使われて、わたしはおかげで病気になりました。60年に腎臓で死にかかったんですね。今はもうなき金助町・金助官僚とさんざん言われました。
6・15の時も、都学連のペーペーのオルグになっていたんですが、細胞会議の決定を聞くこと、陪席だけ許されていたんですよね。発言しちゃいけない、聞くだけ聞く、という。島成郎がなんかギャーギャー言ってて「どうせダメだから火つけろ」とかなんかいろんなこと、むちゃくちゃ言ってました、むちゃくちゃなことを。6・15前夜にはね。でもその時やっぱり、どうやらいろいろと手を回していたらしく、明治や法政のどこかの連中に言って、ペンチやなんかを用意して行ったようですね。それで線を切って突入していったんですけども、それが6月15日ですね。
まあここで言いたいのは、東大や学連の体制というのが、新左翼といったはしくれというか、走りなわけなのだけれども、まったく日共細胞の体質を受け継いでいたと。実際、島っていうのも東京都の中央委員、都の委員ですよね。そういうのがいっぱいいたし、青木やなんかもそうだったと思う。そういう体制がかなり変わってなかったということは、後になって特によくわかりました。言ってることはね、口先はだいたいサルトル・ルフェーブルから始まって、トロツキーですよね。そういった主にトロツキーの色を密輸入して、黒寛一派に批判されながら、密輸入して、新しい体系を作ったとふうに言ってたんですけども。思想に少しそういう志向性があったかもしれないけれども、組織の体質や人間性はそんなものではなく、みんな一皮剝けば共産党の細胞に似て、50年問題でもまれたというか、はじき出された人たちが多かったようです。
東大は宇野弘蔵だったんですよね。ここに書いた『経済原論』とか段階論で宇野経をほとんどそのままやってて、後は新聞を読んでそれに「敵の権力の動向を綿密に把握して、それに対応してやらなければいけない」というようなことでやってたわけです。まあ、今から考えれば志向性としては新しい考え方を打ち出そうとしたわけだけども、実際は一皮剝けばそれほどでもなかった、ということが……まあ総括だからね、どうしてもそういうふうになるけれども……最近の考えです。
わたしは1960年の6月の19日だったかな、17日だったかな、新安保は自然成立しますよね。その日にぶっ倒れまして毎朝起きるたびにだんだんベルトの穴をずらさなきゃいけくなっている。それで尿毒症ということになるからというので……腎臓です。そのままくにもとの病院に入りました。半年くらいです。自然成立した日なんです。その60年の6月下旬、20歳くらいですね。それから10月くらいまでの間、まあ死にかけたというか、ずっと水がとれなくて、初めて室内で歩かせてもらって、ベッドがここら辺にあってここら辺まで歩いてたのが、60年ですね。それで体は、その後何度も発病を繰り返してあんまりよくなかったんですけど、結局今もってまだいろいろとひきずってます。まあ、体のほうはそれでいいんですけども、いちばんきつかったのはやはり、思想というか、ものごとの考え方ですよね。4ヶ月くらい病院にいる間、もちろんブンドから資料というか、論争の資料というか、大論争をやったわけでしょう。こんな本でいっぱい出てますよね。そういうのが一片もこないんですよね。それでどういう状態なのかぜんぜんわからなくて一人で、〈闘争に敗北した〉それをどういうふうに考えたら良いのか、ということで悩んだのが長く続きましたね。
やっぱりマルクス主義体験というのは、ひとりひとりの生き方までは拘束しないとしてもそれに相当影響を及ぼすような、全体系的な思想ですよね。それに全力をかけてやったのに、負けたというかダメになった。体力もダメになり思想的にも敗北したというんで、じゃあどういうふうに考えたら良いかといったときに、なかなか難しい部分があって。これを再建するのにかなりかかったですね。いろんな考え方が、人生観とか生活観とか世界観とか、全部つながっているんですよね、マルクス主義体系では。だからそこを脱却するのがすごくたいへんだったということであります。体も不自由だったので、60年代後半は、半ば頃までは何もしなかったですね。で、どうやら4年かかって大学を卒業したというのはおかしい話なんですけども、休学したのに……ということでした。

私にとっての東大闘争

その後ですね、68年以降。切れているんですよね。60年代半ばから切れて68年ですね。まあ10・8(ジュッパチ)ショックっていうのもあったんですけど、あれはかなり強烈でしたね。でも直接は反応はしなくて、8年前に虐殺された樺美智子っていうのが同じ学科の一年上だったんですよね。それで樺美智子の虐殺記念ということで、長らく支配してた東大の民青的な雰囲気を打破しようという何人かでデモをやって日比谷に行ったんですね。日比谷ではなんかすごい大きなデモがあって、その中に入ってやったんですけど。その時に東大ではずっと医学部で闘争があって、青年医師連合という医者のグループと、それから医学部の学生たち、医学連系統につながる人たちと一緒になって、ずっと闘争をやってたんですね。あそこもタコ部屋みたいな制度ですから、医局制度というのは。それでそういうものを打破しようというんでやっていたわけで、それをたまたま我々がデモをやった6月15日に東大の講堂を占拠したんですよね。それで、そりゃあ大変だといって日比谷から舞い戻って……大変というのは機動隊を入れるんだろうという話で舞い戻ったんですけども、それからずっと始まって、学園闘争というものに入っていったんですね。その時に6・15のデモをやった人たちやなんかと一緒に、グループを作って始めたんです。全学闘争連合、全闘連というんですけども。ここにもちょっと書いてありますが。もちろん全共闘議長になった山本義隆とかもいたんですね。山本とか、それから赤軍にいた川島とか何人かいろんな人がいたんですけども、そのグループに最初、関わったんです。それでわたしはまだぜんぜん体力に自信が無くて……自信が無いというか、学校に来たら授業を受けて、そしたら家に帰って寝てたんですよね、寝てなければいけない状況だったんで、そんなにはいろいろできなかったんで。まあ、言い訳になりますが。それで、でもやっぱり全闘連・全学闘争連合に関係してやっていったんです。この人達のうちの、山本や川島や何人かの人たちが中心になって、最終的にまた安田講堂を再占拠する。で、東大闘争の盛り上がりというのを作っていくようになるわけです。まあわたしは、ちょっと最初の方に関係したというだけなんですけども。
えーと、そんなんで、いずれにしてもこのレジュメに書いてあるように、わたしにとってはブンドの破産から東大闘争へというかたちで、やっとどうやら思想的な自分なりの考え方を持てるようになったというふうにいえると思います。東大闘争・学園闘争というものが、街頭なら街頭に出ようというのではなくて、自分たちが学園にいながら、現存の帝国主義体制の一環というか重要な一部をなしているということを自覚しつつ、そのことを糾弾していくという、そういうような考え方で、それはひじょうにわたしにとっても役に立つ、初めてこの時点において、第一次ブンドの洗礼から逃れることができた、という感じになったのです。今も学園闘争っていうのは非常に重要だったと、わたしとしては思っております。

救援運動から治安弾圧への反撃運動へ

そのまた後、切れるんですけど、三番目は救援運動なんですね。この間にも滝田弾圧の話もあって、少しずつそういった関係もあったんですけども、本格的には爆弾事件の冤罪犯の救援運動というのに関わるようになった。増淵というのがいて、赤軍の下の下ぐらい、端の端っこにいた人間がいて、彼が主犯とされたでっち上げ事件でした。当時の69年の闘争といわれるものが、華やかだったですね。いろいろ火花が散った時期がありましたよね。その後を受けて公安側が弾圧に乗り出してきた。それの手始めというか、ひとつの頂点だったと思います。『情況』という雑誌、74年の10月号に「虚構と作為」という特集があって、ここに初めて大々的に書いたんですけども、土田……警視総監ですね。〈土田邸・日石郵便局の爆破事件〉のでっち上げという、こういうのを書いたんですけども。これがまあ……若い人が多いから、あまり知らないかもしれないですが、70年代というのはアパートローラー作戦とかなんとかといって、もうものすごい弾圧体制だったですね。それでこれがひとつの頂点で、当時の公安部長とか検事は公安刑事の最先鋭、さっきいった60年1・16の羽田空港ロビーの時に、ひとりずつ捕まえて顔を吟味しながら、「逮捕・パイ」とかやった人たちが主任検事だったり、警察の方は三井脩という有名な公安刑事がいて、途中には警視総監の土田國保とかいるんですけども、最終的には……後藤田、アイツがいて、60年代治安体制で、70年代に騒いだやつらをダシにして全部潰そうという体制にして、それの突破口にこのでっち上げ事件を作った。増淵以下のグループは大きく言えば赤軍系ではあったんですけど、下の下の方の脇の方にウロチョロといったグループだったんですけども、それを犯人にしたてて、分離公判やってとかいろいろと手を尽くしてやったんですね。
で、わたしはちょっと増淵個人と縁があったりして、そういうこともあって危機を感じて救援運動に入っていったのですが。それ自体は分離公判も潰して統一公判にして、いろいろやって一応勝ったんですよね。勝ったんですけど、これって奇妙な事件で、みんなも聞いてないと思うんですけども、実は爆弾事件の冤罪事件として決して名前は出ないですよね、これは。一度知りあいの筋で、朝日新聞のスクラップという切り抜きというのがあり、それを見たことがあるんですが、そこにはいっぱい書かれてあるんですよ。記事にはなってるんですよ。でもね、冤罪事件とか、なんとか事件というときにはぜんぜん出てこないですね。だからもう、なかったことにされている事件なんですね。ですけどまあ、一矢報いたというか、そこで、勝利をさせなかったということでやりました。統一公判を作って無罪を獲得したんです。でも獲得した結果冤罪となった人たちは市民生活に戻って、それで終わりだったんです。わたしとしてはそういった人たちが、闘う人たちの戦列に入ってほしい、そういうことでの救援運動だったつもりなんですけど、ぜんぜん実らなかったですね、それは。
その最後の頃に、ひとつの事件だけやっていてもダメだからというので、70年代治安弾圧に対して相対的な反撃をしたいというんで反弾圧運動、いろいろやって。そのへんで初めて反爆取、爆取でやられている人たちと、なんとかとか……釜BQ(反爆取救援会)とかともこの時接触したことがあるんですけど、あんまり釜BQというのは動いてなかったような感じがしますけど。釜でも、でっち上げで捕まって白状したやつがいるでしょう。ニセの「自白」して、二人で。そういうことで、こっちは接触したんですけど、あんまりうまくいかなかった。それでもうちょっと後、最近、大規模地震特別災害法とかいうのがあって、あれやめるってことでしょう。あの時に、その頃にできたんですよ。あんなもんウソだ、信用できないはずだと言って、われわれは反対したんです。それを口実にしていろいろやるんだろうと言って、反弾圧運動の中で「大規模地震法粉砕」というのをやったんですね。しかし最近の新聞にね「やめる」っていう、なんだかバカバカしいっていうか、そんな感じだったんですけど。
まあ、一つの爆弾事件の救援から入って一応、反弾圧運動というのをやって、なんとか世の中の流れを押し戻したいというふうに思ったわけですけども、あんまりたいしたことはできずに終わった、ということです。一部の人は知らないかもしれないですが、70年代その頃は、アパートローラー作戦とか過激派壊滅作戦とかいうのがあって、一軒ごとアパートをローラーで潰すように警察が回ったというのがあった。そういう時代に反発して、一応一定勝利したんですけど、マスコミはもとよりどこからも、家族からもあんまり良く思われなかった救援会だったですね。
そういうことから暫くおいて、わたしはその反弾圧運動の末期の頃に、いくつかやってるんですけどね。知ってる人は知ってると思うんですけども、反日武装戦線では、見解がぶつかって、結局撤退したわけです。それからその後、北海道庁爆破というので大森勝久っていう、よく山谷に出入りしてた人だそうですけど…….。
会場から うん。
松沢 知ってる? 会った?
会場から 釜で……。
松沢 うん、でも山谷にもいたっていう話もあるんだけれど。それについての支援をやって、東京から札幌まで公判の度に行って応援をしたんですけどね。その頃は元気良くてどんどんわめいてて「やって悪いことはない。道庁なんて爆破されてしかるべきだ」とか言ってたわけですよね。それで死刑判決が出てるわけです。最近なんか「死にたくない」とか言ってるという噂なんですけど。で、その時にこうやって、こういう本(『やってない俺を目撃できるか!』)をまとめたんですね。まあこの頃一応わたしは、反日武装戦線の思想とかには、かなり近くにいったということになると思います。大森とかを支援して……。

山谷へ――越冬闘争

まあそういうのが間に入ってだと思うんですけども、最後の山谷との関わりということで、まあ順番であるように、越年闘争に参加したんですね。ひとりで行ったんですよね。それから救援運動をやってた若いやつを連れて行ったりもしましたけれど。一回目はひとりで参加して、まだ玉姫公園は赤軍だとか山統労とかが跋扈してて、ずいぶんいじめられました。さんちゃんぐらいしかいなくて、三者共闘の時だったのかな……まあ、いじめられました、玉姫では。それで「どっから来た」「何しに来た」、そういうふうに言うんですよね。それで次の年に武蔵大の……ちょっと武蔵大学にいたので……学生団が合計10人くらい語らって二、三日いたんです。で、まあ、山岡照子さんに怒鳴られながら、そういう医療班とかなんかやりました。まもなく山谷の玉三郎に会ったんじゃないかな、炊事班で。こっちもきびしいんだよね。彼は、玉三郎は。「あごたたき」っていうんですよね、能書きばかり言ってるから、と。「もっと働け!」っていう。でも途中で「酒飲みに行こう」っていう感じだったんですけど。
まだこの頃は山谷には個人的に出会ってて、わたしは当時国分寺に住んでたので「三多摩でやれ」ということで。南さん……だいたい指示は南さんからくるんですよね。南さんに言われて、三多摩でそういう組織を作って、いろいろとやっていくようになったわけです。それについても、レジュメに書いてあるんですけどね。それで三多摩でもアオカンの状況がどうかとか、そういうのを日雇職安もあったので調査して見たんですけど、あんまりはかばかしいことはわからなくて、結局山谷にむかってまあ越冬を中心にしてそこに参加していくというかたちで……。遠いんですよ、三多摩というところは。車で行っても三時間くらいかかるし。それで物資を運ぼうとしても手で持っていけないから車で行くわけでしょう。
それで何回目ぐらいかな、越冬の何回目かの時に83年の11月3日のあれにぶつかったんですよね。ある日、さんちゃんかなんかから電話がかかってきて、「天皇制右翼がやってきた」といって。
司会 この映画の初めのシーンですね。
松沢 それでなんとか玉姫じゃなくて、あそこの泪橋で、わたしもぜんぜん体力に自信はなかったけれども、あそこに行って、対峙したことがあります。ということで、そのことについての詳しいことはわたしの任ではないから言いませんが、結果として、レジュメに書いてあるんですけど……「山谷の暴力団支配策動は打ち破ることが出来たけれども、山谷争議団を軸とした運動もまた勢力を削がれ弱体化していき、警察と独占資本だけが勢力を誇示する結果となった。労働力市場としての山谷は、寂れていった。」というふうなのが、わたしの印象です。そこのところは、ちょっと前に書いたものなので、最近はじゃあどうなってるんだろうかということで、それはいろいろあると思うんですけども。最近の分析はあまり進んでいません。なので、よくわかりません。とにかく寄せ場を支配して、それで手配してきて、ゼネコンに労働者を供給していく体制はなくなったと、ほぼ言えるわけですね。それに対してひとつだけ、釜ヶ崎の元「寄せ場学会」の水野阿修羅というのが写真を(添えて)書いているのですが、広い立派なマンション風の建物をあちこちに作って、そこに労働者を閉じ込めている、っていう会社がいくつかでてきて。今一番必要とされる福島とか、それからオリンピック工事とかそういうふうなところに、こういうところを経由してもっていってる。ここは携帯の手配ということで、携帯手配というのはもう古いと思うのですけど、やっぱり飯場。しかも一応近代的装いを持った飯場、寮みたいなところに閉じ込めて、そこから労働に押し込んでいくというそういう体制かな、というふうに思います。

山谷についての二、三の質問

司会 もう少し時間がありますので……。ちょっと1950年代から一挙に現在までいってしまったんで(会場・笑い)、ちょっと走りすぎましたので、何か質問とかありましたら…….
客Y Yと申します。一番最後の争議団の弱体化というふうにおっしゃられた、その背景とか、どんなふうにお考えなのかということをお聞きしたい。
松沢 どういったらいいかなそれは。なかなかわたしからは言えないけれど。気がついてみれば暴力団の方も解体してるんですよね。まず一番上の工藤。あいつは死んだでしょう。自殺しちゃったんだよね、あっちも山口組の進出があって、山口系になったらしいね。そういうふうになっていったんですね。それで、争議団の方はどうなったんですかね。(会場・笑い)当事者も来ているから、当事者に聞いてほしいけど。ひとりずつ消えていって、まずヤマさん(山岡強一)がやられたでしょう。そういうかたちでアレだったし。会館を作ったんだけど、そこで最初はいろいろな構想を練ったんですが、なかなかうまくいかなくて、食堂を作って食堂を中心にやろうとしたのですが……。それでも会館を拠点にして、それはそれなりに展開はしてたんですけども、争議団もね、だんだん人がいなくなってきて。やっぱり、国粋会・暴力団との対峙の中で、少しは労働者の信頼を失っていったのかもしれない、というのはありますし、それからなんとしても資本の側は手配の構造を変えたんだとおもいますね。いろいろとね。だから山谷が山谷というのを作って、あるいは釜ヶ崎が釜ヶ崎を作ってそこから労働者を連れて行くというやり方だと、訳わからないヤツラが……つまり我々というか、アソコラヘンだけど……そういう人たちが集まってきて文句をつけるから、というのでバラすという。それでこの水野阿修羅が書いているような飯場方式に切り換えていく……大きくいえばね。そういうことかな、と思うんですけど。それでね、人もいなくなったしね、だんだん。

客N Nと言います。今は政治的でないところでのご質問だったんですけど、逆に大きなところで言ったら、この国家とか行政とか、そういうものの介入というものはどのようにお考えというか……。端的にあったのかなかったのか、どのようにお考えでしょうか。
司会 誰か……。Rさん、喋れれば……。
R 今の質問について? 国家とか行政の介入、これはもう頭からあるんだけれど……。話すと長くなっちゃうんですけども、哲成さんが言うように、山谷争議団がなんで潰れてきたか……ひとつの外的な要素としては、やっぱり警察の弾圧があった。それからもうひとつ。当時の80年代には主に、建設資本に日雇い労働として雇われる労働者が多かったのだけど、彼らが手配状況を変えていった。なるだけ山谷から雇わないようにする。それはさっき言ったように運動があって、資本に対して敵対する。行政の方は一貫してどうしてきたかと言うと、まず60年代。特に暴動が山谷でも釜ヶ崎でも頻発して、それに対する治安対策としてですね、まず警察が全面に出てくるのと、あと見せかけの福祉みたいな……例えばあの日雇雇用保険みたいなものを準備していくとか、そういうかたちで治安対策をしてくる。そのほんの一部、福祉についても、まあやっていくという体制であったと思う。で、オレらはそういう中で、主に暴力団、さっき言ったように右翼を名のった暴力団が襲撃しかけてきたり、それと闘ってきたわけですけども、労働者が共に闘いながら、やっぱり勝てた場面というのも作れたわけですよね。で、さっき言った警察とか行政含めては、労働者と同様に闘う組織をどう分断していくかということをやっぱり狙ってくるわけで、例えば山谷で言えば「山谷争議団が騒ぐから仕事がなくなるんだ」という宣伝をして、分断を謀ろうとしてくる。「ああいう左翼共は労働者を利用しているだけだ」というかたちでやってくる。それでオレらは労働者と一緒にやっていけるだろうと、さまざまな取り組みをしてきた。そのひとつはさっき言った山谷の会館を作ろうということで作ったんですが。まあ仕事が80年代の後半にバブルがはじけてなくなってきたこと。で、高齢化してきて、なかなか運動として結びつけていけない状況。そういう状況になってきて、やっぱり運動も衰退してきたんじゃないのかと。まあ長くなるんで、これぐらいにします。
客N ありがとうございます。

司会 そろそろ時間なんですが。ほんとは天皇帝国。それについての本を出されている松沢さんなので、その話を、と思ったのですが、これをやるとものすごく長くなるので避けたくて、わたしが采配しました(笑い)。松沢さんはこの中ではたぶん一番お歳で、1958年入学ですから60年安保の時ですね。わたしがまだ小さい頃、わたしでさえ小さいんですから、知らないですよね。先ほどの唐牛健太郎とか、名前しか知らない。あと他にもいろいろといっぱいありましたけど。そういう経験があるので、この際何か聞きたいことがありましたら、最後に一問か二問くらいの質問で終わりたいとおもうんですが、どうでしょうか。そろそろ隣の部屋に行って酒を飲みたいという人もいるかもしれませんけど、もうちょっと……。ないですか。向こうで飲みながら話をしたい。そういう顔をしている(笑い)。それでは今日はこれで、まあ映画も2時間ですからお開きにしたいと思います。本日はありがとうございました。
(文責、「山谷制作上映委員会」)

2022年 6月4日

「構造的沖縄差別」を撃つ ── ②

天皇制と沖縄

トーク:天野恵一(反天皇制運動連絡会」をはじめ数々の運動の中で鋭角な発言をし続ける、批評・運動者)

寄せ場と沖縄の関係は深い。戦後、全国の寄せ場に集まってきた日雇い労働者たちの中には、産業構造の転換で農村を解体されたり、エネルギー転換政策によって炭鉱などの職を失った人たちも多くいた。1970年代に山谷や釜ヶ崎で活動していた船本洲治は、この国家権力によって棄民化された者たちを「流動的下層労働者」と呼んだ。
沖縄と日本国家との関係は、いってみればその棄民化政策の集中的な拡張版とも言えるものだ。太平洋戦争の末期に、天皇・裕仁(ヒロヒト)は無謀な沖縄の地上戦を選び、敗戦後は天皇制の維持と引き換えに、沖縄をアメリカ軍政下に売り渡した。文字通りの沖縄の「使い捨て」である。寄せ場に流れてきた沖縄出身の「流動的下層労働者」は、アメリカ軍の基地建設のために「銃剣とブルドーザー」で農地を追われた人も多い。

上映委は、この春から『山谷』上映後の〈ミニトーク〉で「〈構造的沖縄差別〉を撃つ」というシリーズを始めた。第1回は「〈日米安保体制〉70年、その歴史と現在」というテーマで3月に開催。今回は沖縄と天皇制との関係を焦点化したいと思います。
講師は、1980年代から「反天皇制運動」を立ち上げてきた天野恵一さん。天野さんはこの映画の監督・山岡強一とも親交が厚かった。先鋭果敢な天皇制批判を期待し、天皇制と沖縄の〈現在〉を共に考えていきたい。

2022年3月5日

☆「構造的沖縄差別」を撃つ──① 

「日米安保体制」70年、その歴史と現在 

トーク:池田五律(戦争に協力しない!させない!練馬アクション)

今年は、沖縄が日本に「返還」されてから50年になる。1972年当時、在日アメリカ軍基地の割合は、日本本土(ヤマト)が41.4%だったのに対し、沖縄は58.6%であった。ところが「返還」以降、ヤマトの基地は約三分の一に削減され、その結果、沖縄の割合は75%にはね上がった。これが日本政府が「本土なみ」と言い募ってきたことの実相である。
むろんこの沖縄への基地の集中化は現在でも変わっていない。それはアメリカの世界戦略に従属する日本政府の一貫した方針の現れでもあった。4年前に亡くなった新崎盛暉は、このような事態、すなわち「対米従属的日米関係の矛盾を沖縄にしわ寄せすることによって、日米関係(日米同盟)を安定させる仕組み」を、端的に「構造的沖縄差別」と喝破した。
いま、この仕組みはさらに進んで、馬毛島・奄美大島・沖縄島・宮古島・石垣島・与那国島と続く琉球弧では、ミサイル基地配備、海兵隊基地配備などが強行され、中国に対する包囲網の最前線化が目論まれている。

今回の〈ミニトーク〉では、「戦争に協力しない!させない!練馬アクション」の池田五律さんをお招きして、「沖縄返還」のさらに20年前(1952年4月28日)に発効した「日米安保条約」の〈歴史と現在〉について語っていただき、「構造的沖縄差別」の本質を考える第一弾としたい。

【池田五律さんから一言】
東京・練馬の自衛隊駐屯地に対する反基地運動の中で見えてきたこと、考えてきたことを話させていただきます。沖縄の闘いと「連帯」の名に値する首都圏での反戦反安保の闘いをどう再生していけるか、皆さんと一緒に論議できればと思っています。『山谷』、久々に観ます。楽しみにしています。

「日米安保体制」70年、その歴史と現在

「構造的沖縄差別」を撃つ── ①

池田五律(戦争に協力しない! させない! 練馬アクション)

司会 「戦争に協力しない! させない! 練馬アクション」の池田五律さんをお招きしまして、ミニトークを開催していきたいと思います。テーマはお手元の資料(こちらに掲載してあります)にあるとおり、今年は「日米安保条約」の発効から70年。そして沖縄のいわゆる「復帰」から50年ということで、それを期してもう一回日米安保体制を考えていこう、沖縄について考えていこうというものです。
池田さん、よろしくお願いします。

●……自己紹介をかねて……●
池田 池田五律といいます。1960年生まれで、オリンピックの五輪にちなんだ「五律」という名前です。自己紹介代わりにビラを配ります。練馬で反基地運動をやってます。ビラを見てわかるように、練馬には練馬駐屯地と朝霞駐屯地というものがありまして、3月17日に自衛隊が迷彩服の戦闘服を着て、夜に練馬駐屯地を出て江戸川区役所に向かうというような、夜の街をですね、戦闘服で自衛隊がうろつく──そういう訓練がされますので、どうしても監視チェックをやらざるを得ない、ということです。練馬や立川、習志野とかと一緒に反基地の連絡会をつくっています。それと、もしよければあとで買ってほしいんですけど(「STOP!敵地攻撃 大軍拡──2022年度防衛予算批判」=発行:大軍拡と基地強化にNO!アクション2021)、毎年こういう防衛予算の分析をし、防衛庁国防省財務省と交渉をやって、防衛省デモをやるということもやっています。

映画には懐かしい人たちの顔がいっぱい出てきますね。私は1979年に東京の大学に入って、86年まで長々と学生運動をやってましたので、ちょうど山谷の大変な時期と重なっています。あの映像に出てきた靖国のデモ。山谷争議団もスクラムを組んで機動隊とぶつかってましたが、あれの後ろの後ろの方で首都圏のいろんな大学がくっついた黒いヘルメットの部隊で、ぼくは笛を吹いていました。ですけど同世代で山谷に支援に入っていたという人たちは、ぼくよりちょっと下の世代の人の方が多かったんですけれど、僕自身はあまり関わっていませんでした。というのは、若い人達たちにはちょっとわからないかもしれませんけど、学生運動は70年代にものすごく沈滞していくわけです。ぼくが入った79年などというのはすっからかんの世界です。自分がいた大学などでも、党派も無党派も含めて、大衆運動を作る気がまるでないんです。まあ大学生ってちゃらんぽらんしてるわけですね、社会全体の中では。寄せ場の労働者などから比べたら恵まれた人たちで、「お前は何の矛盾も感じていないけれど、こんなことがあるんだからそれに邁進せよ」みたいな力学が働いて、上の世代なんか、党派も無党派も含めて大学を人狩り場としかみていない。そうやって大学の大衆運動自身は痩せ細っていく……。だから上の世代の先輩たちの運動を見ていて、「あなたたちは友達が要らない人たちなんですか? 人民の海を干からびさせていくのがお仕事ですか」みたいな感じを持っていました。そういう先輩の運動に反発があったので、「今、山谷が大変なんだ」「行かなきゃ!」とかいうのもちょっと斜めに見てて、自分たち自身の課題と──ぼくは早稲田だったんですけど、40年ぶりに学費値上げ全学ストまでもってったんですけど、そっちの方、大学での大衆運動にこだわっていました。
映像にも出てきてたリュウさん。凄かったところっていうのは、反天皇闘争か何かの後の交流会の後に話した時に、何か「お前らも来るか」みたいな話があって、「いやあ、ちょっとうちは学費闘争でいま大変で」とちょっとおずおずと言ったら、「そうか、お前らはお前らの場所できっちりやれよ」というようなことを言われて、人を見たら、「お前はこういう苦しんでいる人がいるのに、のほほんと大学にいていいのか」と脅してくる先輩と違って、リュウさんスゲエ! と思って……。映画を見ていて、そういう昔の記憶がバーっと、いろんなことが走馬灯のように廻っています。
ということで急いでいかなきゃいけないんですけど、沖縄のことも含めてどういうことかということと、今日の映画の寄せ場の問題ともどう絡めるかというのも、なかなかまとまらなくて、まあざっくりとした話になります。

  ◾️………日米安保の70年………◾️
まず日米安保の基本構造なんですが、よく「基地を貸す」ということと「米軍がいる」ということがバーターのように思われてるんですが、
 日本政府:「米軍さん基地を提供して優遇しますからいてください。」
 アメリカ:「いてやってもいいけど、自衛隊を増強しろよ。」
 日本政府:「合点承知」
というのが日米安保の基本構造です。自衛隊の増強と米軍が存在するってことがバーターとなってるのが基本構造です。
日米安保は自衛隊の増強と役割拡大の歴史です。まず警察予備隊から始まって(1950年)、保安隊になる(1952年)。保安という概念は海上保安庁という言葉の「保安」を思い浮かべてもらうといいかもしれませんが、警察と軍事組織の間ぐらいのイメージですね。その保安が任務だったのが自衛隊になる(1954年)。防衛が任務になるわけです。60年安保改定というのはだいたい、本土防衛はオマエらにやれるようになったな、という話です。そして1972年の「沖縄返還」で沖縄移駐が開始されます。
ちょうどぼくが大学に入った頃、70年代後半というのはシーレーン防衛です。いま、中国の「一帯一路」とかが盛んに批判されるわけですけれど、経済大国になったら輸送路の確保というのが出てきて、中国の一帯一路の話を聞くと、そういえば日本も経済大国になったから「シーレーン防衛が必要だ」と言ってたなと思い出します。
その後1990年代はじめ、PKO法が制定されて、カンボジア派兵が始まります。冷戦が終わったので、日米安保いらないぞ、ということにもならずに、クリントンが来日して橋本首相との間で「グローバル安保」という話になります。そのときイメージしてたのは、冷戦は終わって暇になったけれどもPKOとかいろいろ出してね、というような話だったんですが、2000年代になると、特措法に基づくインド洋派兵・イラク派兵、そして「邦人救出」もなされる。ソマリア沖の海賊対処とミサイル防衛。あとそこらへんが、何年にあったとかいうのは、添付の年表を見ておいてください。
2010年代になると、ジブチに自衛隊の恒久的な基地ができます。それを拠点にしてアフガン派兵をやったりしています。安保法制整備で「一部集団的自衛権行使」が合憲化されて、その法的根拠がつくられる。これは多国籍軍への後方支援と警護とかになります。後でまた話すかも知れませんが、もう米軍だけじゃなくてオーストラリアの艦船とかも警護に行っていたりするようになってきています。
いま流行りなのは宇宙・サイバー・電磁波領域の軍拡です。2013年の防衛大綱から南西諸島(琉球弧)の自衛隊増強というのは進められてきていて、〈大軍拡と基地強化にNO!〉のメンバーからすると、正直に言うと、「自分たちは早くから言い過ぎたのかな? ようやくみんな南西諸島の自衛隊軍拡、自衛隊軍拡って言ってるぞ」って感じです。宮古とか石垣のミサイル基地の建設とか配備とかってっていうのは、2013年の計画を着々とというか、防衛省・自衛隊からするとなかなか進まずですが、進んでいる。2018年の防衛大綱からは、もう増強の中心は宇宙サイバー電磁波領域です。
2020年代になると「敵基地攻撃力の保有」の話が出てきて、この国会に、去年(2021年)のアフガニスタンのカーブル陥落=タリバン復権という時に、日本大使館とかで働いたアフガニスタンの人も救出できなかったというような話から、外国人だけでも輸送できるようにするという法律が、今の国会に出ています。
これ、何か一見良さそうに思えるのですが、とにかく「専守防衛」という形で何でも拡大してきたわけですね。邦人保護は専守防衛だから、外国の邦人を救うためだったらどこへ行ったっていいんだって。上海事変(1932年)だとかいったようなものも、みんな邦人保護ですよね。さらに、その邦人という縛りもある意味で取っ払っちゃうわけです。一見なんか人道的に、外国人だけでも輸送してあげるって良いことじゃないか、というふうに思いますけど、これ人道的という理由をつけたら何でもやれるという話で、どんどんどんどん自衛隊の役割が拡大されてきます。
それからよく「抑止」って言ってますね。その抑止の概念が、自衛隊が存在するから、米軍が存在するからそれが抑止力になっているんだという話から、2010年の民主党時代の防衛大綱から「動的防衛力」に変わってます。いるから抑止になるってんじゃなくて、いつだってやれるように動いているという抑止に概念が変わっています。その背景には、やっぱり核抑止力のウエイトが相対的に低下して、宇宙サイバー電磁波領域も含む多次元統合防衛力というのを形成しなきゃいけないと、そんな話になっています。
そうすると「陸・海・空」という──こいういうのを軍の種類で軍種と言いますけど──それを超えた統合作戦ということになりますから、朝霞駐屯地に陸上自衛隊の総隊司令部を置く。陸上自衛隊というのは東部・北部とか、地域ごとのものだったんですね。それら全部を動かす組織じゃなかったんですけど、総隊制に移行して総隊司令部の下に陸自全体を動かす。それから総隊直轄部隊。海外派兵専門の即応連隊、この前、アフガニスタンに行った連中です。「離島奪還作戦」などの主部隊となる自衛隊版海兵隊とも言われる水陸機動団。これらが総体直轄部隊です。さらに陸海空統合司令部を作るということが言われています。それと南西諸島版の司令部を熊本に置く動きもあります。

◾️………沖縄差別に支えられてきた日米安保………◾️
こういう日米安保の歴史は、今日のテーマにも関わってくるんですけど、沖縄に対する差別に支えられてきた歴史です。本土は米軍による占領管理、沖縄は戦略拠点として直接統治。52年に講和独立を本土は遂げたのですけど、沖縄はそのまま。「沖縄復帰」がなにかと言えば、本土の米軍基地の整理縮小といえるのではないか。といってもですね、米軍基地が自衛隊の駐屯地になったケースもあります。朝霞駐屯地などはその典型です。その前にさかのぼると、旧日本軍の軍事施設、演習場、それが米軍のものになり、そして自衛隊のものになるというような具合です。光が丘団地というのが練馬にあります。ここ(新宿)からいうと大江戸線の終点ですけど。あそこは旧成増飛行場でB29を撃墜するための部隊が出撃する所でした。戦後は米軍住宅となります。返還されてもですね、基地というのはコンクリートで滑走路を固めているわけですね。普通の農家がそれを畑とかに戻せないわけです。そうすると、結局米軍住宅から返還されても大規模な住宅開発とかという形にならざるを得ない。結局もともととられた人のところには帰ってこないということになります。
そういうふうに、「関東計画」という形で首都圏の米軍基地がざあっと整理縮小されて沖縄に集中した。同時に核密約の問題もあります。もうひとつ忘れてほしくないのは、さっきも言いましたように返還と同時に自衛隊も沖縄に行ったということです。いま起きていることっていうのは、95年の少女暴行事件以降の在沖米軍基地の合理化強化、と同時に南西諸島の自衛隊増強です。そういう意味では日米共同使用の軍事植民地というような言い方をしてもいいのではないかとぼくは思っています。

◾️………国家安全保障体制の形成………◾️
かつては「日本有事」における日米共同作戦だったんですけど、もう「グローバル安保」ということで、平素からの同盟調整メカニズムも日常的に動きています。従来は、作戦計画を練って更新してたのが、いつでも即応できるようなシステムが作られています。
それから国会関与の回避という問題もあります。70年の自動延長もそうですが、本当だったら条約を改正しなきゃいけないようなことがたびたびあったわけです。でも〈ガイドライン=日米防衛協力指針〉で、終わり!、〈橋本・クリントンの安保戦略〉で、終わり!、 防衛・外務双方の2+2(ツープラスツー)で決めました! という形で、国会の関与すら回避されながら増強されてきました。
それから更に、日本型シビリアンコントロールの終焉も進んでいます。
アジア太平洋戦争では、軍事費が膨大になって財政規律が失われました。これに対しては大蔵省(今の財務省)の官僚たちも非常に怒りを感じました。だから戦後、財務官僚は、財務規律から膨張させないという縛りをかけてきました。ぼくらは去年の11月に財務省の防衛予算担当者と交渉したんですけど、彼から「皆さん頑張ってください」と言われるくらい、財務省の人間も結構カリカリしています。今の防衛予算は、それほどまでに財政規律を突破しているということです。
警察の「ゴーストップ事件」というのが戦前にあるんですけれど(1933年)、大阪で陸軍のサイドカーが信号を無視し、それを警察が止めたと。軍隊に対して何を威張っとるんだというので、警察が頭を下げさせられたという事件がありました。そんなこともあって、警察も実は自衛隊に対しては、そう大きい顔をさせたくないというのがありました。今から22年前、石原慎太郎都知事の下で「ビッグレスキュー2000」という、防災に名を借りて銀座に装甲車を出した大演習がありました。そのときに練馬駐屯地で「今年はビッグレスキューだからおまえら、がんばるように」と自衛隊員を鼓舞しときに飛び出したのが、震災になったら「三国人が騒擾を起こす」といういわゆる「三国人発言」です。そのビッグレスキューに反対する銀座デモをしてたときに、機動隊の隊長が空を飛んで行く飛行機やヘリコプターを憎々しげに見上げて、「兄ちゃんアレ、自衛隊か」「そうだよ」…「ケッ!」と言ってたんですけど、今はすっかり警察と自衛隊は一体化している。2002年に自衛隊と警察の治安出動に関する協定というものも見直され、連携が深められ、日常的に連携するという構造になっています。
防衛庁が省に昇格したのが2006年。名前が変わっただけではありません。閣議で独自に予算要求ができるわけです。ここから大軍拡が始まっていきます。それから国家安全保障会議の設立。2013年に特定秘密保護法が話題になったときなんですけど、国家安全保障会議の設立はあまり問題にされませんでした。何でも「治安維持法の再版」というとわかりやすくて人が集まるだろうという人もいますが、そういうつまんない政治をしてたらスカスカになるだけだと思います。一体この間いくつ治安維持法ができたんだ? ぼくが「国家安全保障会議の設立、これは大きな問題だ」と言うと、ある人が「池田くん、それはよくわかるけど、難しいからね」って。特定秘密保護法はわかりやすくて人が寄せやすいということでしょう。だけどそれじゃあ向こう側の本質的な攻撃をはね返すことができないと思います。この国家安全保障会議というのは最少で首相、内閣官房、外務、防衛の4人の大臣で、緊急事態対処の基本方針を決める。それから、平素からの国家安全保障の方針を決める。それが国家安全保障戦略というものなんですが、そんなものあの閣僚たちを見ていて、彼らだけで出来るわけじゃないですね。作っているのは事務方、官僚。国家安全保障局というのがあって、その国家安全保障局の中心が警察畑と、自衛隊・防衛省畑です。
2015年に防衛省の中も変えられました。防衛省の国家公務員試験を受けて、背広を着ている官僚が迷彩服を着た自衛官を抑えるという構造だったんですが、それを取っ払いました。迷彩服を着ている高級自衛官の発言権を拡大しました。そういう構造の中で、この国家安全保障局に巣くう国家安全保障官僚というのが幅を利かす。よく官邸政治といわれたりしますけど、官邸官僚は経産省だけではなくて、この安全保障分野の連中が幅を利かせています。平素から多様な事態に対応する態勢を作る必要だと、重要影響事態、存立危機事態、武力攻撃事態──そういうさまざまな事態に柔軟に即応的に対処する態勢が作られています。

◾️………多国間安保化………◾️
日米安保だけではないです。さっきオーストラリアの軍艦を警護したという話をしましたけど、クアッド(日・米・豪・印/安全保障対話)です。5月に日本でクアッドが開催されますが、そこでバイデンが来て、また岸田と会談する。……ということでまた日米安保が強化されます。ウクライナ戦争への対応にアメリカが追われる中、ますます対中抑止の最前線を、ますます自衛隊が担うようになるでしょう。
それからクワッドと直接イコールではないんですけれども、オーカス (AUKUS)とういのがあり、これは旧英連邦諸国になります。そこにはオーストラリアが入っているわけです(豪・英・米)。それからファイブ・アイズという秘密情報の共有の仕組み(米・英・豪・カナダ・ニュージーランド)であるんですけど、それに日本とドイツと韓国を入れようという話もあります。ですから、NATOみたいなものが東アジアにはないと思われますけど、実はそういうのが事実上作られているということです。去年はイギリスのクイーンエリザベスという空母が来て、日英の軍事演習が行われました。フランスからはジャンヌダルクが来ました。クイーンエリザベスはこれから5年ぐらいは極東に張り付いて、その中心母港が横須賀になると言われています。それらの国々との間に安全保障条約が締結されたという話は聞かないですよね。いちいち条約を結ばないんですよ。「安保宣言」を発して、物品役務融通協定を結び、円滑化協定という名前の地位協定を結んでいく。全く国会で議論するという回路をさえ通らずに、多国間安保がどんどん進められていってる。
いま、経済安保推進法というのが出されていますが、これは外国人留学生に機密情報など先端技術が渡らないように管理を徹底すとか、特定秘密保護と関わるところとか多いんですけれど。そういうヤバイ部分というのは参議院選まではアイマイにして、その部分を落とした形で今の国会に上げられています。
ウクライナ問題に端を発したロシアの銀行に対する制裁措置などを考えてもらえば、経済というのも、非軍事的な戦争手段だいうことがわかる。一時期は日米安保を軍事同盟じゃなくて経済同盟だけにするのを対案にしようという動きもありましたが、そんなふうに軍事と経済はすぱっと分かれるものではないですし、いわば一体として考えるべきです。

◾️………日米安保の今………◾️
「日米安保の今」という話に行きます。
アメリカが脅威と思っているのは、①中国・ロシアとの新対抗関係、②イランなど地域大国による脅威、そして3つ目が「テロ」なんですけれども、もうあれこれつつきすぎで対応できてない、とにかく同盟国に負担増を求めるという現状です。
ぼくはあまり「アメリカの言いなりになっている」という言い方はしたくないと思っています。やっぱり国家安全保障会議の中心にいるような官僚たちの書いてる本とか、有識者会議に出ている学者連中とかが、むしろ率先して提案しているわけです。それこそシーレーン防衛も、海上自衛隊の方から先に素案があって、「自分たちからというのはなんなので、アメリカ側から言ってくれませんか」っていうような形で、シーレーン防衛も進んでいたりしています。だから「アメリカの言いなりになっている」というのは、もっと軍事的に小さい存在だったという昔のイメージで思っていることではないでしょうか。
「はいはい、喜んで負担します」「はいはい。対中国なんかはできるだけ、助けなしで自分でやっちゃいますよ」って、それによって利権を得る人たちというのがいるわけです。
今日の沖縄の話との関係でいうと、日米安保の強化の歴史というのは、沖縄に対する「構造的差別」によって支えられてきただけじゃなくて、今はっきりと 「戦場にもう一度する」 という想定で「台湾有事」は考えられています。テレビなどでさんざん言われている「ハイブリッド戦」ということですけど、こんなイメージで考えられています。
「特殊兵による要人暗殺、海底ケーブルの切断と西側との情報遮断、その後にサイバー空間を通じた猛烈なフェ イクニュースの洪水が来る。EMP(電磁パルス)攻撃やサイバー攻撃による政府・軍の指揮命令系統の破壊・乗っ取りが行われ、親中勢力を担いで愧儡政権が樹立され、中国政府に軍事支援の要請が出される。中国軍は、海上封鎖をかけて外国勢力の介入を阻止した上で、愧儡政府からの内乱鎮圧要請を名目に上陸し、戦わずして台湾軍を屈服させようとするであろう。」(兼原信克『日本の対中大戦略』、PHP 新書、2021 年)
こういうことを想定しているかというと、あいつらは本当にあると思ってないんですよ。脅威がないと、軍隊って持ちません。脅威がないと軍需産業も持ちません。だから脅威がなくなると新しい脅威を作っていきます。冷戦が終わったらテロの脅威だと言います。
ハイブリッド戦争というのは、非軍事主義的手段と軍事的手段とかがマダラになってグラデーション的に生起するだろう…台湾有事においては南西諸島は戦闘区域に入る…そこで尖閣とかが奪取されるだろうと。そのやり方としては、
「民兵や特殊兵を乗せた中国漁船が数百隻の船団を組んで尖閣諸島に押しかけてくる」(兼原信克 同書)
そんなイメージなんですね。と同時に、南シナ海での攻防:台湾有事になれば、中国海軍が戦場にする南シナ海、バシー海峡は通れなくなる。→ タンカーの護送船団(コンボイ)を組んで最新鋭の海上自衛隊の「もがみ」型新型護衛艦(フリゲート艦級)を エスコート(兼原、同書)させなければいけないと想定されています。これがもう、今年度の防衛予算でお金が付いています。

◾️………想定されている戦争イメージ………◾️
中国軍の戦略としては、アメリカ軍が来援して来るのを止める。これがA2(アンチ・アクセス)です。戦域に到達した米軍が自由に行動することを止める。これがAD(エリア・デナイアル)と言います。
中国は在日基地、特に沖縄米軍基地・自衛隊基地・駐屯地への攻撃と指揮統制システムへの麻痺攻撃をかけてきて、南西諸島からなる第1列島線を越えて西太平洋に出ていくと。それを自衛隊が第1列線を中国軍が突破しないように空と海で盾となって持ちこたえる。米軍は安全な後方基地に分散退避して、エア・シー・バトルで反撃する……。こういう想定のもとに、石垣・宮古・奄美の地対艦ミサイル部隊とかが整備されてきたということになります。
こういうシミュレーションでは大体の人が、初動は中国軍が優勢で、米軍は一旦は後方に退避するが、反撃に転じるというシナリオで抑止ができると言ってたのですが、この間は初動段階でドッと圧力をかけるような軍備増強をして中国を抑止する、というふうな話になっています。「台湾有事=日本有事を断念させるための抑止」に関して、初動段階からドッと圧力をかける、こっちが先んじるということですから、このシナリオの中で「敵基地攻撃力の保有」が出てくるということになります。去年の暮れにですね、台湾有事・日本有事の際の日米共同作戦計画が策定されつつあるということが、新聞でも報道されました。
台湾有事の緊迫度が高まった初動段階(=日本政府が重要影響事態と判断した段階)で、米海兵隊は自衛隊の支援を受けながら、鹿児島県から沖縄県の南西諸島に臨時の攻撃用軍事拠点40ヵ所を置く──ここに「重要土地規制法」が関わってくる。なぜ重要土地規制法を作ったかというと、こういうふうにさっと40ヵ所の軍事拠点を作るのに、いちいち立ち退いてくださいとか、こういう建物困りますよとか言ってられないと。平素から機能阻害行為にならないようにしておくという話です。
ちなみにですね、重要土地規制法は沖縄だけに適用されるものではありません。首都圏の自衛隊施設も重要土地規制法の区域指定の対象になります。朝霞駐屯地が総隊司令部とか、司令部機能が集中しているので特定重視区域になると言われています。年末に「毎日新聞」がすっぱ抜いた記事によると、機能阻害行為の事例というのは「高所からの監視」とかというのが入っています。練馬駐屯地の周辺、練馬北町とか平和台とかになるんですけど、高層マンションがいっぱいあるわけです。そうするとベランダに出て洗濯物を干してるとか、決まった時間にベランダで煙草を吸うとか、そういうことは「高所からの常なる監視」になりかねないということです。本当にですね、重要土地規制法というのはとんでもないものなんですけど、これはこういうシナリオがあって制定されたものだ、ということになります。
とにかく、中国が動く前にやる気をなくさせるための抑止は必要だから、そのために軍備を増強しなきゃいけないというだけでなく、普段からサイバーテロ対策の仕組みを作らなきゃいけないということで、警察庁直轄のサイバー部隊というのが創設されます。もう衆議院を通ってしまいました。何でもかんでも内閣委員会に法律が持ち込まれて、議員さんたちもあれよあれよという感じで処理できない。今まで、警察庁には捜査権がなかったんです。建前は、都道府県警察の体制。ところが警視庁に直轄部隊として捜査権を持つサイバー部隊を置くというのは、警察組織の大きな変化だといえると思います。そういうこともこの安保強化、戦争シミュレーションの中で出てきています。
「高度国防国家」とかいうのが日中戦争期に言われたんですけど、いまは「高度国家安全保障国家化」というか、その中で治安監視社会化、緊急事態に対応した自由や権利の制限-緊急事態条項追加改憲―などといった問題が出てきています。コロナ禍の下で、緊急事態条項追加改憲の前倒しというのかな、命を守るんだったら私的自由が制限されるのが当たり前、みたいな空気も作られています。びっくりするのが国民民主党の人かな、「緊急事態の時には国会議員の任期を延長する」という発言をしていました。これってよくクーデターのときにやる手なんです。クーデターを起こしておいて、形だけは議会はなくさない。ずっと選挙をやらないで議員の任期が続く。そういうのを政党自身が提案しています。
ほとんど話題にされないうちに国家の治安監視社会化と緊急権国家化が進んでいる。戦争のために何かを準備しているとか、戦争のイメージがどうも第一次・第二次世界大戦の総力戦のイメージで、「あんなになったらいけませんよ」みたいな言い方なんですけど、そういう戦争イメージじゃないんですよね。今もある意味で戦時下なんですよ。弾は飛んでないけどサイバー攻撃は頻繁にある。「ほら、トヨタ止まったよね」みたいな。だから常に対応することをして、抑止力を持っていないと何されるかわからないよ、という体制の仕組みになってきているということです。

◾️………これからの安保闘争を考えるために………◾️
あと15分ぐらいですね。「これからの安保闘争を考えるために」。ここら辺を議論できるのが一番いいんですけど、戦後の平和運動は沖縄を切り捨ててきたと言ってもいいと思います。1950年代の平和運動とかもそうですし、その前のサンフランシスコ講和条約を片面講和=西側諸国だけとの講和にするのか、そのころあった社会主義圏も含める全面講和にするのかという議論のときにも、ほとんど沖縄のことには何も言及がありません。
1950年代に反基地闘争がこちらでも盛り上がる。そのころ沖縄でも島ぐるみの戦いがある……と、すごく平板な記述です。「お互い頑張ろう! 」って、あっという間に忘れていくということです。60年安保闘争のときも、ほとんど沖縄のことは出てきません。「沖縄闘争」という言葉は1968年ぐらいの頃から出てくるんですけど……。
今日は「日米安保の70年」というテーマだったので、安保の方の歴史をずっと中心に見ているけど、2年くらい前かな、どこかで「反安保と沖縄闘争」というお題を頂いたことがあって、その時にちょっと昔の本でぼくが持っているものを読み返したりしたんですけど、まあひどいものですね。「ベトナム反戦運動の一環としての沖縄」から「70年安保の前段としての沖縄」。もっと極端に言うと、諸党派なんかだったら、「革命のための……」ですね。沖縄のことを沖縄のこととして考えていない。いろいろもう一度東大闘争の記録とか、日大闘争の記録もひっくり返して読み直したんですけど、沖縄が出てこないんですね。
1969年の佐藤訪米阻止闘争。佐藤首相がアメリカに行って、ここで返還協定はほぼ決まりになったんですけど、沖縄の県職委員会などは、「決戦はこの69年の11月であらねばならない」という位置づけで、佐藤訪米阻止闘争を展開したそうです。一方ですね、東京の方は70年の4・28が過去最高の動員なんです。沖縄の69年11月決戦。それ以降は運動が衰退していく過程と、「わあ、沖縄だ!」ということになって、70年の4・28は本土の方では人がいっぱい出ている。このギャップですね。
以降、復帰が既成事実化していく段階で、どんな取り組みがされていったか。70年は全軍労解雇撤回闘争──基地を安定的な職場にすることを求めたのではない離職者対策や解雇後の生活保障要求、基地の再編合理化との対決という闘い、そして国際石油資本の進出と企業誘致に対しての闘いなど、ねばり強く沖縄では闘われていって、その中で「コザ暴動」があるわけです。それに比して本土の方は、もう急激に後退局面で、党派争いになっていきます。72〜3年を境にして「沖縄」って消えるんですよね。
ぼくが79年に大学入って東京出てきた時に、一番最初に集会に行ったのが日韓関係の政治犯救援の集会です。在日の学生が韓国に留学して、そこで北のスパイだというふうにでっち上げられた事件が軍事政権のもとでありました。いろいろな大学に、自分たちの学友の政治犯を返せという運動があって、そういうことをやってる先輩に連れられて日韓の集会に行ったんですが、「今日、朴正煕が射殺されました」ということが言われて、その後はもう地獄のようなデモの嵐だったんですけど……。たしか2年くらい前に、沖縄の闘争の歴史をレポートしろってある市民運動団体に言われた際に、その当時の日韓関係のものをいろいろ読み漁ってみたんですが、沖縄が出てこないんですよ。自分の記憶でも「日米韓軍事一体化反対」とか言っていたけど、その時も沖縄は出てこないんですね。
ぼく自身が沖縄に関する本を集中的に読んだのは、87年の天皇・裕仁が沖縄に行こうとして下血状態になって行けなかった時です。その直前に海邦国体反対で知花決起があった。でもね、一貫して沖縄の運動も盛り上がってきたわけではなくて、やっぱり私達と同じように浮沈してきたということも忘れてはならないと思います。
たしか87年に嘉手納基地包囲闘争というものがありました。その頃、横田基地包囲闘争もあったんですけど、総評が解散して今の連合ができていく頃です──当時は、「右翼的労線統一」と言ってました。当時、右翼的労線統一と言ったんだから、いま連合が自民党支持するのは当たり前じゃん、いまさらびっくりしなくていいじゃん、とかオレなんか思っていますけど。──いわば総評が消えていく中で、ヒューマンチェーンで厚木基地を取り囲もうとか、嘉手納基地包囲闘争といったものが取り組まれました。もう亡くなりましたが、崎原盛秀さんという沖縄でずっと復帰─反復帰運動からずっと戦い抜いた方がいたんですけど、その崎原さんが渋谷の宮下公園でやった私たちの集会に来て、反天皇関係の絡みでアピールしてもらいました。その時に何人か逮捕者が出たんですね、機動隊とぶつかって。一方私は、こっちの反天皇制運動から嘉手納基地包囲闘争に派遣されました。包囲闘争後の交流会のときだったと思うのすが、崎原さんが「ヤマトでは逮捕者を出している一方で、手をつないで包囲したと喜んでいていいのか」といった発言をされたことを契機に、沖縄の人同士の中で論争みたいになったんですね。初めて沖縄に行って、初めて沖縄の大きな闘争に参加し、沖縄の人同士の論争を聞いて、目を丸くしたというか、頭が真っ白になったというか、ビックリ仰天して固まってしまった記憶があります。
その頃すごく言われてたのは本土系列化──それまでの沖縄の運動が終わっていくのをどうするんだ、みたいなことも議論されていました。だから、三〇代くらいかな、今の若い研究者が「全ての歴史がオール沖縄に結実する」みたいな物語を発表してるのを読んだり、聞いたりすると、そんな話じゃないよっていう違和感を持ってしまいます。
それでも95年の「少女暴行事件」後、沖縄の闘いは復活しました。ぼくはこの間の私たちの運動って、沖縄に依存してきたと思います。ぼくのように自衛隊駐屯地の問題に取り組んできた者からすると、自衛隊の問題を含めた反安保闘争ってほぼ無いに等しい。「沖縄の人々はこう言ってます」ということでなんとか持たせてきた。沖縄のおかげで反戦運動があるような状態。これを変えなきゃいけないと思います。
「オール沖縄」、これが出来た切っ掛けは、翁長雄志さんの知事選立候補ですが、2013年1月27日に「オスプレイ配備反対」で沖縄の県議会から超党派の議員団が東京に来たんです。日比谷公園で集会があったんですが、日比谷公園周辺にはヘイトグループ──街宣車右翼とはちょっと違う、SNSで集まってくるようなヘイトグループがどっと取り囲んで、「沖縄わがまま言うんじゃねえよ。お前ら中国の手先か」って騒いだ。それがすごく翁長さんにとってはショックだったそうです。
そういう沖縄ヘイトを許してしまっているヤマトの問題というか、「本土」の在りようが問われていると思います。沖縄に何回行ったというよりも、こっちでヤマトの問題をどうするか。ぼくの軍事分析の師匠だった山川暁夫という人がいらっしゃったんですけど、山川さんと一緒に講演に行った時とかに、「池田、オマエ言ってることは間違ってないけど結論が暗い。最後は明るく」って言われたんですけど、どうも山川さんが言うようにうまく芸がなくて相変わらず暗いんですが──オール沖縄の行く末を楽観的にとらえてはならないと思います。もちろん、政府・与党は、札束攻勢で切り崩しを図っていることに対して、それを「ヤマト」の側の問題として批判していかねばならない。そのためにも、客観的分析が必要だと思います。例えば、翁長さんの経済構想を見ると、中国からの観光客がたくさん来るというような前提です。中国脅威論で中国との関係を悪化させて、そこに自衛隊の基地をどんどこ作って行こうという現状で言えば、あの経済政策はだんだんリアリティーを持たなくなります。「離島」にあれだけの自衛隊員が住めば、家族も含めて、選挙結果を左右するようになります。
それは朝霞市だってそうです。練馬だって自衛隊出身の議員というのがいて、議会ごとに「募集業務をもっとしっかりやれ」とか言うのが現実です。だからぼくは、「沖縄の民意に従え」とかいうスローガンって、それでいいのかと、悩んでしまいます。選挙結果だけが民意ではないし、保守の方に投票せざるを得ないような、構造的な暴力で圧力をかけられてなってしまった選挙結果であったとしても、権力やマスコミは「沖縄の民意は変わった」と大々的に宣伝するでしょう。その時に私たちは何をどう人々に伝えればいいのか。選挙結果が、政府・与党に好都合なものに変わっても、基地反対と言えるような論理を作らないといけないと思います。

  ◾️………「流動的下層労働力」………◾️
最後になります。今日の映画との関係でいうと、基地建設ですね。これは土建屋が潤うわけです。今の辺野古の工事だけじゃなくって、占領下での沖縄の米軍基地拡張でヤマトのゼネコンが復活していったという歴史があります。映画では、筑豊のお墓が出ていましたけれども、富国強兵殖産興業と土建資本主義の形成は一体不可分でした。一時期は「田中角栄土建資本主義」というのがありまして、あまり軍事とは関係がなく、公共事業バラマキみたいなイメージで語られた時期もありますけれども、しかし、大倉組とかの歴史をちょっと調べると、軍事土建資本主義なんですね。軍事土建資本主義は日雇い労働者に支えられてきました。その構造は戦後の高度経済成長の中でも変わってこなかったと思います。
ここに『ルポ 労働と戦争』という本があります(島本慈子/岩波新書)。この前古本屋に10年前ぐらいの岩波新書を持って行ったら、48円といわれてガックリしたんですけど(笑い)。だから、これなんかも48円でしょうね、2008年の本ですから。これをちょっと読み返してて。イラクに行った自衛隊の飛行機のエンジンをメンテナンスするために、石川島播磨が行ったんですけども、行ってるのは正社員だけじゃないんですよ、派遣労働者も行っているんです。コンピューター関係の技術者、ぼくの知り合いでずっとソフト屋さんなんかをやってる人の話を聞くと、コンピューター関係も、建設業と同じように下請け・孫請けの世界だそうです。だから防衛省のシステムが最後の最後に、「二日でできます」っていう下請けの下請けの下請けの元オウム信者のところに行ってみたいなことが起こるのも、やはりIT技術者下請搾取構造があるからです。自衛隊もそういう人材を民活で集めようとしているんですよ。中心舞台はそれこそ理系の大学生だとか、IT企業の第二新卒あたりに粉かけようとしているみたいですけど、それなんかも含めてもっともっと末端にいくと思います。
〈資料〉の最後のほうに、寄せ場労働運動の船本洲治さんの文章を載せてあります。ちょっと読みます。
「山谷、釜ヶ崎、沖縄を流転し、1970 年代初頭、手配師追放釜ヶ崎共闘の中心として活動。1975年、皇太子訪沖に抗議し、沖縄で焼身自殺。」──「旧社会からの汚物からではなく、帝国主義の必然的帰結として、帝国主義が不断につくりだしているところの汚物──釜ヶ崎・山谷に代表される流動的下層労働者の“低賃金労働力生産工場”は、解体された農・漁村であり、合理化された炭鉱であり、未開放部落であり、朝鮮半島であり、(日帝本国内)朝鮮人部落であり、そして沖縄なのだ。土地・財産・生産手段から自由な労働力商品は基本的に流動的である。さて、官許のマルクス主義者諸君。そもそも流動的でない労働力商品とは一体何ものであるのか?」
今の日米安保の強化の中で行われる軍事基地の建設。そしてそういう海外派兵にまでついていく装備のメンテナンス。そしてサイバーテロ対策だとか言われて増強されるサイバー防御のIT技術者たち。それらもみんな、この流動的労働力に支えられる構造にあるということも踏まえて考えていかなければならないと思っています。
──ということでちょうど一時間。

●……質疑応答……●
司会 ありがとうございます。こんな長いレジュメで最後までできるのかと思ってましたが、最後まできましたね。
時間もまだ多少ございますので、ご質問なりご意見なりございましたら、お願いします。今聞いていて、100個ぐらいの単語が頭の中でぐるぐる回ってて、大変なことになっているなということだけは、すごく思いました。ご質問はありませんか。

A  全く政治にほんとに弱くて、お話を聞いてて難しいことだらけで理解できなかったんですけれども。池田さんは支持政党とかありますか?
池田 ないです(笑)。ぼくは何かの政党に属してもいないし、政党を支持したこともありません。いまやっていることで言えば、反戦反基地運動をどう中身のあるものにして広げていけるかを、軸にして考えているだけです。
A それは、政治とは絡まずに市民としてやっていきたいということですか。
池田 あ、そうです。だけど、そうするためには誰でも使います。
A 反戦主体とか沖縄とか、何か、こうしたいっていうのがあれば……。
池田 こうしたいっていうのは無いです。こうしたいというよりも、こういう増強はやめさせたい、ということです。
A やめさせたいわけですね。そうすると、やめさせたいっていう思想なり、なんかこうアクションする政治家が権力を持てばやめさせられるような気がするんですが、そういうことではないですか。
池田 まあ、そういう人はいなさそうだし(笑)。でも、政党を問わず役立ってくれそうな人はいます。例えば、練馬9区だったら立憲民主の山岸一生という人がこの前の衆議院議選に通りました。なりたてですから地元の人間から何か要望があると、いろいろやってくれます。警察庁サイバー部隊の院内集会でもちょっとあいさつに行ってくれというような話とか、重要土地規制法のことについて質問主意書を出して、ちょっと聞いてくれとか。だからそれは誰でも、自分の反戦反基地運動のためだったらどの政党の人でも話持ってって、役に立ってもらえる人には役に立ってもらう。
A わかりました。

司会 ありがとうございました。他にありますかね。あっどうぞ。お願いします。
B 本日はとてもわかりやすい解説をありがとうございました。実は私、練馬が故郷で、自分の故郷にそんな駐屯地があるということを全く自覚していなかったので。ちょっと驚きました。
質問というよりは、たぶん前の方と同じ質問になってしまうのかなと思うんですけれども…。やはり、戦争に反対だっていう思いは、保守派ではない非保守派の中では、すごくそういう思いがふつふつとあると思うんですけれども、じゃあ具体的にどうやってその戦争を嫌だなって思っているおじちゃん、おばちゃん…私もおばちゃんですけれども、そういう日常、戦いの日常ではない日常を送って仕事をして、家族のご飯を作って、寝て、またっていう、そういう日常を送っている人の中ででも、どうやって戦争をしないということを勝ち取れるのかっていうのはやっぱり思うんですよね、日常の中で。
実は私の周りって、あんまり保守がいなくって、保守の人に「いや、違うでしょ」とかいう相手がいなんです。心情左派っていう言い方がありますよね、心情だけ左派だけど全く行動しない人たち。でも、そうした人ばかりだったら、きっとおそらく戦争になるだろう。では今どうしたらいいのか、自分はどうしたらいいのか、どういうふうに行動すれば良いのか。行動しなければたぶん恐ろしいことになる。だけどどうやって行動したらいいのかなっていうのがあるんですけど、どのようにお考えでしょうか。
池田 えーとですね、どう言えばいいかな。ぼくはべつに研究者でもないし、運動の専従でもありません。ずっと働いてて、練馬は寝に帰るとこでしかないんですけれども、でもやっぱり学生時代からやってきたことのこだわりと、やっぱり駐屯地がある地域に住んでたら、そこでの動きに対しては声を上げていかなきゃいけないと思ってきただけです。
質問にどう答えればいいのかちょっと迷っているんですけど……。いくつか、運動に関わっていったという理由はあるんですね。
そのひとつは、やっぱりものすごい管理教育の高校生時代。ぼくよりも7~8歳程度上の世代が、ぼくの田舎でも制服自由化の運動とか、高校生運動をするわけです。そうすると保守的な親は、あんな学校に行かせたら、長髪にしてジーンズをはいて、女の子と不純異性交遊をするから、中高一貫の厳しい校則のところで先生に殴ってもらった方がいいんだっていう形で、ものすごい管理教育の中高一貫の学校が伸びる時代でした。ぼくも、まあそういうところに入れられて──入れられたから逆に、東大闘争の記録や日大闘争の記録を古本で探して出会ったりするんですけど…。まあ、そういう意味で、黒ヘルメットでやってた頃は、どちらかというと現状に対する不平不満。それは何というのかな、何かこう満足し得ない。まあストーンズ風に言うと、”I can’t get no satisfaction” みたいなそういうノリで、あまりその、反戦とか平和の内実みたいなことをそんなに突き詰めて考えていたわけじゃなかった。
すごく考えるようになったのが、ぼくは湾岸戦争(1990年)のとき。湾岸戦争って違法な侵略戦争を行ったイラクに対する制裁としての正義の戦争だと言われました。でもぼくは「正義の戦争」っていうものをどう捉え、批判したらいいのかと考え、それで戦後の反戦平和運動の歴史とか、いろいろなものを集中的に読みまくった時期があります。その中に、その当時交流のあった福富節男さんたちがおっしゃってることがありました。非暴力の思想、非暴力不服従、9条を絶対平和主義的な方向から進化させるという考えですね。
ぼくはどっちかというと、たとえば、全斗煥が来たとき(1984年)に、全斗煥来日阻止・首都圏学生実なるものを作って、関西の京大とか同志社たちにオルグに行って、それに──なんと怖い!、 知らないって怖いですよね──釜日労まで行ってですね、「我々学生は羽田現地闘争を行います。釜日労の皆さん、共に羽田で闘いましょう」とか、よくあんな無茶なことをやったと思うんですけど、どっちかというと戦闘的とか暴動的とかそういうの〇(マル)だった人だったんですけど。湾岸戦争のときににすごい考え込んでいく中で、どっちかっていうと福留さんたちが考えてこられたほうにぼくは傾斜して行きました。その背景には親父の兄貴が戦死してるとか、会ったことのない曾祖父が空襲で死んでいるとか、そういうこともあるのかもしれませんね。だからどっちかというと、今は絶対平和主義的な立場です。
今のウクライナのことに関して言うと、ロシアのやってることは違法な侵略戦争です。だけど、それに抵抗するウクライナの正義の戦いを支援しようというのは、ぼくは絶対におかしいと思っていて、与したくないと思っています。とにかく、ぼくらのネーミングは「戦争に協力しない! させない! 練馬アクション」です。自分が戦争に関わらない、兵士として行く行かないとか関係なく、しないようにしよう・関わらないようにしよう、自衛隊員も含めて「就職するのは仕方がないけどさ、逃げておいで」を含めて、「させない」っていうネーミングです。
ぼく、獲得目標がもともと学生時代から低くて、さっき心情左派は役に立たないとおっしゃっていましたけども、(「役に立たないとは言ってませんよ。動かない…」)…ぼくは、動かないっていうか…もうすってんてんの段階で大学に入ったので、「あいつなんか安保だ何だとか言って集会行ってるやつだけど、面白いやつだぜ」という、デモ行ってるやつだからって、絶交されないというのが獲得目標だったから、ものすごく獲得目標が低いのね。「どうしてこんな状況なのに、明るく池田くんは運動をやっていられるの?」 「うん、もともと獲得目標が低いから」。「あいつ、なんか中国脅威論をおかしいって言ってて変なヤツだよな」「でもあいつ面白いやつだぜ。あいつの話も聞いてみようよ」っていう、普通の友達がどれだけ作れるかっていうのが、ぼくは大事だと思っています。
司会 よろしいでしょうか。
B はい。
司会 そんなに低いの?
池田 ずうっと低い(笑)。
司会 とても重要なテーマで、1時間という短い時間の中でまとめていただきました。ぼくも帰ってからもう一回読み直して、線を引きながら噛みしめたいと思っていますので、皆さんもこれを契機に今の池田さんの話を受けて、ご家庭で、あるいは職場で考えていただければ、というふうに思います。ここの会場を使うのはぼくらも初めてでして、これからもここを含めて上映運動を案内していきますので、この映画の感想も含めて、皆さんと次の機会にお話をしていければなというふうに思っております。今日はどうも最後までありがとうございました。
【2022年3月5日 フリースペース「無何有」にて】

追悼の集いと上映会のお知らせ

◎11月13日(土) 午後2時より(1時30分 開場)
〈追悼集会〉
・生前の映像、・友人たちのお話、・献杯、など
◇日本キリスト教会館 4階
    新宿区西早稲田 2-3-18
参加費:1,200円(資料代込み)

◎14日(日) 午後2時30分 開場/3時 上映
〈映画と講演〉
・『山谷 やられたらやりかえせ』(監督:佐藤満夫、山岡強一)
・上映後、17時頃から 講演
「竜さんの思想と行動」(仮題)  原口 剛(神戸大教員)
◇ふらっとにっぽり 3階

風間竜次さんを悼む

山谷」制作上映委員会のメンバーでもあった風間竜次さんが、2月22日に亡くなりました。竜さん──みんなが親しみを込めて、そう呼んだ──は、下記の「回想録」紹介にもあるように、1970年代のはじめから、釜ヶ崎、山谷で「流動的下層労働者」解放の闘いを切り開き、常に労働者の主体性を基本に置いた闘争を繰り広げてきました。

竜さんは、一昨年の夏あたりから胃の不調を覚え、医者にかかって「癌」と分かりましたが、自らを奮い立たせ、自己の存在をかけて「ガン戦線」でも闘いを続けてきました。

『〜釜ヶ崎無宿』の発行日の2月18日は竜さんの73歳の誕生日でした。病床で、出来上がった本をうれしそうに眺めていたそうです。
われわれは、掛け替えのない、大きな存在をなくしました。ほんとうにくやしい。
                                                                                                                 ──「山谷」制作上映委員会

2021年 4月17日

「釜ヶ崎、山谷、寿町を撃つ」
トーク:岸 幸太(写真家)

◎ 岸幸太さんは3月始めに、寄せ場を撮影した写真集『傷、見た目』(写真公園林)を上梓されました。その本の中で岸さんは、「本書に収められた写真は2005年12月から2020年8月までに大阪の釜ヶ崎、東京の山谷、横浜の寿町で撮影したものである。コンタクトシートをあらためて見返すと、初めてカメラを持ってこの町を歩きながら、撮りたいものが目前に拡がっていることに対して湧き上がってきた強い高揚感と緊張が甦る。その時に直感した私が撮るべき町や人がここにあるという確信は、今も変わらない」と書いている。その思いと、写真に対する考えを語っていただきます。

釜ヶ崎「センター前」上映会報告 2021年1月2日・3日

釜ヶ崎「センター前」越年越冬闘争における『山谷 やられたらやりかえせ』上映報告です。
上映は越年越冬期間中に設置しているテントにおける「センター前映画祭」において2回(1月2、3日にそれぞれ1回ずつ)行いました。テント内には間隔をあけて椅子を10個程度並べ、1月2日の上映では人の出入りはありつつほぼ満席、1月3日の上映では出入りが激しいものの10人程度の人がみていました。その他別の設営や準備で忙しかったり、焚き火にあたったりしているテント外の人たちも頻繁にテントをのぞいておりました。ささやかな上映会でしたが、作品中の風景を懐かしみ話がはずんだ労働者(「上映会のあとのエピソード」の文章参照)や、当時の釜を知らない人たちの釜シーンへの、のぞき見をふくめた注目度高さが印象的なものとなりました。
また『釜の住民票を返せ!』等の諸作品とともにセンター(前)という空間で上映できたことは意義深いものであったと思います。そして、コロナ禍において普段の寄り合いと同様に、皆でマスク着用・こまめな手指の消毒等に取り組んだからこそできた越冬・上映会でした。(Y・H記)

上映会のあとのエピソード

『山谷 やられたらやりかえせ』の上映の翌日、労働者から映画のシーンについて尋ねられた。「炭鉱のシーンがあったが、あれはどこを映したものだろうか」という内容だった。「筑豊ですよ」と答えると、とても懐かしかったという。いまは釜ヶ崎に住むその労働者は、筑豊で生まれ育ち、父親は炭鉱夫だった。映画に映し出される共同浴場や炭鉱住宅についてこちらから尋ねたところ、生まれ育った町ではそうした光景が確かにあったとのこと。そう話しながら、「炭鉱住宅はもうないやろな」とつぶやいていた。
その労働者は、炭鉱閉山をきっかけに関西に出てきたのだという。釜ヶ崎で働き、住むようになったのは、センターが建設された1970年のころだった。とくに記憶に残っているのは、90年暴動のこと。この暴動で西成警察署を謝罪させたことが、深く印象に残っているようだった(その点で92年暴動とは違う、とも語っていた)。また、その頃の釜ヶ崎では仕事があり、活気があったと懐古していた。
ふたたび筑豊の話に戻ると、故郷には、もう家族は残っていない。けれど、死ぬ前に帰りたい、故郷を見たいと、その労働者は何度も言っていた。手元に筑豊の写真集があったら良かったな、と思った。労働者と出会って、こうして話を聞くことができたのは、『やられたらやりかえせ』が労働者の出自を丁寧に辿っているからこそだと思う。そしてその映画を、労働者が集う釜ヶ崎のセンターで上映したからこそ、なのだと思う。(T・H記)

2020年12月11日

上映後、21:00頃から〈ミニ・トーク〉
今回のテーマは「越年・越冬闘争」です。労働者たちが知恵を出し合い、厳しい冬を生き抜くための、文字通りの「生きることが闘い」で、スローガンは「黙って野たれ死ぬな!」。
今年はとくに「コロナ状況下」で〈下層〉の切り捨てがますます厳しくなっています。
山谷労働者福祉会館活動委員会の横山晋さんをお招きして話を聞きます。