都市のこわれかた-②68-08/新宿

「68年の神話」から遠く離れて――1960~80年代新宿の顕微鏡的階級地図

平井玄(音楽批評)

(レジュメ)
・ひび割れた「若者文化と世界革命の物語」のアスファルトを引き剥がすと
そこには、この街にへばりついて生きる人たちの砂漠が広がっていた。

・密林の戦争を体験し、反戦運動に加わった開高健は、「ベトナムで起きて
いるのは本当に人間の〈解放〉なのか?」と呟いて、高揚の最中の68年、
「ベトナムに平和を!市民連合」から静かに離れる。
『日本三文オペラ』で大阪の在日たちの地を這う抗いを描いた彼は、
「自由のため」と「民族解放」の名の下で国家と国家の間ですり潰される
南ベトナムの人々の姿を見ていた。

・だが作家は、「しょせん国家間戦争」と言いたかった訳ではない。
単線的な「発展」のヴィジョンに抵抗できない「社会主義」の下で、
より低い賃金を求めて中国から彼の地へ日本企業が急ぎ足で生産拠点を
移している今、開高のこの問いが鈍い光を放って浮かび上がる。
初期の南ベトナム解放民族戦線が「南」の雑踏に生きる実に雑多な人々に
荷われているのを、作家の眼は見る。そうした人々をあの闘いはいったい
どのように「解放」したというのか?

・68年の新宿で、16歳の新左翼活動家になる以前、2丁目の路地裏にある
洗濯屋の頼りない長男として生きていた「自分」とは誰なのか?

・「騒乱群衆にして地元民」という、なんとも奇妙な二重存在。
地場に生きる零細な自営業者の息子にとって「68年」とは何だったのか?
滅びゆく「旧中間階級」か、多少の家産にまどろむ小ブルジョワなのか?
解放されるべき「主体」たちは、どこか別の所にいたというのだろうか?
小さな家族労働の場に「後ろ髪」を引かれ続けた「自分」とは誰なのか?

・60年代後半に始まる都心の小自営業衰退とは、新自由主義による
シャッター街化の最初の兆候だった。
「自分探し」ではなく、フリーターとして生きる無数の「自分」たちの
現在に向けて「68年」を大きく切り開くために、こうした問いが現れる。

・支配文化になったサブカルチュア(小林よしのり、「嫌韓流」)と
最後のページが閉じられた新左翼運動史の語りから、
「68年」を解放すべき時が来ている。

・2本の映画と2つの小説を交差させる。
網走→五所川原   『初恋』小説・映画
永山則夫     中原みすず
↓        ↓
『無知の涙』→ 【1968年新宿】 ←佐藤満夫←新潟
小説『木橋』     ↑        ↓
2丁目の洗濯屋 →映画『山谷 やられたらやりかえせ』

山岡強一 山谷←北海道

・「3億円事件」を新宿のカオスから描いた『初恋』の主人公は、映画では
女子校の生徒とされる。しかし、校門から街への近さやジャズ喫茶の人々
が醸す雰囲気が、私に新宿高校の旧「同志たち」を直感させた。

・高級官僚や大学教授、文芸・思想誌の編集者、そして共産党幹部の家で
育った仲間たちの横顔に「余計者」めいた影が差す。伯父にもらわれた
私生児の語る小説は、パリに亡命した19世紀のロシア知識人たちが抱く
「余計者」の憂愁を描いたツルゲーネフの『初恋』を意識していただろう。
ジャズ喫茶こそ彼らの「亡命地」である。だが、私だけが極端に違っていた。
「亡命地」は地元であり、私は「余計者」ではなく「労働力」だったのである。

・洗濯屋の労働構造60年代から70年代への激変

【60年代の三層構造】
主人の家族  (私@新宿二丁目)
通いの職人
住み込み店員 (永山則夫@川崎の洗濯屋)

【70年代のプロレタリア化】
機械・資材産業→経営者家族全員の家内労働者化

・『初恋』の主人公たちは、「亡命地」から東芝・府中工場の現金輸送車を襲う。
永山則夫は「寄港地」としての新宿から、4連続「誤射」事件へ突き進む。
私自身は、家族労働の場としての2丁目の路地裏から全共闘へ向かう。
――いずれも新宿騒乱の近傍にいたが、中心にはいなかった。

・寄せ場は残酷な「本源的蓄積」の場所だった。
80年代の山谷への大きな迂回こそが、新宿二丁目の「自営労働者」として
の自分自身の姿を見出す道へと誘う。

・今起きていることは「100年に一度の大恐慌」ではない。
「終わりなき本源的蓄積」が中心部に回帰した姿である。
資本主義はリセットと再起動を何度でも繰り返す。
そして自営業の衰退とは、新たなエンクロージャー(囲い込み)の一環である
(ベルクの追い出し、下北沢の再開発)。

・80年代の民活法から、90年代の規制緩和―新自由主義、そして「再階級化」へ。
そして今、フリー・カメラマン労組の出現――自営労働者(フリーター)の運動へ
「素人の乱」が高円寺で店舗を始める――自助システムの模索へ

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平井と言います。よろしくお願いします。レジュメを用意してきました。これを話すとたぶん2時間くらいになるんで、後でゆっくり読んでいただくとして、僕にとって大切な記憶が刻まれたこのplanB地下の壁からにじみ出るような話ができればと思います。

■……アスファルトを引き剥がす……■

いわゆる「68年」、1968年に世界中で若い人たちだけでなく、そして日本とかフランスとかの資本主義の発達した国だけでもなく、様々な場所で連続的 に色々な行動が起きて社会を変えようという運動があったことは、皆さんご存じだと思います。それから40年ということで映画もできれば本も出る。ヨーロッ パではシンポジウムが行われ、写真集みたいなものまで出ているようです。そういう中で、僕はこの時代についてちょっと特異なこだわり方をしてきたもので、 今日話せということになったと思います。この映画の上映運動が始まった頃、僕も微力ながら参加しました。このことが「68年以降」の僕の生き方に大きく影 を落とす。だから、そのことに関わって今日の話をしていきたいと思います。
今日ここに来る前に渋谷の勤労福祉会館で「フリーター全般労組」という非正規労働者たちの組合を中心とした集会がありました。シンポジウムを1時くらい からほとんど1日中やってるんですけども、その会を中座してこちらに来たということです。明日渋谷でデモがあります。麻生首相の家に向けて、松濤にある東 急Bunkamuraの奥の方に、なんかでっかい屋敷があるらしいですけれど、そこに向けてデモするようです。渋谷でつい1ヵ月前にそこに向かう歩道を歩 いていただけで若い人が3人捕まってしまいまして、それでリターンマッチみたいな感じでデモをする。今日はその前日の集会ということで行ってきました。
今ここに持ってきたチラシは、そこで配られていたものです。東京の品川駅前に「京品ホテル」っていう古いホテルがあるんですが、その経営者が60何億円 という負債をかかえこんでホテルをむりやり潰そうとしている、その策謀に抗議する組合のものです。リーマンブラザースという、ついこの間破綻したアメリカ の金融資本の系列会社に負債を払ってもらうために、再開発が進む一等地のホテルを廃業することを条件に5億9000万という金をもらう。そういう形で明治 時代から続いた3代目の社長が採算の取れているホテルを潰し、従業員を全部放り出してしまうというひどい話です。それに対して労働者たちがホテルを占拠し て、自分たちで営業している状態なんですね。使われている人間たちが働いている職場を占拠して、なんとか自分たちで食っていこうという運動で、僕には勇気 づけられる話が渋谷でありました。
もう一つ、フリーター全般労組でがんばっている人から聞いたことですが、これからフリーのカメラマンたちによる労働組合ができるそうです。フリーのカメ ラマンってどういう立場かというと、機材や材料費、交通費は全部自分持ちで、新聞や雑誌、テレビとかの取材企画ごとに一時的に雇われて映像を撮る仕事で す。だから自営業者なんですね、商法や税法上では。年度末の確定申告用書類では「自営業者」のところに丸を付けるという人たちなんです。まあ僕みたいな校 正のフリーターっていうのもそうなんですが、自営業者は古典的な言い方で「労働者か資本家か」といったら、かつては小さな資本家だとされてきた。つまり 「生産手段」を持っているから。ところが今や個人の小規模自営業って、どんどん技術進化が進むITの機材や設備を自前で借金して揃えなければ、まったく仕 事にならない。カメラとかパソコンとかソフトですね。だからクライアントだけでなくIT産業にも、なんの保証もなく時給いくらでこき使われるようなもんで す。こういう形があらゆる分野に広がったわけです。
今日どうしても話をしたいのは、1968年の運動、特に当時の新宿の街で起きたことの話になると……そこのレジュメに「若者文化と世界革命の物語」と書 きましたが、誰でも決まり文句のように言い出すことへの違和感です。今ここに、いらっしゃる皆さんの顔を見ているとたぶん20代から30代の方だと思うん ですけれども、当時は昼間から学生たちが溜まっている喫茶店で「世界革命」なんてことが会話に出てきちゃうような、たしかに不思議な時代ではあったんで す。映画や小説の中で、最近では歴史研究や文化研究においてさえ、そういうストーリーが語られてしまう。ところが、そこに「アスファルト」って書きました けれども、そういう物語を一回引き剥がしてみないことには、もはや1968年にいったい何があって、どんな可能性があったのかということが、見えなくなっ てるんじゃないか。40年たって、もはやその使い古された物語から身を引き剥がさないと、もう何かを考えていることにならないんじゃないかなと、僕は非常 に強く思っています。
今年「68年から40年」ということなんで、当時新宿をうろついていた「高校生」としてこだわってきたんだから、何か書けとか話せとか言われるんですけ ども、なかなかどうもねぇ。言いたいような言いたくないような、できたらやり過ごしたい気分なんですね。それはなぜかと言うと、あまりにもサブカルチャー と新左翼運動をめぐる出来合いの物語がべったりと貼り付いてるからなんです。そのアスファルトを引き剥がしたいと思ってます。ちなみに「アスファルトを剥 がすと、そこは砂漠だった」というのが、パリ5月革命の最中に現れた壁の落書きでした。もう一度、それをやってみたい。
さっき自営業者をめぐる話をしたのは、僕自身が「新宿二丁目」という変な所で生まれたからです。つまり江戸時代の甲州街道沿いにあった岡場所(塀のない 街道筋の買売春地帯)から始まって、その裏の沼地に移動して遊廓になり、そして戦争を挟んで赤線、青線に、70年代後半にはゲイの集まる街になったのが、 現在の「新宿二丁目」でした。そこで長年営まれてきた洗濯屋に生まれ育った人間なんです、僕は。ちょうどこの時間、8~9時くらいからゲイの皆さんは通り に集まってだんだん賑やかになってきます。午前3時、4時くらいが一番最高潮で、毎日そんな状態ですね。土日の方がむしろ賑わうという、夜昼全く逆転した 街があそこに相変わらずあるわけです。たまたま、その真ん中にある自営商店の長男として育つんですね。このことが、僕に「1968年」に対して人には分か りにくい奇妙なこだわり方をさせたんだ、と最近になってようやく腑に落ちるようになりました。
というのは、その68年の新宿で10月21日ですから秋の夜に、いわゆる「新宿騒乱事件」が起きた。10万人くらいの大群衆が東口駅前に集まる。ベトナ ム戦争で使われるジェット燃料を立川基地に運ぶ列車が通っているのを阻止するために集まった活動家たち。そこまでかっちりした組織には加われないけれど、 何か黙ってはいられない学生や工員やサラリーマンたち。さらにその周りにどこからか湧き出るように雑多な人間たちが集まってくる。酒を飲みに来たりフラフ ラと遊びに来たりする若い男女の連中、いわゆる「野次馬」と呼ばれた人たちですね。「野次馬」っていうのは「付和雷同の無責任な暴民」みたいに当時の警察 や新聞は言ったけれど、むしろ何か言葉で言い表せない憤激と怒りを強く持った「中産階級」以前の「雑民」とか「下民」ですね。こういう雑多な人間たち、そ のたぶん誰も意図しなかった合力が、戦後最初に「騒乱罪」が適用される暴動となって爆発したわけです。
まさにこの年、機動隊に突き飛ばされながら花園神社の境内では唐十郎たちの「状況劇場」がテント芝居を打っていた。紀伊国屋書店本店の裏通りでジャズの ライブを演っていたピット・インでは、麻薬所持容疑で帰れないドラマーのエルヴィン・ジョーンズが日本人ジャズマンたちとセッションを続ける。そして明治 通りを挟んで伊勢丹向かいの新宿アートシアターでは、ゴダールたちのヌーヴェル・ヴァーグ映画がかかり、風月堂などの喫茶店には物書きやヒッピーたちが屯 する。世界にも稀なアンダーグラウンド文化の発信地だったと、最近では外国から驚くほど熱心な研究者たちが出現しています。それを目の当たりにした僕もと てつもない影響を受けてきたと思います。このことは既にいくつかの本の中で書いてきました。

■……首都中心部の「二重存在」……■

しかし、長い間僕自身が理解できなかったのは、自分が騒乱する側の人間でありながら、同時に物をぶち壊されたりするその街に住む地元民でもあったという ことなんです。親たちが毎日そこで働いて暮らしている。言葉で説明できない。それでも、この奇妙さにどうしてもこだわらざるを得なかった。というのは、た またまアパートを借りていたとかじゃなくて、そこが三代にわたって商売していた場所だったんですね。そのうえ「洗濯屋」というなんとも地場にへばりついた ような商売だった。その割り切れない「二重存在」……例えば、自分の通ってる高校では大げさなアジ演説をしたり、集会をやったり、あるいは街に出てもっと 大きな行動に参加するわけですね。何千人とか、時によっては何万人というレベルのデモがあり、そこで何かしら世界を変えるというような言葉の文脈に沿っ て、今思えば恥ずかしいことをやっていた。16歳ですからね。しかし、歩いて数分で自分の実家がそこにあるんですね。そこでは父や母たちが、家内制手工業 の小さな町工場のような洗濯屋をやっている。
このギャップというのは、当時16歳の人間にとってはどうにもならない。その当時、社会や世界の変革をめぐるいろいろな議論がありました。古典的なマ ルクス・レーニン主義から、もっとリベラルな立場、それから高級知識人的な西欧マルクス主義みたいなもの、それから「第三世界」を歴史的な動力とする考え 方まで、論議は世界中で沸騰していた。ところがいかんせん、こういう巨大都市のど真ん中の訳のわからない「二重存在」みたいなものを説明してくれる論理と いうのはどこにも、どんな本を読んでも出てこないんです。ですから、そのことを抱え込まざるをえなかった。
だからといって、じゃあ家業を継いで洗濯屋さんになれるかといえば、やっぱりなれないんです。とてもじゃないけど面白くない、あの街で自営業者をやるの は。でも目の前で親たちは苦労している。どんどん縮小していくんですね、当時60年代から70年代にかけての町場の洗濯屋っていうのは。小学生時代、50 年代終わりに7、8人の店員がいるそれなりの店だったのが、10年たって仕上げの職人さんが1人だけ最後までいました。その人もいなくなるという形で、家 族3人でやっている家族営業になるんですね。大きなチェーンのフランチャイズにならなければ生き残れない。都心部ではそういう小さな自営の洗濯屋はもう絶 滅しつつあると思います。
というより、あらゆる小自営業っていうのは絶滅寸前ですね。これは地方都市のシャッター街の話じゃない。首都の中心部で起きたこと。例えば、新宿駅の東 口地下にある「ベルク」っていう喫茶店が店として成り立っているのに追い出されるという今の事態につながっている。どこかのIT企業のエリートだったか、 竹中平蔵だったか、非効率で収益性の低い都心部の自営業者はあってはならない、絶滅するのは当然だ、というようなことを露骨に言ったらしい。まさにそうい う状態になってますね。
それで、40年たったからようやく見えてくることがあります。僕は1952年生まれですから68年に高校に入った時が15才から16才になるところで す。まったくのガキ。ところがその当時、既に高校には中学時代から運動に関わっている人がいました。まあ、反戦高協の中学生部隊ですね。もう既に高校1年 でそういう経験をしている。あるいは後に逮捕され、はっきりと武器を取って闘うところまでいった人たちも同年代でいました。彼らの多くは、高級官僚や大学 教授、文藝誌や思想誌の編集者、共産党幹部や歴史家といったインテリ家庭の出身者でした。僕など家にものを考えるための本など1冊もない。1年の時、小田 実を「おだみのる」なんて読んで笑われていた。そういう意味で考えたら、1968年の運動に後からついていった人間にすぎないんですね。15、6の時分で 「自らの意志で」とはなかなか言えない。言えないというか思考する枠組みそのものができていない。より上の世代がつくる運動の場や言葉に乗っていくしかな かったわけで、しょせんはそういう人間だったと思うんです。長い間そのことにある種の後ろめたさとか、気後れみたいなものがありましたね。それは事実だと 思います。その「気後れ」がどういうことなのかを考えるのが、たぶんこの40年という時間だったと思います。
先ほど観ていただいた「山谷」という映画は、その自分についての訳のわからなさを考えるのに何より大きな糧になるものだったんですね。もちろん山谷の日 雇労働者たちは、自営業者――洗濯屋のように機械類があって、店があって、借地だけれど新宿の真ん中に一応住むところがあるというような存在では全くな い。立場があまりにも違います。だから、けっして重ね合わせることはできないんだけれども、僕が新宿の街で見ていた人間たち、家の洗濯屋のお客さんという のは、尋常ではない人たちでした。具体的に言うと水商売で働いている女や男たち、しかも普通の意味での客商売というよりも、もっと底に近い人間たちです ね。体を売っているような女性たちでしたし、男性でもいわゆる工場の産業プロレタリアというより、風俗産業みたいないかがわしく怪しい連中。通常のマルク ス主義的な立場から言えば「労働者」とはとても認められないような存在でした。僕は幼い時からそういう人種しか知らなかった。
では、この人たちは労働者じゃないんだろうか? とすると「労働者」ってなんだ? 政治的、思想的に物心ついた68年以降、そういうことを考えざるをえ ないんですね。この人たちは解放されるべき、あるいは解放する側に回るような主体じゃないのか。いったい何なんだろうかと。つまり新宿の街に「労働者」が いるとしたら、そういう人間たちでしかないんですね、ほとんどが。もちろん、ちょっと周辺に行けば印刷工場もいっぱいある。新宿区の北側、文京区や豊島区 との境には大小の印刷に関連した工場がたくさんあります。東京の東部や南部にはもっとありました。いわゆる「プロレタリア」らしい工場労働者たちはそこで 大量に働いていた。でも「それ以下」といいますか、そうじゃない人間を僕は見ながら育ったんですね。

■……「山谷」そして「永山則夫」……■

そういうわだかまりを抱えたまま、1974年に実家の洗濯屋に戻ることになります。父親の交通事故がきっかけでしたが、それ以前に、もはや大学に行く気 力を失っていた。これだけ機動隊の暴力に制圧された、何の自由もない大学に行ってどうなるんだと。当時「アウシュビッツ化」と言われましたけれども、大学 の周りに工事現場のような金属ボードが張り巡らされて、いちいち荷物検査され学生証を見せないと入れない。そんな状態が全国どこの大学でも見られた時代で すね。そんな大学で今さら何を学ぶんだと中退する人間たちが大量に現れた。たくさんの人たちが田舎に帰ったりして、そこでまた反基地、反公害、反原発と いった地域闘争に参加する。工場に入っていく人たちも当然いた。ところが僕が帰った「田舎」は新宿2丁目だったんです。ブーメランのように戻ってしまう。 高校時代の仲間たちが大企業に就職していくのを尻目に、洗濯屋を手伝わざるをえない。とにかく、もう一度現実に帰っていかなきゃならないと……。
音楽について書いたり、演奏の場に関わることは続けていました。その縁で数年後に、今僕を紹介してくれた司会のIさんたちと一緒に山谷に行くことになる んです。そして映画で観ていただいたような事態が出現して、僕もその端っこで何ごとかを経験していったわけです。結局それが、割り切れない二重存在として の自分について大きく考え直させることになったと思います。
というのは、僕が新宿の街中で実際に付き合ってきた人たちというのは、社会的に組織化されていませんし、それこそ彼らが登場するのは68年10・21の 新宿騒乱のような時だけです。「選挙」のような制度は彼らの欲望を二重、三重のフィルターにかけて脱色してしまう。ところが諸政党によって与えられたメ ニューでは満たされない欲望がある。水商売の労働者たちが警察権力とまともにぶつかるようなね。それはとても大きな可能性だったわけで、その時に一瞬だけ 出現するんですね。それ以降、再び社会の表面から消えるわけだけれど……。
けれど、山谷に行けばそうじゃない。山谷に行って、今日の映画に出てくるような人たちは、新宿とは色合いが違うかもしれないけど、やはりある意味で体 しかない、売るものは体しかないという人たちだったんです。その中で自分の「わだかまり」が掻き混ぜられていく。60年代終わりの経験がもう1回、80年 代の初めくらいに山谷へ行くことによって大きく攪拌されて、そうしてその問いを40年間ぐるぐる掻き回し続けたっていうところがあるんです。
「自営業者」って何だろう? 都会の真ん中で家族で働いている小さな自営商店が衰退していくのは自然現象なのか? これはいわゆる解放運動とか労働者 の闘いとか、少なくともまともに人間が生きていけるような世界を創ろうとする営みとは関係ないのか? そんな素朴な問いをずうっと抱え続けることになるわ けなんです。レジュメの図(下図)は、主人の家族と通いの職人と住み込み店員という、たぶん江戸時代くらいから60年代まで続いてきた商店で働く人間たち の構造を略図にしてみたものです。上からこういうヒエラルキーになっているんじゃないか。永山則夫さんという、1968年に不幸にして4人の見ず知らずの 人たちを射殺してしまい、その結果死刑にされてしまった人がいます。彼が書いた『木橋』という小説集があるんですが、その中に川崎の多摩川に近い町でク リーニング屋さんに勤めていた頃の体験を描いたものがある。まあ、やっぱり「洗濯屋」って言いましょう。洗濯屋って差別語らしいですね。新聞社がつくる用 字用語集には使わない方がいい言葉として出ています。「クリーニング店」と言い変えると出ています。だから、あえて「洗濯屋」と言った方がリアリティーを 僕は感じるんですけれども……。

主人の家族……私          機械・資材産業
通いの職人           ⇒     ↓
住み込み店員…永山則夫(川崎)   家族の家内労働者化

彼は少年院から出た後、川崎の洗濯屋に勤めていました。そこに店主の家族の姿が出てくるんですけれども、それはもううちの家族そのものですね。その 主人の長男として私がいて、中学校卒の住み込み店員として永山則夫さんめいた人がうちにもいました。そういう「経営者と使われる人間」という関係が70年 代には激変して、完全に家族だけになり、全員が家内労働者化していく。経営者なのに、技術進化する作業機械や資材を生産する巨大な企業に従属させられてし まう。そこに僕は帰っていくわけです。そういう技術革新についていこうとすると「債務奴隷」になるしかない。希望はありませんでした。その中でどうしても 自営業者の家庭で育った自分というものを考えざるをえなかったんです。

■……「リセット」する資本主義……■

少々理論めいたことを言うと、19世紀に資本主義について執拗に考えたマルクスっていうおじさんがいました。20世紀を振り回した人といってもいいと思 いますけれども、そのマルクスが言ったことで二つ重要なことがある。戦後のフランスに現れたアルチュセールっておじさんが、それは「剰余価値」と「本源的 蓄積」という資本主義の秘密を発見したことだと言ってます。剰余価値の方はとんでもなく膨大な論争史があるので、専門家に任せましょう。「本源的蓄積」っ て何かっていうと、ようするに資本主義の「出生の秘密」です。こういう社会システムを作り出して回転させるためには一定のインフラストラクチャーがなきゃ いけない。蒸気、水道、電気、ガス、石油といったエネルギー網。鉄道、道路、船舶、飛行機といった交通網。それから事務所、工場、住宅地といった空間を配 置する都市の計画。知識を集積し、技術を開発する大学や研究所とか、いろいろな社会環境ですね。
ところが、人間と自然だけは「商品」として生産するにはどうしても無理がある。そのためにそれまで農民の共有地だったような所を囲い込んで、資源を奪い 土地を奪って、人間を追放してしまう。その結果、都会に出て来ざるを得なかった人間たちを「労働者」という新型ロボットとして成型するわけです。それが資 本主義の始まりであるとマルクスの『資本論』第1巻に出てきます。今の言葉で言えば「初期化」でしょう。パソコンのように資本主義というシステムを初期化 するんです。そして立ち上げる。これまで資本主義って、最初に1回軌道に乗っちゃえば、資本を投下して商品が生産され貨幣が流通する、そういう自動回転す るシステムみたいに思われてきた。人間と自然を力まかせに変形する「本源的蓄積」は最初に1回だけ起きるやむを得ない過程だと。ところが、その非常に暴力 的な過程が何度も何度も行われるんだってことが、最近の事態を踏まえた議論の中で出てくるようになりました。つまり資本主義は何度も「リセット」して再起 動を繰り返してるんだと。これはここ十数年くらいの津波のようなインターネット化、IT化による変動を省みれば実感できると思います。
今起きていることはまさに資本主義の「リセット」です。新たな「本源的蓄積」です。リセットするキーが押されてるんですね。巨大な「囲い込み」エンク ロージャーが進行している。フリーター、ニート、引きこもり、派遣社員、こうしたことはすべて人間的自然のエンクロージャーだった。僕らがさらされている 現実っていうのは、心理的な現象ではなくて、それまでの資本主義社会の形を1回徹底的にぶちこわす暴力でした。小泉というあの最悪の首相が言いました、 「ぶっこわす」と。そのとおりですね。まさに人間をぶっこわしたんです。そして、こういう「リセット」「エンクロージャー」「本源的蓄積」は山谷のような 場所では日常茶飯のことでした。この体験が新宿二丁目で起きたことを別の目で見せてくれるようになる。
その目でもう一度見ると、「若者たちのサブカルチャーと世界革命」という68年の物語の下から現れてくるものがある。「ひび割れたアスファルトを引き剥 がす」というのは、先ほど言ったように再帰的なパロディーです。つまり「パリの舗道の敷石を引き剥がすとそこには砂漠が広がっていた」というパリ5月革命 の時に壁に書かれた落書きは、ランボーやニザンが遺した言葉の跡に上書きされたものでしょう。「砂漠」って何か。ランボーやニザンが赴き、そこで死んだア ラビア半島の砂漠なんです。つまり機動隊に投石するために敷石を剥がすと、そこに現れたのは「第三世界」だった。そして40年が過ぎて、もはやひび割れた 「68年の物語」をもう一度引き剥がしてみると、そこにはこの街に生きてきた人間、へばりついて生きざるを得なかった人間たちの砂漠が広がっていた。それ は資本主義の容赦ない「リセット」に晒された自分自身の姿じゃないか。高度成長の頃から「第三世界」に押し付けられた「本源的蓄積」がそうやって中心部に 回帰する。そのことを発見するために40年という時間が必要でした。そのために「山谷」への大きな迂回は不可欠だった。この映画なくして、この経験なくし てはありえなかったと思うんですね。

■……「68年」春、暮れ、そして地下水道を通って……■

今や零細な自営業と、こき使われるフリーターや派遣、それからホームレスや日雇労働者との境目がグラデーションのようになってきた。千人単位で派遣契約 の解除が行なわれていますけれども、おそらく来年あたり、大都会の真ん中の路面で20代、30代の人たちがゴロゴロせざるを得ない状態がやってくる。すで に大阪ではその兆候が出ている。その時、「68年に起きたこと」は何か通りやすい言葉として、あるいは団塊オヤジ向けの懐古番組で使われるような、『三丁 目の夕日』の映画に描かれるようなものではなくて、別の姿を現すだろうと思います。少なくとも僕はそれを非常に強く感じていますね。
ある種の自営業と労働者の境目が薄くなってきたことの兆候をいくつか挙げれば、新宿駅の地下にある「ベルク」っていう小さな喫茶店があります。新宿東口 の改札を出てすぐ左に行くと、「フードパーク」という小さなスポット、路地か穴蔵みたいなスペースがあるんですね。その中に、20人も入れば満杯になって しまう小さな喫茶店があるんですが、その店をやってる人たちが駅ビルを所有するルミネから追い出されかかっている。そこには納得できる理由など何も示され ていない。それから下北沢の真ん中にに余計な道路が作られて再開発される。大阪の長居公園でのテント村撤去なんかもそうでした。これらはすべて新たなエン クロージャーというべきです。今起こっている事態を、単に「格差社会」とか「反貧困」とか、運動的に分かりやすいスローガンとして語られるのはしかたがな いと思いますけれども、こういう言葉で語る時期はもはや過ぎつつあると僕は思っています。資本主義そのものの問題として真っ向から捉えるべき時が来る。い や、もう来ている。そうしないと何もはっきり見えない時代が来ているんだと思います。
高円寺の北口を降りて左に行くと「北中通り」と書かれたアーケードを掲げた商店街があります。そこに「素人の乱」という名のリサイクルショップ、古本 屋、スナック、小さなスペースなど、何だかおかしな店が十店近くあるんです。彼らも自営商店ですね。僕の友人がそこに関係しているせいもあって、彼らの実 態が伝わってくるんだけれど、店を始めた連中は、町起こしの運動をやりたいわけじゃない。商店街の長老みたいなそば屋のおじさんと仲良くしたり、なかなか しぶとい奴らです。自分たちが買える値段で食い物を出す。自分たちと同じような奴らがとにかく生活していけるシステム、いわば自助システムをつくるという のに近い。そこから発展していろんなことをやっている連中なんですね。そういう意味では自営業でありながら食えない連中とともに、これをやってる連中自身 がそうなんですけども、生きていく方法を模索している。
同時に、例えば札幌での反G8デモで友人が捕まれば、すぐさまその通りで300人規模のデモが起きる。地元の人たちと付き合って、地場の空間を創り出し ながら、自分たちの言いたいことを言う。食えない奴らが、なんとかやろうとしているんですね。危ういところをなかなかしぶとく綱渡りしつつ動いていると思 います。そういう運動が現れてきました。僕にとっては、もう一つの「68年」が地下水道を通り抜けてこういうところに噴き出している。
ですから1968年を、団塊オヤジたちの「俺たちの若かった頃はー」という話にするのはもうやめた方がいいと思います。そういう話は僕も聞きたくもな いし、したくもありません。そういう形で68年の神話から遠く離れてみると、そこに見えてくるものは、もっと大きな可能性なんですね。
1968年春の段階では、友人たちの中に新左翼系の政治組織に参加している者もいて、彼らとまあ一緒に行くっていう感じだな。それでデモや集会ごとにど んどん行動的になって、本も読んでいく。そういう感じだったから、いわば近傍にいたんだけれど、大きな政治性を帯びた運動の中心にはいなかった人間なんで すね。むしろ学内でちょっと変わった発想の動きを始めて、その先頭にはいた。無届け集会が禁止されれば、授業中に一斉にトイレに集結するとかね。何だか 「ダメ連」や「素人の乱」に似てますね。それでも68年の暮れからは「活動家」めいた顔になっていたでしょう。
 政治運動の中心にいた人だからこそ見え ているものは、確かにあると思います。長い間辛い獄中生活に耐えた人たちも相当数います。僕にはそういう経験はない。ただ近傍にいて、後ろからついていっ た人間にしか見えないものが、あるんだろうと思うんです。そのことを語っておかなければと長い間考えてきました。雄々しく闘ったのではなくて、父親や母親 が夜昼なく働き続ける姿、その影に後ろ髪を引かれながら68年を生きた人間にとって、あの時代の「叛乱」っていったい何だったのか。それが今にどう繋がっ てくるのかということを、非常に駆け足ですけれども、皆さんにお話したかったということです。

●———–【質疑応答】————–●

司会 平井さんのお話は、観念的ではなくて、きわめて身体的かつ内発的な話だと思います。今のことに関してでもよろしいですし、映画のことに関してでも結構ですから何かご質問とかご意見はありませんか。
参加者A 一つは映画についてなんですけども、20年以上前から、その後いくつかの段階があると思うんですけども、現状は山谷に限ってどう いうふうな状況になっていたのか。説明をしていただきたい。あともう一つ、お話の最後の方で「素人の乱」のこととからめながら、新たなエンクロージャーと それに対する、対抗運動というか対抗の流れみたいなことをお話されたと思うんですけれども。まあエンクロージャーに対してエンクロージャーされるコモンズ というのがあったと思うんですね。例えば、家業のクリーニング店のことも念頭におかれ、新たなコモンズのあり方を探求されながら考えていると思うんですけ れども、その新たなコモンズの形というのをもうちょっと大きなデザインの中でお話をいただければと思います。よろしくお顔いします。
司会 じゃあ前半は僕で、後半が平井さんということにしましょう。山谷の20年。ご覧になったのは84・85年の20年前の風景なんですけ ども、風景自体はいまもほとんど変わっていません。けれども、内容が相当変わっています。ヤクザとの闘い、映画の中では大日本皇誠会は山谷を引き払ったと いうことになっていますが、その後、西戸組はつぶれました。でも、その上部団体である金町一家は、依然として事務所もあり残っています。そのさらに上部の 日本国粋会は、詳しい説明は省きますが、そこの組長が今年だったかな、ピストル自殺しました。まあ、ヤクザ同士の「内部矛盾」ですね。それから山谷自体が 20年たって、だんだんと高齢化してきています。つまり新しい若い人が入ってこなくった。いまは、寄せ場を経由せず、携帯電話などで手配され、ひとりひと りが分断されています。映画の中にも出てましたが、怪我したり病気になったら働けない。即捨てられるという状態はあいかわらず続いています。それが大きい 問題として、山谷だけでなく、全国の寄せ場で起こっています。生活保護の問題であるとか膨大な野宿者、山谷の近くには浅草、隅田川がありますけれど、そこ にブルーシートの小屋がたくさんあります。そういう状態で、かなり「疲弊」した状態にはなっています。そのなかで、新しい運動も模索され実践されてきてい ます。山谷はそんな現状です。

■……「コモン」の兆し……■

平井 マルクス主義的な知識が前提となってない方もたくさんいらっしゃるわけだから、「コモン」って何かと言うと、例えばキノコを採るため に農民たちが入って行く土地。一応そこは土地の所有権を持ってる人がいるんだろうけれども入れるんですよ。現在でも分かりやすく残っているのは、そういう ようなところしかない。それは個々の人間が所有しているんじゃない、一定の人間たちに開かれた共有地っていうことなんですね。それがヨーロッパでも、世界 中どこでも、もっと広大にあったんです。だいたい私有権なるものが近代国家の力によって認めさせられたのは、せいぜいここ200~300年の間ですから、 それまでは個人が土地を囲い込んで持つなんていう概念自体がない。神に与えられたものとしての「共有」というのかな、それは教会や領主との力関係とか複雑 なものがあるんだけれども、修道会の荘園や国王領以外は、生きていくために共同体として使っていくという要素を持ってたんですね。それが近代の資本主義化 によって登記されて私有地になってしまう。それによって、それまでキノコを採っていたところも入れなくなる。牧草地でもなんでもそうですね。この国の田ん ぼや畑にもそういう共有の関係あったと思うんだけど、そういうものもみんな囲い込まれていくんです。その囲い込みのことを「エンクロージャー」と言うんで すね。とりあえず、助け合って一緒にやっていけるような空間、「コモン」という言葉をわかりやすくしておきます。
まあ、今まで話した高円寺の「素人の乱」とか、それから品川駅前のホテルを占拠した動きっていうのは、そのごくごく小さな反攻の兆候としてはあると思 います。「山谷」の映画にも、泪橋の飲み屋で語り合う場面とか、筑豊のシーンに出てくるお風呂の場面とか、ホッとするような印象的な映像がありました。も ちろん、それで山谷の街全体が「コモン空間」だったとはとても言えないと思うけれども、最低限どうにか助け合おうというものはあったと思います。それがな かったら、あの労働者たちの運動は成立していなかったと思うんですよ。そういう労働者のいわば最後の、ギリギリの協働っていうかな。体のつなぎ方みたいな ものに組合が依拠するというか、そういう見えない空間と交渉しながらというか、そういう関係を豊かにしながら運動が進むということだったと思うんですよ ね。あの飲み屋での語り合いみたいなのがありますね。「俺は九州の炭鉱から来たんだ」とかね。「こんな一生懸命働いているのに、まだかあちゃんももらえな いよ」とか話してるんだけれども。ああいう所での付き合いから野宿者に向けた夜回りの運動みたいなものまで、あるいは玉姫公園での越冬闘争、夏祭りとか ね。そういうものを含めて、たぶんそう言えると思うんですよ。なんか大きな建物があるとか、恒久的なシステムや制度としてきちんとできているものじゃない けれども、そういうものがコモンの兆しというふうに考えられると思うんですよ。そういう意味では、今もいろんな連中が懸命になってそういうものをつくろう としています。それはまだまだ非常に小さな力でしかないことは確かなんだけれども、でもずいぶん久しぶりにそういう兆しが現れてきたということは感じてる んですよ。
例えば、新宿東口地下の「ベルク」に対するあまりにひどい追い出しに反対してたくさんの署名が集まるとか。その店を経営する一人、カメラウーマンの友人 は95年にあった西口広場からの段ボール村排除に抵抗して、ハウスとそこに描かれた絵を写真に残した人です。それから品川のホテルの労働者たちによる自主 運営についても、ちょっと予想外の支持が集まっているようですね。大きな高輪のホテルに来るいい格好をしたビジネスマンが署名していくとか、町の小学生が 署名していくとか。つまり40年たってここまで貧困が裸出した。単純に食えない人が増えたわけです。これはもう他人の問題ということではない。たぶんここ に来てくれた若い人たちにとっては、大学を出たら即どうするんだという話になってるでしょう。年配の人たちはますますそうです。おそらく安定した職に就い ている人は少ないんじゃないかと思います。そういう事態の中でどうしたって助け合わざるをえない。その中にやっぱり大きな可能性あるわけで、それは「コモ ン」などと言えるものではまだないと思います。共有地なんてとても言えない。しかし「コモン」や「エンクロージャー」、そして「逃散」というような言葉の 系から浮かび上がってくる動きの可能性が重要です。そういう言葉が意味を持つ要因がドンドン現れてきてることは確かなので、僕としては68年の経験を生か すとしたら、単に昔の物語にしないために、そういう努力をしていきたいなと思ってるんです。

■……再開発イデオローグの破産……■

参加者B 都市のこわれかたというお話で大変興味深く聞かせていただいたんですけど、現在の都市を見ていくと再開発というのが非常に進んで いると思います。そういった再開発によって今まであった都市の多様性というものがだんだんなくなっているような感じがします。東京の中で見ていくと、新宿 であるとか浅草であるとか、今まで多様な人々が住んでいて、多様な価値観が残されていた、許されていたように思うんですけれども。そういった再開発の顕著 な所が横浜じゃないかなと思います。私は横浜の出身なんですけれども、20年くらい前までは今のみなとみらい地区が造船工場で、あと寿町とか黄金町とか、 そういったダーティなイメージのある街だったんですけれど、全く今そういうのがない。たまに横浜に行ってみるとすごくきれいになって。寿町でもだんだん高 齢化が進行していって、まあ規模は300メートル四方ですけれども、ドヤがやっているんだかやってないんだかわかんないような活気がない状態になってい る。都市が再開発されていく中で、そういった多様性というものがなぜ排除されていくのかというのを、ちょっとお考えを聞きたいなと思いまして。
平井 まあ地方都市では再開発すらされないというか、単にただ破壊されているだけという感じですね。僕の連れ合いの実家がある九州に行く と、繁栄らしき風情を見せているのは福岡だけです。あとは全て福岡の従属都市。他の県庁所在地の駅前なんかも空き地で草ぼうぼうでした。新幹線ができてど うなるかというと、駅の目の前なのに居住用マンションが建つんです。つまり福岡まで何十分で行けるというのが唯一の売りになって、県庁所在地も完全に従属 化されている。せいぜい開発っていえばそんなもの。そこから離れた商店街はただただシャッター街。コンビニさえ車に乗っていくという状態です。多様性って いうのも、まあもともとあんまりなかったのかもしれないけれども、もはや欠片もない。大きな郊外モールも次々とできては、次々とモールそのものがシャッ ター街になる。福岡だけじゃない、仙台、広島という地方の中心都市だけが栄える。そこも実は栄えているかどうかわからない。これからちょっと恐ろしいこと になっていくのは、その中心都市で派遣の首切りが始まってるということです。
そういう状態なんだけど、ただ、東京だけは多様性がむしろ豊かになったかのように見えるところもあるんですよ。わかりやすい話で新宿に特化しちゃうと、 歌舞伎町の再開発が行われています。あれはなかなか恐ろしいところがあって。裏では暴力組織の再編が進んでるわけですね。地場のヤクザ、東京各地にはび こっていた大小の組織が山口組に制圧される。裏の世界もネオリベ化で山口組が一極支配する。それで表の世界では、薄汚いものをとことん排除してしまう。 1968年について、特に「68年の新宿」について僕が語りたくないという強い衝動がなぜあるかというと、歌舞伎町を「68年都市」のテーマパークのよう にしようとする動きがあるんですよ。つまりジャズ喫茶を再生したりして、団塊世代が安心して夫婦で来られる街にする。『三丁目の夕日』のCG映像そのまま に毒も怒りもない「68年」が出現する。そういう都や区が警察と結託した策謀が実際に進んでるわけです。久しぶりに足を運んでみると確かに、かつてぽん引 きがはびこっていた薄暗い裏通りはずいぶんきれいになっている。アメリカ人じゃないアフリカ系の客引きとかはまだいますよ。でも、不気味なくらい裏通りは 静かになった。これが可能なのはやっぱり裏を仕切る暴力組織の一元化が進んでるからでしょう。行政や治安当局がその単一支配と何らかの取引をしている。
そういう「68年」を回収する動きが見える。もうあの物語が最終的に行き着く果てです。ちょうど『三丁目の夕日』の映画が持てはやされるように。表面は 多様性のように見えて全くそうじゃない。もっと恐ろしい一元化だと思うんですね。まあ映像としてわかりやすい例で言えばそういうことだと思います。
参加者C 再開発のことについてうかがいます。例えば、下北沢に限らずよく言われる主張で、そこに住んでいる人にとっては、その当事者に とってはすごく大変なことだけれども、大きな規模で考えると、それがより大きな利益につながるんだというような主張がよくなされると思うんです。もちろ ん、個人的には違和感をすごく覚えるんですけれども、それに対抗していくような説得的なロジックみたいなものはどういったことがあるんでしょうか。
平井 それたぶん「あの人」のことだと思います。東浩紀っていう現代思想系の人がいます。彼は今やただの「再開発イデオローグ」です。潰れ そうなディベロッパーの回し者です。ファストフード化される街はいいんだ、自分にとっては心地いい。実はみんなそう思ってるはずだということをひたすら言 う。自分はあそこで育ったんだ、ああいう空間に対してノスタルジックな昭和商店街みたいなことを言う奴は「反動」なんだ。資本主義の進化っていうのはそう いう「自然過程」なんだ。そうやってきれいになって、そこからまた別の可能性があるんだ、ということをさんざん書いた。それがついこの間までベストセラー になっていました。しかしこの1年で激変したと思いますよ。そういう言葉が現実によって完全に反駁される時代がやってきた。つまりファストフード化した都 市であろうが、巨大モールだろうがなんだろうが、食えない奴が道にゴロゴロするということになるんですよ。彼は「社会空間の工学的変貌には抵抗できない」 というようなことを言うわけです。つまり、テクノロジーの進化には何かしら意図があって、支配者が搾取するために街を変えていくとか、そういう物語は終 わったんだと言う。テクノロジーはいわば自然の変化であって、それには抵抗できない。生物種が進化していくように都市も変わり、社会空間も変容するんだと いう簡単なストーリーです。
それに対しては、金融工学のように破綻するというしごくシンプルな答えが現実から提出された。今それが急激にはっきりしてきたということです。彼の屁理 屈に惑わされる必要はありません。現実に私たちは食えない。どうやって生きていくか。ファストフードであろうが、高円寺の一見ノスタルジックな商店街であ ろうが生きていかなくてはならない。でも、高円寺とか下北沢がノスタルジックな街だっていう言い方は、ごく単純に言って間違ってると思いますよ。例えば高 円寺北中通りの入り口付近は、歌舞伎町みたいな客引きのお兄ちゃんたちがうるさいピンサロ街です。路地に入ると右の角には「球陽書房」という60年代サブ カル的な古本屋がまだある。でもその先に行くと、これはあきらかにニューカマーの中国人たちがやっている中華屋さんがいくつも並んでいるんです。それから 「抱瓶」という沖縄料理屋がある。その先に「素人の乱」の店が点在している。その辺には古いそば屋のオヤジさんが「素人の乱」を応援しながら、「でも、君 たちはちょっと危ないんじゃないの」とか言ったり、「まあ、しようがないかな」と呟いたりしてる。そういう通りで鍋の宴会もあれば、デモもある。これは生 きた街でしょう。都市はファストフード化するというロジックが砕け散る時代がやってきたんですよ。東浩紀は倒産したディベロッパーの管財人です。北田暁大 はそこまでなりきれない半端な奴というだけのことです。

■……都市の影の部分を歩く……■

参加者D この中野の周辺の方南町で生まれて、遊び場は大体中野か高円寺っていう感じで20年間過ごしてきました。「素人の乱」に出入りし ている存在で、ラジオにも時々います。出入りしている人間から言うのも変ですが、私が20年生きてきて芸大に入って、平井さん達と芸大のネグリがらみの活 動で一緒にして思ったのですが、「素人の乱」以降が全然出てこないっていう印象がすごく強くて。私のまわりではもう「素人の乱」は昔のお話っていう感じで す。あそこは松本さんというスーパーヒーローがいて、彼の人気でいろいろ動いているけど、あの人達は私たちの世代の中ではかなり有名というか、神話化とい うと大げさですけど、されちゃって。平井さんは「素人の乱」以降の、もっと若い人達の中で、もっとわけのわからない、もう名前も付かない人達の可能性を、 もし感じたことが最近あったら教えてください。
平井 なんかロックスターを探すような話ですけれど。松本くんには確かにそういう変なカリスマ性があるんですよね。なにせ警察や機動隊を前 に、最高におもしろい頃の植木等そこのけの仕草をする人ですからね。ただ、これもわかりやすいエピソードで答えた方がいいと思います。松本くんは秋に大阪 に行って来たのかな。それで、「ああ俺たちは負けてる」とYouTubeかなにかで言ってました。「大阪には俺みたいな奴が1000人いる」と。ごく普通 にゴロゴロしていると驚いて帰って来ました。別に「素人の乱」も松本君1人でやってるわけじゃないですから、変な奴らがゴロゴロいます。この間、「素人の 乱」の12号店で「地下大学」と名づけた講座みたいな会を持ったんですけれど、そこにやって来たのは松本君たちが「素人の乱」を始める前にもともと高円寺 で遊んでいた1人です。数人のグループがあったらしい。この人たちには普通言われるような「政治性」はゼロです。脳天気なミニコミをいろいろと出してまし た。この連中がただ生き延びるためにおかしな店をやりはじめた。しょぼ過ぎるミニコミをタダ同然で売って、その稼ぎでどうにか食おうとした。おフザケな奴 らです。人間もおフザケ、ミニコミもおフザケなんだけど。彼らと「法政の貧乏くささを守る会」という奇妙な運動やっていた連中が合体して「素人の乱」がで きる。その元の奴らの方がもっとメチャクチャなんです。松本くんが学生運動時代の発想から脱皮したのはその連中と付き合ったからだという。だから松本君1 人を「素人の乱」と思ったらいけないと思う。いろいろ起きてます、変なことが。そのうちまた表面化するでしょう。その手の動きっていうのは大阪に見られる ように飛び火しています。
松本くんは永井荷風の研究家の息子なんだよね。妙な話なんだけど親と同じ松本哉って名前なんです。親は自分と同じ名前を付けたんですよ。落語家の何代目 じゃないんだけどね、二代目なんですよ。マーチン・ルーサー・キング・ジュニアとか、マルコム・リトルと同じなんだよ。彼の思想はなんとか主義ではありま せん。不埒な街歩きの思想が根にある。都市の遊歩者の思想なんです。ようするに都市の影になった部分を歩く人間の思想なんですよ。そこで生きていこうって いう思想なのね。これが彼の、マルクス主義とか、なんとか主義とか、アナーキズムとかとはとりあえず関係ない「土着思想」なんじゃないか。地面から湧いて 出たみたいな「貧乏くささを守る会」なんていうのは、どう考えたってなんとか主義と関係ないです。そういう世界の下の方から汲み取ってきた考え方が、彼の 変な言葉と変な行動になって出ている。学ぶべきはそれなんですよ。彼のスター性じゃないんだよ。まあ、キャラも面白い人なんだけど。で、学ぶべきというか 伝染しちゃうのはそっち、みんなが感染するのはそれなんで。そういう人が、たぶんどこかでまた次に準備されていると思いますよ。福岡にも変なのがいるし、 いろいろいます。そういう状態じゃないかと思いますね。
司会 そろそろ時間なんでこの場はとりあえずしめます。隣の部屋がロビーみたいになってまして、平井さんを交えての、話の続きができるようになっていま す。平井さんはお酒飲まないんですけども、お酒も用意してありますし。新宿のことといえば「新宿プレイマップ」、昔の、伝説の「新宿プレイマップ」を編集 されていた方も今日はいらっしゃっていますので、新宿に関しては最強のメンバーが揃ってますので。今日はどうもありがとうございました。
(2008・11・29 プランB)

2008年11月29日

plan-B 定期上映会

講演:「都市のこわれかた②──68-08/新宿」
講師:平井玄(音楽批評)
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「1968年」について、みんなが何か言えという。
―困ったことだ。だって私は、あの年の春に高校に入ったばかりの16歳。正確にいえば15歳と11か月で、小田実を「おだみのる」と読んで、新しくできた 友達に鼻で笑われるような少年だったからだ。そのマシュルーム・カット(初期ビートルズのあの髪型)のY君は、そのころ筑摩書房から出ていた『展望』とい う雑誌の編集長の三男坊だった。
そこから「怒濤のような3年間」が始まった―ような気も確かにするけど、そんな訳はない。うろうろ、ごそごそと、後ろからついていっただけ。いつも何かに 「後ろ髪」を引かれ続けていたのだった。だから私の「68年」は、実は1972年に始まる。前川國男の新宿紀伊國屋本店から2丁目の薄暗い路地裏へ。
聞き飽きた「世代の物語」を超えて、40年後に何を語ることができるのだろうか?