対談「ライブスペースplan-Bを語る」

plan-B定期上映100回記念
木幡和枝
(芸術・美術評論家、アートプロデューサー、翻訳家)平井玄(思想・音楽批評)

司会 この「山谷」という映画、上映自体は数百回やってますけれども、ここplan-Bでは100回目です。それで特別企画としていろいろ 用意しました。これから平井玄さんと、木幡和枝さんの対談ということで。テーマはここに書いてあるんですけども、まあご自由に30分から40分話していた だきます。Plan-Bでは映画上映が終わってから、講演だったり、あるいはミュージシャンだったら音楽、そして今日も踊るといいますか、黒田さんだった らパフォーマンス、まあいろんな形でplan-Bという空間を使ってコラボレーションをしてきました。今日は、まあ、ある一里塚みたいなところでちょっと 時間を長くとって、話とパフォーマンスというかたちにしてあります。そのあとは、ここと隣を使って無礼講というかパーティをやりますので、それまでがん ばって堪え忍んでください。

[対談 木幡和枝×平井玄]

もう死者の数をかぞえない

木幡 木幡和枝です。
平井 平井といいます。木幡さんとはもうずいぶんいろんなことでお世話になってきまして、長い付き合いなんですけども。3回か4回くらいはお話していますよね、こういう形で。ではスターターみたいなことやりましょうか。
木幡 よろしく。
平井 何を話そうかなあと思ったんだけど、やっぱりこの映画を観て思いましたね。この映画は百科全書だなってことを考えてたんですよ。ディ ドロとダランベールというフランス革命を用意したおっさん達が……といってもほんのちょっとしか読んでないんですけど、僕も。つまりどういうことかという と、この映画が出来て30年くらい経ちますが、その間、とんでもないことが起きてしまうと、必ずこの映画のどっかの場面を思い出して、映画じゃこうだった じゃないかと。で、俺は何を観てたんだろうみたいなことを考えて、どうするかを決めると。あるいは動きだしてしまう、走りだしてしまう。最近、この映画の ことを昔の仲間たちと語ると、その死者の数を数えちゃうわけですよ。あいつも死んだ、こいつも死んだと。でも、それをやめようと。今日観てて思った。これ はもう、ある種のギリシャ神話みたいになってる。顔の映画ですよね。顔がいっぱい出てくる。意図的に撮る人は撮ってますよね。つまり山さんと佐藤さんとカ メラマンやスタッフは。でも、あいつは死んだとか、もう言ってもしょうがないと。この映画は30年経ってもいろんなものを語りかけてくるんだというふうに 思いました。というのは、三日前かな、山岡さんが殺された通りをデモしてたんです。その前の日には「在特会」という右翼のガキ集団がそこにいる在日の人達 に対してひどい罵言を吐いて嫌がらせをするという行動を行なってたところなんだけど。そこがまさに山岡さんが殺された、ローソンっていうコンビニのある通 りなんですね。この映画は、そういうことがあって、上映運動はそこから始まっていくわけですけども。それが、僕にとってはどうしても忘れることの出来ない 光景です。その30年の間に何百人か何千人かわからない、僕よりずっと若い人達に会うと、彼らはこの映画を観たらどう思うのかなということがあって。 「plan-Bでやってるよ」と。「観に行ったらどうですか」っていうことを結構言ってきたんですよ。で、それは、この映画とこの場所が切っても切り離せ ないところがあってね。いろんな偶然があって、木幡さんは僕よりはるか前に山さんや山谷の人達とつきあってたとか、そういうことがあって、ここで100回 も上映されたんだなあということを思いました。で、もう死者の数を数えるのはやめようというふうに非常に強く思いました。そんなところを切り口にして、こ の映画とplan-Bということですが、木幡さんどうですか。

集合的な音感から出てきた言葉

木幡 今日何回目かわからないけど、また全編観ることが出来て、まさしく今おっしゃられたように顔っていうか肖像というか、個人の肖像以上 の肖像というか。具体的にもう名前も覚えてないけど、あのおっちゃん、もうその瞬間がよみがえってくるじゃない。あの人、あのアル中の人とかっていう、す ぐ思い出しちゃうようなリアリティ。それから最初の時から本当にドキドキした場面があって。毎回そこの場面を確かめるように私は観てて、今日もそうだった んですけど。それは、音楽をやったグループがとってもいいんですよ。あの彼らの「ワルシャワ労働歌」、玉姫公園の越冬闘争が始まりますみたいな。「ワル シャワ労働歌」が編曲されて。その直後に人パトっていって人民パトロール。ドヤにももう年末で入れなくて雨の中、みぞれの中を野宿してるっていうか、路端 で寝てる人を、そのままだったら死んじゃうのでパトロールして。「ドヤはないのドヤは」って言うのがあって、その場面がありましたでしょ。あそこでなんと かさんが、こう跪いてね、みぞれの中。その寝てるおじさんを起こす。あの時、最初に観た時に、私はすごく教条主義的人民主義だったもんだから、ああいう大 学出た活動家みたいなのがね、そこで寝ているアル中のおじさんに「おじさん」と言うのかね、「あなた」って言うのか「ちょっと」って言うのか……ものすご いドキドキしてたわけ。何て呼び掛けんだろうって。この大学出た活動家は、この人に何て呼び掛けんだろうって。私は毛沢東を思い出しつつ呼び掛け方を、も うドキドキして観てたら、私は女だからかもしれないけど「先輩」って言葉が出てきた時はすごく嬉しかったわけです。そういう意味で、私にとって大事な場面 で。それで毎回その場面がくると思い出すんですが。その「先輩」ていうことのいろんな意味が、あなたがおっしゃるね、そこへ戻っていくっていうか。こと に、ああいった矛盾の固まりの中で……。今の安倍政権の言い方、頑張った人が報われる社会みたいな単純な論理でいかねえぜっていうことを思い出させてくれ るんですね。それを「先輩」と、彼も考えた末の言葉なんだと思うんですけど。
平井 あんまり考えてないと思います。(笑)みんな言ってたんで。
木幡 ああそうか。
平井 ただ、その言葉が出てきてみんなが使うようになるっていうのは、やっぱりある構えのやつらがあの場所で生きてきて、出てきたんだと思 うんですよ。僕なんかもよくわけもわからずね、何が「先輩」かよくわからず、使ってはいたんだけど。なかなか出てこないですよ。「おじさん」っていうのも あれだし。なんというかねえ。
木幡 私だったらきっと「おじさん」とか「おじさま」とかって言っちゃうと思うんですけど。まあそこはある種の集合的な一つの音感から出て きた言葉だと思うんですけど。あれは好きな場面です。それとあの音ね、音の人達。大熊ワタルさんなんかも若い時に、あそこで協力してたのかな。
平井 もちろん、はい。
木幡 なかなか。
平井 うん、そう。だから音の映画なんだよね。音楽の音ももちろんなんですけど、その「先輩」と声掛けたSちゃん。あの声がいいなとかね。 労働者の話し方、それからいかにも活動家、ついこの間まで学生だろうなとかさあ。わかっちゃうんだよね。ああ俺もそうだなと。三十いくつでそんなもんだろ うと。いい年してるのに。もう三十いくつなんだけど「学生」と呼ばれる存在なんですよね。そういうことを思い出したり、それからあの「哀愁列車」とかね。 出てくるわけですねえ。
木幡 あれ良かったね。「哀愁列車」はみなさんご存じないでしょうが、三橋美智也という人の。
平井 あの筑豊の場面でね。
木幡 そうそう。
平井 風呂の場面から、「哀愁列車」がグワーっていくわけですよ。なんていうか、心にしみる場面もあれば、怒る場面もある。泣いちゃったり笑ったり、まあそういう映画だっていうことを改めて思ってね。
木幡 それから最初の監督、作ることを決めて開始した佐藤さんが亡くなったあとに、山谷の労働者であり活動家であった山岡強一さんが継い で、完成させたわけですね。直後に殺されちゃうわけですけど。で、山岡さんが筑豊にこだわったっていうのは、ご自身が北の方の炭鉱の出身だったと理解して ますが。と同時に、ずっとものすごくそういうことにある種倫理的にもこだわっていた。これが朝鮮から連行されてきた人達の墓、まあペットの墓にまで……。 筑豊が最後に突然グワっとあそこに行くっていうのはものすごい意味のあるような気がしました。まさしく「先輩」そのもののね、歴史がボンと最後にあらわれ て。
平井 僕が浅知恵で解説するのもなんですけど、山さんが炭鉱で育って、お父さんが現場監督のようなことをやってて。その時に戦中最後の時代 かな、在日朝鮮人鉱夫の暴動があって。そこでの体験があるからこそ、ああいう映画が出てくるだろうと思うんです。だから本当にこの映画にいろんなものが ギューっと詰まってて。いつ観ても、からだが震えます。ということで、その時のことを思い出すだけじゃなくて、次に今起きてることを……
木幡 懐古的な話はこのくらいまでで、そうだ、今からのことを話さなきゃいけないんだよね。まあ、あなたがおっしゃられたのは場所というかね。
平井 ええ。

美術、ダンス、パフォーマンス、演劇、映像、音楽のための
オルタナティブスペースとして30年前につくられた

木幡 100回続けていく、映画のこともそうなんですけど、上映し続けるという。全国いろいろな所をまわりつつ、ここでは準定期的にずうっとやることが出来てたんですけど。
平井 最初、plan-Bが出来た時に思ったのは、何でこんな遠くて不便な所につくったんだと。で、このアングラから……
木幡 アングラは金が無いからです。
平井 そうだよねえ。
木幡 ここしかなかったんです。
平井 まあアングラには慣れてる世代なんだけど。新宿の蠍座をはじめ薄汚い所に入っていって何かやるのは慣れてるんだけど。今こういう場所 はあちこちにあるんですよ。日本中に。で、みんな不便な所で狭苦しくて古いビルみたいな所でやってるんですよね。plan-Bのことはみなさん知らないと 思います、そういうことをやってる人達は。でも、やり方は結局そういうふうになってて。ところで、バブル時代から今までにかけては、大学がお金を出してく れたり、自治体がお金を出してくれて、アートで街おこしみたいなことは相当行なわれました。でもみんなうまくいってません。うまくいってないっていうの は、営業的にうまくいこうがどうなろうがっていうよりも、何かを生み出しえたかっていうと、まあないだろうと。僕もいくつかの大学の人に誘われて、しゃ べったり、いろいろやりましたけど、どうもねえ。生まれない。生まれる所ではないなと思いましたよ。だからこのplan-Bのあり方みたいなもの……木幡 さんは外国の事情に詳しいでしょうが、ニューヨークとか、あちこちにそういう所があるんだろうし。キップ・ハンラハンっていうニューヨークのミュージシャ ンと話した時に、そういうことをちょっとしました。
木幡 ええ。
平井 あの人は非常に面白がってたけども。今そういうスペースが出来てて。それとここ数年、まあ特に日本中が揺すぶられた原発震災以降…… 炭鉱とか、炭鉱またよみがえってますよ、僕らの中で。福島、常磐炭鉱、原発……ある種、観光と化してる面もあるけれども、もっと生々しい形でよみがえって るんで。今日ここにいないけど、原発労働者のことをやってる連中は、今日の昼間、会議やってますから来られないんですよ。まあそういう形でこの映画とか、 この場所っていうのは、ただ100回やった、たくさんやりましたっていう話じゃない、もっと質的なものを持ってると。すごく思いましたね。
木幡 この場所をつくったきっかけはというと――これから踊られる田中泯さんをはじめ20人くらいの美術、ダンス、パフォーマンス、演劇、 映像、音楽などのそういうことをやってる人達が、いちいち高い金を払って借りるのも大変だし、それに釘も打てない、水も使えない、火も使えない、何とかな らないかっていうんで。それで外国のもうちょっと自由にやってるオルタナティブスペースっていうのを見てきて、日本でもつくろうと。まあ欧米で見てきたも のとは規模で言うと、そうねえ、10分の1くらいの空間スペースですけど、なにしろ東京の新宿近くっていうと高いから。それでもまあともかく確保した。当 時でもね、1週間画廊を借りるので15万から20万かかった。だったら、自分達でやった方がいいだろうとそんなことで始めたんです。その時、中心的にやっ たグループはそういう表現関係なんですけど、その人達の中にはいろんな人がいました。表現をただやって、発表の場さえあればいいというような変に閉ざされ た意識じゃなくて。それぞれの関心事、重要なこと、私の場合はそれは山谷だったし、この映画だったし、山さんだったし。いろんなものを、これもぜひやって もらおうよっていうような、そういうのがまあきっかけで。決して表現活動とか、いわゆる「お芸術」に限られないんで。自然科学だったり、社会運動だったり が入り込んでいたのはそういうことなんです。ただ、時代とともに中身は変わってきましたよね。ずうっと凍結されなくって、それが良かったと思う。始めた時 は、30年くらい前ですけども、そのままで凍結してたらば困るわけですよ。だって、今、私66ですけれど、出入りして下さる客さんもずっと一緒に年をとっ て、みんな私と同い年ばっかりだったら、ちょっとさびしいじゃないの。碁会所みたいになっちゃうし。だから、つまり通り過ぎていくっていうと良くない言い 方だけど、変わってきてるってことは時代の中でまあ少しでも踵を接するっていうことになるんだと思うんだけど。中身は違ってきますよ。
平井 例えば、マルセ太郎さんもずっとやってきたわけですね。
木幡 そうです、ずうっとやってましたね。
平井 もう彼も亡くなったけども。まあそうやって、ここにもいろんな人の魂があると思うんです。すごく濃いスペースになったなと。受け皿と いうか器として。それは、自治体が金を出したり大学が金を出しても出来ることじゃないわけで。そういう意味では、映画も、まあさっきちょっと大げさなギリ シャ神話みたいなことを言ったけど、やっぱり時と共に磨きがかかるもんだと思いましたよ。一昨日かな、家で小津安二郎の映画を観てたんだけど、あれはあり えない日本の戦後市民社会なんだけど、架空の物語みたいなもんですよ。あれほどきれいな言葉を使い、あれほど抽象的な東京生活があるみたいなね。でも、そ の裏にこういう世界があるわけだけど。あれはあれで一つの方法なんでしょうけども。それで、別の意味での非常に抽象度を獲得したというふうに、今日この 「山谷」を観て思いました。とっくに佐藤さんや山さんの、山さんの年でさえもう僕は越えちゃったんだけども。そういうふうに観られるようになって、このス ペースも成熟したっていうかね。ある種成熟ってあるんだなと、しないのは自分だけだと。

高円寺の地下大学 ―― plan-Bを意識したわけではないけれど

木幡 plan-Bは1980年、81年くらいにスタートしたんですけど、その頃はまだいろんな意味で、ある一定のレベル以上の人じゃない といろんな場所を使えなかったわけですね。それは貸してもらえないとか、ある種の立場っていうの。だから若い、何ものかもわかんない人がやろうと思っても 画廊は貸してくれない。今はいろんな所が若手とかイマジングアーティストとかいって、そういうチャンスをつくると、行政が……。そういうのがないので、そ うするとどうしようかというと高い金を払って借りるか。でもそれってとてもバラバラだし、あの競争的だし。やっぱり空間があればいい。でも自分のペースで 借りられる空間がないのもさびしいけど、あればすむんじゃなくて。「場」という言葉をもし使うならば、それは単純な物理的空間だけの話ではないと思うんで すね。「山谷」の映画で「俺が帰ってくる街はここだけしかないんだ」って言ってたおじさんがいたけども。さっき、ここに来て下さる方っていうのは時代に よっていろんなものを持ち込むし、違う人が入って来るのは凍結された場として結晶化していくよりはずっと面白いと思うと言いました。同じようなことを、そ ういう有機的な要素が流れこんで来る場所を、行政や大学がちょっと若者の非行防止の為や、あるいは中高年にいろんな趣味を持たせる為に、何かをやったり発 表したりする場をつくってますよね。例えば、世田谷区立美術館とかがやってます。でも、そういう発表の場さえあればいいのか。そこに人が来て、「じゃあど うもご苦労様、来年もねー」って言って別れるだけでいいのか。その場所というものが、これはしがらみも含めて、望むと望まざるとに関わらず、ある有機的な 作用を引き起こしていく。それがまた外の政治状況や経済状況、社会状況を飲み込みながら動いていく。少なくとも60年代、70年代、80年代にかけて場所 を欲しいと思い続けてきた、それは芸術的表現だけじゃなくて、やりたいと思ってきた身からすると思うんですけど。今、そんなに若い人達は物理的な場所に 困ってないような気もするし、大学のような機関、あるいは行政が昔に比べたら信じられないくらい素晴らしいものをオファーしてくれるじゃない。いろいろ締 め付けはあるにせよ。何かどこも行き場がない、だからしょうがないから大学占拠してやるっきゃねえっていうふうに追い詰められてないことが問題なのかっ て。老婆心の繰り言みたいになっちゃいましたけど。その辺はどうなんだろう。あなたは若い方達と地下大学やってて、どうですか。
平井 あれは勝手にやってるというか。地下といいながら地上二階で、下は鍼、灸の店なんですよ。不動産屋さんの隣で変な薄汚いビルですよ。 よく地震の時にぶっ壊れなかったなって所なんですよ。いずれこの映画、「山谷」をあそこでやろうと思うんですけど。ここは寄せ場じゃないのって高円寺の人 達に言うんだけど、彼らはそうじゃなくて、どちらかというとフィリピンなどの、南方系のスラムのイメージを思っててね。それはそれである種の面白さがあっ て。つまりゆるい空間っていうかね。それで労働をしてるかしてないかわからないような連中がうろうろしてて。でも、執拗に高円寺がロックの街です、若者の 街ですよみたいなことで、ギザギザしたものを投げ込むようなことをやってると、まあいずれ何か反応を起こす、化学反応を起こすだろうと思ってはいるんだけ ど。あれを始めた時は、別にplan-Bのことを思ってたわけじゃないですけど、考えてみりゃよく似てるわというふうに思いますね。こうしようと思って仕 掛けたことはろくなものはないわけですが、いつのまにか染み込んだものが何かを生むんだろうというふうに思うんですよ。大学で、いろんな企画書を出してや ると予算が取れたりした時代もあったんだけど、最近はそんなことはないですけどね。
木幡 いやありますよ、今だに。
平井 ある?
木幡 取っちゃったけど、やる中身が実はなかったみたいになってる人が私のまわりの同僚にいますよ。課程費を取る時は一生懸命なんだけど、もらっちゃったあと一応ちゃんと使わないと今後に……ところが実は何にもないのにもらっちゃって。ぜいたくな悩みですけどねえ。
平井 ハハハハ。ちょうだいっていう人がいっぱいいるんじゃないですか。
木幡 言いたいですよねえ。
平井 そういう意味じゃあ豊かさと貧しさがものすごく偏在している。極端に偏在している時代になった。それで、日本中に変なスペースがいっぱい出来たと思うんですよね。で、たぶんplan-Bをそういったことの先駆的な例として取り上げる粋狂な研究者が出てきたりとか。
木幡 オルタナティブスペースの研究とかね。

いま、学生と下層の労働者が出会うことはなくなった?

平井 そうそう、そうです。まあそれは粋狂な人に任せとけばいいことなんであって。やればいいんです、こっちはね。この映画、今日はなぜか、たぶんフィルムが傷んだせいでしょうけれど、こう角が丸くなってましたよね。画面の角がね。
木幡 角が丸くなるって。(笑)
平井 何か、20年代のモノクロの映画を覗き観てるみたいな、そういう感じがしてね。そういう意味でもこの映画、時と共に変容しているんだ、成熟しているんだなあと思いましたよ、すごく。
木幡 それと観ながらちらっと考えたのは、圧倒的な違いというか、リアリティというか。例えば、おじいさんがいて中年の夫婦がいて、それか ら昨日今日、大学から、あるいは学生運動からちょっと移行してきたような活動家もいて。そういう意味で言うと、大きな時代的な違いがすごくありますよね。 ようするに、学生とそれから農村、漁村出身の、まあ下層労働者になっている人が出会うなんていう必然性、必然性というか構造的条件っていうのが、まあ別の 方法で、それこそ角が丸くなってるわけで。ところが今は、そういうことがないから、危険な連合体が出来るおそれがなくなってるわけじゃないですか。あるい は前衛芸術家と山谷の上映会をやる人が、何で同じ場所で一緒に100回続けたの、というようなこと、そういうのがあんまりない。こう何て言うの。細かく分 類化された使用目的に合ったと思われる施設を、まあこれが括弧付きの「文明社会」というのかもしれないけれど、そういうのを提供出来る市民社会になってき てるということの結果なのかなあと。
平井 それと、だんだんお金を出さなくなってるんじゃないですか。きつくなってきて。
木幡 そうだろうなあ、締め付けが。
平井 たぶんそうだと思います。あとその過激な学生さんと労働者達っていうのはもうありえない図式であって。
木幡 過激な学生達がいないと。
平井 いないです。原発震災以降、最も動かなかったのはたぶん学生層ですからね。
木幡 ほう。法政大学に行ってもいない?
平井 ちょっとはいますよ、それは。ちょっとは面白い人もあらわれてきてるんだけど。まあ、いきなり山谷に行っちゃうとかね。美大の学生 だったやつが山谷に行っちゃうとか。そういうことはあまりなくなってきてることは確かだね。でもまあ、学生が普通に暮らしてたらフリーターになってしまう んで。
木幡 ああ、なるほど。
平井 別段行く必要ないんですよ。
木幡 そこにいれば、もうなっちゃう。
平井 なっちゃう。なっちゃうけど、まあみんな従順だけどね。
木幡 うんうん。
平井 しかしそれで波を立てようとしてるやつはいるわけで。そちらの方が面白いというかね。そこから映画を撮ろうとするのが出てくるわけで。
木幡 で、どうなんでしょう。そういう中で場所を持つとか。昔アジトって言葉がありましたね。例えば、大学のクラブ活動の与えられた部屋。 それを自分達で好きに使う。アジトっていうのはヨーロッパの語源だっていうのがありますが、まあ自分達が自由に使える場所。もう寝泊りもしちゃうみたい な。そういうことでいうと、今はきれいなエアコン付きの部室みたいのがサークル活動の為に与えられていて。使える自由度は、それぞれの場所によって勝ち 取ったものが違うと思いますけれども。それと金を払ったりして。あとは行政や民間が提供するっていうかなあ。まあ私達の頃は西武とパルコくらいですよ、そ ういうのは。若いのを登場させて販売促進につなげたのはね。今はみんなそれをやってるから。そんなに困ってないのかなあ、発表の場みたいなものに。

山谷の群像をシネマヴェリテとして観た時、どう思うのか

平井 どうなんでしょうねえ。ただ本当にやりたいことをやろうと思えばかなり困りますよ。
木幡 そりゃそうですよ。だから、本当にやりたいことがないっていうのが問題なんだよ。
平井 ただ、その若い層がどうしたとかあまり興味がなくて。なかなか年を取れないのが僕らの世代の唯一の取り柄なんで。
木幡 なるほど。自分のことの方が興味がある。
平井 そうですねえ。自分が今、何を出来るんだということだけが重要であって。それで一緒にやれる連中をつくればいいと。出来ればいいとい うことであってね。この映画はそれを訴えてる気がするんだけどね。この映画を観るといつもどこか震えて、笑って、泣いてね。ええ、しんみりきますよ。同時 に「お前、何やってんだ」と。やっぱり言われますよ、この映画に。
木幡 いやあ何人かの群像がいてね。皆さんにぜひご紹介したいのは、もう亡くなっちゃったから言っていいと思うんですけど、あそこに出てく る中で何人か、私の記憶に強く残る大好きな人がいて。今日も「ああ、もういないんだ、この元気な人は」と思ったんだけど。何て言ったらいいんだろう。ほ ら、おじさんがこうあやまって、組のって言うか……
平井 ああ、手配師のおじさんがね。
木幡 その前でマイク持って。わりとこう滑舌のはっきりしたMさんっていう人がいて。あの警察官あがりだっけ、自衛隊だっけ。
平井 警察ですよ。
木幡 警察か。警察官あがりか。
平井 機動隊でしょう。
木幡 機動隊。(笑)亡くなってしまったそうで。本当にまあ細やかな心遣いで。ええと、一生懸命勉強をするんですけど、いわゆるインテリタ イプには絶対になれないタイプで。でもすごい人間的、何ていうんですか、豊かさっていうのがあって。元気いっぱいで。彼だけじゃなくて、もうちょっとこっ ちにいた今だに闘ってる人とか。本当に群像としても、今どきあれだけ複雑で強烈なものを……。それを培った時代っていうことなのかもしれませんけども。 で、そういうものを皆さんがシネマヴェリテとして観た時、真実映画として観た時、どうなんでしょう。いわゆるドキュメンタリーって、あるいはドキュドラマ とか今たくさんありますけど。この映画との違いというか、分析的な意味じゃなくて、若い方々とかはお感じになったのかなあ。そんなに古い感じはしなかった だろうと、まあ希望的に思ってんだけど。どうですか? 昔、1950年代、60年代くらいのネパールとかチベットとかにいろんな写真家が写真を撮りに行ったじゃないですか。そこで撮られた顔を観ると、懐かしい 顔、日本にもいたよね、こういう顔の人って。思いましたよね。発見しちゃったり。隣の家の人だったり。でも今は、だんだんこう顔っていうものがツルツルに なってくるじゃない。で、今日の話も顔から始まったんだけど、どうですか、そういうリアリティっていう感じでは。まだまだ今も通じる、今こそ通じるリアリ ティをこの映画は持ってるような気がするんですけど、いかがでしょうか。場所から話がずれちゃいましたけど。それと、そろそろ我々よりも、音楽とパフォー マンスに行った方が、映画と身体的には連動してていいと思うんですが、どうです?
平井 じゃあ、ちょっと言いますが、顔って、情報量というか伝えるものはすごく多いでしょう。何で、今でも彫刻とか絵とかを観るのか。やっ ぱりそれは何かを伝えちゃうからですよね。それを思うと、僕が実は一番興味があるのは飯場に争議に行くじゃないですか。それで、おじさんが出てくるじゃな いですか。あれは在日の人なんです、親父は。娘さんが出てきて、それこそMさんが途中から漫才の掛け合いみたいにして「社長、社長」とか言って出てくるで しょう。そして協定書というか、誓約書みたいのを書かせるわけだ。あの時、「この人、日本語書けないから」みたいなことを娘さんが言うんだよね。あのおや じの顔なんですよ、僕が興味あるのは。あのおやじが刻んでるこの顔は何だと。つまり働いてなんとか店を持った。あのちっちゃい手配師の事務所。まあ飯場を 経営してると。で、たぶん本人にそれほどの意識があってじゃなくて、業界はこういうもんだというふうにしていろいろなことをやっちゃってる人だと思うんだ よね。あの人の顔と家族と、それと労働者、飯場にいる労働者。それから争議団の連中、Mさんやその他いろんな人いますけど。あのやりとりなんですよねえ。 あれが非常に興味があって。それと、もう一つ言っておきたいのはたぶんフリーター世代にはフリーター世代の顔の成熟があると思うんだよ。

成熟しない意志、あるいは古典として……

木幡 成熟?
平井 うん、すでにフリーター10年以上、10数年とか20年とかやってる人が出てきているわけなんで。そうすると肉体労働者ではない、も ちろん別の病を、いろんなものを抱え込んでる人達が多いけれど。それだけじゃなくて、やっぱり生きる為にいろんなことがあるわけで。それとは別の成熟と別 の闘いのありかたがたぶんあるだろうと。それを編みだすのが問題なんであって、というふうに思いますけどね。
田中泯(客席から) 成熟ってどういう?
平井 やってると、なんとなく時間が顔やいろんなものにたまるんですよ。たぶんその出方みたいなものが、あるパターンとか何かを作り出してくると思うんだよね。
田中 農業用語で成熟とか爛熟とかって。
平井 ああそうか。
木幡 爛熟。
田中 さっきのこの映画に関して成熟って言葉を盛んに使ってたんだけど、俺はこの映画は成熟をしない意志を持ってる映画だと思う。
木幡 映画としての成熟?
田中 一番はそうだよ。
木幡 映画としての成熟はしない。
田中 しないという意志を持ってるからやっぱり観続けるんでしょう。観る人達も成熟なんかしてないって。
平井 うーん。
田中 時期を待ってるわけじゃないでしょう。あの果物の成熟というのは本当に待ってる。待ってるんだ。そして、しっかりと支えられて成熟す るわけだよ。それがもっと進むと完熟、そして実を結ぶことが結果なんですよ。これ全部百姓の言葉です。いやねえ、あいまいになっちゃうんだよ、成熟なんて 言うと。
平井 じゃあ言い換えよう。山岡さんは、あの人は文学好きな人だったんで、こう言ったんですよ。ある典型みたいなものが重要なんだと。そういう意味では成 熟って言うと、確かに時間とか何かそこに西洋芸術とかね。農業とか農業の持ってる時間みたいなものを思うかもしれないけれど、成熟っておっこちてまた次の 実が出るじゃないですか。そこで終わるわけじゃないから。ですから、ある種の典型とか。そういう意味では、この映画はまあ古典になったと僕は思う。それは 僕の中ではなかなか出来なかった。あの場面に思い入れちゃう。あいつはどうしてるんだ。俺はこの場面のこのシーンのどの外にいるんだとか、あるいはいな かったとかね。そういうことばっかり思っちゃうんだけど。
田中 だから、それは全く不定形にあり、時間差を、常に時間差をともなった時間が一個一個の体の中に流れてるわけなんです。その中で成熟って言葉はふさわしいとは思わない。
木幡 なるほど。
田中 それと今日、何度目かを観て初めて音楽を聴いた気がした。今日初めてですね。
平井 だから、素晴らしい古典の作品になりましたと。でも、映画史に記録されるという意味じゃありませんよ。その手の学者達が言いそうな、そういう意味では全くないです。
木幡 では、そろそろ。本当にいろんな体験をしたいし、皆さんもどうですか。
平井 そうですね。どうもありがとうございました。

[2013/2/16 plan-B 責任編集・山谷制作上映委員会]

野宿者コミューン! 江東区竪川で起きていること

杭迫隆太(竪川を支える会)

竪川での強制代執行

杭迫 今晩は杭迫といいます、よろしくお願いします。まず竪川の現状から説明しますと、2月8日に対象地に一人残った人のテントを、小屋 を除却したんです。でもその10か月後の、おそらく12月くらいまでの間にもう一回代執行が行われようとしています。今はその手続き中で、おそらくそれは 間違いない。そこで黙っているわけにもいかないということで、今、住んでいる竪川の河川敷公園多目的広場の少し上がった堤防の上の所、副堤部っていうんで すけども、そこにテントと小屋を作って電撃的に引っ越ししました。ですから、今はその対象地に残っているテントと小屋が10張りくらいと、代執行の前に、 それを逃れる形で引っ越したテントと小屋が5軒くらいあります。この間、警告書というのが副堤部に引っ越したテント小屋に貼られまして。対象地の小屋には 「いつまでに除却するので、それまでに出て行って下さい」というようなのが届きました。現在、竪川はそういう状況です。ただみんな、決して悲観的ではな く、今日も竪川カフェがあったんですけれども。みんなで力を合わせて明るくやっていますので、ぜひ皆さんも一回、今のうちにと言うとちょっと縁起は悪いん ですけども、竪川のみんなと話すような機会を持っていただけたらと思います。
司会 知らない人もいらっしゃるので、なぜこういうことが行われたかっていうことを少し話していただけませんか。
杭迫 はい。竪川、荒川、隅田川、そういう河川敷とか公園のような公有地に野宿者が劇的に増えたのは、あのバブル崩壊の頃の経済がこうド ンと落ちて、それで建築業界が冷えきって、山谷や横浜寿や高田馬場の、今もありますが寄せ場ですね、そういうところの日雇いの仕事が急に無くなってしまっ た。ようするに日銭を稼いでドヤに泊まるとか、仕事にアブレたら野宿するっていう人達の生活スタイルが、もう一気に後退したんですね。それでもう仕事が出 来なくなってしまった人が、そういう公有地にテントや小屋を張って暮らすという。だから20年くらい前からの潮流としてありまして。で、竪川もそのバブル 崩壊の頃から、20年くらい前から住んでる人、長い人で20年くらい。Aさんは20年くらい?
A オレはもう21年目に突入しました。ベンチからスタートして小屋作って。
杭迫 その人達は、20年間江東区の福祉行政からほったらかしにされていて。まあ福祉事務所の人が相談に来るなんてことはほとんどなくて、見て見ぬ振り を役所はしてきたんです。にわかに、スカイツリーが出来るとか、近くにいっぱいマンションが出来て、それなりの所得の高い人が増えたりっていうことになる と、急にそれまでは放置していたものが「出ていけ」に変わったわけですよね。それがまさに今、竪川で起こっていて。それは隅田川でも荒川でも、大きくは変 わらないんで、そういう流れが東京東部で、顕著に今あるように感じています。
A 2006年からねえ、都内でよく……みんな聞いてます? 「三千アパート」って聞いた人います?アパート事業っていうの。それがちょ うどねえ2010年頃かなあ、始まって。それからウチら竪川には、現在10人しかいませんけど、その2010年頃にはもう45くらいのテントがブワァーっ と同じところにあったの。今の渋谷も新宿もそうよ、再開発でみんな……。ウチらの竪川でも高速道路の小松川の下で工事が再開して、再開発でみんな追い出さ れて。今の状態は応援入れると12、3のテントでがんばってやってます。だから、ぜひ遊びに来てください。最寄りの駅だったら都営線で行くと西大島から明 治通りをまっすぐ高速道路に向かって左っ側にいますから。朝9時から5時までいますから。JRだったら亀戸の駅でまっすぐ。目の前が明治通りですから、 まっすぐ。真ん中に高速道路が上に通ってますから、それを目印にして、向かって明治通りの右っ側に銀行がありますから。そこの一か所だけウチら唯一の門だ から。もう夕方にはみんな閉められちゃう。ぜひ、あの暇があったら竪川に一度遊びに来てください。いつでも待ってますから。オレ自身がいますから、毎日の ように。
杭迫 亀戸と西大島の間にある高速道路の高架下にある竪川で、最初に工事の計画が上がったのが2006年で。その工事計画はいったん野宿 者や支援者、活動家の、そういった反対もありまして一回立ち消えになるんですけども、また三年前からかなり激しい追い出しが始まって。そこでは、「三千ア パート」の、なんていうか焼直しみたいなものだったりとか。あとは緊急一時保護センターとか自立支援センターとか、そういう所に入れっていう。また、それ までは一切認めてこなかった生活保護の制度を使って「そこからどいてくれ」と、そういうことを言い始めたわけですよね。Aさんがいっぱい言ってくれました し、竪川の感じはこんな感じで。

移動した所にもフェンスが

そもそも私がどう関わってきたかっていうことを話しますと……この去年の夏頃から、江東区がどうあっても追い出す気だなっていうような空気がすごく出て きたんですね。それまで竪川に住んでいるみんなは、江東区が「ここ今度工事するから、そこどいて」って言われたら「ハイ」って言ってどいて、「こっち工事 する」って言ったらまたどくってことを繰り返してきたんですね。それで、五の橋のすぐ下に引っ越したわけなんですけど。その頃から、もう話し合いのテーブ ルに着くことをしなくなり始めたんですね。これはいよいよおかしいなっていうことで、話し合いをして解決しなさいっていうことを、私たち野宿者、支援者有 志で江東区に訴えてきたんですけれども、ついに去年の12月に、最初の行政代執行の手続きを区が始めて。それで、2月の8日に一軒だけ残ってた高齢のSさ んっていう人の小屋を全部除却して強制的に撤去しました。何で1軒だけ残ってたかというと、Sさんはすごく人に頼るのが嫌いな性分で。他のみんなはSさん の小屋がやられちゃう前に、すぐ近くの今いる所に引っ越したんです。そこはもう工事も終わっていて、行政代執行の対象地でもないので文句はつけられないだ ろうと。そういうことで引っ越した所に今みんな住んでいるんですが、今度はそこがやられてるっていうことですね。その2月8日の行政代執行の前に引っ越し た所の多目的広場が1月27日にフェンスで囲われてしまうんです。
竪川河川敷公園は細長い公園で、自転車の抜け道みたいな感じでひんぱんに使われてたんですけども、そこを使えなくして。それで「危険な野宿者がいるから ここは通さない」みたいなことを区が言い出して。その時に来たのが100人から150人くらいの警備員、区の職員、あと何もしないで見てる警官ですね。そ れを僕は目の当たりにして、これはもう、本当にもう多勢に無勢で好き放題やられてしまうなっていうふうに考えて。誰もが携帯電話とかパソコンで「こんなこ とが起きてます」って発信出来るわけでもないでしょう。僕はその時、御徒町のアパートに住んでたんで、家もそんなに離れてないし、泊まれる時はここに泊 まって、野宿者の人と一緒にテントに寝泊りして、誰も見てないところでやられちゃうってことがないようにと思って、Aさん達と一緒に暮らし始めました。今 は、ちょっと体を壊しまして竪川にずっといるわけではないんですけども、また代執行の目論見がこうあらわになってからはなるべく現地に行ってみんなと一緒 にいるようにしています。

非正規労働者となって山谷へ

私は、もともとは広告代理店で働く、普通のそういう賃労働をしてたんですけども体を壊して。大変な仕事だったんで、一回入院したあとはその仕事を続けら れなかったんですね。その後は塾の先生とか予備校の先生とかしながら、ようするに非正規で食べてきたんです。でも本当に2005、6年あたりからもう食べ られなくなってきて。教育の現場の非正規の賃金っていうのはすごく足元見られて、たたかれ始めたんですね。もう一番良い時の半分以下くらいの給料で働くこ とになっていて。それまでは運動とか労働問題とかと全く無縁だったんですけれども、こんな世の中はおかしいなっていうことにその時ようやく思い始めたんで す。2008年のリーマンショックの時に、非正規でも誰でも入れるっていう労働組合に初めて入って。そして、その年の暮に派遣村、あの日比谷公園の年越し 派遣村がありましたが、そこに僕はボランティアで行ってたんですね。そこで会った人達、たくさん野宿の人達が日比谷公園に集まって来てたんですよね。その 山谷とか東京の各地で活動している野宿者運動の人達とも接点が出来て。私は一応労働組合には入ってはいるんですけれども、本当に大変な思いをしている人達 のために何か出来ないかなっていうことで、だんだん山谷に足を運ぶようになりました。
で、その派遣村のことを話しますと、とても大きな出来事だったと思うんですが、まああれだけ大きな出来事が起きて、その年の8月には政権交替も起きると いう大きな流れがあったのに、全然世の中は良くなっていない。特に野宿の現場なんか見るともうどんどん、どんどんひどくなっているっていうのが現状なん で。派遣村がどうこうっていうんじゃあないんですけども、あれだけのことをやっても全然世の中は良くならないんだなっていう失望みたいなものを今でも感じ ているんですが。それでもまあ、いくつか良いこともあって、その一つに生活保護の……。生活保護って本当に受けられない、一人で行っても門前払いされる、 水際作戦とか硫黄島作戦とか言いますけども。ちゃんとやったら絶対申請は出来て、ちゃんと審査して決定するかしないかっていうことをするはずなのに、その 申請すらさせてもらえない。そういう違法な運用がされてきたんですけども、派遣村の直前から粘り強くやっていた「もやい」の人達とかの活動の積み重ねも あって、派遣村の後は誰か一人でもそういう詳しい人とか手伝い出来る人が一緒に行けば、野宿の人でも生活保護は断られないっていう、新しいスタンダードは 出来たかなって思ってるんですね。

路上に居続けて闘うこと

私は隅田川医療相談会の現場で、そういう生活保護の申請の手伝いをしに役所に一緒に行ったりとか、体が悪い人と一緒に病院に行ったりとかを主にやってた んですが、何でテントに住んでそこで一緒に生活して行政と闘うみたいなことを始めたかというと、さっきも言ったように生活保護は本来だったら生存権を担保 する制度ですから、誰でも困ってる人だったら受けられるものでなければいけないのに、とってもそうはなっていないし。たとえ生活保護申請してそれが通った ところで、受給してる人がずいぶん暮らし辛いっていう状況がありますよね。いろんなバッシングとかにもあいますし、今の竪川の現場もまさにそうなんですけ れども、野宿している時にあったつながりというのが断たれてしまって、急に老け込んじゃったりとか。場合によってはもう孤独死みたいなことになってたりと か、たくさんの人の相談にのってきたので、そんなことも少なくなかったんです。
そういうふうなことを考えると……生活保護を受けてもそんなに幸せな状況ではない。かといってじゃあ生活保護をやめてちゃんと仕事に就こうと思っても、 今の雇用の冷込みをみると、本当に目を覆うような状況がずっと続いていて。もうそれに対して福祉政策って本当にひどいんですよね。じゃあこの人達をどうす るのって。「仕事しろしろ」って言うけれど、その仕事がどこにあるのっていう状況で。結局それは企業任せになると思うんですけれども。でも、企業や資本家 がやることっていうのは、まあせいぜい雇用のパイを増やすことを口実に、非正規雇用とか不安定雇用を認めろみたいな、そういうことだと思うんですよね。
だから、こうどんどん社会は悪い方に悪い方にいってしまった時に、路上にいて闘うことの重要性って今すごく大切になってきてるんじゃないかなと思うんで すよ。20年もそこに暮らしていて、ほったらかしにされてきた人が、今さら生活保護なんか受けられるかっていうような、そういうまあ心意気というか気概み たいなものももちろんありますし。かといってもう本当にしんどいから生活保護を申請して医療につながってというようなことも全然否定しないし。そういった お手伝いを今もしています。
申請してもどうなるものでもないんだとしたら、もうそこに居座ってそこで生きることを追求するっていうのは、決してない選択じゃないと思うんですよね。 そこにはだって仲間がいて、ちゃんと仕事がある。Aさんだってちゃんと労働はしてる労働者ですから。あそこの竪川にいるみんなは本当に働き者です。そこに 仲間がいて仕事があるのに、なんでそれを捨てて生活保護にいかなければいけないのかっていう思いはどこかにあります。どこにも行き場がない人が、せめてそ こに居る権利というのは絶対に認められなければいけないし。それはおそらくヨーロッパなんかでは認められてるようなケースもたくさんあるんじゃないです か。そこらへんを僕ももっと勉強していきたいなあと思っています。
ですから、僕の運動のスタイルとしては、路上にいることはもう生存権の危機なんだからなにがなんでも生活保護につなげなきゃっていうものではなくなって きていて。これからも、どんどん仕事を失って生活保護もどんどんケタオチになっていく。そういう中で路上に居続けることを主張する意味というものを、今ま さに竪川の闘いというのが体現してるんじゃないかと思うんですね。ですからぜひ、その場所を、あそこがやられちゃう前に、みんなに見ておいて欲しい。決し て最後まであきらめない。けれど代執行はもうこのままだと確実にされちゃうんですね。その前にぜひ、みんなの話を聞いて欲しいなあと思います。
今、竪川では、Aさんが言いましたけれども、朝8時に寄り合いがあって、寄り合いが終わったら今日は見張りが誰とか、食事の当番が誰とかを決めます。そ れで、12時頃に昼飯を食べて、4時から4時半くらいに食事の準備を始めて。それから、ご飯を食べ、まあ食べ終わったら寄り合いを、夜の寄り合いをやると いう感じです。みんなで話し合って、支援者も野宿当事者も分け隔てなく意見を出しあってやっています。ですから9時から5時の間だったら、何かしらそこに はみなさんが見付けられるものがありますし、誰か話相手になる人もいますので、ぜひみなさん足を運んでください。

竪川の現場から――Aさんの話

司会 それでは質問などがありましたら、またそれでちょっと話を展開していきたいと思います。竪川のことだけに限らずに、映画の内容についてでも、あと現在の山谷の状況とか、そういうことでも構いません。今関係している方も来ていらっしゃいますので。はい。
B 自己紹介からしますと、三多摩で、立川で野宿者の支援活動をやってるBといいます。私は主に野宿者の人達を生活保護につなげたりと か、レストハウス、サンキューハウスというのを立ち上げてまして。そこでいろいろと支援活動をやっている者です。映画の「やられてらやりかえせ」の感想な んですけども、ものすごい労務支配の中、敵がよくわかるわけですね。相手がピンハネする手配師のヤクザだったり、また警察官、機動隊も闘う労働者に対して 弾圧する。そういった中で粘り強く労働者が闘っていくっていうね。今日深く思ったのは、在日朝鮮人や被差別部落の人達が歴史的な流れの中で、何でそういう ふうに下層につかざるをえないのか、そういった状況が作られてきたのか。そこに自分なんかはものすごくひかれるっていうか、興味をもちました。現在はって いうと、杭迫さんが言われたように日雇い労働者の求人も少なくなってる。山谷でもものすごく少なくなってる。80年、90年通じて、バブルの崩壊から始 まった流れの中で建築土木、ゼネコンもそうだけども、どんどん縮小されて求人が減り、アブレていく人達が増えていった。で、今の状況ですね。どういうこと が竪川でおこなわれているか。野宿をしている人達がどういう生活をしているか。当事者のAさんが来られているようですから言ってもらえますか。
A ウチの竪川の仲間、大体5人、6人くらいがアルミ缶と新聞集めで生計をたててます。あとは山谷での日雇いでどうにか、その日その日 を……。その中で代執行、これで二度目ですね。今年の2月にやられて。で、来月に入れば3枚目の通知が必ず来ます。オレが思うには、11月の半ばにはもう 代執行の予定じゃないかと。今このビラ配りましたね。11月の7日にデモをやりますから、ぜひ応援に来てください。その後どうなるかは来月になってみない とわかんないです。今は様子見です。もうみんなすごく疲れてるから、明日はゆっくり休もうってことで。明日の午前中はゆっくりしましょうっていうことを いってます。今は、それくらいかな。来週になったらウチらも考えることで。以上ですね。
B 竪川ではヤクザと対立しているっていうことは?
杭迫 対峙しているのは、江東区ですよね。
B 江東区、行政が差別をあおっているっていう。例えば、今日の映画の山谷ではマンモスポリだとか警察官が山谷の労働者をものすごく差別 的に扱う。そして、多くの商店もそういうふうに差別的に扱うじゃないですか、労働者を。竪川の行政も同じようなことをしてるんじゃないか。寝泊りしてい る、野宿している人に対して、人として認めてない。ようするに不法占拠をしている、どうしようもない人達なんだっていうふうに区民に対して告知していま す。で、そのあおりを受けて、少年達が夜な夜な襲撃をしたり、嫌がらせ、いたずらをしたりする。大人がやるような構図を子供がやるような構造が起きてい る。
A オレらが住んでいるところの反対側の学校、中学校があるんだけど、オレの目の前で5、6人がテントに火をワアーと投げてくるわけ。当 たる寸前ですよ、本当に。人権問題にするべえって言って、役所に行ってみんな声を合わせましたよ。それで、学校の校長と教育のあれに謝らせましたよ。それ が今の現状。
司会 Aさん、ありがとうございました。それから、杭迫さんの方からもう一言。

現地に行けない者のいろいろな闘い方

杭迫 中学生などの襲撃問題は、まさに警察や区の職員が当事者にやっていることを真似してるようなところがあって、これすごく問題です。 あと地域の人にどう受けとめられるかっていうと、必ずしも歓迎はされていないんだなあっていうのは思います。そういうのが子供達の襲撃にもつながるし。何 が辛いかっていうと、大体の人があんまり良く思っていないんですね。敏感なのは区議なんですよね。区議は、例えば人権を大事にするっていつも言ってる政党 でも、誰でも生きる権利があって、野宿を余儀なくされてる人にもちゃんと住む権利があるということを、そこで絶対に言わない。そこで投票する人達が野宿者 のことをよく思ってないから、当然その人達に受けのいいことを言うんですね。だから、陳情とか、訴えて何かを変えるっていう、そういう政治的なことは本当 に出来ないなあって感じますね。
C 映画のことなんですけど、最後のシーン、ちょっとわからなかったんですけど。手配師の人に謝らせたりしてる。あれは何でそうなったんですか。
「山谷」上映委員 一番最後の「ほら謝れ」みたいにやったやつね。あれは手配師なんだけどもヤクザですね。義人党というヤクザ。映画の中で出てきた西戸 組とは違うんですが。「賭場のなんとかだろう」みたいな会話があったと思うんですけども、完全なヤクザです。見えてないけれども耳が片っぽないですね。指 も切ってこっちもないですね。そういうヤクザがこの映画の中に何人か出てきてますが、そこで手配師を束ねてそこから更にピンハネして組織を作り始めたとい う。彼はその一人なんです。ですから、「オマエわかってるだろう」とありましたが、山谷の労働者はみんな顔を知ってますから。そいつだっていうのがわかっ てますから、「じゃあ謝れ」っていうふうになってたわけですね。
D すいません。その行政代執行が迫ってるってことなんですけども。今、Aさんや杭迫さんが現地にぜひ一度見に来てくださいって言われた んですけど。実際に行政代執行が迫ってきて、当日たぶん平日とかに来ると思うんです。で、その占拠闘争というか、オキュペイションしている人達が闘うって いう実力闘争もあると思うんです。その時の現地での行政の警備員や警察との闘い方、そのレベル、ハードルですね。なんて言うんだろうな、参加の仕方という か支援というか、いろいろな闘い方法があるんでしょうか。
杭迫 例えば、区に抗議のファックスとか電話をじゃんじゃんやるっていう。あとは、いつでもそうなんですけども、物資とかカンパはすごく助かりますよね。
A 小さなテントでも、一人でも入れるようなテントがあったら、それでいらないものがあったら山谷争議団に送ってください。すごく竪川では役にたちますから。よろしくお願いします。
杭迫 とにかく大事なのは情報発信。僕もツイッターとフェイスブックをやってます。影響力のある人が一言ツイートしてくれるだけで、もの すごいたくさんの人が来てくれる。今日のこの上映会も、たぶんそういうものを見て来てくれた人もいるんじゃないのかと思うんです。そういったことも本当に 力になります。あと現場で、例えば、今まさにそこでやられてるっていう時に、どうしていいかわかんないっていう人もいると思うんです。誰も見てないところ でやられるっていうのは本当にもう何と言うか、無力感を感じるところもあるので、せめて、そのやられるところを見てるだけでもいいです。こいつらはこうい うことをやるんだっていうのを刻んでいただけたら、それだけでもすごく大切なことなんじゃないかと思います。

篠田昌已と南條直子――「星空音楽会」と「山谷への回廊」

司会 そうですね、確かにそれは大きい。見てるだけでも、彼らはその弾圧の仕方を、たとえ少しかもしれませんが変えるかもしれません。それでは、他にありませんでしたら宣伝を二つ。
杭迫 今日の映画の音楽を手がけていた篠田昌已さん、サックス奏者です。この方は本当に早く1992年ですか、44歳で亡くなってるんで すねえ。で、その人を偲んで、篠田さんが組んでいたバンドの名前のコンポステラを店の名前にしたのが綾瀬にあるんですね。綾瀬から歩いて10分くらいなん ですけれども。ここで11月5日に篠田昌已さんと組んでいた、コンポステラというバンドで組んでいた関島さんというテューバの有名なプレーヤーがいらっ しゃいます。その関島岳郎さんが来てコンサートをやります。僕も絶対行こうと思ってるんですけれども。11月5日の7時にオープンで7時半から開演、 チャージ2,000円です。この「星空音楽会」はとてもいい、特別な夜になると思いますので、ぜひみなさん来てください。チラシも持って来ましたので、帰 りに持っていってください。それとあと、「週刊金曜日」の最新号に竪川のことを書きましたので、そんなに大きくじゃないですけれども、写真と文章が載って ますので、よかったら立ち読みしてください。よろしくお願いします。
織田 すいません、早く呑みたい方もいるかなと思うんですけれども、ひとつ宣伝をさせてください。この写真集(『山谷への回廊』)、5月 に出版をしたんです。実はこの「山谷」の映画が撮られているのと同時平行で、南條直子さんという女性のカメラマンがドヤに住んで、ずっとこの時期の山谷を 撮っていたんですね。本の中に山岡さんとかが写っていますけれど、ちょうどこの南條直子さんが撮っていて。で、その頃の写真を30年経って私がまとめたも のです。8月にイラクで山本美香さんが亡くなりましたが、一緒にやっていたジャパンプレスの佐藤さんという方、その人とちょうど同時期にアフガニスタンに 入っていた女性です。実は、彼女は1988年にアフガニスタンで地雷を踏んで、33歳で亡くなっています。その彼女が6年間撮っていた山谷の写真です。ほ とんど世には出ていないものなので、大変貴重な写真がこの中に入っています。今日の映画を観にこられた方なんかは、すごく興味をもって写真を見ていただけ るかなと思うので。出口のほうに何冊か置いてありますので、興味ある方はぜひ。この後の交流会でもいっぱい話しをしたいと思いますので、よろしくお願いし ます。2,500円です。写真集としては大変安いです、はい。
司会 今日はどうもありがとうございました。ただ、まだ時間があります。といいますのは、このあと打ち上げを用意してるんで。まだちょっと聞きたりない、話たりないなあという人で、時間のある方は隣の部屋にお移りください。お酒も用意してあります。
[2012/10/27 plan-B 責任編集・山谷制作上映委員会]

アフガンで夭折した ー 南條直子写真集『山谷への回廊』出版によせて

織田忍(『山谷への回廊』編・著者)

                            聞き手 池内文平

 池内 今日は雨の中をどうもありがとうございます。映画に関連して、いつもこのPlan-Bでは上映が終わった後にゲストをお招きして、 短い時間ですけども話をしていただくという時間を設けてます。今日はここにありますけれど、南條直子さんという人の写真や文章を収めた『山谷への回廊』と いう本に関してです。この本を作られた織田忍さんをお招きしています。
南條さんは1970年代の終わりから80年代にかけて、山谷の情景を写真に撮っています。その間、インドへ行ったりしていますが、1988年に取材中の アフガニスタンで地雷を踏んで亡くなってしまいます。ちょうどこの本に南條さんのクロニクルが載っているので、それに沿って簡単に南條直子さんのことを紹 介しておきましょう。
南條さんは1955年6月12日に岡山市で生まれています。73年に高校を中退して、77年に上京。79年から写真学校に通って、山谷での撮影を始めま す。79年から83年にかけてですから、山谷では越冬闘争が再開され、6・9闘争の会~山谷争議団~日雇全恊の結成と続き、同時に西戸組・皇誠会が襲って 来るといった、映画『山谷─やられたらやりかえせ』の背景となった時期ですね。
84年にインドへ行き、そこからパキスタンへ渡ってアフガニスタンでの戦争を肌で感じます。そして、翌85年にアフガニスタンへと向かう。87年には、 その成果を写真展で発表しますが、3回目のアフガニスタン取材のとき、88年10月1日、地雷を踏んで亡くなってしまいます。享年は33歳……。
それから、もう二十数年がたちますが、ようやくにしてと言いますか、こうして、この本のサブタイトル通り「写真家・南條直子の記憶」として一冊の本が上梓されました。──えっと、いつ出たんでしたっけ?
織田 出たのは5月です。
池内 5月ですか(奥付は2012年3月11日)。──紹介が遅れました。この本を編集され、また文章もお書きになっている織田忍さんです。

─南條直子の「手紙」─

織田 みなさん今晩は、ライターの織田と申します。もともと情報誌や児童書などの企画、執筆、編集をフリーでしていたのですが、今回4年 ほどの月日をかけ山谷の写真集を自費出版しました。こういう場で話す機会はあまりないので何から触れようか戸惑っているんですが、まずはこの本を出すまで の経緯を簡単に。
10年以上前になりますが、当時勤めていた出版社で編集していた雑誌に南條さんを取り上げる機会があったんですね。ですから以前から彼女の存在は知って いました。ただその頃は「地雷を踏んで亡くなったカメラマン」という程度の認識しかなかったのですが、偶然久しぶりに「南條直子」の名前を目にする機会を 得て、何だか急に興味がわいたんです。彼女の死からちょうど20年目のことで、胸がざわつくような運命的なものを感じた。それで少しずつ調べていくうちに 彼女について書いている人が実は誰もいないことを知りました。私自身、ルポを一本書いてみたいという気持ちがあったので、では自分が……と取材を始めたの がそもそものきっかけです。南條さんの写真のお師匠さんは原発労働者を長く追い続けている樋口健二さんです。ですからまずは樋口さんにお話を伺いました。 その取材の折、「南條は山谷にずっと住んでたんだよ」ってことを教えていただいて。そこから“山谷”という街に足を踏み入れていくことになります。
とはいえ当初は南條さんと山谷の接点がつかめず、最初に来たのがここ「Plan-B」でした。正直、『山谷』の映画を観ても半分位わからない状態でした ね。観終わった後に池内さんをはじめ上映委員の方々から当時のお話を聞き、山谷との関わりを深めていったという感じです。
池内 ああ、そうでしたね。こっち側ではなく、客席に座って映画をご覧になってた。──それ以前は南條直子の写真というか、山谷や寄せ場の事はご存じなかった?
織田 詳しいことはほとんど知らなかったですね。
池内 それで、きっかけと言いますか、南條さんの写真とそれとまあ樋口健二さんにお会いになり、ここに映画を観に来る。何かそういう興味の持ち方っていうか、どういう興味の持ち方をされたんですか。
織田 彼女のご実家である岡山に初めて訪れた際、お母様から手紙を見せていただいたんです。分厚い辞書一冊分ほどある手紙の束で、それは 南條さんが家族に宛てたものでした。高校を中退して数年後、23歳で上京するわけですが、その頃から亡くなる直前までの手紙です。子どもの頃から文章を書 くのが得意だったということですが、そこに綴られている言葉を目にして私、やられたと思いました。何というか、暗闇のなか鈍器で殴られるような衝撃があり ましたね。心にずしりと重たいものが乗っかるような言葉……。写真集の中にも収録しましたが、その言葉にシンパシーを感じたんです。彼女が日々、世間から 受け取る「イヤな感覚」。たぶんそれはジェンダーの問題とか差別の問題とかそういうことが潜んでいるんだと思うんですが、その辺のことを独特な言い回しで 書き綴っている。強く思いましたよね、彼女が何を求めてカメラを手にしていたのか知りたいって。それで徐々にはまっていっていきました。

【本書からの引用──上映委】
人間対人間としての関係を形成しうるような写真、そのような写真を撮れるようになることこそ写真家として「モノ」になるということであると思います。
思想内容のない、人間的感性のこもらない、単なるカメラ好きの技術は所詮、カメラという機材の奴隷としての技術にすぎません。いくらうまくても、それはカメラが撮ったのであって、人間が撮ったものではないのです。

(南條直子 家族への手紙より)

池内 確かにあの南條さんの手紙、僕は全部読んだわけではないんですけど、この本にも収録されている手紙も、かなりストレートな感情をそ のまま出しています。しかも家族宛なんですね。友達とかね、そういうものじゃなくて家族にちゃんと「私はこういうふうに生きていきたいんだ」「これをやら ないともうダメになってしまうんだ」っていうような事を縷々書いてますよねえ。それが「写真」という、かなり直接的な表現に結びついていったと思うんです けれども。それに織田さんが共振したと言いますか、のめり込んだ。それはどういう感覚だったのでしょうか?
また、南條直子のそういう心情と、もうひとつ山谷/寄せ場という彼女が対象とした現場っていうものに対して、南條直子をひとつのステップにして織田さんはアプローチしてきたと思うんですけども、その辺はどんな感じでしたか。

─彼女の見た山谷、そしていま─

織田 そうですね、もともと山谷に特別な思い入れがあったというわけではなく、スタートは純粋に南條直子という一人の女性を追っていまし た。その取材の過程で山谷にも進んでいくわけです。彼女はアフガニスタンの写真で有名になっていて、本も1冊(『戦士たちの貌』径書房/88年)──これ は彼女が亡くなった後に出てるものなんですけど、書いています。ただ取材する中で、実はこの人にとって山谷という場所は非常に大きなポジションを占めてい るんだなと分かってきた。というのも短い写真家人生のなかで、山谷に6年程住んでいる。今もそのアパートはマンションの隣にポツンと一軒、奇跡的に残され ていますが、南條さんがいた時代というのは今の山谷とは随分異なります。映画の中の風景そのまま、数千人の労働者たちが仕事を求め早朝から路上に立ち、活 気があった。悪質業者やヤクザとのぶつかり合い、鬱屈したエネルギーがうねっていた時代で。そんな男たちの街に20代の若い女性が一人で暮らし、さらに写 真を撮っていたというのは想像しがたいことですが、それでも彼女は山谷、寿、釜ヶ崎といった寄せ場に惹かれていった。彼女自身、高校を中退し世間からド ロップアウトしてしまった経験があり、世間が上へ上へとのびていくのに逆行するように下へ下へと底辺に向かっていく。まるで自らを追いこむような生き方を 選択していくわけです。そういった生き方を支えるのに、もしかしたらカメラが必要だったのかもしれませんね。ただし、カメラを向ける行為というのは実はと てもコワイことですよね。カメラを構える側は無意識にファインダーをのぞくのかもしれないけれど、レンズを向けられた側、被写体となる者にとっては攻撃的 で挑発的な行為だと思います。また、写真を撮る側は常に自分の立ち位置を問われます。さらに責任も。写真を見る人に対してと、写真を撮られる人に対して、 二つの責任がある。だからこそ南條さんは苦しんだと思うんです。写真で食っていくんだという堅牢な想いを抱く一方で、撮り切れないことへの落胆。割り切っ て「商品化」できる人だったら良かったのかもしれませんが、それができない不器用さがあった。自分の思い通りにいかず煩悶としてる様子が、家族へ宛てた手 紙や撮影された作品からうかがい知れます。
池内 カメラの比喩でいえば、南條直子というレンズを通した山谷ということになるんでしょうか。いま、南條さんが実際に見た山谷と現在の 山谷は違ってきているとおっしゃいましたね。この映画はその南條さんが見ていた山谷なんですよね。それが現在ではまた違ってきている。南條直子の撮った写 真、あるいはこの映画で撮られている情景、そして現在ということで見た場合、織田さん自身では、その辺はどう感じられますか?
織田 はい。たまにぶらっと山谷の街を歩くことがあるんですけど、現在の山谷は南條さんの写真や映画の風景とは大分違ってきていますね。 私が取材を始めた頃からみてもどんどん街の様子が変わってきています。マンションが建ち、ドヤ(簡易宿泊所)がバックパッカー向けの安宿になり、街全体が “フツーの街”になっている。あれだけいた労働者たちは一体、どこへ行ってしまったのだろう。そんな風に思うぐらい人がいないという印象がありますね。商 店街はシャッターが降りている店が多いですし、どこかひっそりとしている。早朝5時前に街の様子を見るため(泪橋のある)通りの方にも行った事がありま す。何人かが車に乗り込み仕事に行くという情景を目にしましたが、習慣的に道路に集まっているという程度で人の姿はまばらでした。
確かに昔のような活気は消えつつありますが、山谷という街自体に興味を覚えたのは、人と人との関係性なんですね。街自体が人を丸ごと受け止めるみたいな 雰囲気がある。当たり前ですが人間は人と人の、その網の目の中でみんな生きてると思います。山谷はそういった人とのつながり、最後のネットワークが存在す る場所だと思っていて。今はそれが分断されつつあるわけですが、でもまだわずかに山谷っていう場所には残っている。その部分に魅力を感じます。特に映画に あるような街の雰囲気っていうのは今の若い人が見たら、ちょっと羨ましいくらい濃い人間関係ですよね。南條さんのいた山谷時代について知れば知るほど、人 との距離感が近くて濃いなあと思いますね。
池内 確かにねえ。過去は問わない、つまり現在だけの付き合いなんだけれども、それで1対1になれる。いわゆる過去の実績とか肩書きと か、そういうものとは全く無縁に現在の1人と1人の付き合いが何千通りも出来るわけですから、それは常に更新され、緊張を孕んだものになるでしょう。また 労働者の多くは、家族なり郷里なりのコミュニティーを一旦離れているので、それへの郷愁もあるかもしれない。逆に言えば、そういう単身者の男性だけだった からこそ、今のように人がいなくなったとも言えるでしょう。つまり横浜寿町あるいは大阪釜ヶ崎では、家族持ちの日雇い達がたくさんいて、そういうコミュニ ティーの作り方が出来ていた。ところが山谷は単身、男性のみの世界だったので、そういう意味ではコミニュケーションの仕方が単純になる。つまり仕事のこと に一元化されてしまう。たとえば、仕事の発注のされ方が携帯電話とかそういう物が介入する事によってすぐにバラバラにされてしまう。今までは朝の寄せ場に 手配師が来て「今日はここ行ってくれ」「明日ここ行ってくれ」っていう、顔を見てやってたのが、携帯電話などを皆が持つようになって「じゃあ明日ここ ね」っていう時には、朝の寄せ場に集まる必要が全く無くなってしまうという。しかもそこに生活拠点がないならば、その場っていうのは容易にバラバラにされ てしまう──というのが現在だと思うんですけれども。
織田 そうですねえ。
池内 まあ単に携帯電話だけの問題でもありませんけれども。
織田 寄せ場自体が社会化するというか、人々があちこちに分散しその地が寄せ場化しているような気がします。ひとつのコミュニティが壊されていくような印象です。
池内 今の山谷のドヤは、外国、主にヨーロッパ・アメリカのバックパッカー向けのゲストハウスみたいになってるのが多くあるみたいです。 僕らはこないだ韓国の劇団と一緒に芝居をやったんですけど、韓国の役者たちには山谷のドヤに泊まってもらいました。まあそんな感じになってます。それはド ヤ街のドヤ主達が生き延びる方法だったんだろうけれども、確実にそこに人はいるわけなんですよね。山谷の労働者達の平均年令は幾つかわかんないですけど、 彼らは山谷やその周辺にいて生活している。しかしドヤに泊まれない。ドヤ主から見れば泊まる人間がいないからゲストハウスにしちゃうんだけども、実際はた くさん泊まるべき人間はいる。その人達は別の所に分散したり、あるいは路上で寝たり公園で寝たり駅で寝たりという事が現状だと思うんですよね。いっぽう、 さっきの携帯電話の話ではありませんが、仕事の手配が拡散して小さな寄せ場、小さな寄り場が全国にいっぱい出来てきたっていうのが現状ではないかと僕は思 うんですけども。

─奪われていく、人としての尊厳─

織田 本当にその通りで。映画に映っていた労働者らは、全盛期には1万人いたとも言われています。じゃあここにいた人達はどこに行ったん だろうって考えてしまう。もちろん亡くなった方も多くいるし、今回の写真集に写ってる方でも亡くなってる方が本当に多くてやり切れませんが、90年代から ドヤにすら暮らす事ができず、日雇い労働者として働いていた人々が野宿のほうに流れていったという現実があります。それぞれが「個」になりバラバラにな る。それでも生きるために別の地にコミュニティを作りますよね。でもまたそれが権力によって分散させられていってしまう。新宿西口の段ボールハウスや、最 近では渋谷なんかもそうですし、それが現状だと思います。そう考えると結局、問題の根っこは何も変わっていない。差別の構造はそのままだし、むしろ事態は ひどくなっているような気がします。
今日の昼間、竪川という場所に──亀戸の駅から5分位にある“五の橋”という場所に──行ってきました。そこで野宿している方たちは、早朝からアルミ缶 集めの仕事をし、仲間と助けあいながら凛とした生活をしているわけですが、今どんどん行き場を奪われているんですね。山谷からもスカイツリーがきれいに見 えますが、その建設に際し「街の浄化」目的で野宿している人たちを排除していく。それまで放置していたのに、邪魔だからさあどいてって。生活の場を、人と して尊厳を持ち生きていく権利みたいなものもどんどん奪われている。そう考えるとこの映画の時代なんかは、まだ良かったのかなあと思えてくる。螺旋状にど んどん息詰まっている感じがしますよね。
池内 そうですねえ。日雇い労働者の仕事っていうのは、山谷の場合は建設現場が多いと思うんですけど、いずれにせよ労働集約的な現場です よね。ある期間内にある程度の人数が必要となるといった。今の原子力発電所内の下請け仕事もそうですね。これは増えることはあってもまず減ることはない。 つまりそれだけの人は必要で、また現実に人はいるんです。それが見えなくなってきている。
山谷のドヤから締め出された人たちが都内の駅や公園で生活したり、寄せ場を経由しない人たちの野宿も増えているにもかかわらず、それが環境美化の名目で さらに排除されたり、あるいは囲い込まれたりして、生存権はおろか存在そのものが掻き消されたりしています。また、さっき言った携帯電話での手配など、就 労窓口の変化もあると思います。それに加えて派遣法ですね。ヤクザの利権が規制緩和されて、広く浅く寄せ場が拡散してきたように思えます。バラバラにされ た個人の身体の中に寄せ場は移動してきたと言えるかもしれない。殊に若い人たちにとっては「寄せ場」とははなからそういうものであるかもしれませんね。
そこでどうでしょう。今回の取材などで若い人たちと付き合って、何かそういう話などをしたことはありますか?
織田 今回の取材に際してはいわゆる“活動家”と呼ばれてた方達が多かったので、なかなか若い方と付き合うという機会は少なかったんです が、山谷の炊き出しなどを中心に活動している方たちと写真集を通して新しい交流ができましたね。80年代の寄せ場というのは、対立の構造がはっきりしてい ました。まだ仕事そのものがありましたからね。しかし今は仕事そのものがない。そして敵がどこにいるのか分からない。排除の流れは一層強まっていると思い ますし、そういったことにとても敏感な若者たちもまた増えているような気がします。まだ出版して1カ月半ですが、置いてもらっている本屋さんやショップの 方とお話をすると、「若い人のほうがむしろ興味を持ってくれますよ」と。写真を見てびっくりするようなんですね「え、こんな時代があったの」って。しかも まだ20年そこそこの間でこれだけ街の様子が変遷していることに興味をしめしてくれているようです。

─時代を超えた「対話」─

池内 じゃ、写真の話をしましょう。南條直子の写真を見てどんな感じでしたか。南條さんの寄せ場の写真を最初ご覧になった時に、どうお考えになりましたか?
織田 そうですねえ、私は正直、うらやましいなあと思いました。だってこれだけ怒りを怒りとして表出できる時代があったのか、と思ったの で。「俺たちだってやるときゃやるんだ!」そんな表情してるじゃないですか、南條さんの写真に写っている労働者の顔って。今の日本のどこにこんな風景があ るかなあと思います。逆に言えば、今の日本の中ではこういう写真はもう撮れないでしょうね。撮れないからジャーナリズムに関わる仕事をしている方は海外に 行かれるのかなあと。
怒りって、否定的なイメージがあるかもしれませんが、人が人として生きていくのに重要な感情のひとつだと思うんです。それを素直に出し切れる場所がある というのは、実はすごいことなんじゃないかと。今は怒りを出す場所もない。みんな自分の内に込め、その澱がどんどん溜まっていく。そのうち腐っちゃいます よね。怒りは時に生きるエネルギーになります。無気力、無関心は、怒ることすらできずに諦めてしまった人たちが自己防衛のために抱く感情のような気がして なりません。だからこの写真を見て、私たちは理不尽なことや、不当なことがあったらもっと怒っていいんだって。たとえば原発によって故郷を奪われた人たち も、自分たちを押しつぶそうとする力に対してもっと怒っていいんだと思うんです。
池内 南條さんはもう亡くなっているので、その後のことは想像で語るしかないんですが、──アフガンに行って、悩みながらもう1回山谷に 戻る。それでアフガンの本を作って、またアフガン行く。それで、もう1回帰ってきたらまた山谷なり寄せ場に足を向けたとぼくは思うんですよね。そういう一 つの目線(めせん)といいますか、自分の中での一つの「つながり」というようなものですね。文章も、さっき言いましたけども家族に対する手紙の中でスト レートに自分の感情をちゃんと書く、それで表現としてもストレートなものを選んでいく。で、興味があったらアフガニスタンまで飛んで行くという一つのパッ ションと言いますか、情熱と言うかそういうものを持っていると、やっぱり一つの表現というのは力を持つという事ですよね。一般的にいわれる技巧の問題では 全く無くて、一つの表現の仕方、あるいは表現に向かう姿勢といいますか。そういう意味で、まあ月並みな言い方ですが、僕は南條直子っていうのは一つの作品 みたいな、それ自体が一つの時代の作品みたいな感じがしているんですけども。──時間もあまりないので、最後に一言どうぞ。
織田 南條直子がひとつの時代の作品という言葉。それに近いものは感じますね。彼女はもっと世間に周知されていい人物だと思っています。 生きていたら間違いなく日本のジャーナリズムを背負うひとりになったと思いますし、物書きとしての才能を生かしていたかもしれない。地雷を踏んで……とい う部分だけがクローズアップされがちですが、やはり彼女の遺した仕事をしっかり評価したいと思っています。実は彼女の山谷写真というのは、当時あまり評価 されていなかったんですね。技術力、技巧的な問題ですよね。
もともと器用な人ではなかったし、周囲からは“写真になっていない”といわれていたようです。しかし映画もそうですが、写真もまた生きものなんだなと思 います。時間の経過とともに、南條さんの写真は見事に化けたと思いますね。記録としてももちろん貴重ですし、見る側が自分の立ち位置や生き方そのものを問 われる。そういう念とか、情が込められた力のある写真だなと思います。
今回あえて自費出版という選択に踏み切ったのは、売れる売れないは度外視。心から作りたいものを形にしたかったし、本当に興味を持った方の手に渡ればい いなと思っていたからです。それが思いのほかいろいろな世代の方たちから反響があり、嬉しい悲鳴を上げています。南條さんの撮影した山谷の写真と、二十年 以上の月日を経て私が見つめた南條直子考。それは時代を超えた山谷を介した「対話」であると感じています。恐らくこういった作品は珍しいのかなあと。興味 を持たれた方はぜひ、開いて頂けたら嬉しいなと思います。
池内 どうもありがとう。何かご質問がありましたら、この場でもよろしいですし、隣に同じ位のスペースがありまして。いつもこの場が終 わった後には、まあお酒とかお茶とか用意してありますので、織田さんや僕ら上映委に対する、質問とかお話とかをしてますので、もしお時間のある方はお残り 下さい。では、この場はお開きにします。どうもありがとうございました。
織田 ありがとうございました。
【2012年7月7日 plan-B】

*その後、本書は増刷されました。

ウォール街を占拠せよ

―オキュパイ運動について私の見てきた二、三のこと
小田原 琳 
(大学非常勤講師)

小田原です。どうぞよろしくお願いいたします。今、ご紹介いただきましたように、私はもともとはイタリアの歴史を研究しています。それが、去年の10月 に偶然が重なってニューヨークに一週間程行く機会を得ました。その主たる目的は、オキュパイ・ウォールストリート(OWS)を見て来ることでした。
OWSの経緯のなかで、2011年10月というのはごく初期にあたります。その後、占拠運動は非常に広がっていきましたし、またニューヨークの占拠運動 そのものもずいぶん姿が変わってきたということもあって、私が自分の目で見たことは本当にごく一部です。今のウォールストリートや全米の占拠運動の状況の 大きい転換点を目撃したとか、そういうことはありません。ですから今日は、私たちが去年の三月に震災を経験して、そのあと皆さんの中にもデモなどに行かれ ている方がいらっしゃると思いますが、主として原発の問題に関してこの社会が大きく動いている、そういう状況を踏まえたうえで、占拠運動とはどういうもの なのかを、私なりの観点からお話ししたいと思います。

OWS以前

まず、OWSを私たちがどのように見たか、ということを振り返ってみますと、2011年は本当に世界が動いていた時でした。2010年の終わりくらいか ら、いわゆる「アラブの春」や、今も続いているギリシャやスペインなどの欧州の経済危機と緊縮財政をめぐって大規模な抗議運動が起こっていた。そういうも のを見ていた時に、私たちは震災を体験したわけです。自分たち自身も、何か根底から大きく変えられるような、そういう経験をした。そして、2011年4月 に高円寺で1万5000人が集まる「原発やめろデモ」が行われたのを皮切りに、9月には明治公園で6万人集会がありました。ちょうどその頃、ウォールスト リートの占拠がはじまりました。私たち自身が、何かを抗議する群衆のなかに身を置くという経験をしながらこのウォールストリートの占拠を見たということ は、それ以前とは、そんな世界を見ていなかった時とは全然違う見方をしたと思います。少なくとも私はそうでした。私はイタリアが専門ですから、以前はアメ リカにあまり興味がありませんでした。「悪の帝国」みたいなイメージしか持っていなかった。でもそこに住んでいる人々が、「私たちは99パーセントだ」と いうあの有名なスローガンを叫んで動きだしている。これはどういうことなんだろう。そう思いながらウォールストリートに行きました。

経過

OWSが占拠していたズコッティ公園は、マンハッタンの南端にあります。もっと南には、グラウンド・ゼロがあって、そことウォールストリートの間にあるのがズコッティ公園で、そういう意味ではすごく象徴的な場所です。「オキュパイ・ウォールストリート」(http://occupywallst.org/) という公式サイトがあるので、そこで見られる写真を見ながらご説明します。これが占拠しているズコッティ公園というところです。これは昼間で(写真1)、 夜になるとこんな感じにテントを張って寝ていました(写真2)。占拠運動が始まったのが2011年9月17日と言われています。それ以前に、夏頃から、ど ういうふうに占拠したらいいかという会議があったそうです。ニューヨークに行った時に、占拠運動に最初から中心的にかかわってこられた何人かの方とお話し する機会があってうかがったのですが、夏ぐらいから、どういう戦術でいくかとか、運動の中で人々の関係をどういうふうに作っていくかということが、本当に 激しく議論されたということです。最初は、従来型の、例えば伝統的な労働組合など、もともと運動体を持っているような団体が中心になって、そこの人たちを 動員するような形で占拠をやろうと考えていたらしいです。ただ、それではおもしろくないというか、そういうやり方じゃないほうがいいんじゃないかと思う人 たちが、そこからはずれてきて、毎日夜7時にジェネラル・アセンブリー(集会)をやりはじめるようになったということです。それが8月頃です。そして9月 になって、こういうふうに実際に占拠するようになりました。

zuccotipark1 写真1:昼間のズコッティ公園

zuccotipark 写真2:夜のズコッティ公園

写真のように、夜になるとみんなテントを張って寝ています。昼間はたたまれています。私が行ったのは10月の20日前後でしたが、ちょうどこんな感じで した。だんだん寒くなってきて雨も降ってきていましたが、それでも300から400人くらいは毎晩いたと思います。昼間は1,000から2,000人、お 休みの日だと増えるという感じでした。そのように、みんながずっとここにいるではなくて、仕事をして、夜にまたここに来るという人も多かったです。そんな 形で進んでいました。
このズコッティ公園の占拠は、11月15日に大規模な強制排除があって終わってしまいます。現在は、とにかくニューヨークは寒いということもあって、こ こに泊まっている人はいません。日中集まってきて、いろいろな集会をしたり、ジェネラル・アセンブリーをしたりして、夜は帰るというような感じになってい ます。
OWSとズコッティ公園は占拠運動の中心だというふうに見られるようになって、メディアもたくさん来るようになりましたが、現在は、運動は全米各地に広 がっています。最初はズコッティ公園からニューヨークの各地区に広がり、その後、全米に瞬く間に広がっていって、今では2,000くらいあると聞いていま す。いろいろな地域に、いろいろな形で広がっていったわけですが、そうなっていくと、いろいろ課題が出てきました。
有名な「99パーセント」というスローガンがありますけれども、実際に見に行ってすごく印象的だったのは、みんな個々バラバラなことを主張していて、か といってその訴えを是が非でも解決して、何かを勝ちとらなきゃいけないという感じではないんです。それが、この運動の弱さだと、去年の終わり頃にはアメリ カでも日本のメディアでも言われていましたよね。具体的な獲得目標がないということが弱さだと。実際、全米で厳しい弾圧が続いています。例えば、これは 10月に、ブルックリンブリッジで700人が逮捕された時の写真です(写真3)。マンハッタンからブルックリンに渡る橋を行進している時に、逮捕されたも のです。その他にも、これは有名な写真なので皆さんもご覧なったことがあるかもしれませんが、座り込みをしている学生に対して警官がこの赤いスプレー、 ペッパースプレー(唐辛子のスプレー)を、顔色一つ変えずにかけている写真です(写真4)。まったく抵抗していないのに。うしろにいるメディア関係の人た ちも、さすがに非常に驚いた顔をして見ていますね。これはかなり衝撃的な事件でしたが、このように弾圧もどんどん厳しくなっています。しかしそれにもかか わらず、どんどん運動も全米に広がっていっています。これはどういうことなのか。本当に「弱い運動」なのでしょうか?

brooklynbridge 写真3:ブルックリンブリッジでの弾圧

pepperspray 写真4:ペッパースプレーをかける警官

 

だれの運動か

各地に運動が広がるにつれて地域ごとの課題が出てくるので、その取り組みが具体化しているところもありました。この具体的な取り組みについては、また後 でお話ししますが、そこからもわかるように、本当にいろいろな人たちが占拠運動には参加しています。ただ、OWSに関していえば、最初の核になっていた人 たちのなかには、古くから労働運動などをやっている人たちとともに、アナキストのグループがいたと言われています。アナキストといわれてもどういうものな のか、私たちにはあまりイメージがありませんが、かんたんに言えば、既存の制度やさまざまな組織によらない形で、人間と人間の合意にもとづく自由な社会を つくっていこうとする人たちと言えばいいかもしれません。そういう人たちから、従来型とは違う、ジェネラル・アセンブリーというやり方が出てきたそうで す。とはいえ、中心になっているグループがあるわけでもなくて、本当に雑多な人たちが集まってやっているのですが、しかし運動のなかで守らなきゃいけない こととして掲げていることが二つあります。一つは直接民主主義ということ、もう一つは非暴力ということです。これは先ほどのサイトにもはっきりと書かれて います。ただ、直接民主主義と言ったって、それをどうやって実践するんだという話が出てくるわけですよね。それがジェネラル・アセンブリーのやり方や、公 園のなかの共同体づくりになっていきます。公園のなかには、無料のキッチンがあって、寄付された食べ物が無料で配布されます。そのほか図書館や、これも寄 付された衣類を無料でもらえるようなコーナーなどがつくられていました。今は占拠が終わってしまったのでなくなってしまいましたが。そういう、無償でいろ いろなものを交換できたり助け合ったりできるような、理想に近い共同体がつくられていきました。

直接民主主義

これは、ジェネラル・アセンブリーの映像です(「ウォール街占拠2011」http://www.youtube.com/watch?v=INtHFqv5Y7M&feature=youtu.be)。 一人が話したことをみんなで繰り返しています。ニューヨークでは、公園など公共の場所で拡声器を使うことができません。ですから、ジェネラル・アセンブ リーなど、その公園にいる、数百から千人くらいの人が一つの会議をするような時に、会話を伝達する手段がないんですね。それで編み出されたのが、この、 ヒューマンマイクというものです。一人が発言をする。そうしたら、その周りにいるみんなが同じ言葉を発言します。そうやって声を大きくしてみんなに届かせ る。これは、みんなに届かせると同時に、その言葉そのものを共有するという効果があります。これは誰が発言してもかまいません。発言したい人がまず「マイ クチェック」と言うと、周りのみんなが必ず答えるという形でやっています。そういうふうにして、直接、人と人が顔を合わせ討議をする場を作っていく。そう いう方法もいろいろ考えていく。
写真がないのですが、いろいろな種類の「ハンドサイン」というのがあって、今の意見に賛成だとか反対だとか、ちょっと待ってとか、そういうことも全部手 のサインで示せるようにして、数百人という規模でも直接討議できるような環境を作っていく。そういう努力をしています。拡声器を使える地域では拡声器を 使ってジェネラル・アセンブリーを行っていますが、でも言葉を繰り返す、そしてその言葉や言いたいことを共有するというやり方は、各地の占拠運動の中で広 く用いられているようです。それが彼らの直接民主主義を支える一つのやり方になっているということです。彼らは、そのことにはすごく自信を持っていまし た。これは自分たちが編み出した、直接民主主義のための非常にいい手法だと。

〈暴力〉

もうひとつのモットーは「非暴力」です。あえてこう掲げるのは、裏返せば、こうした集合的な運動ですので、暴力という問題が必ず出てくるからとも言えるでしょう。ですから、OWSをとりまく〈暴力〉の問題について、お話ししたいと思います。
第一に注意しなければならないことは、写真でお見せしましたように、警察から暴力をふるわれるということです。私が行った頃は、公園でお となしく寝ている分には、警察が介入することはありませんでした。ただ、占拠運動というのは、公共の場所を占拠する以外に、毎日のように様々な問題につい てデモをします。例えば「今日は金融資本主義の象徴である、非常にあくどいメガバンクのまわりをデモしよう」というような感じでデモをします。そうやって 公園から出ていくと、すごく厳しい弾圧を受けます。多分、この運動では、全米で延べで万を越えるような人びとが逮捕されていると思います。そういう警察の 暴力というものがあることを、まずきちんと認識しなければなりません。弾圧の際には、どんなにこちらが非暴力を掲げていても、日本でもそうですが、タコ殴 りにされてしまいます。さらに、それ以前にすでに非常に多くの人びとが、「我々は99パーセントだ」という表現にも表れているように、仕事を失ったり、家 を失ったりして、資本主義そのものによって傷つけられています。しかし占拠運動に参加している、あるいは占拠運動にシンパシーを持っている人たちが暴力に 傷つけられているということを、メディアが語ることはありません。メディアに出てくるのは、デモ隊がどういうことを、どんな乱暴なことをしたかという話ば かりです。
その中で、特にデモや集会などで、その暴力部隊みたいに言われるのが「ブラック・ブロック」と呼ばれるグループです。これは、何かイデオロギー的に共通 性がある特定の人たちのグループというのではなくて、そういう一群を、戦術的にあえてデモや集会の中につくっています。多くの場合フードのついた黒い服を 着て、黒いスカーフなどで顔を覆ったりしているので、ブラック・ブロックと呼ばれています。なぜそういうグループがあえてつくられるのか、その戦略的な意 味はなにか。彼らが実際に何をするかというと、人に対する攻撃はしません。物を壊すことはあります。つまり資本主義的な物質を壊すということを通じて、資 本主義に対する抗議を表明する。それと、先ほどお話ししたように、警察の暴力が激しいので、場合によってはそうした人的な暴力にも対抗できるのだというこ とを、姿によって示しているという意味があります。実際には圧倒的な武力の差がありますから、ほとんど抵抗はできません。黒い服を着て目立たせているとい うことからも、ブラック・ブロックが象徴的な意味でつくられていることがわかります。しかし、見た目が恐いということもあって、警察からも狙い撃ちにされ るし、また運動の中からも「お前らのようなのがいるから、デモに対する弾圧が厳しくなるんだ」というような言い方が出てきてしまいます。ブラック・ブロッ クは「占拠運動の癌」だ、占拠運動がこれ以上大きな広がりを持つ、あるいは成功するためには彼らのような者がいるのは問題だという批判が運動の中から出て きてしまう(クリス・ヘッジス、https://www.commondreams.org/view/2012/02/06-3)。
もちろん、そうした批判に対して、同じように運動の中から反論が出ます。そもそも最も大きな暴力は何か。運動に対して外からしかけられる暴力ではない か。そのことを無視して暴力批判をするのはおかしいということ。また、「自分たちの運動の中にああいうのがいるのは問題だ、だからああいうのは排除しな きゃいけない」というふうに言ってしまうと、それは結局、今の社会でやっていることと同じことになる。つまり、何かを排除しなければならないという言説そのものが、運動の中に排除という暴力を呼び込んでしまうんだという反論です(デイヴィッド・グレーバー、http://nplusonemag.com/concerning-the-violent-peace-police)。 これは暴力についての、あるいは社会における排除についての、とても本質的な批判だと思います。それが今、運動の中で交わされています。ブラック・ブロッ クを批判しているのも、占拠運動に参加したり、好意的に評価したりしている人たちではあるのですが、そういう人たちですら、警察の暴力は問わず、運動参加 者の暴力だけをことさらに取り上げるマスコミの「〈アクティヴィストの暴力〉という神話」(レベッカ・ソルニット、
http://www.tomdispatch.com/post/175506/tomgram%3A_rebecca_solnit%2C_why_the_media_loves_the_violence_of_protesters_and_not_of_banks/)に毒されてしまっているのです。
もうひとつ、OWSと〈暴力〉について、ぜひお話ししたいことがあります。それは女性や性的少数者、あるいはホームレスなど、社会的マイノリティに対す る暴力の問題です。これは警察権力などとは関わりなく、運動の内部に出てきてしまう問題です。そうした問題が起こった時に、どう対処するか、どう解決して いくか。それを直接民主主義の中でなんとか道を模索しているということも、非常に興味深いところでした。私たち自身にも何か参考になるところがあるのでは ないかとも思いました。
私はニューヨークに行く前に、日本の反原発運動の中でいくつかのデモに参加していました。その中で、いろいろな人と話しをしたり、いろいろな反原発の表 現を見ていて、個人的には運動の中のジェンダーの問題がすごく気になっていました。このことは今日のテーマとは関わりがありませんから詳しくはお話ししま せんが、ふだんから疑問に思っているような性差の問題やジェンダー・バイアスなどが、反原発運動の中でも繰り返されている側面があるな、ということです。 ですから、占拠運動の中ではこうした問題はどうなっているのかなと思いながら見に行っていました。ただ、実際には私が行った短い間では、どういう問題があ るのかはあまり聞けなかったし、具体的に目にすることもありませんでした。でも、帰ってきて二週間くらいしてからでしょうか、聞くことがありました。それ は、あのズコッティ公園でレイプ事件があったということです。写真でご覧になったように狭い公園で、そこにいっぱい人がいる。しかも、ニューヨークだけ じゃなくて全米から参加者が来ていますから、たいていの人が顔見知りではない。でも、すごく雰囲気はいいんです。私のような見物客が突然行って話しかけて も、どういういきさつでここに来ているのかとか、自分たちの主張はこういうものだとか、とてもフレンドリーに話してくれます。しかし、そういう場所で、レ イプ事件が起こってしまった。
これは被害者がいることなので、もちろん被害者がどういう解決を望むかということがいちばん大事です。例えばその被害者が、加害者を警察に訴えることを 望めばそうする。ただ、自分たちのコミュニティ、ズコッティ公園の中のコミュニティを、問題が起こったときもきちんと自分たちの力で維持するという意味で は、警察権力に訴えることが全てではないわけです。被害者の中にも、そういうふうにはしたくない言う人もいる。これは、一般的に性的な暴行の被害にあった 人が公にしないで欲しいというのとはまた違ったことだと思います。そうではなくて、ここが何か新しいものを生み出す空間であるならば、自分たちの力でそれ を解決しなければならないと考えたということだと思います。
ではそういう時にどうするかということで、いろいろな形が編み出されています。女性や、性的な被害を受けてしまう危険のある人が安全に眠れるようなス ペースをつくったり、話し合いの場を持ったり。加害者が話し合いに応じない時は、非暴力的な形で加害者に対してどういうふうにしたら、それを繰り返させな いか、その方法を考えたり。そういうことを話し合いながらつくりあげていくわけです。これは本当に厳しいことだと思います。自分がもしそういう立場、被害 者であったり加害者であったりしたら、あるいは身近の、自分たちが大切だと思っている空間でそういうことが起こったら、それにどう対処するかということに きちんと向き合うのは非常に厳しいことだと思うんです(小山エミ、http://news.livedoor.com/article/detail/6023090/
ひとつVTRを見ていただきます(「オキュパイ・ウォールストリートの女たち」http://www.youtube.com/watch?v=tYTHxjIDggE)。これは主に女性が、占拠運動の中でも出てくる抑圧に対抗する方法をどうやって具体化するかという取り組みを撮ったものですが、このような取り組みは今も続いています。
こういうところにも表れているように、占拠運動ではコミュニティというものに対する意識が非常に高い。これは特にズコッティ公園が小さい場所なので、そ ういう傾向があったのかもしれません。でも、地域コミュニティという意味で言えば、今、占拠運動は全米に広がっていっています。そして、その地域コミュニ ティの中でどういうふうに運動をやっていくのかという問題が出てきています。先ほど各地域でその地域固有の課題に取り組むようになっていると言いました が、例えばニューヨークの中では、ブルックリンやハーレムという地区は貧しい人が多かったり、あるいは有色人種が多かったりしますので、ウォールストリー トとは違う、そうした固有の問題が出てくるわけです。
最初に流したVTR(「ウォール街占拠2011」)の中では、人種の問題が出てきます。運動の中で、どうしても白人の発言力が大きいというような問題は あります。それをどういうふうに解決していくか。それも時間はかかるけれど、話し合いながらやり方を模索しています。外の社会にある問題が、この占拠運動 にも現れているということなのですが、それをどういうふうに克服していくかということにも真剣に取り組んでいます。それもまた、自分たちのコミュニティを どうやってつくっていくかという強い問題意識に基づいているのだと思います。この場合、コミュニティというのは、いわゆる地域や、公園という空間的な意味 だけではなくて、人と人との関係のつくりかたの総体を指していて、それを問い直すことにもつながってきています。

〈コミュニティ〉と〈コモンズ〉

このような、空間を共有したり、物理的に何かを共有するということを超えた〈コミュニティ〉を、〈コモンズ〉と呼ぶことがあります。占拠運動では、食事 や図書や衣類、かんたんな医療など、物理的な共有が見られますが、それはもう一歩進めて考えると、怒りや悲しみ、喜び、あるいは病いなど、そういうような ものも共有することなのではないか、ということです。病いや苦しみや死という、今までは個人的な領域とされてきたものも共有していく必要があるのではない か、そういう課題に向き合っていこうとしているのではないかと思えます。これは政治的なスローガンになるような事柄ではありませんから、これが今後の占拠 運動の何かの獲得目標みたいになることはないと思いますが、彼らが目指しているもの、つくりだそうとしているものとはそういう〈コモンズ〉だという主張が あり(シルヴィア・フェデリッチ「これは再生産をめぐる闘争だ」『女たちの21世紀』第39号、2012年3月)、私もそうではないかと思います。
外の社会、自分たちが今、現実に苦しめられている社会を変えるには、単に「99パーセント」というスローガンを掲げるだけではなく、何がどこまで既存の 構造の中に取り込まれているのか、あるいは自分たちの内面にどこまでその社会が入り込んでいるかということを問う必要があります。もしかしたら単に経済的 な問題だけではなく、身体や感情まで、奪われてしまっているかもしれません。互いに議論することによって問題を解決するというのは、いろいろな難しい感情 が出てくるだろうと思いますが、それも話すことによって共有しようとすること、それを通じて新しい社会の在り方を模索してゆく。そういう方向に占拠運動は 向かって行きつつあるのではないかと思います。
そういうふうに占拠運動のことを考えた時に、実は私たちはそういう経験をもうしてるんじゃないかと、ふと思いました。震災直後の三月から四月頃など、私 たちはとても不安な状態に置かれていました。でも、同時に友情や、あるいは見知らぬ人とのあいだに突然生まれた関係などのなかに、新しいものを見いだした ような瞬間があったような気がします。震災の当日、東京では多くの人が帰宅困難に陥りました。その時に、お店を一晩中開けていてくれて、入れてくれたり、 全く知らない人と隣り合って助け合ったり、暖かい食べ物や飲み物、カイロなどをわたしてくれたり。そういうことを多くの人が経験する空間がありました。あ れが、〈コモンズ〉というものを一部形にしたような経験だったんじゃないだろうかと思っています。
アメリカの作家、レベッカ・ソルニットは、このような経験のことを「災害ユートピア」と言っています。同名の著書があります(レベッカ・ソルニット『災 害ユートピア』亜紀書房、2010年)。災害の直後というのは、みんなパニックになると思われていますが、実際には誰一人パニックにならない。本当に自然 にお互い助け合ってしまう。「恐いよね」「不安だよね」という感覚を自然に共有していく。そのような、いわゆる〈コミュニティ〉というようなしっかりした 基盤や関係はないけれども、しかし共同体的な感覚が生まれる。それを論じた本です。占拠運動が向かいつつある、あるいは実践しながらつくりだそうとしてい る、物理的なものと同時に感情的な経験も共有するような共同体――それは場合によっては、気持ちが悪い、居心地が悪いということもあるかもしれませんが ――、これまでとはちがった意味での共同体というものが、実際にどういうものなのかを想像するのに好適な本だと思いますので、機会があればお手に取ってみ てください。
(2012・3・3 planB)
*写真はすべて コピーライトhttp://occupywallst.org/

「非在」の言葉を明るみへ――

大場ひろみ(ちんどん屋・『チンドン-聞き書きちんどん屋物語』著者)

ちんどん屋の誕生大場

じゃあさっそく、始めたいと思います。さっさと終わってね、楽しいお酒を飲みたいと思うんで。まあチラシにも書きましたけども、この 映画と何か関連付けられるかなというところですと、社会の下層としてちんどん屋っていうのは、あんまり言いたくない言葉ですが「バカ、カバ、ちんどん屋」 なんていう差別的な言葉もございまして、非常に顧みられないものとして存在していまして。そういう者の声を届けようという試みとして「山谷」の映画と非常 に通ずるところがあるように思って、今日はやらせていただきます。
で、この『チンドン―聞き書きちんどん屋物語』という本の中で、ちんどん屋というものを私が仮に定義付けしました。街頭で鳴り物入りで宣伝するという行 為はずっと昔からありましたので、ある程度線引をしたいと思いまして。さっき叩きました、あれをチンドン太鼓と言います。このチンドン太鼓を使って宣伝す るという事を始めた人達をちんどん屋さんとしました。私たちは今まだやってますけれども、このちんどん屋さんについて歴史的にちょっと話をしたいと思いま す。
街頭でこのチンドン太鼓を使う前も、宣伝する、広告をするという人達はたくさんいました。それは明治時代に楽隊という形でやられていました。楽隊という のは、大人数の、まあマーチングバンドみたいなのを想像していただければいいんですけど。西洋式の鳴物みたいのがガァーと。その人達がガンガンやって、一 人が口上を語れる人がいて。
あたし達は普段チンドンで宣伝する時に「ハイ、なになに屋さんがただ今開店いたしましたあ」って言って「どうぞどうぞお入り下さいませ」みたいな事をワ アワア言うんですけども、そういう事をやる。楽隊と、そのワアワア言う、口上を付ける人がいて。それからあと、たくさん幟を持ったりして宣伝して回るんで すね。明治時代に派手に規模を大きくしてやるっていうのが流行りまして。それは、「福助足袋」とか「天狗煙草」とかっていう、そういう大メーカーが幟が何 十人、楽隊が何十人、口上掛ける者が何人という形で、もう何十人の大規模の人を雇って。全国キャラバンさせるんですね。物凄い経費掛けるわけです。まあ当 時メディアというものはないですから。テレビもラジオも何にもない時代、それが大きなメディアとして宣伝というのを引き受けてたわけです。とってもバブ リーなんですね、今から考えると。ただ、そんな事をしているのは明治の末で終わります。なぜかって言うと、もう景気が悪くなる。あとうるさいとか、当局が 規制をかけてきます、どんどん。それと見てる人も飽きる。ていうんでこういう広告がなくなっていきます。まあ景気の落ち込みっていうのが非常に重要な問題 なんですが。
大正時代になりますと、今度はギュッと凝縮して4、5人しかいない楽隊とかね。こういうのは「ジンタ」なんて呼ばれてね。ちょっと哀れっぽく言われたり する事あるんですが。それからあと「五人囃子」と言いまして、落語とか行かれる方ならご存じかと思うんですが「出囃子」と言いまして、咄家さんが出て来る 前に「テケテンテン」といろんな鳴物が鳴って出て来ます。その出囃子をやってる人達が陰の所にいるんです。今は二人位でやってるらしいですけどね。一応5 人の楽器。ええと大太鼓、それから締太鼓、それから鉦(かね)、三味線、笛。これで五人囃子っていうんですが。これがセットになって街頭を練り歩きます。
その時には「底抜け屋台」と言いまして、底がこう抜けてて、車は付いてるんですけど自分達でこう入って、これを引きずって歩くのね。何で屋台に入るかわ からない。今はちょっと想像がつかないんですが。それに入って鳴物を鳴らしながら、こう宣伝していくんですね。まあそういう省力化したものが生まれまし て。ようするに景気が悪いから、いっぱい人を雇えないので人数がドンドン少なくなっていきます。この五人囃子がさらに5人でも多い、もうちょっと安くした い。景気はドンドン悪くなっていくわけで、そういう要請のもとにこのチンドン太鼓が生まれるわけです。
このチンドン太鼓が生まれた瞬間を語っているちんどん屋さんがいるんですけども。小松家久三郎さんっていう麻布のちんどん屋さんですね。この方がある雑 誌の中でこんな事を言ってるんです。「六本木の商店で宣伝をやるために、笛、三味線、カネ、太鼓の芸人を……」ようするにさっき言った五人囃子ですね。こ れを「集めたがカネを叩くやつがやってこねェ。あっしは太鼓叩きなんですが、めんどうくせェ、カネもいっちょう引き受けやしょう……と太鼓の上にカネをく くりつけ、これがちんどん屋のはじまり」であるというふうに語っております。実際この方が本当に元祖かどうかはわかりません。勝手に言ってるし、そんな奴 はもういたのに、まあ俺が元祖だと言いたい人はどこでもいるもんですから。
それがこのチンドンという楽器の形になるわけですね。こういうふうに見せればわかるんですが、これが大太鼓、そして締太鼓、鉦。まあ和製ドラムですね。 ようするに五人囃子がこの形になる。そうするとあとは口上が切れればたった一人でできるんです。もうそれまで100人位で宣伝したものが、いつのまにか5 人、4人になりまして最後はこれ。そうすると、もうどんな商店でも雇えるわけです。一人分払えばいいんだから。身近な商店でドンドン宣伝できるようになり ますよね。あと寄席とかも安上がりの宣伝に使うようになります。最初のちんどん屋はチンドンだけを叩いて一人でやっておりました。これは五人囃子をさらに 省力化して究極のコンパクトな宣伝スタイルを通したという事ですね。
今は最低三人でやってます。さっきはチンドンとサックスの二人でやってみせましたけど、あともう一人ドラムっていう、ちょっと大きいマーチングドラムと 似たようなものを叩く人がいて、今は三人でやってますけども。最初のちんどん屋は一人です。これはクライアントさんにとっても安くすむし、頼まれる方だっ て一人でできるから手軽にどこへでも行けるし、安上がりに始められるし、非常に究極のアイデア商売なんです。これを発明したのは貧乏人です。貧乏人自身が 考えて作ったという事で、これは私は、非常に誇らしい事だなと思ってるんですね。大体こんな事をやるのは金持ちじゃありません。金持ちの人はこんな事は考 えません。

長屋こそがちんどん屋の揺りかご

さっき証言者として取り上げた小松家久三郎さん。この人は麻布に住んでおりました。いま麻布というと金持ちばかりが住んでる場所だと皆さん思いますよね え。さっきの記事の、彼がちんどん屋の元祖になったっていうのは六本木の辻です。そうすると、そんな所に貧乏人がいたのか、貧乏人がやるような店があった のか。まあ今では想像もつきませんが、その頃の麻布、六本木界隈は長屋や寄席が建ち並ぶ、もう貧乏人の町でした。そのあたりには小松家、大松家、かぶら家 などというちんどん屋さんがたくさん住んでおりまして。たとえば、かぶら家さんというちんどん屋さんがありました北日ヶ窪町という所は今の六本木ヒルズで す。六本木ヒルズができる前はですねえ、この写真、ちょっと見えるかなあ。小さくてわかりにくいんですけど、ホームページ(注:現在は閉鎖された模様)で こういうのを探したんですけど。この北日ヶ窪町にあった長屋です。長屋街。六本木ヒルズが建つちょっと前までこういうのが建ってました。つい最近まであっ たっていうのは驚きますよねえ。うちの旦那が大工やってまして、ヒルズに工事に行く事があるんですけど。そうするとね、六本木ヒルズのエレベーターから、 あのヒルズ族とは想像も及びもつかないような庶民的なお爺ちゃんやお婆ちゃんが自転車をよろよろと押しながら出てくるんだそうです。で、想像したんですけ ど、北日ヶ窪町のこの貧乏長屋に住んでた人達が、立ち退きを迫られてヒルズに住んじゃったんじゃないかなと。
このような長屋っていうのはちんどん屋にとって大きい意味を持っております。これについていっぱい証言者がいます。私は文献で歴史を起こしてるわけじゃ なくて、ちんどん屋さんの話を聞いていく、いちいち証言をあげていくという事が大事で、うざったいけど、ちゃんとそれをやりたいと思ってるんです。
えーと、みどりや進さん。この方は戦前に世田谷区太子堂のあたりに住んでいたちんどん屋さんです。世田谷区太子堂のその家には「ちんどん屋、役者、楽隊 屋とかが転がり込んでいたのよ。昔はのんきだよな、知り合いの知り合いなんて人が平気で転がりこんできて御飯食べてるんだよ。東京に初めから生まれて住ん でる人なんかいないの。田舎から出て東京へ来たらうまいことできんだろうと思って来た奴が、みんなうまくできなくて長屋に住んで、そういういろんな人たち がちんどん屋のとこに転がり込んでたの。そんな立派な所にちんどん屋が住んでるわけねえんだよ。また、そういう長屋に豆腐屋さんもほうき屋さんも大工さん もいて、いろんな職業の人たちが、みんなちんどん屋やったんだよ。だから昔は、『ほうき屋のよっさん』とかっていう風に、屋号よりも職業を頭に入れて、そ れぞれの職業で名前を呼び合ってた。」っていう事なんですけど。これが非常に面白い、長屋の説明だと思うんですよね。
このような東京の長屋は、まあ江戸時代の特に後半から、田舎から食い詰めて出て来る多くの流民を吸収して、形成されていました。ちなみに江戸というの は、奉行所の支配がありますね、北町奉行所、南町奉行所。その下は三人総年寄っていう、まあ町人なんですが偉い役目をした総年寄っていうのがいて。その次 に町ごとに町年寄っていうのがいます。それから家持ちの町人というのがピラミッド型に自治組織を作って、それで自治的に運営されておりました。家持ちの町 人っていうのは自治運営に参加できますけど、借家、つまりさっき言った長屋住まいの人間や奉公人、住み込みで働く人間というのは町の運営に参加できませ ん。だけど、家持ちの町人は様々なお金を払わなきゃいけないんですね。あちこちの普請、インフラ整備、それから冠婚葬祭の付け届け、そういうものを全て、 税金ではないんですけど代わりに払う義務があります。奉公人や借家人はこの義務から免れております。
この長屋に住むにも実は人別帳によって管理されたり、出入りの時に、引っ越しの時に証明書みたいなのがいるんですね。ところが、江戸の中期から大勢の人 間、労働力が必要になってきたのでだんだん支配をゆるくして適当に人が入れるようにしちゃうんです。口入れ屋っていうのがいて、口入れ屋っていうのは職業 斡旋所みたいなとこなんですけど。その職業斡旋所の人が身元引受人みたいになって。そうすると、どこの誰とも知らない馬の骨でも長屋に住んでもかまわない という事になるんですね。一応なんか鑑札っていうか、そういう抜け道がいっぱいできましたんで、江戸っていうのはどんどんどんどん大量な流民を抱え込ん で、そういう人達が主体となっていきます。
それから、江戸っていうのは大坂なんかと比べると非常によくわかるんですけど、非人―願人坊主、乞胸とかっていう芸人系の方々は居住地が町人の長屋街に 隣接したり、混在して住んでいました。そうすると、流民、非人とかのこういうわけのわからない人々がごちゃごちゃ蠢いていて、江戸という大きな街を形成し ていて、それで江戸を支える大きなエネルギーになったわけですね。管理する役人の側もそれを許容せざるをえないって状況だった。なぜわざわざこれを言うか というと、他の江戸以外の京都、大坂とかも全部街の作りが違います。ただこれほど緩い、いろんな流民を抱え込んだとこは江戸だけなんで。ようするに、ちん どん屋、まあ東京のちんどん屋ですけど、そういうものが生まれる土壌があるっていうのは、江戸時代からそういう特徴があるからだって事を一応押さえておき たいと思ってるんですけど。だから、みどりやさんが言う、知らない人が平気で上がり込んで御飯を食べているような、昭和初期の長屋まで一貫してそういうな んかごちゃごちゃっとした、誰でもいられるっていう事が続いてるわけですね。
97歳で大往生しました貴楽家富士子さんっていう方。ちんどん屋界では、もうゴッドマザーみたいな方で、女のちんどん屋の先駆けでして、そういった世界 を築いた方です。で、この人が自分の暮らしてる長屋の事を言ってるんです。台東区の金杉あたり、そこの長屋に住んでたんです。つい最近までその長屋があっ たんですけども、とうとう建て壊されて、今工事中になってるらしいんですけど、残念です。
「なにしろ、あらゆる人間が来るんだ。泥棒でも、乞食でも、何でも来い。ほんと、泥棒が捕まるとオレんとこに来るの。刑事が三人付いてきて『ずいぶん、お 世話になったから』って挨拶に来る。よそ行って泥棒しても、ウチからは何一つ盗らない。「御飯もおかずもあるから、食べるだけ食べろ」と言って、乞食、泥 棒に留守番さしとくの。ちんどんから帰ってくると、掃除して茶碗洗ってキチッとしてある」。泥棒や乞食に、すいませんね、乞食とか泥棒とかガンガン言っ て。そういう人達に留守番をさせて、彼らはそういう長屋の共同性の中では盗みは働かないんです。もっと別な所から盗んできますからね。まあそんな所が長屋 で、長屋こそがちんどん屋を産む揺りかごのようなものでした。

ちんどん屋を兼業するいろいろな人たち

この長屋には金持ちのやらない仕事をやる人達がたくさん住んでおりました。詳しく言うと長いのでちょっと端折りますけど、そういう職業を羅列してる本が ありましてね。長屋に住んでいる人達の職業について1909年(明治42年)の『東京学』(石川天崖著・育成会)という本と、1929年(昭和4年)の本 と比較して、例をあげてるんですけど。この中で住んでる人達を比較すると、明治と昭和初期とでは全然そこに住んでいる方々の種別は変わりません。主にあげ ると大工、左官等の職人系。アサリ、納豆等の行商。それからおでんや飴売り、屑拾い、車力、芸人等。これが全て明治から昭和初期まで共通しております。
昭和になると、特徴的な事は肉体労働者、日雇い労働者が増えます。これは多分工事、普請の仕事が増えてくる、あと工場労働も増えてくるんですが、それ以 外に特徴は変わっておりません。しかもこれは、親方達が戦後、昭和30年代くらいまで長屋に住み続けるんですが、それまでほとんど変わりません。だからま あ江戸時代の、特に後期から昭和30年代まであんまり変化がなかったという事が、この長屋の特徴だと思われます。このようないろんな人達がいたということ ですね。それから、ちんどん屋はちんどん屋だけってわけじゃないんですね。みどりやさんが言うように豆腐屋だったりほうき屋だったり屑拾いだったりする人 が、ちんどん屋を兼業でやる事も多かったんです。だから他の職業をやりながら簡単にシフトできる、それくらい安直にみんなちんどん屋っていうものをやれ た。まあ元手も掛かりませんし、一人から始められますから。で、しかも面白い。こんないい職業ないですから、みんなすぐ始めました。
菊乃家さんっていう向島のちんどん屋さんがいるんですけども、その方の話をまとめて佐藤俊憲君って人がマップを作りました。その地図によりますと、豆腐 屋の手伝いをしていたとうふ家っていう屋号のちんどん屋さん、それからうさぎを飼ってるからうさぎ家っていう屋号のちんどん屋さんとか、そういうのがいっ ぱいでてきます。下駄屋だったから下駄政とか、さっきのほうき屋のよっちゃんと同じような人達がここにもたくさん出てきます。今言ったうさぎ家っていうの は、うさぎを飼うのはペットで飼うんじゃなくて、繁殖させて食用として売るために飼うんですね。これがすごい流行ったんです戦前。「綴り方教室」ってい う、菊乃家さんの家に近い長屋に住んでいた、戦前の小学生の作文を載せたとっても面白い本があるんですよ。そこに、うさぎをもらってきて、これを増やして 一匹20銭で売れるとかって親が話をしてるなんていうのが出てくるんですよ。この当時は、みんなお金がないんです。で、すぐお金になる事に目が無いんで す。だから、うさぎを飼う、飴を売る。この飴売るのもすぐ始められるし、売るのも簡単、相手は子供だし。ちんどん屋も簡単だから、飴屋とちんどん屋は兼業 する方が多いんですね。そうやってもう、てめえで算段して、なんか物を売ったりしてすぐ仕事にするんですね。どうやって生きていくかってくよくよ悩んでい る暇もないし、今みたいにアルバイトニュースがあるわけじゃないんで。
そういうわけで、うさぎを飼うというのも流行ったわけなんですね、長屋では。こんな話はあんまり学者や文学者は言わないので、ええ、私がわざわざ長々と 言いました。で、こんなのが昭和30年代終わりまで、ずうっと続いていきます。ただ、この仕事は本当に不安定なんで、今私達が親方って呼んで尊敬して、ま あ偉そうにしている方達も実はちんどん屋ばっかりやってたわけじゃなくて。30年代頃から現在までは、実はアルバイトばっかりしてるんです。おでん売った り、ダンボール屋さんに勤めたりとか、とにかくちょっとでも暇があると働いてるんですね。みんな怠け者ではなかったと思います。お酒や道楽にはとっても目 が無かったですけども、生きる事にみんなとにかく必死だったと思います。さっき言った菊乃家さんのマップはこの本に出てるんで、あとで見ていただきたいと 思います(『チンドン―聞き書きちんどん屋物語』p.363参照)。

昭和恐慌期の貧乏が生んだ3,000人のちんどん屋

その菊乃家さんのまわりの三軒先はみんなちんどん屋さん、その三軒先もちんどん屋っていうくらいちんどん屋だらけなんですね。こんなにちんどん屋がいっ ぱいいるなんていう事は、ちょっと今では考えられないですけども。あの当時メディアがないですから、一軒一軒の商店はみんなちんどん屋さんを頼んでたんで すね。昭和初期、中沢寅雄さんという楽士さんの書き残した文章から推定しますと、昭和7年から13年までがちんどん屋の全盛期となります。第一次ちんどん 屋全盛期と私は呼んでるんですけど。このちんどん屋が生まれて省力化された宣伝が育っていった過程は、当時の世相が反映されてます。なぜ、こんなに貧乏人 がわんわんわんわんやっているのか。詳しくは本を買って読んでもらいたいなあと。
あの、大正時代の政治状況、これが大きいんですね。政治、社会、経済の状況。実は今とすごく似てます。第一次大戦が終わりますと軍需景気が生まれまし て。戦争景気で経済が物凄いバブル状態になるんです。で、このバブルのあとに反動期が来ますね、当然。バブル時期にインフレでバァッと物価が上昇しますん で、そうすると元々金のない人間にとっては生活がしにくくなっていきます。それから1918年の大正7年から1922年、この時にシベリア出兵という、あ まり歴史の教科書で大きく書きたくないんでこそこそっと出てくる、非常にばかな政策がございまして。ロシアが赤化してろくでもない事をやっているから、連 合国のみんなと一緒に……そんなことを英、米に言われて。その時の口実はチェコの兵隊が捕らえられているから、それをなんとか救ってやろうというのが大義 名分なわけです。
どっかでありましたね。ほらイラク戦争で、自衛隊を派遣しようっていう。あの時も言いましたよね。戦争を起こす人はみんなその時に大義名分を言います が、あとから見ると嘘ばっかりです。で、同じなんですね。やっぱりイラク戦争の時に自衛隊よこせっていうのと。そのシベリア出兵の時には日本も戦争に参加 しにのこのこ行きました。そうしたら日本軍は調子に乗っちゃって、他の軍隊は全部撤退したのに、ずうっと4年間もシベリアに居続けて莫大な戦費を支出しま した。今で言うと、9兆円くらいか? 当時のお金で9億円を使って7万人も兵隊を送って。このことで経済はものすごい打撃を受けます。
1918年の大正7年に米騒動が起こります。シベリア出兵の前に米の買い占めが起こって、食えない人達が押し掛けて打ち壊しを行う騒ぎが起きます。この 後、バブル期の反動で企業が放漫経営をやりまして、その債権回収を急いで、銀行がそれを締め付けるっていう事で大正9年に経済恐慌がきます。今回のリーマ ンショックと、まあ原因は違うかもしれないけれど、様態は似てますね。そして、その後に大震災が起こるんです。地震きたのまで今とそっくりです。この時代 の事を知ると他人事じゃないっていうか、てめえらの足元がメラメラメラメラ燃えてるのが非常によくわかるんで、たまにはこういう歴史を勉強してみるのもい いと思うんですけど。
それで昭和の大恐慌になってちんどん屋が生まれるんですね。貧乏人は踏まれても蹴られても生きていかなければしょうがないですから、いろんな事を考えま す。小売店のいっぱいある時代でしたから、一軒一軒の店を宣伝するというちんどん屋がもう大繁殖いたします。いい商売ですからねえ。ええ。とにかく簡単に 始められる。需要がある。フォロワーが山ほど出て大繁殖して、なんと東京だけで3,000人というちんどん屋が生まれました。これはもう貧乏が生んだ、貧 乏人だけの好景気という状態になりまして。中沢寅雄さんの文章から、この時の話をしようかと思ったけど、長いのでやめておきます。
ただこの3,000人のちんどん屋に目を付けて利用しようとした政治家がいました。この中沢さんが1936年、昭和11年の事を書いてます。鳩山一郎っ ていう、鳩山兄弟のお爺さんです。あのお爺ちゃんは倉持忠助というテキヤの親分と組みまして、ちんどん屋の組合を作るからといって声を掛けます。ちんどん 屋もいっぱい集めて。東京の城北城南と、山の手中央の二つの地区に別れて、倉持と鳩山が立候補します。そして、ちんどん屋を一日50銭の手間で使いまし て、こうワーっと盛り上げて、それで自分達は当選するんです。この時に全国のテキヤが倉持忠助の所に集まりまして、応援なんかで酒飲んで暴れたなんて事が 新聞記事にもなってるくらいですね。
こうやって利用して自分達が当選した後は、すぐ組合はうっちゃらかしになりますんで、数か月も経たないうちにあっという間に組合はなくなりました。これ 以後、ちんどん屋の組合は一回も作られておりません。集団性に向かないっていうか、勝手なのか何なのか、なかなかそういう組合とかには、まあ向いてないん ですかねえ。いまだにそうやって集団で何かをする事が苦手な人達なんですけれども。
そして太平洋戦争に突入しますと、これだけ繁盛していたちんどん屋もとうとう仕事がなくなります。全員失職。兵役についた人もいます。それからあと内 職。もう貧乏ですから年がら年中、ちんどん屋の奥さん達は内職してんですけど。仮面舞踏会のマスクを作ってたんですって。それと鉄カブト。戦争中になると 兵士の被る鉄カブトを一生懸命内職で作ったりとか。あと勤労奉仕に駆り出されたり、出征する兵隊の見送りをしたり。ただ、仕事もなくなるし貧しいし、ちん どん屋さんはこの時代の事をあんまり言わないんです。ていうか、どうでもいいと思ってんですね。戦争で急に貧乏になったわけじゃなくて、ずうっと貧乏だっ たので戦争が別にこたえてないんですね。貧乏の質が変わっただけです。さっき言った昭和30年まで長屋暮らしが変わらないのと同じで、戦争というエポック メーキングが彼らの意識の中では薄かったんじゃないかなと思います。

戦後のどん底から、一気に全盛期へ

それで戦争が終わります。かなり下町の方は焼けちゃいましたが、それでも残ってる所あるんですね。さっき言った金杉の喜楽家富士子さんが住んでた家は焼 け残った所です。それから、去年亡くなった菊乃家さんのあたりも、今で言う向島の方なんですけど、一部が焼け残って。そういう焼け残った所にまた住むわけ です。みんなお金ないから、元の焼け残った長屋か、あるいはもう一回建てたぼろ家なんかに住むわけです。で、また元通りの暮らしを始めるわけですね。た だ、いきなりちんどん屋の仕事が復活するわけではないので、何かしらこうやっぱり始めるわけです。アルバイトニュースがない時代ですから、何をするかって いうと、何か物を売ろうと考えて、自分達で作るんですね。
どんな物を売ったのかと言いますとね、菊乃家さんっていう人が例をあげてるんですけど。缶拾い。ようするにゴミ拾いね。缶、鉄屑拾い。鰯売り。鰯を向島 から千葉の船橋まで歩いて行って買っきて売るんですが、鰯はすぐ腐っちゃうんですぐ一日でやめたそうです。それから棒飴売り。飴を仕入れてきて三倍の値段 を付けたんですが一本も売れませんでした。それからガラス拾い。焼け跡に落ちてるガラスを拾うんだけど、どれが役に立つガラスか素人目では全然わかんない ので、これも一日でやめ。こんな事を散々繰返して、やっと儲かったのはアサリ売り。アサリ売りは、大八車を引いて二、三時間かけて向島から浦安まで行って アサリを買って、それで二、三時間かけて帰ってくる。それをむき身にして売るんです。これは非常に売れたそうです。でも何か月か儲かったんですけども、こ れもアサリの値段が上がってきたのでやめ。
次はコークス売りね。工場の跡地に使い終わったコークスが落ちてるんですけど、そこからまだ使えるコークスを捜し出してきて、ようするに屑拾いみたいな んですけど、それをガラス工場かなんかに売る。その次はあんこ玉。紅梅焼きってこれは駄菓子です。あんこったって、あんこなんかないんですよ。偽物の変な あんこ。それにサッカリンみたいなのを入れて色付けただけの、何か得体の知れない物を売って。それでも甘い物がないもんですから、サッカリンだけ入れれば バンバン売れるんですね。それから紅梅焼き作り。そして親戚がやっていたのしいか屋に勤めて。そうやって好景気がやっと来るのが昭和25年、それまでず うっと食うや食わずで暮らしてました。例えば、コッペパンを買う話をするんですよ。ひとつ10円のコッペパンを一人が一食に二つ、家族一日食べられるには いくらいくらだと、それを稼ぐにはとか言うんですよ。それくらい貧乏だった。
このちんどん屋のどん底な状況が急に大躍進する時がやってきます。これは朝鮮戦争です。何でも景気が何か変わる時は戦争なんですね。この朝鮮戦争は昭和 25年、1950年。これが勃発して特需が生まれました。戦争景気です。日本から爆撃機が飛び立って、日本全国はアメリカの為の兵器工場になりました。戦 争がもたらす好景気が、瀕死の病人みたいだった何にもなかった経済を潤して、何も生産しない代理宣伝業のちんどん屋までが復活することになったんです。で も、これは喜んでいいのかどうか。金は入ってきましたけど、日本はまた朝鮮半島の生き血を吸って、しかも今度は敵だったアメリカのお供っていうか、子分に なってやった事ですから。まあ、当時のちんどん屋の親方はそんなことは考えなかったでしょうが。そして、この朝鮮戦争で特需を得たという事がアメリカへの 経済依存を決定的にして、自ら選ぶっていう自由を永続的に失ってしまった。もうなんていうか、非常に悲しいエポックメーキングだったと思うんですね。
また、この時から敗戦後初の高度成長期を迎えるんですが、日本人は喜んでたかもしれないけれど、朝鮮戦争で同胞が相食むような争いとなった二つに分断さ れてしまった国の人達にとっては、そんな能天気な時代ではなかったという事です。自分達のアイデンティティを問われて、同胞同士で闘わなければいけない。 経済活動を通じて争ったりしたわけですよ。詩人の金時鐘という、大阪の在日朝鮮人の方がいます。当時のことですが、同胞が兵器を作ってるわけですよ。弾 丸、タマですね。それが自分達の同胞を殺す弾になるんで、その工場を壊しに行くんですよ、機械とかを。同胞が同胞を、なんていうか、襲うというか、非常に 悲しい状況になるわけですね。
こういう状況で好景気を迎えた、金を得たって事は絶対に忘れちゃいけない事だと思います。最近ノスタルジックに、昭和30年代はいい時代だ、いい時代 だって語られる事があるんですが、それにはこういう背景があって、お金が入ったのはそういう裏の事情があるからなんだという事です。だから、私はこの時代 をいい時代だと言いたくないんですけれども。この後、この本でもいろいろ書いたんですけど、ちんどん屋が物凄い全盛期で、非常に面白い思いをします。この 朝鮮半島の戦争で得たお金もあって、まあとにかく、ちんどん屋さん達は面白い時代を迎えるんですね。

空き地、道端でチャンチャンバラバラ

  時代劇を、GHQが一時規制して、あんな封建的なものはやるなってなったんですけど、昭和25年になってこれが解禁になります。ちんどん屋さんは今はみん なカツラ被ってやってますが、だからカツラ被るのが普通だと思ってますけど、実は戦前はカツラなんか被ってなくて。こういうのが流行るのは、戦後の時代劇 全盛の……チャンバラ映画がすごい流行るんですよ。いろんなスターが生まれて。戦前からの片岡千恵蔵や市川右太衛門に加えて、中村錦之助とか大川橋蔵とか そういうスターがいっぱい生まれた。チャンチャンバラバラやるのが物凄い流行って。で、ちんどん屋がその劇映画の真似をして、同じ扮装をして出ていくんで すね。例えば、中村錦之助がやった役とそっくり同じ格好をして出てきて宣伝をする。そして道端でチャンバラをやる。これで大人気を博しました。この大人気 のおかげで、繁盛するんですが。で、その時に歌謡曲をたくさん演奏するようになります。戦前はさっきちょっとやった「竹雀」みたいなお囃子物の曲が多かっ たんですけども、戦後はもう歌謡曲が物凄い流行りますね。歌謡曲が流行るっていうのは、映画の主題歌や挿入歌で使われてるんですね。そういうものをちんど ん屋はコピーしていくんです。聞いて覚えてコピーして、それで演奏をする。そうすると、その曲がまたヒットする。まあヒット曲の後押しもちんどん屋はやっ てたわけなんですね。それでまあ、映画スターになりきって街頭でチャンバラをやって、扮装をして。あ、チャンバラなんていうのは、大体ほらこんな感じです ね。(同書p.305~353参照)はい、道端でこう、やってるわけ。
当時なんでこんな事をやってるかっていうと、広場があるんですね。この写真の手前の所に空き地があるじゃないですか。今こういう空き地ないんです。工事 する前の土管とかが置いてあって、ダダーっと空き地がある。そういう所でチャンバラやるの。あとこきたない長屋、東京のスラム街みたいな所ね。ドヤ街みた いな所の近くの長屋街。そこの前でチャンバラやってます。何で道端でこんな事ができるかといったら、江戸時代と同じように誰もいないというか、道路に車が 走ってないから。まだ車が走ってない状態の東京でしたから、こんなチャンバラごっこが道端でできるわけです。ちんどん屋の全盛期はだからこういう道路事情 と切り離せない関係なんですね。道端を歩いててもまだ商店はこんな感じですね(同書p.342~343参照)。橘通っていって、今もにぎやかな商店街なん ですけど。もうこんな感じで買い物客がワアワアいて。当然車は走ってません。それからあと、これは八百屋さんの前でやってる。その前もガラーンとしてて。
それから、こういうきれいな絵ビラがあります。(同書p.354~355参照)こういうのは昔の開店祝いで贈られるんですね。手描きできれいに描いた絵 で。まわりの商店の人が贈ってあげたんですね。なんか古色蒼然としてますけど、これは昭和28年ですね。これは昭和38年くらい。あまり変わらない。想像 つきますよね。これは長屋の住まいね。金杉のちんどん屋さんの住まいなんですけど(同書p.249下写真)。これが長屋の光景ですね。こんなふうに路地が あって、人間ばっかりワサワサしてて、車も入って来ません。狭い路地ですからね。こういう所があったからこそ、ちんどん屋さんがこういろいろチャンチャン バラバラやったりとか、楽しくできたわけですね。それで見ているのは、いがぐり頭のハナタレ小僧がいっぱいこうやっていて。こういうガキどものスターだっ たんですね。
でもこれ、喜んでるのは自分達なんです。やってるちんどん屋が一番楽しい。もうちんどん屋をやりたくてやりたくてしょうがなくて、ちんどん屋になってる 人がいるんですね。この間、亡くなった小鶴家さんっていうちんどん屋さんは、田舎の鶴岡から出てきてすぐに、ちんどん屋を道端で一目見て「こりゃあい い」って言って、その日に入門しちゃうんですね。その日のうちに、ちんどん屋さんを探してきてね。もう憧れだった。カツラ被って映画の真似をするのが。そ れくらい子供っぽい人達がいました。ようするに楽しいわけです。嫌でやってるんじゃないの。自分達はスターになったと思ってるんですよ。まわりの人達もそ ういう目で見てくれてたんですね。「バカ、カバ、ちんどん屋」という言葉のせいで、この職業を差別的な、かわいそうなもんだと思い込む人が多いんですけ ど、彼らは誇りを持ってやってました。本当に大好きだったんですね。その事はちょっと覚えていてもいいかなあと思うんですけど。
手間賃はと言いますと結構いいんです。当時の職人が600円くらいだったとすると、ちんどん屋が800円とか。職人よりいいって事はかなりいいって事で す。サラリーマンよりちょいいいくらい。それで毎日毎日仕事がありました。ひと月に30日仕事があるくらい忙しくて。そうすると、かなりになるわけなんで すよ。だったらいいじゃないですか。この仕事やりたいと思いますよね。それと正月は年始廻りでお得意さんのところを廻るとご祝儀をくれるんですね。それが 三が日どころじゃなくて7日間年始廻りをして。それでチャンチャンバラバラやったり踊りを踊ったりしてお金を貰う。
それから街でこうやってますと「カッコイイ」って女の子の追っ掛けとかいっぱいできるんですよね。家の前で待ってて、目当てのヤッちゃんとか、何ちゃん とかが出て来ると「キャー」って言ってずうっと追っ掛けまわすとか。家に電話をかけて「今日はヤッちゃんはどこでお仕事をしてますか」っていうような、そ ういうファンまでいたそうです。ちやほやされるし、それに酒なんか飲み放題というくらい出してくれるんですね。今はそんな事全然ないです。缶コーヒーの一 つも出しやしない。その頃は違うんですよ。もう煮しめだ、何だと出してくれて、お酒もガンガン飲んで。仕事の最中に倒れて、正体不明になっちゃうちんどん 屋さんが続出しました、はい。道端で寝ちゃって、おろしたての一張羅みたいな新撰組の羽織が帰りには真っ黒になって。ベロベロになって商店の人に担がれて 帰ってくるのね。「ちんどん屋さん、寝ちゃってたから」とか言われて。それでも通用するんですから、こんな仕事、楽しくてしょうがないじゃないですか。今 やってるとそんな事ない。こんな時代にやってみたかった、本当に。こういう事ができたのは道端がちんどん屋の舞台で、こういう人達の生活の場だったんです ね。車の通る道じゃない。今は車が占領してますけど、車の通る道じゃなかったからできるんですね。まあこれがちんどん屋の晴舞台。

前近代、それとも緩い近代性?

これは何度も言いますが、生活の質が江戸時代から戦争を経ても昭和30年代まで基本的に本質的に変化していなかったという事だと思うんですよ。彼らの生 活意識も長屋のまんまです。よく宵越しの銭は持たないなんて言いますけども、貯蓄をしないのが特徴なんですね。金を貯めるって意識がかけら程もない。何に 使っちゃうかというとバクチ、もう仕事終わると大体バクチやっちゃうんですね。で、稼いだ金はみんな取ったり取られたりして。だって仕事中もやっちゃうん だもの。何を見たって賭事の対象。道端に座って、仕事しないで、バクチはする。それから当然、酒は飲むでしょ。振るまい酒があるので酒はガンガン飲みま す。とにかく金は貯めない。その日暮らし。
貧乏人の研究をした人が、そういうのを非難するように書いてるんですけど。先ほども言いましたが明治42年の東京案内の本『東京学』。「彼らの貧しさの 原因の一つに浪費をあげ、その境遇、習慣の為に一時の情欲的快楽を甚だしく貪るという傾きに陥ったものであろう」とかって、病気みたいに書いてますけど、 そんなのは大きなお世話ですよね。人生を精一杯楽しく生きていたという事です。貯蓄なんかしなくて済むんだったら、そうやって生きていけばいいんですよ ね。長屋に知らない人達が上がり込んで、みんなで御飯食べあってるような緩い共同性。そして道路。大道の自由な活用が許された時代。こういうのは、西洋の 歴史の定義に無理やり当てはめると、近代、現代っていう歴史段階があるようにいってますけど、この親方達の生活を見ると、まだ前近代の状態だったんじゃな いかと思うんですよ。あるいは緩い近代性くらい。それがないまぜになったような状態でずうっといたんじゃないかなと思いました。
余談ですけど高校生の時に、ちょっと中東産油国の研究してまして。サウジアラビアの写真を見てたら、高層ビルがガーンと建ってるまわりでロバひいて物売 りやってるおじちゃんの写真があったんですよ。「へーすごいなあ」って。ビル建ってるのにまだロバで物売ってるのかって。考えてみたら、ちんどん屋とか、 今、私達がやってる高層ビルの前でチョンマゲ付けて宣伝してるのだって、ロバひいて売ってるおじさんと同じですよね。ロバひいてるおじさんがそんな中世み たいな暮らしずうっとやってる時、いきなりボーンとビルが建つとかね。石油の富とか金が流れこんでくると、いっぺんに時代や人間の生活をバアーンと切り裂 いて、一足飛びにこう中世から現代に歩まされちゃったみたいな状況だったんじゃないかなあと思って。うん、ようするに歴史は段階を踏まないんだなという事 を高校生の時に、ちょっとその写真を見て思った事があるんですけど。
日本においては、この後このような一足飛びの時代がやってくるんですね。朝鮮戦争でアメリカ依存というのが決定的になりましたけども、政治体制としては やっぱり60年安保。60年安保で、アメリカ軍がずうっと居続ける、駐留を認めるような条約を交わしてしまった。その時は自民党の岸内閣。この時はみんな 反対しました。100万人以上の人が国会を取り巻いて反対運動をしたんです。それほど反対したのに無理やり可決して条約決めてしまいました。これはもう取 り返しの付かない事をやったと思います。だってイラクからアメリカ軍は撤退するでしょう。でも日本にはずうっといるんですよ、米軍がそのまま駐留してんで すよ。これどういう事なんでしょうか。これをわざわざ自分達で受け入れちゃったんです。ずうっといて下さいって。そして核の傘なんていわれて。

1964年――そして、ちんどん屋の場がなくなっていった

それで、具体的に生活が変化するのは、この60年安保が政治的なエポックだとすれば、1964年の東京オリンピックのためにすごい経済計画が作られま す。オリンピックの為にいろんなものを作ろうという事で急激に生活が変化します。私は1964年生まれなんです。昭和39年生まれ。なんていう年に生まれ てしまったんだろうって、いつも感じるんですけども。開催が決定されたのが1959年。オリンピック事業の総額1兆円。今の1兆円どころじゃないですね。 10兆円、もっとかな。そのうちのオリンピックそのものの費用ではない関連事業費が全体の97パーセント、ほとんどです。それは何に使われたかっていいま すと、東京都内の道路。環7だとか、4号線とか。ああいうものを全部整備する道路整備。首都高速を作るお金。それから地下鉄をどんどん作って。この頃、地 下鉄の建設が一番進みました。そして東海道新幹線、この建設費が一番大きかったんです。これらが全部64年のオリンピックをめざして59年から着々と進め られました。そして64年にバアーと全部開通します。新幹線、東京―大阪間開通。東京に一般道、環状線とか青山、玉川通りが開通。それから首都高が1号線 から4号線まで開通しました。日比谷線、地下鉄の中目黒―北千住間が1964年、これをたった5年で完成させました。全てオリンピックの為なんですね。
道路がこれだけ作られたって事は車が売られるっていう事です。所得倍増計画というのが1960年に掲げられまして、それによって自動車は大増産。国が支 援する形で、もうどんどんどんどん車が作られました。60年から10年間で計画達成のはずが、その半分の年で達成したわけ。だから64年くらいにはもう車 が占領するような状態。昭和39年そして昭和40年と歩みますと、ちょうど30年代から40年代の境に、猛烈なモータリゼーションが進むっていう事です。 という事は、もうちんどん屋の大道がなくなっていくんですね。チャンチャンバラバラしていた大道はどんどんどんどん車に埋め尽くされていって、ちんどん屋 はやる場所がなくなっていきます。そして急激に廃れていくんですね。数を減らしていきます。
それから、ちんどん屋の減る理由の一つがあとテレビ。チャンバラ映画とかのコピーをして人気を博したって、さっき言いましたね。映画からテレビに皆さん の娯楽が移ります。テレビが爆発的に売れたのは今の天皇が結婚した年の1959年、昭和34年。そうしますとテレビというメディアが生まれるとCMってい うのができまして。CMがガァーと流れると、もう広告というものはマスメディアが担うものだという事に決定的になるんですね。道端で宣伝するなんていう事 は当然いらなくなってくるという事です。それと、お客さん、クライアントの問題ですね。スーパーマーケットが普及します。例えば「おしん」っていう、ほら NHKの泣かせるドラマ。あのモデルになったヤオハンっていうスーパーは1965年、1964年の前後にチェーン展開を始めます。それで、ちんどん屋が宣 伝した小売店とかマーケットとか市場、小売店が集まった複合体みたいな所、そういうのが大型店に追いやられる。町の商店街はさびれて、ちんどん屋は宣伝対 象も失っていきます。いってみれば、昭和30年代が、ちんどん屋という存在が時代にマッチしていたとすれば、その後のオリンピック開催をきっかけとした、 これは急激な近代化じゃないです、もう急激な「現代化」……これによってその前の、近代以前か緩い近代性みたいなのーんびりした存在を完全に過去へ葬り去 るっていう。まあこういう大きな断層が1964年、このあたりにあったと思うんですね。
なぜこういうふうに言うかというと、歴史の認識ってあるけれど、例えば戦争を大きく取り上げちゃうと、それで人間の生活が変わったって言いがちなんです が、そうではないんですよね。人々の、生活してる人間の目から見ると、大きな時代の変化のあらわれは、こういう生活からみれば実は戦争よりも64年なん じゃないか。自分の生まれた年でもあるので、そういう急激な現代化とともに歩んできてしまったんだなあと思うんですけど。
で、親方達を見てると凄い昔の人間だなあと思うんです。今、ちんどん屋をやっていっても全然あの人達みたいにはなれなくて。道端で寝てしまうとか、チャ ンバラごっこで本気で遊んだとか、子供が遊ぶように楽しんで、それを仕事にしたとか、そういう豪快な生き方ができないんで。それは彼らが前近代というか、 そういうところの人達なんだなあ、と。そこの断層というのは避けがたい、越えられないもんだなあって思います。……あら、もう10時。ちょっと長いって 言ってくださいよ。
司会 いつ介入しようかなと思ってたんだけど。1964年なんであと47年間くらいの話があるんですけれども。
大場 ちょっとマキを入れてくれればよかったのに。
司会 じゃあ、まとめにいきましょうか。
大場 はい、まとめ。東京の話だけですけれど、寄せ場に無理やり結びつけますと、この64年を境として出稼ぎ者、農村の破壊と出稼ぎ者が増 えてきます。そのせいで、寄せ場にそういう人達が流れ込んでいきます。だから64年とか、こういうエポックがあって寄せ場も形成されていったっていう事を ちょっと言っておきたいと思います。その辺は寄せ場学会の方がよくご存じだと思います。寄せ場学会のホームページになすびさんが書いた文章があるので、寄 せ場が大体この60年代にガァーと形成される歴史というのは、それを見ていただければいいと思います。どうも、今日はありがとうございます。
司会 サービス精神旺盛な話だったと思います。江戸中期くらいから駆け足で1960年代まできまして。あとの残りは隣の場に移しまして。まだ時間の都合が つく皆さん、大場さんも残ってくれると思います。飲み物も用意しておりますので、隣の場でご歓談ください。どうもありがとうございました。

[2011/11/5 planB]

山谷から震災・原発危機状況の福島へ

中村光男(日雇全協・山谷争議団)

仕事・住居・家族を失うこと――路上で死んでいった仲間への想い

中村 今晩は。これは被災地支援に行く時に、お金を集めるために作った最初のチラシなんで欲しい方は見て下さい。今、毎週日曜日に福島県 のいわき市に、いわゆる震災ボランティアみたいな形で行っております。最初に行ったのは4月2日です。当初はガソリンはない、電話、携帯はなかなか通じな いっていう状況の中で、被災地支援に行こうとしても行けない状況があったんですね。で、やっと4月に入ってからガソリンが手に入るっていう事で、ガソリン 何リットル積んだかなあ。見つかるとヤバイんですけども、毛布を被せてガソリンタンクを車の荷台に満載して、最初に仙台といわき市に行ってきました。
山谷、釜ヶ崎っていうのは、特にバブル崩壊っていうか93年位から仕事が全く途絶えて。この映画の中ではまだ元気な労働者が今はほとんど死んでます。ま あ99パーセント路上に出て、路上で死んでいかざるをえなかったっていうことが、この20年近くずうっと続いてるわけです。当時80年代、同じ労働者にも かかわらず、例えば元請けの労働者と一次下請けの労働者、二次下請け、三次下請け、四次下請けの労働者、末端の山谷労働者が同じ仕事をしてるのに賃金や労 働条件は全く違う。山谷地域という、ある意味、被差別空間の中に押し込められて、使い捨ての労働者として働かされていく。そういうものに対して、なんとか 山谷や釜ヶ崎の中で労働者と一緒に働きながら闘おうというふうには思ってきたんですね。ところが、90年代に入って全く仕事がなくなって、当時は本当に毎 日数百人規模でドヤ街、ドヤと言われている一泊いくらの宿舎から、バッグを片手に、みんな仲間はスポーツバッグ一つしか持ってないので、そこに作業着を詰 め込んで、ドヤからどんどんどんどん出てくるような状態でした。それで、僕らとしては、ともかく目の前の仲間の命を守らざるをえないっていう事で、80年 代の取り組みとはある意味、ガラっと変わるような形で取り組み始めたわけです。昨日まで日雇い労働者として働いてきた人間が、仕事がないっていう事で切り 捨てられて、路上で死んでいくしかないのかということで、いわゆる「反失業」とか失業に対する取り組みってのがこの10年、20年と続けてきました。
地震があった日、実は私は船橋にいました。普段だと車で45分位で帰って来れるんですけども、6時間かかりまして。その間、一番思ったのは山谷は大丈夫 だろうかという、そういう思いで帰って来たんです。仕事がなくなり、住む場所がなくなり、そして多くの家族をなくしたりする事がどんなに辛いことか、それ は路上で死んでいく仲間を通じてですね。それで、そういう時にみんなで命を支えていくっていうことが、本当にできるんだろうか。自分達としては10年、 20年やってきた取り組みの中で、どんな仲間であれ、どんな仕事をしてきた者であれ、生存を支えていく。「生存権」っていうのは、別に山谷、釜ヶ崎の労働 者だけの問題じゃなくて、全ての人間の問題だと。それこそが今問われてるっていう思いで、ともかく今「山谷圏ネットワーク」っていう形で、山谷に関わるい くつかのグループが緩やかな形のネットワークで支援活動をやっていこうというのが一つあったわけです。
もう一つ、実際4月行った時にはもう自衛隊と警察ばっかりなわけですよね。民間は全く行けない状態でした。で、そういうおクニ直轄で、上から人の命を支 えるなんてできるわけないと。アイツらが人の命について本当に真剣に考えてやったことあんのかという思いが、みんな「山谷圏」の連中は一方であって。やっ ぱり同じ境遇っていうか、寝場所も仕事も全て奪われた人々が、そこで力を合わして生き抜くような、そういう取り組みを考えていかないと、震災支援活動なん ていうのはできないでしょう。自分達のやってきたことをふまえればそういう思いが一つあったわけです。ただ、僕らは金もない、人もないんで、そのチラシに あるように当初はもういろんなところに行ったわけですね。でも、どこ行っても「社協ボランティアセンター」っていう仕組みの中で、全部役所主導なんです よ。私らみたいのが行ってもなかなか受け入れてくれない。ある意味、よそ者なわけですから、現地で知り合いがいて、受け入れてくれる団体がいて、そのつな がりの中で行かないとね。なかなか役所の仕組みの中に入り込まないとできないってのを、つくづく痛感しました。
それからやっぱり福島原発の事故ですね。まあ僕らとしては原発労働問題っていうのはほとんど取り組んでない。ここにある98年の実際に原発で働いた仲間 の聞き取りとか、そういうことを何度かはやってるんですけども。ある意味なんてのかな、クニの国策事業というか公共事業の一つみたいな、そういうとらえ方 があって。原子力があれほどの被害を及ぼす現実っていうことについて、僕ら自身もよくわかってなかったと思うんですね。当時言われてた、首都圏の電力が福 島原発によって供給されている。同時に原発のある地域は過疎地で仕事もなく、原発で働くしか地元で生きていくことはできない。そういう現実が、毎週いわき 市に行けば行くほど、普通の市民の方の口々から出てくるわけです。いわき市に行ったっていうのは日帰りで行けるんですよ。余力があんまりないんで日帰りで 行ける所があったっていう事で、それだったら一年二年継続して続けていけるだろうっていうのがあって。各地にいろいろ行ったんですけども、自分らとしては いわきにちょっと腰を据えてやっていこうというふうに今思ってます。
津波被害そのものは、いや本当にテレビで観るのと違って。例えば名取市、仙台のすぐ下ですけど、名取市に行った時はそこらじゅう黄色い旗を立ててあるん ですね。こう短い竹の先っぽに。最初、何だと思ったら遺体が発見された場所に全部こう旗を立ててる。それが無数に海岸沿いにワァーっと立ってるとか、そう いうのを現場で見てくると、やっぱりすごいな。テレビで観てるすごさってのとはまた違って、なんかうめき声が聞こえてくるような。そういう思いがもう本当 に感じられるというか。で、もともと過疎地で仕事もなくってという状態の東北地域がやられたわけですから、その風景っていうのを見て、これはもう退けない なっていう思いが、まあ行った一日目に実感としてあったんです。
いわきの方は、実は最初はもう全然受け入れてくれないんですね、役所が。どうにも何にもやれなくて。ただ地元の人と行く中で知り合うことができて。民間 の、全く役所にからんでない人達とのつながりの中で、老人ホームを一ヵ月間だけっていう限定だったんですけど借りられました。そこで鍼灸治療をやりなが ら、避難所で暮らす人達とただおしゃべりするだけなんですね。で、最初の一回目の時は、本当にみんな強ばった顔でニコリともしない。笑顔が全くない。そう いう人達の鍼灸治療をやりながら二回目、三回目でだんだん笑顔が出てきて、世間話を一緒にできるようになる。まあそういう過程をくぐって。例えば双葉町で あるとか、あの辺の福島原発の5キロ圏、10キロ圏の人達が相当数いわき市の方に避難してるんですよ。そういう実態を避難所の人達の口からひとつずつ聞く 事によって、私も「脱原発」より「反原発」っていう考えですけども、そういう話だけじゃなくて、では過疎地の中でどうやって生きていくのか、どんな仕事を 作っていくのか、どんな暮らしをしていくのかっていう、そこらも含めて考え直さなきゃいけないっていう思いが本当に強烈でした。そこは一ヵ月契約だったの で、今はいわき市の「ボランティアセンター」っていうところに、私なんかは表に出ないで、若い人を前に出して登録して、そこで毎週トラックとハイエースを 二台あるいは三台持ってって、海岸沿いの家屋のがれき片付けを毎週やってます。自分達としては、できれば地元のグループとつながりながら、役所ルートでは ない拠点を――地域の中でこぼれ落ちる避難者の方もたくさん出てくると思うんですよね。そういう方がこう集まれて、暮らしていくために支え合っていけるよ うな、いわき市内に地域の拠点をなんとか一年がかりでもいいから、地元の人達と作っていきたいなあというふうに今は考えてます。
いわき市っていうのは非常に反動的な市政で、放射能情報とかを住民の人達にほとんど流さないんですよね。福島原発から27キロ地点の末続町っていう所が あるんですけれども、そこのがれき片付けをやって欲しいというふうに言われて。27キロ地点ですから、つい一週間前までは30キロ地点は危険地域だってい う事で指定されてて、それが一週間前に福島県が安全宣言出したんですが、そこのがれきを片付けてくれって言われて。でも、いくらなんでも、ただ安全だって 言われたってこっちは納得できないじゃないですか。それで、放射能が実際どの程度出てんのか、そういうきちんとした情報は持ってるはずだから、きちんと伝 えて欲しいというふうに言ったら、全然伝えてくれないわけですよね。あなた方がやる気がないんだったら他のグループにやってもらいますっていう態度なわけ です。僕らも相当我慢をしながらやってんですけど、もうあまりにも無視するんで、とうとう「ボラセン」で活動してるみんなにちゃんと放射能の数値を公開し て明らかにしろっていう申入れ書みたいのを作って提出したんです。それが三週間前で、いつ回答が出てくるのかわかんないような、まあそういう状態です。放 射能問題どうすんのかっていう事で、反原発運動を昔からやってるいわき市の市議会議員の人がいるんですが、その人達の集まりが先週ありました。そこに行っ て来たんですけども、900人から1,000人位の若いお母さんとかお父さんとか子連れの人が集まって来てました。いわき市内で初めて放射能問題の集会が 開かれたっていう事で、質問時間になると、もう一斉にみんな手を上げて、「こういう場合はどうしたらいいんだ」っていう質問がバンバン出るわけですね。そ の集会の最後に、「いわき市民の最大のこれからの闘いは内部被曝との闘いだ」という言葉で締め括られたんですが、それは相当象徴的な言葉で、今後も続く言 葉なんだと思いました。

被曝労働――命を削り落としながら働く

それと、いわき市にいわき湯本っていう温泉街、旅館街があるんですね。そこに実は福島原発の中に入って仕事をしてる協力業者の宿舎がいくつもあるわけで す。僕らが、そういう、まあボランティア活動っていう言い方もあんまり好きじゃないんですけど、支援活動をやりながら同時に、今いろいろ話をこう拾い集め てるんですけども、協力会社っていうか下請け会社の事務所が新しく作られるっていう事で、どうもいわき湯本が拠点になって労働者を全国から集めて、そこか ら原発に送り込むシステムがいよいよ本格的に稼働するのかな、というような状況がいわき市の中で起こってます。そういう問題も含めて、いわき市民の放射能 被害の問題と、それから原発の中で働く労働者の、もう本当に劣悪な労働環境ですね。それを震災支援活動とつなぎ合わせながら、できれば地元の人達とこれか ら一年二年かけて作っていきたいなと。で、福島原発の廃炉、廃炉っていう事になると、少なくとも10年から20年かかるっていわれてます。そうすると、そ の間、原発労働に動員される人達が命を削り落とすような被曝労働をせざるをえないわけですね。
この冊子の中に、98年の時に原発労働を実際に行った野宿していたおっちゃんからの聞き取りが入ってるんですけど。いやあほんまにこの間報道されてきた 被曝労働の実態ってのは、我々も正直言ってびっくりするっていうか想像つかないほどありえない話なわけです。例えば、水が溜まってる所を長靴を履かないで 入っちゃって被曝したなんて、普通の公共工事だってありえないことですよ。僕らが普段仕事する時、こういうコンクリートを打つ時に、長靴履かないともうす ぐ肌がやけちゃいますから、長靴持ってないと現場からすぐ帰れって話になりますよ。普通の一般の公共事業でもありえない話。それから60歳で死んだ人が被 曝が原因ではなくて、持病が原因だっていうふうに報道されていましたが、それもありえないわけです。普通、公共事業でも、仕事に入る前に新人教育っていう のがあって血圧を測ったり持病があるかどうか調べて入れるんですね。それがないと仕事に就けないわけです。血圧が高い人は、もうその最初の入口ではねられ ますから。ですから、それもありえないわけですよね。
釜ヶ崎の通称Tさんっていう人がだまされて福島原発に入った。その報告も逐一全部あがってきてるんですけども、これも健康診断、働く前の健康診断は一切 やってない。それから放射能計測器をぶら下げて入るわけですけど、それを渡されたのが4日目。なおかつ放射線管理手帳も渡されてない。管理手帳にはこう毎 日毎日何時から何時まで仕事して、どの位の被曝量を受けたのかっていうのが記入されてて、それを本来労働者が持たなきゃいけないわけだけど、それが本人に は渡っていない。相談に来て、それで弁護士と一緒に追及して、やっと被曝、内部被曝の検査を柏崎の原発近くで受けることができたと。こういう文字通り命を 削り落としながら働くしかないような状況ってのが今なお続いてるんだと思うんです。私達が98年の時にやった時には、原発に行くなって言ったんですね。原 発の仕事は声かかるだろう、だけど行っちゃならんと。もうこれは完全に被曝労働が前提だし、死ぬの覚悟してそんな仕事するなっていうふうに出したんです。 しかしまあ、今、福島原発事故の終息を誰かがやらなきゃいけない。やってもらわないとこれまた大変なことになるわけですね。じゃあ誰がやるのか、やってる のかっていう事。実際に被曝労働をしているのは、東電の社員とか元請け会社の労働者ってのはわずかで、全体の被曝量の5パーセントくらい。95パーセント の被曝量は下請け労働者が被ってるわけですよ。これは今でも変わらないと思うんです。

闇に隠れた求人ルート――暴力団の存在

それとこの映画でも出てきますけれども、暴力団ルートで求人募集が行われてるっていう実態が確実にあるわけです。本当に箝口令が引かれていて、まだその 実態について本当につかめないんですけども、例えば会社の名前を書いてない、携帯番号と名前だけ書いて福島原発に行かないかっていう手配師が山谷に来たと か、あるいは寄せ場とは関係ない小金井のハローワークに仕事を探しに来てる労働者に、同じようなメモ用紙を渡して原発に行かないかっていう、そういう一次 情報はあるし。それからハローワークの公式な情報は、いまんところ北九州が一番多いんですよね。この映画に出てくる炭鉱が閉山した後、筑豊であれ北九州で あれ、当時僕らは社外工って言ってましたけども、実はほとんどが工場やあるいは建設現場の下請け労働者として動員されている。そういう仕組みが九州の中で いっぱいできあがってるんですね。そのつながりの中で原発労働の特殊のネットワークが北九州にできてるんだろうと私は思ってます。
『原発ジプシー』っていう本が70年代に出されたんですけども、そこに内田工業っていう会社の名前が出てます。その会社に今でも携帯で登録している八戸 の労働者が一日13,000円、三ヵ月の仕事だっていう事で声を掛けられて福島原発で働いた。でも、その人は五次下請けの労働者で、その会社の名前は東電 の名簿には全く出てこないんです。で、実際本人が受け取った金額は一日8,000円でしかなかった。彼はやはり暴力団が恐いので表ざたにはしたくないって 事で、それ以上は調査もできないような状態なんですけども。そういう形でポツポツとは、原発労働の情報は入ってきてます。僕らとしては今の状況で原発労働 に行くなとは言えない。8割9割は地元の人だって言われてますね、原発で働いてる人は。でも、立場は寄せ場の労働者と同じなんですよ。昔の言葉で言うと過 剰労働力、労働者としてもういらないよ、お前らは。そういう中で劣悪な労働につかざるをえない。いらないよって言われたって食うためには働くしかないん で。だから釜ヶ崎にしろ何にしろ、原発労働っていうことで金が確実に払われれば、相当数の人間が今でも行くんだと思うんですね。絶対行かないっていうふう にならない。やっぱり仕事ができないこととメシが食えないことと安心した寝場所がないことの辛さがみんな骨身にしみていて。それは福島原発の周辺の地元の 人も同じなんだろうと思うんです。過疎地で仕事がなく、そこで生きていくためには原発で働くしかないっていう現実。そういう矛盾も全部背負って働きに行か ざるをえない。
私なんかはもう相当高齢ですから実は行きたいですよ。原発の中どうなってんのか。チャンスがありゃ行きたいと思ってるんですけど。ともかく働きに行って も自分の命を守れる働き方、あるいはきちんとした、約束された賃金をしっかり取れる方法とか。それから内部被曝の影響ってのは10年後、20年後、30年 後に出てくるわけですから、働いた直後はそれこそ大量の被曝を浴びない限りそうならないわけですよね。普通の下請け労働とは違うわけですね。原発労働の特 殊性っていうか。そういう意味では、いろんなグループ、いろんな「反原発運動」や「脱原発運動」の人達とも手を組んで。例えば東電の直庸化、下請けの労働 者でもきちんと直庸化するとか。あるいは30年位のスパンで健康問題をきちんと国が責任を取らせるとか。そういうことも含めて、今後考えていければいいか なあと思ってます。
原発労働のすさまじさは、最初、海外から英雄視されて、まるで英雄だっていうような情報がどんどん流れて。一転して原発労働の物凄い劣悪な現実が今、報 道されてるわけですけども。原発労働の恐ろしいほどの劣悪さっていうのは、やっぱり東電が経営してるからなんだと思うんです。国策事業であることは確かな んだけども、国が直轄で事業を起こしてる、公共事業はあそこまではできない。民間の東電が経営母体になってるからこそ、あそこまでのひどさで今までやって きたんだろうと思うんですね。この5年位は20万、30万の原発労働者が必要だって国の方は言ってるわけですよね。原発労働者がいろんな矛盾を抱えながら 働いてるわけですから、果たして本当に相談に来てくれるかどうかっていうこともあるんですけども、まあ極端に言えば「一緒に働きに行こうぜ」位の話で、原 発労働の実態をなんとかつかんで、自分としては最後のお勤めだと思って、やっていこうかなあと思ってます。

重層的下請け制度のもとで末端の労働者が使い捨てられる

この間、例えば若い人も派遣労働の問題とか、さまざまな形で取り組み始めてるんですけども、その派遣労働と日雇い労働、これは同じ非正規ですけど雇用形 態が違う。働く形態が違う。パートという雇用形態もある。非正規でもいろんな雇用形態があって、一緒につながることが非常に難しい状態になってるわけで す、働く者同士の中で。だけども、どんな雇用形態であれ、非正規だと大体年金には入れてくれないし、社会保険も付かないし、金も安いですから貯金もできな くて、首切られるともうその場で切羽詰まっちゃう。そういう典型が「日比谷派遣村」、リーマンショックですか。あの2008年の後の時の「日比谷派遣村」 で明らかにできたことなんだと思うんです。ちょっと自慢話ですけど「日比谷派遣村」は山谷から提案した戦術なんですね、実は。「日比谷派遣村」でやった大 御所の労働組合の方々にまず一日体験で山谷の炊き出しをやってもらって、その後「日比谷派遣村」を着手したっていうふうになって。
このさまざまな雇用形態、派遣だとか短期労働もそうですね。一年短期労働とか事務職なんかは相当数多いです。その根っ子にあるシステムが請負制度、日本 の産業の重層的な下請け構造なんだというふうに思ってるんです。非正規の雇用形態の違いで働く層が違いますし、その意識の違いもあるから、それぞれがん ばってやんなきゃいけないけども、やっぱり最後は企業間の日本の請負制度と企業の重層的な下請け制度の構造そのものを変えていかないと、いつまでたっても 下請けで働く労働者は日の目を見ない。仕事が奪われるともう食っていけなくなる。住居も奪われてしまうという現実は変わらないんだと思うんです。
それで、今、失業者300万人と言われてますけども、あれはハローワークに登録した失業者が300万人であって、実際に失業してる人はもう軽く500万 を超えてる。なおかつ1750万の非正規労働者が存在してます。働く人のもう3分の2を軽く超えちゃってるわけですね。朝通勤ラッシュで出会う労働者の3 分の1以上は非正規労働者である事は確実なわけです。寄せ場はもう仕事がなくて、みんな朝の寄せ場に行っても60だとか65歳だとかそういう人達ばっかり です、今、山谷は。でも、山谷から発信したこの請負制度と重層的下請け構造のもとで働かされてる労働者への取り組み、非道な暴力と対抗して命を自分達で守 りながら、搾り取る資本、企業と闘っていくんだっていう。そういうものをどこかで誰かが担えるような母体を作らないと、今後どんどん失業者は増えていく し、非正規労働者は減るわけがないわけです。そういう中で我々の働く環境とか暮らしとかを変える力を作っていかなけりゃいけないと自分としては思っていま す。成果が出るのは、いつになるかわかんないんです。ただ福島の震災支援活動も少しずつ地元の人とのつながりができて、ほとんどの「反原発運動」のグルー プとはつながり始めてます。それから、非正規の取り組みをやってる労働組合とか、そういう人達ともつながり始めたんで、役所主導のようなやり方じゃない、 地域の中でちょっと根を張って本当にそこで原発労働問題も含めて、仕事がない中でどうやって生きていくのか。自分達なりにやれることがないか、考えていき たいと思ってるところです。


10万〜30万の労働者を吸い上げる求人ルートと利権

司会 若干時間があります。質問あるいは聞きたい事がありましたら、どなたかいらっしゃいませんか。はい。
参加者A 仕事が全然ない状況だから、原発に僕らが行けるようなルートを、原発労働、福島第一原発で働けるような状況を作って欲しいんで す、むしろ。もしそういうことで行けたらね、たとえ一日8,000円だとか、5,000円だったとしてもね、それはそれで面白いと思うんだけど。ヤクザが からんでもいいんじゃないかという気もするけど、まあ違ったルートを、地元の人が行ってるようなルート、それを作ったらどうなのかなあと思うんです。
中村 Aさんとは30年くらいの付き合い(笑い)。今考えてるのは、ヤー公から原発労働に行ったら金も貰えない。どんな被曝労働でも厭わ ないような働き方をさせるから、これは撃たなきゃいけない。だから、ここの業者はまあまあ金払いもいいし、そんなに悪い待遇じゃないからなんとか行けるん じゃないかっていうようなところまで調べられたら面白いと思ってる。
参加者A あのね、行きたいです。
中村 俺も行きたい(笑い)。ただね、ちょっと年令制限があって、Aさん。まあギリギリ入れるか入れないかの瀬戸際なんで。被曝労働って のが「反原発運動」やってる人達とか「脱原発運動」やってる人達の間でも、全然実態として明らかにされてないわけですよ。労働運動とか労働組合やってる人 達も全くわからない状態。もう本当に闇に隠されてる。労働者を吸い上げていくルートも全く闇に、本当に箝口令なんですよ。確実にヤクザがからんでんです ね。そこをどういうふうに、こう風穴開けていくかっていうことでやりたい。釜ヶ崎から行った人はだまされて行ったんだけど、前から行ってた会社なんです。 携帯電話登録してるから、「ちょっと仕事があるから行かねえか」って電話が掛かってきて、それで行ってたところなんですよね。だからだまされるとは思わな かった、本人も。あれは前田建設が元請けなんです。それと、実は新聞にも全然出てないんですけど、一次下請けが水谷建設なんです。水谷建設っていうのは皆 さん知ってるか知らないかわかんないけど、小沢一郎に金を一億だっけ、出した会社なんですよ。それがどういうわけか新聞には出ないんですよ。で、その水谷 建設本体じゃないんだけど、その水谷が金を出して作った会社なんです。それが全然出てこないのは不思議だねっていう話になってて。院内集会っていうんです か、議員集めて厚生労働省とか原発保安院とか追及しても、面白いことに民主党の議員も言いたくないっていう感じで、隠されちゃったっていう状態なんです ね。だから利権とか、相当なつながりがあるのと、暴力団がからんでるんで、相当に慎重にやらなきゃいけないんですけど。まあ10から30万の労働者を増や すってのは、物凄い勢いで全国網作んないと、旧来の闇の求人ルートだけでは絶対賄えない人数なんです。だから釜ヶ崎のような所でほころびが出るっていうこ となんだと思うんですね。その辺をちょっと調べていったら面白いと思います。それと、これは知る人ぞ知る、知らないとわからない話かもしれないけど、釜ヶ 崎に渥美、神明っていう二つの大きな飯場があるんです。渥美組と神明。これがもう10年以上前から東京進出して、全国展開してます。東京にいっぱい渥美組 の会社も飯場もあります。この渥美組が仙台にいよいよ飯場を作るっていう事で、無料の求人情報に宮城県内は8,000円、福島県内は13,000円という ような労働者募集を出していて。それで今日あたり飯場見に行ってます。旧来からある建設土木産業の末端の、いわゆる飯場を抱えてる業者がもうすでに全国的 に動き始めたと。渥美、神明ってのは飯場に抱えてる労働者が数千人ですから。そういうところはもう本当に金儲けですよね。これは会長は山口組系って、はっ きりしてんですけども。そういう形でドンドン動き始めてるということが、僕らの旧来のルートからもある程度の情報は入るんで。あと福島現地の中で相談所を 作っちゃって、そこをある意味、駆け込み寺にして。まあそういうところで少し始めたら面白いかなと。ただ僕らは全然力ないんで、手足もないし金もないん で。ネットワークっていうか、まあ今、流行りなんですけれど、個人参加でそういう事に興味がある、やってみたいっていう人をドンドン引き入れるような母体 を作ってやってみようというようなイメージです。また面白い事があったら報告したいですね。Aさんもぜひ。
参加者A やろうか(笑い)。
参加者B 先程、釜ヶ崎から福島に送られたTさんのお話ですけど、現地で働いてる人が8割9割で、残りの一割二割は釜ヶ崎からなのか、そ れとも全国の飯場のような所から手配師が手配してくるのかということがひとつ、もうひとつはその現地で働く人は過疎地で仕事がない人という話でしたけれど も、そこには手配師などのそういう人達を集めるような独自の仕組みというのがあるのかどうか、もしおわかりでしたら教えていただきたいんですけど。
中村 釜ヶ崎に求人が来たっていうのは、はっきり言うと異例中の異例だと思います。先程言ったように前田、水谷のグループは旧来からある 釜ヶ崎求人ルートなんです。ただ前田建設、水谷建設は福島原発の仕事をやってますし、原発の仕事に相当かんでますから、原発を作ったり原発が稼働する前 に、そういう仕事は結構、旧来寄せ場から出てたんです。だけど作った後、内部に入って被曝労働するっていうのは全く別のルートができてるっていうことで。 そこからは基本的に釜ヶ崎は外れてんじゃないかと思う。ただ今4,000人は軽く超えてますから、福島原発で働いてる人は。これはもう圧倒的に足らないわ けです。そういう中で急遽っていう事だと思いますね。でも、あの問題が起きて、釜ヶ崎では一切原発の求人はない、もう全くない。完全に闇に入っちゃった。 それで現地の人達が言うには、これは聞いた話ですけど、4軒に一軒は原発関連の仕事をしてると。まあ町で4軒家があったらその内一軒は原発関連の仕事。そ れくらい原発労働に頼ってると。この近所の小さな工務店が福島原発専門の仕事に入ってるようなもんなんですよ。だから放射能の問題とか何も知らない、ほと んど何もわからない人が下請けで働いてる。地元の人はそこらにいるおっさん、にいちゃん、ねえちゃんが普通に今までそれこそ安全神話の中で働いてて、その 人達が事故後もそれしか仕事がないから被曝覚悟で働かざるをえないってのが実情なんだと思いますよ。だから人災って言うけど、正直に言うとあそこまでなる とは誰も予想してなかったでしょ。そういう意味では自分達もある種無関心だったし。被曝労働っていうのが深刻な問題だとは思わなかったし。原発が事故った ら何十万とか、あの福島、郡山60キロ離れてるわけですから、あの一帯が農業も漁業も工場もほとんど全滅っていうほどの被害になるっていうのは僕ら自身も 考えてこなかったと思うんですね。なんていうかなあ、うーん、できてこなかったことがたくさんあったなと。下請けでね、動員されて声を出せない。もう明ら かに被曝してるのわかってるのに、本人達が一番わかってるわけじゃないですか。でも声を上げられない労働者が、まあ今4,000人って言われてますけど、 これが30万人って形でこの5年後作られると思うと、俺達は今まで何をやってきたんだっていう思いがありますよ。まあそんなところでみんなが少しそれぞれ のやれる事でつながっていければいいんじゃないのかなって思ってます。

全国から原発労働者がかり集められる

参加者C 原発労働の問題なんですけど、釜ヶ崎などから東北に持っていかれる人っていうのは手配師が中心であって、例えばグッドウィルとかフルキャストとか、そういう派遣から東北に送られるっていう方はいるんでしょうか。
中村 一時、清掃会社が求人募集を出してましたよ。清掃っていう事で。それは旧来、特に70年代、80年代までは物凄くいっぱいあったら しいですね。ビルメンテナンスの清掃ですね。そういう業者が五次下請け、六次下請けくらいに入って。もう亡くなっちゃったんですけど、新宿で野宿してた マッチャンっていう人が自分の原発労働の体験を話してくれました。ようするに雑巾で床拭くんですよ。それが除染、放射能を拭く。そういう仕事の仕方で当時 はやられてた。これはまだ90年代ですよ、彼が行ったのは。電工、配管工、それからコンクリートの穴を開ける仕事、それは何かというと配管を壁突き抜けて 外に這わせてという仕事があったらしくて、そういう具体的な職人を中心にして呼ばれてる。釜ヶ崎のTさんはもともとはトラックの運転手とか重機の運転もで きる方だったんですが、実際やったのは注水作業だって言ってましたけども。今はそれほどじゃないけど、がれき片付けの段階になったら、普通にこの辺で土方 工事やってるおっちゃん連中とか、それこそ派遣で働いてる人達が使われる。フルキャストが派遣やめて下請け会社になった、請け負い会社に衣替えして、また 求人募集やってんですね。そういう所がドンドン連れて行く可能性はあるんじゃないかと思います。まるっきり機械ではできない状況も出てくるんで。もうひと つは福島だけじゃなくて、ここまで被害が大きくなって、「脱原発」「反原発」って声が大きくなると、今ストップしてる原発がいっぱいあるじゃないですか。 普段は労働者は少ないんですけど、定期点検の時にワァーっと人を入れて点検作業をやるわけです。その時に被曝するんですね。その仕事が福島だけじゃなく、 今後圧倒的に増えていくんで、原発労働者が全国からかり集められるんじゃないかと思ってます。今んところ労働組合の動きはほとんどない状態ですが、なんと か気運を高めて原発労働の特殊性、被曝労働っていう特殊性をとらえて、それと先程言った請負制度、重層的下請け制度の中で末端の労働者が使い捨てられてい る状況を変えないと、日本の働く環境はいつまでたってもよくならず、それどころかますます悪くなる一方なんじゃないか。そういう二つの観点からいろんな方 と協力関係を作れたらいいなと思ってます。

労働者が声を上げてこそ従属的構造が変わる

参加者D 環境を変えるというような話をずうっとされてると思うんです。今までは、原発であれば国と地方自治体の政治的な取引とかがあっ て誘致されてるような側面があって、それが民間に落とされ、その中で重層的な構造ができあがってるのかなって想像するんです。今回の復興に関しても、原発 以外の部分でも、例えば漁業に民間が入ってくるかもしれない。経済特区みたいなものを設けていくかもしれない。結局はそれも国、自治体がからんで全体の構 造を作りながら、それを民間が受けていくっていう形になるんじゃないか。仙台にも新しいドヤができるって話ですが、結局また同じようなことが繰り返されそ うで、その重層的な構造を変えるのもなかなか難しいのではと想像してしまうのですが。結局どういう部分を変えていかなきゃいけないのか。今の話を総括して 聞くと、まずはその請け負ってる業者がいいのか悪いのか、そういう所を丹念に調査していくことが必要なのかなと、ちょっと考えたんですけれども。そのあた りは具体的にはどういう所から突っ込んでいくのでしょうか。

中村 特に原発労働については闇に閉ざされちゃってんで、調査っていう部分が物凄く大きいわけです。「俺、原発で働いてて、なんとかして くれ」みたいな相談はまあ滅多にあるわけじゃないけども、もし出た時に引き受ける場がなければしょうがないんで、そういった場を設けて、そういう相談など を通じてコツコツ調べていくしかないってことがある。もうひとつは「派遣村」とか「派遣法」の問題が一時大きく、労働組合なんかが取り上げて、「派遣法」 の抜本改正という形でやってきました。ただやっぱり根っ子は下請け制度や企業の重層下請け、従属的な構造を変えないと、派遣労働者に対する何の改善にもな らないってことですね。大きな労働組合、「連合」だとか「全労連」だとか「全労協」の人達は、「派遣法」抜本改正をやってきたんだけど、もうそれだけでは どうにもならない時代に来ちゃってんじゃないか。その視点なの。ただ僕らは本当に数人のグループですよ。普通の労働組合と違うのは、一緒に働きながらやろ うっていうふうにやってきたんですね。普通の大きな労働組合っていうのは一緒に働くってことはないんですよ。労働組合から給料もらって、常に相談を受ける 側で。相談に来た人を指導する指導員みたいな人ばっかりじゃないですか。でも、そういうんじゃないやり方を広めていかないと労働者は来ないんじゃないか なって気がすんだよね。労働者が声上げなきゃどうにもできないことだから。いくら大きい労働組合だといったって、労働者が声上げない事には何の力にもなら ない。で、声を上げられない仕組みを変えていくっていう事と、労働者の中に入って実態調べをする。やっぱり労働者と一緒に声を上げるみたいな事を考えてい かないと変わんないんだろうなあと。これは、あなたが言うようにそんなことできるかって言われればその通りで。ただ我々としては、夢がないとやってられな いんで。どっかで、ちょっとした風穴でも開けられれば。まあ僕らはもう年なんで、できればそういうことを考えていく若い人達、あるいは新しい母体になるよ うな所につなげていければいいかなあと。僕らはまあ触媒みたいなもんですよ。主役にはなれない。主役になるのは若い人達です。新しくやって下さいってやつ です。で、自分らはこういうことをやってきたんだけど、みんなはどう思うっていう話。だけど、全国に誰でも入れる「非正規ユニオン」「コミニュティーユニ オン」がもう何百とあるんだけど、なかなか力を付けられない。そういう所がもうちょっと力を付けていけるようなことを考えていかないと。「連合」、共産党 系の「全労連」それからちょっと左系の「全労協」って大手の労働組合あるんですけれど、そういうんじゃなくて一人でも入れる「コミニュティーユニオン」み たいな小さいんだけどそういう所が協力しあって、お互いに力を強くして。もっと一緒に働いたり、働いた仲間が立ち寄っていけるような、そういうのを作って いかないと、本当に力付けられないんじゃないかなという感じはしてます。まあ夢みたいなもんですよ。そうじゃないと誰しも20年30年っていうのは難しい 話で。ただ、殺された山岡さんとか佐藤さんもそうですけど、これだけは引けないっていう所がみんなあって。できるかできないかはわかんないけど、これだけ はやっていこうと。それをできるだけ若い人に引き継いでいってもらえれば、本当に最高だっていうことです。
参加者E 活動されている中で、「反原発団体」の方とか、いろんなネットワークから被曝労働の現状や情報を手に入れられてるという話をさ れてたんですけど、そういった今後の情報共有についてどう考えておられるのかと。こういう場を設けることもそうですし、単純に僕が思ったのはインターネッ トとかを使って、今ユーストリームというサービスとかで個人がパソコンを持って行ったり、ネットに接続できる環境があれば、今日の講演もネットで放送がで きるんですよね。そういうのを利用するっていうのもひとつだと思うんですけど。あとはそのリスクですね。先程の映画も媒体をつくることによって殺されてし まったという歴史もありますし。今後もそういうリスクは伴うと思うんですけど、その二点はどうお考えなのか。
中村 うーん、まずリスクの方ですけど、それはあんまり考えたことはない。リスクはいつでも吹き飛ばせみたいな感じでねえ。それと私の世 代はアナログ世代なんで、私、全然駄目なんで。だからこそ若い人に入ってもらって、やってもらうしかないわけ。人間誰しも完全な人っていないじゃないです か。まあ私なんかは悪いところだらけなんですが、みんないいところがあるから、それぞれが補い合ってひとつの事をやれればいいんじゃないかな。ただ、今は 原発労働の問題についてはいろんな人達が取り組み始めてるんで、そのネットワークでそのうち情報は流されていくと思いますよ。ちょっと専門的な内容なんで すけども、「被曝労働マニュアル」っていうのを今仲間が準備してます。どういう構造になってて、どういう事に気を付けなきゃいけないのかっていう、原発に 行く時の注意ですよね。来月の初めには出ると思います。その辺から少しずつみんなに伝えていければと考えてます。
司会 時間も押してるんで、この場はここで。中村光男さんでした。ありがとうございました。それから、ちょっとここでは話し辛い、直接中村さんに聞きた い、あるいは映画の事について話したいという人は、隣の部屋にお酒や飲み物を用意してありますので、時間がある人はどうぞ残ってください。
(2011/6/25 planB)

実録・山谷「現場闘争」を語る ー 山谷争議団三十年の闘い

三枝明夫&荒木剛 司会・キムチ

山谷争議団――初代代表の三ちゃんといまだ現役の又やん

キムチ コンバンハ、キムチです。通称名ですけど。この名前付けたのは二十歳頃で、すでに38年が経過しました。73年から山谷の現場闘争 委員会で寄せ場の運動に関わることになるのですが、日雇労働者としては、十八のとき高田馬場の朝の寄せ場でデビューして以来40年を迎えます。
さて今日は、山谷争議団が結成されて今年で30年を迎えるということなので、上映委に無理にねじ込んでミニトークの場所を設けてもらいました。ビラでは 「実録・山谷争議団」とされていますが、映画の宣伝ビラの調子で案内状を書いたので、上映委のほうで「実録」を付け加えてくれました。皆さんご承知のよう に「実録」と付けられたものほど、実態からかけ離れたものが多いということで、今回参加した三人の勝手な実録として理解して欲しいと思います。さらにもう 一つ、実は山谷上映委と山谷争議団はあまり仲が良くない。詳細はここでは省きますが、実質的な和解はできていません。それにもかかわらず、30年のテーマ を持ち込ませてもらったのは、ただただ上映委の皆さんの大人の対応だと思っている次第で、私たちはそのことを決して忘れていません。
さて今日は二人の仲間に登場してもらっています。一人は三枝明夫、仲間内では三ちゃんと呼ばれています。彼は私より前に山谷に流れ着き、学生時代は民青 で、山谷では東京日雇労働組合(東日労)で活動していました。東日労というのは72年8月、「悪質業者追放現場闘争委員会(現闘)」の結成前にあった組合 で、委員長は革マル派の人で、書記長には山谷のマンモス交番の警察官を刺殺し、現在30年以上も無期刑で旭川刑務所に服役している磯江洋一さんです。三 ちゃんとは現闘のときから顔は知っており、あいさつ程度の付き合いしかなかったのですが、磯江さんの79年6月9日単身決起があり、それを救援するために 現闘のときの仲間が集まって「6.9闘争の会」を結成したのですが、そのとき彼も参加してきたのです。仲間に慕われ、争議団のときの初代代表です。この映 画にもよく登場し、人パト(「人民パトロール」)での労働者への対応も三ちゃんらしい素朴な対応で、私はこの映画の助演男優賞は三ちゃんだと勝手に思って います。私と三ちゃんは、争議団での活動は87年ぐらいまでで、活動家としては足を洗い、ただただ生活と日雇労働に埋没してきました。私は20年以上どこ にも顔を出さず、6年ほど前から磯江さんの支援の運動の末席に顔を連ねています。三ちゃんは昨年暮れに磯江さんの集まりに25年ぶりに皆の前に出てきてく れて、「磯江通信」の発行を手伝ってもらっています。
そしてもう一人は荒木剛、又やんです。私が84年に山谷に復帰して以来の知り合いです。又やんは山谷に復帰して以来の知り合いです。又やんは争議団結成 前の「6.9闘争の会」の後期に参加しており、私と同い年です。彼は関西で中小企業の労働運動をしていたのですが、仲間からの誘いで山谷に入ってきまし た。本人の弁だと喜び勇んで山谷に入ってきたと言うのですから少し変わり者だと思いますが、少し変わった人間でないと寄せ場での活動はできないので、山谷 の水が合ったのでしょう。最近デモで13年ぶりに逮捕されたらしい。何年か前に又やんとデモに同行したことがあるが、一人で若くないのにワアワアわめく し、動き回って警察官を挑発している。私の記憶ではそんなに暴れる人ではないと感じていたのですが、今どきのデモは若い人たちも静かな対応なので、逆に目 立ったということです。
さて今日は山谷争議団結成30年の節目としての企画であります。話したいことは山ほどありますが、今日は「現場闘争」に的を絞って話を集約していきたい と思います。事件は現場で起きており、会議室ではないと言っていたのは、映画『踊る大捜査線』の青島君ですが、日雇労働者の置かれた状況でも問題の根っこ は、日々の生活-労働過程であると思われます。そこでの問題を明らかにし、変えていく手段も現場で展開されていきます。私は何年か前にテレビのワイド ショーで、湯浅誠が、悪質な貧困ビジネスを現場で追及する場面を見たことがあります。弁護士も同行し交渉する形で闘い方も随分と様変わりしたという印象を 強く持ちました。闘い方は変わっても、この闘いの獲得したものは大きい価値があると思います。
前置きが長くなりました。今日は私が特に話すわけではないので、二人の弁士に席を譲ります。では三ちゃんからお願いします。

現場闘争、弱者の闘い、『電車男』

三枝 ここに居られる荒木さんなんかはそこのまだ現役なんですけども、映画にあるような当時の意味での、山谷争議団とか、日雇全協の運動と いうのは今はもうないわけですね。そういうふうになってしまったというのは僕らの運動の弱さだったんじゃないかなあというふうに思ってます。ようするに、 敵を作って団結するという形しかできてなかったと。自分達の(主体性の)中身でね、寄せ場で再生産構造を作るというか…。映画では、(炭住がなくなって も)炭住の中でそこに生き残ってる人らと子供が出てきたりね、風呂に入って三橋美智也かなんかの歌が流れてるような場面がありましたけども、ああいう感じ がなかったというか(※①)
山さんが遺稿集の中で書いてますけど、寄せ場の周辺には朝鮮人(居住区)とか被差別部落とか売春街とか、そういうのがセットであるわけですよね。山さん もそういうのを、一つ一つ別々の差別とか、そういうふうに問題を立てるんじゃなくて、全体を統一して掬(すく)いだすような視点が必要なんじゃないかとい う風に言ってます。で、僕の場合、歴史の地縁性というか、そういったものの捉え返しが不十分だったんじゃないかなあと。だから今もそういう陣形が作れてな いんじゃないかなと、非常にそういう気がしてて。それで、この映画では「資本主義の近代」から山谷とかを説き起こしてますけども、もっと(遡って、例え ば)古代からの地縁性みたいなものから説き起こして考えていく必要があるんじゃないかなあと。というのは中世なんかでも、奈良とか京都とか都市ではね、 「非人」と呼ばれる人達が食うや食わずでたくさんいて、真言律宗の宗教者なんかが(今と全く同じように)、そういう人達の救恤(きゅうじゅつ)活動をやっ てるわけですよね。そういうのがずうっと今も、又ヤン(荒木さん)達がやってるホームレスの運動なんかにも引き継がれてると思いますし、そういう存在が単 に「資本主義(の近代)」とかいう事だけじゃなくてね、要するに国家の問題としてあるんじゃないかなという気がしています。
それで(ここから「現場闘争」の話に移る)、戦術としての現場闘争って、労働争議としてのね、現場闘争っていうのは今の山谷では行えるような状況ではあ りません。そういうところでは派遣労働者の運動とかに期待したいんですけども。まあそういう今の事は(現役ではないので)、僕は全然知らないんで、過去の 事についての能書きだけ言いたいと思います。
一つは、弱者の闘いだったという事。山さんも(映画の問題として)本の中で自己批判的に書いてるんですけども、僕らも含めて山谷争議団の人間がカッコ良く 映っちゃってるんですよね。あれがやっぱり、僕なんかは、スターリン主義に陥るような落し穴なんじゃないかなって思うわけです。山さんも(この映画では活 動家ではなく)労働者っていうものを撮りたかったんだろうけど、なかなかそれが力不足でできなかったということだと思います。
それで弱者の闘いっていうのをここ(ミニトーク用のレジュメ)でも書いてますけども、どんなことかといったら、テレビでやった『電車男』ってありました よね、ドラマが。あれじゃないかなあって思うんですよ。要するにカッコイイ人がじゃなくて弱い主人公ね。ものすごくオタクくさくて、なんかドジで間抜けで ね。それで(若い女性に暴力的に絡む酔っぱらいのオヤジに)足が震えながら抗議して。そしたら反対に打ちのめされたりするわけですよね。それで(酔っぱら いを)取り押さえたのはカッコイイサラリーマンだったんですけども。伊東美咲の沙織役のね、エルメスさんが――この人の名前だけは、美人で覚えてるんです けども――彼女が惚れたのはそのサラリーマンじゃなくて、カッコワルイ、オタクの主人公の電車男。それでなんでかなと思った時に、やっぱり弱い人間がね、 なんか逡巡しながら、迷いながら立ち上がるっていうのが人の心を一番ゆさぶるんじゃないかと思うんですよ。こないだのチュニジアの「ジャスミン革命」の始 まり(の焼身決起)も、現場闘争とかそういう組織化されたような運動もなんにもないような独裁政治の下にいた人(の行動)ですよね。物凄く苛められて、無 許可で売ってた果物とか取り上げられて、メシが食えなくなるって事で「立ち上がって」行ったと思うんです。それと『電車男』と、無理矢理つなげてるかもし れませんけれども、(電車男の行動も)そういったものだったと思うんです。で、そういうのが、この映画で描き切れてたかといったら、まあ難しいですけど ね、そこら辺が撮り切れてないなあというふうに思います。

寄せ場内部の目線と境界的な目線

そういう事ともう一つは、直接性。それまで、「行政闘争」はたくさん「東日労」などでやってたわけですけれども、「現場闘争委員会」(という組織)が やったのは、行政に文句を言っていくという形じゃなくて、『電車男』が電車の中で文句を言ったような異義申し立ての形とつながると思うんですよ。そこ(電 車の中)で見て見ぬ振りして後で駅員に、「こんな事があったぞ、オマエなんとかしろ」とか言うのが、まあたとえたら行政闘争だと思うんです。現場でやると いう事こそに意味があったんじゃないかと。で、それを組織していくわけですけども、そういう現場の人達が体を張る弱者の闘いっていうものは、後先の事も考 えずに自己犠牲的に自分を投げ出すと――これは「贈与主義」というか「純粋自己贈与」というか、そういうものだと思うんです。そういうものを組織していく 過程で、組織していくって事は政治的にやるっていう事ですから、そこでなんて言うかな、「労働者利用主義」みたいな形が組織の中にできる可能性があると。 そういうのも気をつけていく必要があるんじゃないかなと思います。
それで(現場闘争が)行政闘争なんかとちょっと違うのは、現場で一回性のものだと、ガチンコ勝負。やっぱりプロレスよりもK-1とか、あっちの方がおも しろいのは真剣勝負だからであってね。負けるかもしれないと。そういうところに崇高さというか、そういうものがあらわれて、やっぱり人の心をゆさぶるん じゃないかと。現場闘争っていうのは、(別に)労働過程っていう事に限らなくてもいいと思うんですよ。弱い自分を曝け出して投げ出すというところに大きな 意味があるんじゃないかと、そういうふうに広げて考えれば、別に労働過程の問題だけじゃなくて、いろんな所でいろんな取り組みの中で現場闘争というのはあ り得るというふうに、まあ思うわけです。
そしてそれを作り出したのは、労働者の、寄せ場の中の内部的な目線だけじゃできなかったと思うんです。やっぱりそういう闘争が起こった時代は、暴動など も60年代前後から起こるようになったんですけども、「現闘」(現場闘争委員会)が現場闘争をやりだした時代は、若い人が(寄せ場に)ドンドン来るような 構造があったんですよ。景気が良くなった時代だったと思うんですけれど、そういう新しい人達が境界的な目線を持ってね――内と外の目線を持って、つまり 「活動家的に」という事だと思うんですけども、やり始めたからこそ闘いが起きてきたんで。抑圧されてるから闘いが起こるんだとかただ単に言うのは、あれは なんか嘘だと思うんですよね。奴隷なんかは文句言わないから奴隷が成り立つわけでね。で、奴隷の闘いも、そういう境界者が現われてね、起こっていったんだ と思います。だけど、そういう境界者が本当の外部者になってしまって、その内側の人を利用するような形になると、そこにスターリン主義みたいな形の、落し 穴があるんじゃないかというふうに考えています。

末端・周縁で下層同士が闘わされる

筑豊とかいろいろ映してましたけど、そういう闘い(炭鉱とか寄せ場とかの労働運動)が起こる現場っていうのは、2008年の11月29日のミニトークで 平井玄さんという人が、「都市の壊れ方」というタイトルで話されてるんですけども、「本源的蓄積」っていうのが現われた場なんだというふうに言われてま す。
「本源的蓄積」っていうのはどういう事かと言いますと、マルクスの『資本論』に書いてあるそうですけども、資本主義っていうのは一見公正な商取引みたい な形で思われるんですけども、資本主義がその一番最初にやるのは農民を無理矢理都市に囲い込むような暴力的な仕方であって、その中で労働者が作られていっ て初めて可能になったというようなことです。平井玄さんは、そういうことが最初だけじゃないと、常に資本主義はそういう「本源的蓄積」を繰り返しているん だと、アルチュセールとか難しい人の名前を出して言っておられるんですけども。今のパソコンの言葉で言えばリセットして初期化するんだと、その初期化が 「本源的蓄積」であるというふうに言われてます。だから、今だったら非正規社員雇用とかの問題がそういう「暴力的」な、強制的な「本源的蓄積」の問題にな るんじゃないかと。まさに今の山谷の棄民政策みたいなものもそういう事だと思います。
この「本源的蓄積」が表している(問題)は資本主義だけじゃない。国家そのものの在り方っていうか、国家のはじめの在り方がそういうふうに、暴力を下に 転嫁していくという構造を表しているんだと思います――まあそこらへん(の問題)はちょっと場が違うからあまり言いませんけども――そういう暴力の発生っ ていうのは、(起源は)人身御供とかそういう事だと思ってまして。それで、戦争などの復讐とかいう問題も、人間の文化の「人身御供」とか「生贄」とか、そ ういう事の中から考えていく必要があると思います。それに「本源的蓄積」っていう問題が重なっているんだと僕は思うんですけども。
さっき(映画で)金町一家が出てきましたけども、(国粋会金町一家との闘いの)一番最初の発端となった件に、皇誠会っていう連中が右翼の服着て山谷争議 団に襲ってきた事件があったんです。考えてみたら、その彼ら(先頭に立たされていた黒い制服の若者たち)っていうのは、数年前に山谷で僕らミニ暴動を起こ したんですけれど、その時に一番先頭に立って闘った悪ガキどもじゃないかと。その時、先頭に立った(日雇い労働者)は酔っ払いが多くてね。「こいつら役に 立たんなあ」って思ったのですが、それに比べると、この悪ガキどもはオロナミンCを投げちゃあ引き、投げちゃあ引きって、すごく遊撃的に闘っていて、頼り になるなあって思ったんですよ。その子らが今度は皇誠会として現われる。それから、昔から今も続いてますが、悪ガキによるホームレス殺人事件があります ね。それに対して死んだ山岡監督が「彼らは自分の未来を殺したんだ」という言い方をしたんですね。その時はよく(意味が)分かんなかったんですけども、 (今になると)なるほどなあって思って。要するにそれは「他我殺し」っていう――アルター・エゴ(他我)っていう言い方が、心理学とか人類学であると思う んですけども――自分自身の将来(過去)とか、違った自分を殺すという形。暴力っていうのは(全部)そういうもんじゃないかなと。歴史的にみると、あの、 「金太郎伝説」がありますよね。あれは鬼退治、「酒(しゅ)呑(てん)童子(どうじ)」っていう鬼を退治しに行くんですけども、あの「酒呑童子」に「捨て (すて)童子(どうじ)」伝説――山中に捨てられると強く育ち、やがて英雄になるというような伝説があるんですが、それが(敵対する)「金太郎」とか「四 天王」にもね、纏わり付いてるんです。だから両方とも本当は鬼なんですよね。それを僕は、「オニオニズシキ」(鬼vs鬼図式)っていう言葉を、自分で勝手 に作って言ってるんですけども。(同じ意味を持った言葉に)「夷を持って夷を制する」という言い方があります。蝦夷退治に行った人で阿部氏とか佐伯氏とか は、坂上田村麻呂よりもちょっと前の人なんですけども、そういった将軍も(元々は)蝦夷(の血統)なんですよね。そこら辺は谷川健一の「白鳥伝説」とか菊 池山哉とか読んでもらうとわかるかと思います。
要するに、国家っていうのは、(位階制(ヒエラルキー)の下で)下層の一番末端とか周縁で、同じ階層の者が戦わされていく(機構である)と、例えば今の 戦争でもそうだと思うんですよ。構造は変わらないというか、弾先に立つ人っていうのは食い詰め者の志願兵とか、強制徴用された人とか(※②)、あるいは金 で買われた傭兵だとかね。与謝野晶子の歌に「すめらみことはたたかいに、おおみずからはいでまさね」とかなんとかいう歌があると思うんですけれど、結局戦 わされてるのは下層同士というかね、周縁というか、そういう部分だと思うんですよ。そういう(国家の罠である)暴力の図式っていうのを越えてく必要がある んじゃないかなと思っています。
ただ、今の民主主義の世の中では(国家の暴力性を隠ぺいしたまま、抑圧されている人だけの)暴力を、いけないというふうに言うわけですよね。それがお説 教として、むしろ(支配の暴力に対する)反撃を抑圧するような形であるんで、そういうお説教にならない形でどうしたらいいのか。結局死刑なんていうのも 「やられたらやりかえせ」ですよね。そういうの(報復暴力=敵討ち)を国家が管理してるだけであって。それについては、ミニトークで丸川さんっていう人 が、「みせしめのポリテクス」というタイトルで言われてるんですけども、(映画で)最後のラストシーンがありましたよね。手配師を段の上で土下座させて謝 らせてる。あれは「公開審判」であるというふうに言われてるんですよね。「公開審判」っていうのはもっとたどると「公開処刑」(公開の死刑)なんですよ。 「公開処刑」をもっとたどると結局「生贄」(※③)なんですよね。そういう形で僕らもやってきたわけですよ。それで山岡さんも映画を撮っていて気付いてい てね。この黒いパンフにも、「未来を予感させるには、現実の貧しさを映さざるをえない。その貧しさからにしか可能性はないのですから。それで、山谷の春闘 に戻ったわけです。今の我々の<やられたらやりかえす>力量だからです」って書いてますけども(※④)
僕の場合、「<やられたらやりかえす>力量」の問題としてより、むしろ、映画のタイトルでもある、<やられたらやりかえせ>というスローガン自体が、深く問い直される時期でもあると考えています。

みんなで作って一緒に食べる――共同炊事を起点として

荒木 ええ、前の話とどう切り結べばいいのかというのが非常にありまして。「現場闘争」という題なので、まあ三ちゃんやキムチなんかが離れ た後の、いわゆる90年代バブルの時期、94年なんですけれども。まあ93年から準備していた山谷労働センター占拠闘争について報告しておきます。野宿者 であっても、現場闘争は成立するというふうに私は考えてます。ある意味では一種の思想である。で、現場にしか解決能力はない、ただそのヒントは現場主義に 陥っている現場だけにはないんじゃないかという事を含めて報告します。いわゆるバブルが崩壊して、野宿者が山谷の周辺で一挙に増えたのが88年、消費税3 パーセントのとき。まあ仲間のみんなの生活が限界賃金に近い、生活のギリギリのところになって、ドヤの値段が上がったんですよ。1,000円が1,200 円とかね。それで一挙にダンボール村というのが隅田川沿いにできたりとかいう、そういう時代です。それでバブルが崩壊して、93年位から労働センターがド ヤ券とかパン券、そういうようなものを出すんですよ。ひと月の内に4日、5日とか何回かパンがもらえると。それでセンターのまわりをみんなグルーっと並ん で待ってるわけですよ。仲間が列を作ってひたすら下向いてずうっと待ってる。それでその前の年から何人かの仲間がこういうのをなんとかしなくちゃアカンと いうことで、共同学習みたいなことをして、93年の夏祭りには共同炊事ということをやって。活動家が作って、それを労働者が受け取って食べるというような 形をぶちこわしたいという事で。みんなで作ろう、仲間が共に、仲間と共に。みんなで作ってみんなで食べようというようなスタイルを実験的に夏祭りの場で やったりして。それで越年期を終えて94年に入って、センターの列がどんどん伸びて明治通りまで行って、みなさんは地理感覚がないと思うんですけども、そ れがドンドンドンドン伸びていくんですよ。みんなひたすら俯いて待ってる。
  それで他の争議団のメンバーに言ったのは、占拠闘争はできると。もう包囲、突入、占拠と進んでいって、包囲は労働者の形で、あとは俯いてじっと待ってるの がね、上向いてね、拳でも振り上げればこれはもう占拠になっちゃう。そして活動家が一緒にやるというスタイルで集団野営、共同炊事。センター前にみんなふ とん敷いて夜は寝て。共同炊事というのはテキ屋さんが街頭でやってるような十字の形の入れ子のもので台作って、そこで物を販売してるというのをね。これを 発想したのはみんな若い仲間でね。わしらが別に考えたわけじゃなくて。そういうのを含めて、台をずうっとセンター前の道に並べて、かまどで火炊いて。た だ、米を研いでね、それでもうかまどにかけて後はくべるだけというのだと、みんなが参加できるというのにはほど遠い。で、パレットを壊す人とか。パレッ トっていうのは焚き火の材料です。材木をね。それとテーブルの上で、みんなで小麦粉に水をちょっと入れて団子作って。昔の、今の若い人はほとんど知らな い、すいとん。団子を作って、野菜を切って。そうした団子作りならね、みんなでテーブルを囲んで一緒にやれると。ところが仲間は野宿している人が多いです から、みんな荷物持ってるんですよ。荷物持ってて置いといたら、どっかいっちゃったというのがあるからというので、作業時間帯はまあ会館で荷物は預かりま すよと。山岡さんが亡くなった事をうけて支援の人を含めてみんなで労働者会館というのを建ててましたんでね。夜みんながあそこでどうやったかとか、あそこ で野宿したとか、俺は仕事行ってるぞとかね、そんな話をしながらテーブルで団子作り、すいとん作りをするんですね。まあ3,400人いたら3,400杯分 作って。これが最後に750とか800位になってきてね。もう帰山(かつての山谷のボス)の家を越しちゃって裏までテーブルを出さなきゃならなくなって。 全体が全然見通せなくなるような形になるんですけども、一緒に作って、みんなで一斉に食べるというのはできた。

200名の仲間が山谷労働センターを占拠

夜そのセンター前で寝る仲間は、常時では40人位なんですけどね。正確には2月の頭から始めたのかな。それで2月の14日に新宿で一斉にみんな追い出さ れた件があったんですよ。96年の強制排除の前に94年2月17日。それでそこに行ってた争議団メンバーから2名がすぐさま新宿に飛ぶ。そういう気運は あったんですよ。みんなで一つのものつくっていこうというね。それで釜ヶ崎から勝利号というバスを空のまま借りて。昼間は40人位が寝て、炊事作業の中心 になって動いてくれる仲間と一緒に、昼間は新宿に行ったり、あるいは池袋に行ったりして仲間に出会うのと、あとカンパ活動。ふとんとか毛布とか手に入れた りね。そういうのをやってる中で、5月連休中。公共投資のサイクルで寄せ場の仕事が決まっててね。現場の役人なんかもみんな知ってるんですよ。5月期は全 然仕事がないのをね。ところが東京都なんか硬直してるからね。年末年始、3月位まで、12月から3月位まではあるんですけど5月ってないんですよね。これ は相当議論になりました。私も蜂起派というブント系の活動家なんですけども、他の党派の人なんか「そんな無茶な方針」と言って。無茶な方針といっても労働 者はそこでとにかく占拠に向かって、包囲はしてんだよと。それに答えるか答えないかだけやというような形で、論争もしながら気運は盛り上がっていって。そ れで5月の3日だったかな、200人、常時夜寝てたのが40~50名で、前日か、その前あたり1週間位はもう90名位寝るようになったけどね。200名近 い仲間が一晩占拠して。それで向こうの方は、東京都の方はてんやわんやしたけども所長が出て来て、土下座して。とにかく東京都に自分が責任持って請負っ て、ちゃんとやりますと。仕事とかパン券とかドヤ券などの改善をはかりますという形で、1日の占拠ではあったんですけどね。
ただこの途中に、わしらにとって一番大きかったのが94年の1月1日。この94年、94年1月1日って何か思いません? ない? いわゆる「新自由主 義」という言葉が初めて自分の頭の中に入ってきた。この1月1日にメキシコのチアパスという所でサパティスタというのが武装蜂起したと。で日本の現実じゃ なかなかこれが伝わらないんですけども。世界の基準で言えば伝わるものがあるんです。サパティスタは権力奪取を目指すんじゃなくて先住民の当然の権利、公 正で平等な権利の為に、それを訴える為には武器、銃を。もっとも大半は銃の形をした木のやつですよ。それでたちあがったんですよ。自分達は軍であると。暴 力の問題を出ました。自分達は、自分達の存在が一刻も早く消滅するように軍に志願したものであると。で、これはいわゆる「釜共」「現闘」の先輩方から教え られていた問題の先取りしたものだろうと。そんな情報が伝わってきたのは2月とか3月の時期です。その先輩方というのは、船本さんとか、磯江さんとか、あ るいは殺された佐藤さん、山岡さんとか、そういう仲間の事を含めたものですけども。チュニジアの彼は尊厳をかけて焼身決起したんですよ。それでイスラム世 界での宗教的な最大の課題である、自分の恐怖心を克服する、そういうのを突破したわけです。「新自由主義時代」の中での民衆が革命までいっちゃった、ほん とに。まあそういうようなことが同時代にあったんですよ。
そういう気運の中で新宿に飛んで。96年のことを多くの方はあまり知らないと思うんですけども、新宿での野宿者の闘いが始まったんです。その中で94年 には占拠闘争っていうのがありまして。センターは、そうやって一晩占拠されて、所長が出てきて、東京都と掛け合ってという事については一切マスコミは伝え ません。確か、その時マスコミにも伝えたはずなんですよ。けれども取り上げてません。なんか夕刊紙が一つ、ちょっと窓口が混乱したみたいな形で。というの は、センターの方が占拠された事を認めてないという形になってるんですよ。毎年発表する事業概要でも、窓口が混乱したみたいな形で。生存の淵にさらされた 野宿者が占拠するというのは、ちょうどこの94年の5月なんですけども、同時期だよな。フランスでドラワゴン街の占拠闘争というのが同時代性としてあった んです。ただ日本ではないという形にされている。現場の力が発揮できない形の、最大のものと思いますね。ああやっぱり日本の常識というのは外から見て、相 対化して、あまりにも非常識な事が多過ぎる。それ以降、2000年代入ってからは、持たざる者、ノードックスという連帯行動をやらしてもらいますという形 できましたけども。去年位からまた現場に復帰せざるをえなくなったというような、いわゆる混迷よりも苦難な時にあります。ただ今の94年の話の中にその現 場闘争のポリシーというのがあらわれていると思います。それで、わしらは仲間が思いっきり、当事者が思いっきり立ち上がる為の条件を組織すればいいんだ と。別段占拠とか、包囲とか、突入とかいう声をかけなくても、立ち上がる条件を組織したら、もうなっちゃうというのを実体験したという事です。

流動的下層労働者と日雇い派遣と野宿者

キムチ ああ、どうもごくろうさん。予定時間あと数分しかないんですよね。それで、今日初めて観る人達が二人の話を聞いてどういうふうに感じたのか。何かわからない事がありましたら、質問を受け付けます。知ってる人の質問はなし。はい。
参加者A 今日は茨城から来ました。あまりこむずかしい事は僕はよくわかんないんですが、マルクスの「資本論」を読もうとしたんだけど、難 しすぎてちょっと挫折しまして。今、僕は35なんですけども、若い人の就職が難しいとか職がないとか、そういう話題になってますけど、それについては持論 はあるんですけど、いろんな仕事やってきたから。それについてどう思いますか。まあ日雇いとかじゃないかもしれないけど、例えば大学生が就職難とか、途中 で辞めた人がまた別な仕事に移っても続かないとか。派遣切りされるとかで結局仕事がないとか。若い人でも生活保護を受けてる人もいるんですよね。テレビで 特集していたけど、その生活保護費でゲームしていて働かないと。まあそういう、現代の若者像を見てどう思いますか。
キムチ 私自身、日雇いを長く続けてるんですけれど、この20年間位の職場の関係、労働現場っていうのは、確かに日雇い労働っていうのは 3Kでキタナイ、キツイ、あともう一つはキケンか。危険だよなあ。鳶職やってたからねえ。キタナイ、キツイ、キケンっていう形でやってたんですけれど、私 はそんなに悲惨だとは思った事はないんですよ。どんな仕事であってもキタナイ事を片付けるのは労働過程の中で必要なわけですよ。キケンな事も必要な仕事の 一過程だから。一番上に立ってる人も一番下にいる人も仕事の過程としては一つだと。私は一番下で働いている者として、そういうふうに考えてきました。そう いった意味で、今の若い人達の仕事がない、生きるのが辛いということを聞いた時にね。確かにひどい状況だと思います。ただ、私自身が現場で経験してきた事 は、時代が違うと言われると思いますけれど、その日、お金がなくても余裕を持ってて。明日また仕事行けるとかね。その日、金がなくてもいいというような形 で生活、労働してきた者としては、若い人達のその辺の苦労がなかなか実感としてわかんないんですよ。仕事自体はいっぱいあると思うし。どんな仕事やっても 基本的には生産過程の一つだと思うわけですよ。確かに今の時代、仕事は少なくなってきているし、若い人達には仕事がないと思いますけれど。
荒木 70年代前半や60年代後半、今の人はわからないと思うんですけど、臨時工、社外工というのがあったんですよ、昔から、戦後から。そ の社外工のもとに必要になった時に組夫という形で、臨時的に動員されるのが「釜共」「現闘」が言っていた「流動的下層労働者」だと思ってます。現在で言え ばいわゆる派遣。日雇い派遣と言われるようなのが一番まあ近いだろうなと。今、野宿者に多くの仲間がなってるわけです。高齢化して仕事できなくて。そうし た時に、世間が言うところのいわゆる「乞食」「浮浪者」も含めて、我々の範疇に入ってきていて。今回、帰宅難民ということで、公共施設をすぐさま解放しま したけども。野宿者に関しては、公共地から排除します。人権問題で生存の危機にある人を、どこの国でも対策の最初にやる事は公共地を夜間解放するんです ね。だから日本は逆方向ですよね。そういう現状をふまえれば、私は若い人の方が困難があると思ってます。私達は高度経済成長期の中で自分で好きでおりて いったんですよ。そういう事もできる時代だった。今はそういうことはなにもできなくなっているという意味で困難な時代ですね。もっと大胆に働かないぞとい う形、高円寺の「素人の乱」みたいなね。自分達でリサイクル店をやったりとか。もっともっとああいうようなことが増えるべきだと思ってます。労働倫理が日 本では強すぎる。私も、正直に言えば働くのなんか全く好きじゃないし、昔は全く働かなかった。今はずうっと働いてるんですけどね。とにかくもっと分け合っ た方がいいと思いますし、若い人はこういう世の中、社会、日本の非常識な現実に対して、自分らで生存できる、そのためには群れをつくらなきゃだめなんです よ。それが今は分断されてる。

日雇い労働者と労働基準法

参加者B 日雇い労働者も労働三権というのは認められてますよね。団結権、団体交渉権、団体行動権というね。だけど、特にこういう不況な時 期には、日雇い労働者っていうと不利な扱いを受けやすいんですよね。それで、いくら日雇い労働者だからといってもね、不当な扱いだけは許さないように闘っ ていかなきゃならないと思うんです。以上です。
三枝 あなたは日雇い労働者ですか?
参加者B 違います。
キムチ その意見にどう答えたらいいのか。10年位前にこのプランBで山谷労働会館の館長の小田原さんが講演をしてます。その時に言ったキ ツイ言葉があります。金町戦が終わって5年位経ってからなんですけれど。「今の日雇い労働者の置かれている状況はいっそう厳しくなっている。それに対して 山谷争議団と全協は何をやってるのか」というキツイ意見が出たんですよ。それに対して答えられてないという事が、その当時でもあるし、現状でもあると思い ます。あの労働三権っていうような形では当然だよねえ。でも、私達は労働三権に則っての闘いはあまりできてなかったんですよね。
三枝 ああいうのって、要するに労働基準局とかに行って、俺も相談に行った事があるんですけれども「ああそうですか」で大体終わっちゃう。 そういう意味では、この映画の中でやってるように、自分らで何だかんだって言いながら、理屈こねながらやらないとできないんだと思う。力だと思うよ。
荒木 だから労働三権っていうのは、団結権、団体交渉権、争議権、これが三権なの。労働基準法で言えば、日雇いの条項で一般の人と一緒なの は年休、前年に働いた日数の総計で割り振りされるっていう位で。日雇いは普通の常雇用の形とは全く違います。同じ条件じゃありません。それで、労働基準法 では、有給休暇の件はある程度ありますけれども。
三枝 細かすぎる。
荒木 だからないっていう事。世界では、日雇という雇用形態が認められてるのも普通じゃないんですからね。原則禁止という国もたくさんある。ただそこで闇労働というような違う問題が出てくる。それでやっぱり権利の問題。そこらは、わしらは弱かったというふうに思ってます。
キムチ まあ私も40年間やってきて失業保険も貰った事ないし、有給休暇も貰った事ないし、何も貰った事ないんですよね。だからまあ税金も 収めなくてもよかった時もあったけれど。まあ労働基準局とかにはほとんど頼りにした事ないんですよね。実際、今もね、労働基準局を頼りにしていいのかって いう事になると、そこまで動いてくれるのかなあって思うんだけれどね。その辺はTさんがよく知ってんでしょ。
T氏 俺が思うのは、ブルジョワ労働基準監督署の方もブルジョア法という事で否定的だったんです。だから俺達の暴力、まあ俺達の闘いで決め てくと。だから労働基準法も関係ない。ただ、今の「フリーター労組」や、どこの労働組合も労基法を基準に運動やってると思うんですけど。当時は、もう労基 法じゃなくて自分達の実力で決めていくっていう作風だったんですよ。労働基準法じゃなくて自分達の実力で決めていくっていうのが本来の労働運動だと思うん ですよ。今はちょっと力関係ではなかなか難しいと思うから、まあ法律を武器にするのはいいと思うんですよ。
荒木 90年代は、昔の押しかけ争議の形でやって。その結果を労働基準局が所轄してるのに、こういう事があったぞ、お前らちゃんとやれとい うのんでやれてたんですよ。2000年代はアサヒ建設争議以外は、そういうダイナミックな押しかけ争議、あるいは呼び出し団交というのが私達の力量低下で やれてない。とりわけ90年代以降、労働基準監督官、役人もずいぶん変わっちゃった。昔は自分の仕事に誇り持っていて。労働基準法を厳密に適用すれば、不 利益労働者、被害労働者の利益にあまりならないんですよ。法律に違反した企業に罰金をかけたりしても、あるいは改善指導したりしても、その罰金は国庫、国 に入るんですよ。それで昔の労働基準監督官はね、不利益労働者の不利益回復で、法律の厳密な適用じゃなくて、オヤジに「やっぱりちゃんとしなきゃあかん よ」というふうな話も含めてやってた。今は、2000年代に入って、労働基準監督署も自分の仕事にプライドも誇りも持ってない。企業に罰金を課して、改善 の報告書を提出させるという、そういう形。それしかやらない。それもケツ叩かなきゃ、やらないような実情で。日本は内部から崩壊してると。役人の世界も崩 壊してると。経験主義ですけどね。

野宿者に対する排斥が広がっている

キムチ はい、もう一人。どうぞ。
参加者C 映画を撮られた当時と今と、山谷の人をめぐる周囲の人の見方っていうのは変わってますか。悪くなったとか、良くなったとかちょっとそのあたりが聞きたいんですけれども。
三枝 映画の当時は結構囲い込まれているというか、山谷っていうのが寄せ場、寄せ場してるっていう感じがあったんですけども。昔の話聞く と、全体が山谷っていう形がもっとあって。釜ヶ崎なんかは地域みたいな形でまだちょっと残ってますけども。今はどうなんですかねえ、ホームレス差別みたい な感じでしょ。昔で言ったら「非人」差別みたいな感じ。程度はわからないですけども本質的なところは変わらないと思います。
荒木 ただ、ドヤも数が少なくなってます。ドヤっていうのは泊まる所ね。3代目、4代目が廃業して民家になる。新しく建て替えて、バック パッカーの泊まる所になるというのが混在してきて。そういう中で、野宿者に対する排斥がすごいです。それが外に広がってますからね。例えば蔵前とか隅田川 の向こうの方で、江東区の方で炊き出ししてたら、「ここでやらんといてくれ」と。「山谷でやってくれ」と言われて。どうすりゃいいんだっていう、これはも う日本の現状は全く変わってません。昔は暴動がある危険な地域だということだったんですが、今は野宿者への差別です。
三枝 明治の時にね、下谷万年町というスラム街ができるんですよ。まあそこらじゅうに東京にはスラム街ができたんですけども。そこに都市雑 業貧民っていう、まあルンプロっていわれるような感じの人達がたくさん集まってたと思うんです。そういう「浮浪者」みたいな人の中から、その子弟がプロレ タリアートっていうか、労働者になっていく過程があるんでね。そこら辺は時代と共にいろいろ収縮したりして。寄せ場も、山谷みたいなところが赤羽にあった り、いろんな所にあったんですよ。小さいですけど。それがほぼなくなっていったんです。そういう事情はあります。
キムチ そろそろ時間なので、ちょっと一つだけ。ビラがみなさんのところにまわってると思います。これは最近出た「新宿連絡会」のビラなんです。
荒木 元争議団のメンバーが中心になっている。
キムチ ああそうなの。これは路上で拾ったんです。路上で拾ってちょっと読んで、非常に感心したんですよ。震災が起きたと。その事に対して 私達は何をするのかという事が書かれてるんです。それで大きな字で「静かな祈り」と出ていて。あの震災が起きても地道にホームレスの支援運動を毎日コツコ ツとやっていこうという事なんです。一つは衣類のカンパを今は自粛してるという事です。これは、ホームレス向けの衣類を災害者の方に向けてくれという事 で、「新宿連絡会」としては衣類を今は受け付けを断ってると。それともう一つは、静かな祈りで一人で花見はやりましょうと。もう一つは災害で東京にも流れ てくる人がいるという事ですから、もしそういうホームレスの人達を見付けたら「新宿連絡会」とか「山谷労働会館」とか「争議団」とかに連絡するように。そ してそれぞれが自分の経験に照らして、そういう人がいたらば声をかけてみましょうと。ああそういった事まで目を向けているという事で、私達の作っていた運 動から比べると感心するなあと思った次第です。とりあえず、ここらで終わりにします。ありがとうございます。
(2011.3.26 planB)

(三枝・脚注)
※①人間は、共通の敵を発見した時、「団結」することができる。しかし、こうした団結は、常に新鮮な敵を探し続け、その新鮮さの中で、過去の倦んだ「団 結」を更新し続けなければならない。またそれは、味方の中に、常に敵を発見し続けることでもある。なぜならこういった「団結」は、共通の敵という媒介を持 たないときは、「万人の万人対する闘争」(ホッブス)という関係を基盤としているからである。そうした関係性を克服するために、媒介性の薄い、直接的関係 性(共感的関係性)=「共同体的関係性(?)」(政治よりも情念に依拠した)の中で、次代の担い手を育て上げていくことができないだろうか。炭住には寄せ 場よりそういった「再生産性」があったと思うが、しかしそれも、国家の産業構造・エネルギー政策の転換の中で、殆ど消えて行ってしまっている。
※②その一つの象徴が、第二次世界大戦における、朝鮮人、台湾人のBC級戦犯である。彼らは必ずしも「強制」で徴用されたのではないかもしれないが、当時、朝鮮と台湾が日本の植民地であったことを考慮すれば、たとえ「志願」でも「強制」と同等の徴用であったと言える。
※③見せしめの公開処刑(死刑)であり、かつ供犠(人身御供)であったような殺人の起源こそ、ゴルゴダの丘のイエスの、救世主(キリスト)創出の処刑であ る。もちろんそれは、意味として象徴的に起源的であるのであって、それに先立つ供犠なる死刑は無限に遡ることができる。すべての神々は供犠の負い目で作ら れたのである。阿部謹也(『刑吏の社会史』)は、ヨーロッパ中世の死刑が、古代の供犠の様式の痕跡を、色濃く残したものであったことを具体的に述べてい る。
※④山岡がそれをどういった意味で、我々の「現実の貧しさ」と言ったのかは、意見の分かれるところであろう。しかしあの映画を見た多くの人たちが、むしろ 吊るし上げられる手配師にこそ同情を抱いたのではないだろうか。それをどう捉えかえすか、それが山岡が我々に残した宿題でもある。

流動する集団身体

東琢磨(音楽批評)

東と申します。まず初めにお断わりしておきたいのは、僕はこの「山谷」の上映会、それから『山谷-やられたらやりかえせ』という映画に直接関わってきた わけでもありませんので、作品について直接の制作された状況とか、あるいはどういう思いで作られたのかということを代弁することは一切できないということ です。
ただ、僕は1964年生まれです。で、東京に出て来て、そして大学を中退してブラブラしている頃だったか、四谷公会堂という所で、上映会を初めて経験し て。その時は本当にすごく観客も多かったし、入口が機動隊員で固められているような状態の中で観ました。その後に僕もいろいろあって、音楽関係の仕事をす るようになって。今日、そこの入口でも売ってますけどサントラですねえ、「蠱的態」という名前の。大熊ワタルさんや篠田昌已さんと仕事を介して出会うよう になったりして。で、その過程で映画を何度か観直したりしてきました。それでその間いろいろなことがありました。実は、2005年までは僕はこのすぐ近所 の、歩いてもすぐの西新宿に20年くらい住んでたもので、このplanBという所も、二十歳前だったと思うんですけど、1980年代初めに田中泯さんのダ ンスを観に来たんですね。で、考えてみると、このplanBや、『山谷-やられたらやりかえせ』とのつきあいは、断続的にではありますが、もう二十数年間 になります。

高速バスの中のジェンダー・階級

昨年末に広島でのイベントがあった時に、上映委員会の池内さんからいきなり東京の上映会で喋れと言われて、じゃあ、これからいろんな世代が続いていく時 に直接の経験者あるいは当事者ではない僕のような人間がどのようにすれば……80年代の初めにまだ若者、若者だったですねえ当時は、今年もうじき47にな りますけど。それで、その間にどういうふうに観ているのか。今、自分は東京から広島に帰っていろいろな活動をしながら、頻繁に移動してるんですね、いろん な仕事があるんで。2005年に帰ってからほとんど毎月のようにどこかに行かないといけない。沖縄にもしょっちゅう行きますし、福岡、関西、東京にも結構 行きます。それでいろんな動き方があると思うんですが、もうほとんど夜行バス、高速バスなんですよね。
それで、もう新幹線なんか使ってられないです。ドンドン支払いも悪くなってるから。僕はずっとフリー、もう1997年からフリーでやってますんで、会社 から旅費をもらうわけでもない。どこかの大学やいろんな所からシンポジウムや講演や講義で来て下さいと言われても、まだバブルが過ぎてしばらくは、 1990年代末までは、いわゆるトッパライで、とりあえず行ったら現金でくれるっていうのだったけれど、もう今やどんどんひどくなってきていて。来て下さ いって人を呼び付けても交通費は二か月後とか、ひどい所は領収書を出さないと旅費出さないとかっていう所もいっぱいあるんで。それでは生活はできない。 で、もうほとんど高速バスを使うしかなくなって。ただ、これが面白いんですよね。どういうふうに面白いのかっていうと、新幹線とバスではあからさまにジェ ンダー、階級の違いは明確に出てくるんですよね。今でもたまに新幹線を急ぎで乗ることはありますけど、ほとんどスーツ姿の人、オヤジさん。
バスですと、若い人達ばっかり。ここ数年間を見ると、まず若い女性が圧倒的です。あとは男の子でも就活風、あるいは僕らのような人間、まああきらかにサ ラリーマンじゃない人達だったですね。ところが、この二年間くらいに急速にまず僕の、もう父はいないですけど母くらいの、70代、80代の人とか、あと スーツ姿のサラリーマンとかも増えてきて。これは、スーツ姿のサラリーマンでいえば出張経費の削減とかもあるでしょう。まあ、そういう変化もドンドン起き ているんです。
なんで、これだけ若い女性が移動しているんだろうか。いろいろ観察をしてみると、例えばディズニーランドに遊びに行くとか、USJを見に行くとか、ある いはライブの追っ掛けとかっていう女の子達も多そうなんですけど、何か違うなあと。で、ちょっといろんな人に話を聞いてみると、夜の街の労働らしいんです ね、少なくない人が。
例えば二か月間中洲で働いて、その後に夜行バスで移動をして、それで広島の流川っていう所で働いた後に、今度は大阪のミナミに流れる。あるいは名古屋の 栄町に流れるっていう人達が頻繁に移動していると。こういう人達は同時に介護職もやったりするんで、夜昼ともにいわゆるケア労働ですよね。新幹線に乗って 移動している、あるいは飛行機に乗っているサラリーマン達を夜ケアし、昼はそのサラリーマン達が置いていった両親達をケアする、そういう労働で動いている と。これはいったいどういうことが起きているんだろうって感じ始めています。

地方都市のある種の異常な状況

『山谷-やられたらやりかえせ』ではいろんな問題が提示されています。僕は何度も観てますけれど、そのたびにいろんな問題を新しく発見できます。まず大 きな問題としては雇用の問題、国家が管理していたものを闇でヤクザがやっているっていうような話だったのが、今は大っぴらに派遣業の人達ですよねえ。それ どころかテレビで、ほんとにクソくだらない政治討論みたいな番組に派遣業の会社の社長とかが出てきて、なんかわけのわからないことを言ってる。それはもと もとヤクザがやってた仕事だろうっていうことなのに、なんかすごく居丈高に言い始める。僕も実は1980年代の末から90年代の終わりまで10年間サラ リーマンをやってたことがあるんですが、その時に雇用の流動性とかっていう言い方を使い始めて。雇用の流動性がその派遣労働の方に切り替わっていくんです が。
一方で、ここ数年は講義があるんで大学生とも付き合うことも多いいんですが、フリーターというかニートというか、もうどうなっていくかわからない状況の 中で、大学生の方が雇用の流動性を確保しないといけないっていうか、お前が流動性になっちゃうだろうっていう(笑)、倒錯現象が生まれてくるんですねえ。 今そこらの問題がすごく複雑になってきています。  東京や関西などの大都市圏の大学生や若い人であれば、いろんな違う生き方を選ぼうという動きがある程度できるけれども、地方の若い人達って本当にただで さえダメなはずなのに常にマネージメントの視線しかできなくなっているっていうおそろしさがあって。体制側の考えること、権力側、資本側の考えることを、 一番切り捨てられる側があたかも管理職のように体得していかないといけない。で、すぐに言葉でガバナンスであるとかマネージメントであるとかレギュレー ションとかっていう言葉ばかりを振りかざして。だけど、その内側では自分がいつ切り捨てられるかわからないっていう恐怖の念を持って生きているんだってす ごく感じます。これはほんとに広島というような地方都市にいるとかなり深刻で、まあ東京でもたぶんそうかなと思うんですが。ただ、僕が2005年くらいま でいた時にあった東京の息苦しさは、ここ数年変わってきてるんじゃないかと。やっぱり行き着く所まで東京は来てしまって、そこで若い層の人達はなんとかも う一つ工夫をしているっていう可能性が都市部、大都市であるからあるのかなと。けれでも、じゃあ地方や地方都市はどうなんだろうかっていうことをよく考え るんですね。で、その一つの可能性として、可能性であると同時に非常に苛酷なことでもありますが、深夜バス、夜行バスで移動している、まったくカウントさ れない女性労働者達とどういうふうに接点を持ち得るんだろうかということを考えたりしています。
今、広島に帰って僕は実家で母親と二人なんですよ。それと高校生二人が下宿しているんですね。広島県って非常にでかい所で、ほとんど都市がないので広島 の山ん中や島の方からうちの近所の県立の工業高校なんですが、そこに来る子達が下宿しています。それで彼らを見ていると、もう本当に大変なんですよね。
スポーツで入って来る子も多いですから、これは近年の不況とはまた別の問題で、日本のある種すさまじい現実を見させられるんですね。スポーツで高校に入って来てレギュラーになれなかった子達とか。
一方で「山谷」の映画であったように今まではある程度みんながなんとか食い詰めても山谷に行って、それで非常に厳しい状況であってもまだ団結できる可能 性があったにもかかわらず、もうドンドン追い込まれていく。で、ドンドン追い込まれていくのが端的な形で表れたのが年間3万4千人の自殺者という数字。 ひょっとすれば山谷や釜ヶ崎や寿町に辿り着いていれば一人で死ななくてもよかったかもしれない人達が、もう年間3万4千人も死んでいる。そういう分断の状 況をどういうふうに考えるか。
ところが、じゃあその問題をどういうふうに広島の内部で考えるかっていうことを、広島の大学生と一緒に話をしようと思っても、ここでまた一つの分断が生 まれてくるのは、広島というのは原爆が落ちて、国際平和文化都市と言われて、町にも地方公共団体にも市民運動にも広島大学にもいくらでも金が落ちてくるわ けです。で、そこの広島大学の大学生達が「難民映画祭」というのをやる。へえ、それはすばらしいと思って、まあ新聞報道を読んでいたんです。ところがその 記事ですが、外務省と国連と協力して世界中の本当の難民をネットカフェ難民とか言ってる連中に教えてやるとか平気で記者会見で言ってるんですね。広島大学 と外務省と国連と共同して「難民映画祭」をやる子達というのは、自分達はそういう貧困の問題や平和の問題に関わる以上は、きちんとした地位と収入を得られ なければ関わらないって言い出してるみたいで。どういうことかというと、まあNPOもだいぶ問題はあると思いますけど、市民運動レベルでは参加しないと。 だから大学院の修士課程で国際政治学をやったり、その間でインターンで国連に行って、アメリカの大学でPh.Dを取って、それで国連職員になるというえさ をぶら下げられるわけですね。そのえさをぶら下げられて動いてる間に、もう就職もなにもドンドンなくなっていく。またそれでドンドンこじれていく。じゃあ 早めに動こうよって言っても、もう動けないんですね。先に少し話したような大学生たちが管理者の視線でしかものを考えなくなっているという話とも同じです から、東京でもそういうのがたくさんあると思うんですけれど、一方で少なくとも、僕が東京にいる時には、いろんな運動に関わってもそういう人達と付き合う ことはなかったですね。地方都市の中でのある種の異常な状態、まあこれは広島が特殊なんだろうかなあと思うんですけれども。そういうのを感じます。
そういうのをいろいろ考えている時に、何度も『山谷-やられたらやりかえせ』という映画を観ていると、発見があるんですよね。現実は何にも変わっていな いのに、それがすごくきれいらしく作られて、本質が誤魔化されていると。それでその本質を誤魔化されている時に、今日も若い人がたくさん観に来ているよう ですが、どういうふうにみえるんだろうなあと。剝き出しの暴力ではない、もっと陰湿に囲い込まれて。ところが、マスメディアや消費文化的には非常にキラキ ラしたものだけになっているから余計影が見えなくなっている。で、その影がより一層濃くなっていて、そこから目を背けるというか、もう気付かないようにし なければ、社会から外れてしまうっていう無意識の恐怖、不安のようなものがドンドン人を取り込んでいく。そういう中で、どういうことができるんだろうな あって考えています。

ベンヤミンの「流動する集団身体」

それで今日のトークのテーマというか、タイトルにした「流動する集団身体」という言葉ですが……これはヴァルター・ベンヤミンという思想家、ドイツのユ ダヤ人で1940年にナチスから逃れてフランスとスペインの国境で自殺した人です。彼が1920年代か30年代に書いた『シュールレアリズム』という論文 の中で最後の方に出てくる言葉で、いろんなふうに日本語には訳されているんですね。集合的身体とか集合身体とか。
ちょっと説明なし読んでしまうとわかりにくいかもしれませんが、ずばりのところだけ読んでみると、「集団もまた身体的である。技術の中で組織される集団 の肉体がその政治的、具体的な現実性の全てを備えた姿で生み出されるのは、あのイメージ空間……」イメージ空間とはまあ映画とかいろんなものをここでベン ヤミンは指しています。「……イメージ空間、世俗的啓示のおかげで私達が住み着くことのできるあの空間の中においてでしかありえない。世俗的啓示において 身体とイメージ空間とが深く相互浸透し、その結果、革命のあらゆる緊張が身体的、集団的な神経刺激となり、集団におけるあらゆる身体的な神経刺激が革命の 内で放電されるならば、その時初めて現実に『共産党宣言』が要求している程度にまで自分自身を乗り越えたことになる。この宣言が現在何をするよう命じてい るのか。それを把握している人間は目下のところシュールレアリスト達だけである。彼らはそれぞれに表情による黙劇を演じている、毎分ごとに60秒間ベルを 鳴らす目覚まし時計の文字盤になりかわって」こういうふうに言っているんですね。
これは、シュールレアリズムが出てきた同時代に書かれた批評です。ですから、この論文と一緒にブレヒトであるとか、あのベルトルト・ブレヒト論であると か、『複製技術の時代における芸術作品』って映画論、それも読む必要があるんですが、この集団身体、集合的な身体、それと神経刺激とはいったいどういうこ となんだろうというのを考えるんですね。  2000年代の初めに東京でいろいろモゾモゾしている時に、9・11が起きて反戦運動のようなものがひろがった時に、あのマスコミとかマスメディアの話 になると、もう全く何の意味もないと。それを非常に感じたのが9・11以降の反戦運動の広がり、特に反報復ですね。アメリカの内部から、9・11に対して ブッシュが報復する可能性があるので、もうみんなで止めてくれと。世界中のみんなが止めてくれっていうのを、まさにニューヨークのWTCの近くのイースト ヴィレッジやロアーイーストサイドのアーティスト達から真っ先に、本当にその日のうちにメールが着きだして。それに対して、まざまざと思い出すのは日本の マスメディア、大新聞の全く何の意味もなさない報道ばかり。世界的なインターネットでの反戦運動のひろがりをせいぜい後追いをするかのように報道を始める くらいなものでした。
先程、例を出した夜行バス、あるいは高速バスで移動する、国内ですとそうですよねえ。今はもう急速な勢いで始まっているようですが、そのうち成田−上海 は5,000円くらいで立ち乗りの飛行機になると言われてますよね(笑)。実は、それは1990年代の半ばでもそうでした。香港−成田−ニューヨーク便っ ていうのがあって、この中はほとんどチャイナタウンのような状態だったんです。そういうふうに非常に活発に人が移動しています。
それで、先程の『山谷-やられたらやりかえせ』の両義的な空間、あるいはまさに一つの場所で身体が集合する可能性を断ち切っている雇用システムを、一方 でインターネットであったり、インターネットを利用することで日本国内の様々な都市を労働者が個別に分断された形で、格安バスで移動するというふうにも なっています。この両義的な空間っていうのがすでにもう人々が集まれる空間ではない。
これはあるパレスチナの研究者が一つのキーワードとして言ってる「スパシオサイド」、空間殺しですね。空間を殺して人が集まれないようにする。だけれど も、一方でインターネットが全然違う人達を結びつける可能性もある。分断しながら結びつけていく。同時に、いろんな身体が動き回っている。そこで、ベンヤ ミンがシュールレアリズムや映画を観ながら1920年代から40年代にかけて、彼自身の身体や感受性や思考をふるわせていたものを、今の段階でどのように 考えることができるのか。ただ、このベンヤミンという人は圧倒的に厭世的でペシミスティックな人でしたから、今それこそ僕らももう一度徹底的に絶望するし かない。現実は本当に絶望しきっているわけですよねえ。
僕が東京に住んでいる時、この近所のよく飲みに行った飲み屋さんで、当時高校生の女の子、もう大学生か、働いているか、それとも夜の女になっているかも しれないですけど、「もう夢も希望もないよ」とか言ってました。「楽しいことはディズニーランドに行くことだけ」って言ってましたけど。そういうのをふま えた上で、もう一度何を考えることができるのか。そばにいる人もそうだし、夜行バスに乗って隣に座ってる人は何をしているんだろう、どこに行くんだろうと か。あるいはインターネットをやっていて、会ったこともない人と友達になるかもしれないけれど、意見が合う人、合わない人とか関係なく、どういうふうに対 話ができるんだろう。それを今回の「流動する集団身体」ということでちょっと言ってみたかった。

移動する人と閉じこもる人

それと移動をしている人びとが数多くいる一方で、もう全く引きこもっている人達もいるでしょう。また、移動を常に繰り返している労働者達と、労働者の中 でも移動が全くできない、本当に閉じ込められているような工場の労働者とか、あるいはショッピングモールの労働者などの、そういう人達とどうつながってい けるのか。
昨年の夏なんですけども、ちょっといろんな所に呼び出されて行かないといけなくなって、久しぶりに二十数年ぶりに青春18きっぷを買って、コトコトして たんですね。たまたま関西学院大学に講義に行った時に、伊賀上野の出身の子がいて、それで彼に伊賀上野へはどうやって行くのって訊いたら、「関西本線って いうのがあるんですよ」と。東海道本線がありますよね、名古屋からいっぺん琵琶湖の方に上がっていって、京都に下りる。それは東海道新幹線も走っているや つです。関西本線はそれができるまでに三重、名古屋から奈良、それからこの間事故のあった福知山線につながる線路だったんですね。福知山から名古屋までつ ながっている、三重や奈良の方を走るのが関西本線。今、関西線って言ってますが、東海道線に東海道新幹線が走るまでは、この関西本線が一つの大きな基幹線 路だったらしいんですね。伊賀上野は、戦国時代からある忍者の所です。その近くに、亀山城で有名な亀山という所があります。ここにはシャープの液晶の巨大 な工場があります。ほんの二、三週間前、去年の年末にその工場に行く外国人労働者が乗ったバンが事故を起こして何人か亡くなった所です。
で、そこに行ってみようと思って。尼崎から紀伊本線かな。奈良大和路線っていうのがあるんですよ。それで奈良の方を通って、奈良から関西本線に入ってい くんですけどね。亀山にしても伊賀上野にしても昔からある町だし、歴史を知っていれば聞いたことがある町です。でも、夕方通るんで時刻表を見たら奈良から それを抜けて名古屋に行くまでに5、6時間かかるんですよ。東海道線を乗るより時間がかかるんだけど、まあ行ってみようかと思って。亀山でも伊賀上野でも コンビニの一つくらいあるだろうと思って行ったんですね。
ところが単線で本当にずっと真っ暗なんです。電車一両の中にいろんな外国人が乗って来て、途中でバンっていきなり電車が止まったら「現在、小動物が衝突 しましたので、しばらくお待ち下さい」と。だんだん不安になってきて。青春18きっぷで鈍行で行くと二時間くらいです。200キロ走ると大体30分くらい 乗り換え時間があって、まあ亀山でも伊賀上野でも晩飯食えるだろうと。でも、本当になんにもないんですよ。亀山に降りてみたら、そのシャープの巨大な工場 に行くバス、労働者達を運ぶバスは駅の前に止まっているんだけど、もうなんにもない。本当になんにもなくて。これは一体どういうことなんだろうと、考えざ るをえなくなるような所で。やっぱり閉じ込められているんですよねえ。同じような例として、琵琶湖の周辺でいえば大津の方が今、工場街になっていて。で、 そこに嫁いだ中国人の女性が本当に孤立して、自分の子供と同級生の幼稚園児を殺してしまったりというような事件も起きています。それは本当に行ってみない とわからないくらい閉鎖的な空間で。

広島・シャリバリ地下大学

広島でシャリバリ地下大学という、まあ変なことをやってるんですが、そこで学長を務めている行友太郎君という人がいます。この行友君はしばらく早稲田で こっちでいろいろ運動をやって、広島に僕より先に帰って。今はある工場で働いています。彼に聞いたのかどうかはちょっとさだかではないのですが、今、瀬戸 内海周りのいろいろな工場で働いてる人達の多くは渡り職人的にいろいろの工場の期間工として働いて、全く外に出ることのないような人もいるっていう話で す。あとショッピングモールの労働者もそうですよねえ。ショッピングモールも本当に擬似的な町の中にできあがっています。ショッピングモールってたかだか スーパーの延長と思うんですよ。入っているお店はほぼ全国チェーンだったり、あるいは世界的なチェーンだったりするんで、現地採用の人もいますが、ほとん どのお店の管理職はいろんな日本中のショッピングモールを何年か単位でまわされているんですよねえ。ほとんどその町に親しむ間もなく移動していると。しば らくその町に住んで、毎朝ショッピングモールに通って、二年たったら今まで広島にいたのが今度は名古屋に行ってくれとかって移動していくそうです。一方で その下のいわゆるアルバイトの人達とか派遣社員の人達は地元ですよねえ。この構図は、今までの大手の大企業がやってきたのとほとんど同じ、あるいは国家公 務員でいうキャリアとかと全然変わらないやり方なわけですね。そういう中で、もう一度どういうふうにできればいいのかを、ここのところいろいろ移動したり して、あるいは広島の中でいろんな人と会うたびに考えます。
それで、このシャリバリ地下大学に、今、大体20人から多い時は50人くらいが来るんですけれども、まあいろんな人達が来ます。大学生も来るし、あとフ リーターとか派遣社員とか、60過ぎて反原発の運動をやっている人も来るし。我々は何もくくりをしてないし、学費も取らないし、もう誰が来てもいいよとい うふうにはしているんですが、やっぱり正規雇用をされている人は一切来ないんですよね。大学の先生は別ですが。普通にサラリーマンやってますよ、公務員 やってますよっていう人は全く来ないんです。30、40でずうっと派遣社員の人であるとか、あるいはポスドクってやつ、大学院博士課程まで出てて非常勤講 師だけで食っている人達とか。
その辺のいろんな話を聞くと、特に派遣社員を続けている人達を待ち受ける罠っていうのはすごくあるみたいで。派遣社員の人達を次の段階で搾取するのは自 己啓発セミナーなんですね。これは正規雇用の人もそうだと思うんですが。先程の外務省とか国連であるとか、あるいは防衛省とくっついた平和構築みたいなも の、平和活動を派遣社員を続けながらやっているような人も来ていて、それでいろんな話を聞くと、平和活動家のための非暴力運動の基礎になる自己啓発セミ ナーなんてのがあるんだそうです。これはでも恐ろしい話で、10日間寺に閉じ込められて罵詈雑言を浴びせられて、それに耐えるのが非暴力運動ワークショッ プだとかいって。逃げ出してきたって言ってましたけど。なんとか抜け出そう、あるいは抜け出すだけじゃなくて、ある種自己実現的に社会に関わっていこうと する人達を取り巻く罠っていうのが何重にもなっているんですよねえ。基本的な構造は『山谷-やられたらやりかえせ』の中で描かれたものと全く変わらない。 そして、一見身体的な暴力や脅しの言葉がなくて、口当たりのいい言葉を使いながら、すごく高度な次元で人を抑圧する構造がドンドン複雑化しているっていう ことなんでしょうね。

いま一度、『山谷-やられたらやりかえせ』

そこで、もう一度『山谷-やられたらやりかえせ』を観ると、いろいろ考えてちょっと複雑な気持ちになってしまいます。どういうふうにしたら、こういう形 で具体的に一つの場所でみんなが一緒にいられるのか、そしてそんな場所が今作れるのか。もしそれが徹底的につぶされているのであれば、先程言ったような実 際に移動している人、あるいは移動はできないまま閉じこもっている人、その情報を分断したままつなげているネットのようなものをどのように今使うことがで きるのか。そのネットの問題性も含めて何ができるのか。で、そういう意味で先程ちょっと読んだような集団的あるいは集合的な身体、それをもう一度連結し直 していくようなうねりを、神経刺激的なものをどのように僕らが作り得るのか。それはどのような表現であるのかっていうことですね。
この間も、1月13日に広島でこの映画を観ながら、若い人も、広島の大学生達も来てくれていろいろ話をしてきたんですけど。まず出てくる人達の、どうい う言い方をしてたか忘れましたけれど、存在感がもう全然今とは違うって言っていて。それで、それをどういうふうに感じるのかなあと。
それと、「ヒロシマ平和映画祭」というのの事務局長をやったりしたんですが、白黒、モノクロ映画自体についていけないっていう若い人も多いんですよね。 今、僕は大衆文化の批評とかをやるのである程度アニメも観ますけれども、非常に複雑にはなっているんですよね。例えばアメリカのテレビドラマの『24』と かを観ても何が何だかわからない。主人公が何の為に動いてるのかわからないのに、やたら刺激的なシーンが多くて。で、なおかつシュチュエーションだけはす ごく複雑になってる。そういうものを見慣れていると、モノクロの映像を観るとか、あるいはこの『山谷-やられたらやりかえせ』を……ああそうだ。学生が 言ってたのは「言ってること、ほとんどわからない」と。確かに音声の問題とか、ちょっと上映環境の問題もあったと思うんですが、「ほとんど言ってることは わからないんだけど、何かすごい勢いを感じる」と。で、そういったものと、今の刺激をどういうふうにつなげて考えるのか。あるいはその差異をどう考えてい くのか。そういうことが、今すごく重要なのかなあと思っています。
僕は音楽批評から最近はいろんなことをやらされて、映画や写真や演劇まで書かされたりするんですけれども、さっきのアニメの例で言えば、すごく短いスパ ンの中で大量な表現が生まれて、それをマニアックに追っていくことによって一切の歴史性に近付けないという事態が生まれていると。例えば、音楽で言えば、 いろんなリミックスのバージョンが生まれるんだけど、じゃあそれを消化するだけで、この音楽がどういうルーツがあるんだろうかっていうところにいかない。 そういう意味で、非常に歴史が排除されていく。あるいは非歴史というか脱歴史化されてくる。そこで、もう一度時間や空間や記憶や、人々のいろんな交流を、 俯瞰的ではなく上からではなく、自分が常に動きながら、あるいは立ち止まっててもいいんですけれども、どういうふうに具体的に広がりを持って見ていくこと ができるのか。今の段階では僕はそういうふうに感じています。
その辺のことも含めて今日いらしている皆さんが、僕に質問をされても何も答えられないので、むしろ皆さんが勝手に喋っていただければと思います。今日僕 がぐずぐずと喋ってきましたけれども、その為のヒントのような話をできたのなら、広島から夜行バスで来た甲斐があったかなと思っています。

[2011.1.22 planB]

監獄(刑務所)のことも考えて下さい、とりわけ「医療」について 

中川孝志(元・山谷悪質業者追放現場闘争委員会)

今晩は、中川と言います。まず自己紹介からします。生まれは1949年です。今年61歳です。北海道生まれです。山岡強一さんも北海道生まれでした、私 は1968年に北海道から広島の大学行ったんですけども。で、その半年後には山谷にいたんですね。68年の11月に初めて山谷に行きました。この映画の監 督の山岡さんとは72年からの付き合いなんですけども、その前に船本洲治っていう名前はご存じかどうかわかりませんけれど、1975年に沖縄の嘉手納基地 で自決した船本洲治。それから次の年、1976年に大阪の拘置所で殺された鈴木国男。広島大学から山谷で活動をしていた数人のグループがいるんですけど も、私は一番若かったけど、そのグループの一員でした。船本、鈴木も死んでしまいましたし、残っているのはわずかです。一人広島に、わりと東京によく出て 来るんですけども中山さんという方がおりまして。彼も同じ大学です。

本当にわずかな仮釈放
今日は山谷の事ではなくて刑務所の話をぜひ知ってもらいたいと思いまして、この場を用意してもらいました。資料をお渡ししましたけれど、その前に簡単に 言いますと今無期刑囚というのが、これは2008年段階の統計ですけども1,711人おります。その内、この10年間の統計なんですけれども、仮釈放に なった人数が68人になってますね。これは平成11年、つまり1999年から2008年の間の10年間の統計なんですけれども。68人が仮釈放になりまし たが、しかし同じ時期に獄死した人間が121人になってます。数年前にいわゆる刑法改正で有期刑の上限が30年になったんですね。そうすると30年という 有期刑があって無期刑囚がいるという事は、30年を過ぎなければ、無期刑囚は仮釈放になるという事はないというような状態なんですね。実際問題としてこの 数年間みても仮釈になって出てきてる人は数名です。仮釈になる可能性っていうのは本当にわずかなものでしかないという状態が続いてます。その統計をとった 前の日にも無期刑を宣告された人がいますから、無期刑一年目っていう人を含めてですけども、1,711人の人数の中で20年以上というのが400人もおり ます。ですから年齢的には、20年以上いるということは、多くは60代をもう超えてるような年齢ですね。これから考えても、ほとんどの人が獄死せざるをえ ないような状況であるというのが今の実態なわけですね。

厳正独居13年間の磯江洋一さん
その中で、具体的な例として磯江洋一さんという、今旭川刑務所にいる方がいます。彼は1979年に、山谷のマンモス交番の警察官を刺殺したという事で 1981年から旭川刑務所にいます。今年で受刑生活は29年目になります。その彼の事を若干話をしたいと思います。磯江洋一さんは、逮捕されて以降徹底し て反権力と言いますか、例えば東京拘置所にいる間でも例えば一か月間の断食闘争をやるとか、徹底的な反権力闘争を獄中においてやってきたわけですけども。 その彼は旭川に入って以降13年数か月の間「厳正独居」という処遇にあってきました。「厳正独居」というのは簡単に言えば、刑務所に入った段階で処遇が分 けられるわけです。雑居房に入る人、それから労役で工場には出るけども夜間になって独居に行く人、それからもう一つは昼も夜も独居房にいる人というふうに 分類されるんですね。いわゆる「昼夜間独居」と言ってますけども、「厳正独居」というのは、言ってみればずうっと懲罰を掛けられているというに等しい処遇 です。
実は私も1984年から86年の間府中刑務所におりまして、その半分は「厳正独居」という処遇でした。残り半分は工場に出ましたけど。それで「厳正独 居」、昼夜間独居がどういうものであるかは身に染みてわかっているつもりです。一日中口をきくという機会はないですね。唯一、看守と一言二言言葉を交わす 機会があるかどうかというような事です。ほとんど、例えば運動の時間もそれから風呂に入る時も全て一人というのが昼夜間独居で、ずうっと部屋にこもりっぱ なしで一人で作業をしている。府中では、私がいた頃には東芝の買物袋、紙袋を作る作業でした。それをずうっとやり続けるわけですね。ほとんど口をきく機会 がない。私の例で言えば、半年経って工場に出ることが出来ましたが、その時には解放感といいますか、それは人の動きが見えるとか、休み時間に同じ工場の人 間と話しが出来るとかいうような事がすごい解放感でした。そういう意味で言えば、昼夜間独居というのは非常に懲罰的な意味が大きいという事です。工場の中 で、例えば看守に対して何か逆らったりすると、懲罰にならなくても「厳正独居にするぞ」という事が脅しになるわけですよね。そういうような処遇です。
その処遇を磯江さんは13年間掛けられていました。それで裁判を起こしたんですね。「厳正独居処遇」は基本的人権を無視した憲法違反であると。結果的に は負けましたけども、判決が出る前に工場に出る事が出来ました。当局は、裁判の結果を恐れたのだと思います。しかし13年間の「厳正独居」っていうのは、 全く特殊でもないんですね。ずうっと「厳正独居」にいる人もいる。それはいわゆる工場に出て、当局の言い分としては、「集団生活に馴染まない」という言い 方をするわけですけれどもね。しかしながら、その馴染まないどころが馴染むようにするのが刑務所の役割なはずなんですね、社会復帰する為に。だけど、そう いう道を実際には閉ざしているというのが現実の姿です。
磯江さんは今年で66歳になります。この間はずうっと腰痛、腰だけではなくてずうっと足の方に痺れがきてるという事で、運動が全く出来ないような状態で す。運動場は、一周200メートル位のがあるんですけども、それを一周する位で足や腰が痛くなって動けなくなるというような状態なんですね。それに加えて 「過敏性腸症候群」という、かなり神経的な問題も大きくあるんですけれど、ようするに腸の病気です。排便が非常に苦しい。下痢と便秘の繰り返しみたいなも のですよね。それをずうっと繰り返しているというので、健康面がかなり悪い状態にあります。それで私はなんとかして刑務所で必要な治療を受けられるように する、それにはどうしたらいいのかというのを追求したいという気持ちでいます。
お配りしたビラに書いてあるとおり、去年やっと6月6日に「6・9決起 30年」という集会をやりました。130人位の方に来て頂いて、これは予想を上 回る数でした。集会のサブタイトルは「寄せ場・監獄・貧困を考える」としました。寄せ場と監獄、それから貧困という問題は、ずうっと結びついてあるわけで す。刑務所の問題、監獄の問題というのは入った人間でなければなかなか関心を持てないでしょう。実際に本当に少数、非常にマイナーな問題です。しかし、人 の命に関わる問題ですから、これは社会的な問題に関心を持つ人はぜひとも関心を持って頂きたいと思ってます。ちなみに誰が言ったかわかりませんけども「監 獄の姿がその時代の社会の姿を映し出している」というような言葉があるわけです。監獄の状態が悪いという事は人間を大切にしない社会の在り方につながる事 だと思います。磯江さんに関しては、なんとか実際に治療が受けられるような処遇を勝ち取るにはどうしたらいいかという事で、少しでも実態を知って頂きたい というような事で話しました。
磯江さんは、仮釈放というのは権力の恩恵にすがるものであるとして、それを「拒否する」という考えに立っています。「仮釈放」の具体的な要件として、事件 に対する反省であるというのがまず第一の条件になります。それから次ぎに受刑生活が模範囚でなければいけないという条件があります。これは、刑務所の秩序 に従順であれ、ということです。加えて出所した時に住みかがある、仕事もあるという状態でなければ仮釈放の条件にはならないわけです。最初の、自分が起こ した事件を反省するという事がまず第一の要件ですから、磯江さんはそれに対しては「そのようにするつもりはない」という考えです。彼は「自分は仮釈放は拒 否する」というような姿勢を貫いています。

命が危険でも「刑の執行停止」はせず――丸岡修さん
それからもう一人、これは本当に命の危険にある人についてお話します。もう一枚のチラシを見て下さい。宮城刑務所の丸岡修さんという人です。彼は旧日本 赤軍で二件のハイジャックをやったという事で1987年に国内で、日本で逮捕されました。逮捕されてからしばらく東京拘置所にいたわけですけれど、その時 に肺炎にかかりましてその時の治療が非常にまずくて、東京拘置所で二週間近く本当に生死の境をさまようような状態になりました。意識が全くないような状態 で、その時には毎日弁護士に行ってもらいました。その後宮城刑務所に移監されて、今現在「拡張型心筋症」という、これはいわゆる難病指定されている病気な んですが、非常に危険な状態であります。「拡張型心筋症」というのは、とにかく心臓を移植するか、人工心臓を付けるしかやりようがないんですね。必ず、 徐々に悪くなるしかないという病気なんです。それに対して丸岡さんの弁護団は今年の3月、「刑の執行停止」の申し入れ、つまり刑務所にいるという状態に耐 えられる病状ではないというので、「刑の執行を停止してしかるべく入院治療させよ」というような申し入れをしました。今年の3月にやったのが4回目です。 全て検事からそれを拒否されました。「拡張型心筋症」、「循環器系」の専門医が4人、病状のデータを読んでもらって、その4人の医者いずれもが「速やかな 入院治療が必要である」という診断を下しています。加えてその中の一人の医師の病院に「入院する事を許可する」という、入院して頂いてかまいませんという ような承諾書ももらっています。それにもかかわらず検察はそれを拒否してきたという事は、遠からず内に死んでもよろしいという事と同じであると思っていま す。
その執行停止の申し入れを4回も拒否されて、その後に今年の6月ですけれども裁判を起こしました。二つあります。一つは「義務付け訴訟」と言うんですけ れども。内容は「執行停止を速やかにさせよ」と。そのようにする義務が管理側、つまり刑務所側それから検察側にはあるというのが一つ。それからもう一つは それに加えて「国賠訴訟」です。このような病状が悪化したのは刑務所側が十分な治療をしてこなかったという事であるから、それに対し、国家賠償を請求する というような訴訟を提起したんです。ところがその提起してから二週間位経って、最初の「義務付け訴訟」、入院治療させよという方は門前払いになりました。 今「国賠訴訟」だけは続けてはいるんですけれど、目的は入院治療を実現させることです。いかに命を生き延びさせるかという事ですから、そういう意味で言え ば今現在法的な手段として「刑の執行停止」を実現するという道はほぼ閉ざされてしまったという状態です。それに対してとにかく何が他に出来るんだろうかと いうと、ひとつは政治力を使う。あるいはマスコミ、つまり世論にどれだけ訴えるかという事しかない。あと、国際世論としてはアムネスティに緊急行動提起を してもらうというような道がありますけれども、それは今準備しています。
とにかく「刑の執行停止」というのは非常にハードルが高くて、今までの例から言ってもほとんど、例えばガンで余命何か月というふうに宣告されたというよ うな事でほぼもう死ぬのがわかってるという状態でなければ「刑の執行停止」をしないというのが、実際の今までの姿です。医者の能力も必要な設備もない、現 在の刑務所の医療では遠からず命が失われるという状態に対して、必要な医師と設備のある外部病院で治療させよ、という当たり前の要求に対し、それをしない という理由がいったいどこにあるんだろうかという事です。「刑の執行停止」という基準そのものを法務省、検察がどのように考えているのかという事を明らか にしなければいけないと思ってます。これからがギリギリの勝負であると思います。ガンの余命何か月というのと違って「拡張型心筋症」というのは、それこそ 極端に言えば明日病状が急変して死ぬかもわからないというような状態なわけです。丸岡さんは本当に日々命の危険の中にいるのです。

些細なことで仮釈放の条件を剥奪――泉水博さん
それからもう一人、岐阜刑務所にいる泉水博さんという名前はご存じでしょうか。今、私が持ってきた本は、もう亡くなりましたけど松下竜一さんという九州 の作家の方が書いた『怒りていう、逃亡には非ず―日本赤軍コマンド泉水博の流転-』という本です。これは河出書房新社から出ています。1977年に日本赤 軍のダッカ闘争というのがありまして、泉水さんはその時に指名されて、彼は航空機の中で人質になってる人が、自分が行く事によって助かるのであれば行きま しょうという事で行ったわけですね。その11年後、1988年にフィリピンで逮捕されました。1988年以降岐阜刑務所におります。そのずっと前の話なん ですけども、泉水さんという人は1960年頃に、ヤクザまがいの事をやってた事があるんですね。その仲間と共謀して、中身は具体的にはこれ読んで頂ければ わかるんですけども。強盗殺人という事で、彼自身が手を掛けたわけじゃないんですけども、共謀したという事で1964年ころに無期刑に処せられた人なんで す。その彼が確か1974年ころだったと思いますが、千葉刑務所にいた時に、もうあと一年経てば仮釈放になるという事が言い渡されていたんですね。ところ が雑居房の中の仲間が重い病にかかっていて、何とかその仲間に治療を受けさせたいと言ったんだけども、刑務所側に拒否され続けたんです。彼は、その同囚を 助けんが為に、助けたいという一心で看守を人質にして「治療を受けさせよ」という事をやっちゃったんですよね。それが74年か75年だと思います。あと一 年経てば仮釈放になっていたのです。私は、彼がその千葉刑務所で決起した時の裁判に行った記憶あります。それで看守に対する暴行で二年半くらった。それで 旭川刑務所に行ったんですよ。
そして、1977年のダッカ闘争で奪還の指名を受けて、いわゆる「超法規的処置」によって、アラブに行ったという人なんですね。通算してみたら、 1960年位に逮捕されて、1977年まで、それから1987年から今現在までという事で、人生の三分の二は刑務所暮らしをしてるという事ですね。非常に 「義侠心」に厚い人で、仲間を大切にする人だと思います。今泉水さんは無期囚で、年齢は72歳か73歳ですね。幸いな事に健康なんです。しばらく前から受 刑者に対する面会が緩和されまして、手紙も誰にも書けるんですね。面会は制限がありますけれど。昔は親族か弁護士、身柄引受人しか会えなかったんですね。 それがまあ会えるようになって。今岐阜刑務所にいて、岐阜に支援の何人かの人がおりますので、月に一回二回は面会に行ってもらっていて、非常にこう意気盛 ん、元気なんですね。それはまあ嬉しいんですけども。
ただ問題は、彼は無期囚であるわけです。そしてもう一つ、フィリピンで逮捕された時に「旅券法違反」がありまして、これが二年なんですね。二つの刑を 持っている場合一般的には長い方からやるという決まりがあるんですよ。例えば10年と3年があったら、10年をやってから3年に移るというような決まりが ある。ところが泉水さんは無期囚ですから、無期と二年なんですね。現在、無期刑で服役しています。そして二年の刑が残っているわけです。この二年の刑が 残っているうちはいつまでたっても仮釈放の条件が出てこないんです。それで今、当面の一番の獲得目標としては「刑の順序変更」といいますが、つまり現在無 期刑をやってるけれども、二年の刑を先にやること。それを済ませて、それから無期刑に返っていく。これをなんとかしないうちは「仮釈」は話にならないとい う状態なんですね。加えて、岐阜刑務所だけではないんですけれども、受刑生活の中で一年間懲罰にあわなければ、「無事故賞」と言う――「懲罰」になるのを 「事故」と言うんです。「無事故賞」というのは、一年なら一本というふうに言うんですけれども、それが「無事故賞」5本無ければ、つまり、5年間「懲罰」 にならなければ、岐阜刑務所の内規として「刑の順変」もしないし、もちろん仮釈対象にもならない。これはどういう法律に基づいているかを問えば、おそらく 何もないと思うんですが。
それで彼は三年間三本の「無事故賞」を持っていたんですね。それがほんのちょっとした事で、まったく些細なことで、懲罰になってしまいました。それで三 年間続いてきた「無事故賞」を?脱されてしまったのです。懲罰では、だいたい一週間とか10日の「軽塀禁」をくらうわけです。加えて「無事故賞」の剥奪で す。これは考えてみたら、3年間の刑が加算されたと同じ事なんです。それがなければ仮釈放の対象になりえたのに、その一言で「無事故賞」が全て剥奪されて しまった。そんな理不尽な事があるのかというような事で、彼は気持ちとしては裁判に訴えたいと考えています。もっともなことだと思います。これはもう自分 の問題だけではなくて、そのように苦しんでいる人間がたくさんいるという事で、なんとかこういった実態を明らかにしたいという事で裁判に訴えたいというふ うな事を今現在言っております。私としては今の泉水さんの「刑の順序変更」これをなんとかしてやりたいと考えています。この権限を持ってるのは検事なんで すね、担当検事は岐阜地方検察庁の検事です。その検事が「うん」と言えばいいだけの話なんです。それをとにかくやりたいという事、私の強い想いです。

徳島刑務所の暴動――肛門に指を突っ込む医者の蛮行
それから話を戻しますけれども、さっきの丸岡さんのことです。刑務所の管轄は法務省ですよね。法務省矯正局です。医療もすべてそうなんです。ですから今 弁護士会なんかが要求しているのは、改正の一つの方法として医療は厚生労働省に移せということです。受刑者の医療を、ちゃんと医者の立場としてみる為には 厚生労働省に移さなければ駄目であると。法務省っていうのは、いかに受刑者を管理するかという事が中心課題であり、すべてがそこを中心に回っているわけで す。そういう所だから、刑務所医療が医療の名に値するものではないわけです。実際に磯江さんの例で言っても、診察の申し込みをする。それも毎回出来るわけ じゃないですね。その前に看護助手というのがいて、医者にまで辿り着けないわけですね。なんとか辿り着いたとしても、彼の手紙に書いてあるんですけれど も、医者は一言も口をきかないっていうんです。普通であれば「どこが痛い」とか「ここが痛いのか」「どうなんだ」と、問診をするのが当たり前です。にも関 わらず一切口きかないっていうんですね。それでカルテだけを見て、看護助手に投薬だけを指示するという事です。そういった刑務所の医者の基本的な認識とし て、まず、この受刑者が嘘を言ってるのではないのかという事を考える。詐病ではないのか。つまり嘘を言って懲役労働から逃れて、病舎に移りたいが為に、つ まりサボリたい為に嘘を言ってるんではないかと。まず第一に疑うというのが、ずうっと続いてきた刑務所医療の実態なんです。そういったものを変えなけれ ば、受刑者が当たり前の医療さえも受けられない。そういった問題について、いろいろ取り組んでるのは今現在「監獄人権センター」、「CPR」と呼んでます が、そことあとは「救援連絡センター」です。
「監獄人権センター」の話を若干させてもらいますけれど、設立15年になります。今現在で言えば獄中者からの手紙が年に1,300通位来ます。前はそん な事なかったんですね。何でそんなに増えたかというと、2002年にあった「名古屋刑務所事件」をご存じでしょうか。名古屋刑務所で革手錠をされて、懲罰 ですね。後革手錠。それで放水を肛門にされました。ものすごい圧力がかかってる放水です。それで二名の受刑者が殺されたという事件がありました。その事件 をきっかけにして「行政改革会議」っていうのが出来まして、その中でいろんな改革の提案がされました。その「名古屋刑務所事件」が2002年でした。その 後に、2007年に徳島刑務所で暴動が起こりました。暴動の原因は何かというと……。2005年位から「監獄人権センター」に対して何通も徳島刑務所の受 刑者から手紙が来てたんです。徳島刑務所の医者が、例えば「頭が痛い」「風邪ひいてる」というような事でも、まず何をやるかというと、肛門に指を突っ込 む、それからつねるという事をやるわけです。それはもう本当に何人もの受刑者から「監獄人権センター」に訴えがあったのです。とにかく医者の治療などとは 全く違う、いわば拷問です。
そして、その実態を解明しようという事で弁護士会が動きました。弁護士会がかなり綿密に聞き取り調査をやりました。それが「刑務所医療改革に関する提案 シンポジウム」というパンフレットにまとめられたのです。これは画期的な事だと思います。それで、「名古屋刑務所事件」から始まって徳島刑務所というかな り象徴的な事があって、獄中者からの手紙がドーンと増えたんですね。実際に自分がどういう事で苦しんでいるのか、どういう医療がされていたのか。あるいは 看守にどういう暴行を受けたのか。諸々の相談が来ます。それが年間で1,300通位になってます。刑務所の実態が明らかにされるのは、ほとんどこういうか たちで、獄中者と、「監獄人権センター」や「救援連絡センター」が直接手紙でやりとりするという事によるんです。その相談の5割位は医療問題です。まっと うな治療を受けたいという医療問題です。
ただ、先ほど言いましたように医療といってもいろいろ幅があると思います。丸岡さんの例に端的に表れているように、刑務所の基本的な姿勢は管理ですか ら。医療つまり医者という面からみるという事は刑務所側としてはないわけですね。その実態を動かさなければいけない。なんとかして当たり前の事として「刑 の執行停止」が必要な人には必要な入院加療を出来るようにしたいという事です。刑務所問題、とりわけその中でも医療問題っていうのは非常にマイナーなの が、残念ながら現実です。「刑務所問題」で集まりをやっても本当に専門的なところで関心を持ってる人以外はあまり来ないんですね。だけども、やはり命の問 題として考えた場合には、先程も言いましたように監獄がこの社会を映す鏡であると考えますと、社会がどうなっているのかという事が監獄の実態によって、側 面からみて明らかになるだろうと思います。
非常に難しい問題ですけども監獄問題、処遇問題と医療問題に関わり続けていきたいと思っております。皆さんになんとか少しでもニュースを発信するようにしたいと思いますので、その時にはぜひ関心を持って見て頂きたいと思います。

質疑応答から
司会 中川さん、どうもありがとうございます。刑務所の話を聞けば聞く程とても常識でははかれないような事がおこなわれていて、本当に驚き です。あまり時間がありませんが、もし質問がありましたら、一人か二人位なら受け答えができると思います。どなたかありませんか。びっくりするような事柄 で、質問もしづらいかもしれませんけれど。
参加者A ひとつ疑問に思う事があります。磯江無期囚にしても泉水無期囚にしても、犯罪を犯して傷つけた被害者がいると思うんです。そうす ると、監獄に入っていても償いごととか、被害者の人権とか命について内省的にでも反省してると思うんですけれども。殺された人達にも人権がありますから、 その辺の問題については磯江無期囚なり泉水無期囚なりはどのようにとらえているのかというのをお聞きしたいんですけれども。
中川 その事については、なかなか本人になり代わって言う事は出来ないんですね。磯江さん自身は、言葉としては反省の弁は述べてないです。 私はその事に対しては、やはり彼自身がそこに突っ込んで考えるというのは、あるべき事だとは思ってます。でも、それは本人がどのように考えるかという事で す。それからもう一つ泉水さんの件ですけども、この本(『怒りていう、逃亡には非ず』松下竜一著)を読んで頂ければいいんですけども。最初の彼のいわゆる 「強盗殺人」、その共犯にされたわけですが……。その件に関してはこの中に書いてあります。裁判の過程での彼自身の主張とそれから責任については書いてあ ります。私がなり代わって言えませんので、ぜひこの本を読んで頂きたいと思います。
参加者B はい。今あちらの方がね、たぶんおっしゃりたい事は、犯罪を犯した人なんだから、そういった刑務所の医療や人権をことさら取り上げて問題にしなくてもいいんじゃないか、そういう事でしょう?
参加者A いや、もちろん刑務所の中での医療の問題とか人権の問題は確かに深刻かもしれませんけれども、一方でやはり無期囚の人達は傷つけた人の立場も考えるべきではないかという。まあ常識的な意見ですけど。
参加者B 僕も、常識的に思うんですけど、今ずっと話を聞いてすごく刑務所に対する怒りがわいてきたんですよね。どんな人であっても人権は あるわけだし、刑はいわゆる無期だったりなんだったりで、今ある程度償いをしている、刑務所の中に入ってるんだから。その人に例えばけつの穴に指を突っ込 んでもいいのかっていうと、それはありえない、それは怒らないといけないと僕は思うんですね。
参加者A そういう無期囚が、例えば起こした事件について反省の弁を述べたりすれば、処遇っていうか扱いもゆるやかになったり改善もみられたんじゃないかって推測するんですけれど。
中川 それは別の事だと思います。磯江さん自身が主張しているのは、実際の彼の内心は計り知れませんけれども、正しい事をやったと主張しています。言葉としてはね。ですけど、そういう事と今私が言った医療問題とか獄中の処遇問題っていうのは直結はしないと思います。
参加者A 何で直結しないんでしょうか。
中川 それは、やはり制度の問題だからですよ。簡単にいえば、刑務所に入って事件に対する反省もし、看守の言う事をそのまま聞いていれば、 じゃあ医療問題がいいように扱われるのかというと、そうではないんです。医療問題は刑務所側の制度として決めているわけですから。制度を動かさない限りは 駄目なんですよ。反省している人間がまっとうな医療を受けられるか、反省してない人間はその理由によってそうではないのかっていう問題では全くないと思い ます。実際に、刑務所の中から来た手紙を読み、そして医療に関するアンケートを読むと、そのように考えるしかないだろうなあと思います。刑務所の設備の問 題、医者の質の問題、医者の数の問題。それは全く足りないわけですよ。例えば歯科治療ですが、一年二年待つのは当たり前という状態。一年経って順番が来た ら「おお早かったな」というふうに言われる。医療の問題というのは、その施設に入っている人間に対して全体の問題としてあるわけですから。
参加者C 一つだけ思うのは、裁判所だとか検察だとか、まあ身近なところで言えば警察なんかは、前提として公平だという。罪を犯した人間に 対しても、被害者に対しても、どっちにも公平であるっていう幻想をね、僕らは持たされてるんじゃないかという気がすごくしてるんです。実際、身近な警察で さえ僕はちょっと疑わしいなって思った事なんべんもあるし。いや僕は警察に捕まった事はないですよ。ただ、そういうふうに思った事がすごくあるのに。それ でも、そういう所は公平にやってるんだみたいな感じがやっぱり自分の中にもあるのじゃないか。ちょっとこれは見方を変えてもいいのではないかと最近すごく 考えているんです。どっちが正しいとか正しくないとかわかんないんですけど、今話を聞いていて、そういうふうに考えた方がいいのではないかという感想を持 ちました。
司会 なるほど。それで、また蒸し返すようですけど、処遇というのは本来は犯した罪が重かろうが軽微だろうが、平等に受けられるっていうの が基本的なものでしょう。ですから、それがなされていないという事が問題なわけです。その具体例として磯江さんや丸岡さんのことが出されました。あと事件 に対して、被害者に対してどう思い、深い反省をしているのか、してないのかっていうのは別の問題で、また別のところで問われる事かもしれない。まあ裁判で は反省している人は罪軽くなったりしますよ。そういう事はあるかもしれませんけれど、こと医療や刑務所における日々の処遇に関しては基本的には平等でなけ ればならない。いわゆる権利としても。反省してない人はひどい処遇をされて、反省してる人はいい処遇を受けるというのは本来あってはいけないわけですよ ね。という事で、時間もありますので、この場はこの辺でお開きにしたいと思います。
中川 「監獄法」っていうのが100年間続いたんですね。その後に、さっき話した事件などがあって新法「受刑者処遇法」というふうになった んです。で、その中でやっと受刑者の医療はいわゆる社会一般並みのを受ける権利があるという事が書かれました。だけど、以前と変わってないんです。実態は 全く変わっていません。
[2010年・8月7日 planB]

関連書籍(パンフレット)の紹介

集会報告集
無期囚 磯江洋一さん 6・9決起30年 問われ続ける寄せ場・監獄・貧困..

主な内容
●磯江洋一さんからのメッセージ
●6・9闘争と寄せ場の闘い 松沢哲成
●磯江さんを支えて30年 丸山康男
●6・9以降の山谷の闘い 荒木剛
●厳罰化の流れの中での無期囚 山際永三
●獄中の処遇、医療について 永井迅
●「貧困」とは何か 加名義泳逸
●新人の弁護士として6・9事件の裁判を担って 内藤隆
●旭川刑務所の磯江さんとの25年の付き合いを通じて 八重樫和裕
●山谷からの報告 中島和之
●従兄弟として付き合って思うこと 橋井宣二
●アピール 宮下公園のナイキ化計画阻止へ
●会場からの発言
●有志による座談会
●クロニクル
●磯江さんの現在の健康状態と獄中医療問題について

103ページ 1200円
*購入希望の方はお問い合わせページから、連絡をおねがいします。

「見せしめ」のポリティクス

丸川哲史(台湾文学・東アジア文化論)

今晩は、丸川と申します。今、私の専門を紹介して頂いたんですけど、台湾文学というジャンルだけでは狭いので、大学では中国文学、中国映画、それから中 国の現代史、そういうものも教えております。話しながら自分がどういう人間かっていうことを紹介していった方がいいと思うんですけど…。司会の池内さんと は、実は劇団関係で知り合うようになっていたのでした。まず1984年ことです。この映画の舞台になっている年代に私は大学に入学しています。この映画 『やられたらやりかえせ』の最後のクレジットにも載っていましたけど、「風の旅団」という劇団がありまして、1985年、86年くらいにそのテント劇公演 を観に行った経験があったんです。そういう人間関係、グループ関係がありまして、この映画を観るのもおそらく4回目か5回目くらいということにはなりま す。あともう一つこの映画との因果を申し上げますと、身近に知っている人も出ているのですね。林歳徳さんという方がいらっしゃっていましたけど、あの方は 台湾出身の方で、明治大学の守衛さんだったんですね。私が入った頃、ちょうど守衛を辞める時期だったんですけども。その当時、いわゆる在日外国人の指紋押 捺拒否の運動をされていて、私もちょっと彼のお手伝いした経験があります。それで、守衛であった林歳徳さんは大変良い方で、我々の側と言うか、学生運動す る側がストライキやる時にですね、すぐに鍵を学生側に引き渡してくれるんです(笑)。そういう良い方だったんです、非常に協力的で。かつての大学では、そ ういう良き時代もあったのですね。しかしそれが崩れてしまって、で今私はそこの大学で教えているという、ちょっと妙な感じでいます。この映画を今この現時 点で観る時に、司会の池内さんから私に振られた話として、私が大学でアジアのことを教えていたり、アジアをネタにしてものを書いているということがあっ て、「アジア」とくっつけてこの『やられたらやりかえせ』にもう一度別の光を当てて語ることが出来ないかということでした。
私 は、あとは立教大学で映画史を教えていまして、ジャ・ジャンクー(賈樟柯)という映画監督が中国にいるんですけども、その映画を観せていろいろ論評すると いうこともしています。それで何故か彼の作った作品と似た感覚を持つんですよね。何となく、共通の肌触りみたいなものがあるんです。どういうことかという と、例えば、『やられたらやりかえせ』の一番最後。争議団がある悪徳手配師を囲んで彼のやって来た罪状を白状させるシーンがありますね。その周りを労働者 のおっちゃん、おばちゃんが取り囲んで見ている。要するに、「見せしめ」ですね、その場面が映っていますね。ジャ・ジャンクーの第一作と言われている作品 で日本語の題名は『一瞬の夢』という映画があります。その映画の最後のシーンも、スリであるシャオ・ウーが捕まって、警察によってどっかに引っ張られて行 くんだけど、街中でお前ちょっと待っていろと言われ、手錠で腕を電柱かなんかに掛けられ放置されるシーンが出て来ます。しばらくそのシャオ・ウーをカメラ は映しているんですけども、そのうちにワラワラと集まって来るストリートの人間がファインダーに入って来る。そうすると結局、この映画を観ている観客が見 られていると言うか、観客がスリとして捕まった人間の位置に転換し、街の人々の視線を浴びるっていう構図になるんです。こういうことは、ある種普遍的と言 いますか、「アジア」的とも言える光景だと思うんです。もちろん、普遍性と言ってもいろいろな普遍性があると思うのですが…。『やられたらやりかえせ』で も最初のナレーションで、つまりヤマという土地が江戸時代には死刑執行人が死刑を執行し、そして死体を処理する、そういう刑場から発展したものだ、という 具合に街の由来が説き起こされていますね。権力と人間の死に関わる歴史的因縁があった、という前振りです。その連鎖として、この映画は、ヤマという土地を 表象しようとしている、という繋がりになっている。
私は、大陸中国には一年間いた経験がありまして、それから台湾にも三年いた経験があります。そういう経験の中で、処刑される身体、あるいは審判される身 体に出会わざるを得ませんでした。例えば台湾にいた頃のことですが、テレビのニュースの一部ですけども、重大な強盗殺人を犯した人間が処刑されるまでの様 子がずっとテレビで中継されるということがあるわけです。最後に手錠を掛けられた死刑囚が、「私は国家に対してすまない」とかって大声で叫んで刑場(屋 内)の中に入って行って、ズドーンって銃声が聞こえる――それを中継していました。これは1991年のことでしたから1990年代までそういう「見せし め」が通常のことであったわけです。それで大陸の方でも、2000年代に入ると公開の処刑はなくなりますが、公開審判というものがまだある。つまり広場の ような所に連れて来られて、裁判官が、お前はこういうことをおこなってうんぬん――そのようなプロセスがネット新聞などに載っているわけです。また、重大 な審判が下される法廷の様子はテレビで中継されるんです。いわゆる囚人といいますか犯人が、「はい、そうです」とか、「いや、そうではない」とか、弁明の 機会のようものも設定されています、そういうシーンを見る、とはどういうことなのか。つまりこれはヒューマニズムっていう言葉で簡単に批判できることなの か? 日本ではそういう習慣は基本的には既にありませんね。公権力によって、また公権力が自分自身の権能を全く隠してしまっている、ということです。そこでもう 一度考えたいのは、この『やられたらやりかえせ』が有する、いわゆる記録性というものです。1980年代の寄せ場というところで出てきたいろんな闘争と言 いますか、やっぱりこれは政治闘争記録なのだと思うのですけども、そういうものがきちんと記録されていて、それを私達が知ることが出来るという、根本的な 意味での記録性です。
さて、私が言いたい普遍というのはこういうことです。ミシェル・フーコーという人が『監獄の誕生』という本を書いた。この本には「監視と処罰」という副 題が付いています。この第1章と第2章の中でかつての「身体刑」のエピソードが出てくる。つまり処刑する時に身体そのものに打撃を与えて死なせて行く。そ して大衆は、それをずっと見守るわけです。骨を砕いたり、馬を使って身体を引き裂いたり。また、熱い鉛を身体にかけたりとか。またその際に、キリスト教の 導師がいちいちその囚人に向かって聞くわけです。「お前は、悔い改めているか」とかですね。そしたらその囚人が、「神のご加護を」と言うのか、あるいは神 に唾するような何かを言うのか、というようなことを大衆が見守る。どんどん刑が進行していって、最後その人間が絶命するまで見届けるわけですね。しかし、 そのような身体刑は手順がきちんと決まっている。ある種の作法に則ってやっていることですから、それに反したり失敗すると執行する側も後で処罰されること になっていた。しかし時代が下って来ますと、その身体刑が消えていくわけです。次に何に変わっていくかというと絞首刑なりギロチンになっていくわけです。 この時にフーコーが言っているのは面白くて、つまりギロチンになったのは「ヒューマニズム」が浸透したからだ、と言うのです。つまり苦痛の時間を出来るだ け縮減するためなんだという、こういう考え方が出て来る。つまりそれまでは、完全なる祝祭空間がそこで機能していたわけですが、それが「残酷なものであ る」ということになって、その苦痛の時間をどんどん縮減し、ギロチンになって、さらに密室の瞬間の死刑になって行く。そして最後に、フランスの場合には死 刑を廃止するという、こういう順番になって行くわけです。このような死刑に関わる人類史からすると、フランスという国はつまり「進歩」の国ですから、最後 には死刑廃止にまで突き抜けていく。しかしその間にあるプロセスにおける「進歩」の内実は、実は私たち東洋人にとって必ずしも自明なものではない。こうい うプロセスは、そのままアジアの国で「実現」するかというと、多分そういうふうにはなかなかいかない。もちろん私は、死刑廃止賛成派であるわけですけれど も。しかしこういった人間の死というもの、つまり権力がある人間に対して加える死というものをどのように考えるか、という際に、フーコーが企図したような 記録は決定的であるように思います。
これまでフランスの話をしましたけども、中国の場合には次のようなことがあったんです。みなさんご存じでおそらく読んだことあると思うんですけども、魯 迅という人の小説に『阿Q正伝』というのがあります。最後はやっぱり処刑のシーンですよ。で、それからまた別の魯迅の自伝的な小説で『藤野先生』という小 説にも処刑のシーンが出て来ます。つまり自分の同胞が処刑される幻燈(スライド)のシーンを観て、仙台医科専科学校にいた魯迅はそのショックのために、医 学をやめて文学を志すという、ある意味では神話化された有名な話ですね。いずれにせよ、魯迅という人は処刑に非常に敏感に反応していた作家であるわけで す。魯迅は処刑を記録し続けていた、と言えるでしょう。『阿Q正伝』が書かれたのは1921年前後なんですけども、この時に魯迅はこういうふうに言いま す。阿Qが処刑されている時の観客は「狼の目」だって。つまり残酷な眼差しだという感覚です。これが阿Qの滑稽さとかも含めて、魯迅の1920年代前半に おける処刑と人間に対する観方だった。しかしその後魯迅はこの処刑という問題について別の記録を遺します。それは、1936年で魯迅が死ぬ直前のことで す。魯迅の書いた有名なエッセーとして「深夜に記す」があるんですけども、この中で魯迅はこのように言っております。自分はかつて公開処刑というものは残 酷なもので、非常に不快なものだ思っていた。しかし私は少し考え方を変えたい、と言ったわけです。その間に何が入っているのかというと、国家権力による大 量虐殺が起きています。それからもう一つ重大な出来事は、1931年満州事変が起こる年ですけども、自分の弟子達が反動政府によって闇で処刑されるという 出来事が置きます。捕まって密室で処刑されたわけです。どこで死んだのかも年月もはっきりわからないまま自分の弟子、一番愛していた弟子達が殺されること になりました。で、魯迅は先ほどの「深夜に記す」というエッセイの中で、要するに、「密室の死の方がよほど寂しい」と言っているのです。中国語で「寂莫」 という字で「ジーモウ」と発音しますけども。よほど恐ろしいことなんだ、と言ったわけです。その前提として、国家権力が人間の死をどのように演出するの か、その手法が激変していたわけです。それは虐殺であり、また密室の処刑です。そうすると文学者たる魯迅も、それに対して「態度」を変えなくてはいけない ということになった。
しかし魯迅に即して考えますと、公開の処刑の方がよっぽど良いというような結論ではない。つまり時間を逆戻りにすることはおそらく出来ないということで す。しかし人類史的に言うと、権力が与える人間の死の光景が大衆によって欲望され享受されてきた歴史が厳然としてある。フーコーが言っているのは、大衆は そこで何を聞きたいのかというと、「真実」の声を聞きたいという欲望です。身体の上に課せられる刑罰によって絞り出される声、それを聞くことによって「真 実」が開示される、と信じていたということです。しかし、そういうことをやめさせたわけですね。なぜやめさせたか、様々な観方があるわけですが、一つに、 囚人が実は潔白である可能性があるということになると、刑を執行する権力に対して大衆は逆に反逆するという事件が起きてくるわけです。最終的にフランス革 命では、死刑を執行していた側がギロチンによって斬首せられる、ということになる。つまり、処刑する/されるの関係がひっくりがえるわけです。元々は権力 の強さを見せつけるために「身体刑」を施していたわけですが、やればやるほど権力主体の疑わしさも露呈され、最終的には大衆の反乱が懸念されるようになっ た――その関係の反転を禁ずるということが処刑の秘匿化であった、ということになる。こう言った観点から観るならば、実に中国や台湾という社会は、さきほ ど言った「真実」の声を聞きたいという欲望がまだ禁圧され切っていない社会、ということにもなります。いわずもがなのことですが、何が理想的な社会状態 か、ということは私は申し上げていません。ただいずれにせよ、私たちは、そのような中国や台湾と同時代史的に生きている、ということです。
その意味でも、ジャ・ジャンクーの『一瞬の夢』の最後のシーンがやっぱりものすごく面白い、爆発的に面白い。つまり大衆が罪を帯びていると考えられる人 間をストリートから観るということ、またその罪人を観ている民衆を見返すということは、どういうことか。それはつまり、何千年もの歴史の堆積を堆積として 受け止めつつ、それを反転した結果であるわけです。で、こういうことが「アジア」的と言っていいのかどうかわかりませんけども、私が言いたい問題の磁場で す。またちなみに、農民人口がまだ55パーセントから60パーセントある中国においては、田舎町に行けばそういうような感覚を持った人間がまだ大勢いると いうことです。多数派だと思うんです。そういうものと私達の社会は実は地続きなのです。中国社会で生産されているモノを食べ、それらを購入して生きている のですから。そういう地続きである中国において農民暴動とか、工場における争議とか、そういうことがまさに巻き起こっている。1984年、85年に撮られ 『やられたらやりかえせ』のような現場は今の中国に地続きにある、というふうに考えていいと思うんです。で、そういうことの中にあって一番つまらないの は、「日本社会と違っていまだに野蛮なことが行なわれているんですね」という反応です。はじめに魯迅が1921年段階で書いたようなことですけども、その 次に魯迅が1936年に書いたことを見せて、それを引っくり返すというのが私の大学での授業なんです。
そこで、1920年代から30年代にかけてどのような変化があったのか、もう少し補充した方が良いようにもいます。先ほど言いましたように、それ自体、 中国における戦争と革命過程が深化して行きまして、国家権力は、死刑を密室化していくという傾向を帯びるわけです。これは世界的な同時代性としても考察で きることです。国民党政権というのは1930年にですけど、かなり強い体制を確立したわけですが、その30年代の模倣モデルは実はドイツなんです。 1937年くらいまではドイツと非常に蜜月期にありました。蒋介石という人はある時期まで非常にヒトラーの物真似みたいな服を着てですね、ちょび髭も生や していました。それ以前の中国は、孫文と共産党による合作期ですから、ソ連がモデルなのでした。いずれにせよ、その時に考えるべきことは、中国は、中世的 な残酷さを残しながらも、国家の「進歩」にあった、ということです。しかしそれは魯迅が遺した言葉で言うと、以前の地獄に対してより強烈な地獄、昔の地獄 を覆い隠すような地獄がやって来ているんだ、という知見に繋がります。そこで向かいの地獄が懐かしい、美しいイメージになってしまう、と述べていました。 「失われたよい地獄」というエッセーが、『野草』という短篇小説集に書かれています。つまり魯迅の意図したものは、そのような意味での「進歩」の観念を壊 していくということでした。そういうのがおそらく、「アジア」的な批評なのだ、と思います。
で、日本の場合にはみなさんご存じのように、死刑囚といわれている人々は親類以外の接見を禁止されるわけです。まさに新しい地獄ですね。権力が人間に与 える死を極限にまで匿秘化しようとしているわけです。こういうふうに考えてくると、こういう映画、つまり『やられたらやりかえせ』のあのラストのシーン ――公開審判という形でその場を、政治的な場を構成するという民衆の力ですけれども――こういう政治の磁場がきちんと記録されていた、ということです。こ れは本当に素晴らしいことだ、と私は思います。で、こういうことを今どのように実現するのかということで、イメージでこういうものだ、とは中々言えないわ けですが。やはり例えばテント演劇ですね。テント演劇の中で試みられていることとは、つまりこの『やられたらやりかえせ』でやっていた、「見せしめ」とい う名のコミュニケーションの再現動化であるわけです。ある「電圧」をかけられた身体、その身体から絞り出される声に「真実」を見たい、あるいは見せたい、 という欲望。そういう欲望は、やはり人類史の中から、私たちの中から消えないと思うのです。それをまた花開かせて革命に持っていきたいのか、と言われた ら、それはちょっと自信持って言えませんけども。だけどもそういうものが社会の中から消えないのは、つまりテント演劇みたいなものを観たいという欲望が社 会の中に、まだあるからです。で、そういうことがおそらく「アジア」的なものなのだと思います。

司会 どうもありがとうございます。最後テント演劇ってさっぱりわからないかもしれないんですけども、僕とか何人かがテントで芝居をやって いるっていう経験、最初に丸川さんがおっしゃった80年代に「風の旅団」というテントでの芝居をご覧になったということに結びつくという話でした。時間が そんなにはないのですけど、みなさんのご都合によりますけど、何か今の丸川さんのお話に関してご質問があったら。じゃあどうぞ。
参加者A 大変興味深いお話でありがとうございました。権力と人間の死ということを人類史的問題として捉えるという視角はとても興味深かっ たんですけれども。こういう人類史的な問題ということになると釈迦に説法になってしまって恐縮なんですが、ヘーゲル経由でマルクスが「人類史のアジア的な 段階」ということを言っていて。それが吉本隆明なんかは特別の意味合いを込めて重視しているというようなことがあるわけなんですけれども。あと公開審判っ ていうのが今でも残存しているということにおいては、まあ吉本風の言い方にしちゃうと、共同幻想の中に残っている「幻のアジア」みたいなことになるんじゃ ないかと思うんですが。そういう点で、「アジア」的なものというのは貫徹されているのかどうか。だから丸川さんは批評をする立場としての「アジア」的とい うことをおっしゃったんですけれども、制度の側にその「アジア」的な問題っていうのは残存しているのかどうか。そこにおいて日本というのは異質なものとし てあるのかどうかという点をおうかがいしたいと思います。
司会 かなりハードな質問ですね。
丸川 高度な質問でびっくりしましたけど。そうですね、「アジア」というのはやっぱり多様なので、半島のアジアと、列島のアジアと、大陸の アジアとかいろいろあるとは思うのですけれど。中国だけに視点を移しますと、皇帝権力的なもの、ずっとこう、毛沢東もそういうものの化身として考えられる というようなことはまあよく言われておりますけれども。わりとヘーゲルが定式化したような考え方からすると、中国の場合すごく面積が広くて、また河が長い ですね。そうすると、ぜひとも、農業社会を成立させるために潅漑工事をやらなくてはいけない。その長い河を管理するためにどうしても広域権力が必要だとい うことになります。それが皇帝型権力の起源にある。ヘーゲルが言ったように、だからギリシャとかそういう入り組んだ海岸線のある土地はそういう社会形態は 採り得ないんです。皇帝権力ではなくて都市国家という形で、ポリスという形で政治がおこなわれる。いわゆる西洋によって理想化されるシティズンがその都市 国家から生まれる、というストーリーになりますね(しかしその代りに、シティズンではない奴隷が必要にもなる)。谷川雁という人は、中国との対比におい て、日本社会の特色を言おうとしていました。日本の社会の二重性というコンセプトですね。建前としての国家と実体としての共同体社会の二重性がそこから生 まれる、などと言ってました。一方、常に私の大学での授業でもそうですけれど、学生は得てしてつまらない比較論にはまってしまう。それは日本内部のどうし ようもないぬるい空気の反映にすぎないのですが。その時に例えば先ほど言いましたけれども、ヨーロッパからの補助線を引いて、例えばフランスでなぜギロチ ンに到ったというと、それは「ヒューマニズム」だったというような刺激的な言い方をわざわざして、物事を分からなくさせる、という手段を講じています。ま たさらに逆のことを言いますと、中国の方がいわゆる西洋型のいろいろなものを取り入れて、それを革命に転化してきた歴史があります。つまり、西洋の文脈を 逆なでしながら、マルクス主義国家を新たに作ったわけです。ただ一見すると、あきらかに中国の方が頑固に自分自身の何かをずっと保存しているという傾向も 見受けられるわけです。そこで中国現代史は、結果的に「進歩」の幻想から逃れることによって自身に回帰した、という言い方が成り立つのだと思います。そう いった特色が最も色濃く出ている思想が魯迅にはありますね。
少し話題がズレますが、日本においても、いわゆるアムネスティ・インターナショナルなどという組織の支部があって、フランス型の運動を行っているわけで す。死刑制度廃止も含めて。しかし忘れてはならないのは、死刑にかかわる問いは1970年代における東アジア反日武装戦線といわれている人達のある種の一 連の行動を受けたところから出てきた思想として取り扱わなければ意味がないように思います。人を殺傷してしまった、爆弾で。そのことを反省しながら、しか しまた死刑に反対する。記録するに足りると言ったら変だけど、今でもその運動は続いているわけです。そして、まだ生きているのです、監獄の中で彼らや彼女 らは。先ほど私が言いましたけども、独特の反応の仕方で権力と死の問題を捉まえて、それをずっと表現してきた歴史が1970年代からずっとある、ってこと だと思うんです。『やられたらやりかえせ』もその途中で出て来た一つの作品(記録)であるわけです。こういったことが、つまり「アジア」的な主題である、 と私は思うわけです。さらに遡れば、どこから始まるかっていうと1910/11年の大逆事件です。その大逆事件と繋がっているのは、まさに韓国併合という 暴力であるわけです。こういうことを前提にして考えるということが、やはり「アジア」的な批評なのだと思います。
司会 大逆事件からちょうど百年ということで。
丸川 そうですね。
司会 東アジア反日武装戦線、75年にパクられてますんで、35年という時間軸の中で今話されました。ただ、ちょうどこの場は時間というこ とで、今日はここでいったん終わらせて頂きます。ですが、時間のある方は隣に移って具体的な話を丸川さんを交えて話したいと思います。それから、ここに NDUの井上さんがいらっしゃっていますが、明日はこのシリーズの最後で『出草之歌』を上映して、井上さんご自身が登場して何かをやります。『出草之 歌』、ご覧になってない方は、これは絶対に必見ということでぜひお薦めしたいと思います。今日はどうもありがとうございました。