生きてやつらにやりかえせ ー 歴史・民族・暴力

山岡強一虐殺30年 山さんプレセンテ! 第3回

鵜飼 晢(フランス文学・思想)

昨年は船本洲治さんの没後40年でしたが、今年は山岡強一さんが殺害されて30年ということで、今秋大きな追悼の催しが準備されていて、「山さん、プレセンテ!」というこのトーク・シリーズもその一環であるとうかがっています。

私が司会の池内文平さんやこの映画の上映委員会の方々とお付き合いをするようになったのも80年代でした。この間にすでに亡くなられた方も何人かいます。そのことに同時に思いを馳せないと、今日のテーマは語れません。
あれから30年後の現在の時代は、当然のことながら30年前とはいろいろな点で違ってきている。その違いをどう考えるかということについては、この社会に一般に流通している言葉のなかには正しい認識はないのではないかと思っています。そういうもどかしさを抱いて生きている人たちが、今日のみなさんたちのように、『山谷−やられたらやりかえせ』という映画を観に来られているのではないか。つまり、この時代はどういう時代なのか、そのことを考える基準点みたいなものを求めてこの映画を観に来られているのではないか。だからこそこの映画の上映運動は、ずっと続いてきたのではないでしょうか。私は仕事柄教育にかかわっていますので、何世代かの学生たちに接してきましたが、そのなかの多くの学生が、どこかでこの映画を観ているのです。そんなことを背景に、お話させていただきたいと思います。

「テロル」が色分けできた時代
「生きてやつらにやりかえせ−歴史・民族・暴力−」というテーマでお話したいと思っているのですが、もう少し具体的に言うと、この「生きてやつらにやりかえせ」というスローガンが、今何を私たちに語りかけてくるかということを中心に話を進めたいと考えています。
今から30年前というと、80年代中頃のことですけれど、一体どんな時代だったのでしょうか? 例えば「まだソ連があった」と思う方がいるかもしれません。冷戦の最後の時期にあたっていたからです。今日のテーマに則して定義すると、私は「テロルの色分けがまだできた時代」と言えるのではないかと思います。つまり、テロルに<赤色テロル>とか<白色テロル>といった色分けができた時代だったということです。
「テロル」とは単なる情念の発露でも犯罪一般でもなく、基本的に政治的な暴力を意味します。過去2世紀ほどの世界のなかで「テロル」の歴史を振り返ると、まずフランス革命の「恐怖政治」に行き当たります。しかし、あえて言えば、この最初の「テロル」には色がありませんでした。ナポレオンの敗北に続く王政復古以降、反革命の報復が起きるのですが、その後期に<白色テロル>という言葉が使われるようになりました。一方、<赤色テロル>という言葉は、ロシア革命によってボリシェヴィキ政権を樹立したレーニンが、反革命派を徹底的に粛清した際に使われるようになった用語です。
つまり、<白色テロル>と<赤色テロル>という言葉が同時に使われ始めたわけではないのです。最初は<白色テロル>だけでした。現在、世界中で、被抑圧者の政治的暴力としてもっとも突出している現象は、30年前には、すでに<赤色テロル>とは言えなくなっていたでしょう。そして、<白色テロル>の方が、そういう呼び方はもはや一般になされないとしても、結局生き残っているのです。ここがまず、非常に重要な点ではないかと思います。
佐藤満夫さんと山岡強一さんの虐殺は、山谷の労働者たちの労働が収奪されている状況が、このドキュメンタリー映画によって広く世に知られることを恐れた右翼暴力団勢力による明白な<白色テロル>であり反革命の政治的暴力でした。
30年前には、もう<赤色テロル>といえるものは見えなくなっていたと言いましたが、それでも少なくともわれわれの想像力の地平には、<赤色テロル>を引き受ける思想や実践が、まだ存在はしていたのです。必ずしも「テロル」と観念されない「組織された暴力」は、私たちが学生の頃から多少なりとも関わってきた諸闘争の核心にあった思想でした。60年代まで遡れば、三派全学連によるヴェトナム反戦や安保・沖縄闘争にもそれは認められるし、67年10月8日のデモ隊と機動隊が激突した羽田闘争は、権力の側の絶大な暴力に、佐藤栄作首相の南ヴェトナム訪問に反対する学生・労働者の側の「組織された暴力」が挑戦したもので、まさにこの思想で闘われました。
69年から70年代前半にかけて登場した共産同赤軍派や東アジア反日武装戦線の人たちの武装闘争は――後者の方たちは<赤>ではなくて<黒>だと言われるかもしれませんが――革命的テロルの主体に自己を変革することに人生を賭けていて、まさに<赤色テロル>と定義できるものでした。しかし、こうした学生運動家を中心とした「テロル」の行使は、ほどなく鎮圧されたり自壊して、姿を消していきました。
その後、組織された政治的暴力が発現する場は、山谷や釜ヶ崎などの寄せ場や、三里塚空港建設反対闘争などに限定されていきます。80年代初めの釜ヶ崎では、「来たれ暴動の町へ!」といったビラが貼られていたことを想いだします。そのような言葉が若者たちの心を捉えていた、まだぎりぎりそのような時代でした。しかし、30年後の今日、社会運動の地平にテロルが存在しているかというと、少なくとも当時と同じようには存在していません。

私は1984年の秋からフランスに留学しました。今のようにインターネットで即座に情報が入手できる時代ではなかったので、山岡さんの虐殺を、パリの日本語書店で販売されていた週刊誌を立ち読みしていて知りました。そして非常に強い衝撃を受けました。
そのことがきっかけとなって、私は『山谷−やられたらやりかえせ』のフランスでの上映運動にかかわることになります。この映画の公開は紆余曲折の末、山形ドキュメンタリー映画祭のフランス版といわれる「シネマ・デュ・レエル」という映画祭で行われたのですが、監督が2人も殺された映画はこの作品しかなかったという特異性もあって大変注目を浴びました。上映会では、私がこの映画や2人の監督について解説役も務めました。映画はその後マルセイユでも上映され、この地でも反響を呼びました。
私は留学中ジャン・ジュネという作家の研究をしていたのですが、山岡さんの訃報を知った86年には、その年の4月にジュネも亡くなりました。ジャン・ジュネは『花のノートルダム』、『泥棒日記』などで知られる世界的な作家ですが、82年には当時イスラエルの占領下にあったレバノンのパレスチナ人難民キャンプで起きた民間人虐殺事件に遭遇し、「シャティーラの四時間」と題するルポルタージュを書いています。この文章を翻訳するということが、私の最初の仕事になりました。『インパクション』(51号 1988年)という雑誌に掲載されたのですが、この翻訳の「あとがき」に、私はこんな一文を記しています。「このささやかな作業を、日本の地で政治暗殺に斃れた人々、とりわけ佐藤満夫、山岡強一、(朝日新聞社阪神支局襲撃事件で殺された)小尻知博の各氏に捧げたい。」
この一文は、当時の日本で、<白色テロル>がしばしば行使されていたことを想起させます。今から考えると、その時期は、昭和天皇の「Xデー」(運動圏では昭和天皇の死去の日がそう呼ばれていました)が近づきつつある時期でした。おそらくそのことと関連して、右翼の側が非常に暴力的になっていた時期でもありました。新たな「Xデー」が近づきつつある今、そのことをしっかり想起しておかなければならないと思います。
1987年に山岡さんの追悼文集『地底の闇から海へと』が出版されました。そこで山岡さんがジュネの『泥棒日記』を読んでおられたことを知り、一層親近感を抱いたことが思い出されます。

『シャルリ・エブド』襲撃事件
30年後の現在、思想的には非常に異なる衝撃的な暴力事件が頻発しています。私は2014年春からフランスにいました。2015年1月7日に起きた『シャルリ・エブド』本社襲撃事件の時には、当日共和国広場で開かれた抗議集会に参加しています。ところが、その4日後に行われた「共和国行進」は、だいぶ色合いの違った官製集会に変わっていました。ご承知のように、この事件は風刺週刊紙『シャルリ・エブド』がイスラームの預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことに端を発するものです。事件当日の抗議集会では、共和国の女神像に登って抗議のメッセージを掲げる人の中にファシストも加わっていたようで、私の周りには「ファシストは帰れ!」とヤジを飛ばす人もいました。また、若い人たちのなかにはフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を歌う者たちもいて、これに対して後ろから「ここで歌うのはおかしいぞ」とか、「インターナショナルを歌え」と叫ぶ声もあったりして現場は相当に混乱していました。
かつて『シャルリ・エブド』では、シネという伝説的な風刺画家が活躍していました。彼は新聞が親イスラエル的になり、同時に反イスラームの風刺に傾斜する時期に編集部から追い出されています。シネは先日亡くなりましたが、彼はジャン・ジュネの友人でした。この事件のあと、私はアルジェリアへ行きましたが、アルジェの国立美術館には、シネがアルジェリア戦争中に画いた作品が展示されていました。『シャルリ・エブド』紙にはこういう人が数年前まではいたのです。それが近年、急速に変質していった。1991年の湾岸戦争から、フランスの左派のドラスチックな崩壊が始まります。現在の『シャルリ・エブド』社は当時湾岸戦争に反対したグループによって再結成されたのであり、当時はまだ、抵抗の姿勢を示していたのです。この新聞の変質は、2001年の9・11以後、深刻になっていきました。この新聞は言わば、フランスの左翼全体の変質を、一歩遅れてたどっていったのです。
『シャルリ・エブド』に集った風刺画家たちにはそれぞれ独自の表現領域があって、みなが同じように攻撃的なイスラーム風刺に特化していたわけではありません。私は数年前まで『インパクション』という雑誌の編集委員をしていましたが、この雑誌には貝原浩さんという画家が天皇及び皇室のカリカチュアをよく掲載されていました。これが怪しからんということで右翼に襲撃され、編集委員のわれわれが殺されるという事態が起きたとしても、1961年の『風流夢譚』事件などを思い出せば、あながち想定外とも言えません。このような想定と通じる性格が、『シャルリ・エブド』社襲撃事件にあったことは明らかです。現にあの事件の後、「反天皇制運動連絡会」の友人は、街宣右翼から、「お前たちもああしてやる」と脅されたと聞いています。右翼からすれば、日本で『シャルリ・エブド』に当るのは反天皇制を掲げる左翼なのであり、襲撃者側に同一化してあの事件を見ていたわけです。彼らには彼らなりの筋があることを見落としてはならないでしょう。
当然のことながら、この数十年の米欧・イスラエルによる中東に対する侵略政策、そして現在のフランスでアラブ=イスラーム系移民及びその子弟が置かれている超差別的な現実については、話しだすときりがないくらい具体的な事例があります。『シャルリ・エブド』事件の実行者たちは、明らかに、この差別的なフランス社会と決着をつけることに人生を賭けた。そのこともまた、一方では事実です。
しかし、10年前には、差別的なフランス社会に対する抵抗は、都市郊外叛乱として表現されていました。2005年秋の郊外蜂起には、宗教的色彩は全くなかったことを思い出すべきでしょう。あの叛乱後も移民系住民の状況は何も変わらない。むしろどんどん悪くなっていく。当時の内務大臣で蜂起のきっかけとなった若者の死亡事件の責任者ニコラ・サルコジは大統領になり、フランス社会は一気に荒廃していきます。サルコジの再選を阻んだ社会党政権のもとでも、何も状況が改善しない。2014年という年は、何か起こらずにはすまないという予感が社会に充満していて、パリの空気は本当にピリピリしていました。そういうなかであの事件が起きた。人々は単純に衝撃を受けたというより、ああ予感されていたのはこういうことだったのかというような反応だったように感じました。
あの事件で殺された風刺画家の一人であるカビュは75歳でした。彼はアルジェリア戦争に徴兵され、軍隊のなかで反戦意識を持ったことがきっかけで政治的に自己形成した人物です。フランスでは左派のなかですらむしろ例外的な徹底した平和主義者で、反核兵器・反原発という思想を堅持していました。日本に来たこともあり、福島第一原発事故に心を痛めていました。そのような内容の晩年のインタビューが、亡くなったのち、ラジオで再放送されていました。
ベルナール・マリスという経済学者も同じ場所で殺されていますが、この人は『資本主義と死の欲動』というネオ・リベラリズム批判の著作を近年出していました。こういう人びとが、ことイスラームの問題になると、あのような差別的な風刺画を、意固地に擁護する立場を取っていたのです。
この新聞の編集長はシャブという風刺画家ですが、この人の座右銘は、「膝をついて生きるより立ったまま死んだほうがいい」というものでした。どこかで聞いたような言葉ですね。反対側の人たち、事件の実行者たちも、同じ内容の信念を抱いていたはずです。この事件は実は、このタイプのマッチョな性格の持ち主たちの意地の張り合いの果てに起きたという側面があります。事件に至る経緯については風刺画の掲載を合法としたフランスの司法の問題がもうひとつ重要ですが、話が逸れてしまいますので、今日はそこには触れないでおこうと思います。一言で言うと、私は殺された人たちについてもその思想の経歴をきちんと理解しようと努めるべきであり、襲撃の実行者たちの思想にも、できる限り接近したいという考えを持っています。
この事件についてパスカル・オリという歴史家は、「錆びついた無神論的無政府主義(『シャルリ・エブド』)と研ぎすまされた宗教的共同体思想(クアシ兄弟)の衝突」と評しています。共和国行進を高く評価するこの人の主張にはかならずしも賛成できないのですが、この形容そのものはけっこう本質を言い当てているのかなと思っています。ここからが今日の本題ですが、『シャルリ・エブド』襲撃の実行者たち、また11月のパリ6箇所同時襲撃事件を起こした人たちは、最初から死を覚悟している、むしろ死を望んでいるといってもいい。自爆攻撃を敢行する、あるいは治安部隊によって殺害されることを覚悟している。一言で言えば、死にに行っているわけです。ここが非常に重要な点で、というのも、アラブ=イスラーム世界では、彼我の武力の差が圧倒的だった独立戦争や脱植民地闘争、例えばアルジェリア戦争のような過程でも、政治的な自死は非常に稀だったからです。それはひとつには、イスラームでは基本的に自死を禁止しているからです。その禁忌が、80年代以降、急に解かれていった。これをどう考えたらいいのか。より苛酷な植民地時代にもなかったことがなぜ今急増しているのか。そういうことが問われているのではないかと思います。
その背景にイスラエル=パレスチナの抗争があることは間違いないし、自己の死と引き換えに敵に打撃を負わせるという戦術の歴史上画期となったのが、1972年5月30日、日本赤軍が行ったリッダ闘争、いわゆるテルアビブ空港乱射事件だったことも忘れられてはならないでしょう。イスラーム圏ではあのタイプの闘争は、それまではほとんどなかったからです。

〈殉教者〉とは何か?
『シャルリ・エブド』襲撃事件とは一体何だったのかと言うと、要するにこれは、預言者の仇を取るための復讐なのです。ユダヤ教では人間の復讐を原則禁止している。復讐は神がするものだとされているからです。キリスト教はさらに厳格に復讐を非難しています。イスラームでは復讐は一定の範囲以内では制度的に容認されていますが、基本的にはやはり禁止の方向です。それが今日のように自爆攻撃が常態化してしまったことについては、二つのポイントが考えられます。
70年代初頭、ハイジャックはプロパガンダのための戦術として闘争の歴史に現れました。当時のハイジャックは、飛行機を乗っ取り、自分たちの闘争の大義を宣伝し、人質にした乗客は指定した目的地の空港で全員解放し、そして飛行機は爆破して自分たちも逃走するというものでした。つまり、人は誰も傷つけないという配慮とともに練り上げられた合理的な作戦だったのです。今から考えると、なんと穏和な「テロリズム」でしょうか。よど号事件の時などは、実行者側との交渉に応じて、政府の要人が乗客の身代わりに人質になっている。なんとも牧歌的な時代だったと思わざるをえません。
ところが、その後世界の治安権力は、人質が取られても実行者側の要求は認めない、交渉などもってのほか、人質が犠牲になろうと「テロリスト」は抹殺すべしという方針を純化させていきました。1972年のミュンヘン・オリンピックの際のパレスチナ・ゲリラ「黒い九月」によるイスラエル選手村占拠事件以降、この傾向は一気に加速していきました。
9・11を見直すと、ご承知のように、この作戦はハイジャックした飛行機で直ちに目的が達成されるように構想されていました。ハイジャックした飛行機で、実行者が乗客を道連れに自爆をする。このような作戦は突然歴史に出現したのではなく、9・11に至る戦術の歴史があるのです。この30年の政治的暴力の性質の変化ということを考える場合には、このこともまた、思い出しておく必要があります。
2015年11月13日に起きた「パリ6箇所同時襲撃事件」は、サッカー場、コンサートホール、レストランなど、パリ内外で同時に展開された襲撃ですが、『シャルリ・エブド』襲撃よりもさらにいっそう自殺的な傾向は強まっています。「生きてやつらにやりかえす」のではなく「死んでやりかえす」、そのような傾向の政治的暴力の発動が、今世界で多発しているのです。ここで真剣に考えなければならない点は、そのことが自己にとって究極の行為であると実行者が観念している、その主体性の問題です。
イスラームには「殉教して天国へ行けば永遠の至福に与れる」という思想があって、それが自爆攻撃を助長しているという俗説がありますがそれは事実に反します。アラブ=イスラーム世界の抗争で自爆攻撃が頻繁に採用されるようになったのは80年代前半、イスラエル軍占領下のレバノンからです。イスラエル軍に対するものもあれば、レバノン内部の武装勢力間の抗争で劣勢の側が採用する場合もありました。ジュネの遺作『恋する虜』は彼の死後、1986年4月に出版されたものですが、そこには早くも、レバノンで起きた2人のパレスチナ人女性の「自爆」をめぐるエピソードが記されています。
最初は中東でこうしたかたちで出てきた周縁的な現象が、9・11以降、アフリカを含むイスラーム世界で全面化して今の状況になっていったのです。現在イスラーム世界では<殉教者>とは何かが厳しく問われ、非常に深刻な葛藤が続いています。 だいぶ前になりますが、パレスチナ自治区で2000年秋から始まった第2次インティファーダ(イスラエルに対する民衆の抵抗闘争)で殺された最初の100人の遺品展にかかわったことがあります。この遺品展のタイトルは「シャヒード、100の命」でした。しかし、この人たちはかならずしも闘争のなかで殺されたわけではなく、家のなかにいて誤爆によって殺された人も含まれていたため、はたしてその人たちも<殉教者>なのかどうかという論争が起きました。
一方、 現在の聖戦主義的な武装闘争、自爆攻撃を実行する人々のなかには、自分の意思で<殉教者>になれると信じている人が少なくありません。しかし本来イスラームは「神の道のために努力・奮闘すること」を「ジハード」と呼んできました。この「ジハード」という用語が、近年パレスチナ紛争や欧米との摩擦が高まるにつれもっぱら「異教徒」との闘いを指すようになり、やがて特に「自爆攻撃」の同義語になり、そしてこの「ジハード」によって命を落とした者が<殉教者>と呼ばれることになったのです。本来の信仰のあり方としてはみずから死を求めてはならないはずであり、「ジハード」のなかで天に召される者を選ぶのはあくまでも神であり、神に選ばれた者が<殉教者>なのですが。これは伝統的なイスラームがむしろ解体しつつある過程であって、「純粋な」「始源」のイスラームがこのようなかたちで復興していると見るべきではないでしょう。
私の友人に、マグレブ系の移民が多く住むパリ北郊外のサン・ドニという街で30年以上診療活動を続けているフェティ・ベンスラーマという精神分析家がいます。『イスラームにおける主体性の戦争』(2014年)という著書で彼は、イスラーム世界で自殺的傾向を募らせている人々はかならずしも「聖戦」志願者ばかりではなく、もっと広範な人びとが「自分は正しい生き方をしていないのではないか?」という深い不安を抱えていると指摘しています。そしてこうしたイスラーム世界における自死の観念の変容について、ベンスラーマは、チュニジア革命の発端となったといわれるブアジジーの焼身自殺の事例を挙げています。これはチュニジアの地方都市で行商を営んでいたひとりの青年が、ある日理由もなく自分の商売道具や商品を警官に没収されてしまい、それに抗議して警察署の前で焼身自殺を図った事件です。
かつてこのような事件はイスラーム世界ではまれでした。もちろん宗教的な動機による自死ではありません。イスラームの教義からすれば、自ら地獄に飛び込むような行為です。亡くなった当初、ブアジジーは、ムスリムの墓地に埋葬されることさえ許されませんでした。 しかし、実際には、まさにこの事件がきっかけとなって「アラブの春」は始まったのです。生と信仰から同時に離脱するという、非常に強い衝動を内心に覚えていなければ、とてもこんな行動はできません。独裁体制や社会の腐敗に対する批判への共感というだけではなく、ブアジジーを行為へと駆り立てた力に共鳴する人々が無数に存在しているということを、「アラブの春」は明らかにしたのです。伝統的なイスラームの聖職者たちも、宗教の戒律を破った自殺者だという理由でムスリムの墓地に埋葬させないということができなくなり、結局世論に押されるかたちで、ブアジジーは狂気に侵されたという口実で、ムスリムの墓地への埋葬を許可するにいたりました。このことについてベンスラーマは、このように言っています。「アラブ諸国民は自死の新たな高貴化の道、社会的大義の道を承認したのである。このことは<殉教>という観念を、さらに一歩その世俗化の方にずらすことになった。」
今アラブ世界では、こうした矛盾した動きが激しく衝突しているのです。イスラーム世界はけっして一方向に進んでいるわけではない。むしろこれまでの考え方がどちらからみても通用しなくなっている。そういう深い変容の時期にあるのだと思います。

「復讐」という観念
さらに、アラブ、アフリカでは、難民の問題も深刻化しています。「難民」と言っても、遭難のリスクを冒して地中海を渡ろうとするブラック・アフリカからの難民と、内戦で国が崩壊してしまったシリアからの難民とは、動機も事情もまったく違う。ただし共通項もあります。それはこれらの人々が、自国の現状のなかに、自身が存在する価値を見いだせないという認識です。そういう声が、自分自身の中に非常に強く響いているがゆえの決断だという点です。そこにはやはり、生と自国からの離脱をうながす、やむにやまれぬ衝動が働いています。このような難民の心理状態について、ベンスラーマは次のように述べています。「もはやこの生はお前に相応しくない、もはやこの生はお前に相応しくない……存在することの恥を逃れるために他に道がない人々の耳に聞こえているのは、超自我のこんな残酷な判決である」(…)。
2011年のアラブ世界の叛乱は、すべて尊厳と正義の要求を掲げて闘われたもので、「神」「宗教」「師」といった古来のビッグネームは、そのスローガンのなかに不在でした。革命はチュニジアなどでは半ば成就したけれども、その後の政治状況は混迷したまま今日に至っています。リビアなどは国がなくなってしまいました。にもかかわらず、そのなかに新しい芽も生まれてきている、そういう新しい芽を育てていこうとしている人びとが、どの国にも現れてきています。

もうひとつ考えておきたいこととして、聖戦主義者の闘いの理念、スローガンの中には「復讐」の思想が認められます。
「復讐」などという言葉を持ち出すと、現代の人々にはひどく野蛮な響きがするのではないかと思います。しかしこれもまた、この30年間の変容のひとつと考えなければなりません。1980年代でもまだ、「復讐」が即座に野蛮であるという立場を、私たちは取っていなかったはずです。端的に言って、「革命」という観念から「復讐」という要素を完全に抜き去ることは考えられませんでした。もっとはっきり言うと、「復讐」は、ほんの少し昔には、ひとつの崇高な理念だったのです。
私は当時日本にいなかったので正確には分かりませんが、佐藤さんや山岡さんが殺された後の「追悼集会」では、おそらく「同志は倒れぬ」という歌が歌われたのではないかと思います。そして、この歌の最後には、「いざ、復讐へ」という語句があったはずです。さらに古い事例として、中野重治の「雨の降る品川駅」という詩を思い起こすなら、あの詩の最後は「報復の歓喜に泣き笑う日まで」というフレーズで結ばれていました。中野重治などは日本の革命派のなかで最も非暴力的な思想の持ち主ではなかったかと思うのですが、そういう人でも「報復」という言葉を用いていた。「革命」の理念と「復讐」の観念は、これほど切り離し難いものだったということでしょう。

私はこの20年の間に何回か暴力の問題について真摯に考え直す機会がありました。実をいうと、私自身は性格的にそれほど「復讐好み」ではないと思いますが、理論的に大事な理念のひとつであると判断して、できる限り考えてみようと努めてきました。ニーチェによれば、人間の共同体は、「復讐」を通してのみ、まず集団的な平等の観念に達したのであり、平等という考え方自体が、長い年月の間の復讐の実践からしか生まれなかったものです。これはなかなか深い思想だと思います。つまり、人間は「復讐」によって、お互いに人間であるという認識に到達することができたという見方もありうるのです。なぜ「復讐」が崇高でありうるか、その理由はここにあるのではないでしょうか。
今の時代に、もう一度「復讐」の観念を往年のままに復権させようとしても意味がないことは重々承知しています。そうではなくて、「復讐」の観念に内在している大切なものを、暴力一般を否定する時代の傾向に抗いつつ救い出すことは、私は必要だと思いますし、できることだと考えているのです。
「復讐」の観念が平等の原則と不可分のものならば、それはけっしてなくなるはずはないし、抑圧しても歪んだかたちで繰り返し回帰してくるでしょう。歪み方が過剰になると、それはもはや「復讐」としてみなされなくなります。「復讐」を頭から否定していると、自分たちのやっていることがいよいよ分からなくなってくる。そういう回路に入ってしまうことのほうが、はるかに危険なのです。

〈革命的自殺〉
だいぶ長くなりました。最後にもう一点、私が、その意味を掘り下げてみたいと思っている言葉についてお話します。それは「闘いに命を賭ける」という言葉です。これはアメリカのブラックパンサー党の創設者の一人だったヒューイ・ニュートンという人が、『革命的自殺』(1973年)という著作でテーマにした理念です。
この本は彼の自伝的な著作で、BP党を結成した経緯などから書き進められています。それによると、この党は本来武装闘争を行うために結成されたわけではなく、抑圧され、虐げられていた都市部のゲットーに居住する黒人共同体を、自分たちの力で防衛するという明確な目的がありました。ところが1968年に非暴力の公民権運動指導者だったキング牧師が暗殺され、そののちニュートンたちは、武装闘争を主張するようになりました。
アメリカでは武器の所持が憲法によって保証されています。黒人である彼らも、この憲法の理念に則って武装したのですが、武器を携行した黒人の政治活動家は、体制にとってもっとも危険な存在とみなされ、警察の手で次々に殺されていきました。そうした事態を憂い、白人リベラル派からは「黒人が武器を持って街頭に出るのは自殺行為だ。止めた方がいい」という忠告を受ける。しかし、不当な弾圧に抗し、解放に向かって進み始めた黒人たちは、もはや聞く耳を持ちませんでした。その意思の思想的表明として、ニュートンはこう書いています。「<革命的自殺>というフレーズを鋳造することで、私は二つの既知のものを取り上げて組み合わせ、一つの未知のもの、新しい傾向のフレーズを作ったのであり、このフレーズのなかでは<革命的>という言葉が<自殺>という言葉を、異なる次元と意味を持つ、新しく複雑な状況に適用可能な思想へと変革しているのである。」
ひとたびコミットしたら長く生きることはもう望めない、そのような闘いに確信を持って参加すること、それをニュートンは「革命的自殺」と呼んだのです。フランスの社会学者デュルケームの説(『自殺論』)を援用しつつ、ニュートンは、アフロ・アメリカンの自殺の主要な原因が人種差別的な社会環境の圧力であることを指摘します。この圧力に屈し酒や薬に溺れて死んでいくことと、圧力を跳ね除けるために立ち上がり敵の弾圧を受けて死ぬこと、「箒で吐き出される」存在であることと、「棍棒で叩き出される」存在であることは同じではないと。「黒人がその名に相応しい生への欲求に突き動かされるとき、人間的尊厳を欠いた生活は不可能になる。」そう、彼は書いています。「生きてやつらにやりかえせ」という寄せ場闘争の理念と響き合う同時代の思想が、ここに息づいているのではないでしょうか。というのも、この「生きて」という言葉には、寄せ場の労働者の「革命的自殺」への強い傾向が、確かに踏まえられているように思われるからです。
ブラックパンサーの 「革命的自殺者」ということで、もう一人、ジョージ・ジャクソンの名を挙げたいと思います。彼は17歳の時にガソリンスタンドでほんのちょっとした盗みを働いただけで懲役判決を受け、その後の一生を牢獄で過ごすことになりました。彼は獄中でブラックパンサーになり、結局獄中で殺されてしまいます。ジョージにはジョナサンという弟がいました。ジョナサンは、兄の裁判の公判の際、折り畳み式の銃を隠し持って法廷に入り、判事たちを人質にとって兄の解放を要求し、結局射殺されてしまいます。
ジャン・ジュネは、このジャクソン兄弟の死について、次のような考察を残しています。
「ジョナサンがジョージに対して抱いていた尊敬が彼を兄の模倣へと向かわせたのだとすれば、ジョナサンが死んで、自由のなかで−ニュートンの表現を使えば、<革命的自殺>によって−死んで、今度はジョージがジョナサンに尊敬の念を抱いて、彼を模倣したいと欲するにいたったのだ。私たちが目にしているのは、おそらく、ジョージア・ジャクソン(ジャクソン兄弟の母)の二人の息子のこのように縒り合わさった尊敬であり、彼らは互いの力を得て、黒人意識と革命の契機になろうとしていたのである。」(『ジョージ・ジャクソンの暗殺』まえがき、峯村傑訳)
私はこれから、ジャクソン兄弟と『シャルリ・エブド』事件を起こしたクアシ兄弟の、深く重なり、遥かに隔たる、思想の旅をたどる作業を行いたいと思っています。

(2016年5月21日)
(うかい・さとし/フランス文学・思想)

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