「見せしめ」のポリティクス

丸川哲史(台湾文学・東アジア文化論)

今晩は、丸川と申します。今、私の専門を紹介して頂いたんですけど、台湾文学というジャンルだけでは狭いので、大学では中国文学、中国映画、それから中 国の現代史、そういうものも教えております。話しながら自分がどういう人間かっていうことを紹介していった方がいいと思うんですけど…。司会の池内さんと は、実は劇団関係で知り合うようになっていたのでした。まず1984年ことです。この映画の舞台になっている年代に私は大学に入学しています。この映画 『やられたらやりかえせ』の最後のクレジットにも載っていましたけど、「風の旅団」という劇団がありまして、1985年、86年くらいにそのテント劇公演 を観に行った経験があったんです。そういう人間関係、グループ関係がありまして、この映画を観るのもおそらく4回目か5回目くらいということにはなりま す。あともう一つこの映画との因果を申し上げますと、身近に知っている人も出ているのですね。林歳徳さんという方がいらっしゃっていましたけど、あの方は 台湾出身の方で、明治大学の守衛さんだったんですね。私が入った頃、ちょうど守衛を辞める時期だったんですけども。その当時、いわゆる在日外国人の指紋押 捺拒否の運動をされていて、私もちょっと彼のお手伝いした経験があります。それで、守衛であった林歳徳さんは大変良い方で、我々の側と言うか、学生運動す る側がストライキやる時にですね、すぐに鍵を学生側に引き渡してくれるんです(笑)。そういう良い方だったんです、非常に協力的で。かつての大学では、そ ういう良き時代もあったのですね。しかしそれが崩れてしまって、で今私はそこの大学で教えているという、ちょっと妙な感じでいます。この映画を今この現時 点で観る時に、司会の池内さんから私に振られた話として、私が大学でアジアのことを教えていたり、アジアをネタにしてものを書いているということがあっ て、「アジア」とくっつけてこの『やられたらやりかえせ』にもう一度別の光を当てて語ることが出来ないかということでした。
私 は、あとは立教大学で映画史を教えていまして、ジャ・ジャンクー(賈樟柯)という映画監督が中国にいるんですけども、その映画を観せていろいろ論評すると いうこともしています。それで何故か彼の作った作品と似た感覚を持つんですよね。何となく、共通の肌触りみたいなものがあるんです。どういうことかという と、例えば、『やられたらやりかえせ』の一番最後。争議団がある悪徳手配師を囲んで彼のやって来た罪状を白状させるシーンがありますね。その周りを労働者 のおっちゃん、おばちゃんが取り囲んで見ている。要するに、「見せしめ」ですね、その場面が映っていますね。ジャ・ジャンクーの第一作と言われている作品 で日本語の題名は『一瞬の夢』という映画があります。その映画の最後のシーンも、スリであるシャオ・ウーが捕まって、警察によってどっかに引っ張られて行 くんだけど、街中でお前ちょっと待っていろと言われ、手錠で腕を電柱かなんかに掛けられ放置されるシーンが出て来ます。しばらくそのシャオ・ウーをカメラ は映しているんですけども、そのうちにワラワラと集まって来るストリートの人間がファインダーに入って来る。そうすると結局、この映画を観ている観客が見 られていると言うか、観客がスリとして捕まった人間の位置に転換し、街の人々の視線を浴びるっていう構図になるんです。こういうことは、ある種普遍的と言 いますか、「アジア」的とも言える光景だと思うんです。もちろん、普遍性と言ってもいろいろな普遍性があると思うのですが…。『やられたらやりかえせ』で も最初のナレーションで、つまりヤマという土地が江戸時代には死刑執行人が死刑を執行し、そして死体を処理する、そういう刑場から発展したものだ、という 具合に街の由来が説き起こされていますね。権力と人間の死に関わる歴史的因縁があった、という前振りです。その連鎖として、この映画は、ヤマという土地を 表象しようとしている、という繋がりになっている。
私は、大陸中国には一年間いた経験がありまして、それから台湾にも三年いた経験があります。そういう経験の中で、処刑される身体、あるいは審判される身 体に出会わざるを得ませんでした。例えば台湾にいた頃のことですが、テレビのニュースの一部ですけども、重大な強盗殺人を犯した人間が処刑されるまでの様 子がずっとテレビで中継されるということがあるわけです。最後に手錠を掛けられた死刑囚が、「私は国家に対してすまない」とかって大声で叫んで刑場(屋 内)の中に入って行って、ズドーンって銃声が聞こえる――それを中継していました。これは1991年のことでしたから1990年代までそういう「見せし め」が通常のことであったわけです。それで大陸の方でも、2000年代に入ると公開の処刑はなくなりますが、公開審判というものがまだある。つまり広場の ような所に連れて来られて、裁判官が、お前はこういうことをおこなってうんぬん――そのようなプロセスがネット新聞などに載っているわけです。また、重大 な審判が下される法廷の様子はテレビで中継されるんです。いわゆる囚人といいますか犯人が、「はい、そうです」とか、「いや、そうではない」とか、弁明の 機会のようものも設定されています、そういうシーンを見る、とはどういうことなのか。つまりこれはヒューマニズムっていう言葉で簡単に批判できることなの か? 日本ではそういう習慣は基本的には既にありませんね。公権力によって、また公権力が自分自身の権能を全く隠してしまっている、ということです。そこでもう 一度考えたいのは、この『やられたらやりかえせ』が有する、いわゆる記録性というものです。1980年代の寄せ場というところで出てきたいろんな闘争と言 いますか、やっぱりこれは政治闘争記録なのだと思うのですけども、そういうものがきちんと記録されていて、それを私達が知ることが出来るという、根本的な 意味での記録性です。
さて、私が言いたい普遍というのはこういうことです。ミシェル・フーコーという人が『監獄の誕生』という本を書いた。この本には「監視と処罰」という副 題が付いています。この第1章と第2章の中でかつての「身体刑」のエピソードが出てくる。つまり処刑する時に身体そのものに打撃を与えて死なせて行く。そ して大衆は、それをずっと見守るわけです。骨を砕いたり、馬を使って身体を引き裂いたり。また、熱い鉛を身体にかけたりとか。またその際に、キリスト教の 導師がいちいちその囚人に向かって聞くわけです。「お前は、悔い改めているか」とかですね。そしたらその囚人が、「神のご加護を」と言うのか、あるいは神 に唾するような何かを言うのか、というようなことを大衆が見守る。どんどん刑が進行していって、最後その人間が絶命するまで見届けるわけですね。しかし、 そのような身体刑は手順がきちんと決まっている。ある種の作法に則ってやっていることですから、それに反したり失敗すると執行する側も後で処罰されること になっていた。しかし時代が下って来ますと、その身体刑が消えていくわけです。次に何に変わっていくかというと絞首刑なりギロチンになっていくわけです。 この時にフーコーが言っているのは面白くて、つまりギロチンになったのは「ヒューマニズム」が浸透したからだ、と言うのです。つまり苦痛の時間を出来るだ け縮減するためなんだという、こういう考え方が出て来る。つまりそれまでは、完全なる祝祭空間がそこで機能していたわけですが、それが「残酷なものであ る」ということになって、その苦痛の時間をどんどん縮減し、ギロチンになって、さらに密室の瞬間の死刑になって行く。そして最後に、フランスの場合には死 刑を廃止するという、こういう順番になって行くわけです。このような死刑に関わる人類史からすると、フランスという国はつまり「進歩」の国ですから、最後 には死刑廃止にまで突き抜けていく。しかしその間にあるプロセスにおける「進歩」の内実は、実は私たち東洋人にとって必ずしも自明なものではない。こうい うプロセスは、そのままアジアの国で「実現」するかというと、多分そういうふうにはなかなかいかない。もちろん私は、死刑廃止賛成派であるわけですけれど も。しかしこういった人間の死というもの、つまり権力がある人間に対して加える死というものをどのように考えるか、という際に、フーコーが企図したような 記録は決定的であるように思います。
これまでフランスの話をしましたけども、中国の場合には次のようなことがあったんです。みなさんご存じでおそらく読んだことあると思うんですけども、魯 迅という人の小説に『阿Q正伝』というのがあります。最後はやっぱり処刑のシーンですよ。で、それからまた別の魯迅の自伝的な小説で『藤野先生』という小 説にも処刑のシーンが出て来ます。つまり自分の同胞が処刑される幻燈(スライド)のシーンを観て、仙台医科専科学校にいた魯迅はそのショックのために、医 学をやめて文学を志すという、ある意味では神話化された有名な話ですね。いずれにせよ、魯迅という人は処刑に非常に敏感に反応していた作家であるわけで す。魯迅は処刑を記録し続けていた、と言えるでしょう。『阿Q正伝』が書かれたのは1921年前後なんですけども、この時に魯迅はこういうふうに言いま す。阿Qが処刑されている時の観客は「狼の目」だって。つまり残酷な眼差しだという感覚です。これが阿Qの滑稽さとかも含めて、魯迅の1920年代前半に おける処刑と人間に対する観方だった。しかしその後魯迅はこの処刑という問題について別の記録を遺します。それは、1936年で魯迅が死ぬ直前のことで す。魯迅の書いた有名なエッセーとして「深夜に記す」があるんですけども、この中で魯迅はこのように言っております。自分はかつて公開処刑というものは残 酷なもので、非常に不快なものだ思っていた。しかし私は少し考え方を変えたい、と言ったわけです。その間に何が入っているのかというと、国家権力による大 量虐殺が起きています。それからもう一つ重大な出来事は、1931年満州事変が起こる年ですけども、自分の弟子達が反動政府によって闇で処刑されるという 出来事が置きます。捕まって密室で処刑されたわけです。どこで死んだのかも年月もはっきりわからないまま自分の弟子、一番愛していた弟子達が殺されること になりました。で、魯迅は先ほどの「深夜に記す」というエッセイの中で、要するに、「密室の死の方がよほど寂しい」と言っているのです。中国語で「寂莫」 という字で「ジーモウ」と発音しますけども。よほど恐ろしいことなんだ、と言ったわけです。その前提として、国家権力が人間の死をどのように演出するの か、その手法が激変していたわけです。それは虐殺であり、また密室の処刑です。そうすると文学者たる魯迅も、それに対して「態度」を変えなくてはいけない ということになった。
しかし魯迅に即して考えますと、公開の処刑の方がよっぽど良いというような結論ではない。つまり時間を逆戻りにすることはおそらく出来ないということで す。しかし人類史的に言うと、権力が与える人間の死の光景が大衆によって欲望され享受されてきた歴史が厳然としてある。フーコーが言っているのは、大衆は そこで何を聞きたいのかというと、「真実」の声を聞きたいという欲望です。身体の上に課せられる刑罰によって絞り出される声、それを聞くことによって「真 実」が開示される、と信じていたということです。しかし、そういうことをやめさせたわけですね。なぜやめさせたか、様々な観方があるわけですが、一つに、 囚人が実は潔白である可能性があるということになると、刑を執行する権力に対して大衆は逆に反逆するという事件が起きてくるわけです。最終的にフランス革 命では、死刑を執行していた側がギロチンによって斬首せられる、ということになる。つまり、処刑する/されるの関係がひっくりがえるわけです。元々は権力 の強さを見せつけるために「身体刑」を施していたわけですが、やればやるほど権力主体の疑わしさも露呈され、最終的には大衆の反乱が懸念されるようになっ た――その関係の反転を禁ずるということが処刑の秘匿化であった、ということになる。こう言った観点から観るならば、実に中国や台湾という社会は、さきほ ど言った「真実」の声を聞きたいという欲望がまだ禁圧され切っていない社会、ということにもなります。いわずもがなのことですが、何が理想的な社会状態 か、ということは私は申し上げていません。ただいずれにせよ、私たちは、そのような中国や台湾と同時代史的に生きている、ということです。
その意味でも、ジャ・ジャンクーの『一瞬の夢』の最後のシーンがやっぱりものすごく面白い、爆発的に面白い。つまり大衆が罪を帯びていると考えられる人 間をストリートから観るということ、またその罪人を観ている民衆を見返すということは、どういうことか。それはつまり、何千年もの歴史の堆積を堆積として 受け止めつつ、それを反転した結果であるわけです。で、こういうことが「アジア」的と言っていいのかどうかわかりませんけども、私が言いたい問題の磁場で す。またちなみに、農民人口がまだ55パーセントから60パーセントある中国においては、田舎町に行けばそういうような感覚を持った人間がまだ大勢いると いうことです。多数派だと思うんです。そういうものと私達の社会は実は地続きなのです。中国社会で生産されているモノを食べ、それらを購入して生きている のですから。そういう地続きである中国において農民暴動とか、工場における争議とか、そういうことがまさに巻き起こっている。1984年、85年に撮られ 『やられたらやりかえせ』のような現場は今の中国に地続きにある、というふうに考えていいと思うんです。で、そういうことの中にあって一番つまらないの は、「日本社会と違っていまだに野蛮なことが行なわれているんですね」という反応です。はじめに魯迅が1921年段階で書いたようなことですけども、その 次に魯迅が1936年に書いたことを見せて、それを引っくり返すというのが私の大学での授業なんです。
そこで、1920年代から30年代にかけてどのような変化があったのか、もう少し補充した方が良いようにもいます。先ほど言いましたように、それ自体、 中国における戦争と革命過程が深化して行きまして、国家権力は、死刑を密室化していくという傾向を帯びるわけです。これは世界的な同時代性としても考察で きることです。国民党政権というのは1930年にですけど、かなり強い体制を確立したわけですが、その30年代の模倣モデルは実はドイツなんです。 1937年くらいまではドイツと非常に蜜月期にありました。蒋介石という人はある時期まで非常にヒトラーの物真似みたいな服を着てですね、ちょび髭も生や していました。それ以前の中国は、孫文と共産党による合作期ですから、ソ連がモデルなのでした。いずれにせよ、その時に考えるべきことは、中国は、中世的 な残酷さを残しながらも、国家の「進歩」にあった、ということです。しかしそれは魯迅が遺した言葉で言うと、以前の地獄に対してより強烈な地獄、昔の地獄 を覆い隠すような地獄がやって来ているんだ、という知見に繋がります。そこで向かいの地獄が懐かしい、美しいイメージになってしまう、と述べていました。 「失われたよい地獄」というエッセーが、『野草』という短篇小説集に書かれています。つまり魯迅の意図したものは、そのような意味での「進歩」の観念を壊 していくということでした。そういうのがおそらく、「アジア」的な批評なのだ、と思います。
で、日本の場合にはみなさんご存じのように、死刑囚といわれている人々は親類以外の接見を禁止されるわけです。まさに新しい地獄ですね。権力が人間に与 える死を極限にまで匿秘化しようとしているわけです。こういうふうに考えてくると、こういう映画、つまり『やられたらやりかえせ』のあのラストのシーン ――公開審判という形でその場を、政治的な場を構成するという民衆の力ですけれども――こういう政治の磁場がきちんと記録されていた、ということです。こ れは本当に素晴らしいことだ、と私は思います。で、こういうことを今どのように実現するのかということで、イメージでこういうものだ、とは中々言えないわ けですが。やはり例えばテント演劇ですね。テント演劇の中で試みられていることとは、つまりこの『やられたらやりかえせ』でやっていた、「見せしめ」とい う名のコミュニケーションの再現動化であるわけです。ある「電圧」をかけられた身体、その身体から絞り出される声に「真実」を見たい、あるいは見せたい、 という欲望。そういう欲望は、やはり人類史の中から、私たちの中から消えないと思うのです。それをまた花開かせて革命に持っていきたいのか、と言われた ら、それはちょっと自信持って言えませんけども。だけどもそういうものが社会の中から消えないのは、つまりテント演劇みたいなものを観たいという欲望が社 会の中に、まだあるからです。で、そういうことがおそらく「アジア」的なものなのだと思います。

司会 どうもありがとうございます。最後テント演劇ってさっぱりわからないかもしれないんですけども、僕とか何人かがテントで芝居をやって いるっていう経験、最初に丸川さんがおっしゃった80年代に「風の旅団」というテントでの芝居をご覧になったということに結びつくという話でした。時間が そんなにはないのですけど、みなさんのご都合によりますけど、何か今の丸川さんのお話に関してご質問があったら。じゃあどうぞ。
参加者A 大変興味深いお話でありがとうございました。権力と人間の死ということを人類史的問題として捉えるという視角はとても興味深かっ たんですけれども。こういう人類史的な問題ということになると釈迦に説法になってしまって恐縮なんですが、ヘーゲル経由でマルクスが「人類史のアジア的な 段階」ということを言っていて。それが吉本隆明なんかは特別の意味合いを込めて重視しているというようなことがあるわけなんですけれども。あと公開審判っ ていうのが今でも残存しているということにおいては、まあ吉本風の言い方にしちゃうと、共同幻想の中に残っている「幻のアジア」みたいなことになるんじゃ ないかと思うんですが。そういう点で、「アジア」的なものというのは貫徹されているのかどうか。だから丸川さんは批評をする立場としての「アジア」的とい うことをおっしゃったんですけれども、制度の側にその「アジア」的な問題っていうのは残存しているのかどうか。そこにおいて日本というのは異質なものとし てあるのかどうかという点をおうかがいしたいと思います。
司会 かなりハードな質問ですね。
丸川 高度な質問でびっくりしましたけど。そうですね、「アジア」というのはやっぱり多様なので、半島のアジアと、列島のアジアと、大陸の アジアとかいろいろあるとは思うのですけれど。中国だけに視点を移しますと、皇帝権力的なもの、ずっとこう、毛沢東もそういうものの化身として考えられる というようなことはまあよく言われておりますけれども。わりとヘーゲルが定式化したような考え方からすると、中国の場合すごく面積が広くて、また河が長い ですね。そうすると、ぜひとも、農業社会を成立させるために潅漑工事をやらなくてはいけない。その長い河を管理するためにどうしても広域権力が必要だとい うことになります。それが皇帝型権力の起源にある。ヘーゲルが言ったように、だからギリシャとかそういう入り組んだ海岸線のある土地はそういう社会形態は 採り得ないんです。皇帝権力ではなくて都市国家という形で、ポリスという形で政治がおこなわれる。いわゆる西洋によって理想化されるシティズンがその都市 国家から生まれる、というストーリーになりますね(しかしその代りに、シティズンではない奴隷が必要にもなる)。谷川雁という人は、中国との対比におい て、日本社会の特色を言おうとしていました。日本の社会の二重性というコンセプトですね。建前としての国家と実体としての共同体社会の二重性がそこから生 まれる、などと言ってました。一方、常に私の大学での授業でもそうですけれど、学生は得てしてつまらない比較論にはまってしまう。それは日本内部のどうし ようもないぬるい空気の反映にすぎないのですが。その時に例えば先ほど言いましたけれども、ヨーロッパからの補助線を引いて、例えばフランスでなぜギロチ ンに到ったというと、それは「ヒューマニズム」だったというような刺激的な言い方をわざわざして、物事を分からなくさせる、という手段を講じています。ま たさらに逆のことを言いますと、中国の方がいわゆる西洋型のいろいろなものを取り入れて、それを革命に転化してきた歴史があります。つまり、西洋の文脈を 逆なでしながら、マルクス主義国家を新たに作ったわけです。ただ一見すると、あきらかに中国の方が頑固に自分自身の何かをずっと保存しているという傾向も 見受けられるわけです。そこで中国現代史は、結果的に「進歩」の幻想から逃れることによって自身に回帰した、という言い方が成り立つのだと思います。そう いった特色が最も色濃く出ている思想が魯迅にはありますね。
少し話題がズレますが、日本においても、いわゆるアムネスティ・インターナショナルなどという組織の支部があって、フランス型の運動を行っているわけで す。死刑制度廃止も含めて。しかし忘れてはならないのは、死刑にかかわる問いは1970年代における東アジア反日武装戦線といわれている人達のある種の一 連の行動を受けたところから出てきた思想として取り扱わなければ意味がないように思います。人を殺傷してしまった、爆弾で。そのことを反省しながら、しか しまた死刑に反対する。記録するに足りると言ったら変だけど、今でもその運動は続いているわけです。そして、まだ生きているのです、監獄の中で彼らや彼女 らは。先ほど私が言いましたけども、独特の反応の仕方で権力と死の問題を捉まえて、それをずっと表現してきた歴史が1970年代からずっとある、ってこと だと思うんです。『やられたらやりかえせ』もその途中で出て来た一つの作品(記録)であるわけです。こういったことが、つまり「アジア」的な主題である、 と私は思うわけです。さらに遡れば、どこから始まるかっていうと1910/11年の大逆事件です。その大逆事件と繋がっているのは、まさに韓国併合という 暴力であるわけです。こういうことを前提にして考えるということが、やはり「アジア」的な批評なのだと思います。
司会 大逆事件からちょうど百年ということで。
丸川 そうですね。
司会 東アジア反日武装戦線、75年にパクられてますんで、35年という時間軸の中で今話されました。ただ、ちょうどこの場は時間というこ とで、今日はここでいったん終わらせて頂きます。ですが、時間のある方は隣に移って具体的な話を丸川さんを交えて話したいと思います。それから、ここに NDUの井上さんがいらっしゃっていますが、明日はこのシリーズの最後で『出草之歌』を上映して、井上さんご自身が登場して何かをやります。『出草之 歌』、ご覧になってない方は、これは絶対に必見ということでぜひお薦めしたいと思います。今日はどうもありがとうございました。

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