「弾はまだ残っとるがよ、一発残っとるがよ」 追悼・菅原文太

藤山顕一郎(映画監督)

司会 昨年の11月に菅原文太さんがお亡くなりになりました。いろいろマスコミでもやっていますが、僕らの世代では『仁義なき戦い』などを観ています。そして、菅原文太さんがいろんな活動をしていたことを見たり聞いたりしておりました。そこで、その『仁義なき戦い』をはじめとして菅原文太さんと公私ともに懇意にしていました映画監督の藤山顕一郎さんに菅原文太さんのことを話していただきたいと思います。映画だけではなくて、まあ1970年代ですから、どこでも運動というか闘争が起こってまして。そういうことに対して菅原文太さんも相当想いを寄せてくれたと。それがまあ、『仁義なき戦い』の中での名セリフ「山守さん、弾はまだ残ってるぜよ」を使った沖縄での言葉になったんじゃないか。紹介します、映画監督の藤山顕一郎さんです。よろしくお願いします。

僕がカチンコを打つ。まさにその後、あのセリフが…

藤山 寒い中たくさんお集まり頂きまして、それから菅原文太さん追悼というような意味も含めてこういう会を開いて頂いたことに感謝致します。ありがとうございます。今日いろんなことをお話させて頂きたいと思います。『仁義なき戦い』シリーズを撮影している最中に東京撮影所で東制労闘争というのがありまして。その頃に東京撮影所に支援のために来た後、ゴールデン街で文ちゃんと、菅原さんと一緒に呑みました。その時、ジュリーの「時の過ぎゆくままで」、これをバックに二人でもう狂ったように踊ったのを覚えてます。様々な思い出が……彼が亡くなる直前、沖縄で言われた「弾はまだ残っとるがよ」というセリフを、セットで撮影している時に言うわけです。山守役の金子信雄さんを前に置いて。その時、僕はカチンコを打っていました。まさに僕のカチンコの後にあのセリフが出てきたわけです。その同じセリフを、沖縄での彼の最後の舞台となった演説を聞きまして。僕はもう総毛立ってというか、本当に感動しました。そして亡くなった後、本当に悲しく思いました。健さんとも若干の関係がありました。仕事もしたことがあったんですけれども、その10日後くらいですか。訃報を聞いて来るべきものが来たなということだけではなく、様々なところで政治的な意味も含めて様々な共闘関係がありましたので、残念でなりませんでした。
そして、この3日前の3.11の日に文太さんの偲ぶ会をやったと、インターネット、フェイスブックで流れていまして。ちょっとビックリしました。そこには松方弘樹さんなど数人の俳優が来て、まあ良い会だったということだったんですが、たった170名、そしてその主催者が岡田裕介東映会長ということなんで、非常に怒り心頭に達しまして。夜だったんですが、岡田会長に電話をしましたがつながらなかったんです。
翌日、菅原文子さん、奥さんとお話することが出来ましたが、ちゃんと関係者に伝わっていないんだと。彼女もその会から招かれて行ったようなんですが。私としては、はっきりは言いませんでしたけれど、不本意でした。文太さんの遺志から言っても170名でコソコソとやるようなものではないわけです。彼の政治的、意識的……最終段階における見事にまで研ぎ澄まされた政治性。偲ぶ会をやるんであれば、それは今起こるべく、あるいは引き継がれるべき運動として、やっていかなきゃいけないと思いますし。僕は仲間とも話し合って、別の偲ぶ会を行いたい。そういう運動を起こしていきたいと思ってます。その時には皆さん、ご協力下さい。
司会 菅原文太さんの沖縄でのあの演説を、インターネットの映像で見て、元気そうな感じだったんですけども。「弾はまだ残っとるがよ」と。「一発残っとるがよ」と。『仁義なき戦い』の第1作目ですね。その最後のシーンであの金子信雄演ずる山守に対して言う。金子さんも役者として素晴らしかったんですね。つまり、ずるがしこい山守の姿がもうどうしようもないっていうような演技。昔はオールナイトかなんかで観たんですが、このあいだ、もう一度DVDを借りてきて観ました。それで1作目を観たらズルズルズルと全部シリーズを観てしまいました。おまけに『まむしの兄弟』シリーズも観まして。『現代やくざ』シリーズも観たかったんですけども、ビデオ屋さんにあまり置いてないんですね。前に、「勝新太郎とドキュメンタリー」というテーマで境誠一さんという編集者に話してもらったんですが、勝新太郎とはまた違った形で、菅原文太は面白いと思ったんですけど。

東制労闘争へのカンパの話――菅原文太と若山富三郎

藤山 勝さんが麻薬で捕まってハワイにいる時に、つまり日本に帰れなかった頃に、ちょうど僕はロサンゼルスにおりまして。日本には帰れないけれども本土には行けるんですね。で、ロサンゼルスで会いました。彼は麻雀がしたくてしょうがなくて、ロサンゼルスに来たんです。僕は麻雀はしないんですが。フジテレビのKさんっていう方がロサンゼルスの現地放送局の社長をしてまして、一緒にお会いした時に、眼の見えないのゴルファーの話なんだけど一緒に書いてくれないか、というんで拉致されました。100ドル札をボンボンボンボンとこうだんだん積み重ねていって。これでちょっと書いてくれっていうんで、結局3ヵ月間ホノルルで彼のマンションの隣に、彼のお付きと一緒にいました。
文太さんと似ているところは、そうはないです。むしろ兄貴の若山富三郎さんの方が……。東制労闘争の時の話です。『Gメン75』とかのテレビ番組を作っていた東京制作所というところで契約労働者の組合結成をめぐって労働者が解雇され、それに対して組合結成と同時にストライキを打つ。まあそういう闘いがありました。その解雇された中には、のちに『釣りバカ日誌』の漫画原作者となる、助監督のやまさき十三や、呉徳洙(オ・ドクス)という在日朝鮮人の監督でいろいろ賞を取った人達がいました。その闘争は、生産点実力闘争という形で行われたんです。それを支援する社員グループの中に、当時『さそり』の監督していた伊藤俊也さん、今は監督になっていますが、助監督の澤井信一郎さん、小平裕さんなどがいました。京都は、僕も一時委員長であったりはしたんですけれども、共産党が執行部を握っていました。東映グループでは、全東映労連というのがありまして。全東映労連の中央執行委員会、執行部というのはある党派の皆さんだったわけです。それで、その全東映中執の方針というのが、解雇撤回の裁判闘争をやれということでした。僕達は生産点実力闘争、ストライキと大衆運動でその局面を打開していく。解雇撤回させていく。まあそういう方針でやっていましたので、三つ巴の闘いがそこにはあったわけです。ちょうど72年から78年までです。
それで、その時にいろいろカンパを求めていくわけです。文太さんはいつも、こちらがお願いしますと言えば、何万とか何十万ではなかったですけど、まあ1万円とかをカンパしてくれたわけです。それで同じような趣旨で若山さんの部屋へ行くと、「おい、文太はいくら出したんだ」と。それで1万って言ったら2万出してくれる。これもエピソードですけれど、たまたま千葉真一に出会いまして。千葉真一は2000円しか出してくれませんでした。そんなこともありました。
また勝さんに戻しますと。勝さんは本当にもういろいろエピソードがある、まあ豪快と言いますか。それでホノルルで3ヵ月経ってシノプシスが出来た。勝さんと若いガールフレンド――奥さんもごぞんじのことでしたから、言ってもいいでしょうが――それとお付きのK君と僕と4人で、僕が借りてた白いジープでしょっちゅうノースショアの方とか北の方に行って、バーベキューとか贅沢三昧をしていました。ところが、3ヵ月経った時に、勝さんが「やっぱり日本に帰る」とこう言い出して。それで日本に帰って裁判を受けて、有罪になったわけです。

「太秦妖蛇城」といわれた東映京都撮影所へ

菅原文太さんとは、『まむしの兄弟』の時に、71年だったと思うんですけど、僕は初めて仕事を一緒にしました。凄い人でした、最初から。僕は当事、度付きのサングラスを、色メガネをかけていて小難しい事ばっかり言ってました。藤純子さんなんかには「何あれ」とか、もう無愛想だったし。70年入社で、60年代学生運動から逃げ出したという、まあ逃げ出しました、はっきり言って。それで東映に入ったわけです。で、「全学連が来た」と言われてて。無愛想でどうにも鼻持ちならない奴だったんですけれども。文太さんはなぜか僕にやさしくしてくれました。それと、中島貞夫さんも書いてますけど『家畜人ヤプー』っていう小説について、マゾヒスティックな話だし、暗い話なのであまり人が話題にしたがらないような頃に、「こんな面白い話があるんだけど、どうだ」なんていう話をされたりしました。その後も様々な個人的な関係があるんですけれど。
文太さんは、深作欣二さんというよりは中島貞夫であり、さらに鈴木則文、後の『トラック野郎』の監督の鈴木コウフンさんの方がむしろ仲が良くって。あの現場ですぐ興奮してギャギャギャギャ言うんで、僕らはコウフンさんと呼んでました。それから天尾完次さんという非常に優秀なプロデューサーがおりまして。これは当時、岡田茂、俊藤浩滋という大プロデューサーがいる中で、唯一オリジナルの石井輝男のまあエロ映画――「くノ一」シリーズだとか様々な映画をつくったプロデューサーです(当時東映京都の労働組合がエロ映画反対闘争なんていうのをやったんですが、その標的にされました)。菅原文太、鈴木則文、天尾完次。彼ら3人は昭和8年生まれの酉年生まれなんですね。これが仲良くって。僕はその一回り下の酉年。酉年4人組がよく一緒に酒を呑んだっていうようなことがありました。
その頃、深尾道典という先輩の助監督が東映京都撮影所のことを「太秦妖蛇城」というふうに呼んだ、まあ魑魅魍魎どころか、とんでもない恐い所でした。俳優さんはみんな行くのを恐がりました、特に女優さんは。それくらいいろいろある所でした。で、ヤクザ映画の全盛期の頃にはマキノ雅広さん、加藤泰さん、田坂具隆さんなど大先輩が闊歩していまして。高倉健さん、その前は錦之介さん、東千代之介さん。山の御大、海の御大と言った大河内伝次郎さん。大スター達が闊歩する、そういう撮影所で、独特だったとみんなが言います。それは東撮とも違うし、松竹大船とも、あるいは松竹太秦とも大映東京とも京都とも、全く違う撮影所だった。文太さんもそこに1967年に来られたわけですから、さぞ心細い思いをされたんじゃないかと思います。前の松竹では散々干されていたわけで、そこで知り合った鈴木コウフンさんと仲良くなった。その後『トラック野郎』で再会してヒットを飛ばすわけです。なんか必然的なような気がします。その理由をうんぬんするには『仁義なき戦い』からの新たな状況の転換があるわけですけれども。

ものを言うスター、それは文太さんが初めてじゃないか

司会 ちょっとお聞きしたいんですが、菅原文太さんがその『家畜人ヤプー』に興味を示していたというんですが、そういうものに対する役者っていうんですか、、あるいは表現者っていうんですか、その姿勢と、晩年の政治的な対応、時の権力に批判的な対応をとっていく、その整合性っていうのはあるんでしょうか。ちょっと曖昧模糊とした質問になっちゃうんですが。
藤山 彼は、役者である自分とスターである自分をはっきり分けて考えていたと思います。東北から出て来て、それでファッションモデルをしたり、とにかく食うため、役者になったのも食うためだという。これは当時の健さんなんかもそうですが、こう非常に高邁な思想で演技することに目覚めたとか、そんなことではなく、あの時代背景の中で俳優という職業を選んだということだと思うんです。実際、そういうふうに本人達も言ってました。そういうことで言うと、勝さんとか若山さんとか、あるいは錦之介さんとは全く違うわけです。錦之介さんの場合は、僕は『柳生一族の陰謀』というので初めて仕事をしたんですが、まあ生まれながらにして俳優ということです。そこで思うんですが、スターっていうのは、スターの役割というのは両刃の刃であって、石原裕次郎や勝さんが果たした役割というのを政治状況やそういった社会の秩序の中で、権力の側、支配者の側に使われる場合の方が多いんです。そうでない立場は、意外とつい最近までなかった。
アメリカや欧米なんかの場合は、ピーター・フォンダや、ジェーン・フォンダあるいはビートルズであっても、この世の中をいい方向に少しはもっていくことが出来るんだというようなことでやったスターがいました。実際に物凄いギャラを取ってますし、それを力に変換する形で運動に寄与できるという。ベトナム戦争の歴史からみても、現在もいろんなところで活躍するスターがいますね。ところが日本のスターにはそういうことはなかったわけです。ほとんどどころか全然なかった。それで今、ジュリーであり、菅原文太さんであり、吉永小百合さんであり、ものを言うと。で、世の中の大きな流れに対して、スターが自分の立場はどっちだというふうにはっきり言う、それは菅原文太さんが初めてじゃないかなあ。今は山本太郎が、といっても彼は本当の意味でスターだったというと、そうじゃないので。そういうことで言えば菅原文太は初めてのスターで……。

アウトローは影の部分でこそよく映える

司会 藤山さんは東映を辞めて海外に行くわけですね。そこでアメリカで、『仁義なき戦い』などの深作欣二監督に対しては、『パルプ・フィクション』をつくった監督のタランティーノなどはすごく買ってるわけですね。アメリカ人にとって『仁義なき戦い』みたいな実録もの、ヤクザものに対してどうなんでしょうか。もちろん、この『山谷-やられたらやりかえせ』の監督二人がヤクザに殺されてるんで、ヤクザに対しては、本質的には僕は大嫌いなんですけど。ただ、そういった映画における情念というか、そういうものはアメリカではどうなんですかねえ。
藤山 やっぱりアウトローを描くというのが、もともと西部劇からしてそうですから。人物本人もですけど背景が重要になってくるわけですね。僕はタランティーノと実際に『キル・ビル』の現場でお会いしたり、それから一緒に食事をしたり。深作一家っていうんで、僕は非常に歓待されましたね。文ちゃんの話も出ました。サム・ペキンパーあるいはタランティーノは深作さんを非常に評価してる。
アメリカ映画の現場的なことで言えば、ワンシーン・ワンカットで、ずうっと、タランティーノでもそうです。ワンシーンを回してタイトショットを刻んでいく。深作欣二監督で僕達が初めてハリウッドと合作でやった『復活の日』という映画。角川映画だったんですけれども、資本は全部日本が出して、当時のお金で28億円という予算でした。カナダのトロントにセットを建ててやったんですけど、その時に、深作さんは日本のシステムだから日本の形でやりたいっていうんで、カットをかけるんですね。芝居の途中で。あるいはアクションの途中でもカットをかけるわけです。そうすると、アメリカのグレン・フォード、ロバート・ボーン、チャック・コナーズ、オリビア・ハッセーなどのハリウッドの大スター達はカットをかけられると、それはもう「俺の芝居は悪いのか」と。リズムを切っちゃうっていうことで、物凄く嫌われるというか。特にボー・スベンソンという準主役の、ハリウッドでもうるさ型で知られる男がもう食って掛かってきて。それで現場が混乱して、木村大作というキャメラマンは「これは日本の映画なんだから、日本の資本なんだから」ということで喧嘩を売るような形になって。大変な騒ぎになったこともあるんです。
そういうことを知っていたのかもしれませんが、タランティーノは「それでいいんだ」って言うんですけどね。ハリウッドの有名なギャングの映画はたくさんあるわけですけども、例えばコッポラの『ゴッド・ファーザー』。ああいう映画と対比して『仁義なき戦い』シリーズは、どちらかといえばサム・ペキンパーの方に近いわけです。だからといって相対するような関係性もない。やっぱり、映画はアウトローであったり、太陽の下でその光を燦々と浴びるように現象されたものよりは、影の部分にした方がよく見えるというような表現の方法なんじゃないかなと思います。
菅原文太さんは、そういう意味で言うと『仁義なき戦い』シリーズでのあれほどの迫力を、持って生まれた暗さと言いますか、それを逆に武器にして出す。また、チンピラヤクザが闇から闇に葬られていくということを表に出していって、世の中の矛盾を突いていく。そして成田三樹夫さんや金子さん、遠藤太津朗さんなどの役者群が見事に演じる、まあ本当のワル。そのワルに対してダメでも狂犬のようにかかっていく。それは、必ずしもいい方に闘っていくわけじゃないですね。しかも『北陸代理戦争』では、文ちゃんはこれを拒否したんです。実際にヤクザがたくさん亡くなっているわけです。で、そういう実録ものというのはもうネタがない。事実を忠実になぞっていくようなものは映画とは言わないわけですから。まあネタがなくなって笠原和夫さんという脚本家を使ったことも大ヒットにつながったんですけども。最後は高田宏治という脚本家になって。実録路線というのは衰えていく。

『仁義なき戦い』から『県警対組織暴力』、そして『トラック野郎』へ

深作さんというのはドラマトゥルギーに関しても、あるいは人物設定にしても本当に凝る。脚本段階で何人かの脚本家と一緒に書くというか、いろんな案を出します。すると、その時の彼のスタイルとしてはホワイ、なぜ。ホワイ、なぜです。例えば、僕あるいは神波史男さんという脚本家がずっとスジを、ストーリーを話していくんですが、途中でホワイ、ホワイと言われると完結していかないんですね。脱線するんです。脱線を楽しんでるふうが非常にありまして。だから脚本になった段階では、かなり完成度が高い。そういう深作さんだったんですけど、5本目になる『完結篇』では、もう嫌になっちゃってたんですね。それでその後『ガルシアの首』ていう映画があった頃に、『新仁義なき戦い・組長の首』がつくられるわけです。そして『県警対組織暴力』になっていきます。『県警対組織暴力』にいたってはデカでありながら、そのヤクザの上前をはねる悪徳デカを文ちゃんがやるわけです。ですから、本人の倫理感もシナリオの中でよほどこなれてないとやってられねえやという感じになると思うんですね。
その後に『トラック野郎』になるんですね。鈴木則文さんが監督をすることになって、文ちゃんとしては今までやったことのないようなひょうきんな――『まむしの兄弟』でそのきざしはあったんですが――まあひょうきんではあるけど、アイロニーというか、まさに役者というその有り様を示した作品だったと思うんです。それが10本のヒットシリーズになった。でも、最後の方はもうやる気をなくしてたみたいで、「10本でやめるんだ」って言ってやめたわけです。だから、いろんな時代というか、時々でスタイルは変わってくるんですが、彼自身の役者としてのラディカリズムを追求する、この意志というのはずっと一貫してあったと思うんですね。
僕が最後に彼と仕事をしたのは『リメインズ』というサンカの話です。これは熊に襲われた部落のサンカ達がその熊に対して復讐を果たしていくという話です。その頭領の役を文ちゃんがやったんです。冬でした。山頂で撮影するにはヘリで上がらないといけないんですが、主役の真田広之と監督であった千葉真一と大喧嘩になりました。千葉真一は初めての監督なので監督に専念してまして。これを企画したのが深作欣二。松竹映画でした。ただ、スタッフで東映から行ったのは僕だけでしたが、東映勢が多数出演してました。その山頂で、真田広之と千葉真一がおりる、おりないの話になったんです。その場は1日休みにして、なんとかなったわけですけども、その後も冬の作品なのに7月に松竹京都でまだ撮影していた。これは深作欣二が悪いんですけどね。そんな状態で、実際9月に封切ったんですが、まあ文ちゃんにはギャラは払われたと思うんですけど、僕なんかにはギャラが払われなくって、大変なことになった。それで、文ちゃんは初日舞台あいさつを拒否するということになって。そんな作品があったんです。

3.11以降、様々なところで接点があったんですが…

それを最後に、僕はアメリカへ渡るわけです。そして、文太さんは当時、東麻布に住んでおられたんですが、「アメリカ行きます」と僕が報告に行くと、いくらかでもくれるかと思ったら「逃げるのか」と……。UCバークレーのタワーを安田講堂に見立ててインターナショナルな、つまり日本人の学生ばかりではなくて、当時世界を揺るがした60年代後半の世の中を、革命へのテーゼとして描きたいっというふうに思った。それはハリウッドでしか作れないだろうと勝手に思ったわけです。東映で18年間、助監督としては15年間在籍しました。結局、B班監督とかはやりましたけど、監督にはなれずでした。僕より年上の助監督が何人もいましたので、こんな所にいたらもう監督にもなれないと思って、アメリカ行きを決意したわけです。そこでは、自分がプロデューサーとしてやろうという話もあったんです。でも、僕が日本に戻る前に勝さんは亡くなり、そういった意味での海外での収穫みたいなものは消え去ったわけです。で、1998年に日本に戻りました。文太さんはその頃テレビなんかに出ていたと思います。息子さんが亡くなった時も、知ってはいたんですけども、お悔やみを言うわけでもなく、3.11になってしまいました。その直後から彼は表舞台で、反原発の動きをされるようになりました。
前後しますが、日本に帰ってきてから、第一次安倍内閣が改憲をするぞというような動きの中で、僕は9条改憲阻止の会という団体を立ち上げることに参加しました。それで今も9条改憲阻止の会は経済産業省の横にテントを張って。反原発運動の拠点になっているわけですけれど。そのテントを一番最初に張った2011年の9月11日、その時から運動に参加していて、なおかつずっと現在までドキュメンタリーとして撮影をしています。そして、日本に帰ってきてすぐの、第一次安倍内閣の時に『We命尽きるまで』というドキュネンタリー映画を撮りまして、劇場公開もしました。今、入口の所にそのポスターを貼ってあります。
僕は東映にいる時よりも、アメリカに行って帰ってきて、2006年からの方が政治運動を具体的に行っていて、今は一応活動家になっています。ということは、菅原文太さんとは2011年以降、様々なところで接点があったんです。大きな集会で僕がキャメラを回して、レンズの向こうに文太さんを見るという状況が何度かありました。経産省テントで青空放送というインターネットテレビを開局して放送をしていたんですが――今ここにもスタッフの一人が来ております――その中で文太さんに登場してもらおうとい話はあったんです。ただ、交渉する以前に局そのものがなくなってしまいました。とにかく文ちゃんに会わなきゃ、会っていろいろ今後のことも、運動のことも話さなきゃ。そして今、僕が準備している、3.11をテーマにした劇映画があるんですが、その映画にも文太さんに協力してもらいたいと。しかし、会おう、会おうと思っているうちに訃報を聞くことになってしまいました。本当に心の底から、僕は残念だし哀悼の意を表したいと思っているんです。
それで先ほどの話に戻ります。勝手に170人くらいで追悼集会をやったっていうんで、非常に頭にきているところです。3日前に発行された『現代思想』という本の中で、インタビューを受ける形になって文ちゃんのことを僕が話しています。そして今日こういう会が開かれるのは、冒頭にも言いましたが、本当にありがたいと思っています。

菅原文太が遺した二つのこと――映画を通しての発信を

司会 そろそろ時間も少なくなってきました。何か質問や意見がありましたらどうぞ。ございませんか。はい。
参加者 藤山監督がおっしゃってた中で、経産省の前に今、脱原発テントが建って、今年で4年近くになるわけです。そこに右翼が押し寄せて来て、暴力を振るう。しかし、一切マスコミは報道しないですね。経産省の真ん前で、経産省の建物は映すんだけど、絶妙な角度で絶対にそこを映らないように建物を映す。まあこれはある意味、プロだなあと思うんですよ。ちょっと引けば映っちゃうんだから。そういう運動があるんだと、全世界や日本国中に知らしめることが出来るはずなのに、それをないがごときにする。また右翼なんかが暴力を振るっても、これも全然マスコミは報道しない。そこで、ネット放送で、青空放送っていうことで、自分達でそういう武器を使って世界に広めようと。藤山さんなんかの発案があって、僕は言われて看板の背景描きに行ってたりしたんですけどね。それが今4年目にして判決が出されて、「出て行け」と。それから今まで居座った分の賃貸料を2000万とか3000万とかを出せっていうようなことになってます。今、沖縄の問題とか、それからテントの問題とか、突出している事がモグラ叩きみたいに出ては潰され、出ては潰されっていう状況をどのようにこれからつなげて、やっていくのかっていうことをちょっとお聞きしたいと思いまして。
藤山 方針に関する問題が提起されました。文太さんは、沖縄で「弾はまだ残っとるがよ、一発残っとるがよ」という発言の前に、こうも言っています。「政治の役割は二つあります。一つは、国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を食べさせること。もう一つは、これが最も大事です。絶対に戦争をしないこと」と。そして、奥さんの文子さんもこう書いています。「小さな種を蒔いて去りました、一つは無農薬有機農業を広めること、もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないということ」と。文太さんが、最後に種を蒔きました。重いテーゼを遺しました。かつて僕らが概念的だった、なんでもかんでも運動、運動をやればいいということだけでもない。でも、なおかつそこに撤するべきだという、いろんな反省を含めてやっていかなきゃいけないと思うんです。
いずれにせよ、テントに関しては、これは表現の問題である。憲法21条に国民は集会をする、あるいは表現をする権利がある。つまり経産省のあの小さな地域にテントを張って、そこで原発の是非を問う、責任を問う、あるいは廃炉に向けたあらゆる方針を提起していく。福島から本当のことを世界に向かって発信する拠点として、あの位置を確保するということは表現の問題である、というふうに解釈します。で、僕達は映画というものを通して、その表現、思想を、そして政治的なテーゼを世界に向けて発信していきたい。今の質問に答える形にはならないのかもわかりませんが、具体的に例えば強制代執行が行われるかもしれない。あるいは右翼の大攻勢があるかもしれない。それに対して、暴力的に実力闘争で立ち向かうかというと、僕個人としては今だに暴力主義者ですけれども、暴力をそのまま行使しても、それはあまりいい方法ではないなあと。テントがもし壊されるならば、それはもういい。右翼が襲って来るならば襲わせればいい。僕らは逃げます。ただ1日逃げるだけです。すぐ帰って来ます。すぐ帰って来て、また建てます。あるいはまたそこに放送局をつくるかもしれない。僕らは映画という方法を持っています。で、僕はドキュメンタリーもやりますが、やっぱり劇映画出身ですので、劇映画として世の中を震撼させるようなものをつくって、それを武器とすることが出来ればと思います。
テントをどこまで維持し、なおかつその趣旨をどこまで広範囲に広げていくかという問題があります。また映画監督協会の一つのテーゼとして表現の自由っていうのを掲げています。経産省テントの行動様式が表現の問題に関わっているのと同じように、映画監督協会の著作権の問題で、表現の自由ということがテーマにあがっています。共闘という関係がこれからつくられていくと思います。現在、集団的自衛権、秘密保護法に代表される敵の側のひどい攻勢、そして予測される憲法改悪に向けての流れがあって、非常に切迫した形になっています。僕は、まず頭を使って行動することを訴えていきたいと思っています。
司会 そろそろ時間になってしまいました。まだ話が続きそうなんですが、ここは片づけなどもあってそろそろお開きにしなければなりません。ただ、隣の部屋で飲み物なども用意してあります。時間がある方は、そちらに移動して藤山さんの話の続きをお聞きください。それから最後に一つ、入口の所に藤山さんが監督をなさいました映画が二つあります。一つはさっき話に出ました『We命尽きるまで』、それからもう一つは『みなまた 海のこえ』というDVDで、両方とも3000円です。もし興味がありまして、なおかつ懐にちょっと余裕のある方がありましたら、ぜひお買い求め下さい。本日は寒い中をどうもありがとうございました。藤山さん、どうもありがとうございました。

[ 2015 , 3.14   plan-B ]

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