カメラは常に民衆の前で
解体されなければならない
                                                                     山岡強一

 

なぜ、佐藤さんの遺志を引き継いで映画を撮り続けたのかといえば……それはちょっと一口にいうのは困難だけど、やはり、一人の人間の命が、映画製作という一つの意志を体現していく過程で、無理矢理、天皇主義右翼の暴力団によって奪われた――そういった形で抹殺されようとした佐藤さんの意志とか思想というものを、どうしても残された俺達が継承しなけりゃいけないんじゃないか、ということで……。

 佐藤さんは、寄せ場と出会い、寄せ場で闘い、そしてその闘いを通して寄せ場の人間と出会ってきた人でしょ。その佐藤さんが寄せ場にカメラを持ち込んだのは、単なる寄せ場の現状をカメラで切り取ることではなくて、そこに「今の時代の現実」を見て、それを映し出したかったから、という気がする。彼なりの「情報」や「事実」を、きっちりとした形で提示したかったんじゃないのかな。彼が遺したシナリオ案を読んでいくと、そういったことが感じ取れるんだよね。

yamaoka

山岡強一

 だけど、撮影続行となると非常に困難なことだらけでね。何しろ、「主体」である監督がいなくなってるんだから。実際には、カメラは佐藤さんが死んでも事件を追っかける形で回り続けていたんだけども、それだけでは駄目なんだよね。佐藤さんの遺志をつかまえ、それを深化させることにはならない。確かに、事実を切り取っていくのがドキュメントなんだけれど、だからといって、事件をただ単に自動的に映していっても駄目なわけで。少なくとも、俺達の主体を提示していかなければ、佐藤さんの遺志に対峙できないでしょ。そうしないと、本当に佐藤さんの遺志を継承できないし、芯のある映画をつくれない。で、昨年の二月三日の人民葬で制作上映委員会が結成された。そして、遺されたシナリオ案の検討や再構成、また新しい要素の導入をしていったわけ。そういった構成・整理をやっていった。ただその間、ずいぶんと紆余曲折があったし、時間を消耗に過ごしたこともあった。フィルムも無駄にしたかもしれない。事実、筑豊ロケ決行までに半年以上もかかったでしょ。その間、外見上は停滞してたんだけども、でも必要だったんだよね、そういうことが。映画に厚みを与えるために――。

 カメラの眼は、神の眼になってしまうことがあるでしょ。時として、人間が覗き見られないものを覗き見てしまうことがあるし、また映しとったものを、それが「事実」であるということで、たとえ、部分だろうが何だろうが、絶対化してしまうから。でも、実はそういったことはたいしたことじゃないんだ。だって、いま大量に垂れ流されているマスコミのニュースが、じゃあ本当の情報を伝えているかといえば、そうじゃないでしょ。そこでは、事実を切り取っても断片でしかない。だから、カメラの持つそういった卑しさみたいなものを逆に解体していく。カメラの持つ物神性といったものを解体していくことが必要なんじゃないのかな。実際、事実を並べただけでは、資本制社会の情報そのものになってしまう。事実にいかに対峙していくのか。それをいかに組みかえ、構成して、自らの情報にしていくのか。その作業こそが最も大切なんじゃないのかな。そして、この解体作業の中から、事実なり情報なりを、民衆の側に奪い返す。カメラは常に民衆の前で解体されていく――これが本当のドキュメントだと思う。

 この映画でいえば、映画づくりの過程が、カメラの物神性を解体していくことだった。さっきも言ったように、そのためずいぶんと時間がかかったけれどもね。でも、これからもう一つの大きなことが残っている。何とか一本の映画――民衆の前で解体されるのに耐えられるようなそれなりのもの――をつくったんだけど、今度はそれを現実に返さなけりゃいけないんだ。まあ、それが上映運動っていうことなんだ。「時代が一人の人間の命を奪っていく」というのがこの映画の一つのテーマでもあるわけだけど、そういった時代の危機感をどれだけ多くの人と共有できるのか、そしてその回路をいかにつくれるのか、が今後の大きな課題といえるんじゃないのかな。
 いま、ラジカルな闘いをやっている所といえば、三里塚と山谷っていわれているけれど、だけど、その場にいない人でも、そういう質を持った人はたくさんいると思うんだよね。若い人だって、いくら軽薄短小の時代といったって、決してしらけた人ばかりじゃない。いや逆だと思うんだ。そういった山谷にいない人との出会いを、是非、上映運動で保証したい。

 いまの都市社会では、人はガンジガラメにされてるでしょ。資本制の規範の中でしか生きられなくされて。ほんのちょっと前のこと、ほんのちょっと横のことを考えられなくなっている。時間が資本に奪われている。左翼の闘争だってスケジュール的だよね。それにいま、社会はほとんど「山谷的状況」でしょ。子供達の登校拒否とかイジメなんかにみられるように。時間を民衆の側に取り戻さなければいけないんだよね。敵のタイムテーブルの上で闘っているのではなくて、それを超えたこちら側のところで闘いを組み、生きていかなければいけない。こういった時だからこそ、この映画の持つ意味は決して小さくないし、上映運動の意義も大きいと思う。 

                                                                                                                                                                                    (一九八六年一月九日・談)

●山岡強一
1940年7月15日、北海道雨竜郡沼田町で生まれる。同町昭和炭鉱にて育つ。68年4月上京、11月山谷へ。東京日雇労働組合(東日労)に加入。磯江洋一氏(マンモス交番警官刺殺で現在、旭川刑務所在監)らと活動。71年船本洲治氏と出会い、翌年、山谷悪質業者追放現場闘争委員会(現闘委)結成に尽力。75年6月25日船本氏、沖縄の米軍嘉手納基地前で皇太子来沖阻止を叫びながら焼身決起。79年6月9日磯江洋一氏、単身決起。「6・9闘争の会」結成を経て、82年の日雇全協(全国日雇労働組合協議会)結成の主導的役割を果たす。83年11月3日以降、対皇誠会・互助組合戦を先頭で闘う。佐藤満夫虐殺以後、映画製作に邁進。85年12月映画完成。86年1月13日午前6時すぎ、国粋会金町一家の凶弾に斃れる。享年45。