2018年5月19日

plan-B 定期上映会

「搔き消された「声」に 耳をそばだてること」
お話し/ 細谷修平 (美術・メディア研究/映像作家)

東日本大震災による経験は、わたしたち(少なくともわたし)に、過去を省みることの必要を気づかせ、わたしたちは一層とその営みに意識的になったように思われます。過去の忘れられた出来事に向き合い、それとの衝突によって、集団の想像力が蜂起すること。わたしはそれを信じているようです。
 しかし8年目を迎えた今、資本主義はわたしたちのこうした気づきだけでなく、震災という出来事そのものを「ノスタルジー」として回収・消費し、2020年の東京五輪へと加速の一途を辿っています。国家による国民の歴史はいくらでもつくられるでしょう。それでは、人民による人民の歴史はどうでしょうか。
 今回は、わたしが関心を持って研究に取り組む60年代70年代の政治と藝術の動向、80年代の光州民衆抗争とそれへの呼応などを通して、記録の可能性/不可能性について、みなさんと考える機会になればと思います。

 映像メディアが氾濫し、ことばが軽んじられる現在においてこそ、「山谷」の上映会という「場」で対話と考察を深められればさいわいです。

2018年1月13日

plan-B 特別上映会

ジョーの詩を読む 「あさってのジョ—たちへ」

自称 “日雇完全解放戦士”川口五郎。ぼくらはみんな彼のことをジョーと呼んでいた。
川崎で<日雇い>の息子として育ち、釜ヶ崎で「鈴木組闘争」に遭遇。「コーチャン(船本洲治)の一番弟子」と語るときの、少しはにかみながらも誇らしげな表情を思い出す。過剰なまでの暴力性を売り物にしつつ、実はシャイで優しい男だった。彼の死から既に一年半以上もたった今、彼がかつて獄中で書いた詩集を再刊し、「追悼会」まで準備しているのは、その魅力のせいでもあるだろう。
「良くも悪くも “寄せ場” の活動家の典型であった(詩集掲載の追悼文より)」ジョーとは、あの時代の “寄せ場” が生んだ活動家だった。そこには幾人もの “ジョーたち” がいたのだ。
“寄せ場” が労働市場としての機能を失くしていき、「仕事に行けたら教えてくれよ と言って/様々な情報交換をする場所/俺達の社交場 井戸端会議の場所 (「寄せ場の朝」)」を失いつつある現在。ぼくらはあの、跳ね上がりながら、活き活きと動き回っていた “ジョーたち” と出会う機会をも奪われてしまっている。
「ジョー = 川口五郎 追悼」。ぼくらは彼の生きた時間や場所を、もう一度振りかえってみようと思う。まだ見ぬ「あさってのジョーたち」との出会いに備えて。

2018年1月13日(土)
『山谷 やられたらやりかえせ』上映

ジョーの詩を読む「あさってのジョーたちへ」
● 詩を読む 水野慶子/大谷蛮天門
● お話 元釜共闘(暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議)メンバーから / 寿日労(寿日雇労働者組合)メンバーから
● 演奏 吉野繁

2017年9月30日

plan-B 定期上映会

「60・70年代から現在まで―― そこに見られる日本型ファシズム(天皇帝国)と寄せ場」
お話し/ 松沢哲成 (寄せ場学会)

1970年代終わりの頃か。当時よく読んでいた「現代の眼」やら「流動」などの(総会屋系サヨク)雑誌。そこで頻繁に特集されていたのが「1930年代との類似性」「ファシズムがやってくる」というものだった。まだ戦時下の記憶が残っている時代だったのだろう。
しかしその記憶は継承されぬまま、やがてこれらの雑誌は消え、何度も何度も「オオカミがくる」と煽り続けていたオオカミ老人のほとんどが鬼籍へと去っていった今、いよいよホントにオオカミがやってきた。
日本型ファシズム(天皇帝国)の研究を続けてきた松沢哲成さんは、この推移をどのように見てきたのだろう。60年闘争以後、反弾圧救援活動をへて、80年代・山谷闘争へ関わってきた松沢さんには、今回はあえて研究者としてではなく、「この時代」を「体験にそくして」語っていただきます。
「かつての運動」へのオマージュではなく、まさに「今」を捉えるために。 (山谷制作上映委員会)

2017年6月10日

plan-B 定期上映会

「流動する「共同体」と韓国」」
お話し/ 今政肇 (いままさ・はじめ/文化人類学・翻訳・園耕)

今回は、韓国から今政肇さんをお招きして「共同体」ー「共同性」をめぐってお話をしていただきます。
韓国では先ごろ大統領選が行われ「民主派」の候補が当選したが、その前の朴槿恵罷免を押し進めたのは連日の大デモンストレーションであったことはご存知のとおり。ぼくらは報道されるそうした「大きな運動」に耳目を奪われがちだが、もちろん韓国の「運動」はそればかりではない。あちこちで「小さな」グループが活動し、お互いの交流も活発に行われている、らしい。
今政さんは2004年ころからソウルの研究空間〈スユ+ノモ〉と接触し、会員として活動、『山谷』の上映にも携わっていただいた。また、この2月に刊行された李珍景『無謀なるものたちの共同体/コミューン主義の方へ』(インパクト出版会)の翻訳者でもある。
— その本の「訳者紹介」を無断引用すると…
「高知で高校を卒業後、ロサンゼルス近郊の大学で文化人類学を学ぶ。2000年代中頃、韓国と日本にまたがる植民地の記憶についての博士論文の研究の最中にスユノモと出会う。(そのせいではないが)フィールドワークをこじらせる。2012年までソウルに在住しスユノモ会員をして活動。現在では、かつての百済と新羅の国境地帯である山間部で小学校に通う娘二人とあいかたと共に地域および都市の間の地味な関係をつなぎつつ、なんとかしようとしている」
…ということになるが、そうした「流動する目玉」が見た、現在の村の生活、ソウルの〈スユ+ノモ〉を始めとした「共同体」運動、労働運動や協同組合、ぼくらの目のとどかない「マイナー」な運動界隈を、特に「世代」と「ジェンダー」という観点から語っていただき、そこから辿れる韓国の大衆運動や政治/社会の「風景」を浮かび上がらせていただきたい、と思っています。
ご期待ください。

2017年 3月25日

plan-B 定期上映会

「ホーボー hobo をめぐって   ーーオレたちみんなホーボーだ!」
講演 / マニュエル・ヤン
(早稲田大学・教員)

さて今回のトークのテーマは「ホーボー」。
ホーボーとは、19世紀最末期から20世紀の前半にかけて北アメリカの各地を流浪した〈流れ者〉たちのことだ。まあ強引にいってしまえば山谷・釜ヶ崎などの寄せ場を「基地」として全国を渡り歩く日雇労働者たちの先輩格にあたる人たち、〈流動的下層労働者〉の先駆け、ともいえる。
とはいえ、ぼくたちにとって「ホーボー」のイメージは、ジャック・ロンドンやドス・パソスたちの著作、ウディ・ガスリーの歌、あるいはロバート・アルドリッチ監督の映画『北国の帝王』などを通してかろうじて辿れるにすぎない。
背景に IWW(世界産業労働者=組合)の活動や、1910年代にはエミリアーノ・サパタやパンチョ・ビリャたちのメキシコ革命があったとしても、まだその存在は少し、遠い。
そこで今回は、北アメリカ合州国から飛来したとびきりの論者であるマニュエル・ヤンさんをお招きして縦横無尽に語ってもらうことにした。ヤンさんは現在ニホン滞在中で早稲田大学・社会科学総合学術院の助教。

【以下、ヤンさん自身による略歴】
「ブラジルで生まれ、神戸・カリフォルニア・台中・テキサス・オハイオを転々とし、ロサンゼルスで六年間仕事にあぶれたあげく、現在東京在住」

100年前に生きたホーボーたちがいまのぼくたちに何を語りかけるか? おそらくは100年前はそんなに遠い〈過去〉ではない。ホーボーたちと肩を並べて〈現在〉を考えていきたい。ご期待ください。

【ヤンさんから一言】
一切合切世も末だ。
現代の「ホーボー」である移民労働者を保守よりバンバン国外追放し、ドローン暗殺やシリア介入で人殺しをやりまっくた「戦争の親玉」オバマの後にお出ましになったのは、移民をテロリスト・強姦者呼ばわりして愚劣で醜い弱いものいじめをするトランプ。政治政党一切合切ぶっ壊して「オレたちみんなホーボーだ!」という階級闘争の原点にもどるしかない。

千代次さんに聞く―― 山谷の玉三郎と「さすらい姉妹」

お話 千代次(水族館劇場・さすらい姉妹)

この場に居るのが玉三郎であったらよかった…

司会(小見) 今、ご覧いただいた映画『山谷やられたらやりかえせ』の真ん中くらいに、山谷の夏祭りのシーンがありましたね。そのシーンで女装してかつらをかぶり踊って喝采を浴びていた――着物の裾をパタパタとめくったりして、ご祝儀を貰っていた人物が玉三郎さんです。あれは1985年に行われた第2回山谷夏祭りなのですが、その頃から彼は「山谷の玉三郎」として名を知られるようになっています。今日は、その玉三郎さんと共演してきた、「水族館劇場・さすらい姉妹」の千代次さんに、玉三郎さんについて話してもらいたいと思います。よろしくお願いします。

千代次 千代次と申します。先ほど映画『山谷やられたらやりかえせ』をみなさんとご一緒に観た、わたしの気持ちからまずお話します。佐藤さんが殺られて、みんなが反撃の闘いに起ちあがる暴動のシーンを見ると、わたしは胸がドキドキしてしまいました。ほんとうに血が騒ぐような気持ちになった。以前観たときよりもっと血が騒ぐのが不思議でした。あの人もいた、この人もいた、こんなこともあったなあ、という想いが蘇ってきます。わたしは、当時、そんなに現場にいたわけではないんですけど、この映画を観ていると、今の山谷の状況とずいぶん違うものですから、あのときのあの感じが途切れてしまったのはどうしてなのかなあ? そんなことを考えました。それがなぜなのか、自分の問題として考えたいと思います。今日、この映画をご覧になったみなさんも、いろいろ感じたこと、考えたことがあるのではないかと思います。わたしはそれを是非お聞きしたい。これは30年前の映画ですけれども、この映画を今なお上映し続けているという意味、この映画を観るという意味、そういうことを、ただわたしが話すだけでなく、みなさんにもお聞きしたいと思います。
それでは玉三郎のことをお話しますけれども、ここは舞台とは違うのでちゃんと話せるかどうかすごく不安だったものですから、書いてきたものを読みますので、聞いてください。
わたしは、この場に登場してくれないかとお話をもちかけられたとき、大変途惑いました。果たして自分に何を話すことがあるのだろうと。事実として玉三郎とは20年間、「さすらい姉妹」を共にしてきたけれど、玉三郎の何を語ればいいのだろう。『山谷やられたらやりかえせ』との繋がり、今現在に繋がる話をするなら、何を話せばいいのか。毎日考えました。それをつかめないままパッと思ったことがありました。
ここに居るのはわたしではなく、玉三郎であるならよかった、ということです。映画に映しだされた当人であるし、あの時代をリアルタイムで生きてきた、そのことを玉三郎の視点で話しただろうし、山谷の労働者でもあった玉三郎こそが、この場にもっともふさわしかったとつくづく思ったからです。玉三郎が死んでしまってから追悼の場のここに、わたしが呼ばれるのは何とも残念でなりません。
玉三郎が死んでしまって、お葬式のとき多くの人が集まりました。たぶん争議団の中村さんの考えだと思いますが、参列した人全員で玉三郎のお骨を拾いました。関係の深い、浅い、仲の良い、悪いなど一切関係なく、みんなで拾いました。順番も何もありませんでした。最後まで看病した「あうん」の人たちや、最も関係の深い人たちだけが拾ったのではないのです。玉三郎の死を私物化せず、解放したのだと思いました。そのことはとても強烈にわたしの心に残っています。追悼という共通の感覚がより深く人々の心に沁みたのではないかと思いました。そしてその感覚というのは、人の死というのはそういうものだと思いますが、いつもは話をしない者同士や、仲が悪かったり考えが違う者同士が、閉ざしていた心を開いていくように誘うものかと思います。
わたしにとっても、玉三郎のことは十分に知っているが、彼が「さすらい姉妹」に出演していたということはあまり注目されずにきたのではないのかなと思って、玉三郎が生きているとき、「さすらい姉妹」の舞台を観に来てほしかったという気持ちがとっても強いんですけども、そういう状態から関係の回路が出てきたようなことがこの間ありました。上映委の方たちともほとんど話をしたことがなかったですし、玉三郎の追悼という共通の感覚でわたしに声をかけてくださったのかと思います。たとえ一瞬であろうと、回路を開こうとしてくださったのかと思います。そのことを、わたしがどんなに途惑いがあろうと、お話を受け、わたしは心を開きますということで、応えようと思いました。わたし自身が心を閉ざしていたことを考えさせられました。
いろんなやり方や意見の違いがあるにせよ、今の世界の流れを何とか食い止めようと強く思っている同志なのだから閉ざしてはいけないと自分に言い聞かせています。この映画も、今、佐藤さんや山岡さんが考えてもいなかったであろう、志を同じくした者同士の政治的分裂の只中にあると聞きます。「さすらい姉妹」も芝居を持っていく現場の分裂の只中にあります。玉三郎は「働く仲間の会」もやっていたし、山統労主催の盆踊りでも踊っていたし、争議団、山谷労働者福祉会館の盆踊りでも踊っていました。敵対する二派、三派、何派でも全部またいでいたと思います。芸事の人間には、政治の流儀は通じません。両またぎで生きるのが芸事にかかわる人間の仕事だし、力だと思います。こういうことを考えながら、ここに来ました。よろしくお願いします。

山谷を歩いていると、「よお、玉!」と仲間が声をかけていく

小見 ぼくは1998年に「寄せ場にたった女優たち」というインタビューをやったことがあります。その3回目に千代次さんに登場してもらいました。そして第4回目に「女優」ではない玉三郎さんを特別編としてインタビューしました。資料としてお配りしたインタビュー記事がそれです。今の千代次さんのお話で玉三郎さんとの20年ものかけがえのない盟友関係のいったんがおわかりになったと思いますが、彼の芸についてもう少し話してください。
千代次 玉三郎はやっぱり芸を持っていたと思います。最初に玉三郎を引きずり込んだのは、彼が踊りという芸を持っていたからでした。わたしは、山谷の夏祭りなどで玉三郎の踊りがすごく喜ばれていたのを知っていたのです。それでわたしは「どうしてその芸をもっともっと生かさないの」とけしかけて誘ったのです。
小見 千代次さんは寄せ場とも長くかかわってきていますけど、水族館劇場の前身の「曲馬舘」の頃、1970年代後半だったと思うけど、芝居のなかで「泪橋エレジー」という歌を使っていましたよね。実は『山谷やられたらやりかえせ』には、かつてはプロモーションフィルムと呼んでいたのですが、予告編があります。その11分もの長い予告編には「泪橋エレジー」が使われています。千代次さんとは、そういう繋がりもあります。
千代次 それは知りませんでした。でも、私は長いといっても浅いのです。玉三郎をどうしてわたしが引きずり入れようと熱心になったかというと、やっぱり彼が寄せ場の人だったからなんですね。玉三郎は、山谷の町を歩いていると、「よお、玉!」と声をかけてくる仲間がたくさんいる。わたしみたいに寄せ場で芝居をやるためにポッと飛び入りしてる者にとっては、玉三郎のような人と知り合ったということはすごく力になった。それと山谷の労働者たちだけじゃなくて、支援活動に入っている活動家たちにも、玉ちゃんはけっこう言いたいことを言ったりしていて、いろいろな人間関係を全体的に持っていた人だった。そういうところが、わたしにとっては、彼と知り合い、一緒に芝居をすることの嬉しいことでした。
小見 ぼくは、この映画の最初の監督・佐藤満夫が殺されてから、山谷へ行くようになったのですけど、これは平たく言えば支援に入るということですよね。そうすると寄せ場の労働者がいて、いわゆる活動家の人たちがいるという人間関係の中に入っていくわけですけれど、最初の頃はそうした人たちと立ち位置が微妙に異なるので、うまく話ができなかった。そういう経験がやっぱりありますね。だから、玉ちゃんと知り合い、インタビューしたり、「世界」という立ち呑み屋で酒をおごってもらったりという関係がつくれたことでだんだん中に入っていけるようになった。ぼくにとって、彼は、いわばある種の媒介のような存在だった。そういうことなんですけど、千代次さんはずっと玉ちゃんと「さすらい姉妹」で一緒に芝居してきたわけでしょう。玉三郎観をもう少し詳しくしゃべってくれませんか。

「芝居で腹は膨れないけれど、心は満たしてみせまする」

千代次 最初の頃のことで憶えているのは、わたしたちは「開演時間を6時半」と決めていたのですけれど、玉三郎が「6時に炊き出しが終わると、帰っちゃうお客が多いので、6時にしよう」と言いだしたんです。でも、他から来るお客さんもいるのだから6時半の開演時間を変えるわけにはいかないと、わたしたちは譲らなかったため、すこし言い争いになりました。大衆芸能の人たちは、時間にルーズというか臨機応変的な感覚なのかな。玉三郎を通して大衆芝居の世界を感じとったし、玉三郎のほうでも「大衆芝居ってだけじゃつまんねえ、ひとひねりしないとサ」なんて言い出したりしました。1回目が終わって「今度はセリフもね」と言ったらイヤと言わなかったので、2回目の「瞼の母」という芝居では、玉ちゃんに忠太郎をやってもらったのですが、玉ちゃんのセリフは棒読みで、下手くそで、どうしようかなあ、と心配したことがあった。ところが、その下手さが、だんだんむしろ魅力的な味わいに感じられるようになってきて、風情の魅力だ!と感心したことがありました。
あと、これは芸の話ではないのですけれど、最初のとき、「何で山谷に来るのか」と玉三郎に問われてドキリとしたことがあります。その問は別にわたしに対してだけ発せられたものではなくて、山谷にやって来る学生さんとか女性たちに対しても、「何で山谷に来るんだ?」「お前なんかの来る所じゃない」とよく言っていましたので、玉ちゃんの一種の儀式だったのだと思います。最初にその詰問を受けたとき、わたしは答えられなかったのですが、わたしはこの場に立ちたいのだ! という気持ちは強かったので、それは玉三郎に伝わったと思います。
それから「野垂れ死んでいく者たちの気持ちもわからないくせに、よく芝居ができるな」と言われて泣いてしまったこともありましたけれど、野垂れ死んでいくのは山谷の人だけに限らない、自分だってそういう運命の人生を生きているとどんどん感じるようになってきたのだから、どんどん動じなくなります。
この言葉は、わたし何度も紹介していますのでお聞きになった方もおられるでしょうが、佐藤満夫監督は「映画で腹は膨れないが、敵への憎悪をかきたてることはできる」と言っていますけれど、そういう思いで山谷に乗り込んで行ったのだと思います。佐藤さんは、山谷の労働者ではなかったわけですけれど、そういう信念で『山谷やられたらやりかえせ』という映画を撮ろうと決意されたのだと思います。わたしは、その佐藤さんの言葉をお借りして、「わたしたちの芝居で腹は膨れないけれど、心を満たしてみせまする」という思いでやってきました。今でもその気持ちは変わりません。
小見 以前、千代次さんにインタビューしたとき、千代次さんの芸能観についていろいろお聞きしましたが、娯楽ということについて、特に寄せ場における娯楽についてどのように考えているのか、お聞きしたいのですが。
千代次 巷に溢れているのはメチャクチャつまらない娯楽が多いですよね。わたしたちは大衆芝居の人間ではない。昨年、毛利嘉孝先生が(芸大の先生なので、思わず「先生」と呼んでしまうのですが)「さすらい姉妹」の山谷公演にかかわってくれ、「とても面白い体験だった」と言ってくださったのですが、わたしたちも大学の先生と寄せ場の労働者たちと共に芸能の場をつくれたことがすごく面白かったんですね。その毛利先生が「フェイク(偽物)こそ本物なんだ」ということを言っているのですが、わたしたちは「ニセモノ」なんですね。なぜって、わたしたちは「大衆芝居」の劇団ではないし、芝居で食っているわけではないからです。でも、本物の大衆芝居に負けない面白いものをやっているつもりです。傲慢な言い方ですけど、そう思っています。
小見 実は、ぼくらもかつて山谷で「月例映画会」という催しをやっていたことがあるんですよ。
千代次 この『山谷やられたらやりかえせ』の上映会を、ですか?
小見 そうじゃなくて、たとえば『無法松の一生』とか『幕末太陽伝』といった普通の商業映画の上映会です。上映中に酒を飲んで大声を上げる者とか、チョロチョロ歩き回る客がいたりで、娯楽を提供するのもなかなか難しいなと思いました。でも、いい映画会だったんですよ。『無法松の一生』のラストのほうのシーンで、三船敏郎扮する無法松に対して、まあスクリーンに向かってですが、「起て!」「死ぬんじゃねえぞ!」とか、大きな掛け声をかけたりするんですよ。

映画を上映し続ける、芝居をやり続ける

千代次 「山谷」の映画は、もうずいぶん長く上映活動が続けられているようですけれど、どういう方たちに観てもらいたいのですか?
小見 できるだけ多くの人に観てもらいたいですね。
千代次 山谷の人たちにも?
小見 もちろん山谷でもずいぶん上映会をしています。
千代次 どういう反応なのかな? わたしは寄せ場での上映会には行ったことがないので、知りたいのですが。
小見 当初は、「おっ、俺が映ってる!」といった観かたをする者も多かったですね。なにせ、この映画の主人公たちが観客でしたから。自分たちの現場を撮ってくれた映画として観られてきた。
千代次 今はどうなのかな?
小見 どうなんでしょうか? この映画に登場していて、今も山谷で活動している人が今日は何人か来てくれているので、話を訊いてみましょう。
荒木 当初はやっぱり「あっ、映っている」といった反応で観てた者が大半でしたけど、今はもう映画に登場しているわしらの世代は少なくなってしまいましたので、そういう観客はほとんどいませんよ。クールというか。ただ、わしらにとっては、この上映会が開催されると80年代の騒然とした山谷の時代を生きた仲間たちと出会えるので、そういう意義がありますよ。
千代次 知ってる人に出会ってどうするの? 再会してどんな話をするの?
荒木 今どんな暮らしをしているかといった話や、もう体が動かなくなったので山谷で生活保護を取ってるよ、といった話しですよ。
千代次 わたしがわからないのは、この映画の批評じゃないのですけども、この映画を今、上映している意味というか、それについてどう考えているのかなということなのですが。
小見 よく言うのですが、まあ、なかなか辞めるきっかけがないのでこの上映会をだらだら続けているんだよ、と。これは冗談なんですけど(笑)。これまでの上映会の歴史を振り返ると、観客1人のときもあれば、大勢の観客を集めたときなどいろいろありました。フィルムは同じなんですけど、上映会の時、場所によって全然雰囲気が違うんだけれど、しっかり観てもらえてきたと思います。つまり30年も上映会が続けられてきたのは、フィルム自体に力があって、持ちこたえてきたからではないかと思うんですね。これはぼく個人の意見ですけど……。
千代次 どなたかご意見を聞きたいと思いますが。
オリジン 寿越冬闘争実行委員会事務局長のオリジンです。久しぶりにこの映画を観たのですが、登場人物の1人のおっちゃんなどは、今も健在で、うちの4階の事務所へ飛び込んで来て「何か食わせろ」と喚き散らす、めっちゃ面白いおっちゃんなんですね。このおっちゃんは、生活保護を受けて市営住宅で暮らしていたのですけど、家賃を滞納して追い出され、寿町に舞い戻ってきたのです。ぼくのところに相談に来たとき、「何とか生保を繋いでくれ」と頼みに来たのかと思ったら、まず、「金、貸してくれ」「メシ、食わせろ」なんですね。すごくしたたかなんですけど、ああこんなふうに人間は生きられるのかと感心したというか……。厚かましいのだけれど、生き抜くためには何でもやる、みたいな前向きさが感じられて、ああ、こんな人間がいっぱいいたら自殺者も減少するだろうにと思うんですね。このおっちゃんは、かつては一晩に一升酒を飲む豪傑だったけれど、今もなんとか生き抜いている。そういうおっちゃんと話しているのはけっこう面白い。さっき千代次さんが言っていたことですが、ぼくも寿の越冬に大学生の頃、参加したときは、「学生のくせに何しに来たんだ」とおっちゃんたちからいびられたり、逆に「ジュース、おごってやるよ」と百円玉をくれるおっちゃんもいた。そんなとき「支援に来ているのでもらえない」と返したりすると、「俺は一度出したものは引っこめねえんだ」と百円玉を目の前にぶん投げられたこともあった。
寄せ場は変わってきた。けれども、変わっていないものがあるとすれば、社会的な排除リスクで、これは今も根強く残っている。重層的下請け労働システムにより下層労働者が寄せ場に集まって来た時代もあれば、バブル全盛時代に地上げで住む家を奪われて高齢者がどんどん寄せ場に流れて来た時代もあり、そして今の寿町は住民の8割が生保受給者たちといった「生活保護者の街」に変貌しています。実は、今のほうが非常に生きにくくなっているのです。貧困の連鎖に伴う子どもの問題解消などには力が注がれていますが、寄せ場のおっちゃんたちの存在は棄民化政策に組み込まれたままだからです。にもかかわらず、努力した者は報われる社会です、などと喧伝されていますが、努力しても全員が報われる仕組みがあるわけではなく、むしろ負け組のおっちゃんたちはどんどん生きにくい状況に追い込まれているんですね。そういう社会状況が推し進められている中で、30年前、山谷の棄民化された労働者たちの事象をドキュメンタリーとして問題提起したこの映画の上映活動は、今も十分意義があるとは思います。現場では、そういう討論をしています。
小見 ところで、千代次さんの主宰する「さすらい姉妹」も発足してすでに20年ですよね。
先ほど「山谷」の映画は誰に観せるの? という鋭い指摘を受けましたけれど、「さすらい姉妹」はどんなお客を対象にしているんですか。それと、芝居を続けてきたエネルギーってどういうものだったのか、お聞きしたいですね。

芝居の中にどんどん入ってくる
山谷のお客さんは上客なんです

千代次 発足した頃は、20年前ですからやっぱり闘いの実感みたいなものがあったかな。だから、寄せ場の人たちの闘いを支援したいという気持ちが強かった。でも、その後どんどん社会状況の変化があって、闘いのモチベーションがどんどん低下したことは否めません。釜ヶ崎に行ったとき、知り合ったおじさんから「生保を受けろよ、楽だぞ」と言われたりして、「えっ?!」と絶句したこともあった。闘いの場がどんどん少なくなってきたとき、では、どんな目標を持って「さすらい姉妹」を続けていけばいいのだろうか、とモチベーションが揺らいでいた危機の時代が何年かありました。ですけど、やっぱり芝居が好きで、見せたいというか、場に立ちたいという強い気持ちがどうしようもなくあったんですね。だから続けてこられたのだと思います。それと山谷のお客さんは、わたしにとって上客だったということです。「大根」とヤジられることもありますけれど。
劇作家・三好十郎の本を読んでいたら、「三階席の客」という文章に目がとまりました。三階席というのは劇場の最上階の料金の一番安い客席なのですけれど、三好十郎は「その三階席のお客がどういう反応するかというのが一番興味がある」と言っているのです。わたしが山谷のお客さんを上客と言うのは、三好十郎が一番興味があると述べている「三階席の客」と通じるところがあるからです。帰るときにも、まだ芝居を心に残していて、あの男はほんとうに悪い奴だったなあとか、あの女はほんとうに可哀想だったな、といった感情をそのまま残して帰ってくれるからなんです。芝居とそれを観ているお客の関係というより、もっと芝居の中に入りこんでくれていて、舞台と観客の結界など簡単に乗り越えてくれる、そういうところがわたしが山谷のお客さんを上客と思い、好きなんです。
小見 山谷の客は上客だというのは、実に良い話ですね。
千代次 また「山谷」の映画の話になっちゃうんですが、わたしがこんなことを言っちゃうのはいけないと思うんですけど、でも言おうと思います。さっき映画の最初の暴動シーンに胸がドキドキしたという感想を述べましたけれど、その後の闘争に立ち上がった労働者や活動家たちが手配師や飯場の経営者たちを糾弾するシーンにはちょっと興醒めしました。その現場にいた三ちゃん(三枝)たちが来ている前でこんなことを言うのは申し訳ないんですけど、活動家の人たちの言葉や口調や表情がみんな同じで、つまんないなあ、という感じに見えてしまったからです。手配師や飯場の経営者たちのほうが、わたしは彼らを支持しているわけではありませんけれど、何か人間臭い感じで面白いなと思っちゃったのです。これはわたしの感覚的な印象であって、政治的な文脈で言っているわけではないのですが、こういうことだから闘争は続かなかったのではないか、という感覚を持ってしまったのですが……。
三枝 今、千代次さんが話した糾弾されている手配師や飯場の経営者のほうがなんか人間的な感じがして面白いという感覚は、ぼくもこの映画を観ていて感じました。そしてビビっと頭に浮かんだのは、フォーク歌手・友川カズキの「生きてるって言ってみろ」という激しい歌でした。労働者は手配師たちを激しく糾弾しているんだけれど、千代次さんが感じたように、言葉や口調が左翼の活動家たちのコピーというか、何か教条的でパターン化した感じて、生きている感じじゃないという印象なんですよね。そういうところが運動を行き詰まらせた要因だったんじゃないかな、と思いますけれど、では、どうしたらいいのかってことは、今浮かびません。
荒木 争議団の一員として、この映画を観て一番嫌だったのは、自分たちの運動の未熟さがもろに映し出されてしまっていた点だった。わしらは、後ろの仲間たちの気持ちを単に代弁するんじゃなくて、もっと労働者の気持ちを思いっきり引き出すために、前で演じなければならなかったのだと思う。
風間 さきほど千代次さんが、政治の狭さみたいなことを言ってましたが、芸能に比べると、確かに政治は狭い。政治の世界というのは、非常に狭い枠内で対立、分裂してしまうということが現実としてあると思うんですね。それぞれが労働者のためと言いつつ、分裂し抗争している。やはり運動をつくっている側としては、自分たちは正しいのだということを労働者に訴えて、労働者がどう立ち上がるかということで物事を決めていく。ただ、たとえばセンター前で手配師を糾弾する労働者たちの表情や言動が教条的でつまらないという指摘には一考の余地があるのではないか。あのような運動の状況をつくる過程、つまり手配師や暴力団に対して争議団という組織や労働者が、彼らを糾弾していく状況をつくるまでにどれだけの人間が血を流し、あるいは逮捕されたのか。そういう流れのなかで支配関係を変えてきたという背景があるからです。確かに、みんながそろって相手方を糾弾する労働者たちの表情は面白くないかもしれないけど、その背景も見ておく必要があるのではないかと思う。
もう一つ、この映画は山谷の事象を映しているけれど、単に山谷のことを、監督の山岡さんは映そうとしていたわけではなくて、山谷や、山谷の労働者はどうしてつくられてきたのか、その歴史と構造を映し出そうとしていたのだと思うからです。その問題意識は、現在においても、たとえば寄せ場の全国化とか釜ヶ崎の全国化ということが言われ、非正規労働者、使い捨ての労働者がものすごく増えているという事象にもみてとれると思います。かつて炭鉱労働者が使い捨て労働者として動員され、石炭の時代が終わるや棄民化されたように、現在も形態こそ違うけれど、非常に劣悪な労働条件で働く使い捨て労働や棄民化は続いていますし、外国からは研修生という形で動員されている。こうした構造的な問題を先行的に問題提起しているこの映画が今も上映活動を続けていることには大きな意義があると思います。ですから、政治の狭さという批判は、その通りだと思うのですが、構造的な諸問題をどのように変えていくかという課題はずっと残っていると思いますので、そういう観点で考えることも重要ではないかと思います。
千代次 この映画を観て、政治的じゃない方は、どう思われたのでしょうか? それが、わたしにはとても興味があるのですが……。
小見 そうですね。非常に興味深いんですけど、そろそろ時間です。千代次さんに一言、しめてもらって終わりにしましょう。
千代次 玉三郎への思いは強いのですけれど、思い出話をしている暇はないです。
小見 決意表明のような力強いしめでした。本日はどうもありがとうございました。

(2017年1月14日中野富士見町plan-B)

2017年1月14日

plan-B 定期上映会

千代次に聞く――山谷の玉三郎と「さすらい姉妹」
お話し/ 千代次 (水族館劇場・さすらい姉妹)

山谷の玉三郎が亡くなった。映画「山谷やられたらやりかえせ」の夏祭りのシーンでの艶やかな姿が印象的だが、あれから30年。2016年7月町屋の斎場で100人近くの友人知人に見守られ、最後にみんなの拍手におくられ逝ってしまった。
大晦日、山谷労働センター前、踊る山谷の玉三郎に声がかかる。「よー、玉ちゃん」「タマ〜」恒例の「さすらい姉妹」での玉三郎の姿だった。
そこで、今回「さすらい姉妹」や水族館劇場で山谷の玉三郎と協働・共演してきた役者・千代次さんに玉三郎のことを語ってもらう。そして、山谷の玉三郎がこだわっていた「芝居」「芸能」への想いも…。

*さすらい姉妹――1996年から現在まで年末年始に寄せ場の路上などで千代次さんを中心に行っている路上芝居。山谷の玉三郎が参加したのは1997年「根雪の還る海」から。その後、玉三郎は水族館劇場にも出演している。

2016年10月8日

「山さん、プレセンテ!」

於、日暮里 ART CAFE 百舌

上映後、「山さん年代記」
山岡さんのたどってきた軌跡を、時代 順に、当時山さんと場と時間を共にした 仲間たちとたどり直します。時代の情景 の風貌、その中の山さんのたたずまいが 浮かび上がればと思います。

2016年9月17日

plan-B 定期上映会 <山岡強一虐殺 30年 山さんプレセンテ!>

第5回 サパティスタはなぜこの世界に登場し、そしてそれはこの世界の何を変えたのか?
講演 / 太田昌国(民族問題研究、シネマテーク・インディアス)

plan-Bでのシリーズ「山さん、プレセンテ!」の第5回目、このシリーズはこれで終了し、10月の8、9日の両日に行われる「山岡強一虐殺30年 山さん、プレセンテ!」本集会へと接続してゆきます。

本シリーズは、第4回(平野良子=在日朝鮮人たちの運動との〈接点〉)を除いて、山岡さんが不在となって以降の世界の「変容」の、もし山さんが「ここにいる」なら必ず注目し、考え、行動したに違いないいくつかのこと――天皇制の変貌(天野惠一)、被曝労働の実態(なすび)、欧米を標的にしたテロルの根拠(鵜飼哲)についてお話をうかがってきた。今回は太田昌国さんをお招きして、標題のテーマをめぐって考えていきたい。

1994年1月1日、メキシコ南東部のチアパス州で先住民たちが武装蜂起した。その日は、北米自由貿易協定(NAFTA)の発効する当日であり、蜂起軍はその協定を批判し、「先住民族に対する死刑宣告にひとしい」と断じていた。けれどもそれは「奇妙な」蜂起だった。サパティスタ民族解放軍(EZLN)と名乗る蜂起軍は、たしかに警察や軍事施設に攻撃を加えたが、(臨時)革命政府の樹立を宣言したり権力奪取の行動はとらずに、中央政府に「対話」を求めたのである。

その後、ラカンドンの森に帰還したEZLNは「叛乱副司令官マルコス」の名と声で矢継ぎ早に声明を発していく。それらは、それまでの左翼の「常識」をくつがえす、驚くべき新鮮な内容の数々であり、みごとなメディア活用手腕もさることながら、その魅惑的な言いまわしによって「世界」の人びとの心に染み込むように届けられた。

今回、トークをお願いした太田さんは、サパティスタたちの言動にいちはやく注目し、細やかな紹介や分析の文章を執筆され、また編集者として数多くの書籍をまとめられてきた。また同時にボリビアの映画製作者〈ウカマウ集団〉との共同制作の映画を、このクニで自主上映もされてきた。その経験のうえで、サパティスタ出現の前後から、この「世界」の変容を語っていただく。

山岡強一 虐殺30年 山さん、プレセンテ! ── 報告

  J・コルトレーンの「グリーンスリーヴズ」から始めようとしたが失敗した。大雨でテント設営作業が寸断され、準備が玉突き的に遅れたためだ。客入れ用に用意したコルトレーンは鳴らず、無音のテントにざわざわと参加者が入ってくる。こうして「山岡強一虐殺30年   山さん、プレセンテ!」集会の2日目(10月9日)は始まってしまった。

もともとこの集会は、昨年広島で開かれた「船本洲治決起40年・生誕70年祭」の後を受けたものだ。「来年は山さんの30年ぞ。東京でやりんしゃい」というわけだ。船本や山さんのことはこの「支援連ニュース」の読者にはあらためて紹介するまでもないだろう。船本さんは東アジア反日武装戦線の一斉逮捕直後の一九七五年6月25日に沖縄・嘉手納基地前で焼身自殺を遂げ、山さんは一九八六年1月13日に右翼ヤクザによって新宿区の路上で射殺された。その山さんの、30年。

   ■……1日目/三河島・百舌……■

2日目は雨の中での準備だったが、1日目は三河島のアート・カフェ百舌というフリースペースでの映画上映と「山さん年代記」。映画はいうまでもなく『山谷   やられたらやりかえせ』だ。このドキュメンタリー・フィルムは、一時期をのぞいて、とにかく30年間上映され続けてきた。フィルムに定着した画像や音は不変なはずなのに、そのときどきで、カラダに入ってくる映像や音の流れは変わってくる。一昨年暮れの佐藤満夫30年「なにが意気かよ!part2」では、やはり佐藤さんの息づかいが前面にセリ出してきた。いまでもプランBでの「定期上映」には、この映画が完成した頃にはまだ生まれてもいなかった若いモンがコンスタントにやってくる。百舌での上映でも約百人中3割くらいがそうした若者たちだった(気がする)。若者たちは何を目撃しているのか?   おそらくは自分と地続きの問題をこの映像から引きずり出しているにちがいない。ドキュメンタリーは持ち帰るものなのだ。その場で映像をテキストとして小料理し味わったりするものではない。

と、さて「山さん年代記」。山さんの年譜(68年〜86年)に沿って、時代の雰囲気や闘いの実相、そのときどきの山さんのたたずまいなどを、当日参集したかつての友人たちを進行役(ぼく)が勝手に指名して語ってもらおうというものだ。なにせ短くても30年前、起点はそのまた18年前に遡るし、話す人もそれ相応に年齢を重ねているので、どうなるものやらと不安でいっぱいだったけど、青年期の記憶は立派なもので、わりとみんな鮮明に語ってくれた。山さんの残した文章を読んで抱く「ムズカシイこと言う山岡強一」像から一歩だけ距離をおいて、生身(なまみ)の山さんを立ち上がらせたかったんだけど、どうだったんだろう?   ただ青年期の記憶にも取り違えはあるもので、その場で「40年前の記憶」が更新される場面もあって、却って生身をさらしたのはこちら側だったりした(というわけで、パンフレットの4ページ目、6・25船本洲治焼身決起→仕事先(飯場)のテレビで知る」は「→広島で知る」に訂正します)。
  
「言葉そのものを取り戻さなければならない」と、山さんは四十数年前に語っていたというが、その後、映画完成時に「この映画には機関銃のように言葉が必要だ」とも言っていた。この日の「年代記」はそうした「言葉」をつかみ取るという目論見はなく、「雲の合間」のような時間帯ではあったけれど、案外、そうした敷居の低いところに「ぼくたちの言葉」がうずくまっているのかも知れないな。

   ■……2日目/隅田公園山谷堀広場・テント……■

午前中に大雨の中で建て込んだテントは、そのつい1週間前まで野戦之月海筆子が芝居をやっていたものだ。その芝居ではかつての風の旅団が86年秋に公演した『火の鳥』のサブテーマ曲「野戦の月」が再び歌われた。「野戦の月」とは、山さんの北海道時代の友人・米山将司さんの山さん追悼詩のことだ。

実はこのテントは一昨年にこの同じ場所に建てようとしたが行政から拒否された。そして一年間の準備を経て昨年やっと1日だけ建てて芝居を実現させたものだ。野戦の人びとには悪かったが、今年はその経験を「山さん、プレセンテ!」で使わせてもらうことにした。ぼくが何より今回のことでこだわったのは「場」の成立のさせかただった。つねに排除される者たちが都市の隙間を衝いてぬけぬけと自分たちのやりたいことをやり抜いてしまうこと。もちろんこの地は山谷の会館活動委員会のメンバーたちが「共同炊事」をずっと続けてきた場所だ。その蓄積のうえに今回のテント、つまり「場」も成立し得た。その意味では、その「場」をほんとうに支えたのは共同炊事に集まってくる者たちであったといってもいいだろう。そしてそれは「言葉そのものを取り戻す」ことと同等の、ぼくらの「文化」の有り様を指し示しているのではないかと思う。

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さて、そのテント。その中で何がどう語られたか?   かつての山谷ー寄せ場の闘いの当事者たちの話の大筋はパンフレットに収められているのでぜひ一読願いたいが、発語としてはどれも、ためらいがちのようにぼくには聞こえた。それはそうだろう。西戸(皇誠会)→金町戦が「敗北」であったという共通の認識から出発したから、威勢のいいことはまずは言えない。けどドンマイ。どんな発言であろうと、それに虚飾がなければ、ぼくらはぼくらに必要なものを引き出せる。山谷ー寄せ場の闘いは、それがどんなものであろうと、それだけの内実を伴わざるを得ないものだ、とぼくは思っている。

安田弁護士の、山さんの勾留執行停止の話。着ている服を交換したことなど、前日の「年代記」に入れたかったなあ(安田さんの『「生きる」という権利』という本の中でも語られています)。内海愛子さんの凄み。「アジア人ロームシャのことは補償はおろか調査さえされていない」という指摘は、映画『山谷   やられたらやりかえせ』の末尾に映し出される「ロームシャ」という文字の背景を、そしてそれを入れ込んだ山さんの眼差しの先をきっぱりと明示した。
そこでメシ。共同炊事に横合いから割り込んだかたちだが、今回はご勘弁を。共同炊事についてはいま出ている寄せ場学会の年報(28号)で特集を組んでいるのでぜひ読んでください。それにしても、眼前のメシは映画に劣らぬドキュメンタリーだろう。メシ、ではなく、そのイミをみんな持ち帰ったにちがいない(はずだ)。

そして切迫する事態が続く沖縄からのアピールに続いて、「討議」の3人(山谷労働者福祉会館活動委員会、フリーター全般労働組合、茨城不安定労働組合、の3人)。もう話の内容を紹介してる字数もないけど、3人ともやわらかい(?)口調ながら、自分たちの運動に自信ありげな感じだったなあ。根拠は何だろう?   みんな組織性の困難さを抱えながらも、組織のほうではなく、個人個人に信を置いてるからかな、と思った

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……リュウセイオー龍、パギやん(趙博)、コテキタイ2016による「文化祭」は、うん、まあこんな感じ(写真)。

山さんは今年(数えで)喜寿を迎えた。

                                                                         池内文平  (「支援連ニュース395号」より転載