都市の辺境

山谷・釜ヶ崎・深川から生まれた 六〇年代のフォーク・ムーブメント再考

本間健彦(リトルマガジン『街から』主宰)

今日の仕事はつらかった
あとは焼酎あおるだけ
どうせ山谷のドヤ住まい
ほかにすることありゃしない

まずイントロに流して聴いていただいた曲は、フォーク・ソングの『山谷ブルース』です。一九六〇年代後期にフォーク・ムーブメントという 現象が巻き起こります。ギターを弾いて歌えることを知った若者たちが、自分の心情や不条理な社会に対する怒りや抗議、また反戦といった意思表示を、自分た ちの歌として作り、歌い始めたのです。当時、フォーク・ソングは「プロテスト・ソング」とも呼ばれています。
この『山谷ブルース』という歌は、フォーク・ムーブメントの旗手的な存在であり、「フォークの神様」と称された岡林信康のデビュー曲です。そしてこの歌は、岡林青年の山谷体験から生まれたと伝えられてきました。
岡林信康の『山谷ブルース』という歌については、私も昔、よく聴いていたので知っていましたが、この歌が歌い手の岡林信康の山谷体験から作られたのだと いう極めて興味深いドキュメントを知ったのは最近のことで、私は、京都在住のライター田頭道登という方の著書により、そのドキュメンタリーを見聞すること ができました。
というわけで、田頭さんの本を紹介するという構成で、当時の山谷とフォーク・ソングの関わり、山谷がその頃有していた意味というか、もうひとつの側面についてお話をしたいと思います。
田頭道登さんは、これまでに、『山谷キューバフォーク』(一九七九年刊)、『岡林信康黙示録』(一九八〇年刊)、『私の上申書―山谷ブルース―』(二〇 〇四年刊)と題した三冊の本を出されています。現在、七八歳。京都在住の方です。本のタイトルでもおわかりのように、田頭さんは、六〇年代、彼の三十代の 大半を山谷で過した人です。
そしてこの山谷で、まだ歌手になる前の大学生だった岡林信康に出会い、歳はかなり違っていたのですが、二人は同志的な絆を結びます。そして岡林が大学を 中退して、フォーク歌手になり、高石友也事務所(後のURC=アンダーグラウンド・レコード・クラブ)に所属すると、岡林に誘われて同事務所に就職し、 フォーク歌手集団の裏方、マネージメントを担うようになります。
URCには当時、フォーク・ムーブメントを牽引していた関西フォークとかアングラ・フォークと呼ばれていたフォーク・グループの拠点で、高石友也・岡林 信康・高田渡・中川五郎や、『帰って来たヨッパライ』という歌で大ヒットを飛ばしたフォーク・クルセダーズ(北山修・加藤和彦・端田宣彦)らが所属してい ました。つまり、田頭さんは、裏方として当時の最先端のフォーク・ムーブメントに関わっていたのです。
では、田頭さんは、どんな経緯で山谷に辿り着いたのか。その足跡を簡単に見ておくと――。一九三二年(昭和七)四国の愛媛県生まれ。十八歳の時、プロテ スタント教会で受洗。一九五三年(昭和二十八)二十一歳の時、父親と喧嘩して家出し上京。新聞配達などに従事、自活の道を模索しますが、学歴がないことな どもあって正規就労ができずに二十代を過しています。
田頭さんが山谷入りするのは一九六三年(昭和三十八)、彼が三十一歳の時だった。彼はドヤ暮らしを始め、日雇い労働者として働き始めました。その頃の山 谷は約二万人のドヤ暮らしの人々が棲息していたといわれる寄せ場でした。高度経済成長時代へ邁進している最中であり、そのうえ東京オリンピック開催前夜で 東京の街はビルや道路などの建設ブームで湧いていましたから仕事にあぶれることはなかった。だが、仕事はどれも過酷な肉体労働ばかりで、そのうえ山谷の日 雇い労働者は世間から蔑視され、差別され、落伍者のように扱われるという視線に晒されてきました。
一日の労働を終え、帰る処はドヤで、そこは畳一枚敷きの押入れのようなスペースで立ち上がることもできない。おまけに南京虫との共棲が当たり前という環 境だった。夏など暑くて寝苦しいので、焼酎を飲み、酔っぱらって路上にぶっ倒れ寝てしまう者がおおぜいいた。酒の呑み過ぎや青カンで体を壊し病死したり自 殺する者も少なくなかった。当時、夏になると夏祭りのように山谷で暴動事件が頻発していたのは、そんな情況から生じていたのです。
その頃、「蒸発人間」という流行語がありましたが、職を失って家に居づらくなったり、犯罪を犯して身を隠すためとか、晴れて刑務所を出所したものの家や 故郷に帰ることができずに住所不定になっていた男たちのことを指した呼称で、山谷はそのような「蒸発人間」の巣窟とも言われていました。
十八歳で家出を図り、家に帰ることなく都会で棲息していた田頭さんも、「自分も“蒸発人間”だった」と語っていますが、山谷入りしたのは、働く場所を求 めて、という理由のほかに、こんな動機があった、といいます。それは、当時山谷にドヤ暮らしをしながら伝道している中森幾之進と伊藤之雄さんという二人の 牧師さんがいるということを知って、是非会ってみたかったということだった。
つまり田頭さんは、山谷のドヤ街に「イエス」を発見し、その二人の牧師に導かれるように山谷へ赴いたのです。そして田頭さんは、二人の牧師が設立した日本基督教団隅田川伝道所の書記に任命されています。
こうして山谷暮らしを始めた田頭さんは、このほかにも山谷労働者協力会、山谷地区学習会、小さなバラ子供会、地域誌『人間広場』の編集など、諸活動に関 わっていただけでなく、『山谷のキリスト者』というミニコミ誌をガリ版刷りで週に一回発行しているのです。もちろん、これらの活動は生活の資を得るための 日雇い労働の合間を縫って行われていた作業だった。
田頭さんは、なぜ山谷で、そういう生き方を積極的に行ったのだろうか? その答えは彼のつぎのような思考の中に読み取れます。

私は、山谷で、人間が、この社会でいかに尊いものか、それと共に、どれほど疎外され、抑圧され、苦しみを与えられ続けているかを教えられた。
山谷こそ、私を救い、前進せしめ、私の精神と肉体をギリギリに追いこみ、人間社会について開眼せしめた場所であり、自分は「山谷大学」の学生であったのだ。

そして田頭道登さんは、この山谷でフォーク歌手としてデビューする前の神学生時代の岡林信康と出会うのです。田頭さんの本には、岡林からの私信が沢山紹介されていますが、岡林青年の真摯な青春像がうかがえ感動を覚えます。
岡林信康は牧師の子息で、牧師になろうと、同志社大学の神学部に入学しています。だが、次第に自分が進もうとしている世界にムシャクシャするようにな り、自分をブッこわしたくなるといった衝動に駆られるようになります。収録されている岡林の手記には山谷へ行こうと思い立った心境がつぎのように記されて います。

ちょうどその年の夏、うちの教会に来ていた札つきの非行少女が、あることで警察にあげられました。その少女をめぐって、「教会は、そんな子の来る 所じゃない」という声が、教会員の中におこりました。信徒の偽善とエゴイズム……それに、彼女を恐れて関わっていくことをしなかった自分、自分の持ってい たと思う信仰……既成の教会に対する反発と、自己自身のキリスト教信仰に対する疑問、劣等感がとうとう爆発し、一九六六年八月の終りに「山谷」で活動して いる牧師に会いたい気持ちと、ヤケクソ半分の、どうでもなりやがれ的な気持ちで山谷に飛び込んだわけです。(『人間広場』七〇年二月・NO.8)

田頭さんの本には、その裏付けがこんなふうに記録されています。

(六六年)このころ、岡林信康君(当時、同志社大学神学生)消沈しきって、山谷の私達を訪れた。労働センター前の私の宿泊していたドヤでの生活 で、私が上、彼が下段だった。一泊百六十円の前払いであった。彼は稼いだ金でボクシングのグローブを買って滋賀県近江八幡の実家(教会)へ帰って行った。

翌年夏にも岡林は再来していて、つぎのように記されている。

六七年の夏、岡林君は、同じ神学部の平賀久裕君と共に山谷に来た。平賀君も山谷の現実には驚いたようだった。坊主頭の彼は、ドヤでウイスキーを コップであおって「神は死んだ!!そういったニーチエも死んだ!!と、大声で酔っぱらい叫んでぶったおれた。現在の教会の不甲斐なさ、神の死んだ教会のあ り方を彼は神学部の「夏季研修報告」で告発した。このとき岡林君は、山谷で質流れのギター(三千二百円)を買って近江八幡へ帰った。(『私の上申書―山谷ブルース―』)

岡林信康の山谷体験は、大学の夏休みを利用しての一種の体験学習であり、アルバイトの日雇い労働であった。山谷から家に帰る際に、稼いだ金でボクシング のグローブや質流れのギターを土産に買っているところに、そのことはよく示されています。けれども、父親の主宰している教会や自分が入学した大学の神学教 育の問題点に、青年らしい潔癖な感性で疑問を抱き、悩み、それをなんとか克服したいという気持ちで、山谷体験に臨んでいる姿にも注目しないわけにはいきま せん。なぜなら、この時の山谷体験から、岡林信康は『山谷ブルース』という歌を作り、フォーク・ソングを歌い始めているからです。
田頭さんの本によると、この『山谷ブルース』の誕生の経緯がつぎのように記されています。

京都に帰った平賀から、山谷の体験を綴った(一傍観者の作による『山谷ブルース』)という詞が送られて来た。私はこれを「山谷のキリスト者」(第三号)に掲載した。

この冊子は岡林にも送られた。すると、これを読んだ岡林から、山谷の田頭につぎのような手紙が寄せられた。その一節を紹介しましょう。

山谷からかかえて帰ったギター。こいつがとんだ事を引き起こしました。自分でギター弾きながら作った歌が一五曲あまりになったのですが、去る十一 月二十三日、草津で高石友也という知る人ぞ知るフォーク歌手(釜ヶ崎にいた事があるそうです。立教大学八年生!!)が反戦集会に来た時、俺も自作の歌二曲 を歌わせてもらいました。(中略)週報(山谷のキリスト者)に記されていた平賀の詞(山谷ブルース)にさっそく曲を作ってみました。かなりの線の曲ができ たによって、また聞かせます。たのしみにしとれ。 

この岡林信康の手紙で興味深いのは、日本のフォーク・ソングがどのような状況の中から生まれたのかということが、この記述からうかがえることです。例え ば、岡林より少し先輩で「アングラ・フォークの創始者」と位置付けられている高石友也は東京の立教大学に籍があったのですが、ほとんど大学の講義には出席 していなかったようで、のみならずなぜか大阪の、山谷と並び称された釜ヶ崎に流れ込んでいて、そこからフォーク・ソングを歌い始めていることです。岡林は 前述したように京都の同志社大学生だったのに、夏休みに二年にわたり山谷に来ていて、二度目の山谷体験後にフォーク・ソングを作り始め、歌い始めていま す。
また、岡林についていえば、大学を中退してフォーク歌手としてデビューする直前には、山谷で暮らしていた田頭さんを、自分の故郷の近江八幡に呼び寄せ、 二人で日雇い労働などに従事しながら共同生活をし、被差別部落の運動に関わっています。そしてその運動の中で、その後デビューして話題を呼ぶ、『チュー リップのアップリケ』『がいこつの歌』『友よ』などが作られています。
このようなドキュメントに接すると、日本のフォーク・ソング草創期の旗手を務めた高石友也と岡林信康の二人が山谷と釜ヶ崎の体験の中から歌を紡ぎ、歌い始めていることに注目しないわけにはいきません。
山谷と釜ヶ崎は東西の最大の寄せ場で、日本が高度経済成長の時代へと驀進を開始する六〇年代に活況と矛盾を露呈させた坩堝だったわけですが、この坩堝 に、大学生という身分からドロップ・アウトして飛び込んだのが高石であり、岡林だったわけです。そしてそこから日本のフォーク・ソングは産声を挙げていた のだというルーツを発見することができます。

 ところで、私は昨年暮れに、『高田渡と父・豊の「生活の柄」』という本を社会評論社から出しました。実はこの高田渡も、岡林信康や高石友也と共にフォーク・ムーブメント草創期の旗手の一人で、「フォークの吟遊詩人」と称された伝説的なフォーク歌手です。
高田渡は、二〇〇五年四月十六日、ライブ・ツアー先の北海道釧路白糠町で倒れ亡くなりました。五十六歳だった。彼は類稀な詩精神と反時代的ともいえるよ うな反骨の生き方を飄々と貫いた人物なのですが、その独特な存在感や彼の目指した「生活の柄」が、どこに由来し、どのようにして形成されたのか。その源流 を辿ってみよう。そういう動機から私はこの本を書きました。
高田渡は岐阜県北方町の出身です。祖父が材木商で一代を築き、町の中でも五本の指に入る大きな家で、渡は生まれました。
父親の豊は青年時代、佐藤春夫門下の詩人でしたが、戦争が終わるまでは京都や東京でずっと編集者でした。戦後、郷里の北方で家族と共に暮らすようにな り、牛乳販売店や保育園の創設や共産党に入党して町長選に立候補して惜敗するなど、戦後の混乱期、様々なことを意欲的にやっていますが、詩人気質が抜けき れなかったのかどうか、何をやってもうまくいかなかった。
高田家が大きな転機を迎えるのは、一九五七年に豊の妻信子が死去したことから始まっています。豊はこの時五十二歳。男の子ばかりの四人兄弟の末っ子だっ た渡は八歳だった。妻が亡くなると、その数ヵ月後に豊は、大きな家を処分し、仕事がうまくいかなくなっていたことや、かなり借財もあったようでしたので、 その清算ということもあったようですが、四人の息子を引き連れて上京します。この子連れの上京は、妻を失った喪失感による発作的なものだったのではないか という見方もされています。というのも、何か目算があったわけでもなかったからです。豊は就職もせずに、僅か半年たらずのうちに四回も安アパートの引越し をくりかえし、遂に所持金を使い果たし、深川の収容施設に入居することになるからです。かつての編集仲間を頼れば、校正の仕事の口ぐらいはあったはずなの ですが、それもしなかった。
深川の施設は山谷のドヤと同じような部屋で、一人一畳当てのスペースだったが、夜行列車の二段ベットのように上下に区切られていて、隣室との壁もないし、普通に立って生活することもできない。そんな所だった。
この深川の収容施設に入居後、高田豊は、ニコヨンと呼ばれた、日雇い労働者として働き始めます。十八歳の長男は、家族を離れて浅草の牛乳店に住み込んで 働きながら、定時制高校に通い始めます。彼は岐阜県では名門受験校の県立岐阜高校に通っていたのですが、もはや自活の道を切り開くしかなかったからです。 次男は中卒後、町工場に勤めましたが、日雇い労働のほうが賃金が高いという理由で、工場をやめ、毎朝父親と一緒に高橋の職業斡旋所に出かけるようになっ た。三男は中学生、渡は小学五年生だった。
高田渡は、給食代が払えなくてよく貼り紙に書かれた。小学校の卒業式の予行演習のとき、国歌斉唱の練習で、渡一人が歌わないでいたら、先生から「どうし て歌わないのだ」ととがめられます。すると渡は「うちのお父さんが“君が代は日本の国歌だとは認められない。あれは艶歌だ、と言ってるので、僕は歌いませ ん”と答えたという。小学校六年生の時、一九六〇年六月十八日、渡は「おいデモに行こう」と、父親に誘われ、豊が属していた全日本自由労働組合(日雇い労 働者の全国組織)の大人達に混じって国会議事堂周辺のデモに参加し、「安保反対!岸を倒せ!」と、よくわからなかったけれど、シュプレヒコールを叫んでデ モ行進をしたという。ニコヨンの仕事を終え、帰宅すると、豊は渡を連れて近所の銭湯へ出かけ、湯から上ると、銭湯の並びの一杯飲み屋に立ち寄り酒を飲ん だ。渡は父親のとなりで鍋焼きうどんなどを食べた。そんな父と息子だったのです。
高田渡は、同世代の大半がけっして経験することのなかったような体験を、少年時代を過ごしたこの深川の生活で見聞したのです。そしてこの深川での暮らしが自分のその後の人生を生き抜いていくうえでの根っこになったと言っています。
高田家は上京して五年後に、ようやく深川暮らしを脱出し、武蔵野市三鷹の都営住宅に引っ越します。渡は中学を卒業すると、「赤旗」を印刷していた印刷会 社に就職し、植字工として働き始めます。そして彼が十八歳の時、厳しい肉体労働や深酒で身体を壊していた父親の豊が六十二歳で他界しています。
高田渡は、父の死後、家を出て新宿若松町に三畳一間の安アパートを借り、自活を始めます。印刷会社を辞め、業界紙の新聞配達をしながら、定時制高校へ通っています。そしてこの頃からギターを独習するようになり、フォーク仲間に加わって歌い始めるのです。
そして高田渡は十九歳の時、『自衛隊に入ろう』という自作の曲を歌ってフォーク・シンガーとしてデビューをしています。最早約半世紀前の歌ですから、ご存知ない人の方が多いでしょう。ちょっと聴いてみましょう。こんな詞の歌です。

 みなさんの中に
自衛隊に入りたい人はいませんか
ひとはたあげたい人はいませんか
自衛隊じゃ 人材をもとめてます
自衛隊に入ろう 入ろう 入ろう
自衛隊に入れば この世は天国
男の中の男はみんな
自衛隊に入って 花と散る

この『自衛隊に入ろう』という歌は、高田渡が十八歳の時に作った曲です。つまり前述したように彼が新宿区若松町の谷底のような場所の安アパートに住み、 業界紙の配達の仕事に従事しながら夜間高校に通っていた時代に作り、歌い始めたものです。その頃、彼が暮らしていた谷底のような町からは、丘の上に聳え立 つは防衛庁の庁舎が見えました。この歌が作られ、歌われるようになって二年後、三島由紀夫が自衛隊員の決起を促す悲壮な演説をぶち割腹自殺事件を起こした 舞台です。けれども、当時の自衛隊は、三島由紀夫が憂国の士としてそんな事件を起こさなければならないほど存在が希薄だった。今のように海外派兵などでき る状況ではなかったし、「日本は中国へ侵略などしていない」といった勇ましい論文を発表する幹部もいなかった。日本中の大半が中産階級化したと言うこの時 代の青年達に「自衛隊に入りたい」という者はほとんどいませんでした。それゆえ町内会の掲示板や電柱などには「自衛隊員募集」のビラがよく貼り出されてい ました。高田渡は、その自衛隊員募集広告のコピーからヒントを得て、この歌の詞を作ったと言われます。ちなみに曲は、マルビナ・レイノルズの作詞・作曲し た『アンドラ』というアメリカのフォーク・ソングの原曲が活用されています。
高田渡は、アマチュア・フォーク・グループ「アゴラ」のメンバーに加わって歌い始め、添田唖蝉坊の演歌や自作の『自衛隊に入ろう』などを歌っているうち に、「へんな歌を歌っているヤツがいる」と口コミで評判になり、歌い手になっていますが、これは当時のフォーク歌手の典型的なパターンでした。そんなある 時、テレビ局から出演の依頼があり、婦人番組のコーナーで『自衛隊に入ろう』を歌ったところ、番組終了後、自衛隊から連絡が入り、「自衛隊のPRソングに 使用させてもらえまいか」という依頼を受けたといいます。だが、この話は、さてどうしたものかと考える暇もなく、すぐに先方から断わりの連絡が入ってお じゃんになった。のみならず、この歌は、間もなく放送禁止歌のブラックリストに入っています。これは有名な高田渡伝説のひとつとして語り継がれて来まし た。
言うまでもなく、高田渡は、この歌を「反戦歌」として作ったのです。それなのに先方の早トチリとはいえ、一度は自衛隊のPRソングにしたいと望まれた歌 でもあった。この歌の詞だけを読んだら、極めて諧謔精神の溢れた「反戦歌」であることがわかります。だが、いかにもアメリカの音楽、それも明るく軽快な マーチ風の旋律で「自衛隊に入ろう 入ろう 入ろう」と歌われる、この歌には、もしかしたら自衛隊のPRソングなのかな、と思わず聴き違えてしまいそうな ノリの良さがあります。歌の面白いところ、怖いところ、なのかも知れません。おそらくそのあたりのミス・マッチ的な効果を高田渡は狙ったのだろうとおもい ます。
六〇年代末という時代は、日本社会が経済高度成長の基盤を成し遂げ、さらに上を目指そうと驀進した時代でしたけれど、一方、水俣病や四日市喘息など悲惨 な公害被害や炭鉱閉鎖・労働者解雇に伴う労働争議、各地の大学で次々に蜂起された大学紛争やベトナム反戦闘争など、様々な社会問題が噴出するといった戦後 日本の曲がり角の時代でもあった。そうした時代背景の中から、ポピュラー音楽の世界にも大きな変化が生まれ、「関西フォーク」とか「アングラ・フォーク」 と呼ばれる、それまでのカレッジ・フォークと一線を画したフォーク・ムーブメントが起っているのです。その旗手だったのが、高石友也や岡林信康で、彼らの 歌に代表されるその頃のアングラ・フォークはストレートに社会の問題点を歌で表現するプロテスト・ソングが主流だった。間もなく高田渡も彼らのムーブメン トに合流するのですが、彼は独自のスタンスと歌のスタイルを貫いた。どんなスタンスだったのか。彼は伝記にこう書いています。

僕の歌は、反権力という点で根っこは同じでも、主義主張を正面からぶつけるのではなく、遠回しに表現するタイプのものが多かった。あたりさわりのないことを歌いながら、皮肉や批判や揶揄などの香辛料をパラパラとふりかけるやり方が好きだったのだ。

話題を呼んだ『自衛隊に入ろう』という歌は、まさにそういう方法論で作られたのであり、このスタンスはその後の高田渡の歌の基調となるものだった。しか し私は、十八歳の高田渡が『自衛隊に入ろう』という歌を作った動機について思いを馳せないわけにはいかなかった。彼は単に反戦歌を作ろうと思って、この歌 を作ったのだろうか。そんな単純な動機とは思えなかったからです。
そういう想念を抱いたのは、その数年後、高田渡が、連続射殺事件で死刑囚となった永山則夫が獄中で書いた詩のなかから『ミミズのうた』と『手紙を書こう』という二篇の詩を歌にしていることを知ったからです。「ミミズのうた」には、「目ない 足ない おまえはミミズ/暗たん人生に/何の為生きるの」という詩句がみとめられます。また、「手紙を書こう」には、「書いたら少しは/望みも湧いて/明日も恐がらなくとも/良いだろうに」…そんな詩句が記されています。二篇とも暗い、絶望的な詩です。永山則夫は、他の著書同様、これらの詩も獄中で書いています。つまり、永山は死刑囚の身になって文の才能が開花したのです。彼は、そのことを著書『無知の涙』で悔いていますが、手遅れだった。
永山の犯した連続殺人事件は一九六八年六月から十月にかけて起きたものですから、その前年に作られた『自衛隊に入ろう』の創作動機に直接結びついていた わけではありません。注目したかったのは、永山の生い立ちと境遇だった。青森の極貧の家庭に生まれ育った永山則夫の十九歳までの人生の歩みは、思春期から だけを追っても、中学卒業後の集団就職、転職の数々、二度にわたる海外密航の失敗、定時制高校への入学と退学、自衛隊に入隊志願し一次試験には合格したも のの保護観察中であることが発覚して不合格――といった惨憺たるもので、このあと永山則夫は横須賀の米軍ハウスに侵入し、留守宅から22口径拳銃と実弾 50発を盗み出します。そしてこのピストルと弾丸が、その後の連続殺人事件を起こす引き金となっているのです。
高田渡が、永山則夫に関心を抱き、彼が獄中で書いた詩を歌にしたのは、同年生まれの同じ歳だったことや、その境涯に共感するものがあったからでしょう。 端的にいえば、高田渡は、もし自分に歌への志がなかったら、自衛隊員になったとしてもなんの不思議はないという境遇を強く意識していたのです。このような 感情は、永山則夫が事件を引き起こす以前から、高田渡自身の心の奥底に滓のように澱んでわだかまっていたに相違なく、そんな屈折した思いが十八歳の高田渡 に『自衛隊に入ろう』という歌を作らせたのではないか。私は、そのような考察をしないわけにはいきませんでした。
高田渡が、からくも永山則夫のような人生を歩まずに済んだのは、彼には歌への志があったことと、たまたまと言うか幸運にも、彼の青春がフォーク・ムーブ メントの興隆期に出会えたという点も見逃せないでしょう。と言うのも、高田渡は、この時代に数多く出現したフォーク少年の一人で、業界紙の新聞配達をしな がら定時制高校に通う十八歳の時に、『自衛隊に入ろう』という曲を作って小さなフォーク集会で歌い始め、それが評判を呼ぶようになり、高石友也や岡林信康 が出演した京都で開かれたフォークキャンプに招かれて出演し、これがきっかけとなって高石事務所に入ることになり、定時制高校を中退して京都へ移り住み、 十九歳でフォーク歌手としてデビューを果たしているからです。
このフォーク・ムーブメントの旗手となる高石・岡林・高田のデビュー前夜の東奔西走ぶりには、幕末期の坂本竜馬や高杉晋作ら志士の行動を彷彿させるものがあり、そんなところも興味深いものがあります。
高田渡は、二〇〇五年四月十六日、ライブ・ツアー先の北海道の釧路で倒れ、五十六歳の生涯に幕を閉じたわけですが、生涯変らない生活態度を持ち続けた人 でした。たとえば住居なども、デビュー以来ずっと吉祥寺の安アパートに住み続けて来ています。八〇年代にフォーク・ソングが忘れ去られ、歌う場が殆んどな くなった時も、求められればどんなにギャラが安くても全国各地のライブハウスを巡業し続けたといいます。「一年間で日本を二周くらいした。二周しても年収 は普通の月給取り以下だった」そんな話を面白おかしく語っています。「僕は、死ぬまで歌い続けるのが歌い手だと思っている。歌わなくなった時が終りだ」と も、彼は言っていましたが、そのとおり、まさに「フォークの吟遊詩人」としてその生涯を全うしました。
そんな生き方を貫けたのは、普通の同世代の若者やミュージシャン仲間が体験できなかった、型破りな父親と共に深川の貧民窟で少年時代を過ごしたということが、彼のその後の精神を形成した原点にあったからではないかとおもわれます。
現代の日本社会は、日本の社会全体が「山谷化」してしまったのではないかという不安や危機感が深まっています。こんな時代だからこそ、「新しい文化の萌芽は辺境から生じたのだ」という一九六〇年代現象を今一度思い起こしてみる価値があるようにおもえます。

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