2021年 4月17日

「釜ヶ崎、山谷、寿町を撃つ」
トーク:岸 幸太(写真家)

◎ 岸幸太さんは3月始めに、寄せ場を撮影した写真集『傷、見た目』(写真公園林)を上梓されました。その本の中で岸さんは、「本書に収められた写真は2005年12月から2020年8月までに大阪の釜ヶ崎、東京の山谷、横浜の寿町で撮影したものである。コンタクトシートをあらためて見返すと、初めてカメラを持ってこの町を歩きながら、撮りたいものが目前に拡がっていることに対して湧き上がってきた強い高揚感と緊張が甦る。その時に直感した私が撮るべき町や人がここにあるという確信は、今も変わらない」と書いている。その思いと、写真に対する考えを語っていただきます。

釜ヶ崎「センター前」上映会報告 2021年1月2日・3日

釜ヶ崎「センター前」越年越冬闘争における『山谷 やられたらやりかえせ』上映報告です。
上映は越年越冬期間中に設置しているテントにおける「センター前映画祭」において2回(1月2、3日にそれぞれ1回ずつ)行いました。テント内には間隔をあけて椅子を10個程度並べ、1月2日の上映では人の出入りはありつつほぼ満席、1月3日の上映では出入りが激しいものの10人程度の人がみていました。その他別の設営や準備で忙しかったり、焚き火にあたったりしているテント外の人たちも頻繁にテントをのぞいておりました。ささやかな上映会でしたが、作品中の風景を懐かしみ話がはずんだ労働者(「上映会のあとのエピソード」の文章参照)や、当時の釜を知らない人たちの釜シーンへの、のぞき見をふくめた注目度高さが印象的なものとなりました。
また『釜の住民票を返せ!』等の諸作品とともにセンター(前)という空間で上映できたことは意義深いものであったと思います。そして、コロナ禍において普段の寄り合いと同様に、皆でマスク着用・こまめな手指の消毒等に取り組んだからこそできた越冬・上映会でした。(Y・H記)

上映会のあとのエピソード

『山谷 やられたらやりかえせ』の上映の翌日、労働者から映画のシーンについて尋ねられた。「炭鉱のシーンがあったが、あれはどこを映したものだろうか」という内容だった。「筑豊ですよ」と答えると、とても懐かしかったという。いまは釜ヶ崎に住むその労働者は、筑豊で生まれ育ち、父親は炭鉱夫だった。映画に映し出される共同浴場や炭鉱住宅についてこちらから尋ねたところ、生まれ育った町ではそうした光景が確かにあったとのこと。そう話しながら、「炭鉱住宅はもうないやろな」とつぶやいていた。
その労働者は、炭鉱閉山をきっかけに関西に出てきたのだという。釜ヶ崎で働き、住むようになったのは、センターが建設された1970年のころだった。とくに記憶に残っているのは、90年暴動のこと。この暴動で西成警察署を謝罪させたことが、深く印象に残っているようだった(その点で92年暴動とは違う、とも語っていた)。また、その頃の釜ヶ崎では仕事があり、活気があったと懐古していた。
ふたたび筑豊の話に戻ると、故郷には、もう家族は残っていない。けれど、死ぬ前に帰りたい、故郷を見たいと、その労働者は何度も言っていた。手元に筑豊の写真集があったら良かったな、と思った。労働者と出会って、こうして話を聞くことができたのは、『やられたらやりかえせ』が労働者の出自を丁寧に辿っているからこそだと思う。そしてその映画を、労働者が集う釜ヶ崎のセンターで上映したからこそ、なのだと思う。(T・H記)

2020年12月11日

上映後、21:00頃から〈ミニ・トーク〉
今回のテーマは「越年・越冬闘争」です。労働者たちが知恵を出し合い、厳しい冬を生き抜くための、文字通りの「生きることが闘い」で、スローガンは「黙って野たれ死ぬな!」。
今年はとくに「コロナ状況下」で〈下層〉の切り捨てがますます厳しくなっています。
山谷労働者福祉会館活動委員会の横山晋さんをお招きして話を聞きます。

2020年8月1日

日雇いとギグワーカー
          ──「やらやり」と「金をくれ!」の間

「素人の乱/12号店」での初上映です。

上映後の〈トーク〉は、
鋭い批評の非正規思想家・平井玄さんと、
元・紅一点で
「要請するなら補償しろ!デモ」発起人のヒミコさん。

寄せ場が培ってきた〈暴動〉の先に、
2020年の〈反乱〉は重ねられるか?
対論、ご期待ください。

2020年3月28日

〈秋の嵐〉

トーク+ミニライブ /高橋よしあき(シンガー/ex.テーゼ)

 

「反天皇制全国個人共闘〈秋の嵐〉」。この魅惑的な名のグループは、1987年から数年に渡って、主に原宿の路上で活動していた集団だ。

昨年5月には臆面もなく天皇の代替りが挙行されたが、その30年前、1989年1月にも同じく天皇の世襲が行われた。昭和から平成へ──裕仁(ヒロヒト)が病死し、明仁(アキヒト)が跡を継いだ。裕仁の病状発表は87年9月、一年後の88年9月には吐血し重体に。そして翌89年1月7日に死亡した。
この時期、日本中で様々な「自粛」が強制されたが、〈秋の嵐〉はそうした国家による規制の強化、そして天皇制そのものを批判して活動を続けた。原宿ホコ天(歩行者天国)での路上GIG、神宮橋での寸劇やパフォーマンス、スピーカーズコーナーなど。代々木公園や明治神宮というロケーションを舞台に、創意に満ちた街頭行動を次々と繰り広げた。
今回のミニトークでは、〈秋の嵐〉初期からの中心メンバーである高橋よしあきさんをお招きして、当時の話、現在につながる課題、そして記録映画(『秋の嵐 Harajuku im herbst』)のことも語っていただきます。1984年に「テーゼ」を始動させた高橋さんは、現在もソロでライブ活動を続け、国会議事堂を取り囲むロックフェス「イットクフェス」にも関わる一方、アスリート(トライアスロン、ウルトラマラソン)としても活躍。
当日はトークに加え、弾き語りミニライブも行います。
ぜひ、ご参集のほどを。

2020年1月25日

「泪橋」から見えた ヤマの男
お話し/ 多田裕美子 (写真家・映画喫茶「泪橋ホール」店主)

 ――山谷にある玉姫公園で、1999年から2年間、山谷の男たちの肖像を撮らせてもらった。現在の山谷は、街の風景も人の姿もその頃とはちがってきた。時が経っても変わらない120人の男たちのポートレイトを見ていると、写真屋のネエちゃん、と言いながら写真のなかの男たちが私に何かを語りかけてくる。
 私はしばらくご無沙汰していた山谷の男たちの声に耳をすましてみた。酔っぱらっていたり、東北訛りで何を言っているかわからないことばかりだったが、その声は私の記憶からはなれない。
 今も玉姫公園にある三本の銀杏の木。天高くのびるこの木に、男たちからもらった山谷の残像がかさなって見えてくる。(『山谷ヤマの男』―多田裕美子〔写真と文〕-まえがきより)
 浅草生まれの写真家の多田裕美子さんは、20年前、玉姫公園(映画「山谷」でも夏祭りや越年・越冬闘争の場として出てくる)で山谷の男たちのポートレイトを撮った。その数は120。山谷では労働者にカメラを勝手に向けたりすれば、まずは猛烈な反発をうけるが、たぶん、そこには独特な緊張感と、それに信頼感があったにちがいない。今回は、そんな写真家としての多田裕美子さんに、あわせて2019年の2月から始めた映画喫茶「泪橋ホール」の店主としての話もうかがう。

2019年12月20日

plan-B 定期上映会

――〈映画を、聞く〉2   越冬闘争――生き抜く闘い
お話し/ 町田さん (山谷労働者福祉会館活動委員会)

まもなく本格的な冬がやってくる。
今年も山谷や渋谷、そして各地の寄せ場では「越冬・越年闘争」の準備が始まった。仲間たちが知恵と力を出しあって、苛酷な「冬」を生き抜く闘いだ。
先日、大きな被害をもたらした台風19号では行政による「野宿者お断り避難所」が大きな問題になった。また、来年のオリンピックに向けて「環境美化」の名の下に「下層」の労働者、とりわけ野宿を強いられている人たちに対して、差別を剥き出しにした国家による締め付け攻撃が益々、エスカレートする事が予想される。

今回のミニトークは、〈映画を、聞く〉シリーズの2回目として、「越冬・越年闘争」を中心に話を交わします。ゲストは山谷で活動する町田さん。町田さんは、1972年に18歳で山谷に来て、当時の現闘(悪質業者追放現場闘争委員会)に参加し闘った経験があり、その時の通称(あだ名)は「チーフ」。一昨年の越冬闘争で40年ぶりに「現場復帰」し、現在は毎週の「共同炊事」や、行政に対してのさまざまな抗議・申し入れなど、渋谷の闘いも合わせて、精力的に行動をしています。
映画に写し出された山谷の一年の闘い、とりわけ「越冬闘争」のシーンとは、実際はどのようなものか? 町田さん–チーフに、現闘時代の運動に思いを込めつつ、現在の「現場報告」を話していただきます。ぜひ、ご参集ください。

2019年8月3日

plan-B 定期上映会

「外国人労働者問題」とはなにか? ——「移民」を認めない国の片隅から見えたこと
お話し/ 安藤真起子 (移住者と連帯する全国ネットワーク)

昨年暮れに、外国人の出入国などを管理する「出入国管理及び難民認定法(入管法)」が改定された。それに伴い、政府は「外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策」まで策定したが、果たしてその実体はどうなのか?
外国人労働者の問題が、社会的に注目され始めたのは、このクニが「好景気」に浮かれた1980年以降のころからだ。就学生の「資格外就労」やオーバーステイの労働者たちの「不法労働」がやり玉に挙げられたが、実際には、3K(きつい・汚い・危険)労働をはじめ、低賃金などの労働条件が低い仕事を、法的には立場の弱い外国人たちに押しつけ、「使い捨ての労働力」として扱ってきたのが実体だった。
その後、政府は「技術実習制度」などの小手先の「受入れ」方策を施行したけれど、それらは現実の労働実体には即しておらず、外国人労働者たちの労働や生活の改善につながるものと言えるものではなかった。昨年の法改定も、当面のオリンピックや大阪万博、さらには「少子化」による今後の「労働力不足」に対処する目論みにすぎないだろう。まさに、労働力政策と入管体制の管理をさらに強化しようとする、国家意思の現れといえる。

今回のミニ・トークでは移住者と連帯する全国ネットワーク(移住連)の安藤真起子さんに、外国人労働者たちが直面している状態について、移住連の活動を軸に話していただきます。安藤さんは横浜の寿での活動経験もあり、その体験を生かした話になると思います。ぜひ、ご参集のほどをお願いします。

「白手帳」と寄せ場・寿町の現在

――〈映画を、聞く〉①

近藤 昇(寿日雇労働者組合)

司会 本日はお忙しい中を上映に参加していただき、ありがとうございます。恒例のミニトークということで、「山谷」は30数年前の映画なんですけど、それから30数年を経た中で、今の寄せ場がどういう状況になっているのか、ということについて、お話を聞いていただきたいと思います。今日は寿日労、寿日雇労働者組合の近藤さん。寿というのは神奈川県の横浜にあるんですけど、その寿日労の近藤さんのお話を聞きながら、白手帳というのは日雇雇用保険なんですけども、その受給の問題、それから、現在の日雇労働者たちがどういう状況におかれているのかをお聞きしながら、考えていきたいと思います。では近藤さん、お願いいたします。

近藤 近藤昇といいます。寿日雇労働者組合の一員です。わたしは38歳のとき寿町に来たのですが、現在70歳になっています。変化が激しくて、寿町はざっといいますと今、6300人くらいの人が暮らしています。男性単身者が圧倒的に多い。平均年齢も60歳を越えています。65歳以上に限定すると、4割といわれています。日雇い仕事はほとんどない状況のなかで、みなさん生活保護、8割以上が生活保護で暮らしています。まあ寄せ場はどこも似たような状況なんですけど、男性の単身者がほとんどという街で、寿町もその例にもれない。今日は時間もないと思いますので、用意した資料にそって話しませんので、後で読むなりしてください。
 白手帳ってそもそも何なの、ということと、仕事がない状況の中で高齢化が進行して、じゃあその人たちは今、生活はどうなっているのかを話してほしいということでした。ということで、わたしがつくったレジュメにはその二つのことしか書いておりません。
 日雇労働者とはどういうものなのか。日々雇われて、日々解雇されるという存在です。法律的には雇用保険法という規定があって、42条に日雇労働者という項目があります。クニの法律によれば日雇労働者というのは何か、ということですが、「日々雇用されるもの」というのが一つですね。あともう一つありまして「30日以内の期間を定めて雇用されるもの」つまり1か月を超えて契約されるものではない、ということですね。当然、企業にとっては利益のよくあがる雇用形態です。契約が満期します、だからといってそこで、退職金をもらうわけじゃないです。夏と冬のボーナスもありません。ですから賃金はもちろん払わなければいけないにしても、企業にとってはもっとも利益の上がりやすい、というやりかたです。それでもバブル景気までは、仕事はコンスタントにあったんですね。今、寿町では、通称「センター」と言いますが、そこの工事が来年の6月までかかるんですが、そこに職業安定所と、寿労働センターの無料職業紹介所の二つがあります。これらが雇用紹介をしているのですけど、クニと県で。バブル期までは求人看板がズラ〜と、まあ20何枚でていました。今はほんと数件です。しかも賃金も下がっていますし。バブル期は、われわれは土工・雑工と言うんですが、いちばん賃金の安いクラスで、それが1日、1万2000円まで上がったこともありますが、今ではだいたい1万円くらいですかね。昔ですと運転すると運転手当てをくれたりしたのですが、今は全部こみ、ということです。世の中では建設好況といわれながら、寄せ場には仕事がまったくこない、ということが進行しておりまして、必然的に部屋代もはらえない人がでてきているわけです。寿町の場合、山谷なんかとは様相が少し違うわけですが、寿町は典型的なドヤ街ですね。ドヤがほとんど、建物はほとんどドヤです。ドヤって、ごぞんじですよね。宿をひっくり返しているわけですよ。わたしが来た当初、1986年の頃は木造棟が多かったです。ですから夏は暑く冬は寒い。しかもまるで忍者屋敷みたいな作りのものがありまして、表から見ると三階建てなんだけど入っていくと、急に階段があったりする。人間がそこに住むところではないと、自嘲的にヤドをひっくり返して言うようになったという説がある。まあそれでドヤ、ドヤが集まってドヤ街。
 寿町の場合はドヤ街と寄せ場。寄せ場は、建設を中心とした日雇労働者が寄せ集められる場所、仕事のために寄せ集められ、寄り集まる。ということで街全体を寄せ場とよぶ場合もある。寄せ場とドヤ街が寿の場合、重なっている。これの規模を6倍にすると、釜ヶ崎になる。で、人口もたぶん1万数千人はいる。山谷はちょっと違いますね。普通の民家とか商店とかとドヤが混在している形ですね。少し違います。もっと違うのは、川崎がそうなんです。川崎も京浜急行の川崎駅から一つ南に行った八丁畷という駅の周辺に、日進町とかそのあたりですが、ドヤ街が拡がっています。ただし寄せ場はここにはない。寄せ場はちょっと離れたところにある、という違いがあるんです。そんな中で寿町の場合は完全に重なっていまして、バブル期までは、早朝、薄暗いうちに寄せ場に行ってみると、人がごったがえしている。求人車両もいっぱいくる。先ほど言いました二つの紹介機関は全体の3割くらいを紹介する。仕事全体の3割程度、あとの7割はどのようであるかというと、手配師を介して。手配師という規定はよくわからないのですが、わたしは、人を仕事に手配する者、それを収入源にしている者と考えている。だいたいやくざの資金源です。寿町の場合は、やくざの三大資金源の一つと言われてました。いちばん多いのは、競輪競馬等のノミ行為。二番目は覚醒剤、三番目が手配料と言われていました。
 ところがバブル景気の崩壊後に、仕事がバッタリなくなったんですね。日雇労働者というのは先ほど言いましたように、短い雇用サイクルで、それが続いていくということ。でも不況になりますと、このサイクルと次のサイクルがものすごく空いちゃうわけですね。この間は無収入です。で、日雇労働者が集められた街ですから、そこから現場に通うという人もいますけど、基本的に短い雇用サイクルで契約を結んで、会社の寮とか宿舎に入るわけですね。そこから現場に行く。一仕事を終ったら寿町に戻ってきて部屋を借りる。次の仕事が見つかったら引き払ってまた会社の寮に入る。ところがバブル景気の崩壊後、この間がものすごく長くなったものですから、無収入状態がずっと続くわけですよ。結局、部屋代がはらえなくなると、路上に行くしかなくなった。というのがバブル景気の崩壊後におこったことです。仕事がまったくないという状態がずっと続いた中で、部屋代がはらえないと出されてしまう。ドヤのオーナーも日銭商売なんで、金をはらわないヤツをおいておくわけにはいかないわけですよ。日本におけるいわゆるホームレス問題がおこったときに、最初にそういう目にあうのが、不安定就労層。でも不景気がずっと長く続きました。 
 バブル景気まではわたしらは、労働組合ですから、労働相談等を中心とした活動をしていたわけです。年間100件以上の相談を受けていました。賃金未払いが圧倒的に多いんですけども。賃金未払いといっても、10万も20万もあるわけではありません。日雇いですから。1万円とか2万円とか、場合によっては1万をきるとかというケースもありました。ただしご本人にとっては大切な生活資金ですから、どうしてもやはり払ってほしいわけですよね。それを電話で交渉したり、直接行って交渉したりして、賃金未払いはかなり解決してきました。労災が次に多かったですね。労災事故というのは報告する義務があるのですけど、それをやっていると下請企業は上から切られてしまうんです。「オマエんとこは労災ばっかり起こしてるから、オマエんとこにはもうやんねえよ。オマエんとことはもう仕事をしない」。そうすると、労災があったのに、それを届け出ないで、そのかわり「宿舎で寝ててくれ。労災届けは出さないけれどカネは払うから」みたいなことを言われる訳です。でも怪我は日がたつにしたがって治っていくものですよね、だいたい。布団の中でうんうんうなっている人も、1週間たち10日たつと布団から起き上がり、外を歩いたりする。すると同じ宿舎に入っている人からすると、オレたちは毎日仕事に行っているのに、オマエはいいよなってなる。で、「もうそろそろオマエ、軽い仕事はできるんじゃないの」なんて社長に言われて現場にいっちゃう。結局、労災の後遺症が出たときに、会社も巧妙でその前に念書を書かせたりするんですね。「一切これ以上の請求はしません」て。別にそれは有効じゃありませんので、そんなものけっとばしても良いのだけど、ご本人は「もう念書を書いちゃったからな」、そういう場合にどうにかならないかね、なんていう相談があったりする。そんな労災の取り組みもやっていました。あと数はあまり多くないけど、暴力行為もありました。でもバブル景気の崩壊後にバタッと仕事がなくなる。当然相談もなくなる。今われわれの組合で、年間1、2件しか労働相談はありません。仕事にそもそも就けていない。以前はバブル景気の崩壊のあと、賃金の切り下げ等、よくやられました。来週から賃金下げるから、「えっ」というようなことを言われて。それでもしがみついていたんです。そこを失うと次の飯食う場所がない。だから、当然それまでならね、冗談じゃないよオヤジ、フザケンジャナイヨって蹴っとばして、もっと収入の良いところに行くことができたんですが、大不況になりましたからそういうこともできなくなって、仕事にしがみつく。
 その仕事すらが来なくなった。寿町の場合は…他のところも同じだと思うんだけど、バブル景気の崩壊後の不況と高齢化とが一緒に進行した。寿町はたぶん外の社会より10年先に行っている。高齢者ばかりになってしまいました。といってもですね、90、100歳っていう人がごろごろいるわけではありません。わたしが知っている限りでは、90歳以上の人は3、4人。50代、60代…60代が多いかな。ずうっと長生きしている長寿のお年寄りがそういるわけではなくて、みんな死んでいくんですね。寿町では、年間、路上で亡くなったり、ドヤの中で亡くなっていたり、救急搬送された病院で死んじゃったり、という人が三桁以上。寿町独自の統計ってないんでわからないのですが、300人くらいいるんじゃないの、という人もいますけど、そんなにはいないだろうかな。大阪は年間亡くなる人が300人くらいいると…。じゃあ年間300人亡くなったら、人口が激減していくかというと、そんなことはないんですね。流入してくる。寿町の場合は、今6300人ですけど、実は減少しない。平均年齢はあがる、ということは外から高齢になった人が連れてこられる。歳をとって身よりもなくお金も持っていない。そうしたら生活保護で暮らすしかないでしょ。寿に行ったら暮らせるからね、と言われて。以前は、寿町は横浜市中区にあるので中区の社会資源だったのですが、今は横浜市全区、18区ありますが、全区の社会資源なんですね。ですから寿町に住んでいるんだけども、他の区から生活保護を受けている人が100人以上いる。そういう人が流入するんです。 
 横浜市にも公営住宅がありますけど上限があるんです。これ以上絶対作らないと。古くなったら建て替えることはしますけど、他に、高齢社会になったからどっかに団地をつくりましょうとかはしないんです。決まってるんです。しかも、寿町の場合は大阪や東京のように、外国人のバックパッカーむけに業態転換したということはあまりないんです。そういうホステルのようなことをやっているところはありますけれども、あんまり増えていません。というのは、横浜市がドヤの居室をその人の居所として認めているんですよ。だから、ドヤに住んでいたらそこを住所にして生活保護を申請できます。大阪市は、日払いのドヤのまんまでは生活保護の居所として認めない。一部旅館業法の適用を受けているということで、認めない。横浜市はずうっと認めているんです。でもドヤの構造、部屋の構造というのは非常に狭いんです。行ったことのない人が多いと思いますが、だいたい三畳ぐらいです。わたしが来た頃は二畳なんてありました。三畳というと布団一枚敷くと、ほとんどスペースがないですよね。当然家具なんて持っていません。しかも寿町のドヤは、顔を洗ったり料理を作ったりするスペースもない。お風呂ももちろんない…どころかトイレもない。普通人間が住むところですから、トイレはないと困るでしょう。風呂はなくてもね。洗濯せんといかんでしょう。なぜそんな構造が作られているのかというと、先ほども言ったように、短い雇用サイクルで働きに行ってたからです。つまり寿町には、ずうっと住むという前提ではなくて、仕事があったらいなくなっちゃう。仕事が終わったら戻ってくる。言ってみれば、街全体が独身寮みたいな構造になっている。今あまりそういうところはないのかもしれませんが、昔よく青年労働者の独身寮とかありました。フロアーにそういった共用のスペースがありましたけど、寿町の場合、ドヤ全体がそんな構造になっている。居所としてふさわしいということになれば、少なくともこのドヤの二部屋を一室にするくらでないと生活できないんです。でもそのまんまです。しかも、生活保護の住宅扶助が切り下げられました。横浜だとだいたい5万2000円くらい、月額が。それまでは1日あたり2250円相当まで横浜市が認めていたんです。古いドヤも新しいドヤもみんな2200円。三畳でも四畳でも2200円。生活保護の上限ありきの料金設定にしてある。これが切り下げになって、今は1700円相当分です。ところがドヤ主も経営が苦しくなるもんですから、うちは1700円ですって言いながら、プラス1日管理費500円いただきますなんていう。2200円でしか貸さないよ、というオーナーもいます。収入としては住宅扶助が切り下げられているわけですが、支出は以前と同じなんです。
 寿町は非常に小さい街です。人口が6300人もいるんだから、それ相応の広さがあると思うかもしれませんが、普通に歩いて1周で15分。15分で街1周できる。寿町の真ん中の交差点に立つと、東西南北が全部見えちゃう。あの道路が東、あの道路が西、と全部見えちゃう。その中に6300もの人がギュウギュウ詰めで、一人ドヤで住んでいるということになってます。生活保護を受けている人がほとんどです。生活保護というのは、レジュメにも書きましたけど、憲法二十五条、生存権規定、健康で文化的な最低限度の…ということが、生活保護の第一条に書いてあります。憲法第二十五条の規定に基き、と。その自立と助長をやんなきゃいけないことになっている。八つくらい項目があるんですね。生活扶助からはじまりまして、介護扶助かな。生業扶助とか出産扶助なんかもあります。でも寿町の場合は一人暮らしが多いですから、生活扶助と、あと高齢の人が多く病院に行く人が多いので医療扶助…。

 白手帳という制度があるのはご存じでしょうか。白手帳というのは通称です。表紙が白いので白手帳。雇用保険手帳のこと、雇用保険法に基づいて作られているものです。手帳を作ってそれで働きに行きます。仕事の紹介を受けてね。会社に行ったら雇用保険というのがあって、その印紙が本来は労働者と会社の折半負担なんですけど、一級印紙176円、だいたい会社が負担することが多いです。それに割り印を押してもらって、雇用保険手帳(白手帳)の該当の日付のところに貼っていくんですね。これが2ヶ月に26枚貼ってあると3ヶ月目に、仕事にアブレた日に求職者給付金、まあ、われわれはアブレ金と言ってますが、仕事にアブレた日にもらえるお金。前は2ヶ月に28枚だったのですが。古い法律の本なんかを見ると28枚と書いてありますが26枚です。26枚というと単純にいうと月に13枚ですね。大きな建設会社などは土日休みがあたりまえですから、目いっぱい働いても一ヶ月20日くらいです。月4週ありますから4で割るとね、13を4で割ると3日とちょいです。つまり土日を除いて5日間のうち3日は毎週仕事に行ってないと権利が付かない。アブレ金というのは日雇労働者の失業保険の役割をはたしているのですが、でもほぼ毎日仕事に行ける人は、特に建設関係ではほんとに少なくなってきているんです。寿町の場合はもともと船舶荷役から始まっているから船の仕事が多くて。船っていうのは、港に入ったらお金をとられるわけですよ。港湾使用料をね。だからできるだけ短い間に荷物の積みおろしをすませ出ていきたい。港湾の仕事に就いている人は朝8時に現場に行きます。で、夕方まで働きます。そのあと休憩して、夕方からまた夜中まで働きます。そして夜中からまた朝まで働きます。1部、2部、3部通しと言います。そうすると雇用保険印紙は、この1サイクルに1枚ですから3枚になります。ですから港湾の方が権利が付きやすい。でも建設の場合はこういうことがないです。しかも毎日仕事がなかなかないから、アブレ金はもらえないなあ、という人がたくさんいます。仕事自体がないんでね。
 実は去年、11月くらいにクニが制度を変えてしまいました。同一事業所にずっと行っている者は、アブレ金の対象から外す、という。もちろんわれわれは反対したんですけどね。日雇労働者の定義っていうのは、同じ会社に行ってようが日々雇われて日々解雇されているという者なのに。にもかかわらずクニは同一事業所に行ってる場合はアブレ金の対象にしない、と。山谷はこれで手帳が激減します。もう100くらいしかない。寿町の場合は900を去年切ったくらい。ただし寿町にみんなが住んでいるかというと、そうじゃないんです。寿町は中区にあると言いましたが、寿地区に住んで手帳を持っている人は、今年の8月末日段階で86人。寿地区以外の中区に住んでいる人が216です。これは4分の1くらい。この他にとなりの南区に200人くらい住んでいる、ということになっていまして。寿の職安、寿職安というのはないのですけど、本当は横浜公共職安の港労働出張所ですね。われわれはメンドクサイから寿職安と呼ぶんですが。つまり寿職安で手帳交付を受けて、紹介番号をもらって、仕事を紹介してもらって、そういう手帳を持っている人は900人を切ったくらい、850くらいいるんですね。でも寿に住んでいる人は少ない。そのほとんどが船舶関係です。だから朝7時頃にアブレ金をもらうのに手帳を出しに行く人の顔を見ると、ほとんど知らない人です。日本人もいますが、フィリピン人とか韓国の人とかが、船舶の会社に雇われている。ところが、言いましたようにクニの制度が変わりました。クニは、港の仕事は波動性が強いので、当面これは対象外とする、と。波動性がよっぽど強いのは、建設・日雇ですよね。今ずっと仕事がないのですから。おそらく港っていうのは全港湾という労働組合があったり、ヤクザの利権もある。そういうところからの抵抗が強かったのではないかな、と思っているのですけどね。波動性でいったら、寿町の建設の日雇の方があるはずなのに、それが抵抗する力があまりないからなんです。もちろんわれわれは、抗議を申し入れたりもしましたよ。でも「クニの制度ですから、言われてもなんともできません、クニに言ってください」と。クニとも一回交渉を持ったけれど、まあ、だめだった。残念ながら、寄せ場に仕事が来るということは、今後もあまり考えられないかなと思います。
 そうすると食っていくためには、生活保護しかなくなってしまうわけですよ。生活保護の受給者が増えて、しかもその人たちは身寄りのない、お金をあんまり持ってないお年寄りで、そんな彼らを寿町に集める。だから人口が激減しない、っていうことでもあるんですよ。まあ、寄せ場から仕事に行ったことがある人ももちろんいますが、そんなことをまったく経験してない人も来ています。でも、寿町っていうのは怖いイメージで語られることが多かったんですよ。68年頃に作られた行政の文章を見たら「西部の町」と書いてある。西部っていうのは西の方にあるっていう意味ではないんですよ。西部劇の西部だからね。ウエスタン。腰に拳銃ぶらさげているわけじゃないのに、危険な町だと言う。その頃言われた戯れ言にね。自転車の荷台に荷物をくくりつけて寿を抜けると、出たときにはなくなっている。そんなこと、おこるわけないでしょう。高校生とか大学生とかね、ボランティアさんが来ます。炊き出しとかやってますから。そうするとね、両親が横浜生まれ横浜育ちという人の場合だと、「危険だから行っちゃダメだよ」って。そういう人たちに「どういうことがあったんでしょうかね」と聞くと、どういう答えが返ってくるかというと「…と聞いたことがあるんですよ」と。「わたしはこのあいだ行って、いきなり胸ぐらつかまれて殴られました」というのなら、「そりゃあ、ごめんなさい」と言うしかないけどね。つまり、そんなことをやられかねない町なんだ、というイメージ。イメージって消えませんから。
 バブル景気の崩壊後に、全国で、その直後から現在にいたるまでですけど、2万人以上の人が路上に出た、と言われてるんです。路上は選択ではありません。公園で寝るか、地下道に行くか、河川敷にテントを建てるか。みんな路上ですよ。でも選択じゃないですよ。そういう中でね、われわれは労働組合なのに労働組合らしくないことをしている。おもな活動の大きな柱は二つあります。一つは毎週金曜日の炊き出し。もう一つは路上にいる人を訪問する、夜間パトロール活動。なぜ労働組合のわれわれがしたかっていうとね、仕事がなくなってきた、いよいよヤバい。ドヤ代は普通、1日1日なんかは払わないんですよ。1週間とか10日とかでまとめて払う。で、仕事がないから困ったな。もう今日の夜までしか入ってない。そうしたら翌朝は荷物を持って身支度を調えて出るわけですよ。仕事が見つかれば良いですよ。でも見つからないと、この人たちはそのまま路上に行くしかない。つまり、路上にいる人というのは、日雇労働者の、われわれの先達や同僚なんですよ。日雇労働者たちの明日の姿ではなくて、仕事につけなかった日雇労働者の今日の夕方のすがた。だからわれわれはね、そういった状態にある人への支援活動を中心に続けざるを得なくなった。
 1993年の11月1日に炊き出しも始めました。一番最初は250食。スタッフメンバーは30人くらいでした。炊き出しっていうのは、よく天変地異の時やりますよね。水・電気・ガス・水道なんかも全部止まっちゃう。その間に行われる外部からの緊急の食糧支援なんです。食事の支援。インフラが回復するにしたがってその必要性は減少します。ところが寿町だけではないですが、250食でスタートした炊き出しが、一番少ない週でもね、350食。一番多いと700食。月の第1週は生活保護が出てる週なんです。だから生活保護をもらってる人は来ない。路上にいる人たちが中心。ところが月の終わり。「あー、来月何日にならないと金はいってこないや」と。だからそういう人たちも食べに来るから700食を超えることがある。寿町の場合は、1人1杯限定じゃないんです。2杯は食べられるよな、ぐらいの量を作るんです。
 われわれが炊き出しを始めたときのきっかけはというのは、寿町には老人クラブがあります。「くぬぎの会」というんですが。もう亡くなられているんですが、当時の会長から「もう黙ってみてられないから、みんな炊き出しをやらないか」と呼びかけがあったんです。で、町の諸団体が集まって「寿炊き出しの会」っていうのを作って、炊き出しを始めたんですね。その頃、寿町の中では、その周辺も含めてですけど、炊き出しなんかは一切やられてなかった。となりの南区で救世軍が60食か70食くらいカレーライスを提供してたのは知っていますけど、それ以外はまったくなかった。われわれが炊き出しを始めた頃、よく批判されました。「怠け者に飯を食わせたら、もっと怠けるじゃないか」という批判です。じゃあね、金曜日の昼行くと寿町でご飯が食べられるけど、この人たちは他の曜日には何をしてるのでしょうかね。じーっと金曜日を待っている人はいませんよ。今はもう平均年齢が上がってますからいろいろですけど、外で寝ている人とかはあまりお金持っていませんから、新聞の定期購読なんかしてないですよ。情報が入ってこないから、仲間同士で情報交換をする。情報交換はいくつもあって、一つは仕事の情報です。例えば「寿はいつまでも仕事ないなあ、名古屋で出てるらしいから行ってみるか」とか。後は行政の政策の変化です。「生活保護が少しラクになったらしいぜ」「いや、厳しくなってきたよ」とか。あともう一つ。襲撃情報です。「どこどこの公園で石投げられたらしいから、あそこは危険だから、オマエ行くなよ」それで「1週間またがんばって、また会おうな」と、お互い元気づける。

 われわれは、怠け者を作る意志も能力もありません。つもりもないけどね。1日3食さしあげて、こざっぱりした服もさしあげて、たまにはお小遣いでもあげれば、そりゃあ怠け者もできるかもしれないけど、そんな意志も能力もありません。もっちゃいけないですけどね。寝るところと食うものというのは、人間の基礎なんですよ。この二つがないと、ほとんどのエネルギーをそこに費やしてしまう。「今日どこで寝ようかな、あそこの公園はダメになっちゃったから、どこに行こうかな」「ハラ減ったな。今日、飯どうしよう、ハラすいたまま横になれねえよな」このことばかり考える。他のことはできないんです。みんな、あたりまえに飯食ってるけど、この二つは大切なんです。飯を食う場所・寝る場所、というのは。しかも路上というのは、安心して眠れる場所ではありません。いつも緊張を強いられる。安心する、というのはどういうことか。みなさん自分のウチに帰られて、戸締まりをして、窓に鍵かけて…そうしたら風呂入っていようが着替えしていようが、安心でしょ。ところが路上はそんなところではないんですよ。
 わたしは夜間パトロールで横浜駅によく行くんです。1週目は違うんですが、2週目以降は毎週水曜日に行ってる。今、横浜駅には明るくて広い東西通路があります。あれはなかった、われわれが始めた頃は。東西通路は1本しかなかった。西口に出ると左側に東急ホテルがある。エクセレント東急ホテルが。その下に出てくる地下道があって、これが1本だけ。薄暗くて狭くて。ここに数十人の人が寝ていました。あるときに、「一番嫌なことってなに?」って聞いたことがあるんですよ、いろんな人に。そうしたらね、予想もしなかった回答が返ってきた。「人の靴音だ」。なぜでしょう。地下道っていうのはコンクリートですよね。響くわけですよ。コツーン、コツーンって音が響いてくる。で、自分の寝てるところで止まる。どういうことでしょうか。「おじさん、お金あげるから」っていう人はまあ、めったにいませんよね。「この野郎、なんでこんなとこで寝てやがって」と言って、蹴る。火のついたタバコを投げつける。川崎では、放置自転車をなげつけられた人とか、コンクリートブロックをなげつけられた。まかり間違ったら死んでしまう。つまり寝てるとね、「あっいやだな、通り過ぎた、良かった…」そういう緊張がずうっと続くんです。ぐっすり寝られないんです。
 その当時横浜駅には1割ちかく、8パーセントくらいかな、女性がいました。今は5、6人。かなりの高い確率で精神疾患になっちゃうんですよ。来たばかりの頃はちゃんと受け答えできてる人が、1年、2年たつうちに、だんだん様子がおかしくなっていくんです。それは緊張が解けないからです。とくに女性は、男性もたいへんなんだけど、女性だということで、何されるかわからないでしょ。だから緊張が解けない。今日一晩がんばればなんとかなるわけじゃない。毎日続くわけですよ。それでかなりの確率で精神疾患になる。自己防衛機制の一つではないかと、わたしは思うんですけどね。緊張でつぶれてしまわないためにね。横浜の西口に、相鉄の改札口の近くに、もう今はいませんけど、名物おばあちゃんがいてね。灰色の髪で、ピンクの色がすごく好きな人で、ピンクの洋服を何枚も重ね着している。いつ行っても怒ってる。ビラを持って行くと、「えっ!!」って怒られたりして。横浜の西区の福祉事務所の者がね、「あの人、なんとかなりませんかね」ってわれわれに言うわけですよ。「うーん、具合悪くして、入院とかにならないかぎりちょっとムリなんじゃないの」実際入院しちゃったんですけど、それっきり帰ってきてないから、亡くなっちゃったのかな。路上で亡くなった人を見送ってます。われわれが横浜で出会った最高齢が90歳です。女性です。初めて会ったときは腰がこう、くの字に曲がってましたが、スタスタと歩いてるんです。で、声をかけたら、「違うわよ、わたし違うよ」と。ところが、次の週に行ってもいるんですよ。その次の週に行っても…こりゃあ間違いない、と声をかけて、説得をして寿町に来てもらって、中区で生活保護を受けてもらった。4年くらいこの方は生きられたかな。その次の人は86歳、この人も女性です。この人の場合は、性格がすごく苛烈な人でね。お子さんが横浜市に3人いる、もちろん成人した。この人の性格じゃ、たぶん家庭の中で衝突するだろうな、ということで…。でもやっぱり亡くなった。この人とは長い付き合いだったからせめてお墓に線香でもあげに行きたいねって、パトロールメンバーと話し合ってた。西区福祉に教えてくれって言ったんだけど、結局、どこの墓地にはいったのかもわからない。長男さんが引き取って、その日のうちの荼毘にふしてしまった。そういうふうに、たくさんの人を送りました。
 路上にいる人たちにとって怖いことはいくつもあるんですが、一つは病気をすることです。大病。ちょっと具合が悪いなっていうんで、なけなしのお金を持って薬局に行って薬を買います。治っちゃえば良いんだけど、治らないでしょ。お金もないでしょ。どうしよう。我慢する。あるいはごまかす。ワンカップでごまかすとかね。ワンカップは酔いたいためというのもありますが、暖房器具がわりでもあるんですよ。冬寒いというんで。そういうのでごまかしているうちに、悪化します。悪化したら救急搬送される。そうなる前の時点で行政対応すれば良いと思いませんか。もっと社会的な資金も少なくてすむはずなんです。
 生活保護というのは、本来は役所がね、机の前に座って「あー、相談があったらおいで」っていうんじゃなくて、出前すればいいんだと思うんですよ。「この人、大変だから」とみんなで説得して、「せめて畳の上に行きませんか」ということで。生活保護には、先ほど八つ項目があると言いました。実は順番が決まっているんです。生活扶助でしょ。あと療養でしょ。順番が決まっている。医療単給という制度、本当は法律上、単給・併給と書いてあるんですがやらないんですよ。制度上ない、といって。つまり、「生活保護かけますよ、でもあなたの生活じゃあ、これですからね」ということになってくる。「具合が悪い、じゃあ、病院にも行きましょう」という順番になってくる。「いや、おれは普段はなんとか食えてるからいいけれど、病気になったときはたのむぜ」ということはできないんです。できるようにすれば良いんじゃないですか。そんな順番などつけないで。ところが、「いやあ医療単給がねー、ちょっとむつかしいですよ」と言う。
 赤土の崖の上に住んでた人がいたんですけどね、雨の降った明くる日だったから、わたし滑って落ちたことがあるんです。山の下に。その時雑菌がはいったらしく手がこんなに腫れてね、これはしょうがないから談判してね、医療単給を認めさせたんです。でもそれは、医療単給はない、という前提になってるから特例扱いになっているんですね。もうちょっと生活保護制度っていうのはシンプルで良いと思うんですよ。この人はかけるべき、っていうのは生活が困窮してる、お金がなくて生活ができないその理由は問わないわけですよ。仕事を失ってしまった、高齢になっただけじゃありません。ギャンブルでスッテンテンなってしまったというようなときでも、もう生活ができなければ、それは良いんです。ところが、日本の場合、補足率がすごく低い。生活保護制度を利用して、経済的な混乱から立ち直る、そういう人を制度上どう補足してるかの率のことです。日本は20パーセント。つまり100人のうち20人、あと80人は最低生活水準以下で暮らしている。他のクニはこんな例はないそうです。それはなぜでしょうか。生活保護を受けることは恥である、恥ずかしいことだ。税金を使って食ってるのは恥ずかしいことだ、という意識が本人も含めて市民社会にあるということです。だから、「最近来たあの人、昼間にも仕事に行ってる様子もないし、なんだろうね、あの人」というような印象を持つ。「いやあ経済的に困って苦しくて、ようやく保護をもらえたんですよ。ぜひご支援をお願いします」と言うことができるところだったら良いですよ。でも、本人も恥ずかしいことだと思ってしまう。
 だから、そんな水準になっても我慢しちゃうんです。実は今年の10月から3年間かけて、生活扶助が5パーセント下がります。全国に、たぶん210万くらい生活保護を受けている人がいると思うんですよ。このうち67パーセントが減額になります。最低生活費以下になる。ところが、生活保護を受けて暮らしていると、それを監視する人たちがいるんですよ。「パチンコに行ってたよ」とか「飲み屋に入ってたよ」とかを、わざわざ役所に言う人がいる。つまり、生活保護は税金なんだから慎ましく生きなさい、ということなんだ。クニのお金で生きてるんだから、慎ましく生きなさい、お酒、冗談じゃないよ。ギャンブル、ふさけんじゃないよ!  そんなことを一生懸命監視し、通報する人がいる。そういうことを役所がやってるところもあるからね。結局、この制度を利用するのは人間として恥ずかしいことだという、そういう市民意識。それを変えないかぎり、憲法二十五条は生きていきませんよ。
 生活保護には良い点もいくつもあるんです。無差別平等原則というのがあるんです。経済的に困窮してる人を、無差別平等に現在地において保護する、ということです。わたしは九州出身です。「ああ、あんた、それなら九州に帰って受けなさいよ」っていうことはないんです。その人が、前の夜どこにいたか。中区にいたら中区。東京の港区にいたら港区で受けるんですよ。無差別平等っていうのは、年寄りだろうが赤ちゃんだろうが…全て国民は権利があるんだって書いてある。これは永住権を持っている人もね。ということになっているんです。シンプルで良いなと思うんですが、ところが問題点もあります。最大の問題点の一つは扶養照会っていうのがあるんですよ。つまり、「あーオレ、困ってるんだ、なんとかしてほしいな」「じゃあ、扶養照会します。あなたの親族に、親兄弟に照会して良いですか」。いいよって言える人なら良いんだけど。生活保護を受けなければならないのがみっともないと自分も思っているもんだから、「そんなこと言われるんだったら、もういいよ、もういいよ」「そんなみっともないことはできないよ」と断っちゃう。たぶんね、民法の規定もすごく影響していると思うんです。つまり、家族は助け合わなきゃいけない。そんなの大きなお世話だよね。法律に規定があろうがあるまいが、助け合うよね。わざわざ法律で規定する。それを根拠にして、親兄弟にあんたの面倒見られないか聞いてみる、という。冗談じゃない。これが最大の問題。あと、さっき言った補足率ですね。国民の権利としてあるにもかかわらず、権利を行使できない、行使することを妨げられている。自分の意識もそうなんです。それは権利教育ができてないからなんです。人間はね、最低限度の生活をする権利が保証されている。最低限度以下で我慢しなくて良い。ところが「恥ずかしいことだ」なんていうことがあるとね、ブレーキがかかっちゃう。
 それから、横浜市でも10数年前まではそうだったんだけど…。路上にいてね、もうギブアップだと、もう生活保護を受けようと思って役所で保護申請する。そして申請書に、名前を書いて生年月日を書いて住所を書く。住所、ちなみに住所―居所というのはどういう規定かというと、住民基本台帳法によると「客観的な居住の実態と主観的な居住の意志」、これを居所という。だったら公園だって良いじゃない。大阪で一度裁判をやったことがある。一審では勝ったんです。ところが一方で都市公園法という法律がある。公園を居住の場所にしてはいけないことになっている。だから、「オレは山下公園に住んでいる」と書いて受け取ってくれるなら良いけど、ダメだといわれる。困っていると、「あなた、部屋を見つけてから来てよ」と言われる訳です。部屋を借りるお金がないから外にいるんでしょ。その人に「部屋を見つけてから来てよ」。できるわけないでしょ。居所すら失うほどの極端な困窮に陥ってる人に「部屋見つけてこい」これは交渉の中で何度もやりあったことなんだけど、路上から申請しても、なかなか通らなかった。
 あるとき、寿町の諸団体が集まって「生存権を勝ち取る会」というのを作って横浜市と団交しました。場所は開港記念会館です。その記念すべき第一回団交の時にこういうことがありました。あそこは明治時代にできた古い建物なんですよ。交渉場所の横を廊下がめぐってます。うしろに小部屋が並んでます。その廊下を神奈川県警の公安が通っている。あれ、公安じゃないかな。で、後からゆっくりついていったら、うしろの小部屋に入った。入ってみたらね、30人くらい、みんな公安。第一回の交渉日なんだよ。それで、公安は発見されたっていうんでパアーといなくなった。その後、会館の事務室に行って、あそこの部屋どこが借りているんですか、と聞くと、「横浜市が借りてるんです」。その日は、そこから追及を11時間ぐらいやった。夕方になってもう5時だから帰りたい、っていうのを「帰さない!」って11時間交渉。で、もう一回10時間半交渉、これは別な場所ですけど。そのときは横浜市は、前にずらーと並んでますね。こっち側に当時の中区の現役のケースワーカーが座ってた。その時市側から「きみはウチの職員じゃないか」という発言があった。そうしたら、この人が立ち上がってね、「わたしは法律には従うが、あんたたちには従わない」と言った。われわれは決して特例扱いしてもらおうとしてるわけではないわけですよ。なんでもいいから金よこせって言ってるわけでもない。法律どおりにやれよ、という要求だった。その二つの大きな交渉をヤマにして、横浜市がついに、「居所が不明であっても申請を受理する。居所の設定にケースワーカーは積極的に協力をする」ということを確認しました。それから路上からの申請が通りやすくなった。今、路上にいる人が「もうオレ、シゴトそろそろだめだから、生活保護を受けたいんだ」「じゃあ行きなよ」。そうして行くと保護申請書。住所書けないから「あっオレ、山下公園にいるんだ」「ああ、そう。じゃあ、いいよいいよ」となった。保護費を居所不明の人には渡せません、それはあたりまえだけど。保護決定をして実際に支給されるまでの間に、居所が設定されれば良いと。
 横浜市の中区はどういうやりかたをしているかというと、申請者が「今、どこどこで寝てるよ」って言うでしょ。「公園で寝てる」「あっ、はい、わかりました」と言って、面接をしたケースワーカーが「3000円渡します。2000円で部屋を借りてください。1000円は1日の生活費です」それで本人は3000円持って寿町に帰ってくるわけですよ。「生活保護を受けるんだけど、部屋はあいてるかい」「ああ、あいてるよ」となったら、そこに泊まれるでしょ。そうしたら通帳くれるんですよ、ドヤ主がね。そこに泊まった日に判子を押してくれるわけですよ。「宿泊しました」という証明です。それを持って、翌日また役所に行く。その通帳に載っているドヤの住所がその人の住所ですよ。その日からそこに住んでいる。そのかわり毎日いかなきゃならない。1日1000円。1000円渡して、定着性をみるっていうのがあるそうです。1000円持ってどこかいなくなったら、もうしょうがないんだけど、毎日毎日、だいたい2週間くらいかな。横浜市の場合はそういうふうにしています。2週間したらまたきてね、って言われても、その人はもう困っているわけですから、この日からもう保護しなきゃいけないからそうしてる。それは、居所がなくても生活保護の申請を取れるようにしてきた闘いだったと思うんです。昔、釜ヶ崎の活動家が言ってたけど、「オレ歳とったら、寿に行くよ」って。「なんで」と聞いたら「寿だと生活保護がとりやすいから」だと。たしかにそういう構造がある。でもそれは工夫すれば、なんとでもなると思う。申請時点で居所がないからといって、「アンタだめ」っていう権利は、ほんとはない。で、そういうのをなんとか打ち破らないとね、やっぱり路上で人が死んでいくんですよ。
 今、もうこの時期ですから、越冬の時期、越冬闘争に取り組みます。命を守る闘いだから、われわれは闘争と言います。今年で45回目、第45次越冬闘争。1975年からやってます。わたしは32年くらいしかいないんですけど。今年も11月29日から1月4日の朝まで。その間行政は休みますよね。行政は28日に仕事納め。その間はだれもいません。どこも相談口が開いていない。われわれは寿の中の寿公園、炊き出しをやっている場所なんですけど、ここにテントを5張たてて、もちろん防寒、ちゃんと断熱材を敷いて、シートでくるんで、ストーブを配置したり、それに厨房も作ってそこで毎日やる。11月30日から1月5日まで毎日炊き出しをやる。去年の例で言いますとね、大晦日は年越しそばをするんです。毎年だけど。1100食ですよ。1100食、これ以上は作れない。というのはお湯がぬるくなってしまって、そばが食えない。だから1100が限度なんです。元日は餅つきをします。90キロ。90キロ餅つきをするんだよ。雑煮ときなこ餅とからみ餅。去年の元日の配食数は1825食。だから寿公園を人が三重に取り巻く。たくさんのボランティアさんも来ます。炊き出しもボランティアは今、少なくとも50人、教会のボランティアさんが多いです。以前、仏教の坊さんも来てました。仕事の帰りだと言って、墨染めの衣を着たまま野菜を切ってたりしてた。ヒンズー教の人たちも来てます。月に1回、バナナを300本持って。ただし「炊き出しの会」というのは、我が党・我が派の拡大のための場所ではないです。宗教団体には布教しないでくださいと言います。それが守れなければ「炊き出しの会」に入ってくるのは困る。それだったらどこか適当な場所で、勝手にやってください、炊き出しの会にはいれません、という立場です。
 
 今日メシが食えない、今日寝るところがないというのは、どういう問題なのか。人間が路上で寝るというのは、どういうことか。非常事態ですよね。人間は裸のサルです。路上で暮らすようにはできていません。犬や猫は、毛皮を着ているから路上でもいいでしょうが、人間はそういう生き物じゃないんですよ。つまり人間が路上に寝るということは、それ自体が異常事態。憲法二十五条に反しているんです。それは、本人が反してるんじゃないですよ。国民の権利を擁護しなければならないクニや地方自治体が違反している。最低限度以上の生活をと、憲法に書いてある。それを堂々と違反している。今年4千数百人が路上にいると発表されている。ものすごいデタラメな調査です。概数目視調査というんだけど。見て、概ね何人いるか数えてこい、という。行政の職員は、9時から5時までで終わりです。その時間帯で調査する。路上で夜を過ごしている人は、小屋がけしてるだけではありません。商店のシャッターの前で段ボールを敷いて寝てる人はカウントされてない可能性がある。
 横浜市の場合は477人、今年の発表で477人路上にいるんです。寿の中に困窮者自立支援施設「はまかぜ」という施設がある。 前はホームレス自立支援施設と言ってましたけど。運営の委託を受けている神奈川県匡済会という社会福祉法人が夜間巡回相談をしているんです。ところが、最初の年に夜間巡回した結果を発表しようとしたら横浜市にとめられたんです。その理由は、そんなにいるはずがないということだったそうです。でも夜の路上でしか見られない人がいる。だから横浜市の場合はそういうふうな実態に近い数を発表した。477人。川崎は300人ですね。その中にネットカフェとか漫画喫茶はカウントされていません。路上にいる人たちはおそらくクニの発表より2、3倍はいるというのが、実感です。漫画喫茶とかネットカフェにいる人たちを含めれば、もっと多くなる。2008年リーマンショック後に、ネットカフェ難民とマスコミでよく言われるようになりました。ところがクニは、ネットカフェ難民と呼ぶわけにいかないから、なんと名前をつけたかというと「住居喪失不安定就労者」。これはホームレスとどこが違うんだろう。同じだよね。実はホームレスなのに、住居喪失不安定就労者が何人というように発表する。クニはホームレス対策をやりますと言いますが、結果、4千数百人がゼロになったら、日本というクニはホームレス問題を解決しましたということになるんですか。ほんと嘘っぱちばっかり。ましてやネットカフェにいる人たちは調査すらしない。東京都で去年だったか一昨年だったか、調べた時は1万数千人、そういうところで寝ている。そのうち4000人が居所を持っていない。これはホームレスですよね。要するに不安定居住状態。それすら、調査もしていない。だから実態はもっと多い。日本は、ほんとひどいクニですよ。豊かでもなんでもないです。みなさん、家を買いたいと思ったときに、何年ローン組まないといけないと思いますか。30年から35年、月々いくら、ボーナスいくら、っていうローンを組まないと家が買えないんです。途中でそのローンがはらえなくなると、取り上げられちゃうんですよ。で、競売にかけられちゃう。そういう中でオレは家を持ったぞ、と言っても、35年たたないと自分の家にならないんだよ。ちっとも豊かじゃない、とわたしは思っています。

 最後に横浜のひどい歴史を一つ言って、今日は終わりにします。1983年。当時の中学生が横浜の20カ所以上で路上生活者を襲った事件です。三人が命をおとしました。一人は山下公園で亡くなった。須藤泰造さんというお酒の好きな気の優しい人だったそうですけど、寿町にはあんまり来たことがない。かれが発見されたときは鉄線で編んだクズ籠にカラダを入れられてた。中学生たちは補導されました。どうしてそんなことをしたのかと聞かれた中学生たちはなんて答えたかというと、「ゴミを掃除した」と。「骨がポキッと折れる音が気持ちよかった」と言った子も。ショックを受けたのが教育委員会でした。その事件が発覚してから1年間かけて「騒然たる教育論議」これは名前がついてます。「騒然たる教育論議」というのをやってます。1年後「生命をたいせつにする教育が足りませんでした」と発表しました。そのとおりだね。ではどのようにすれば、生命を大切にする教育ができるでしょうか、という方針の中でなんて言ってるか。初めて聞いたときはギョッとしたけどね。教育委員会がなんと言ったかというと「犬を飼いましょう」と言ったんです。
『俺たちは怒っている』というビラを、「浮浪者」虐殺糾弾実行委員会で作って、市内の中学校に撒きに行った。人数ごとに2日にわけてやった。最初に行った班が10人います。それが全員逮捕された。不法侵入。そこでわたしらは敷地の外でまいた。中学生はよく受け取ってくれたんですよ。あんたたちと同じ年頃の子がこんなことをしたんだ、俺たちは怒ってるんだよ、「読んでね」って受け取ってもらう。生徒が校舎の中に入っていくと校舎の入り口に先生が立っている。指さした下を見ると段ボール箱が置いてある。読まずに入れさせる。われわれは中学生に読ませたかった。ところが読ませなかった。だから、そんなトンチンカンな方針しか出てこなかったんですよ。犬を飼ってる人が気が優しくって人を殴ったりしない? そんなことないよね。けしかけるヤツもいるよな。だからトンデモナく間違ってるんだよ。そもそも人間が路上にいる、ということ自体が異常事態だという感覚がないから、これはなんとかしないといけない、という感覚になれない。
 ただ、川崎に隣接する鶴見区というところだけなんですけど、教育委員会として夜間パトロールをやっているんです。名刺をおいてくるんですよ。前はホットラインを作ろうとしたんだけど…できなかったんだけど。そのかわりに、50度数のテレホンカードを教育委員会の名刺といっしょに配ってました。そういうことをやってたんです。今でもたぶん教育委員会のパトロールは行っている。鶴見区では、襲われた、やられたという事件がおこったときに、どこの学校でもよいから走っていっても良いことにした。駆け込んで良い。やられたと訴えれば「うちの生徒ですか」とはぜったいに聞かない。「そりゃあ大変ですね」と中学校長会に連絡が行って、校長会が事実調査に入る。事実が把握できたら、基本的なやり方としてはその生徒を連れて、被害者にあやまりに行く。その後、保護者会を開く。学校は避難場所として、いつでもどうぞ、とする。横浜市教育委員会はひどいことばかりやってるんですが、少しは良いこともしてて、まあ、そういうこともやっている。全面的ではないけどね。少しずつしか変わっていかないけれど。
 寿町にボランティアに来る人たちにも、わたしはよく言うんだけど、「寿町に来てくれるのはほんとうにありがたい、ぜひ続けてください。でもあなたの町にもなんらかの問題がありますよね。地域にはそれぞれ固有の矛盾がある。それを地域の問題として解決しませんか」と。そういう中で、寿町の炊き出しに来て、その活動をベースにして、自分たちの地域で夜間パトロールを開始した、相模原とかがそうですよ。相模原とか藤沢は地元でそういう団体を作った。相模原は木曜日にパトロールをやってます。シェルターまで、今は用意している。無底に入れるなという方針でね、行政が無底にいれるというと、冗談じゃない、アパートに入れろ、と要求する。だからわれわれは寿町の同心円的拡大が目的ではないですよ。地域を変えていく。寿町にはいろいろな発信する力もあるので、それは一方でやりますけれど.。ということで、労働組合なんだけれども、労働組合らしくないことばかりしかやれてない。で、わたしはたぶんこのまんま、寿町で死ぬことになるんですよね。ちょっと長くなりましたがこれで終わります。

司会 どうもありがとうございました。発言された路上生活者への中学生の襲撃というのは、当時ぼくらも衝撃をもって受けて、そこから山谷の中でも運動が取り組まれたんですけど、教育委員会が「犬を飼え」と言ったのは初めて聞きました。

近藤 とんでもないでしょう。
司会 ほんとにとんでもないと思いますね。時間はあまりないのですが、今の近藤さんのお話にたいして、なにかご質問があれば受けていきたいと思います。
A 寿町のドヤ主は、けっこう在日朝鮮人の方が多いと聞いているんですけど、それとドヤだけではなくお店なんかに行っても、けっこう在日の方の姿を見るんですけど、寿町と在日の方とのつながりというのは…
近藤 寿町は三大寄せ場の一つ、と言われながら、実は歴史が浅いんです。釜ヶ崎や山谷は歴史があります。寿町のあの周辺は、米軍に戦後接収されていた。で、軍政用地ですから、必要がなくなったら返していくんですね。五月雨的に。最終的な接収が解除されたのが1957、8年と言われています。その頃は戦争が終了してもう11、13年たっているわけです。当然そこには日本人地主がいるんですよ。でも10年以上たっていれば、社会で生業を持っているでしょ。帰ってきていいよ、と言われたって、そういうわけにはいかないんですよ。それを売ったんですよ。その時に同胞から資金援助を受けて買ったのが在日の人たちだったと、言われています。だからドヤ組合も二つあって。北系と南系なんですけど、別に仲が悪いわけじゃないんですよ。もう三世、四世…四世くらいの世代ですからみんな。その経緯がずっと続いてる。日本人の持ち主のところもあるけども、ほとんどのドヤが在日の人たちの所有である、そういう経緯があると言われてる。ソウルオリンピックが終わった後に、韓国人の出稼ぎ労働者が急増したんです。それまではフィリピン人がおり、韓国人が次に来た。要するに、当時、寿町は接収されていたからもともと寄せ場はないんですよ。
 寄せ場がどこにあったかというと、桜木町です。桜木町の駅前に飲み屋街が拡がっているでしょ、あそこ。今、大道芸の街なんて言われてるけれど。飲み屋がいっぱいあるじゃない、実はあそこに寄せ場があったからです。その当時、桜木町の野毛の路上に立って待っていると、トラックがやってきて「おい、シゴトがあるけど行かないか」「いいよ」と言うとトラックに乗せられて沖泊まりしてる船に連れていかれて、荷物の積み下ろしをする。これが、はじまりなんです。日本全国は焼土になっている、壊されているわけですが、横浜に行けばシゴトがある。戦後すぐ米軍が、物資の荷上げ港として横浜港を指定したんです。だから横浜に行けばシゴトがある、と全国から集まってきた。野毛がそういう場所だった。その人たちにメシや酒を出す店が大量に生まれた。それが野毛の今につながっている。あの当時、野毛を歩くと、いつも鯨を焼くにおいがする。いちばん安い動物性タンパク質は鯨だったから、鯨横町とかいう別名もあった。あるいは安いカストリっていう酒があるんですが、それを出していたのでカストリ横町とも…。立ち飲み屋さん、フライ屋さんがすごく多かった。シゴトを終わった帰りの労働者が、立ち飲みで1、2杯ひっかけて、フライを食べて帰る。何年か前に桜木町と横浜駅間の東横線がなくなって、3割から4割くらい客足が落ちたんです。で、もう一回町おこしということで、今、野毛に行くと鯨を看板にしている店がたくさんできています。それはそういう歴史があるからです。その頃宿泊のキャパシティをこえる人が集まっていたんで、それを吸収するために水上ホテルが作られました。10数艘あって、そのうち2艘は横浜市営。なんと食堂船まであったということです。そうこうしているうちに、転覆事故がおこったりして、徐々に陸上に上がったという。
 ということで、寿は新しくできた寄せ場で、規模が大きいから三大寄せ場の一つ。山谷にしても大阪にしても、寄せ場と墓地と遊郭という三点セットがあると思うんです。寿にはないんです。昔、寿に隣接する南区の真金町というところに遊郭があったそうなんですが、遊郭のぼっちゃんだった桂歌丸がうまれたところですね。それはすごく古いらしいですね。なんで、そういう三点セットがつくられなきゃならないかというと、市民社会の目にふれさせない、そういうことになっているんでしょうか。ただ、そういう中で寿町はちょっと歴史がちがうんです。

司会 今日のいろんな、初めて聞く話しとか、わからない点とか、あるいはわたしはこういう話しを聞きたいというのもあると思いますが、この場での時間がせまってきました。ただもうすこしお話を聞きたい方には、隣の部屋に席を設けています。どうぞお残りください。今日は近藤さん、ありがとうございました。


(2018年11月15日(土)plan-B)