追悼 相倉久人 ――― たかが風景、されどジャズ

平井玄(批評家)

ぼくは相倉さんとは、3〜4回ぐらいしか会っていないんだけれど、いつも穏やかな人だったなあという印象をもっています。ときどき眼がキラッと光る時もありましたが、公家みたいなウリザネ顔で、起きているものごとをグッと離れてみる余裕を感じました。
今日、ここに来ている人の多くはぼくより相当若い方たちだから、これからお話する「相倉久人」って一体どんな人物なんだ?という人も多いと思います。
それで、相倉久人のプロフィールを紹介する前に、まず、60年代にジャズ評論家として活躍していた頃に、彼自身が関わった出来事の映像をちょっと見てもらいます。その空気を味わってもらいたい。そこから始めましょう。

 バリケードの中の相倉さん

まずこれは当時、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)のディレクターだった田原総一郎による「ドキュメンタリー青春」というドキュメンタリー・シリーズの1本です。1969年に撮られた『バリケードの中のジャズ』と題した番組の映像です。場所は大学闘争真っ盛りの早稲田大学、学生たちが占拠する4号館の大教室で、演奏しているのは山下洋輔トリオです。最初期のメンバーで、ピアノの山下さんにテナーサックスの中村誠一さん、ドラムスの森山威男さん。山下洋輔については、強力なフリージャズのピアニストとして今も活躍している人ですので、みなさんもご存知の方が多いのではと思います。
学園祭でのコンサートというのは今ほどではないが、当時もありました。でも学生と大学側とが対立していた混乱の最中の、しかも校舎を封鎖したバリケードの中でのジャズ・コンサートというのは、大学当局にとっては挑戦的な暴挙と映ったはずです。阻止できない勢いが学生たちにあったんですね。しかもこの時、山下洋輔の弾いているピアノは大隈講堂内に置かれていたものでした。早稲田に芸術系の学部はないので、ピアノは勝手に講堂から会場に運び込んだものだった。これを企てた学生側の張本人と、ぼくは40年後に仕事仲間として偶然出会うことになるんです。
いくつもの割拠した校舎に旗を掲げて陣どる左派学生グループ間の抗争、学内統治を回復しようと焦る大学当局の監視と、授業再開に向けて右派を使った襲撃、そして所轄や公安警察の包囲網が錯綜する中で、なにが起きても不思議はない。この緊張の中でコンサートを仕掛ける学生や押しかける学生たちがいて、臆せず出演するジャズマンがいた。しかもそれを撮影してテレビに放映をしている。そういうことが可能な時代でもあったわけです。物騒な事件が絶え間なく起きる。濃厚な空気が街に漂う毎日でした。
ご覧いただいた1シーンのなかに、「誰も席を立たない、バリケードとゲバ棒の中でのジャズ。彼はジャズについて一言も語らない。ジャズとは何か? 何のために? と彼に問う学生はいない」というナレーションがありますよね。ここで「彼」と呼ばれているのが山下洋輔であり、このジャズ・コンサートのプロデユースと司会を務めた相倉久人さんでした。この政治性が過剰な空間でいっさい言語的な説明をしない。音が創り出す空間性に賭ける。ここに相倉さんの頑強な姿勢がうかがえるんですね。
相倉さんは、山下洋輔さんと濃密な付き合いをしてきたジャズ批評家だった。実はジャズについて評論する人と現実にジャズを演奏する人との関係はなかなか難しいんです。音楽家の中でもとくにジャズマンは。1980年代に、ぼくもアメリカのあるジャズマン(ジョン・ゾーンですが)から「クリティックは裏切り者だ」と面と向かって言われたことがあります。フリージャズ派は一瞬の即興的な音に賭けている。横から余計なことをガタガタ言うなっていう気持ちが強いのでしょうね。しかしジャズに憑かれた者としては、時に演奏者と敵対してでも書かなければならないことがある。そういう覚悟がいる。なまなかなことは書けない。
その点、相倉さんと山下さんの関係は特別でした。相倉さんは、山下さんら当時の若いジャズメンたちと一緒にフリー・ジャズ運動を起こした批評家です。出来上がった作品だけを事後的に批評する立場でも、離れて楽理的に語る位置でもない。演奏法やスタイルに関しては、こうしたらいいんじゃないか――といった音楽的な指導や忠告めいたことは決して言わなかった。新宿ジャズの中心的なライブハウス「ピット・イン」に出演する山下トリオの司会役をさりげなく務めるだけ。それでも山下さんに対して、演奏の場の在り方や他のミュージシャンとの間で醸し出される音楽的空間についてはつねに示唆を与えていたと思います。ジャズメンたちに溶け込んで、演奏と同じ次元にいたんです。この時代、とびきり濃いマニアや猛烈にうるさい連中が集まる新宿で、自由でありながら緊張した「空気」を創り出していた。それがそのまま批評行為であり、かつ創造行為だったんじゃないか。まだ高校生だったぼくは、同じ建物で背中合わせにあった喫茶店の裏口から、その空間に忍び込んでいたわけです(『愛と憎しみの新宿』ちくま新書)。

映画に介入する相倉さん

それではもう1本の映像。やはり1969年に制作された『略称・連続射殺魔』(監督・足立正生)というドキュメンタリー映画を紹介しましょう。ほんとうはもっとずっと長い題名で、これはそのさわりのシーンだけですが。
当時、1968年の10月から69年の4月にかけて、日本の各地で4人の互いに無関係な人たちが銃弾で撃ち殺されるという事件が起こる。「連続射殺魔」と呼ばれたその実行犯はまだ19歳の少年でした。これは「永山則夫」というその人が生まれてから辿った足跡を、列島あちこちに追ったドキュメンタリー作品です。
無念なことに20年前の1997年に処刑されてもうこの世にいない人ですが、北海道の網走、番地のない呼人(よびと)番外地で生まれました。8人兄弟の下から2番目。父親はリンゴ栽培の剪定師でした。ところが父は博打に耽って家庭は崩壊、母もいなくなり、5歳の永山は残された3人の幼い兄弟たちとともに小屋の中に遺棄されてしまう。豪雪の中で食べるものもなく、港で魚を拾いゴミを漁る生活だったといいます。やがて母が帰った青森に引き取られるんですが、行商で母親は家にいない。家族にも疎まれて、何度も家出します。どうにか中学を卒業して東京に出ても、あちこちの底辺労働をさまよう前半生でした。
そこから連続殺人を起こして逮捕されるまでのジグザグな道のりが、「主人公がいない風景をひたすら映像化する」という手法で描かれている。ほんとうに日本列島を釘で引っ掻くような動きをした。どこにも定着できないんです。40年以上たった今見ると、埃くさい道とモルタルの家が連なる60年代の地方と都市の光景がたんたんと映っているだけ。なんだかNHKの「新日本紀行」みたいに見えますよね。このことはまた後で話しましょう。
この映画の音楽監督を相倉久人さんが務めていました。ここではまた別のフリージャズ音楽家たちの演奏をサウンドトラックとして用いる。富樫雅彦さん(ドラム)と高木元輝さん(サックス)の二人でした。相倉さんが、このころ火を吹く勢いの山下トリオではなく、富樫と高木の二人を用いたのはなぜでしょうか。これがどうも、ジャズに浸りきった活動家たちには不可解だったんです。山下トリオの演奏はくっきりとしたドラマツルギーを生み出していく。アメリカのジャズとも違うんですが、メロディが異なるどんな曲でも「起承転結」みたいな構造を帯びる。半世紀近くたって聴くと、これはどこか「浪曲的」かもしれない。とにかく聴く者に猛烈なカタルシスを与えてしまう傾向があったんです。だから若くて行動的な連中に人気があった。猛烈にヤル気がでるんです。
それに対して、より生成的というか、まったく音のない時間を含んだフリーフォームというより「アンフォルメル」(無定形)な音をこの二人は生み出していました。いわば「物語性」をギリギリまで削ぎ落としている。この即物的なぶつかり合いこそ、この映画にふさわしいと相倉さんが判断したからだと思います。この選択には鋭いものがあった。むしろ映像への「介入」なんじゃないか。といえるのは、だいぶ時間がたってからでしたが。これが『連続射殺魔』ではぎ取られた空間に関わっている。
そのように、相倉さんは、「場の在り方」とか「空間の質感」というものをいつも大事に考えていたと思います。「場」が立ち上がる瞬間や都市空間と音楽についてはとてもセンシティブで、いつも神経を研ぎ澄ませていたようです。たんに黒人たちの音楽だから、そのファンキーな感覚が好きだからというのではない。気流を感じ取るセンサーが鋭く働く人でした。軽い言葉で語っても、そこには巨視的な奥行きがあった。
ところが彼は、70年代の初めあたりからジャズについて書かなくなります。これに遅れてきたジャズ餓鬼どもは驚く。その理由として、激しい即興演奏が出現する場所、聴くにふさわしい濃厚な場、「ジャズが立ち上がる密室」のような空間が失われてしまったからだ、と彼自身が書いています。街頭も大学拠点も機動隊に征圧されて動乱の時間が断ち切られる。白茶けた70年代が幕を上げるとともに、空間の濃度が拡散していったと語っています。実際に、職業的な音楽評論家である相倉さんが1年間ほとんど何も書けない時期があったんです。
その後の相倉さんは、ロックを語りはじめ、さらにもっと密度の希薄な場所にふさわしいポップな音楽の分野に分け入っていく。いわば「無重力空間」の音楽を論ずる活動を長い間行ってきました。彼自身「宇宙人」なんて自称していた。80年代以降に音楽を聴いて育った人たちには軽妙な「ポップスおじさん」として知られてきたのだと思います。

「ジャズ批評」と「映画批評」

60年代末の高校時代からジャズにのめりこんだぼくが、ジャズについて何か書くようになったのは、相倉久人と平岡正明の二人に電撃的な影響を受けたからでした。1966年ごろ、中学時代にボブ・ディランやハードロックから黒人のブルースを聴きはじめ、ソニー・ロリンズのレコードを初めて手に入れる。高校に入ると、モヒカンの先輩がサックスを持って登校してきたり、クラスには増尾好秋という当時注目を浴びたジャズ・ギタリストの弟子がいたりした。まあ「ジャズの街」新宿の真ん中に飛び込んだわけです。68年からはピットインというジャズの店に入り浸りになってしまう。そういうちょっと尖った餓鬼にとって、相倉さんはライブハウスの暗がりで遠くからその存在を仰ぎ見ていたジャズ評論家でした。
そんなこともあって、だいぶ後、90年代半ばに何かの企画で新宿の喫茶店「らんぶる」の地下で相倉さんと初めて会う機会があったときに、かつて相倉さんと平岡さんがジャズを通して緊密なタッグを組んでいた時代の話になった。なにせ、この二人の書くものに出逢わなかったら、ぼくはこんな風にドロップアウトすることもなかったかもしれない。いや、いい意味でたいへんな恩人なんです(笑)。そのあたりを知りたくて訊ねたんですが、相倉さんは例の柔和な笑顔で「いや困った奴で平岡は……」と言っただけで、あまり多くを語らなかったんですね。意外でした。たしかにジャズに固執し続けた平岡さんと別のグルーヴに向かった相倉さんは、1970年代に入ると静かに別れていったように思えるんですが、そこを聞きたかった。以来ぼくは、その時の響きが頭の片隅に残り続けてきました。
すこし解説すると、相倉さんと平岡さんが知り合って思想的なコンビを組むようになるのは、『ジャズ批評』誌が創刊される1967年のすこし前でした。ぼくは68年に新宿高校に入学したんですが、先ほど言ったように、その直後からジャズに凝りはじめ評論も読み始めていたので、当時先鋭なリトルマガジンとして注目を浴びていた『ジャズ批評』も読みかじる。中学生の時に読んだ『スイング・ジャーナル』にはもう飽き足らなくなっていたんです。「黒人音楽」が「黒人革命」なんて言葉とセットになって飛び交う時代でした。そこで相倉さんや平岡さんの存在を知り、二人に誘われてジャズの世界に足を踏み入れたといっても過言ではありません。
ですから1970年に、この二人が松田政男、足立正生、佐々木守とった人たちと「批評戦線」を結成し、雑誌『第二次・映画批評』を創刊すると、この雑誌の読者にもなる。映画雑誌と銘うっても、政治や思想、芸術を横断する総合批評誌でした。今どきの言葉でいえばエッジの利いた雑誌だった。ところが、相倉さんは『第二次・映画批評』の同人メンバーのはずなのに遂に一度も書いていないんですよ。平岡さんの書くものとは別の次元で期待していたぼくは、このことを「一体なにがあったんだろう?」と長い間にわたって気になっていた。だから相倉さんに初めて会ったときに、その疑問を発したわけなのですが、その答えがさっきの「困った奴で……」というなんとも曖昧な言葉だったのです。
相倉さんと平岡さんの間に、どんな「齟齬」(そご)があったのか。個人的な感情の問題じゃなくて、その後もアジアの政治的な革命に賭けた平岡さんと音楽の感覚的な変容に賭けた相倉さんとの間で、なにか根本的な対立が生まれていたんじゃないのか? 相倉さんは正面切ったことは何も述べませんでしたが、先に触れた70年代にジャズ評論を止めてしまった理由と繋がるものがあるように思えるんです。

音楽と風景

それは別の言葉に言い換えると、今日の話のタイトルに掲げた「たかが風景、されどジャズ」ということではないか。つまり「均質な風景とどう闘うか」という時代の到来に、相倉さんはいち早く気づき、それまでの「ジャズの形」に別れを告げたのです。一方で平岡さんは、かえってジャズ的な密度や濃度にますます没入していく。
1969年1月に大学闘争の象徴だった東大安田講堂のバリケードが権力の強圧によって破壊されるわけです。この年を跨ぐと、大きく「時の手触り」みたいなものが変化していく。そう気づくのはしばらく時間がたってからでしたが、そんな曲がり角だった。ぼくらの世代というのは、小学生時代から「三種の神器」(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)と喧伝された家電製品がだいたいどこの家にでもある。大都会だからでしょうが、そんな高度成長の時代を生きてきた。高校生になるころには、資本主義というか企業の力は一層増大し、街にどんどんビルが建って、気がついたらぼくらの生きている空間は商品によって埋め尽くされていた! 騒乱罪によって人々が一掃され、運動も解体しバラバラにされて街に一人立つと、そういう大変容に改めて気づくわけです。空気が一変している。夢から醒めたのか、それともこれそのものがまた新たな夢なのか。
生まれ育った新宿の街並みについて振り返ってみても、60年代初めまでは目抜き通りの新宿大通りでさえ8階建てのビルは戦争で焼け残った伊勢丹と三越ぐらいでした。東口駅ビルも紀伊國屋本店も建ったのは64年。ほとんどが4階か5階ぐらいのビルだったんです。その中で、相倉さんや山下洋輔さんがジャズの主戦場にしていたライブハウス「ピット・イン」は、大通りに面した洋品店の裏側にありました。つまり紀伊國屋裏の路地にあるモルタル2階建ての構えだった。ジャズ喫茶はその洋品店の2階。ブティックとかブランドショップじゃなくて、ほんとによく駅前にあった昔風の洋品店です。これが60年代までの新宿という街の質感だったわけです。
ところが50年代の朝鮮戦争、60年代のベトナム戦争の後方生産基地としてこの国が貯め込んだ富のおかげで、街の光景も大きく変容していくんです。そのことをぼくらの眼にはっきりと見せたのは、1969年に京王プラザホテルが着工されたことでした。これが新宿西口副都心計画の超高層ビル第1号でした。この国最初の超高層ビル街が出現するのは1970年代の終わりですけれど、69年はまさにその分岐点だったんです。

音の思想家

相倉さんは、70年代の後半に『機械じかけの玉手箱』(1977年)、『ロック時代〜ゆれる標的〜』(1978年)という2冊の本を書いています。『ジャズからの挨拶』(1968年)や『ジャズからの出発』(1973年)というジャズ時代の本ほど注目されず、もう忘れられていますが、ぼくは今も時々読み返すことがある。これらの中に出てくる「機械じかけ」「ゆれる標的」「大量の音」という言葉を、変容した空間を解く重要なキータームと受けとめてきました。繰り返しますが、音楽の焦点も生演奏のジャズから電気的なロックへと一気に移る。その変容の特色として挙げられるのが、エレキ・ギターに代表される電気楽器やコンピュータ制御のシンセサイザーが登場したことです。現在ではアナログシンセさえノスタルジーの対象だから、不思議な言い方に聞こえるでしょうね。つまり、人間が手や口という生身に近いところで作り出す音ではなく、機械によって複次的に加工された音が音楽のベースになってきたことを、相倉さんは「世界」のなにか重大な変化の徴候として感じ取ったんですね。そこを批評の標的にしているのです。しかもテクノロジーは刻々と進化するから、音楽は常に動き揺れているわけです。
実は3年前に、ぼくは原発労働者たちの運動に関わるんですが、その後は肝臓の病気で足が遠くなってしまった。それはともかく、その立ち上げに際して、日本で最初に原発労働者組合を作った斎藤さんという人に話を訊く機会がありました。そのとき彼がこんな話をしてくれたのでちょっと解説しながら紹介します。
「半永久的に24時間にわたって大量の排水や排気が必要な原発施設内には、無数のダクトが張りめぐらされているのですが、地震とか津波で何か事故を起きると、振動でダクトが一斉にガタガタと物凄い音を立てるんですよ。高周波の金属音が機械だらけの広くて高い天井の構内で反響し合って、何十時間も続く。それはもうとても耐えられない大量の音なんです!」。
この話が喚起するイメージは強力でした。というのも、これは究極のインダストリアルノイズ・ミュージックじゃないか。長く留まれば死にいたる真っ暗な密室で何百というダクトがガンガン音を立て続ける。それは決して原発施設内に限るものではない。ぼくたちが暮らす日常の音環境が極限まで行った姿だろうと思うわけです。こういう「大量の音」に囲まれた生活世界がだいたい1970年代前半くらいに始まったんだと思います。事実、原発立地を札束で確保する「電源三法」が成立して、原発建設が始まったのは74年です。1980年代のドイツにも「アインシュテルツェンデ・ノイバウテン」という金属ノイズによる音楽ユニットが現れました。相倉さんは革命運動の敗北や社会的な思想についてはほとんど語らない。けれども、音をめぐる人々の感覚が変わっていくことを敏感に捉えていたと思います。それも「質」ではなく「量」として摑む。そういう意味では間違いなく「音の思想家」でした。

50年後に生きる音

東日本大震災で福島原発事故が起きた2011年3月から3か月ほど経った夏のことでした。ぼくは福島の脱原発集会に参加する機会に、南相馬の福一から20キロ圏ギリギリの地点まで行ったことがあります。経産省前のテントを立てた人たちのバスに便乗して行ったわけです。放射線検知センサーが鳴る高音の中、窓から見ると、太平洋から押し寄せた津波に人間の痕跡が完全に剝ぎ取られている。浜通りの海岸に近づくほど人が誰もいない。屍体は片付けられていました。家も土台しかない。そのもう少し手前でも瓦礫のすき間に放たれた動物が見えるだけ。夏の陽に照らされて静まり返っている。そんな村里の風景がひじょうに「きれい」で、高濃度の放射能で汚染されていることも一瞬忘れてしまう。ああ、これが自然なのかなあ! と錯覚してしまうほどでした。
さきほど『略称・連続射殺魔』の映像を少しご覧いただきましたが、少年の足跡をたどった風景は一見どこも風光明媚ですよね。緑が生い茂ったのんびりとした田舎の光景に見える。少年が劣悪な環境で幼いころを過ごした網走や青森の風景からは、とても食べるものもない生活など想像もできない。実家だったバラック長屋が軒をつらねる青森の町は、原発事故後の福島浜通りの町と異様なほどよく似ている。1968年の青森板柳町と2011年の福島南相馬の間には半世紀近い時間が流れている。ビルもスーパーもコンビニも建てられた。原発こそ「風景化」の最たるものでした。そして、バブル崩壊などを経た時間には地方の衰弱が訪れていたはずですが、そんなデコレーションみたいな表皮はすべてペロリと剝がされてしまった。風景が征圧した地肌が剝き出しなっている。
『略称・連続射殺魔』は、日本列島各地に延々と永山則夫の足どりを追って、そこで眼に入る風景ばかりを撮ったドキュメンタリー映画です。最初の画面に文字で4件の犯行について事実だけが示されると、時おり永山の軌跡を簡潔に語る足立さん自身による言葉が入るだけ。生い立ちや背景を説明的に描くことも、それに対する擁護や告発を示唆する映像はなにもない。人間を語る「社会派ドキュメント」じゃないんです。永山が見ただろう風景だけを、いわば永山の眼になったように撮る。
「風景映画」じゃなくて「風景論映画」と制作者たちが呼んでいたように、観る者に「この1969年の光景をオマエはどう見るんだ?」と問いかけてくる映画なんです。軌跡というくらいだから、永山の流浪とともに動く列車がやたらと出てくる。今の鉄男くんたちには半世紀近く前の「お宝映像」かもしれない。句読点みたいに「青空をバックにした大輪のヒマワリ」がこちらを見つめるんです。そんな明るい場面ばかりです。アルジェリアで育ったフランスの作家アルベール・カミユを思う人もいるでしょうが、足立さん特有のユーモアにも見えてしまう。
観る者の心象を引っ張るのは、むしろ富樫雅彦のドラムスと高木元輝のソプラノサックスなんです。この音はとても密度が濃いが、同時にカラカラに乾いている。引きつけられるのは、一音一音がのどかな画面を切り裂くような演奏をしているからです。一見穏やかにしか見えない、幼い永山や兄弟たちが置き去りにされた呼人番外地の路地が映るんです。捨てられた魚の粗やゴミ箱の食い残しをあさっていた永山兄弟の眼差しのように、ドラムやサックスの音が刺さる。永山則夫を想像しながら即興演奏したものでした。
その物質的な喚起力がすごい。なんの「起承転結」もない。ただ音がズンズン立っている。もう聴く者たち、つまりバリケードを積み上げて石を投げ、あげく何度も何度も催涙ガスの中で機動隊に殴られていきり立った「オレたち」です。頭に血が上った若造どもの下腹から突き上げてくる「怒り」なんかじゃどうしようもない時代が来ている。大学生や都心の高校生であるオレたちとは全然違う道をたどって、この日本列島をのたうち回るように生きた人間が、そう遠くないところに収監されているわけです。
撮られてから映画は7年間にわたって封印され、1975年にやっと公開されます。それは反日武装戦線の年でした。その間に時代の気流は激変する。この間、私たちが触れられたのはこの二人による映画音楽だけでした。『ISOLATION』として作品化された音と、そして足立正生、松田政男、平岡正明らによる言葉が、妄想を膨らませていく日々があったんですね。山下洋輔トリオのドラマツルギー過剰な音、そして富樫+高木のドラマツルギーを拒否する音。この両者をぶつかり合わせるその先に、なにか突破口を見るというか、聴こうとしたんじゃなか?
これらの音楽は半世紀たった今こそ生きています。これらを同時に出現させ、衝突させた媒介こそが私にとって「相倉久人」でした。

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相倉さんは、70年代初頭に「ジャズ評論家」という仕事を降りてしまいましたが、「ジャズ的な世界との付き合い方」と決別してしまったわけではなかったと思います。亡くなったすぐ後に、『されどスウィング―相倉久人自選集―』という本が出版されていることでもわかるように、彼はやはり「ジャズの人」だったのです。と言ってしまうとちょっと薄っぺらになりかねないので、こう言い換えましょう。
ジャズは言葉も祈りもすべて根こそぎにされた人々が、「敵」の音、楽器、方法を身につける中から、身を揺るがせる力を生み出す方法でした。そう「スウィング」ですね。それは形を千万変化させてきた。相倉さんは、変貌する「ジャズ」と呼ばれた音の歴史の中に、つねに人間の「正史」とは別の方法、別の形、別の生の軌跡を追い求め、それを自らの生き方の中に組み込んで生きたのです。
(2015年11月14日、プランB)

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