60・70年代から現在まで―― そこに見られる日本型ファシズム(天皇帝国)と寄せ場

――  松沢哲成(寄せ場学会)

2017年9月30日 plan-B

(なお松沢哲成さんはこの2年後に亡くなられており、この原稿に目を通していません。従って、責任編集は「山谷制作上映委員会」のものであることを断っておきます)

司会 それではそろそろ始めたいと思います。松沢哲成(てつなり)さん。われわれはテッセイさんと呼んでいたのですが……ああもう、名前変えちゃったんですか、昔の名前はそうだったんですけど、テッセイさんというふうに、変えてしまったそうです。「寄せ場学会」の会員でありまして、歴史学の研究者。まあ、そういう方です。内容的にはもうほとんどお任せして、わたしとしては「はい、もうそろそろ時間です」というような役割しかないので……それでは松沢さん、よろしくお願いします。

天皇帝国体制とは何か

松沢 松沢です。ちょっと配った(レジメの)「天皇帝国体制に対する私の闘い」という大層な題のコピーがあると思うんですが、はしょりながらやっていきたいと思います。大仰なんだけど「天皇帝国とは何か」という大きなタイトルが付いているのですが、その点について、これは金時鐘(キムシジョン)の考えを基にして、その権力体系と美的体系が一致するという論旨で書いて在るんですけど……。ちょっとね、今その点について話をすると、それだけで延々とかかるから、まあこういうのを書いたということなんですが。で、その実体的に戦後のわたしの言う天皇帝国という体制はどういうふうに作られたかということについて、ちょっとこれの最近号(『寄せ場NO.28』)にも書いたんですが、〈「冷戦」体制下の「日本本土」と「沖縄」〉ということで、これもまた説明すると長くなるんですけども……簡単に言うと、戦後アメリカ軍がやってきたときに、崩壊に瀕してた日本官僚制とくっついて、それからたぶん財閥の生き残り、それから現在のゼネコンですね、五大ゼネコンなどと一緒になって、アメリカとまさに崩れかかったニホンの官僚制とが一緒になって、沖縄にハーバーを作って、しかも監獄部屋を作ってですね、それでそこで厖大な利益をあげてきたということを……これ、詳しくやるとまた長くなるんで……そういうことで、ここにある体系なんですけども、その内容というか、内実としてはそこで展開したつもりです。実に醜悪な体系で、そこにいろいろと書いてあるんですけども一例だけあげると、戦争中に朝鮮人や中国人を強制連行しますよね。それでその面倒をゼネコンがみたから、その分の国家賠償を払えということをやって、国からカネをむしりとるんですよね。戦後、ちょうど政治空白がおきた時期に、いくらかだかは忘れましたが、厖大な額を奪って、戦後ゼネコンが再生していく際の原始的蓄積というか、最初の根源的蓄積があったということです。戦争中にはね、ゼネコンはわりと海外に侵出していて、鹿島は台湾とかいろいろ、間はどことかというふうにしながら海外でかなり稼いでいたんですけど、ダーっとなくなってしまいましたよね、植民地は。だからけっこう戦後は苦労したんですけど(苦笑)、そのときにGHQが助けてくれて、いろいろと……。沖縄だから、沖縄で基地を作ろうというときに、アメリカ資本を土建資本に入れれば良いんですけど、そういうんじゃなくて、ニホンの資本を動員したんですよね。ニホンの資本を育てて、そこで搾取しようという、そういう体制を作ったということなので。それはこの(会場販売の)コピーにあります。
それが一番目の「天皇帝国とは何か」。ここで書いた基本は、そういう上部構造・国家構造の作り方のわけだけども、そういうふうなものを支えている人々の考え方というのが、ずっとあるんじゃないか。結局「エライ人」「お上」という意識はやはり、戦後もまったく払拭されてないのではないか。これも証明するといろいろと長くなるのですけれども、たとえば『拝啓天皇陛下様』ではないけれど、「拝啓、マッカーサーさま」という厖大な手紙がでたりして、そういう状況があったと思うんですよね。そういう外にある巨大ゼネコンが構築した体制というのもありますけれども、それをこう、なんというか潰していかない。あるいは積極的に、消極的に支えてきたひとびと……まあ、ニホン人ですけど……それがいたんではないか。つまりわたしよりもちょっと上の世代の人なんですけど、そういう人たちがいたんではないか。そういうことで、そういうところを克服していかなければ、というのが、ここで一番言いたかったことです。

60年安保闘争との関わり

次なんですけど……おこがましいんですけど「私の闘い」というようなことを書いてあります。これって英語に翻訳されたものでして、そういうニホン語的じゃないコトバがでてきますが……。まあ、わたしは歴史家の端くれとしては、わりと連続的発展論というか、歴史は少しずつ切れ目なく発展していくという方にとか、急激に落ちていくとか、そういうふうにいうようなことが多いんですけど、自分の歴史をみると、まるで連続していない。きわめて三段階に分かれていて、その間に落差がすごくあった不連続の歴史である、というふうに思います。
冒頭は、60年安保です。わたしが大学に入ったのは1958年の4月、岸信介の時代ですね。それで、いなかのぽっと出から東京に来て、もう間もなくここに書いたように日教組潰しの動きがあり、警職法があり、さまざまな立法が出されていたわけですね。それでそれに対してまあ、素朴な反発をしてきたわけですが、結局58年の6月25日だったわけですが、6月に安保闘争。そういうのをやって、そのことによって革命をおこすというふうに言っていた共産主義者同盟、いわゆるブンドっていうんですけど、それに加わっていった。駒場寮にいたんですけど、駒場寮で西部邁のすぐ隣のベッドにいたんですけども。そういうことから入っていったんですが。60年には羽田の1・16もあったし、それはもう駒場にいたんですけども、本郷といっしょにやって東大としてやって、空港のロビー突入闘争というのをやったんですね。もちろん空港に突入すればそのまま袋のネズミで捕まったわけなんですけど、わたしはたまたまレポをやらせられていて後に連絡に行ってて、戻ったらもう部隊がいないんですよ。それで初めて空港なるものに急いで入ったんですけど、初めて広い空港を見て……空港って広いですよね。実にどこに何があるかぜんぜんわからなかったですね。で、とうとうロビーに行ってそのまま押し出されて、帰りに第二京浜で渦巻きデモをやって、水ぶっかけられて……そういうのが60年です。
それで本郷に移ってから60年の4月から始まるんですけども、今はちょっとボケて忘れたんですけど……60年の5月というのは、韓国で革命がおこった年……学生運動がやった4・19の直後に、今は無き国会の南通用門に通じる道があって、そこにぎっしり機動隊が詰めて配備していたんですね。4月、5月、6月……4、5が主にだったんですけれども。4・26から5・15。4・26というのはすごいトラックを乗り越えたやつなんですけども。チャペルセンター前でずっとあって、南通用門につながっているんですけど、わりと狭い道で、そこに横付けで機動隊のトラックが置いてあって、その間に警官がいるっていう、そういう配置があった。それに対して唐牛健太郎だったかな……アジって、「韓国に続け」というようにアジって、それでみんな飛びこんだんです、そこへ。もちろんみんな逮捕されたんですけど……わたしたちはちょっと飛び込まなかったんです。で、捕まらなかったんですけども。その後東大の、ブンドではないんですけど、最終的な中央委員会っていうのがあって、その席上で、当時の東大ブンドの細胞の服部・星野という、……星野は星野中、経済学をやっていた、今もね。その二人が中心の細胞だったんですけど、その中央委員会という席上で批判したんですよね。なんでちゃんとした方針を出さなかったのかと。ガンガンいったものだから、ただちに飛ばされて、オマエは東大には置いておけない、というんで、なんと金助町に追い出されて、全学連の都学連ですかね。その書記局長に追い出されて、今で言うと臨時職ですね。大学に行ってオルグしてこい、と言われるんですね。
いろんな大学に行きましたよ。立正とか女子美とか行って。金はぜんぜんくれない。現地調達。青木昌彦という悪い奴がいて、有名な経済学者なんですけれども。まあ、幸いもう死にましたけど(笑い)。いやあ、そいつが中心で、キャップは清水丈夫。唐牛の時代だったかな……それにこき使われて、わたしはおかげで病気になりました。60年に腎臓で死にかかったんですね。今はもうなき金助町・金助官僚とさんざん言われました。
6・15の時も、都学連のペーペーのオルグになっていたんですが、細胞会議の決定を聞くこと、陪席だけ許されていたんですよね。発言しちゃいけない、聞くだけ聞く、という。島成郎がなんかギャーギャー言ってて「どうせダメだから火つけろ」とかなんかいろんなこと、むちゃくちゃ言ってました、むちゃくちゃなことを。6・15前夜にはね。でもその時やっぱり、どうやらいろいろと手を回していたらしく、明治や法政のどこかの連中に言って、ペンチやなんかを用意して行ったようですね。それで線を切って突入していったんですけども、それが6月15日ですね。
まあここで言いたいのは、東大や学連の体制というのが、新左翼といったはしくれというか、走りなわけなのだけれども、まったく日共細胞の体質を受け継いでいたと。実際、島っていうのも東京都の中央委員、都の委員ですよね。そういうのがいっぱいいたし、青木やなんかもそうだったと思う。そういう体制がかなり変わってなかったということは、後になって特によくわかりました。言ってることはね、口先はだいたいサルトル・ルフェーブルから始まって、トロツキーですよね。そういった主にトロツキーの色を密輸入して、黒寛一派に批判されながら、密輸入して、新しい体系を作ったとふうに言ってたんですけども。思想に少しそういう志向性があったかもしれないけれども、組織の体質や人間性はそんなものではなく、みんな一皮剝けば共産党の細胞に似て、50年問題でもまれたというか、はじき出された人たちが多かったようです。
東大は宇野弘蔵だったんですよね。ここに書いた『経済原論』とか段階論で宇野経をほとんどそのままやってて、後は新聞を読んでそれに「敵の権力の動向を綿密に把握して、それに対応してやらなければいけない」というようなことでやってたわけです。まあ、今から考えれば志向性としては新しい考え方を打ち出そうとしたわけだけども、実際は一皮剝けばそれほどでもなかった、ということが……まあ総括だからね、どうしてもそういうふうになるけれども……最近の考えです。
わたしは1960年の6月の19日だったかな、17日だったかな、新安保は自然成立しますよね。その日にぶっ倒れまして毎朝起きるたびにだんだんベルトの穴をずらさなきゃいけくなっている。それで尿毒症ということになるからというので……腎臓です。そのままくにもとの病院に入りました。半年くらいです。自然成立した日なんです。その60年の6月下旬、20歳くらいですね。それから10月くらいまでの間、まあ死にかけたというか、ずっと水がとれなくて、初めて室内で歩かせてもらって、ベッドがここら辺にあってここら辺まで歩いてたのが、60年ですね。それで体は、その後何度も発病を繰り返してあんまりよくなかったんですけど、結局今もってまだいろいろとひきずってます。まあ、体のほうはそれでいいんですけども、いちばんきつかったのはやはり、思想というか、ものごとの考え方ですよね。4ヶ月くらい病院にいる間、もちろんブンドから資料というか、論争の資料というか、大論争をやったわけでしょう。こんな本でいっぱい出てますよね。そういうのが一片もこないんですよね。それでどういう状態なのかぜんぜんわからなくて一人で、〈闘争に敗北した〉それをどういうふうに考えたら良いのか、ということで悩んだのが長く続きましたね。
やっぱりマルクス主義体験というのは、ひとりひとりの生き方までは拘束しないとしてもそれに相当影響を及ぼすような、全体系的な思想ですよね。それに全力をかけてやったのに、負けたというかダメになった。体力もダメになり思想的にも敗北したというんで、じゃあどういうふうに考えたら良いかといったときに、なかなか難しい部分があって。これを再建するのにかなりかかったですね。いろんな考え方が、人生観とか生活観とか世界観とか、全部つながっているんですよね、マルクス主義体系では。だからそこを脱却するのがすごくたいへんだったということであります。体も不自由だったので、60年代後半は、半ば頃までは何もしなかったですね。で、どうやら4年かかって大学を卒業したというのはおかしい話なんですけども、休学したのに……ということでした。

私にとっての東大闘争

その後ですね、68年以降。切れているんですよね。60年代半ばから切れて68年ですね。まあ10・8(ジュッパチ)ショックっていうのもあったんですけど、あれはかなり強烈でしたね。でも直接は反応はしなくて、8年前に虐殺された樺美智子っていうのが同じ学科の一年上だったんですよね。それで樺美智子の虐殺記念ということで、長らく支配してた東大の民青的な雰囲気を打破しようという何人かでデモをやって日比谷に行ったんですね。日比谷ではなんかすごい大きなデモがあって、その中に入ってやったんですけど。その時に東大ではずっと医学部で闘争があって、青年医師連合という医者のグループと、それから医学部の学生たち、医学連系統につながる人たちと一緒になって、ずっと闘争をやってたんですね。あそこもタコ部屋みたいな制度ですから、医局制度というのは。それでそういうものを打破しようというんでやっていたわけで、それをたまたま我々がデモをやった6月15日に東大の講堂を占拠したんですよね。それで、そりゃあ大変だといって日比谷から舞い戻って……大変というのは機動隊を入れるんだろうという話で舞い戻ったんですけども、それからずっと始まって、学園闘争というものに入っていったんですね。その時に6・15のデモをやった人たちやなんかと一緒に、グループを作って始めたんです。全学闘争連合、全闘連というんですけども。ここにもちょっと書いてありますが。もちろん全共闘議長になった山本義隆とかもいたんですね。山本とか、それから赤軍にいた川島とか何人かいろんな人がいたんですけども、そのグループに最初、関わったんです。それでわたしはまだぜんぜん体力に自信が無くて……自信が無いというか、学校に来たら授業を受けて、そしたら家に帰って寝てたんですよね、寝てなければいけない状況だったんで、そんなにはいろいろできなかったんで。まあ、言い訳になりますが。それで、でもやっぱり全闘連・全学闘争連合に関係してやっていったんです。この人達のうちの、山本や川島や何人かの人たちが中心になって、最終的にまた安田講堂を再占拠する。で、東大闘争の盛り上がりというのを作っていくようになるわけです。まあわたしは、ちょっと最初の方に関係したというだけなんですけども。
えーと、そんなんで、いずれにしてもこのレジュメに書いてあるように、わたしにとってはブンドの破産から東大闘争へというかたちで、やっとどうやら思想的な自分なりの考え方を持てるようになったというふうにいえると思います。東大闘争・学園闘争というものが、街頭なら街頭に出ようというのではなくて、自分たちが学園にいながら、現存の帝国主義体制の一環というか重要な一部をなしているということを自覚しつつ、そのことを糾弾していくという、そういうような考え方で、それはひじょうにわたしにとっても役に立つ、初めてこの時点において、第一次ブンドの洗礼から逃れることができた、という感じになったのです。今も学園闘争っていうのは非常に重要だったと、わたしとしては思っております。

救援運動から治安弾圧への反撃運動へ

そのまた後、切れるんですけど、三番目は救援運動なんですね。この間にも滝田弾圧の話もあって、少しずつそういった関係もあったんですけども、本格的には爆弾事件の冤罪犯の救援運動というのに関わるようになった。増淵というのがいて、赤軍の下の下ぐらい、端の端っこにいた人間がいて、彼が主犯とされたでっち上げ事件でした。当時の69年の闘争といわれるものが、華やかだったですね。いろいろ火花が散った時期がありましたよね。その後を受けて公安側が弾圧に乗り出してきた。それの手始めというか、ひとつの頂点だったと思います。『情況』という雑誌、74年の10月号に「虚構と作為」という特集があって、ここに初めて大々的に書いたんですけども、土田……警視総監ですね。〈土田邸・日石郵便局の爆破事件〉のでっち上げという、こういうのを書いたんですけども。これがまあ……若い人が多いから、あまり知らないかもしれないですが、70年代というのはアパートローラー作戦とかなんとかといって、もうものすごい弾圧体制だったですね。それでこれがひとつの頂点で、当時の公安部長とか検事は公安刑事の最先鋭、さっきいった60年1・16の羽田空港ロビーの時に、ひとりずつ捕まえて顔を吟味しながら、「逮捕・パイ」とかやった人たちが主任検事だったり、警察の方は三井脩という有名な公安刑事がいて、途中には警視総監の土田國保とかいるんですけども、最終的には……後藤田、アイツがいて、60年代治安体制で、70年代に騒いだやつらをダシにして全部潰そうという体制にして、それの突破口にこのでっち上げ事件を作った。増淵以下のグループは大きく言えば赤軍系ではあったんですけど、下の下の方の脇の方にウロチョロといったグループだったんですけども、それを犯人にしたてて、分離公判やってとかいろいろと手を尽くしてやったんですね。
で、わたしはちょっと増淵個人と縁があったりして、そういうこともあって危機を感じて救援運動に入っていったのですが。それ自体は分離公判も潰して統一公判にして、いろいろやって一応勝ったんですよね。勝ったんですけど、これって奇妙な事件で、みんなも聞いてないと思うんですけども、実は爆弾事件の冤罪事件として決して名前は出ないですよね、これは。一度知りあいの筋で、朝日新聞のスクラップという切り抜きというのがあり、それを見たことがあるんですが、そこにはいっぱい書かれてあるんですよ。記事にはなってるんですよ。でもね、冤罪事件とか、なんとか事件というときにはぜんぜん出てこないですね。だからもう、なかったことにされている事件なんですね。ですけどまあ、一矢報いたというか、そこで、勝利をさせなかったということでやりました。統一公判を作って無罪を獲得したんです。でも獲得した結果冤罪となった人たちは市民生活に戻って、それで終わりだったんです。わたしとしてはそういった人たちが、闘う人たちの戦列に入ってほしい、そういうことでの救援運動だったつもりなんですけど、ぜんぜん実らなかったですね、それは。
その最後の頃に、ひとつの事件だけやっていてもダメだからというので、70年代治安弾圧に対して相対的な反撃をしたいというんで反弾圧運動、いろいろやって。そのへんで初めて反爆取、爆取でやられている人たちと、なんとかとか……釜BQ(反爆取救援会)とかともこの時接触したことがあるんですけど、あんまり釜BQというのは動いてなかったような感じがしますけど。釜でも、でっち上げで捕まって白状したやつがいるでしょう。ニセの「自白」して、二人で。そういうことで、こっちは接触したんですけど、あんまりうまくいかなかった。それでもうちょっと後、最近、大規模地震特別災害法とかいうのがあって、あれやめるってことでしょう。あの時に、その頃にできたんですよ。あんなもんウソだ、信用できないはずだと言って、われわれは反対したんです。それを口実にしていろいろやるんだろうと言って、反弾圧運動の中で「大規模地震法粉砕」というのをやったんですね。しかし最近の新聞にね「やめる」っていう、なんだかバカバカしいっていうか、そんな感じだったんですけど。
まあ、一つの爆弾事件の救援から入って一応、反弾圧運動というのをやって、なんとか世の中の流れを押し戻したいというふうに思ったわけですけども、あんまりたいしたことはできずに終わった、ということです。一部の人は知らないかもしれないですが、70年代その頃は、アパートローラー作戦とか過激派壊滅作戦とかいうのがあって、一軒ごとアパートをローラーで潰すように警察が回ったというのがあった。そういう時代に反発して、一応一定勝利したんですけど、マスコミはもとよりどこからも、家族からもあんまり良く思われなかった救援会だったですね。
そういうことから暫くおいて、わたしはその反弾圧運動の末期の頃に、いくつかやってるんですけどね。知ってる人は知ってると思うんですけども、反日武装戦線では、見解がぶつかって、結局撤退したわけです。それからその後、北海道庁爆破というので大森勝久っていう、よく山谷に出入りしてた人だそうですけど…….。
会場から うん。
松沢 知ってる? 会った?
会場から 釜で……。
松沢 うん、でも山谷にもいたっていう話もあるんだけれど。それについての支援をやって、東京から札幌まで公判の度に行って応援をしたんですけどね。その頃は元気良くてどんどんわめいてて「やって悪いことはない。道庁なんて爆破されてしかるべきだ」とか言ってたわけですよね。それで死刑判決が出てるわけです。最近なんか「死にたくない」とか言ってるという噂なんですけど。で、その時にこうやって、こういう本(『やってない俺を目撃できるか!』)をまとめたんですね。まあこの頃一応わたしは、反日武装戦線の思想とかには、かなり近くにいったということになると思います。大森とかを支援して……。

山谷へ――越冬闘争

まあそういうのが間に入ってだと思うんですけども、最後の山谷との関わりということで、まあ順番であるように、越年闘争に参加したんですね。ひとりで行ったんですよね。それから救援運動をやってた若いやつを連れて行ったりもしましたけれど。一回目はひとりで参加して、まだ玉姫公園は赤軍だとか山統労とかが跋扈してて、ずいぶんいじめられました。さんちゃんぐらいしかいなくて、三者共闘の時だったのかな……まあ、いじめられました、玉姫では。それで「どっから来た」「何しに来た」、そういうふうに言うんですよね。それで次の年に武蔵大の……ちょっと武蔵大学にいたので……学生団が合計10人くらい語らって二、三日いたんです。で、まあ、山岡照子さんに怒鳴られながら、そういう医療班とかなんかやりました。まもなく山谷の玉三郎に会ったんじゃないかな、炊事班で。こっちもきびしいんだよね。彼は、玉三郎は。「あごたたき」っていうんですよね、能書きばかり言ってるから、と。「もっと働け!」っていう。でも途中で「酒飲みに行こう」っていう感じだったんですけど。
まだこの頃は山谷には個人的に出会ってて、わたしは当時国分寺に住んでたので「三多摩でやれ」ということで。南さん……だいたい指示は南さんからくるんですよね。南さんに言われて、三多摩でそういう組織を作って、いろいろとやっていくようになったわけです。それについても、レジュメに書いてあるんですけどね。それで三多摩でもアオカンの状況がどうかとか、そういうのを日雇職安もあったので調査して見たんですけど、あんまりはかばかしいことはわからなくて、結局山谷にむかってまあ越冬を中心にしてそこに参加していくというかたちで……。遠いんですよ、三多摩というところは。車で行っても三時間くらいかかるし。それで物資を運ぼうとしても手で持っていけないから車で行くわけでしょう。
それで何回目ぐらいかな、越冬の何回目かの時に83年の11月3日のあれにぶつかったんですよね。ある日、さんちゃんかなんかから電話がかかってきて、「天皇制右翼がやってきた」といって。
司会 この映画の初めのシーンですね。
松沢 それでなんとか玉姫じゃなくて、あそこの泪橋で、わたしもぜんぜん体力に自信はなかったけれども、あそこに行って、対峙したことがあります。ということで、そのことについての詳しいことはわたしの任ではないから言いませんが、結果として、レジュメに書いてあるんですけど……「山谷の暴力団支配策動は打ち破ることが出来たけれども、山谷争議団を軸とした運動もまた勢力を削がれ弱体化していき、警察と独占資本だけが勢力を誇示する結果となった。労働力市場としての山谷は、寂れていった。」というふうなのが、わたしの印象です。そこのところは、ちょっと前に書いたものなので、最近はじゃあどうなってるんだろうかということで、それはいろいろあると思うんですけども。最近の分析はあまり進んでいません。なので、よくわかりません。とにかく寄せ場を支配して、それで手配してきて、ゼネコンに労働者を供給していく体制はなくなったと、ほぼ言えるわけですね。それに対してひとつだけ、釜ヶ崎の元「寄せ場学会」の水野阿修羅というのが写真を(添えて)書いているのですが、広い立派なマンション風の建物をあちこちに作って、そこに労働者を閉じ込めている、っていう会社がいくつかでてきて。今一番必要とされる福島とか、それからオリンピック工事とかそういうふうなところに、こういうところを経由してもっていってる。ここは携帯の手配ということで、携帯手配というのはもう古いと思うのですけど、やっぱり飯場。しかも一応近代的装いを持った飯場、寮みたいなところに閉じ込めて、そこから労働に押し込んでいくというそういう体制かな、というふうに思います。

山谷についての二、三の質問

司会 もう少し時間がありますので……。ちょっと1950年代から一挙に現在までいってしまったんで(会場・笑い)、ちょっと走りすぎましたので、何か質問とかありましたら…….
客Y Yと申します。一番最後の争議団の弱体化というふうにおっしゃられた、その背景とか、どんなふうにお考えなのかということをお聞きしたい。
松沢 どういったらいいかなそれは。なかなかわたしからは言えないけれど。気がついてみれば暴力団の方も解体してるんですよね。まず一番上の工藤。あいつは死んだでしょう。自殺しちゃったんだよね、あっちも山口組の進出があって、山口系になったらしいね。そういうふうになっていったんですね。それで、争議団の方はどうなったんですかね。(会場・笑い)当事者も来ているから、当事者に聞いてほしいけど。ひとりずつ消えていって、まずヤマさん(山岡強一)がやられたでしょう。そういうかたちでアレだったし。会館を作ったんだけど、そこで最初はいろいろな構想を練ったんですが、なかなかうまくいかなくて、食堂を作って食堂を中心にやろうとしたのですが……。それでも会館を拠点にして、それはそれなりに展開はしてたんですけども、争議団もね、だんだん人がいなくなってきて。やっぱり、国粋会・暴力団との対峙の中で、少しは労働者の信頼を失っていったのかもしれない、というのはありますし、それからなんとしても資本の側は手配の構造を変えたんだとおもいますね。いろいろとね。だから山谷が山谷というのを作って、あるいは釜ヶ崎が釜ヶ崎を作ってそこから労働者を連れて行くというやり方だと、訳わからないヤツラが……つまり我々というか、アソコラヘンだけど……そういう人たちが集まってきて文句をつけるから、というのでバラすという。それでこの水野阿修羅が書いているような飯場方式に切り換えていく……大きくいえばね。そういうことかな、と思うんですけど。それでね、人もいなくなったしね、だんだん。

客N Nと言います。今は政治的でないところでのご質問だったんですけど、逆に大きなところで言ったら、この国家とか行政とか、そういうものの介入というものはどのようにお考えというか……。端的にあったのかなかったのか、どのようにお考えでしょうか。
司会 誰か……。Rさん、喋れれば……。
R 今の質問について? 国家とか行政の介入、これはもう頭からあるんだけれど……。話すと長くなっちゃうんですけども、哲成さんが言うように、山谷争議団がなんで潰れてきたか……ひとつの外的な要素としては、やっぱり警察の弾圧があった。それからもうひとつ。当時の80年代には主に、建設資本に日雇い労働として雇われる労働者が多かったのだけど、彼らが手配状況を変えていった。なるだけ山谷から雇わないようにする。それはさっき言ったように運動があって、資本に対して敵対する。行政の方は一貫してどうしてきたかと言うと、まず60年代。特に暴動が山谷でも釜ヶ崎でも頻発して、それに対する治安対策としてですね、まず警察が全面に出てくるのと、あと見せかけの福祉みたいな……例えばあの日雇雇用保険みたいなものを準備していくとか、そういうかたちで治安対策をしてくる。そのほんの一部、福祉についても、まあやっていくという体制であったと思う。で、オレらはそういう中で、主に暴力団、さっき言ったように右翼を名のった暴力団が襲撃しかけてきたり、それと闘ってきたわけですけども、労働者が共に闘いながら、やっぱり勝てた場面というのも作れたわけですよね。で、さっき言った警察とか行政含めては、労働者と同様に闘う組織をどう分断していくかということをやっぱり狙ってくるわけで、例えば山谷で言えば「山谷争議団が騒ぐから仕事がなくなるんだ」という宣伝をして、分断を謀ろうとしてくる。「ああいう左翼共は労働者を利用しているだけだ」というかたちでやってくる。それでオレらは労働者と一緒にやっていけるだろうと、さまざまな取り組みをしてきた。そのひとつはさっき言った山谷の会館を作ろうということで作ったんですが。まあ仕事が80年代の後半にバブルがはじけてなくなってきたこと。で、高齢化してきて、なかなか運動として結びつけていけない状況。そういう状況になってきて、やっぱり運動も衰退してきたんじゃないのかと。まあ長くなるんで、これぐらいにします。
客N ありがとうございます。

司会 そろそろ時間なんですが。ほんとは天皇帝国。それについての本を出されている松沢さんなので、その話を、と思ったのですが、これをやるとものすごく長くなるので避けたくて、わたしが采配しました(笑い)。松沢さんはこの中ではたぶん一番お歳で、1958年入学ですから60年安保の時ですね。わたしがまだ小さい頃、わたしでさえ小さいんですから、知らないですよね。先ほどの唐牛健太郎とか、名前しか知らない。あと他にもいろいろといっぱいありましたけど。そういう経験があるので、この際何か聞きたいことがありましたら、最後に一問か二問くらいの質問で終わりたいとおもうんですが、どうでしょうか。そろそろ隣の部屋に行って酒を飲みたいという人もいるかもしれませんけど、もうちょっと……。ないですか。向こうで飲みながら話をしたい。そういう顔をしている(笑い)。それでは今日はこれで、まあ映画も2時間ですからお開きにしたいと思います。本日はありがとうございました。
(文責、「山谷制作上映委員会」)

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