「非在」の言葉を明るみへ――

大場ひろみ(ちんどん屋・『チンドン-聞き書きちんどん屋物語』著者)

ちんどん屋の誕生大場

じゃあさっそく、始めたいと思います。さっさと終わってね、楽しいお酒を飲みたいと思うんで。まあチラシにも書きましたけども、この 映画と何か関連付けられるかなというところですと、社会の下層としてちんどん屋っていうのは、あんまり言いたくない言葉ですが「バカ、カバ、ちんどん屋」 なんていう差別的な言葉もございまして、非常に顧みられないものとして存在していまして。そういう者の声を届けようという試みとして「山谷」の映画と非常 に通ずるところがあるように思って、今日はやらせていただきます。
で、この『チンドン―聞き書きちんどん屋物語』という本の中で、ちんどん屋というものを私が仮に定義付けしました。街頭で鳴り物入りで宣伝するという行 為はずっと昔からありましたので、ある程度線引をしたいと思いまして。さっき叩きました、あれをチンドン太鼓と言います。このチンドン太鼓を使って宣伝す るという事を始めた人達をちんどん屋さんとしました。私たちは今まだやってますけれども、このちんどん屋さんについて歴史的にちょっと話をしたいと思いま す。
街頭でこのチンドン太鼓を使う前も、宣伝する、広告をするという人達はたくさんいました。それは明治時代に楽隊という形でやられていました。楽隊という のは、大人数の、まあマーチングバンドみたいなのを想像していただければいいんですけど。西洋式の鳴物みたいのがガァーと。その人達がガンガンやって、一 人が口上を語れる人がいて。
あたし達は普段チンドンで宣伝する時に「ハイ、なになに屋さんがただ今開店いたしましたあ」って言って「どうぞどうぞお入り下さいませ」みたいな事をワ アワア言うんですけども、そういう事をやる。楽隊と、そのワアワア言う、口上を付ける人がいて。それからあと、たくさん幟を持ったりして宣伝して回るんで すね。明治時代に派手に規模を大きくしてやるっていうのが流行りまして。それは、「福助足袋」とか「天狗煙草」とかっていう、そういう大メーカーが幟が何 十人、楽隊が何十人、口上掛ける者が何人という形で、もう何十人の大規模の人を雇って。全国キャラバンさせるんですね。物凄い経費掛けるわけです。まあ当 時メディアというものはないですから。テレビもラジオも何にもない時代、それが大きなメディアとして宣伝というのを引き受けてたわけです。とってもバブ リーなんですね、今から考えると。ただ、そんな事をしているのは明治の末で終わります。なぜかって言うと、もう景気が悪くなる。あとうるさいとか、当局が 規制をかけてきます、どんどん。それと見てる人も飽きる。ていうんでこういう広告がなくなっていきます。まあ景気の落ち込みっていうのが非常に重要な問題 なんですが。
大正時代になりますと、今度はギュッと凝縮して4、5人しかいない楽隊とかね。こういうのは「ジンタ」なんて呼ばれてね。ちょっと哀れっぽく言われたり する事あるんですが。それからあと「五人囃子」と言いまして、落語とか行かれる方ならご存じかと思うんですが「出囃子」と言いまして、咄家さんが出て来る 前に「テケテンテン」といろんな鳴物が鳴って出て来ます。その出囃子をやってる人達が陰の所にいるんです。今は二人位でやってるらしいですけどね。一応5 人の楽器。ええと大太鼓、それから締太鼓、それから鉦(かね)、三味線、笛。これで五人囃子っていうんですが。これがセットになって街頭を練り歩きます。
その時には「底抜け屋台」と言いまして、底がこう抜けてて、車は付いてるんですけど自分達でこう入って、これを引きずって歩くのね。何で屋台に入るかわ からない。今はちょっと想像がつかないんですが。それに入って鳴物を鳴らしながら、こう宣伝していくんですね。まあそういう省力化したものが生まれまし て。ようするに景気が悪いから、いっぱい人を雇えないので人数がドンドン少なくなっていきます。この五人囃子がさらに5人でも多い、もうちょっと安くした い。景気はドンドン悪くなっていくわけで、そういう要請のもとにこのチンドン太鼓が生まれるわけです。
このチンドン太鼓が生まれた瞬間を語っているちんどん屋さんがいるんですけども。小松家久三郎さんっていう麻布のちんどん屋さんですね。この方がある雑 誌の中でこんな事を言ってるんです。「六本木の商店で宣伝をやるために、笛、三味線、カネ、太鼓の芸人を……」ようするにさっき言った五人囃子ですね。こ れを「集めたがカネを叩くやつがやってこねェ。あっしは太鼓叩きなんですが、めんどうくせェ、カネもいっちょう引き受けやしょう……と太鼓の上にカネをく くりつけ、これがちんどん屋のはじまり」であるというふうに語っております。実際この方が本当に元祖かどうかはわかりません。勝手に言ってるし、そんな奴 はもういたのに、まあ俺が元祖だと言いたい人はどこでもいるもんですから。
それがこのチンドンという楽器の形になるわけですね。こういうふうに見せればわかるんですが、これが大太鼓、そして締太鼓、鉦。まあ和製ドラムですね。 ようするに五人囃子がこの形になる。そうするとあとは口上が切れればたった一人でできるんです。もうそれまで100人位で宣伝したものが、いつのまにか5 人、4人になりまして最後はこれ。そうすると、もうどんな商店でも雇えるわけです。一人分払えばいいんだから。身近な商店でドンドン宣伝できるようになり ますよね。あと寄席とかも安上がりの宣伝に使うようになります。最初のちんどん屋はチンドンだけを叩いて一人でやっておりました。これは五人囃子をさらに 省力化して究極のコンパクトな宣伝スタイルを通したという事ですね。
今は最低三人でやってます。さっきはチンドンとサックスの二人でやってみせましたけど、あともう一人ドラムっていう、ちょっと大きいマーチングドラムと 似たようなものを叩く人がいて、今は三人でやってますけども。最初のちんどん屋は一人です。これはクライアントさんにとっても安くすむし、頼まれる方だっ て一人でできるから手軽にどこへでも行けるし、安上がりに始められるし、非常に究極のアイデア商売なんです。これを発明したのは貧乏人です。貧乏人自身が 考えて作ったという事で、これは私は、非常に誇らしい事だなと思ってるんですね。大体こんな事をやるのは金持ちじゃありません。金持ちの人はこんな事は考 えません。

長屋こそがちんどん屋の揺りかご

さっき証言者として取り上げた小松家久三郎さん。この人は麻布に住んでおりました。いま麻布というと金持ちばかりが住んでる場所だと皆さん思いますよね え。さっきの記事の、彼がちんどん屋の元祖になったっていうのは六本木の辻です。そうすると、そんな所に貧乏人がいたのか、貧乏人がやるような店があった のか。まあ今では想像もつきませんが、その頃の麻布、六本木界隈は長屋や寄席が建ち並ぶ、もう貧乏人の町でした。そのあたりには小松家、大松家、かぶら家 などというちんどん屋さんがたくさん住んでおりまして。たとえば、かぶら家さんというちんどん屋さんがありました北日ヶ窪町という所は今の六本木ヒルズで す。六本木ヒルズができる前はですねえ、この写真、ちょっと見えるかなあ。小さくてわかりにくいんですけど、ホームページ(注:現在は閉鎖された模様)で こういうのを探したんですけど。この北日ヶ窪町にあった長屋です。長屋街。六本木ヒルズが建つちょっと前までこういうのが建ってました。つい最近まであっ たっていうのは驚きますよねえ。うちの旦那が大工やってまして、ヒルズに工事に行く事があるんですけど。そうするとね、六本木ヒルズのエレベーターから、 あのヒルズ族とは想像も及びもつかないような庶民的なお爺ちゃんやお婆ちゃんが自転車をよろよろと押しながら出てくるんだそうです。で、想像したんですけ ど、北日ヶ窪町のこの貧乏長屋に住んでた人達が、立ち退きを迫られてヒルズに住んじゃったんじゃないかなと。
このような長屋っていうのはちんどん屋にとって大きい意味を持っております。これについていっぱい証言者がいます。私は文献で歴史を起こしてるわけじゃ なくて、ちんどん屋さんの話を聞いていく、いちいち証言をあげていくという事が大事で、うざったいけど、ちゃんとそれをやりたいと思ってるんです。
えーと、みどりや進さん。この方は戦前に世田谷区太子堂のあたりに住んでいたちんどん屋さんです。世田谷区太子堂のその家には「ちんどん屋、役者、楽隊 屋とかが転がり込んでいたのよ。昔はのんきだよな、知り合いの知り合いなんて人が平気で転がりこんできて御飯食べてるんだよ。東京に初めから生まれて住ん でる人なんかいないの。田舎から出て東京へ来たらうまいことできんだろうと思って来た奴が、みんなうまくできなくて長屋に住んで、そういういろんな人たち がちんどん屋のとこに転がり込んでたの。そんな立派な所にちんどん屋が住んでるわけねえんだよ。また、そういう長屋に豆腐屋さんもほうき屋さんも大工さん もいて、いろんな職業の人たちが、みんなちんどん屋やったんだよ。だから昔は、『ほうき屋のよっさん』とかっていう風に、屋号よりも職業を頭に入れて、そ れぞれの職業で名前を呼び合ってた。」っていう事なんですけど。これが非常に面白い、長屋の説明だと思うんですよね。
このような東京の長屋は、まあ江戸時代の特に後半から、田舎から食い詰めて出て来る多くの流民を吸収して、形成されていました。ちなみに江戸というの は、奉行所の支配がありますね、北町奉行所、南町奉行所。その下は三人総年寄っていう、まあ町人なんですが偉い役目をした総年寄っていうのがいて。その次 に町ごとに町年寄っていうのがいます。それから家持ちの町人というのがピラミッド型に自治組織を作って、それで自治的に運営されておりました。家持ちの町 人っていうのは自治運営に参加できますけど、借家、つまりさっき言った長屋住まいの人間や奉公人、住み込みで働く人間というのは町の運営に参加できませ ん。だけど、家持ちの町人は様々なお金を払わなきゃいけないんですね。あちこちの普請、インフラ整備、それから冠婚葬祭の付け届け、そういうものを全て、 税金ではないんですけど代わりに払う義務があります。奉公人や借家人はこの義務から免れております。
この長屋に住むにも実は人別帳によって管理されたり、出入りの時に、引っ越しの時に証明書みたいなのがいるんですね。ところが、江戸の中期から大勢の人 間、労働力が必要になってきたのでだんだん支配をゆるくして適当に人が入れるようにしちゃうんです。口入れ屋っていうのがいて、口入れ屋っていうのは職業 斡旋所みたいなとこなんですけど。その職業斡旋所の人が身元引受人みたいになって。そうすると、どこの誰とも知らない馬の骨でも長屋に住んでもかまわない という事になるんですね。一応なんか鑑札っていうか、そういう抜け道がいっぱいできましたんで、江戸っていうのはどんどんどんどん大量な流民を抱え込ん で、そういう人達が主体となっていきます。
それから、江戸っていうのは大坂なんかと比べると非常によくわかるんですけど、非人―願人坊主、乞胸とかっていう芸人系の方々は居住地が町人の長屋街に 隣接したり、混在して住んでいました。そうすると、流民、非人とかのこういうわけのわからない人々がごちゃごちゃ蠢いていて、江戸という大きな街を形成し ていて、それで江戸を支える大きなエネルギーになったわけですね。管理する役人の側もそれを許容せざるをえないって状況だった。なぜわざわざこれを言うか というと、他の江戸以外の京都、大坂とかも全部街の作りが違います。ただこれほど緩い、いろんな流民を抱え込んだとこは江戸だけなんで。ようするに、ちん どん屋、まあ東京のちんどん屋ですけど、そういうものが生まれる土壌があるっていうのは、江戸時代からそういう特徴があるからだって事を一応押さえておき たいと思ってるんですけど。だから、みどりやさんが言う、知らない人が平気で上がり込んで御飯を食べているような、昭和初期の長屋まで一貫してそういうな んかごちゃごちゃっとした、誰でもいられるっていう事が続いてるわけですね。
97歳で大往生しました貴楽家富士子さんっていう方。ちんどん屋界では、もうゴッドマザーみたいな方で、女のちんどん屋の先駆けでして、そういった世界 を築いた方です。で、この人が自分の暮らしてる長屋の事を言ってるんです。台東区の金杉あたり、そこの長屋に住んでたんです。つい最近までその長屋があっ たんですけども、とうとう建て壊されて、今工事中になってるらしいんですけど、残念です。
「なにしろ、あらゆる人間が来るんだ。泥棒でも、乞食でも、何でも来い。ほんと、泥棒が捕まるとオレんとこに来るの。刑事が三人付いてきて『ずいぶん、お 世話になったから』って挨拶に来る。よそ行って泥棒しても、ウチからは何一つ盗らない。「御飯もおかずもあるから、食べるだけ食べろ」と言って、乞食、泥 棒に留守番さしとくの。ちんどんから帰ってくると、掃除して茶碗洗ってキチッとしてある」。泥棒や乞食に、すいませんね、乞食とか泥棒とかガンガン言っ て。そういう人達に留守番をさせて、彼らはそういう長屋の共同性の中では盗みは働かないんです。もっと別な所から盗んできますからね。まあそんな所が長屋 で、長屋こそがちんどん屋を産む揺りかごのようなものでした。

ちんどん屋を兼業するいろいろな人たち

この長屋には金持ちのやらない仕事をやる人達がたくさん住んでおりました。詳しく言うと長いのでちょっと端折りますけど、そういう職業を羅列してる本が ありましてね。長屋に住んでいる人達の職業について1909年(明治42年)の『東京学』(石川天崖著・育成会)という本と、1929年(昭和4年)の本 と比較して、例をあげてるんですけど。この中で住んでる人達を比較すると、明治と昭和初期とでは全然そこに住んでいる方々の種別は変わりません。主にあげ ると大工、左官等の職人系。アサリ、納豆等の行商。それからおでんや飴売り、屑拾い、車力、芸人等。これが全て明治から昭和初期まで共通しております。
昭和になると、特徴的な事は肉体労働者、日雇い労働者が増えます。これは多分工事、普請の仕事が増えてくる、あと工場労働も増えてくるんですが、それ以 外に特徴は変わっておりません。しかもこれは、親方達が戦後、昭和30年代くらいまで長屋に住み続けるんですが、それまでほとんど変わりません。だからま あ江戸時代の、特に後期から昭和30年代まであんまり変化がなかったという事が、この長屋の特徴だと思われます。このようないろんな人達がいたということ ですね。それから、ちんどん屋はちんどん屋だけってわけじゃないんですね。みどりやさんが言うように豆腐屋だったりほうき屋だったり屑拾いだったりする人 が、ちんどん屋を兼業でやる事も多かったんです。だから他の職業をやりながら簡単にシフトできる、それくらい安直にみんなちんどん屋っていうものをやれ た。まあ元手も掛かりませんし、一人から始められますから。で、しかも面白い。こんないい職業ないですから、みんなすぐ始めました。
菊乃家さんっていう向島のちんどん屋さんがいるんですけども、その方の話をまとめて佐藤俊憲君って人がマップを作りました。その地図によりますと、豆腐 屋の手伝いをしていたとうふ家っていう屋号のちんどん屋さん、それからうさぎを飼ってるからうさぎ家っていう屋号のちんどん屋さんとか、そういうのがいっ ぱいでてきます。下駄屋だったから下駄政とか、さっきのほうき屋のよっちゃんと同じような人達がここにもたくさん出てきます。今言ったうさぎ家っていうの は、うさぎを飼うのはペットで飼うんじゃなくて、繁殖させて食用として売るために飼うんですね。これがすごい流行ったんです戦前。「綴り方教室」ってい う、菊乃家さんの家に近い長屋に住んでいた、戦前の小学生の作文を載せたとっても面白い本があるんですよ。そこに、うさぎをもらってきて、これを増やして 一匹20銭で売れるとかって親が話をしてるなんていうのが出てくるんですよ。この当時は、みんなお金がないんです。で、すぐお金になる事に目が無いんで す。だから、うさぎを飼う、飴を売る。この飴売るのもすぐ始められるし、売るのも簡単、相手は子供だし。ちんどん屋も簡単だから、飴屋とちんどん屋は兼業 する方が多いんですね。そうやってもう、てめえで算段して、なんか物を売ったりしてすぐ仕事にするんですね。どうやって生きていくかってくよくよ悩んでい る暇もないし、今みたいにアルバイトニュースがあるわけじゃないんで。
そういうわけで、うさぎを飼うというのも流行ったわけなんですね、長屋では。こんな話はあんまり学者や文学者は言わないので、ええ、私がわざわざ長々と 言いました。で、こんなのが昭和30年代終わりまで、ずうっと続いていきます。ただ、この仕事は本当に不安定なんで、今私達が親方って呼んで尊敬して、ま あ偉そうにしている方達も実はちんどん屋ばっかりやってたわけじゃなくて。30年代頃から現在までは、実はアルバイトばっかりしてるんです。おでん売った り、ダンボール屋さんに勤めたりとか、とにかくちょっとでも暇があると働いてるんですね。みんな怠け者ではなかったと思います。お酒や道楽にはとっても目 が無かったですけども、生きる事にみんなとにかく必死だったと思います。さっき言った菊乃家さんのマップはこの本に出てるんで、あとで見ていただきたいと 思います(『チンドン―聞き書きちんどん屋物語』p.363参照)。

昭和恐慌期の貧乏が生んだ3,000人のちんどん屋

その菊乃家さんのまわりの三軒先はみんなちんどん屋さん、その三軒先もちんどん屋っていうくらいちんどん屋だらけなんですね。こんなにちんどん屋がいっ ぱいいるなんていう事は、ちょっと今では考えられないですけども。あの当時メディアがないですから、一軒一軒の商店はみんなちんどん屋さんを頼んでたんで すね。昭和初期、中沢寅雄さんという楽士さんの書き残した文章から推定しますと、昭和7年から13年までがちんどん屋の全盛期となります。第一次ちんどん 屋全盛期と私は呼んでるんですけど。このちんどん屋が生まれて省力化された宣伝が育っていった過程は、当時の世相が反映されてます。なぜ、こんなに貧乏人 がわんわんわんわんやっているのか。詳しくは本を買って読んでもらいたいなあと。
あの、大正時代の政治状況、これが大きいんですね。政治、社会、経済の状況。実は今とすごく似てます。第一次大戦が終わりますと軍需景気が生まれまし て。戦争景気で経済が物凄いバブル状態になるんです。で、このバブルのあとに反動期が来ますね、当然。バブル時期にインフレでバァッと物価が上昇しますん で、そうすると元々金のない人間にとっては生活がしにくくなっていきます。それから1918年の大正7年から1922年、この時にシベリア出兵という、あ まり歴史の教科書で大きく書きたくないんでこそこそっと出てくる、非常にばかな政策がございまして。ロシアが赤化してろくでもない事をやっているから、連 合国のみんなと一緒に……そんなことを英、米に言われて。その時の口実はチェコの兵隊が捕らえられているから、それをなんとか救ってやろうというのが大義 名分なわけです。
どっかでありましたね。ほらイラク戦争で、自衛隊を派遣しようっていう。あの時も言いましたよね。戦争を起こす人はみんなその時に大義名分を言います が、あとから見ると嘘ばっかりです。で、同じなんですね。やっぱりイラク戦争の時に自衛隊よこせっていうのと。そのシベリア出兵の時には日本も戦争に参加 しにのこのこ行きました。そうしたら日本軍は調子に乗っちゃって、他の軍隊は全部撤退したのに、ずうっと4年間もシベリアに居続けて莫大な戦費を支出しま した。今で言うと、9兆円くらいか? 当時のお金で9億円を使って7万人も兵隊を送って。このことで経済はものすごい打撃を受けます。
1918年の大正7年に米騒動が起こります。シベリア出兵の前に米の買い占めが起こって、食えない人達が押し掛けて打ち壊しを行う騒ぎが起きます。この 後、バブル期の反動で企業が放漫経営をやりまして、その債権回収を急いで、銀行がそれを締め付けるっていう事で大正9年に経済恐慌がきます。今回のリーマ ンショックと、まあ原因は違うかもしれないけれど、様態は似てますね。そして、その後に大震災が起こるんです。地震きたのまで今とそっくりです。この時代 の事を知ると他人事じゃないっていうか、てめえらの足元がメラメラメラメラ燃えてるのが非常によくわかるんで、たまにはこういう歴史を勉強してみるのもい いと思うんですけど。
それで昭和の大恐慌になってちんどん屋が生まれるんですね。貧乏人は踏まれても蹴られても生きていかなければしょうがないですから、いろんな事を考えま す。小売店のいっぱいある時代でしたから、一軒一軒の店を宣伝するというちんどん屋がもう大繁殖いたします。いい商売ですからねえ。ええ。とにかく簡単に 始められる。需要がある。フォロワーが山ほど出て大繁殖して、なんと東京だけで3,000人というちんどん屋が生まれました。これはもう貧乏が生んだ、貧 乏人だけの好景気という状態になりまして。中沢寅雄さんの文章から、この時の話をしようかと思ったけど、長いのでやめておきます。
ただこの3,000人のちんどん屋に目を付けて利用しようとした政治家がいました。この中沢さんが1936年、昭和11年の事を書いてます。鳩山一郎っ ていう、鳩山兄弟のお爺さんです。あのお爺ちゃんは倉持忠助というテキヤの親分と組みまして、ちんどん屋の組合を作るからといって声を掛けます。ちんどん 屋もいっぱい集めて。東京の城北城南と、山の手中央の二つの地区に別れて、倉持と鳩山が立候補します。そして、ちんどん屋を一日50銭の手間で使いまし て、こうワーっと盛り上げて、それで自分達は当選するんです。この時に全国のテキヤが倉持忠助の所に集まりまして、応援なんかで酒飲んで暴れたなんて事が 新聞記事にもなってるくらいですね。
こうやって利用して自分達が当選した後は、すぐ組合はうっちゃらかしになりますんで、数か月も経たないうちにあっという間に組合はなくなりました。これ 以後、ちんどん屋の組合は一回も作られておりません。集団性に向かないっていうか、勝手なのか何なのか、なかなかそういう組合とかには、まあ向いてないん ですかねえ。いまだにそうやって集団で何かをする事が苦手な人達なんですけれども。
そして太平洋戦争に突入しますと、これだけ繁盛していたちんどん屋もとうとう仕事がなくなります。全員失職。兵役についた人もいます。それからあと内 職。もう貧乏ですから年がら年中、ちんどん屋の奥さん達は内職してんですけど。仮面舞踏会のマスクを作ってたんですって。それと鉄カブト。戦争中になると 兵士の被る鉄カブトを一生懸命内職で作ったりとか。あと勤労奉仕に駆り出されたり、出征する兵隊の見送りをしたり。ただ、仕事もなくなるし貧しいし、ちん どん屋さんはこの時代の事をあんまり言わないんです。ていうか、どうでもいいと思ってんですね。戦争で急に貧乏になったわけじゃなくて、ずうっと貧乏だっ たので戦争が別にこたえてないんですね。貧乏の質が変わっただけです。さっき言った昭和30年まで長屋暮らしが変わらないのと同じで、戦争というエポック メーキングが彼らの意識の中では薄かったんじゃないかなと思います。

戦後のどん底から、一気に全盛期へ

それで戦争が終わります。かなり下町の方は焼けちゃいましたが、それでも残ってる所あるんですね。さっき言った金杉の喜楽家富士子さんが住んでた家は焼 け残った所です。それから、去年亡くなった菊乃家さんのあたりも、今で言う向島の方なんですけど、一部が焼け残って。そういう焼け残った所にまた住むわけ です。みんなお金ないから、元の焼け残った長屋か、あるいはもう一回建てたぼろ家なんかに住むわけです。で、また元通りの暮らしを始めるわけですね。た だ、いきなりちんどん屋の仕事が復活するわけではないので、何かしらこうやっぱり始めるわけです。アルバイトニュースがない時代ですから、何をするかって いうと、何か物を売ろうと考えて、自分達で作るんですね。
どんな物を売ったのかと言いますとね、菊乃家さんっていう人が例をあげてるんですけど。缶拾い。ようするにゴミ拾いね。缶、鉄屑拾い。鰯売り。鰯を向島 から千葉の船橋まで歩いて行って買っきて売るんですが、鰯はすぐ腐っちゃうんですぐ一日でやめたそうです。それから棒飴売り。飴を仕入れてきて三倍の値段 を付けたんですが一本も売れませんでした。それからガラス拾い。焼け跡に落ちてるガラスを拾うんだけど、どれが役に立つガラスか素人目では全然わかんない ので、これも一日でやめ。こんな事を散々繰返して、やっと儲かったのはアサリ売り。アサリ売りは、大八車を引いて二、三時間かけて向島から浦安まで行って アサリを買って、それで二、三時間かけて帰ってくる。それをむき身にして売るんです。これは非常に売れたそうです。でも何か月か儲かったんですけども、こ れもアサリの値段が上がってきたのでやめ。
次はコークス売りね。工場の跡地に使い終わったコークスが落ちてるんですけど、そこからまだ使えるコークスを捜し出してきて、ようするに屑拾いみたいな んですけど、それをガラス工場かなんかに売る。その次はあんこ玉。紅梅焼きってこれは駄菓子です。あんこったって、あんこなんかないんですよ。偽物の変な あんこ。それにサッカリンみたいなのを入れて色付けただけの、何か得体の知れない物を売って。それでも甘い物がないもんですから、サッカリンだけ入れれば バンバン売れるんですね。それから紅梅焼き作り。そして親戚がやっていたのしいか屋に勤めて。そうやって好景気がやっと来るのが昭和25年、それまでず うっと食うや食わずで暮らしてました。例えば、コッペパンを買う話をするんですよ。ひとつ10円のコッペパンを一人が一食に二つ、家族一日食べられるには いくらいくらだと、それを稼ぐにはとか言うんですよ。それくらい貧乏だった。
このちんどん屋のどん底な状況が急に大躍進する時がやってきます。これは朝鮮戦争です。何でも景気が何か変わる時は戦争なんですね。この朝鮮戦争は昭和 25年、1950年。これが勃発して特需が生まれました。戦争景気です。日本から爆撃機が飛び立って、日本全国はアメリカの為の兵器工場になりました。戦 争がもたらす好景気が、瀕死の病人みたいだった何にもなかった経済を潤して、何も生産しない代理宣伝業のちんどん屋までが復活することになったんです。で も、これは喜んでいいのかどうか。金は入ってきましたけど、日本はまた朝鮮半島の生き血を吸って、しかも今度は敵だったアメリカのお供っていうか、子分に なってやった事ですから。まあ、当時のちんどん屋の親方はそんなことは考えなかったでしょうが。そして、この朝鮮戦争で特需を得たという事がアメリカへの 経済依存を決定的にして、自ら選ぶっていう自由を永続的に失ってしまった。もうなんていうか、非常に悲しいエポックメーキングだったと思うんですね。
また、この時から敗戦後初の高度成長期を迎えるんですが、日本人は喜んでたかもしれないけれど、朝鮮戦争で同胞が相食むような争いとなった二つに分断さ れてしまった国の人達にとっては、そんな能天気な時代ではなかったという事です。自分達のアイデンティティを問われて、同胞同士で闘わなければいけない。 経済活動を通じて争ったりしたわけですよ。詩人の金時鐘という、大阪の在日朝鮮人の方がいます。当時のことですが、同胞が兵器を作ってるわけですよ。弾 丸、タマですね。それが自分達の同胞を殺す弾になるんで、その工場を壊しに行くんですよ、機械とかを。同胞が同胞を、なんていうか、襲うというか、非常に 悲しい状況になるわけですね。
こういう状況で好景気を迎えた、金を得たって事は絶対に忘れちゃいけない事だと思います。最近ノスタルジックに、昭和30年代はいい時代だ、いい時代 だって語られる事があるんですが、それにはこういう背景があって、お金が入ったのはそういう裏の事情があるからなんだという事です。だから、私はこの時代 をいい時代だと言いたくないんですけれども。この後、この本でもいろいろ書いたんですけど、ちんどん屋が物凄い全盛期で、非常に面白い思いをします。この 朝鮮半島の戦争で得たお金もあって、まあとにかく、ちんどん屋さん達は面白い時代を迎えるんですね。

空き地、道端でチャンチャンバラバラ

  時代劇を、GHQが一時規制して、あんな封建的なものはやるなってなったんですけど、昭和25年になってこれが解禁になります。ちんどん屋さんは今はみん なカツラ被ってやってますが、だからカツラ被るのが普通だと思ってますけど、実は戦前はカツラなんか被ってなくて。こういうのが流行るのは、戦後の時代劇 全盛の……チャンバラ映画がすごい流行るんですよ。いろんなスターが生まれて。戦前からの片岡千恵蔵や市川右太衛門に加えて、中村錦之助とか大川橋蔵とか そういうスターがいっぱい生まれた。チャンチャンバラバラやるのが物凄い流行って。で、ちんどん屋がその劇映画の真似をして、同じ扮装をして出ていくんで すね。例えば、中村錦之助がやった役とそっくり同じ格好をして出てきて宣伝をする。そして道端でチャンバラをやる。これで大人気を博しました。この大人気 のおかげで、繁盛するんですが。で、その時に歌謡曲をたくさん演奏するようになります。戦前はさっきちょっとやった「竹雀」みたいなお囃子物の曲が多かっ たんですけども、戦後はもう歌謡曲が物凄い流行りますね。歌謡曲が流行るっていうのは、映画の主題歌や挿入歌で使われてるんですね。そういうものをちんど ん屋はコピーしていくんです。聞いて覚えてコピーして、それで演奏をする。そうすると、その曲がまたヒットする。まあヒット曲の後押しもちんどん屋はやっ てたわけなんですね。それでまあ、映画スターになりきって街頭でチャンバラをやって、扮装をして。あ、チャンバラなんていうのは、大体ほらこんな感じです ね。(同書p.305~353参照)はい、道端でこう、やってるわけ。
当時なんでこんな事をやってるかっていうと、広場があるんですね。この写真の手前の所に空き地があるじゃないですか。今こういう空き地ないんです。工事 する前の土管とかが置いてあって、ダダーっと空き地がある。そういう所でチャンバラやるの。あとこきたない長屋、東京のスラム街みたいな所ね。ドヤ街みた いな所の近くの長屋街。そこの前でチャンバラやってます。何で道端でこんな事ができるかといったら、江戸時代と同じように誰もいないというか、道路に車が 走ってないから。まだ車が走ってない状態の東京でしたから、こんなチャンバラごっこが道端でできるわけです。ちんどん屋の全盛期はだからこういう道路事情 と切り離せない関係なんですね。道端を歩いててもまだ商店はこんな感じですね(同書p.342~343参照)。橘通っていって、今もにぎやかな商店街なん ですけど。もうこんな感じで買い物客がワアワアいて。当然車は走ってません。それからあと、これは八百屋さんの前でやってる。その前もガラーンとしてて。
それから、こういうきれいな絵ビラがあります。(同書p.354~355参照)こういうのは昔の開店祝いで贈られるんですね。手描きできれいに描いた絵 で。まわりの商店の人が贈ってあげたんですね。なんか古色蒼然としてますけど、これは昭和28年ですね。これは昭和38年くらい。あまり変わらない。想像 つきますよね。これは長屋の住まいね。金杉のちんどん屋さんの住まいなんですけど(同書p.249下写真)。これが長屋の光景ですね。こんなふうに路地が あって、人間ばっかりワサワサしてて、車も入って来ません。狭い路地ですからね。こういう所があったからこそ、ちんどん屋さんがこういろいろチャンチャン バラバラやったりとか、楽しくできたわけですね。それで見ているのは、いがぐり頭のハナタレ小僧がいっぱいこうやっていて。こういうガキどものスターだっ たんですね。
でもこれ、喜んでるのは自分達なんです。やってるちんどん屋が一番楽しい。もうちんどん屋をやりたくてやりたくてしょうがなくて、ちんどん屋になってる 人がいるんですね。この間、亡くなった小鶴家さんっていうちんどん屋さんは、田舎の鶴岡から出てきてすぐに、ちんどん屋を道端で一目見て「こりゃあい い」って言って、その日に入門しちゃうんですね。その日のうちに、ちんどん屋さんを探してきてね。もう憧れだった。カツラ被って映画の真似をするのが。そ れくらい子供っぽい人達がいました。ようするに楽しいわけです。嫌でやってるんじゃないの。自分達はスターになったと思ってるんですよ。まわりの人達もそ ういう目で見てくれてたんですね。「バカ、カバ、ちんどん屋」という言葉のせいで、この職業を差別的な、かわいそうなもんだと思い込む人が多いんですけ ど、彼らは誇りを持ってやってました。本当に大好きだったんですね。その事はちょっと覚えていてもいいかなあと思うんですけど。
手間賃はと言いますと結構いいんです。当時の職人が600円くらいだったとすると、ちんどん屋が800円とか。職人よりいいって事はかなりいいって事で す。サラリーマンよりちょいいいくらい。それで毎日毎日仕事がありました。ひと月に30日仕事があるくらい忙しくて。そうすると、かなりになるわけなんで すよ。だったらいいじゃないですか。この仕事やりたいと思いますよね。それと正月は年始廻りでお得意さんのところを廻るとご祝儀をくれるんですね。それが 三が日どころじゃなくて7日間年始廻りをして。それでチャンチャンバラバラやったり踊りを踊ったりしてお金を貰う。
それから街でこうやってますと「カッコイイ」って女の子の追っ掛けとかいっぱいできるんですよね。家の前で待ってて、目当てのヤッちゃんとか、何ちゃん とかが出て来ると「キャー」って言ってずうっと追っ掛けまわすとか。家に電話をかけて「今日はヤッちゃんはどこでお仕事をしてますか」っていうような、そ ういうファンまでいたそうです。ちやほやされるし、それに酒なんか飲み放題というくらい出してくれるんですね。今はそんな事全然ないです。缶コーヒーの一 つも出しやしない。その頃は違うんですよ。もう煮しめだ、何だと出してくれて、お酒もガンガン飲んで。仕事の最中に倒れて、正体不明になっちゃうちんどん 屋さんが続出しました、はい。道端で寝ちゃって、おろしたての一張羅みたいな新撰組の羽織が帰りには真っ黒になって。ベロベロになって商店の人に担がれて 帰ってくるのね。「ちんどん屋さん、寝ちゃってたから」とか言われて。それでも通用するんですから、こんな仕事、楽しくてしょうがないじゃないですか。今 やってるとそんな事ない。こんな時代にやってみたかった、本当に。こういう事ができたのは道端がちんどん屋の舞台で、こういう人達の生活の場だったんです ね。車の通る道じゃない。今は車が占領してますけど、車の通る道じゃなかったからできるんですね。まあこれがちんどん屋の晴舞台。

前近代、それとも緩い近代性?

これは何度も言いますが、生活の質が江戸時代から戦争を経ても昭和30年代まで基本的に本質的に変化していなかったという事だと思うんですよ。彼らの生 活意識も長屋のまんまです。よく宵越しの銭は持たないなんて言いますけども、貯蓄をしないのが特徴なんですね。金を貯めるって意識がかけら程もない。何に 使っちゃうかというとバクチ、もう仕事終わると大体バクチやっちゃうんですね。で、稼いだ金はみんな取ったり取られたりして。だって仕事中もやっちゃうん だもの。何を見たって賭事の対象。道端に座って、仕事しないで、バクチはする。それから当然、酒は飲むでしょ。振るまい酒があるので酒はガンガン飲みま す。とにかく金は貯めない。その日暮らし。
貧乏人の研究をした人が、そういうのを非難するように書いてるんですけど。先ほども言いましたが明治42年の東京案内の本『東京学』。「彼らの貧しさの 原因の一つに浪費をあげ、その境遇、習慣の為に一時の情欲的快楽を甚だしく貪るという傾きに陥ったものであろう」とかって、病気みたいに書いてますけど、 そんなのは大きなお世話ですよね。人生を精一杯楽しく生きていたという事です。貯蓄なんかしなくて済むんだったら、そうやって生きていけばいいんですよ ね。長屋に知らない人達が上がり込んで、みんなで御飯食べあってるような緩い共同性。そして道路。大道の自由な活用が許された時代。こういうのは、西洋の 歴史の定義に無理やり当てはめると、近代、現代っていう歴史段階があるようにいってますけど、この親方達の生活を見ると、まだ前近代の状態だったんじゃな いかと思うんですよ。あるいは緩い近代性くらい。それがないまぜになったような状態でずうっといたんじゃないかなと思いました。
余談ですけど高校生の時に、ちょっと中東産油国の研究してまして。サウジアラビアの写真を見てたら、高層ビルがガーンと建ってるまわりでロバひいて物売 りやってるおじちゃんの写真があったんですよ。「へーすごいなあ」って。ビル建ってるのにまだロバで物売ってるのかって。考えてみたら、ちんどん屋とか、 今、私達がやってる高層ビルの前でチョンマゲ付けて宣伝してるのだって、ロバひいて売ってるおじさんと同じですよね。ロバひいてるおじさんがそんな中世み たいな暮らしずうっとやってる時、いきなりボーンとビルが建つとかね。石油の富とか金が流れこんでくると、いっぺんに時代や人間の生活をバアーンと切り裂 いて、一足飛びにこう中世から現代に歩まされちゃったみたいな状況だったんじゃないかなあと思って。うん、ようするに歴史は段階を踏まないんだなという事 を高校生の時に、ちょっとその写真を見て思った事があるんですけど。
日本においては、この後このような一足飛びの時代がやってくるんですね。朝鮮戦争でアメリカ依存というのが決定的になりましたけども、政治体制としては やっぱり60年安保。60年安保で、アメリカ軍がずうっと居続ける、駐留を認めるような条約を交わしてしまった。その時は自民党の岸内閣。この時はみんな 反対しました。100万人以上の人が国会を取り巻いて反対運動をしたんです。それほど反対したのに無理やり可決して条約決めてしまいました。これはもう取 り返しの付かない事をやったと思います。だってイラクからアメリカ軍は撤退するでしょう。でも日本にはずうっといるんですよ、米軍がそのまま駐留してんで すよ。これどういう事なんでしょうか。これをわざわざ自分達で受け入れちゃったんです。ずうっといて下さいって。そして核の傘なんていわれて。

1964年――そして、ちんどん屋の場がなくなっていった

それで、具体的に生活が変化するのは、この60年安保が政治的なエポックだとすれば、1964年の東京オリンピックのためにすごい経済計画が作られま す。オリンピックの為にいろんなものを作ろうという事で急激に生活が変化します。私は1964年生まれなんです。昭和39年生まれ。なんていう年に生まれ てしまったんだろうって、いつも感じるんですけども。開催が決定されたのが1959年。オリンピック事業の総額1兆円。今の1兆円どころじゃないですね。 10兆円、もっとかな。そのうちのオリンピックそのものの費用ではない関連事業費が全体の97パーセント、ほとんどです。それは何に使われたかっていいま すと、東京都内の道路。環7だとか、4号線とか。ああいうものを全部整備する道路整備。首都高速を作るお金。それから地下鉄をどんどん作って。この頃、地 下鉄の建設が一番進みました。そして東海道新幹線、この建設費が一番大きかったんです。これらが全部64年のオリンピックをめざして59年から着々と進め られました。そして64年にバアーと全部開通します。新幹線、東京―大阪間開通。東京に一般道、環状線とか青山、玉川通りが開通。それから首都高が1号線 から4号線まで開通しました。日比谷線、地下鉄の中目黒―北千住間が1964年、これをたった5年で完成させました。全てオリンピックの為なんですね。
道路がこれだけ作られたって事は車が売られるっていう事です。所得倍増計画というのが1960年に掲げられまして、それによって自動車は大増産。国が支 援する形で、もうどんどんどんどん車が作られました。60年から10年間で計画達成のはずが、その半分の年で達成したわけ。だから64年くらいにはもう車 が占領するような状態。昭和39年そして昭和40年と歩みますと、ちょうど30年代から40年代の境に、猛烈なモータリゼーションが進むっていう事です。 という事は、もうちんどん屋の大道がなくなっていくんですね。チャンチャンバラバラしていた大道はどんどんどんどん車に埋め尽くされていって、ちんどん屋 はやる場所がなくなっていきます。そして急激に廃れていくんですね。数を減らしていきます。
それから、ちんどん屋の減る理由の一つがあとテレビ。チャンバラ映画とかのコピーをして人気を博したって、さっき言いましたね。映画からテレビに皆さん の娯楽が移ります。テレビが爆発的に売れたのは今の天皇が結婚した年の1959年、昭和34年。そうしますとテレビというメディアが生まれるとCMってい うのができまして。CMがガァーと流れると、もう広告というものはマスメディアが担うものだという事に決定的になるんですね。道端で宣伝するなんていう事 は当然いらなくなってくるという事です。それと、お客さん、クライアントの問題ですね。スーパーマーケットが普及します。例えば「おしん」っていう、ほら NHKの泣かせるドラマ。あのモデルになったヤオハンっていうスーパーは1965年、1964年の前後にチェーン展開を始めます。それで、ちんどん屋が宣 伝した小売店とかマーケットとか市場、小売店が集まった複合体みたいな所、そういうのが大型店に追いやられる。町の商店街はさびれて、ちんどん屋は宣伝対 象も失っていきます。いってみれば、昭和30年代が、ちんどん屋という存在が時代にマッチしていたとすれば、その後のオリンピック開催をきっかけとした、 これは急激な近代化じゃないです、もう急激な「現代化」……これによってその前の、近代以前か緩い近代性みたいなのーんびりした存在を完全に過去へ葬り去 るっていう。まあこういう大きな断層が1964年、このあたりにあったと思うんですね。
なぜこういうふうに言うかというと、歴史の認識ってあるけれど、例えば戦争を大きく取り上げちゃうと、それで人間の生活が変わったって言いがちなんです が、そうではないんですよね。人々の、生活してる人間の目から見ると、大きな時代の変化のあらわれは、こういう生活からみれば実は戦争よりも64年なん じゃないか。自分の生まれた年でもあるので、そういう急激な現代化とともに歩んできてしまったんだなあと思うんですけど。
で、親方達を見てると凄い昔の人間だなあと思うんです。今、ちんどん屋をやっていっても全然あの人達みたいにはなれなくて。道端で寝てしまうとか、チャ ンバラごっこで本気で遊んだとか、子供が遊ぶように楽しんで、それを仕事にしたとか、そういう豪快な生き方ができないんで。それは彼らが前近代というか、 そういうところの人達なんだなあ、と。そこの断層というのは避けがたい、越えられないもんだなあって思います。……あら、もう10時。ちょっと長いって 言ってくださいよ。
司会 いつ介入しようかなと思ってたんだけど。1964年なんであと47年間くらいの話があるんですけれども。
大場 ちょっとマキを入れてくれればよかったのに。
司会 じゃあ、まとめにいきましょうか。
大場 はい、まとめ。東京の話だけですけれど、寄せ場に無理やり結びつけますと、この64年を境として出稼ぎ者、農村の破壊と出稼ぎ者が増 えてきます。そのせいで、寄せ場にそういう人達が流れ込んでいきます。だから64年とか、こういうエポックがあって寄せ場も形成されていったっていう事を ちょっと言っておきたいと思います。その辺は寄せ場学会の方がよくご存じだと思います。寄せ場学会のホームページになすびさんが書いた文章があるので、寄 せ場が大体この60年代にガァーと形成される歴史というのは、それを見ていただければいいと思います。どうも、今日はありがとうございます。
司会 サービス精神旺盛な話だったと思います。江戸中期くらいから駆け足で1960年代まできまして。あとの残りは隣の場に移しまして。まだ時間の都合が つく皆さん、大場さんも残ってくれると思います。飲み物も用意しておりますので、隣の場でご歓談ください。どうもありがとうございました。

[2011/11/5 planB]

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