アフガンで夭折した ー 南條直子写真集『山谷への回廊』出版によせて

織田忍(『山谷への回廊』編・著者)

                            聞き手 池内文平

 池内 今日は雨の中をどうもありがとうございます。映画に関連して、いつもこのPlan-Bでは上映が終わった後にゲストをお招きして、 短い時間ですけども話をしていただくという時間を設けてます。今日はここにありますけれど、南條直子さんという人の写真や文章を収めた『山谷への回廊』と いう本に関してです。この本を作られた織田忍さんをお招きしています。
南條さんは1970年代の終わりから80年代にかけて、山谷の情景を写真に撮っています。その間、インドへ行ったりしていますが、1988年に取材中の アフガニスタンで地雷を踏んで亡くなってしまいます。ちょうどこの本に南條さんのクロニクルが載っているので、それに沿って簡単に南條直子さんのことを紹 介しておきましょう。
南條さんは1955年6月12日に岡山市で生まれています。73年に高校を中退して、77年に上京。79年から写真学校に通って、山谷での撮影を始めま す。79年から83年にかけてですから、山谷では越冬闘争が再開され、6・9闘争の会~山谷争議団~日雇全恊の結成と続き、同時に西戸組・皇誠会が襲って 来るといった、映画『山谷─やられたらやりかえせ』の背景となった時期ですね。
84年にインドへ行き、そこからパキスタンへ渡ってアフガニスタンでの戦争を肌で感じます。そして、翌85年にアフガニスタンへと向かう。87年には、 その成果を写真展で発表しますが、3回目のアフガニスタン取材のとき、88年10月1日、地雷を踏んで亡くなってしまいます。享年は33歳……。
それから、もう二十数年がたちますが、ようやくにしてと言いますか、こうして、この本のサブタイトル通り「写真家・南條直子の記憶」として一冊の本が上梓されました。──えっと、いつ出たんでしたっけ?
織田 出たのは5月です。
池内 5月ですか(奥付は2012年3月11日)。──紹介が遅れました。この本を編集され、また文章もお書きになっている織田忍さんです。

─南條直子の「手紙」─

織田 みなさん今晩は、ライターの織田と申します。もともと情報誌や児童書などの企画、執筆、編集をフリーでしていたのですが、今回4年 ほどの月日をかけ山谷の写真集を自費出版しました。こういう場で話す機会はあまりないので何から触れようか戸惑っているんですが、まずはこの本を出すまで の経緯を簡単に。
10年以上前になりますが、当時勤めていた出版社で編集していた雑誌に南條さんを取り上げる機会があったんですね。ですから以前から彼女の存在は知って いました。ただその頃は「地雷を踏んで亡くなったカメラマン」という程度の認識しかなかったのですが、偶然久しぶりに「南條直子」の名前を目にする機会を 得て、何だか急に興味がわいたんです。彼女の死からちょうど20年目のことで、胸がざわつくような運命的なものを感じた。それで少しずつ調べていくうちに 彼女について書いている人が実は誰もいないことを知りました。私自身、ルポを一本書いてみたいという気持ちがあったので、では自分が……と取材を始めたの がそもそものきっかけです。南條さんの写真のお師匠さんは原発労働者を長く追い続けている樋口健二さんです。ですからまずは樋口さんにお話を伺いました。 その取材の折、「南條は山谷にずっと住んでたんだよ」ってことを教えていただいて。そこから“山谷”という街に足を踏み入れていくことになります。
とはいえ当初は南條さんと山谷の接点がつかめず、最初に来たのがここ「Plan-B」でした。正直、『山谷』の映画を観ても半分位わからない状態でした ね。観終わった後に池内さんをはじめ上映委員の方々から当時のお話を聞き、山谷との関わりを深めていったという感じです。
池内 ああ、そうでしたね。こっち側ではなく、客席に座って映画をご覧になってた。──それ以前は南條直子の写真というか、山谷や寄せ場の事はご存じなかった?
織田 詳しいことはほとんど知らなかったですね。
池内 それで、きっかけと言いますか、南條さんの写真とそれとまあ樋口健二さんにお会いになり、ここに映画を観に来る。何かそういう興味の持ち方っていうか、どういう興味の持ち方をされたんですか。
織田 彼女のご実家である岡山に初めて訪れた際、お母様から手紙を見せていただいたんです。分厚い辞書一冊分ほどある手紙の束で、それは 南條さんが家族に宛てたものでした。高校を中退して数年後、23歳で上京するわけですが、その頃から亡くなる直前までの手紙です。子どもの頃から文章を書 くのが得意だったということですが、そこに綴られている言葉を目にして私、やられたと思いました。何というか、暗闇のなか鈍器で殴られるような衝撃があり ましたね。心にずしりと重たいものが乗っかるような言葉……。写真集の中にも収録しましたが、その言葉にシンパシーを感じたんです。彼女が日々、世間から 受け取る「イヤな感覚」。たぶんそれはジェンダーの問題とか差別の問題とかそういうことが潜んでいるんだと思うんですが、その辺のことを独特な言い回しで 書き綴っている。強く思いましたよね、彼女が何を求めてカメラを手にしていたのか知りたいって。それで徐々にはまっていっていきました。

【本書からの引用──上映委】
人間対人間としての関係を形成しうるような写真、そのような写真を撮れるようになることこそ写真家として「モノ」になるということであると思います。
思想内容のない、人間的感性のこもらない、単なるカメラ好きの技術は所詮、カメラという機材の奴隷としての技術にすぎません。いくらうまくても、それはカメラが撮ったのであって、人間が撮ったものではないのです。

(南條直子 家族への手紙より)

池内 確かにあの南條さんの手紙、僕は全部読んだわけではないんですけど、この本にも収録されている手紙も、かなりストレートな感情をそ のまま出しています。しかも家族宛なんですね。友達とかね、そういうものじゃなくて家族にちゃんと「私はこういうふうに生きていきたいんだ」「これをやら ないともうダメになってしまうんだ」っていうような事を縷々書いてますよねえ。それが「写真」という、かなり直接的な表現に結びついていったと思うんです けれども。それに織田さんが共振したと言いますか、のめり込んだ。それはどういう感覚だったのでしょうか?
また、南條直子のそういう心情と、もうひとつ山谷/寄せ場という彼女が対象とした現場っていうものに対して、南條直子をひとつのステップにして織田さんはアプローチしてきたと思うんですけども、その辺はどんな感じでしたか。

─彼女の見た山谷、そしていま─

織田 そうですね、もともと山谷に特別な思い入れがあったというわけではなく、スタートは純粋に南條直子という一人の女性を追っていまし た。その取材の過程で山谷にも進んでいくわけです。彼女はアフガニスタンの写真で有名になっていて、本も1冊(『戦士たちの貌』径書房/88年)──これ は彼女が亡くなった後に出てるものなんですけど、書いています。ただ取材する中で、実はこの人にとって山谷という場所は非常に大きなポジションを占めてい るんだなと分かってきた。というのも短い写真家人生のなかで、山谷に6年程住んでいる。今もそのアパートはマンションの隣にポツンと一軒、奇跡的に残され ていますが、南條さんがいた時代というのは今の山谷とは随分異なります。映画の中の風景そのまま、数千人の労働者たちが仕事を求め早朝から路上に立ち、活 気があった。悪質業者やヤクザとのぶつかり合い、鬱屈したエネルギーがうねっていた時代で。そんな男たちの街に20代の若い女性が一人で暮らし、さらに写 真を撮っていたというのは想像しがたいことですが、それでも彼女は山谷、寿、釜ヶ崎といった寄せ場に惹かれていった。彼女自身、高校を中退し世間からド ロップアウトしてしまった経験があり、世間が上へ上へとのびていくのに逆行するように下へ下へと底辺に向かっていく。まるで自らを追いこむような生き方を 選択していくわけです。そういった生き方を支えるのに、もしかしたらカメラが必要だったのかもしれませんね。ただし、カメラを向ける行為というのは実はと てもコワイことですよね。カメラを構える側は無意識にファインダーをのぞくのかもしれないけれど、レンズを向けられた側、被写体となる者にとっては攻撃的 で挑発的な行為だと思います。また、写真を撮る側は常に自分の立ち位置を問われます。さらに責任も。写真を見る人に対してと、写真を撮られる人に対して、 二つの責任がある。だからこそ南條さんは苦しんだと思うんです。写真で食っていくんだという堅牢な想いを抱く一方で、撮り切れないことへの落胆。割り切っ て「商品化」できる人だったら良かったのかもしれませんが、それができない不器用さがあった。自分の思い通りにいかず煩悶としてる様子が、家族へ宛てた手 紙や撮影された作品からうかがい知れます。
池内 カメラの比喩でいえば、南條直子というレンズを通した山谷ということになるんでしょうか。いま、南條さんが実際に見た山谷と現在の 山谷は違ってきているとおっしゃいましたね。この映画はその南條さんが見ていた山谷なんですよね。それが現在ではまた違ってきている。南條直子の撮った写 真、あるいはこの映画で撮られている情景、そして現在ということで見た場合、織田さん自身では、その辺はどう感じられますか?
織田 はい。たまにぶらっと山谷の街を歩くことがあるんですけど、現在の山谷は南條さんの写真や映画の風景とは大分違ってきていますね。 私が取材を始めた頃からみてもどんどん街の様子が変わってきています。マンションが建ち、ドヤ(簡易宿泊所)がバックパッカー向けの安宿になり、街全体が “フツーの街”になっている。あれだけいた労働者たちは一体、どこへ行ってしまったのだろう。そんな風に思うぐらい人がいないという印象がありますね。商 店街はシャッターが降りている店が多いですし、どこかひっそりとしている。早朝5時前に街の様子を見るため(泪橋のある)通りの方にも行った事がありま す。何人かが車に乗り込み仕事に行くという情景を目にしましたが、習慣的に道路に集まっているという程度で人の姿はまばらでした。
確かに昔のような活気は消えつつありますが、山谷という街自体に興味を覚えたのは、人と人との関係性なんですね。街自体が人を丸ごと受け止めるみたいな 雰囲気がある。当たり前ですが人間は人と人の、その網の目の中でみんな生きてると思います。山谷はそういった人とのつながり、最後のネットワークが存在す る場所だと思っていて。今はそれが分断されつつあるわけですが、でもまだわずかに山谷っていう場所には残っている。その部分に魅力を感じます。特に映画に あるような街の雰囲気っていうのは今の若い人が見たら、ちょっと羨ましいくらい濃い人間関係ですよね。南條さんのいた山谷時代について知れば知るほど、人 との距離感が近くて濃いなあと思いますね。
池内 確かにねえ。過去は問わない、つまり現在だけの付き合いなんだけれども、それで1対1になれる。いわゆる過去の実績とか肩書きと か、そういうものとは全く無縁に現在の1人と1人の付き合いが何千通りも出来るわけですから、それは常に更新され、緊張を孕んだものになるでしょう。また 労働者の多くは、家族なり郷里なりのコミュニティーを一旦離れているので、それへの郷愁もあるかもしれない。逆に言えば、そういう単身者の男性だけだった からこそ、今のように人がいなくなったとも言えるでしょう。つまり横浜寿町あるいは大阪釜ヶ崎では、家族持ちの日雇い達がたくさんいて、そういうコミュニ ティーの作り方が出来ていた。ところが山谷は単身、男性のみの世界だったので、そういう意味ではコミニュケーションの仕方が単純になる。つまり仕事のこと に一元化されてしまう。たとえば、仕事の発注のされ方が携帯電話とかそういう物が介入する事によってすぐにバラバラにされてしまう。今までは朝の寄せ場に 手配師が来て「今日はここ行ってくれ」「明日ここ行ってくれ」っていう、顔を見てやってたのが、携帯電話などを皆が持つようになって「じゃあ明日ここ ね」っていう時には、朝の寄せ場に集まる必要が全く無くなってしまうという。しかもそこに生活拠点がないならば、その場っていうのは容易にバラバラにされ てしまう──というのが現在だと思うんですけれども。
織田 そうですねえ。
池内 まあ単に携帯電話だけの問題でもありませんけれども。
織田 寄せ場自体が社会化するというか、人々があちこちに分散しその地が寄せ場化しているような気がします。ひとつのコミュニティが壊されていくような印象です。
池内 今の山谷のドヤは、外国、主にヨーロッパ・アメリカのバックパッカー向けのゲストハウスみたいになってるのが多くあるみたいです。 僕らはこないだ韓国の劇団と一緒に芝居をやったんですけど、韓国の役者たちには山谷のドヤに泊まってもらいました。まあそんな感じになってます。それはド ヤ街のドヤ主達が生き延びる方法だったんだろうけれども、確実にそこに人はいるわけなんですよね。山谷の労働者達の平均年令は幾つかわかんないですけど、 彼らは山谷やその周辺にいて生活している。しかしドヤに泊まれない。ドヤ主から見れば泊まる人間がいないからゲストハウスにしちゃうんだけども、実際はた くさん泊まるべき人間はいる。その人達は別の所に分散したり、あるいは路上で寝たり公園で寝たり駅で寝たりという事が現状だと思うんですよね。いっぽう、 さっきの携帯電話の話ではありませんが、仕事の手配が拡散して小さな寄せ場、小さな寄り場が全国にいっぱい出来てきたっていうのが現状ではないかと僕は思 うんですけども。

─奪われていく、人としての尊厳─

織田 本当にその通りで。映画に映っていた労働者らは、全盛期には1万人いたとも言われています。じゃあここにいた人達はどこに行ったん だろうって考えてしまう。もちろん亡くなった方も多くいるし、今回の写真集に写ってる方でも亡くなってる方が本当に多くてやり切れませんが、90年代から ドヤにすら暮らす事ができず、日雇い労働者として働いていた人々が野宿のほうに流れていったという現実があります。それぞれが「個」になりバラバラにな る。それでも生きるために別の地にコミュニティを作りますよね。でもまたそれが権力によって分散させられていってしまう。新宿西口の段ボールハウスや、最 近では渋谷なんかもそうですし、それが現状だと思います。そう考えると結局、問題の根っこは何も変わっていない。差別の構造はそのままだし、むしろ事態は ひどくなっているような気がします。
今日の昼間、竪川という場所に──亀戸の駅から5分位にある“五の橋”という場所に──行ってきました。そこで野宿している方たちは、早朝からアルミ缶 集めの仕事をし、仲間と助けあいながら凛とした生活をしているわけですが、今どんどん行き場を奪われているんですね。山谷からもスカイツリーがきれいに見 えますが、その建設に際し「街の浄化」目的で野宿している人たちを排除していく。それまで放置していたのに、邪魔だからさあどいてって。生活の場を、人と して尊厳を持ち生きていく権利みたいなものもどんどん奪われている。そう考えるとこの映画の時代なんかは、まだ良かったのかなあと思えてくる。螺旋状にど んどん息詰まっている感じがしますよね。
池内 そうですねえ。日雇い労働者の仕事っていうのは、山谷の場合は建設現場が多いと思うんですけど、いずれにせよ労働集約的な現場です よね。ある期間内にある程度の人数が必要となるといった。今の原子力発電所内の下請け仕事もそうですね。これは増えることはあってもまず減ることはない。 つまりそれだけの人は必要で、また現実に人はいるんです。それが見えなくなってきている。
山谷のドヤから締め出された人たちが都内の駅や公園で生活したり、寄せ場を経由しない人たちの野宿も増えているにもかかわらず、それが環境美化の名目で さらに排除されたり、あるいは囲い込まれたりして、生存権はおろか存在そのものが掻き消されたりしています。また、さっき言った携帯電話での手配など、就 労窓口の変化もあると思います。それに加えて派遣法ですね。ヤクザの利権が規制緩和されて、広く浅く寄せ場が拡散してきたように思えます。バラバラにされ た個人の身体の中に寄せ場は移動してきたと言えるかもしれない。殊に若い人たちにとっては「寄せ場」とははなからそういうものであるかもしれませんね。
そこでどうでしょう。今回の取材などで若い人たちと付き合って、何かそういう話などをしたことはありますか?
織田 今回の取材に際してはいわゆる“活動家”と呼ばれてた方達が多かったので、なかなか若い方と付き合うという機会は少なかったんです が、山谷の炊き出しなどを中心に活動している方たちと写真集を通して新しい交流ができましたね。80年代の寄せ場というのは、対立の構造がはっきりしてい ました。まだ仕事そのものがありましたからね。しかし今は仕事そのものがない。そして敵がどこにいるのか分からない。排除の流れは一層強まっていると思い ますし、そういったことにとても敏感な若者たちもまた増えているような気がします。まだ出版して1カ月半ですが、置いてもらっている本屋さんやショップの 方とお話をすると、「若い人のほうがむしろ興味を持ってくれますよ」と。写真を見てびっくりするようなんですね「え、こんな時代があったの」って。しかも まだ20年そこそこの間でこれだけ街の様子が変遷していることに興味をしめしてくれているようです。

─時代を超えた「対話」─

池内 じゃ、写真の話をしましょう。南條直子の写真を見てどんな感じでしたか。南條さんの寄せ場の写真を最初ご覧になった時に、どうお考えになりましたか?
織田 そうですねえ、私は正直、うらやましいなあと思いました。だってこれだけ怒りを怒りとして表出できる時代があったのか、と思ったの で。「俺たちだってやるときゃやるんだ!」そんな表情してるじゃないですか、南條さんの写真に写っている労働者の顔って。今の日本のどこにこんな風景があ るかなあと思います。逆に言えば、今の日本の中ではこういう写真はもう撮れないでしょうね。撮れないからジャーナリズムに関わる仕事をしている方は海外に 行かれるのかなあと。
怒りって、否定的なイメージがあるかもしれませんが、人が人として生きていくのに重要な感情のひとつだと思うんです。それを素直に出し切れる場所がある というのは、実はすごいことなんじゃないかと。今は怒りを出す場所もない。みんな自分の内に込め、その澱がどんどん溜まっていく。そのうち腐っちゃいます よね。怒りは時に生きるエネルギーになります。無気力、無関心は、怒ることすらできずに諦めてしまった人たちが自己防衛のために抱く感情のような気がして なりません。だからこの写真を見て、私たちは理不尽なことや、不当なことがあったらもっと怒っていいんだって。たとえば原発によって故郷を奪われた人たち も、自分たちを押しつぶそうとする力に対してもっと怒っていいんだと思うんです。
池内 南條さんはもう亡くなっているので、その後のことは想像で語るしかないんですが、──アフガンに行って、悩みながらもう1回山谷に 戻る。それでアフガンの本を作って、またアフガン行く。それで、もう1回帰ってきたらまた山谷なり寄せ場に足を向けたとぼくは思うんですよね。そういう一 つの目線(めせん)といいますか、自分の中での一つの「つながり」というようなものですね。文章も、さっき言いましたけども家族に対する手紙の中でスト レートに自分の感情をちゃんと書く、それで表現としてもストレートなものを選んでいく。で、興味があったらアフガニスタンまで飛んで行くという一つのパッ ションと言いますか、情熱と言うかそういうものを持っていると、やっぱり一つの表現というのは力を持つという事ですよね。一般的にいわれる技巧の問題では 全く無くて、一つの表現の仕方、あるいは表現に向かう姿勢といいますか。そういう意味で、まあ月並みな言い方ですが、僕は南條直子っていうのは一つの作品 みたいな、それ自体が一つの時代の作品みたいな感じがしているんですけども。──時間もあまりないので、最後に一言どうぞ。
織田 南條直子がひとつの時代の作品という言葉。それに近いものは感じますね。彼女はもっと世間に周知されていい人物だと思っています。 生きていたら間違いなく日本のジャーナリズムを背負うひとりになったと思いますし、物書きとしての才能を生かしていたかもしれない。地雷を踏んで……とい う部分だけがクローズアップされがちですが、やはり彼女の遺した仕事をしっかり評価したいと思っています。実は彼女の山谷写真というのは、当時あまり評価 されていなかったんですね。技術力、技巧的な問題ですよね。
もともと器用な人ではなかったし、周囲からは“写真になっていない”といわれていたようです。しかし映画もそうですが、写真もまた生きものなんだなと思 います。時間の経過とともに、南條さんの写真は見事に化けたと思いますね。記録としてももちろん貴重ですし、見る側が自分の立ち位置や生き方そのものを問 われる。そういう念とか、情が込められた力のある写真だなと思います。
今回あえて自費出版という選択に踏み切ったのは、売れる売れないは度外視。心から作りたいものを形にしたかったし、本当に興味を持った方の手に渡ればい いなと思っていたからです。それが思いのほかいろいろな世代の方たちから反響があり、嬉しい悲鳴を上げています。南條さんの撮影した山谷の写真と、二十年 以上の月日を経て私が見つめた南條直子考。それは時代を超えた山谷を介した「対話」であると感じています。恐らくこういった作品は珍しいのかなあと。興味 を持たれた方はぜひ、開いて頂けたら嬉しいなと思います。
池内 どうもありがとう。何かご質問がありましたら、この場でもよろしいですし、隣に同じ位のスペースがありまして。いつもこの場が終 わった後には、まあお酒とかお茶とか用意してありますので、織田さんや僕ら上映委に対する、質問とかお話とかをしてますので、もしお時間のある方はお残り 下さい。では、この場はお開きにします。どうもありがとうございました。
織田 ありがとうございました。
【2012年7月7日 plan-B】

*その後、本書は増刷されました。