釜ヶ崎「センター前」上映会報告 2021年1月2日・3日

釜ヶ崎「センター前」越年越冬闘争における『山谷 やられたらやりかえせ』上映報告です。
上映は越年越冬期間中に設置しているテントにおける「センター前映画祭」において2回(1月2、3日にそれぞれ1回ずつ)行いました。テント内には間隔をあけて椅子を10個程度並べ、1月2日の上映では人の出入りはありつつほぼ満席、1月3日の上映では出入りが激しいものの10人程度の人がみていました。その他別の設営や準備で忙しかったり、焚き火にあたったりしているテント外の人たちも頻繁にテントをのぞいておりました。ささやかな上映会でしたが、作品中の風景を懐かしみ話がはずんだ労働者(「上映会のあとのエピソード」の文章参照)や、当時の釜を知らない人たちの釜シーンへの、のぞき見をふくめた注目度高さが印象的なものとなりました。
また『釜の住民票を返せ!』等の諸作品とともにセンター(前)という空間で上映できたことは意義深いものであったと思います。そして、コロナ禍において普段の寄り合いと同様に、皆でマスク着用・こまめな手指の消毒等に取り組んだからこそできた越冬・上映会でした。(Y・H記)

上映会のあとのエピソード

『山谷 やられたらやりかえせ』の上映の翌日、労働者から映画のシーンについて尋ねられた。「炭鉱のシーンがあったが、あれはどこを映したものだろうか」という内容だった。「筑豊ですよ」と答えると、とても懐かしかったという。いまは釜ヶ崎に住むその労働者は、筑豊で生まれ育ち、父親は炭鉱夫だった。映画に映し出される共同浴場や炭鉱住宅についてこちらから尋ねたところ、生まれ育った町ではそうした光景が確かにあったとのこと。そう話しながら、「炭鉱住宅はもうないやろな」とつぶやいていた。
その労働者は、炭鉱閉山をきっかけに関西に出てきたのだという。釜ヶ崎で働き、住むようになったのは、センターが建設された1970年のころだった。とくに記憶に残っているのは、90年暴動のこと。この暴動で西成警察署を謝罪させたことが、深く印象に残っているようだった(その点で92年暴動とは違う、とも語っていた)。また、その頃の釜ヶ崎では仕事があり、活気があったと懐古していた。
ふたたび筑豊の話に戻ると、故郷には、もう家族は残っていない。けれど、死ぬ前に帰りたい、故郷を見たいと、その労働者は何度も言っていた。手元に筑豊の写真集があったら良かったな、と思った。労働者と出会って、こうして話を聞くことができたのは、『やられたらやりかえせ』が労働者の出自を丁寧に辿っているからこそだと思う。そしてその映画を、労働者が集う釜ヶ崎のセンターで上映したからこそ、なのだと思う。(T・H記)

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