行政の排除に抗して――竪川や荒川での野宿者のたたかい

向井宏一郎(山谷労働者福祉会館活動委員会)

山谷―寄せ場のゆるやかな解体
向井といいます。山谷の映画は84、5年だから30年前ですか。今の山谷の街、それから映画に出てきた山谷の労働者、そして運動ですね。山谷での社会運 動がどうなってるのかという話を映像も交えて話していきたいと思います。で、皆さんの手元にお配りしている資料が二つあると思います。一つは「インパク ション」という雑誌にこの春に載った文章です。山谷の街っていうのは寄せ場の解体、緩やかな解体がここ20年、30年かけておこなわれていて。今は、かつ ての寄せ場としての機能は、非常に縮小されてしまっています。今、山谷の街がどうなってるのかって言うと、寄せ場の解体っていうのが一つのキーワードかな と思います。
1980年くらいまでは、寄せ場、つまり「日雇い労働者がドヤに泊まって、そこから日雇いの仕事に行く街」として全国各地にありました。使い捨てのきく 労働力として、何千、何万の人が小さな街に囲い込まれる形で。そういう寄せ場が国とか資本の要請があって、作り出されたというのは間違いありません。例え ば、オリンピックの前後に山谷の真ん中に、政府の大臣が来て、「とにかく土木の仕事が大事だから皆さん頑張って欲しい」みたいな挨拶をするということも あったそうです。だから本当に必要とされて、権力、資本によって作り出されたものなんですね。それが、バブルの時期を境に徐々に日雇い労働というのが形を 変えて、その10年後、物凄い勢いで社会全体に広がっていった。具体的には派遣労働であるとか非正規労働という形になってると思うんです。今、土木、建築 の日雇いの仕事は、寄せ場からの求人が凄く少なくなっています。なくなったわけじゃなくて、例えば新聞広告であるとか、それから工務店が人々を自分のア パートに住ませてそこから仕事に行くっていうのが主流になった。それが80年代、90年代からだったと思うんです。とにかく寄せ場から日雇い労働者が仕事 に行くというのが、労働力のルートとしては縮小されていった。それで、90年代の半ば、バブルの崩壊があって。それがやっぱり凄かったんですよ。
この「山谷労働者は寄せ場の系譜を突きつける」っていう文章を見ていただければと思います。「インパクション194号」の記事です。一番上の段落の、真 ん中くらいに書いてあります。「ここ20年間、山谷でおこってきたのは、寄せ場(日雇い労働者の特定の地域への囲い込み・集中)のゆるやかな解体だ」と。 バブルの崩壊の時がたぶん一番山谷の中に野宿者が増えた時だったんですよ。それまでドヤで寝泊りして、ドヤっていうのは簡易旅館、安宿ですね。今だとベッ ドハウスで1,000円くらい。個室だと2,200円とか。ビジネスホテルだともっと高くなっちゃうんですけども。そういう所に泊まって日雇いの仕事に 行っていた仲間が、バブルの崩壊の時に大量に山谷の街の中に吐き出されるということがありました。これが一つのきっかけだったんです。山谷の労働者がどう なったか。一言で言えないんだけど、あえて言うなら野宿者になったと。野宿労働者として、野宿しながら公共地を占拠して、そこで暮らす一つの集団が生み出 されたんだと。それは、この文章の一番下の段落に書いてありますが、「解体されつつある寄せ場の労働者たちを母体として、一つの社会集団」、「社会集団」 と言っていいと思うんですね。それが形成され生み出されたと。「仕事を奪われたうえ、全ての施策から排除され、寄せ場から追い出された人々が、自前で公共 地に小屋を建て、勝手に住みはじめた」。これは物凄く大きな出来事だったと思います。本当に、全ての施策の対象外だったんですね。
僕がこういう運動に関わったのは1996年からで、18年くらいになります。その頃、野宿者、日雇い労働者が生活保護を取るのは、窓口から本当に排除さ れてたんですよ。生活保護の申請自体をさせない。がんばって申請すると職員十何人に囲まれて暴力で追い出される。そういうことが普通におこなわれていた時 期だったんです。だけど、ドヤから叩き出された野宿の仲間が役所に要求したかっていうと、そんなことしないんですよ、野宿者、日雇い労働者は。このこと は、権利要求とか施策要求という手段、戦術の限界みたいなものを暴露してるように思いました。ようするに自分の主権を誰かに預けてやってもらう、そういう ことの限界かなあと。この「山谷」の映画の頃、運動の中では権利要求ということについて、わりと原則的な批判が普通になされていた、そういう雰囲気があっ たと聞いています。でも今、社会運動で権利要求をやっちゃだめとか言ってるところはほとんどないです。だけど権利要求ってことを考えた時に、その負の側面 も考えていく必要があるなと思うんですよ。で、権利要求じゃなくて自分で勝手にやるんですよ、野宿の仲間、日雇い労働者っていうのは。そこは、一つの社会 集団が歴史的な過程で形成されたっていう感じが凄くします。で、日雇いの仲間が野宿労働者になっていったんですが、地域的に、山谷の街には公園、玉姫公 園っていう公園はあるんですけども、野宿ができる場所がそれほどないんですね。街の中ですからね。それで寄せ場が、仕事がなくなって、一つの政策というか 資本の意向によって解体される中、寄せ場の周辺の地域に仲間たちは広がって、その空間を占拠して住み始めるという形になります。

日雇い労働者運動から野宿者運動へ
皆さん、日雇いの周辺の階層って何だと思います、職業的に考えて。(会場からの声)「派遣」。うーん、確かに派遣、それもあるんですが、歴史的には収集 人なんじゃないかと思っていて。収集人ってわかります? バタ屋。例えば、敗戦直後、経済がつぶれて失業者があふれ、その時に日雇いの仕事ができない条件 の人が何をやったかというと、物拾いなんですよね。都市の周辺にバタ屋部落みたいなのが戦後すぐに形成されました。そして、バブルの崩壊の後にまったくそ れを繰り返すような形で寄せ場の周辺に野宿者の集住地帯が形成され、そして彼らがその物拾いを生業としながら日銭を稼ぐ。収集人って言うと硬いですけれど も、何かっていうとアルミ缶拾い、古紙集めなんですね。日雇いの仕事ができなくなった、高齢だったり体を壊したりの、そういう仲間が収集人として働き始め たっていう意味です。寄せ場の周辺にドーナツ状に占拠がおこなわれるようになって、日雇いの現場の仕事と収集人の仕事。仲間たちがそういう仕事をしつつ暮 らし始めた。
山谷の街で今、住んでる人は誰が一番多いかって言ったら生活保護の人です。それは間違いないと思います。だけど歴史的に見たら、そうじゃないんだよね。 仲間たちがそこで暮らし、仕事に行った山谷の地理的な、職業的な記憶っていうのが凄く深く刻まれてるなっていう。で、大事にしたいっていうか、何が重要 かっていうと寄せ場の日雇い労働者という集団、階級が高度経済成長の中のユニークな条件の中で作られて、生み出されたことだと思うんです。だから山谷の地 理に凄いこだわりはあるんです。この高度経済成長の中で形成された寄せ場の日雇い労働者は特殊な集団だと思います。今の日本ではもうありえないような非常 にユニークな集団です。彼らは今、山谷にいなくなったように見えるけれども、その周辺の地域で社会的な階層として、ドーナツ化したような形で仕事をしなが ら生きているということです。だから言葉どおりの意味では、山谷労働者の、日雇い労働者の運動を僕らはやってないんですよ。日雇い労働者の運動から野宿者 運動っていうのに運動がシフトしていって。それが90年くらいだと思う。90年代に新宿西口の闘いがありました。あそこを大きな契機にして、日雇い労働者 運動から野宿者運動へという形でシフトしていった。そういう経緯があるから、「野宿者」が持っている山谷、寄せ場の系譜、その記憶を引き継いでいる人たち が持っている特異性であるとか、そういったものに凄くこだわってやっています。
例えば、反権力性みたいなものをわりとみんなが普通に持ってるんです。役所に対する絶対的な敵対性みたいなものって絶対インテリにはない、サラリーマン にはないものだと思います。それは、(高等)教育で教え込まれたんじゃないんですよ。底辺の仕事の経験の中で何年もかけて培われてきた反権力性、もしかし たら他の社会集団でもこういうのが生み出されているところがあるのかもしれないけれども、僕は初めてです、こんな人たちと出会ったのは。あと仲間意識が物 凄く強くて。最も多く奪われた者であるっていう、そういうところからくる仲間意識っていうんでしょうか。普通、今、仕事の現場に入ったら上の方を見がち じゃないですか。少しでも条件がいいところに行ければいいかな、みたいなのがあるだろうし。野宿の仲間には、凄い断絶があるんですよ。いっしょに働く日雇 いの仲間と、そうじゃないボスとの間のね。そこは、絶対に越えない溝としてあるなあっていう感じがします。

日雇い労働者が尊重されていた時代
それでは、もう一つの文章を見ていただけますか。「90年代山谷から仕事に行っていた人の聞き書き」、これを見てください。今、言ったことの具体的な話 が書いてあります。この方は、女の人で、90年代に20代、30代で実際に日雇い労働者として山谷、高田馬場から仕事に行ってた人なんですよ。その現場の 雰囲気が第二段落に書いてあります。休みの時間がきっちりと12時から1時って決まっていて。それで、11時45分くらいになると、自分だけじゃなくて他 の業種とかいろんな系列の人が作業現場にいますよね。そのような人にも「そんな働くな」「飯行くんだよ、飯」というふうに言って、休憩時間は絶対に取るん だということが普通だったと。「重層的下請け構造」って「山谷」の映画の中でもありましたね。発注する会社があってそれを元請けの会社が受けて、そして業 種別に仕事をドンドン下におろしていくんです。それで、監督は現場では「一番偉い人」です。その人がまあ「一番いじめられる立場だった」って書いてある。 そういう感じだった。敵、味方っていうのが凄くはっきりしていて。ボウシンっていうのは労働者の中でも、労働者を束ねてスムーズに労使関係がつくれるよう に動く立場の人間なんですけども、そういった人間や親方の立場には絶対つかないということですね。こっち側とあっち側というのが凄くはっきりしてる、そう いうのが山谷全体に行き渡っていたっていう、そういう経験が書いてあります。
それで、この人は日雇いの仕事がなくなって、まあ日雇いは日雇いなんですけれども、寄せ場からじゃなくて、登録派遣から(半分グレーだと思うんですけれ ども)仕事に行き始めた。そうすると雰囲気が違っていて、仲間のつながりだとか、そういったものがもう完全になくなっていて。上の方ばかり向いてるという 印象を持ちましたっていう話です。今、飯場で働いてる人の話を聞くと、昔と全然違うっていう印象があります。けっこう殺伐とした感じ。今と昔の一番大きな 違いは、日雇い労働者が労働力として尊重されてたかどうかっていうことかなと思います。
日雇い労働者という集団が形を変えて野宿者へ。それに呼応して、運動も日雇い労働者運動から野宿者運動へ。そして今、収集人の活動、アルミ缶拾いをやっ てる仲間とアルミ缶古紙組合を作っているんです。この一年くらい前から持ち去り禁止条令とかいって、アルミ缶古紙の持ち去りを条令で禁止する動きが凄く激 しくなっていて。それが野宿者の追い出しや、襲撃事件にまでつながっています。そういった情勢に対し仲間と一緒に組合を作っていろいろやっています。それ が、「運動は今どうなってんの」という問いに対する答えかな。もちろん、いろんな人がいろんな視点で山谷をみてるわけです。人的な構成だけみれば、もうほ とんど生活保護者だからというんで、そのボランティア団体になったところもあります。それを事業としているところもあります。まあ、いろんな人がいろんな ことをやればいいと思います。ただ、個人個人が何かにかかわろうとする時、山谷の何をみて、誰と一緒に動いていくのかが、山谷に関わる時に凄く大事になっ てくるんじゃないかと思います。
【映像】城北労働福祉センター抗議行動
これが城北労働福祉センターっていう所に抗する取り組み、押し掛けなんですけど。二週間前の月曜日です。職員は基本はだんまりなんですよね。何も答えな い。たまに業務の支障になるんで出て行って下さいみたいなことを放送するだけ。公益財団法人ですね。奥にぼんやりと映っているのがSっていう管理係長でビ デオをずうっと撮ってますね。
(DVD音声)あのね、大勢で押し掛けてって言うけれども、別にこちらは話し合いの形については当然応じる準備がありますよ。今ね、大勢で来てるのは大勢 の人がこの問題について関心があるからなんだよ。ただそれだけだよ。で、多くの人がこのセンターに直接間接に関わってるわけだ。だから来てるってだけです よ。別に大勢でどうしようって話じゃないでしょう。ただ多くの人が、このワンカップの話なんてさあ、聞いたら、ええって思うじゃない。そんなことあるんで すか。ねえ、断られてる仲間は自分がどういう理由でカードを断られてるかっていう、それすらさあ、正式な説明は受けてないわけだよ。なあ。そういう仲間が 来ててさあ、そういう仲間に対して思いを寄せて一緒に来てくれてる人が大勢いるっていう。それだけだよ。別に何もおかしいことはないよ、なあ。こっちは話 し合いをして欲しいと。説明をして欲しいっていうそれだけじゃないですか。それ以外に特にないよ。だからさあ、大勢で来たから業務の支障になるっていう、 そういう言い方についてはちょっと違うんじゃないかと。そのことはここで言っておきますよ、ね。
センターっていうのは仕事の紹介をする窓口として作られたんですよ。そして日雇い職安が東京都内でも数ヶ所あったんです。この近くだと高田馬場の近くに ありましたけど、そういう所がつぶされていくんです。それが数年前のこと。ようするに日雇い労働者は減ってないんだけど、寄せ場経由ではない形で仕事に行 く人が増えていく中で、その寄せ場の痕跡みたいなものを、向こうは消していこうとしているわけですね。日雇い職安が一気に3、4個はつぶされたんだよね。 馬場とか高橋とか。城北労働福祉センターは、1960年代くらいからずっとあって、ここに登録すると仕事にも行けるし、パンももらえるし、施設に泊りに いったりもできるんですよ。そういう形で需要は凄くあるんだけれども、センター自身は、業務の縮小をして撤退をしたいっていうのがかなり透けて見えてい て。それで仲間の登録を断ってるんだよね。で、一緒に行った仲間が1月の15日くらいから5、6回登録を求めて行ってたんだけど、ずうっとカードを断られ ていた。その理由を向こうは言わない。で、こちらが東京都庁に「おかしいんじゃないの」って言いに行ったら、その日から三日連続で寝てる所にワンカップを 持って来て、「もうカードはあきらめた方がいいんだ。生活保護取りなさい」って言ってきたんです。それで、きたない買収をするなあと思って、張り込んでた んですけど、凄く寒い日だったんですけれど4日目かな、来るのを待ってたんですよ。そうしたら本当に来たんですよ。ゴソゴソとやって来た。「Mさん、何を 持って来たの」って言ったら、「何も持って来てません」って。でも、問い詰めていくと白状するんだけど。いきなりダッシュして逃げるんですよ。普通ありえ ないじゃないですか。東京都の職員なんですよ、彼は。山谷っていうのは、ようするに特殊な所だから普通の制度とか権利の保障は考えなくていいっていう、そ ういう感じなんだよね。行政としても。
参加者A センターってどこの団体なんですか。
向井 元は東京都の団体だったんだけど、外郭団体になって。今は公益財団法人。ようするに解消する定石ですね。それで、その相談室は1対 1なんです。今時は普通、応援の人が入れるんだけど。センターは相談室に応援の人は入れないんです。応援の人が入ると、そんなんじゃだめだと言って向こう が相談室から出ていっちゃう。そうすると、相談に来た人と応援の人がそこにとり残されて30分待っても来ない。そういうところです、山谷っていうのは。と いうか、階級ってそういうことだと思います。施設や法律は、一応、万人に平等であるってなってます。だけど、実際はそうじゃない。そういうのってなんとな く見えにくくされてるけど、こういうところへ来るとわかりますよね。それで納得してちゃだめなんだけど。
参加者A そういう現実に対して、担当役所や労働基準監督署、福祉事務所はどのように判断してるんですか。
向井 ここは法外施設と呼ばれるところで。法律的には、東京都の裁量の中で運営されてる施設なんです。職安は別ですね。職安は職安の法に しばられます。生活保護だったら生活保護法にしばられます。だけど、ここは裁量だから極論すればやらなくていいわけですよ。まあ調べれば公務員の何々と か、行政手続き法とかはあるんだろうけども、直接このセンターをしばるような法律っていうのはないんですよ。だから職安とは完全に独立してます。で、そっ ちはそっち、向こうは向こうでやってくれっていうような感じ。それで、センターがつくられた理由の一つは暴動対策なんですよ、山谷の。労働者が暴動でいろ いろ燃やしたりすると、じゃあちょっとパンくらい出すか、みたいなそんな感じで。むき出しの力関係の中でつくられてきたっていうものだと思います。
参加者A それはいつごろですか。昭和40年代くらい?
向井 ちょうどその頃です。その前身の施設は昭和35年くらいからあると思うんですけれど。仕事の紹介と生活相談っていう二つの部分があって。それが東京都によって運営されてたんだけど、10年くらい前に外廓団体に改組されて、今に到るという感じ……。
参加者B 革新系が都知事に当選すれば良かった?
向井 ところが、一概にそうとも言えなくて。例えば、美濃部都政の頃。その政策の中では、寄せ場はあってはならないものとされたみたい で。解消しなきゃいけないという位置づけ。「寄せ場なんかに家族持ちが住んでちゃいけない」ということで、政策として寄せ場外の都営住宅に家族が集団的に 移されたみたいなことがあったんです。何て言うんですかねえ、括弧付きの良識とか括弧付きの市民とか、そういったものとは違うところで生きてる人がいるわ けでしょう。
参加者C この映画の時代は80年代半ばくらいですけどね。その当時もドヤに常住していても、住民票を持っている人ってほとんどいなかったわけですよね。
向井 たぶん、その頃はドヤの方で住民票を置くのを断った所が多いんじゃないのかな。めんどくさいとかで。郵便物なんか来るからね。
参加者C 玉姫職安に登録する場合には、米穀通帳を。
向井 ああ、なるほど。白手帳って言いますが、日雇い職安に登録すると日雇いの失業給付がもらえる、日雇い労働者の雇用保険手帳がありま す。80年代は米穀通帳はいらなかったです。その頃は、作ろうと思えば誰でも作れたんで。それが80年代後半、88年か。住民票が義務付けられて。問題は 住民票を置けない人がほとんどだっていうことですよ。日雇い労働者の制度的な排除ですね。日雇い雇用保険手帳を必要としている人が大勢いるにもかかわら ず、そういうような運用がなされたっていう流れ。
参加者C あの反抗はだいたい60年代ですねえ。それ以前には城北労働福祉センターはなかったですから。まもなくできて。その時に、児 童、子供の問題の権威者っていう触れ込みで、所長さんが入って来ましたねえ。職安はいわゆる職業紹介で、城北労働福祉センターは仕事の紹介ではなくて、福 祉関係の相談と、それから子供を……まあ所長さんが子供について権威があるっていうことで来ましたですから。子供さんを集めて面倒みてあげるってことで旗 揚げしたような感じだったですからねえ。
向井 そうですか、ありがとうございます。センターが概要みたいなのを作っていて、そういう歴史が詳しく書いてあるんですよ。今度、読書 会をしようかなと思ってるんですけど。けっこう僕らも知らないことが書かれているんですよね。「寄せ場の労働者は職安とかのああいうお役所にはいまいち向 かない人が多いから、お役所じゃない形での職業紹介の機会をつくった方がいいんじゃないかということで、センターの紹介部分ができた」っていう記述があっ たと思います。

排除に向かう都市再開発――竪川での野宿者の闘い
参加者D 山谷の特殊性なんじゃないですか。あの辺は江戸時代からそういった所だから。
向井 寄せ場とか抑圧された人たちが生活する場所って、常に都市の周辺部分なんですね。都市からあまり離れた所ではなくって、その外縁部 なんです。そして都市が膨張していく中で、それが街中に取り残されて、何度も強制移転されて。山谷の地域で言えば、寄せ場ができたのは戦後なんですよ。た だ江戸時代には、小塚原刑場っていって処刑場があって。それで吉原という性労働の町がすぐ近くにあります。吉原も、江戸時代に街の真ん中から今の場所に移 転させられてるんですね。あと被差別部落も近くにあって。そんな感じの場所なんです。だから、単なる貧困っていうのではなくて、権力による都市政策ですよ ね。あと社会経済的な矛盾が集中する地勢学的なポイントっていうのが必ずあると思うんでよ。今も凄くその痕跡が残ってるから、こだわっていきたいなあと。
それから、今、僕らが直面しているのが何かっていうと都市の再開発なんですよ。今、凄い勢いでマンションが23区内に建ってます。多摩ニュータウンと か、そういう所で暮らしている人が家を売って都心の超高層マンションに都心回帰っていう形で戻っているらしいんです。山谷なんかは今まで見向きもされな かった場所なんですけれども、今、マンションがどんどん建ってるわけですよ。そういう中で、かつてはそういうマンションを建てる労働で暮らしていて、現在 は野宿をして頑張っている人たちが追い出しに直面しているっていうことです。それでオリンピック、もうあんなの来たらとんでもないことになるんで、僕たち は反対しているんです。景気のいい話もあるんだろうけど、儲かるのは誰かって考えた時、もちろん野宿者じゃない。むしろ追い出されちゃう。そういう危機感 が物凄くあります。で、今からお見せするのは江東区の竪川っていう、山谷からちょっと離れた所でおこなわれた強制排除の時の映像です。この強制排除に対し て、みんなで闘ってかなりやりかえすところまでいった。
(映像)竪川反排除行動
これは決戦の日なんです。やつらが暴力的に行政代執行をおこなうその日に、みんなで結集して野宿の仲間を守ると。場所は亀戸から歩いて10分くらいの高 速道路の下にある、本当に見向きもされなかったような場所です。100人以上の人が住んでいたんですが、改修工事っていうことで民間の企業がはいってきた んですよ。(映像を指して)これがお役所の職員ですよ。行政代執行っていうのは、区役所の職員が野宿の小屋を自分でこわす、そういうものなんですよね。こ うやって人壁を作って。この一年前に一回目の行政代執行があったんですけど、その時はガードマン会社が自分の会社のワッペンを剥がして。それも一斉に剥が して、それで殴る蹴るの暴行を加えてきた。おそろしいことですね。
参加者A この時はワッペン付いてますね。
向井 一回目の行政代執行前後の、ワッペンを剥がしての暴力シーンは、ユーチューブに上がっているので、相当まずいことになったんじゃな いかと想像しているんですが、実はそうでもないかもしれない。この映像は二回目の代執行ですが、警察が待ち構えていて、ちょっと小競り合いのようになると 役人が呼ぶんですね。そうすると、部隊がダダダダダーっと来て。ただ、これは一日の出来事なんだけど、結局、奴らは排除できなかった。行政代執行ってだい たい負けるじゃないですか。これまでいろんなところ(大阪とか名古屋とか)でやられてて、小屋は全部つぶされてるんです。で、竪川はこれが二回目なんです けど、小屋はつぶせなかったんです。鋼板の工事だけ向こうがやって。高い鉄の板で、閉じ込める感じの工事はしたんだけど、小屋には手を掛けられなかったん です。
参加者E 白い壁です。
向井 (映像の中で)重機でガンガン打ってたじゃないですか。あれはアスファルトに支柱となる短管を打ち込んで、横に短管を組んで鋼板を引っ掛けて、全部溶接して固定するんです。
参加者F そんなしょうもない工事をやるのに、都や区の予算が使われてるわけなんですか。
向井 公園改修の工事の予算だけで億単位。10億はいってないと思うんだけど数億円くらいかかってるんじゃないですか。それにプラスして排除のための工事。
参加者F 両国の河川敷とか土手にもちょっと小規模なのがありましたよね。
向井 いろんな所にあるんです。バブルの崩壊から10年くらいは、行政は野宿に対してほぼ放置状態だったんですよ。対策なし。それが 2000年代の半ばから、対策とセットで排除をするっていう方針を向こうが出してきて。新しい小屋は絶対に作らせないっていうのが、向こう側の方針になっ ちゃったんですよ。そうすると、新しい小屋を作るのが難しくなって。がんばって作った所もあるんですよ。半年くらい野宿の仲間と一緒に寝泊りして。で、タ イミングを見計らって一斉にバーっと建てたりね。

アメとムチの行政の施策に抗して
参加者G 行政はどこかの施設に入ってくれって言ってるんですか。それとも単に追い出すのか。
向井 施設に入れって言うし、今だと生活保護。普通は、野宿の人は窓口からバンバン排除されて「野宿だったらだめだ」みたいなことを平気 で言うんだけど、こういう工事がおこなわれる時にはアメとムチのアメとして生活保護を取れと。それで、生活保護や対策を準備しているんだから、入らないの はそいつが悪いんだから排除してもかまわないじゃないかっていう形にもっていきますね。
参加者G そこにいる人たちは生活保護を受けるのが嫌だと言ってるんですか。それは、施しを受けるのが嫌だという気持ちだからですか。
向井 歴史的に考えるべきだと思います。15年、20年行政が無策をずうっと続けてきて。窓口に行っても追い返されるのが続いていたわけ です。そういう中で、追い出しが来て、じゃあ今までのは何だったのか。そういう怒りがみんなにあるというのが一つ。それから、日雇いとか下層の労働者とし て働いてきた歴史。どこかに所属して、それとバーターで恩恵を受けるって経験がみんなないと思います。中産階級以上のサラリーマンだと、会社に入って毎日 朝起きて仕事に行ったら、それなりの生活は保証されるっていうようなバーターが必ずありますよね。だけど日雇い労働というのは、向うが切ろうと思えば切れ るわけだし。たとえこっちが会社に擦り寄ったとしても、一銭も、ちり紙さえもくれないから。だから、下層の仲間が一番大事だと思うのは、そういう中で生活 を自前で作ることなんじゃないかと。下層の仲間とそうじゃない人とでは生活を自前で作ることへの切実さが全然違うんじゃないかと思うんですね。それで、生 活保護を受けるっていうのは自分の生活手段を手放す面があるわけですよ。今、仲間たちが、例えば収集人としてアルミ缶集めをやっていれば、それには置場だ とか小屋とかが必要なわけですけれども、それを手放すしかないわけですね。そうなると、さっきの話にもありましたけど、法律は平等じゃない。それと同じよ うに、生活保護は平等だって言うけど、実際は平等じゃないんじゃないか。いろんな理由があるんだけど、野宿の仲間、下層の仲間は生活保護を切られがち。向 いてない人も多いんですけどね。制度が誰の方を向いているのか、誰をイメージして運用されているのか、という問題は絶対ある。どこかに所属したり、合意し たりすることで見返りが受けられない階層、そういう記憶・経験っていうものがあるんじゃないかと。
そういう面をもう少し考えた方がいいんじゃないかと思ってます。例えば貧富の差、二極化って言われてます。そういった中で、下の方に入れられた人たちの 闘いで、果たして上の方に入れてもらうことを求めることが闘いの筋道として唯一のものなのかって、僕はいつも考えるんです。そうじゃない闘いもあるんじゃ ないのか。僕自身はプチブルって言うんですかね、大学を出てますし。そういう所では絶対に出会えない、そういう感じの人たちがいる現場だなっていう感じが してて。生活保護も微妙なところで。普通の人は「生活保護を出せばいいじゃん」みたいな感じですよね。「実は役所は生活保護を言ってきてるんですよ」って 言うと「えっ、何で生活保護を受けないの」「そりゃあ、公園にいるのが悪いんじゃないの」となりがち。社会運動やってる人でもなりがちです。でもそこで、 歴史性とか、社会での下層が置かれている状況だとか、生活保護のいろんな側面を考えて判断するべきなんじゃないかと思うんです。まあそうは言っても、僕が 本格的に活動家デビューしたのは生活保護の集団申請でしたけど。何十人かで役所に押し掛けて、それまで野宿者には一切生活保護を出さないっていうのを一晩 でひっくり返したっていう経験です。それは凄かったですよ。半年以上かけて準備したんですけど――。
えーと、そろそろ時間ですという司会からの合図がありましたので、最後にちょっといい映像を流して終わりにしたいと思います。
これは、アルミ缶の話なんです。TBSが差別的な報道を番組でやったんですよ。それで抗議をやってたら、話し合いに応じるっていうわけです。「まあアリ バイ的なものだろうから行ってもね」という意見もあったんだけど。でも、話し合いに応じるってことだから、アルミ缶をみんなで持って行って、TBSの前に 積み上げて話し合いを応援するのはどうかっていう話になり、それで行って来た。アルミ缶集めの仕事をしている仲間が半分以上いますしね。
(映像)対TBS行動
向井 向こうにいるのがガードマンで、手前のがオマワリですね。まあ、こういう感じなんです。缶集めてる人が自分の言葉で抗議をするというのが絶対に必要なことだと思うんですよ。
参加者E あとアルミ缶古紙のビラがあるので、もしよろしければ。彼らがどういう仕事をしているかがわかるので。
向井 実はオリンピックで野宿者だけじゃなくて、都営住宅の人が追い出しに直面していて。その人のライフヒストリーを聞き書きにしたパンフがあるんです。一部100円です。もし関心のある方がいましたら購入してください。今日はどうもありがとうございました。
(2014/4/12 planB)

〈参考資料〉

共同炊事がはじまったころ
共同炊事っていうものが山谷ではじまったのは、1994年です。そのころ、仕事も行けないし、生活保護もとれないしで。そのころは炊き出しもそんなに今 みたいにはなかったし、そのころ使えたのがセンター(いまの城北労働福祉センター)で、センターが宿泊と給食っていうのをやってたんですね。
宿泊が月に6日とか10日とかぶつ切りでとれたり、給食っていうのは、二日に一回パン一斤くれるってやつで、それでなんとか命をつなぐしかないような状 態だったんですけど、そのセンターの宿泊とか給食を求める列がすっごい伸びて、センターから明治通りまで。ものすごい状態になってて、それだけの人が行列 をさせられて、ただ黙って並んで待ってて、何かをもらう状態にさせられてるっていうのは、これはだめだと。で、その人たちが、いま一番矛盾を押し付けられ てて、その人たちが主体になってそれに対して怒りを表明したり、動くということが絶対に必要で、もし炊き出しなんかやったらその人たちに失礼だと。何かを あたえて、「どうもありがとう」とか言わせたら失礼だ、ということになって。
たしかに炊き出しは必要な状況だったんですね。みんなどんどん路上で倒れていく、凍死したり餓死したりっていうことだったんで、「炊き出しを始めよ う」ってことだったんですが、それを、活動家が作って配るとかいうやり方は絶対駄目で、みんな、炊き出しを食わざるを得ない状況の人が、自分たちで作って 自分たちで食うようなアレを作るっていうことで始まりました。
そのためには、行列すれば鍋一個あればいいんだけど、そのためにわざわざコンパネを何十枚も買ってきて、コンパネで作った台をセンター前の端から端まで 並べて、そこで、野菜を切ったり。最初、米じゃなくて、米だと一人で炊けちゃうから、もっと人手が必要なスイトンにして、小麦粉をぶちまけて、テーブルの 上に。そこに水をぶちまけて、それを何十人が囲んでこねて、手は白くなりスイトンは黒くなり……
そんで、その時センター前でアオカン者だけでだいたい700人の人がその状況で飯を作って、その飯を食ったと。食うときも、誰かが行列に渡すってやり方 じゃなくて、どうするかっていうと、テーブルに並べるってくらいしかやり方ないんですよね。それを、そのままセンター前に。
さっき「泊まるのは正月だけか」っていう質問があったんですけど、その時は正月じゃなくて、センター営業中に泊まったんですよ。そのセンター前に。毎日泊まって、飯はセンター前で全体で作って、昼間はセンターに押しかけるっていう。

90年代山谷から仕事に行っていた人の聞き書き
90年代だし、自分の狭い経験だと思うんですが、山谷に来た当時は、すごく解放される感じを味わったっていうか。例えば、現場仕事に行ってですね……山 谷はけっこう厳しくて、女はあんまり使わなかったんですけど、高田馬場はまだ女を入れて、馬場からが多いんですが、山谷じゃないね、そうすっと。
現場っていうのが、8時から5時までなんですけど、10時から10時半と、3時から3時半は30分の休憩で、昼休みは12時から1時って、どこの現場 行ってもそうなんですけど。だいたいたとえば、11時45分くらいになると、他業種であっても、「飯だぞ」って言って、「道具置いて飯行け」って言って。 他業種っていうのは、自分の職種の親方とか一緒に働く人とかいるんですけど、それとは違う人。「そんな働くな、飯行こう」とか、そんな感じで声掛け合うの が、すごくどこいっても普通だったし。
監督っていうのが元請けから来ていろいろやるんだけど、その監督が必ず一番いじめられる立場だったし、あと、ボウシンとか親方とかと、ヒラの労働者とい るんですけど、必ず敵か味方かっていうのがみんなはっきりしてて、一緒に働く人は、絶対ボウシンとか親方側にはつかなくて、一日いくらで雇われてる人、み んな同じなんですけど、その側だっていうのがはっきりしてて、絶対その、こっち側だっていうのがはっきりしているんだな、っていうのを感じました。
すごい狭い経験ですが、そういうのが、山谷の街全体に行き渡ってる感じがして。強いやつとか、金持ってるやつにつくんじゃなくて、一日いくらで働いても うそれで終わりっていう立場の人、自分もその立場だってみんな自覚していて、だから、その同じ境遇、同じ立場の人を大事にするっていうか。
別に特に大事にするってわけじゃないけど、仲間だと思ってるみたいな感じをすごい感じて、自分としては今まで自分がいた社会と全然違うなと思って。
最初は寄せ場から仕事に行けてて、だんだん仕事が減ってきて寄せ場から行けなくなって、次に、新聞広告からも建築現場に行けたので行ってて、それも行け なくなって、そのころ、登録派遣みたいなのが出だして、それは形式的には日雇いと同じだから同じようなもんだろうなと思ってたんですが、違いは一回面接が あるかないかで、あとは毎日日払いで金くれるから一緒かなと思って、ちょうどいいやと思って行ったら、ほんとに、全然違って。すごくみんな上ばっかり見 るっていうか、現場だったら監督のことばっかり意識して、労働者の間でも、強い人間に対してすごい気にしてって感じで、新しい人は肩身が狭いっていうか。 そういう露骨なのがすごくあって。でも、普通はそうなんだよなあと思って。
ほんとに同じなのに。一日いくらで、明日はどうなるか分からないってのは同じなのに、えらい違いだなと思いました。

船本洲治(山谷の活動家、沖縄で焼身自殺)の「強いられた条件を武器に転化する」という言葉
争議団以後の山谷の野宿者運動では、キーワードの一つ。例えば隅田川沿いの桜橋という場所で、一旦は完全に追い出しがなされた場所を取り戻す際、その場 所で身一つで寝ることを戦術とした。排除の実行主体であるガードマンにとって、口答での抗議や何よりも、その場所で寝ている人の数が増えていくことが脅威 となった。強いられた条件というのは、野宿せざるを得ないということで、それは直接の抵抗の形となり得る。
また、2007年の生活保護(居宅保護)要求の運動では、野宿者に生活保護、しかも施設収容ではなく居宅保護を出させることを目的として取り組まれた。 それまでは、野宿者はほぼ100%施設収容だった。野宿者に対しては、窓口での生活保護申請書の提出もさせない、というのが役所の姿勢だった。それを打ち 破るために取られたのが、役所のすぐ目の前の河川敷で、約100人で一晩野宿し、その翌々日に集団で生活保護を申請するという戦術だった。「もしも居宅保 護を出さないのであれば、居宅保護を認めるまで役所前で野宿し続ける」と通告した上で、申請を行った。結果、それまで一切認められていなかった居宅保護 が、全員に出された。「法律が一日で変わった」という仲間の言葉。派遣村の一年前のこと。

2014年4月12日

plan-B 定期上映会

行政の排除に抗して――竪川や荒川での野宿者のたたかい
講演 / 向井宏一郎
(山谷労働者福祉会館活動委員会)

「山谷―やられたらやりかえせ」という映画の中で描かれているのは、約30年前の山谷のたたかいです。使い捨て可能な労働力として、大量の日雇い労働者 がプールされ閉じ込めらた被差別空間としての寄せ場。そこには、最も厳しい条件の下、差別と抑圧にさらされた人々の、ギリギリのところでの連帯と怒り、エ ネルギーが直に渦巻いていました。
90年代、山谷の風景は大きく変わりました。寄せ場は労働力市場としての機能を大幅に縮小しました。では仕事が激減し、ドヤに泊まれなくなった日雇い労 働者はどうしたかというと、公園や河川敷などに勝手に小屋を作り、駅や路上に寝泊まりして、命をつないだのです。野宿者運動のはじまりです!
寄せ場の周辺の公共地に、寄せ場と地政学的に密接な関係を結びながら、野宿する人々。行政の施策が日雇い労働者・野宿者を露骨に差別し排除する中、行政 に対する施策要求を経由するのではなく、空いてる場所に自前で居住権を勝手に実現してしまうこと(=公共圏の自然発生的な占拠)。そこでの行政との反排除 のたたかい。この理念に先行して突発する行動(だがそれは問題の本質を大事なところで的確にとらえる身体的な感覚に裏打ちされています)や、横のつながり だけを信じ、縦のつながり=権力の支配から徹底して身を引き離そうとする中で実現されている直接性こそ、野宿者運動の中に、日雇い労働者のたたかいが直系 として引き継がれていることの証左ではないでしょうか。
ここ数年、竪川や荒川での文字通り行政の排除との全面的な対決が続きました。それらの取り組みを通して、映画に描かれているたたかいが、どのように現在に引き継がれているのか、伝えたいと思います。